1970 年代に生まれた人が子どもの頃にした遊びの思い出

1977年生まれ

下校時の小学生に「教育教材を売るおじさん」

とまとさん 大阪府 1977年生まれ 男性 小学校の帰り、正門前に人だかりが出来ていて、見るからに怪しいおじさんが教育教材を売っていました。 しかし、子ども向けに宣伝していた事もあったからか、教材についての説明は一切なく、その教材に申し込んだ時の特典付録についての説明ばかりでした。 練り消しのように、とても伸びるが良く消える消しゴム。何色もあるロケット鉛筆。折りたためる定規など、少し不思議な所が小学生の気を引く所であり。 それぞれの品をどのように使うか、実践して見せるので誰もが欲しくなり、興味津々に話を聞いていました。 すると、最後に簡単なテストと申し込み用紙を渡され、申し込みたい人は学校前の電柱にポストを付けておくので、そこにテストと申し込み用紙を入れて下さいと言われました。 私は、申し込む気満々で家に帰ってすぐにその渡されたテスト問題をし、母に「これをポストに入れる」と言うと、「それは騙しの教材なのでそんなのに乗っかったら駄目」と怒られてしまい、申し込まずに終わりました。 これこそが、社会勉強です。ちなみに、ポストは翌朝の登校時、しっかりと電柱に巻き付けてありました。 今思うと正門...つづき
1975年生まれ

「映画のチケットを買わされた思い出」公開されることのないホラー映画

南さん 北海道 1975年 女性 小学校の時に、たまに校門の近くで物を売っているおじさんがいました。担任の先生からは、買ってはいけないときつく言われていたのでいつも無視していました。 でも、その日はちょっと違いました。そのおじさんの周りに人だかりができていたんです。私は、いつもみたく無視しようと思っていたのですが友達がどうしても行こうと言うので仕方なく行きました。 すると、おじさんは映画のチケットを売っていました。 それも、聞いた事がないようなホラー映画。チケットには、お化け屋敷に出てきそうな落ち武者が描かれていました。 「1枚50円だよ。どうだい?」 私と友達は、かなり悩みました。他の子供達はほとんど買っています。もし、皆が観て私達だけ観ていなかったら仲間外れになってしまう。そう思ったら、我慢できませんでした。 私と友達は、50円を出してチケットを購入。お小遣いのほとんどを使いました。 でも、結局。その映画は公開されていなかったのです。騙されたショックは、今だに忘れられません。
1974年生まれ

昭和の時代「校門の前で商売をしていた謎のおじさん」

まさおさん 京都府 1974年生まれ 男性 小学生の時、授業が終わって帰ろうとすると校門の前に人だかりができていました。 気になって覗いてみると、中年くらいのおじさんがテレビショッピングの実演販売のようにいろいろなものを紹介していました。 主に文房具です。書いて手でこすって消せるボールペンとかだったような気がしますが、ははっきりと思い出せません。 とにかく子供時代の私からすると魅力的なものばかりで欲しかったのですが、学校にはお金を持って行かないし、家に帰って母親に言っても買ってくれるはずもないので全く売れていなかったように思います。 しかし、子供たちはみんな目を輝かせておじさんの巧みな実演販売を見つめていました。 やがて先生がやってきて止めるように注意すると、「もうすぐ終わりますので」と言いながらおじさんは一向に終わる気配がなく、長時間やり続けていました。 先生もそれ以上注意することはありませんでした。現代なら一発で警察に連絡されるかもしれないような状況ですが、当時はあらゆることに対して規制が緩く、良くも悪くも昭和だなあという気がします。
1975年生まれ

逆にしたら面白くなった「逆じゃんけんの思い出」

紘子さん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校5年生の時に、友達3人とジャンケンで遊んでいました。でも、だいたい、いつも同じ人が勝つんです。これではツマラナイと、1人の子が文句を言いだしました。 トランプなどがないときに出来る遊びって「ジャンケン」か「しりとり」なんですよね。そうしていたら、その中の一人が「逆じゃんけんをしよう」と言いだしたんです。 つまり、グーはパーに勝って、チョキはグーに勝つんです。 たったこれだけのルール変更なのに、すごく複雑になって面白くなったんです。 ジャンケンに強い子も、すごく弱くなって皆が同じレベルになりました。気がついたら、誰が勝ったのか負けたのすら分からないぐらいグチャグチャになりました。 シンプルで遊びやすいジャンケンに、スピードを増したり、ルールを変更するだけで、途端にややこしいゲームになるんです。 しばらくはこの逆ジャンケンにハマっていました。あんなにジャンケンで盛り上がった事は、きっとなかったと思います。
1978年生まれ

じゃんけんリレーの思い出

くーくーさん 東京都 1978年生まれ 男性 じゃんけんは、幼稚園時代に覚えた初期の遊びでした。おもちゃを使う順番や遊具を遊ぶ際の順番を決めたりするためのものでした。 小学生になるとそれから発展し、じゃんけんを応用した遊びを考えるようになりました。特に盛り上がって遊んだのは、じゃんけんリレーです。 クラスの仲間十数人でグループ分けして、通常のリレー徒競走のようにアンカーを含めて走る順番を決めます。 このじゃんけんリレーの醍醐味は、足が遅くてもじゃんけんが強ければ、足が早い人にも勝てるというところです。 逆に言えば足が早くてもじゃんけんが弱ければ負けてしまいます。 リレーコースの途中にはじゃんけんポイントが3か所あり、そこにいる相手にじゃんけんで勝たない限り先には進めません。 じゃんけんに負けると焦り頭がパニックになります。 足の早い人がそのパターンにハマってしまうと、みんなで爆笑し、ワイワイと盛り上がりました。 今でもその時の友達と会うと、このじゃんけんリレーの話で昔を思い出します。
1974年生まれ

「ぐんかん ちんぼつ はれつ」と「グリン チリン パリン」楽しかったじゃんけんの思い出

まさおさん 京都府 1974年生まれ 男性 小学生の頃はじゃんけんから派生した遊びが流行りました。 1つは「ぐんかん ちんぼつ はれつ」というものです。1人が「ぐんかんちんぼつはーれつ」という掛け声を出しながら、お互いにグーチョキパーを3回出して最後にアイコになったら声を掛けていた方が勝ちというゲームです。 2つめは先ほどの発展形で、「グリン チリン パリン」というものです。やり方は「ぐんかんちんぼつはれつ」と同じですが、最後にアイコになったときに先に「ドン!」と言った方が勝ちというルールでした。 3つめのじゃんけんの遊びは「グリコチョコレートパイナップル」です。じゃんけんをして勝った方がその文字数に合わせて歩数を進めるというもの。学校が終わって下校する時に同じ方向に帰る友達とやるのが定番でした。 キックベースでチーム編成をするに、2人がじゃんけんをして好きな人からとっていくという時は、かなり気合が入った思い出があります。強さに偏りが出て機嫌が悪くなり、そのまま帰ってしまったというのも懐かしい思い出です。
1977年生まれ

