1960年代に生まれた人が子どもの頃にした遊びの思い出

1967年生まれ

スーパーカーブームの頃の話

いしゅとさん 千葉県 1967年生まれ 男性 私が小学生の頃、校門の前で何かを売っていたおじさんに出会いました。 彼はいつも古い本や漫画、おもちゃなどを売っていました。私は彼の売っていたものに興味を持ち、何度か彼のところに足を運びました。 ある日、私は彼が売っていたスーパーカーのプラモデルに目が留まりました。それは古びた感じがあるものの、デザインは非常にカッコよく、私にとっては非常に興味深いものでした。 私はそのスーパーカーのプラモデルを手に取り、おじさんに「これ、値段はいくらですか?」と尋ねました。おじさんは笑顔で「300円だよ。でも、お金がなければ安くしてあげるよ」と答えてくれました。 私は幸運にも、その日お金を持っていたため、彼からそのスーパーカーのプラモデルを300円で購入しました。おじさんはスーパーカーのプラモデルを私に手渡し、「楽しんでね!」と言ってくれました。 私はそのスーパーカーのプラモデルを組み立てることができ、完成した時の達成感と、そのカッコよさに大興奮しました。家の中で飾ったり、友達と一緒に遊んだりと、非常に楽しい時間を過ごすことができました。 そのスーパーカーの...つづき
1965年生まれ

学校の前で売られていた「スーパーヨーヨー」の思い出」物売りのおっちゃん

クリ坊さん 愛知県 1965年生まれ 男性 小学生の頃「スーパーヨーヨー」というヨーヨーのおもちゃが流行り、大人から子供まで大流行していました。 「犬の散歩」とか「空中ブランコ」とか言った大技を競い会い、テレビでも特集番組が組まれたりしていました。 そんなに高価なおもちゃでは無かったので、クラスのほとんどの子供が持っていて、人によっては何個も持って自慢していました。 当時は学校の正門の前でも普通に物売りのおっちゃんとか来ていて、「スーパーヨーヨー」も時々売られていました。 コーラとかファンタとかのデザインの物が安くて人気でしたが、カラフルな装飾が入った物や、回すと電飾が光る物などバリエーションも豊富でした。 しかし、いわゆる正規物の「スーパーヨーヨー」と比べるとコーラのロゴも怪しく、糸が切れてすぐ壊れたりしていました。 まあ、勝手に作られたコピー商品だと思われますが、当時は世間もそんなに煩く無く値段も安かったので、壊れたらそれまでという感じでした。 学校の前で露店なんて、今では考えられない光景ですが、凄くワクワクして楽しかった記憶があります。
1967年生まれ

あっち向いてほいの思い出

50代の男性 大阪府 1967年生まれ 男性 昭和の子供世代、小学校の時は「あっち向いてほい」という遊びが流行った時期でした。 じゃんけんに勝った方が相手に対して、顔の動き(左向き、右向き、上向き、下向き)を指で当てれば勝ちと言うゲームです。 授業の間の休み時間は短く、教室内で遊んでいたので、この遊びもその一つでした。 じゃんけんに勝った上、顔の向きを当てないと勝ちになりません。単純にじゃんけんで勝つだけではないところが面白い。 基本的なルールを自分たちで複雑化していって、ゲームを楽しんでいました。 例えば、「ほい」と言って指を動かす回数と、首を動かす回数を変えるゲーム。 この指を動かす回数はじゃんけんに勝った方がその時に決めて、最終的に回数で、指の方向と顔の向きが一致した時にのみに勝ちとするというルール決めました。 今と違って、ゲーム機等はない時代だったので、自分たちで考えた遊びが多かったのが良い思い出です。
1965年生まれ

「じゃんけん遊びの思い出」負けたら負けよあっかんべえ!

つううてさん 埼玉県 1965年生まれ 男性 小学校のときはよく、友達や兄弟とじゃんけん遊びをしました。よくゲームをする前にその順番を決めるためにじゃんけんをした記憶があります。 かけ声は今とあまり変わらないと思います。「最初はグー、じゃんけんぽん!」です。そして、たまに「負けたら負けよあっかんべえ!」という言葉がかけられました。 負けたら、変な顔を見せて友達らを笑わせるというルールがありました。今で言う変顔のことです。 じゃんけんは何故か、同じ手を使い続けると勝率が上がった記憶があります。パーならずっとパーばかり、たまにチョキを入れたりしました。 じゃんけんに負けたときの罰ゲームみたいなものもありました。当時はデコピンと言っていました。今も存在するのかわかりません。負けた場合、勝者は利き手をつかい、手のひらを敗者のおでこにあてて、中指をパチンっとあてる方法です。 力の弱い人だとあまり痛くないですが、指の太い力持ちにされるときは怖かった思い出があります。
1962年生まれ

友達との相撲遊びの思い出

マックイーンさん 静岡県 1962年生まれ 男性 小学校に入学当時、おじいさんっ子だった私は、よく祖父が相撲を見ていた影響もあり、相撲中継を好んでよく見ていました。 四股名が難しい漢字でも、「大麒麟」とかを書けたりして、自然と相撲で出てくる漢字は覚えていて勉強になりました。 その後は見ているだけでは物足りなくなり、自分でも相撲を取りたいと思っていたのですが、近所には同じように相撲が好きな子供はおらず、実現できませんでした。 そんなとき、2年生でクラス替えがあり、同じように相撲好きな子がいて、話が合うのですぐ友達になり、お互いの家でよく相撲を取って遊ぶようになりました。 それから時が経って4年生になった頃に体育の授業。砂場で相撲のトーナメントをすることになりました。その友達とも同じクラスで、お互いサクサクと勝ち上がり、決勝で戦うことになりました。 正直遊んでいるときは私より友達のほうが優勢で、私は自信がありませんでした。しかしその時は、自分の体勢が有利な形になって勝つことができました。私は嬉しかったのですが、友達は悔しがっていました。 力士になりたいと思っていた頃もあって、その頃の思い出...つづき
1967年生まれ