「小さな宝物探し」学校の帰り道に不思議な石を探す 宝探し

とおこさん 東京都 1977年生まれ 女性 小学校三年か四年生の頃の思い出です。 当時住んでいたのは、民家の途中に畑があり、マンションなどほとんどないちょっと田舎風な土地でした。 家から学校までの通学路はのどかなもので、住宅街と畑を見ながら友達と変える毎日です。そんな通学路の途中に「面白い石が落ちている場所」がありました。 小さな三角だったり、青くて平らな丸い石だったりと、子供の目からするとなんとも不思議で珍しいものばかりです。 砂やがれきと共に落ちているそんな石を、友達と一緒に拾って帰るのが楽しい日々でした。 時々ちょっと大きな花の形とかカラフルな石があって、互いに見せ合ったり交換したりと、それぞれが「面白い石」を宝探しのように見つけていました。 そんな楽しい場所も引っ越しと共にお別れになりました。 大人になって思い出してみると、あの場所は解体工事の時に出た石壁やタイル壁の廃材置き場だったのではないかと考えています。 建物の裏側に捨て置かれた小さな欠片たちが、子供の頃にはなんとも不思議な宝探しの場所になっていたのでした。
1977年生まれ

「学校帰りの思い出」高鬼をしていたら怒られた話

るぅさん 宮崎県 1977年生まれ 男性 学校帰りにした遊びといえば、電柱ごとにジャンケンして負けたら友達のランドセルを持つ「カバン持ち」、影をふまれたら鬼交代の「影踏み」、一人で帰るときは石や缶をどこまで蹴って帰れるか等、いろいろ思いついては遊んでました。 その中でも、覚えているのは、「高鬼」です。 鬼よりも高い所にいると鬼はタッチできないのですが、その場にいることができるのは10秒だけで、10秒内に降りて走って逃げるか、別の段差に移動して鬼から逃げるという、どこにでもある鬼ごっこです。 小学校1年生の時に、その「高鬼」をやっていて、鬼から逃げ回ってる時に丁度いい高さのブロック塀があり、それに飛び乗って一息ついた瞬間「コラーーー!」と怒鳴り声。 振り返ると、こじんまりとしたボロボロの家から、下はスカートのようなものに上は肌着だけで、ガリガリのお婆さんが出てきて「人ん家の花壇で、何してるか!」と、怒鳴りながら近づいてきます。 その姿が、絵本などで見る「鬼婆」に見えて、怖くなって周りを見たら友達も逃げて誰もいません。 自分も走って逃げました。必死に走りますが、すぐ後ろにいるような気がして...つづき
1975年生まれ

相撲大会で好きな男の子を応援できなかった思い出

サユリさん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校の時に、好きな男の子がいました。ガキ大将で、いつも偉そうだったけど優しかったです。私は、本当は仲良くしたかったけど皆の手前そうはできませんでした。 そんな時に、町内の相撲大会にその男の子が出る事が決まったのです。女の子のなかには、横断幕を用意する子がいたり、お菓子や飲み物を差し入れする子もいました。でも、私はその勇気さえなかったのです。 友達の1人が、ガキ大将の事が好きだと言ったんです。だから、皆で応援して欲しいって。私は、自分も彼女と同じようにガキ大将が好きだとは言えずにいました。 結局、彼女の恋を応援する事になりました。相撲当日。私は、心の中で一生懸命応援しました。ガキ大将が勝つ度に嬉しくて、でも切なかったです。だって、ガキ大将は1度も私の事を見てくれませんでした。 結果。ガキ大将は優勝はできませんでしたが、仲間内のヒーローとなりました。そして、友達はガキ大将への告白を成功。私は、告白もできないまま失恋してしまいました。
1975年生まれ

「卒業式でわかった真相」体育館の天井のバスケットボール

ひかりさん 北海道 1975年生まれ 女性 私が小学校5年生になった時に、体育館の天井にバスケットボールが挟まってると、ちょっとした騒ぎになりました。先生から、心当たりがある人はいないかと聞かれましたが誰も手を上げませんでした。 でも、噂だけは広がったんです。当時、プロバスケ選手を目指していた男の子がいたのでその子ではないかと囁かれました。でも、その子も違うと言っていました。 そして、いつしか噂はオカルトめいていきました。夜中におばけが置きに行ったんだとか、透明人間がやったんだとか。今思えばなんとも笑ってしまう話しなのですが、当時は真剣に話していました。結局、誰がやったかもわからずに卒業式を迎えました。 すると、クラスでも一番おとなしい男の子がある告白をしたんです。実は、その子こそがバスケットボールを天井に挟めた張本人だったのです。 なんでも、バスケの練習をしていたら何故か天井まで届いてしまい挟まったそうです。その日は夏休みで先生はいなかったため、そのままにしておいただけだったのです。 「皆が、あんまり騒ぐから言えなかったんだよっ」と言って、その子は泣いていました。きっと、彼なりに悩ん...つづき
1978年生まれ

取れないボールの謎

リアムさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代は給食後の昼休みになると、校庭で遊ぶことが多かったのですが、たまにドッチボールなどの遊びをする時は体育館に行きました。 体育館の天井を見上げる機会はほとんどありませんが、実際に天井を見てみると細かい線状に柱が交差しています。 ある時、バスケットボールで遊んでいると、サッカークラブに所属していたクラスメイトが、たまたま目の前に来たボールをふざけて、下から蹴り上げてしまいました。蹴られたボールは一直線に天井に向かって高々と飛んで行きました。 天井にある柱の合間にスッポリとハマりました。完全固定されたので落ちてきません。みんなポカーンとします。 そして次には、どうボールを取るかに意識が変わり、全員で話し合いました。そこから出た結論は、体育館を揺らしてその振動でボールを落とすという子供の発想でした。 みんな真剣です。ドンドンと走り回ったり、何度もジャンプしてみたり、色々と試しましたが、結局はボールは落ちてこず、後日、先生に取り除いてもらいました。甘酸っぱい小学生時代の思い出です。
1977年生まれ

「一番のお気に入り」グローブジャングルの思い出

はぁむさん 埼玉県 1977年生まれ 女性 私が公園で遊ぶ時に、決まって一番に走り寄るのはグローブジャングルでした。 ブランコも滑り台も大好き、鉄棒でもたくさん遊ぶけど、一度回せばその後しばらく回っていてくれて、しかも大人数で遊べるこの遊具は特別大好きな存在でした。 どこにでもあるわけではなく、たまたま友達の家のそばで見つけたそのグローブジャングルは、赤、青、黄色の3色に塗られてとても大きく、子どもの目にはまるでキラキラ輝く地球儀のようでした。 友達数人と遊ぶのにちょうど良く、外周りを走りながらジャングルを回す子と、中でキャーキャー騒ぐ子とが順番に入れ替わっては楽しみ、何回やっても飽きません。 ようやく疲れてくると、持ち寄ったお菓子を持って全員中に入り込み、おやつタイムになります。 その後はまたゆっくり回したり速く回したり、サーカス団のようなポーズを決めながら面白おかしく回って笑い合ったりが延々に続き、いよいよ落ち着いてくるとジャングルの上に登ってお話をしたりして、大切な秘密基地のような思い出の場所です。
1978年生まれ

「学童の先生との石蹴りの思い出」ごんべえさん

ことねさん 大阪府 1978年生まれ 女性 私は小学生の頃「学童っこ」でした。その為、学校の子達が知らない学童だけでやっている遊びがいくつもありました。 学童の先生は20代後半の女性でした。1960年代くらいの生まれだったと思いますが、その先生はおじいちゃんに育てられた人で、かなり古い遊びをたくさん知っていました。石蹴りもその一つです。 道に『ごんべさん』を書いて、マスの中に石を蹴って入れます。上手く入ったら、石を入れたマスだけ飛び越えて、あとのマスをけんけんぱして行って戻ってこれたら成功という遊びでした。 手前のマスから順番に石を入れて一番遠いマスまで到達できた人が勝ちでした。 この遊びは2〜3人で、学童の前の狭い道路でやっていました。 公園で大人数でやる石蹴りもありました。大きな四角を書いて、それを2列4行の8マスに区切ります。それぞれのマスの中にも線が引かれて、マスごとに『ここは右と左の両方に足を置いた状態で蹴る』といったルール。 2チームに分かれて、各チームごとに石蹴りをし、誰か一人でもゴールできたチームが勝ちという遊びでした。 今思うと石とチョークだけであんなにみんなで夢中に...つづき
1975年生まれ

「転校先の子どもたちと仲良くなれた遊び」石蹴りの思い出

アカリさん 北海道 1975年生まれ 女性 両親の都合で、小学生の時に転校しました。知らない子ばかりで、私にとっては恐怖でしかありませんでした。 仲良くしたかったけれど、声をかける勇気もなく、いつも教室の隅っこにいました。一人っ子で、自分から発言するのが苦手だった私はいつも一人でした。学校でも、家でも孤独な時間が増えました。 そんな時にクラスの女の子から石けりに誘われました。でも、私には石けりが何なのかさえ分からなかったんです。 「このチャンスを逃したら友達ができないかも」と思った私はその子に連れられるままグラウンドに行きました。そこでは、数人の子供達が地面に何やら書いて「ケンケンパ」をしてるんです。 「こうやるんだよ」その子が、地面に書かれた1という数字の所に石を投げ入れて、後はケンケンパをしながら番号順に石を蹴っていくというものでした。私は、見よう見まねで初めて石けりをしました。 気がつくと、他の子供達も集まってきて自然と仲良しになれました。石けりのおかげで、クラスに溶け込む事ができました。
1979年生まれ

石蹴りゴルフ

たかさん 大分県 1979年生まれ 男性 小学校低学年から3年生くらいまでにかけて、我々のグループでは石蹴りゴルフが流行っていました。 同じ学区の通学路としては比較的長い約1kmを楽しむために考えたもので、学校を出るときに平べったい小石を各自選び、ゴルフのように蹴って道を進んでいくというものでした。 ゴルフのように第何打とカウントしていき、もし水路や川などに石が落ちてしまった場合は、1打加えて新しい石を見つけていました。 最終的に一番近い人の家が近づいたら適当なマンホールを決め、そのマンホールの真ん中に石を止めて終了します。 順位はつきますが特に何かあるわけではなく、翌日になるとまた同じ調子で遊んでいました。 毎日同じだと飽きるので、変化をつけるためにたまにルートを変えるなど、子供ながらに工夫をしていた記憶があります。 それなりに盛り上がって楽しかったのですが、数は少ないものの車も通る道を使っていたので、現在では少し問題のある遊び方だったと思っています。
1974年生まれ

「学校帰りに石蹴りをしてたら」石蹴り遊び2種類

マルコさん 福岡県 1974年生まれ 男性 僕たちの世代は子供のころ、学校帰りに友達と石蹴りをして遊んでました。 石蹴りといってもいろいろ遊び方はあると思いますが、一つは「帰り道に家まで石を蹴って帰る」遊びです。 ルールは単純で、途中で石をドブに落としたり、田んぼに落としたりせず、家まで無事にたどり着くこと。 簡単なようで家までたどり着くまで何度も落とします。そのたびに新しい石でやりなおし。特に厳しいルールはないのですが、とにかく家まで石を蹴って帰っていました。 途中で友達は帰る方向が違うので1人になりますが、それでも一応はズルをせずにちゃんと石を蹴って帰りました。 ただこれにはひとつ問題があって、家に帰るまでかなり時間がかかります。 ある日のこと、友達と喋りながら、夢中になって石蹴りをして帰っていました。かなり時間がたってしまい、夕方の5時を過ぎていました。 気づいたのは家に帰ってランドセルを置いてからです。そう今日は夕方から塾に行く日だった。もう間に合わないと焦りながら、一生懸命に走って塾に行ったのを覚えています。 【おまけ】 もう一つの石蹴りの遊びとして、公園で友達が集まったらジ...つづき
1978年生まれ

石蹴りレースの思い出

らんらんさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代は、登下校の時は必ずと言っていいほど、落ちている石を見つけては蹴っていました。周りの友達も石蹴りをしていて、密かに地味なブーム遊びでもありました。 ある放課後に、クラスの友達が10名ほど集まり、自分たちで考案した石蹴りレースをすることになりました。 まずは、自分が蹴るお気に入りの石を探します。 石には様々な形があり、重いもの軽いものと千差万別です。私のお気に入りは平たい軽めの石でした。重い石より遠くに蹴ることができるので飛距離を稼げます。 そして、全員がお気に入りの石を用意できたことで、レース場を作ります。レース場と言っても木の棒で土の上に線を引き、500メートルくらいの距離にスタート地点とゴール地点を設定します。 そして全員がスタート地点に石を置き、蹴る順番をじゃんけんで決めたらレーススタートです。相手の石をどかしながら、自分の石をゴールへと進めていきます。 単純な遊びのようですが、蹴る角度や相手の石を蹴り除くテクニックなど奥の深い遊びになりました。
1977年生まれ

「登下校の思い出」嫌な教科があるときは石蹴りしながら登校

やまぺさん 大阪府 1977年生まれ 男性 嫌いな教科の授業がある時など学校へ行くのが嫌な日があると、よく朝から石蹴りをしながら登校していました。 石蹴りをしていると、それに夢中になって嫌な事などは全て忘れます。 当時流行していたキャプテン翼をイメージして、何とかシュートとか言いながら学校までずっと石を蹴りながら登校していました。 しかし、石蹴りをしながらの登校は、とても時間がかかるのでいつも授業が始まる直前に学校に着き、現実に戻されます。 すぐ授業に入らないといけないので、余裕がなく、後悔をしてしまいますが、どうしても現実逃避をしたいので、嫌な日は石蹴りをする事を自分の中で決めていました。 ある日、登校時から友達と一緒に石蹴りをして学校まで行ったことがありますが、その時は流石に遅刻してしまい、先生に怒られました。 その日は一日中嫌な気分だったので、帰りも石蹴りをして帰宅しましたが、家に帰って一日を振り返ってみると自分が悪い事に気付き、それ以降は石蹴りをしての登校は止めました。
1975年生まれ

「男の子グループに勝った日」草野球の思い出

荘子さん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校の頃。男子と女子は別れて草野球をしていました。男子はいつも広い場所をとっていて、私達女子は隅っこだけ。これでは全然楽しくない。 そこで、女子達が直談判したんです。すると、男子が「野球で勝負だ」と言ってきました。 正直、自信はありませんでした。でも、男子にバカにされたままなんて悔しい。私達は、その勝負を受ける事にしました。 ですが、やはり男子の方が上でした。次々に打たれてしまい、皆悔しくて仕方がなかった。 その時、リーダー格の女の子が皆を一生懸命励ましていました。皆、その言葉に諦めずに頑張りました。 そして、結果は同点。勝てませんでしたが、同点になりました。すると、男子の方も私達を見直したみたいです。翌日から、一緒に遊ぶようになりました。 男の子には負ける事がやっぱり多かったですが、たまに勝つ時もあってその日は大喜びしました。 暗くなるまで、よく遊んだ日々は今でも良い思い出になって残っています。
1973年生まれ

田舎ならではの草野球

さむさん 兵庫県 1973年生まれ 男性 見渡すかぎり田んぼばかり、私の世代は野球をするにも公園がいっぱいだったので、切り株があって、なかなか思うように弾まない田んぼや神社の境内で野球を行うことが楽しみになっていました。 今でも、覚えているのが、神社の境内で野球をするにあたり、今日はジンジャー球場に集合だ。田んぼで野球をする際は、タンボー球場に集合だ。と掛け声をかけてみんなで集まっていたものです。 本格的に少年野球チームに入っているメンバーからすると、意味不明の遊び方だったかもしれません。 しかしながら、これこそ草野球と言う感じで、みんなが野球に勤しみ楽しむ場として本当によく遊んだと思っています。 ときには、柔らかいボールを使ったり、小学校高学年ばかりだといわゆる軟球を使ったりと、バリエーションもをつけていたことを覚えています。 暗くなってもボールを追いかけていた頃が、今でも懐かしいです。
1978年生まれ

「いつもの病院の中庭で」

ピョンチャンさん 神奈川県 1978年生まれ 男性 私たちは学校が終わると、遊ぶ約束もせずにいつもの場所で、いつものメンバーが集まり、何をして遊ぶのかをその場で決めていました。 学校から徒歩で10分くらいの場所にある、国立の病院は、当時は知らなかったのですが、結核病棟があり、多くの入院患者がいたようです。 晴れている日には緑の草が私たちのふくらはぎをくすぐる中庭で、大きな声を出して笑ったり、ふざけ合って走り回ったり、賑やかに遊んでいました。 雨が降るとコンクリートの壁が鳴いているように、暗く濡れていました。 そこに集まるメンバーは各々に遊ぶ道具を持ってきていて、さまざまな遊びをしましたが、一番気に入った遊びはゴムボールの草野球でした。 プラスチックのカラーバットにビニールテープをグルグル巻きにして重くすると、ゴムボールを弾いた時の飛距離が違いました。 そうして大きな声を出して遊んでいた子供たちの歓声は、その病院の入院患者たちにとって、騒がしくも好ましい声だったに違いありません。
1972年生まれ

「友達と研究したブレイクダンス?」休み時間の思い出

みゆさん 埼玉県 1972年生まれ 女性 小学校6年生の頃、「風見しんご」さんのブレイクダンスが流行っていました。 友達と2人で前の晩に見た歌番組を一生懸命に思い出し、あーでもないこーでもないと再現し、ブレイクダンスを研究していました。 小学校の廊下はジャージと相性がよく、背中で滑って回ったりととても楽しかった思い出です。 当時はまだテレビを録画することは出来なかったので、記憶に頼るしかなく、それが大変だったのですが、少しづつ近づいている気がして楽しかったです。 先生に見つからないように踊るのがまたスリルがあり、ワクワクしました。 マイケル・ジャクソンのムーンウォークも流行っていて、何とかしてやってみたくて真似しましたが、なかなか上手くいきませんでした。 友達が、足の動きを解明して出来た時は感動しましたし、その友達のことを天才だと思いました。 今でもムーンウォークは出来ます!実は昨日、旦那にムーンウォークを教えてあげました。当時仲良しだった、教えてくれた友達を思い出して。
1975年生まれ

体育の時間に犬が参加してきた

ワイジーさん 香川県 1975年生まれ 男性 小学校5年生のころ体育の授業。皆で校庭で整列していたら、どこからか犬が入ってきました。 中型犬で、首輪はしていなかったので野良犬っぽかったです。最初は遠巻きに見ているくらいだったのが、ボールを使い始めたら、遊んでくれると思ったのか、犬が興味をもって近づいてきてしまいました。 それだけなら良かったのですが、一人が急に走りだしたので、犬が喜んで追いかけてしまい。 走り出した子は、けっこう大柄な子で普段は威張っている感じの強い男子でしたが、どうやら犬が怖くて逃げたようです。え?あいつが?と意外に思いました。 犬は楽しんでじゃれて追いかけているようでしたが、逃げている子は必死です。みんなが「止まれ、止まれ〜」と叫ぶのですが、全然聞こえておらず。 「来んなー!来んなー!」と言いながら、パニックになって猛ダッシュ。可哀想だけど、ちょっと面白い構図になっていて、申し訳ないけど笑ってしまいました。 ついに追いつかれて、短パンのところを犬がじゃれて軽く噛んだようで、その子はコケて、半泣きに。 その騒ぎのせいで、校舎の窓からいろんな学年の人が顔を出して見ていて...つづき
1977年生まれ

小学1年生とき クラスに入り込んだ犬の恐怖

卵焼きさん 大阪府 1977年生まれ 男性 私の通っていた小学校は1年生が校舎の1階で、廊下もドアを開放している事が多く、葉っぱや虫など色々なものが校舎に入って来ました。 その中でも犬が入って来た時は、クラス中が大騒ぎでした。 犬を飼っているクラスメイトも多かったので、ほとんどの人が大喜びでしたが、私は犬が大嫌いだったので、早く何処かへ行って欲しいと言う気持ちしかありませんでした。 「近くに来たらどうしよう」「嚙まれたらどうしよう」など、心配と恐怖ばかり。どうにか恐怖に打ち勝とうと必死に頑張っていると、もう泣いてしまっている女の子がいました。 その子を見ると、私も余計に不安になり、泣きそうになりましたが、一緒に泣くのは恥ずかしいと言う気持ちもあり。 怖さと恥ずかしさとで、もう何が何だかわからなくなっていました。 そこへ担任の先生がやって来て、その犬を校舎から追い払い、戻って来られないようにドアを閉めてくれたました。 私の緊張は一気に解けて結局泣いてしまいました。「先生、もう少し早く来て欲しかった」と言う気持ちは、今でも忘れられません。
1975年生まれ

「皆のアイドル」校庭に迷い込んできた子犬の思い出

マナさん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校1年生の時に、校庭で遊んでいたら子犬が迷い込んできました。 首輪をしていたので、どこからか来た迷子だという事になったのです。私と友達は先生に言おうと言ったのですが、他の子達は言ったら駄目だと言うのです。 「可愛いから、校庭で飼おう」なんて言い出す子まで出てきたのです。子犬はたちまちアイドルになって、皆と校庭を走り回ったり、砂で遊んだりしていました。 私も、犬は大好きだったのですが触った事はなかったため、ちょっと怖かったんです。でも、子犬は本当に可愛くて私もいつしかその子が大好きになりました。 校庭でキャッキャッと遊んでいる声に気がついた先生が見に来たんです。そして、子犬がいる事がわかるとすぐに離れるように言いました。 「この子は、ちゃんと家に帰してあげないとダメだ」先生の言葉に、私達は落ち込みました。 子犬の飼い主は、思ったよりも早く見つかりました。近所のおばあさんだったのです。ほんの1時間ぐらいでしたが、子犬と遊んだ事はいい思い出です。
1979年生まれ

「必ず捕獲される犬」授業中に廊下を通り過ぎる犬と先生

としさん 大分県 1979年生まれ 男性 現在では野良犬なんてほとんど見かけることはありませんが、私が小学生の頃はまだそんなに珍しくない存在でした。 校庭が広くて走りやすいからか、わりと学校周辺に犬が来ることが多かった記憶があります。うさぎなどを学校で飼うときは注意が必要でした。 そして年に1回は校舎に入り込んで、ちょっとした騒ぎを起こしていました。 多かったパターンは授業中にぼーっと廊下の方を眺めていると視線の先を野良犬が横切っていくというもので、通り過ぎていった教室から先生が出てきて犬が歩いて行った方向に向かっていきます。 我々はそんなに騒ぐことなく授業の再開を待っているのですが、しばらくすると必ず先生に抱えられながら再び目の前を通り過ぎて外に出されていました。 犬の方も人が追いかけてきたら警戒するだろうし、どうやって捕獲していたのかは分かりませんが、先生に抱えられて運ばれるときの犬の観念した様子が面白くて思い出せます。 良し悪しは別にして当時は捕獲後保健所に連れて行くことはなかったようで、そのまま外に帰されていたようです。
1978年生まれ

「陣取り選手権の思い出」ケンケン陣取り

ちゃーはんくん 東京都 1978年生まれ 男性 いかに多くの陣地を奪い取り合うことができるか、この陣取り合戦での一番の醍醐味でした。 小学4年生の時にクラスでこの遊びがブームとなりました。校庭の一部を使い陣地の範囲を決めます。 そして二チームに分かれて陣取りをスタートします。それぞれのチームの人は、走ったり歩いたりするのではなく、けんけんで陣取りをします。 いかに相手より早くけんけんで進み陣を取るか、みんな必死になって遊んだことを覚えています。 学校全体にも陣取り合戦が広まり、あるクラスの提案で学年別の陣取り選手権が開催されることになりました。 私達の4年生も優勝に向けて日々練習に取り組みました。相手より早くけんけんで進むことが勝利の鍵となります。そのために、けんけんの練習を重点的に行いました。 毎日足のふくらはぎが筋肉痛になるくらい練習し、陣の取り方も効率的に奪えるようミーティングを重ねました。 そして迎えた選手権。決勝まで進みましたが、相手の6年生に勝てず準優勝でした。それでも、学年全員が一丸となって取り組めた陣取り選手権のおかげで絆が深まりました。
1973年生まれ

「駆け引きが難しい」渦巻き鬼と陣取り合戦

ぽんぽこさん 小学校の校庭や体育館 1973年生まれ 女性 私が小学生の頃は、朝は先生より早く学校に着き、学校が開いたら体育館で遊び、昼休みや中休みでも外で遊び、放課後は夏なら17:00頃まで校庭で遊んでいました。 その中に陣取り遊びは幾つかあったのですが、覚えてるのは「渦巻き鬼」と「陣取りゲーム」ですね。 「渦巻き鬼」は、ぐるぐると渦を描いて、中と外から入って出会い頭にじゃんけんをして、買った方が進んで、負けた人は初めから出直すか、後ろに並んだ人が進み出て来て、じゃんけんをしたはずです。 最終的に多く進んだ方の勝ちでした。少人数学級だったので、全学年で遊べて、あまり揉め事のないゲームだったと記憶しています。 「陣取り合戦」は、二つチームに分かれて、タッチした人を自分の陣地に連れて来るものでした。 連れてこられた人は、壁などの掴まれるところから離れない様にして、仲間の救出を待ちます。きっと人質だったんですね。人質は捕まえられた順に手を繋ぎ、助けを待ちます。 仲間は相手をうまく交わして、人質のところに来ると、「えった」の掛け声で、繋いだ手のところを手刀で切ります。すると、切られた先の人が...つづき
1975年生まれ

「好きな子に勝って複雑だった遊び」陣取りゲームの思い出

なず菜さん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校の頃に、よく友達と放課後のグラウンドで陣取りゲームをしました。その時に好きな男子もいて、かなりドキドキしていました。 私は元々陣取りゲームに弱くて、いつも負けてばかりでした。 ですが、なぜかこの日に限って勝ってしまったんです。すると、好きだった男の子にすごい目で睨まれてしまいました。 なぜなら、その子は陣取りゲームで負けた事がなかったのです。世ほど悔しかったのか。一言もないまま、その子は帰っていきました。私は、嫌われたのだと思いかなり複雑な気持ちになったのです。 その数日後。その男の子から、もう一度陣取りゲームをしようと言われました。 私は、今度こそ負けなきゃ負けなきゃと思っていたのですが、なぜか勝ってしまったんです。結局、またもやその男の子からライバル視されてしまって、本当に哀しかったです。 でも、そのおかげで、毎日のように遊びに誘ってもらえて嬉しかったです。 陣取りゲームは、私の淡い初恋の一部となったのです。
1972年生まれ

歴戦の勇士はちょっとズルい?

hanai-senseさん 大阪府 1972年生まれ 男性 昭和50年代後半の小学生時代に、古くからある近所の駄菓子屋に友達数人で行きました。 いつものように何を買おうかと物色していると、奥の方の棚にベーゴマがありました。「これ何や?」「どうするんや?」と話してると、一人が「知ってるで、『こち亀』でやってた。 回してぶつけて、残ったもん勝ちや」と言ってましたが、回し方も分からずその日はそこまででした。 後日みんなで行ってる子ども会のソフトボールの練習後に、その話をコーチにしてみると、他のコーチや監督までが「久しぶりやな~ヨッシャ!回し方教えたろ!」と言い出したので、みんなでやってみることにしました。 翌週新しいベーゴマと紐をもって集まると、大人の方が準備万端で待ち構えてくれていました。樽の上にシートを張った「場」まで用意してました。 さぁ勝負と思いましたが、これがなかなか回る所までが難しく、半日かかってやっとのことで回せるようになりましたが、歴戦の大人とは全く勝負にならず、大変悔しい思いとともに、少しの尊敬を抱いたのを覚えています。 30年ほどたっておじいちゃんになったコーチ達にどうし...つづき
1970年生まれ

年上のお兄さんから学んだベーゴマの思い出

たけしさん 愛知県 1970年生まれ 男性 生まれは北海道札幌市ですが、親の転勤によって愛知県に3歳から8歳まで住んでいました。 当時この地域は近所に複数の駄菓子屋が営業をしていて、親にねだってお小遣いをもらい、30円もあれば菓子類であればいくつも買えた時代です。 幼稚園から小学校2年生まで親友と呼べる友達がいて、駄菓子屋に通うことが多々ありました。 ある日のこと、友人と駄菓子屋に行った時に、恐らく小学4年生くらいのお兄さんたちが、太鼓をカットしたような円形の土台を使って、駄菓子屋の前でベーゴマ遊びをしていました。 かなり興味を持った私は、直ぐに帰宅をしてお小遣いをもらい、人生初となるベーゴマを購入しました。 紐を巻き付ける方法も分からず苦戦していたところ、親切なお兄さんたちから紐を結ぶ部分と巻き方、投げ方を習うことが出来ました。この日を境にしてベーゴマに熱中していました。 我が家は1階部分が事務所になっており、床がコンクリートだったので絶好の特訓スペースになりました。 後日、駄菓子屋に行くとお兄さんたちから仲間に入るように勧められました。合図と共に自信たっぷりにベーゴマを回しました。...つづき
1974年生まれ

学校帰りの草野球

ななし3さん 東京都 1974年生まれ 男性 今の東京では考えられませんでしたが、私が小学校の頃はまだ空き地が多くありました。団地の横に草が生い茂った大きな空き地があり、毎日のように誰かしら遊んでいました。 私と仲の良かった友達たちは毎日のように学校が終わると、家にグローブとバットを取りに行って、その空き地に直行です。 小学生と言ってもバットにジャストミートすれば、ボールは結構飛びます。 しかし、どれだけ飛ばしても空き地を出ていくようなことがないぐらい、大きな空き地でした。今ではそんな場所が東京にはないと思います。 当時は再開発予定の空き地であっても子供たちが遊ぶことに対して、制限をかけたりすることなく寛容でした。空き地があったとしても中には入れないことでしょう。 当時ファミコンが大ブームではありましたが、ファミコンだけではなく、身体を動かして野球を楽しんでいました。 今は空き地など、いつでも気軽に遊びに行ける環境がない子供たちが、かわいそうに思います。
1972年生まれ

「本日のヒーローは〇〇選手です!」空き地で草野球の思い出

hanai-senseさん 大阪府 1972年 男性 空地があれば「野球」と思い出すほど、同級生の友達と毎日のように明け暮れていた小学生時代。 学校から帰ったら、それこそカバンを放り投げて、グローブとバット、ボールを自転車のかごに突っ込んで、近所の大きな空地に集合です。 早く場所取りしないと、上級生に取られて、その日は小さな公園で遠慮しながらの三角ベースになってしまいます。 月曜日から金曜日までは人数のバラつきがあるため練習です。 空地での練習とは言え、全力で投げて、打って走るのでなかなかハードな時間ですが、その中でプロ野球選手のモノマネをして爆笑してました。 さすが大阪だけあって、阪神タイガースの掛布選手や小林投手のマネが絶妙に上手い者が大人気でした。 土曜は昼ご飯を食べてから集合、他のクラスのチームと試合です。 ミス連発の泥試合の中にも、まぐれのホームランやファインプレーも飛び出し、日が暮れるまで大盛り上がりでした。 そして勝ったときは、最後にプロ野球なみにヒーローインタビューです! 「本日のヒーローは〇〇選手です!」「打ったのは高めのスライダー、会心の当たりでした」などとプロ顔負...つづき
1978年生まれ

空き地で野球の思い出

トリトン教授さん 東京都 1978年生まれ 男性 放課後は、家にランドセルを置いて、おやつを食べたら近所の空き地に集合して野球をするのが大定番でした。 今では無くなりましたが、当時は野球ができるくらいの大きな空き地がありました。 そこに野球のグローブやバットなどのグッズを持って向かい、ベースは、木の棒で線を描いて作り、即席の野球場にして遊びました。 学校の校庭も放課後に開放していましたが、人気があり、サッカーなどの先約があると使用できませんでしたので、この空き地は宝物のように仲間内で重宝するとともに、他の人に知られると独占できなくなるので秘密にしていました。 学校を卒業する時も遊び仲間で最後に空き地に集まり、卒業野球をするなど、自分自身の青春の思い出がたくさん詰まった貴重な場所であったことを今でも記憶しています。 時が過ぎて、周りの環境も大きく変わりました。その時の空き地はもう家が建っていますが、今でもその付近に足を運ぶと、少年時代の楽しい思い出に浸ることができます。
1970年生まれ

家の近くの空き地での思い出

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 小学生のころ、家の近くの細い道は砂利道で、舗装道路が整備されていませんでした。区画整理から漏れた駐車場に、使えそうな空き地がありました。 近所には同じ世代の子供たちがたくさんおり、みんなで暗くなるまでその空き地でプラスチックボールトプラスチックバットを使った野球をしていました。 ドラえもんにでてくるような土管がある公園ではありませんでしたが、似たり寄ったりの空き地です。 野球をするにはちょっと外野が狭くはありましたが、プラスチックボールでの野球ですので、漫画にでてくるような窓ガラスを割って怒ったおやじが出てくるようなシーンはありませんでした。 その空き地の端には柿の木があり、秋にはおいしそうな柿が熟したのでみんなで木に登って柿を食べたら、渋柿で口の中の水分が一気になくなったのを覚えています。 小学生の頃はコンピュータゲームもなかったので、限られたスペースとちょっとした自然で、暗くなるまで楽しく遊んだのを思い出します。
1974年生まれ

「頑張りすぎたかくれんぼ」お家かくれんぼの思い出

マルコさん 福岡県 1974年生まれ 男性 かくれんぼと言えば、暇があるとやっていた遊びです。公園や学校や家などいろいろな場所でやっていました。 公園でかくれんぼをしたときのこと、僕は隠れる側で「もうーいーかい、まーだだよ」と言う声の中、みんなは一生懸命隠れる場所をさがしていました。 だだっぴろい公園に隠れる場所はほどんどなく、木の裏か、滑り台の後ろの茂みか、ベンチの下ぐらいでした。 案の定「もういいよ」の掛け声とともに、鬼役の子にみんな見つかってしまいました。 それはそれですぐ終わるので、次のゲームが始まるのですが、やはりかくれんぼをする以上、いかに見つからないかと子供ながらに考えます。 そして家の中でかくれんぼをすることになったとき、絶対に見つからない場所はないかと考えて、その場所を思いつきました。 押し入れの上の段のさらに上に子供が入れる場所があったのです。そこに登ってから隙間に入り置いてあった荷物に隠れました。 「もういいよー」の合図で鬼役が探し始めます。 狭い家なので友達は、いっときすると笑い声ともに見つかっていました。 僕だけはさすがに見つからないので余裕だと思っていました...つづき
1971年生まれ

「竹やぶで見られちゃった」ちょっと恥ずかしいかくれんぼの思い出

マリンバさん 埼玉県 1971年生まれ 女性 周りは畑や竹やぶなどが多い埼玉県の田舎に住んでいました。 ゴム段や縄跳び、缶けりなどでも良く遊びましたが、外でかくれんぼをすれば、なかなか見つけられず楽しかったのを覚えています。 ある日、友人の家の大きな庭でかくれんぼをしました。 私は探される番だったのですが、庭の竹やぶの中に隠れたところ。30分経っても1時間たっても、探しに来てもらえず…。鬼が探している声は聞こえるので、じっと息をひそめて隠れ続けていました。 しかし、そのうちトイレに行きたくなり…。どうしよう、出て行こうかと迷ったのですが、どうせここなら誰にも気づかれないしと思い。竹やぶの中でおしっこをしてしまいました。 最中に、なんだか、ガサゴソという音が聞こえてきて、驚いて振り返ると、なんと友人のお父様が、タケノコほりをする為に入ってきたところでした。 もよおしている最中だったので、動くことも隠れることもできず。しゃがんだまま挨拶をして、とても気まずかったのを覚えています。 その後、友人宅から、タケノコをおすそ分けしてもらう度に、微妙な気持ちになってのを覚えています。 タケノコは、と...つづき
1974年生まれ

「絶対に負けたくなかった」かくれんぼの思い出

まさおさん 京都府宇治市 1974年生まれ 男性 かくれんぼは小学5,6年生の時によく遊んでいました。クラスの同級生とするよりも近所の子と遊ぶのが主でした。 通常のルールは「もーいーかい」「まーだだよ」「もーいーよ」という掛け声とともに隠れて見つけるというものですが、私たちが遊んでいたルールは少し違いました。 まずジャンケンをして負けた子が鬼になります。 鬼が電柱で目を伏せて声を出して30秒数えます。 30秒数えている間にほかの子は好きな所に隠れて30秒経ったら鬼が見つけに行きます。 見つかったら鬼と隠れていた子が電柱へ向かって走り、鬼が先にタッチしたらアウト、隠れていた子が先にタッチしたらセーフとなります。 要するに、ある程度遠くへ隠れると、かくれんぼというよりもただの徒競走になるのです。 当時私はクラスでも足が速い方で、しかも毎回遊んでいる近所の子は2つ下だったので、負けたくないから遠くまで隠れて競争で勝っていただけでした。 友達も「まさお君が隠れている場所分かってるねんな」と半ば文句を言いながら見つけていました。 学校ではほとんどしゃべらない大人しい子供で、クラスで遊ぶときは空気...つづき
1977年生まれ

小学生の時に見つけた 秘密の隠れ場所の思い出

ひでさん 福岡県 1977年生まれ 男性 当時私が住んでいたの団地では小学生の子供集会などがあり、そこで知り合った仲間とよくつるんでいました。 当時まだファミコンが一家庭にあるかないかの時代で、外で野球やサッカーをしたら、ファミコンを持っている友達の家にお邪魔して遊んでいました。 下の子供なども多くいたので、外の遊びでは良くかくれんぼをしていました。 私が住んでいた団地は建物の真ん中に公園があり、そこを中心にかくれんぼをしていました。 ただ、隠れる場所は公園よりも建物内で隠れることが多く。建物も13階ぐらいあったので、逃げ回りながら隠れました。 ある時いつもの建物内に隠れていただのですが、その建物の地下の狭い通路みたいな所を見つけ、その建物の地下に隠れた事があります。 薄暗く余り周りが見えない状況でした。 その時は最後の最後まで見つかる事もなく、気がつけば日が暮れて、私一人が取り残されていました。とても寂しく悲しい気持ちになりました。 流石にあそこに隠れているとは誰も思わないし、見つける事は無理だなと。それ以後はかくれんぼでは使用せず、みんなの秘密基地として活用しました。
1979年生まれ

「大きな水溜りに水路を作った話」砂場遊びの思い出

北中島南方さん 福岡県 1979年生まれ 男性 砂場遊びで今でも鮮明に残っている思い出があります。 それは忘れもしない、小学3年生の頃です。 すでに砂場での砂遊びから卒業していたのですが、その日は近所の団地の公園にある大きな砂場(真ん中にジャングルジムがある)に、前日の雨の影響で水溜りが出来ていました。 水溜りの広さは砂場全体の概ね3割程度でしょうか。今思えば、なぜあんなに興奮したのかは分かりませんが、砂場の向かって左側にあった水溜りをどうにか右側に移したい。そんな感情に突き上げられ友人と3人で行動に出たのでした。 砂場自体にはもちろん高低差がありませんので、ただ単に水路を作るだけでは水溜りの大移動はできません。そこでまず、移動予定地(砂場の右側)の砂を使い、水溜りの中に山を築こうという話になりました。 しかしやってみるとべちゃべちゃな泥が増えるだけだったので、水溜りの真ん中に堤防を作り、片方の水をもう片方に掬い移すことにしました。 するとどうでしょう、水がなくなった側の元水溜りの部分から、いくつかの猫のフンが現れたではありませんか。 もう3人ともテンションがた落ちです。必死に手で掬っ...つづき
1975年生まれ

「誰が一番高く作れるか」砂の山とトンネルづくりの思い出

あずきさん 香川県 1975年生まれ 女性 幼少期のころはよく近所の公園の砂場で遊びました。家からバケツやスコップをもってきて、できるだけ高い山を作る遊びをしていました。 誰が一番高い山を作れるか競争するのですが、遅れてきた友だちが手伝いに加わるのでグループになって二組ぐらいが競い合っていました。 水を混ぜると丈夫な山が出来るので、水を持ち込んではどろどろになることもありました。 山が出来上がると下の方からトンネルを掘ります。両側から少しずつ削っていきうまくつながって友だちと手が届いたときは嬉しかったです。 うまくいかずに崩れてしまうときもありましたが、こりずに何度も砂の山を作っていました。 夕方、帰るころには服も靴も道具も泥だらけでした。泥を家の玄関に持ち込まないよう注意されたり、すぐにお風呂に入るように言われたりして洗濯物を増やしてしまいました。 お風呂に入っても爪の間に入った砂はなかなか取れなくて苦労したのを覚えています。
1974年生まれ

苦い思い出もあった小学校の砂場

ユメカサゴさん 神奈川県 1974年生まれ 男性 私の通った小学校の校庭は他校よりも広く。体育、遊びの両方に使える大きなな砂場がありました。 自宅が学校から近かった事もあり、低学年までは休み時間や休日に出掛け、幅跳び、相撲、大きな砂山作りなど、様々な遊びを楽しんでいました。 ひとたび大きな構造物を作るとなると、周囲の事を一切忘れ夢中になってしまいます。 そんな風にして苦労し作り上げたトンネル数本付きの砂山も、後の雨や授業により無残に崩されてしまうのが残念で仕方ありませんでした。 楽しい思い出がある一方、嫌な事が無かった訳ではありません。校庭が大変広い上に私が通っていた頃は夕方や休日に誰もが学校へ自由に入れた為、近所から愛犬を連れ散歩に来る人がたくさんいました。 それだけならどうという事は無いのですが、中には砂場の中に糞をさせて砂に埋め、そのまま放置し帰ってしまう人もいます。 何も知らないまま遊ぶとそれが手に触れてしまい、言いようのない不快感と共に楽しい時間が台無しになってしまう事もありました。
1976年生まれ

「コースを作って車を走らせたりもした」年齢によって変わる砂場遊びいろいろ

すんすんさん 兵庫県 1976年生まれ 男性 砂場での思い出と言えば、年齢によって異なります。 幼稚園の頃はひたすら山を作ったり、女の子と一緒にままごとをした記憶があります。その段階が終わると、次はトンネル作りにはまりました。 ただ山を作るだけではなく、山をしっかりと固めて、両サイドから慎重に掘っていったり、山の下の砂場の部分に穴を掘ったりしてトンネルを作りました。初めて貫通した時の喜びは今でも覚えています。 その次の段階として、砂場に道を作って、コースのようにしてミニカーを走らせていました。小学校高学年の頃に、ミニ四駆が流行すると、みんなで砂場でコースを作って競争させました。 ストレートのコースだけでは物足りなく、カーブを作ろうとしていましたが、ミニ四駆の力が強くて、カーブの壁を乗り越えてしまい、結局うまくカーブは作れませんでした。 その後は、ラジコンを走らせるために、砂場でコースを作りました。今思えば、ずっと砂場で遊んでいた子ども時代でしたね。
1978年生まれ

砂のお城作りの思い出

遊び大好き少年さん 東京都 1978年生まれ 男性 子供の時は公園や幼稚園にあった砂場で友達と遊んでいました。砂場と言うと地味なイメージになりますが、遊び方次第ではクリエイティブで不思議な遊びだと思います。 私の砂場遊びは、ディズニーランドのシンデレラ城などのお城を、砂で作る遊びでした。 その必需品としてジョウロは絶対でした。持ち込んだジョウロに公園の水を入れて砂場で使います。 水分を含んだ砂は、サラサラ感からドロドロ感に変わり、城のような建造物を製作するのに適しています。 初めは上手くお城が作れず、途中で砂が崩れてしまうなどのトラブルにも遭いましたが、徐々にコツを掴むと、友達と一緒に大きな城作りに時間を忘れて没頭していました。 一番の思い出は、雪のかまくらのような子供一人が入れるお城作りにトライしたことです。 休日の朝早くに公園に友達と集合し、一日かけて完成するに至りました。その時の達成感は後の人生においても役立っています。
1977年生まれ

祖父の園芸店の砂遊び

きんぞくさん 大阪府 1977年生まれ 男性 祖父の園芸店では、園芸で使う大量の砂が積み上げてありました。そこでトンネルや落とし穴を作って遊びました。 遊びの一つとして「どれだけ大きな山を作れるか」を競った事があります。 その時、砂を奥深くまで掘っていたら、砂が粘土質になってきたので、最初は土粘土(つちねんど)として遊べるかも知れないと思い。必死になって穴を掘りました。 すると、砂は粘土質から、少し湿って水を含んだ泥のような土に変わってきました。 本で読んだ知識で、砂を奥まで掘り続けると水が出てくる事を思い出し、やる気が出て、水が出るまで夢中で穴を掘る事にしました。 途中、その掘った砂を周りのあちこちに散らかしていたので、祖父からは【園芸で使う土なので綺麗に使いなさい」と怒られたりもしましたが、もう水が出るまで掘り続ける事に決めた私にとって、そんな事は聞く耳を持たず。 1時間以上掘り続けると、何と底から水が出て来ました。これは感動。自画自賛しました。 しかし、祖父からはもうあの遊びや止めてくれと言われ、結局1回しか出来ませんでした。とても良い思い出です。
1970年生まれ

「回転型ジャングルジムの思い出」グローブジャングル

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 私はジャングルジムの中でも回転型のジャングルジムをマスターするのに燃えていました。 小学校の20分休み、昼休みはだいたい回転型ジャングルジムで様々なクラスの子供と競い合いました。 競い合う内容は二つです。 どのくらいの速さまで回転させることが出来るかと、どのくらい回転しているジャングルジムにしがみつくことが出来るかです。 前者については小学生には、しっかりとした測定はできないので、「体感(ジャングルジムの中に入った感じ)」で回る速さについて意見を出しあって、一番早いやつを決めていました。 また後者の方、こちらも体感になります。「みんながおじけづいて、しがみつくことができない速さまで、しがみつけたら価値」みたいな感じで争っていました。 手にマメを作りながら日々努力することで、まわりの友達からも一目置かれるまで成長したことを思い出します。上級生の先輩方にも声をかけていただき、嬉しかったのを覚えています。 今改めて考えると、結構危ないことを行っていたなと思います。一種の根性だめしですね。現在はお勧めできません。
1977年生まれ

「小学5年生の思い出」ジャングルジムの上で友達と見た夕焼け

勇気なしこさん 兵庫県 1977年生まれ 女性 昼休みにみんなで集まると、鬼がボールを持ち、ジャングルジムの下からの上にいる人を狙う遊びをしていました。鬼はジャングルジムの上には上がれません。 ボールが当たらないように避けるスリルがあって楽しかったです。 私が小学5年生頃、仲良しのなみちゃんという子がいました。休み時間もなみちゃんと一緒です。 彼女は運動神がよく、特に走るのが速かったです。私も足が速く一緒にリレーの代表に選ばれていました。 私たちは放課後によく小学校の運動場に集合して好きなお菓子を食べたり、大きくなったら何になりたいか話していました。 ベンチのない校庭で、椅子代わりに腰をかけていたのがジャングルジムです。1番上に座り何を話しても楽しかった記憶があります。 それからしばらくして、なみちゃんが引っ越すことになりました。 隣町でしたが小学生の私にはとても遠く感じました。ジャングルジムの上で「大人になっても遊ぼうね」と約束しました。 中学校は一緒になりましたが、あの頃の私には話しかける勇気はなく、中学時代は一度も話せずじまいでした。 今の私なら話せたのに、昔の私は忘れ去られてい...つづき
1976年生まれ

「ジャングルジムの痛い思い出」ジャングルジム鬼ごっこ

ちゅんちさん 兵庫県 1976年生まれ 男性 ジャングルジムでの思い出と言えば、みんなで鬼ごっこをしたことです。 範囲をジャングルジム内に限定して鬼ごっこをするのですが、段々と興奮してくると、注意がおざなりになってしまい、痛い思いをすることがよくありました。 一つ目は、鬼として追いかけている時に、前を逃げている子の足が顔に当たったり、自分の手が踏まれてしまうことです。 相手は全く悪意はないのですが、これがけっこう痛いので、小さい頃はここで誰かが泣いてしまい、遊びが終わりになるということがよくありました。 そして、もう一つ、痛いのが、これは自滅するパターンです。自分がジャングルジム内にいることを忘れて、思い切り立とうとして、ジャングルジムで頭を強打することです。 今、思い出してもあの痛みはたまりません。本当に脳震盪を起こして記憶がなくなるんじゃないかというぐらいの痛さでした。 そして、これは誰のせいでもない。自分のせいなので、誰かに八つ当たりすることもできず。ただ自分に腹が立つし、頭も痛いしで、本当に辛い思い出ですね。
1978年生まれ

児童館で初めて手作りした竹とんぼの思い出

工作マニア 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代に、クラスで竹とんぼが流行りました。きっかけはクラスの1人が、児童館の図工室で竹とんぼを製作し、学校に持ってきたことでした。 休み時間に中庭に集まり、その子が竹とんぼを飛ばすと、旋回しながら上空に舞い上がる姿を見て、みんなテンションが上がりました。 こうなると、自分でも竹とんぼを作りたくなり、学校が終わって帰宅後、ランドセルを投げるように玄関に置いてから児童館へとダッシュしました。図工室に着くと案の定、クラスのみんなも来ていて、満員状態でした。 人数が多いので、5人1グループで制作することになり、いよいよ私の番になりました。児童館のスタッフの方にノコギリとヤスリの使い方を教わり竹とんぼを製作しました。出来上がったものに満足し、早速、プレイルームで竹とんぼを飛ばしました。 この竹とんぼが、自分で初めて手作りした物となり、今でも当時の思い出とともに自宅の段ボールに保管しています。
1973年生まれ

小学生の時に遊ん竹とんぼキットの思い出

もふさん 愛媛県生まれ 1993年 男性 小学生低学年のころ、友達と一緒にキットで作った竹とんぼを持って公園に出かけていました。公園は周辺に木がたくさんあり、中央は広場のようになっていました。そこで私たちは竹とんぼを使って遊んでいました。 初めは誰が作った竹とんぼが一番飛んでいられるかを競い合っていました。 それに飽きると竹とんぼを使ったレースもしました。決められたゴールまで竹とんぼを落とさずにキャッチして飛ばした分だけ進むルールでした。 風もよく吹いていたので、色んな方向に竹とんぼが飛んで行ってしまいます。勝敗の予想がつかなくて皆新鮮な気持ちで楽しんでいました。 少ないお小遣いで買った駄菓子を商品にして竹とんぼをボトルに当てるゲームも盛り上がりました。100円台のお菓子を商品にした時は緊張感があり、誰もが本気で当てにいっていました。