「ハラハラ、ワクワク、ドキドキ」グローブジャングルの思い出

昭和世代のやんちゃ坊主 大阪府 1967年生まれ 男性 グローブジャングルは危ないからと今では設置されている公園は少ないかも知れませんが、昭和時代は子供がよく遊んでいました。 男とは言え、最初は怖いもので、下で、回しながら、足を浮かせたり、グローブジャングルに足を乗っけたりしていました。中は中で、よじ登って、回されるのも面白いものです。女の子も一緒に遊んでいました。 回転に慣れてくると、どうしても、高い所で回されるスリルを味わいたくて、徐々に高い位置に挑戦していました。 円状の上側で、外側に登っている時に、男の子が数名で、地面側で回されると、回転力が強くなり、しっかりとつかんでいないと振り落とされる感じで、怖い思いもしました。 まあ、中には、悪ガキ数名がいたずらで、強く、グローブジャングルをまわしていた事もありました。 今、50代になった自分から考えると、子供用の無料で近所の公園で遊べるジェットコースターの始まりというイメージです。 雨が降った後、機具がまだ濡れていると、回転と遠心力で手が滑りやすかった事もありました。 運が良かったのか、タイミングの問題なのかは分かりませんが、グローブ...つづき
1966年生まれ

グローブジャングルの怖かった思い出

キンモクセイさん 埼玉県 1966年生まれ 女性 私が通っていたの小学校の校庭の固定施設にグローブジャングルがありました。 あの頃私たちはジャングルジムとの区別もあって、そのかたちから『地球儀』と呼んでいました。 遊び方は真ん中の芯棒の部分につかまって乗っている子、外側につかまって上の方に乗る子、同じ外側でも回すために足を地につけている子などそれぞれ好きな位置に乗っていました。 回す子は走って地球儀を回し、好きなタイミングで地面を蹴って遠心力で体を浮かせます。そしてまた体が降りてきたタイミングで走って回し、体を浮かせて遊ぶのです。 地球儀を回す子はたいてい男の子たちで、特に運動神経が良く足の速い子たちがその役を買って出て、時にはものすごい速度で回すのです。 学校の休み時間などは先生方も校庭に出ているので、先生方の目を気にしてか、静かに優しく回して遊びます。 それでも時には思わぬ速度になってしまい、先生に怒られながら足を使って速度を落としたりしていることもありました。 ある放課後の出来事です。私は友達に誘われて、地球儀で遊ぶことになりました。 それでも友達の誘いを断る勇気もなく、あまり考...つづき
1968年生まれ

下校時の石蹴り遊び

スムージーさん 千葉県 1968年生まれ 女性 私の小学生の頃は、道はアスファルトでしたが、今ではあまり見かることのない、石が結構道に転がっていました。 近所の友達と学校から帰る時、そんな石を見つけては、石蹴りをしながら、家に帰った思い出があります。 蹴った石は、どこに転がるか分かりません。その事が面白く、石を追いかけながら、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、はたまた道を戻ったりと石蹴りは、続きます。 石蹴りをしていると、なかなか家には辿り着きません。 何処に転がるか分からない、自分の蹴った石を追いかけるのが、何故あれ程面白かったのか、今は分かりませんが、思えば人生も石蹴り遊びのようだと、中年になってしみじみと思います。
1966年生まれ

「田んぼの田の思い出」鬼ごっこのルールと遊び方

Syouwakkoさん 愛知県 1966年生まれ 女性 小学校4年生から6年生の頃までに、お昼休みの時間によくやった遊びです。 5人以上でよく遊びました。最初は5人ではじめたとしても、後から「いれてー」と入りたい子がきても、どんどん増えても楽しく遊べました。 まず、グラウンドに「田」と描きます。5メートル×5メートル位で大きく描きます。グラウンドなのでみんな足で描きました。 描いた線の部分を幅50センチの道幅に広げて描きます。 ジャンケンをして鬼を1人決めます。鬼だけは道を自由に動けます。 他の人達は道に入れません。それ以外の4つの四角の中にいられます。 遊び方は、4つの四角の一つの中心に印をつけて、そこがスタート地点になります。 鬼以外の人は、そこに集合し、何周回ったらゴールかを決めます。スタート後に時計回りに回ります。 回る途中で鬼にタッチされたら、田の外にでます。ゴールまでに鬼が全員タッチしたろころで終了し、鬼を交代します。 鬼がつかまえられず、だれかがゴールできたら、鬼は再度鬼になります。 人数が多い時は、鬼の人数を増やします。誰でも何人でも一緒に道具もなく遊べたのが楽しかった...つづき
1969年生まれ

「用水路に落ちたカラーボール」野球の思い出

田舎の子さん 茨城県 1969年生まれ 男性 僕らの年代の子供は、ほとんどの子供は野球に夢中でした。 Jリーグなどなく、スポーツといえば野球。学校にも普通に好きな球団の野球帽をかぶって行きました。 休み時間になると、速攻でグランドに出て、ビニールのボールで野球をしていました。 僕の通っていた小学校はグランドが小さく、それでも小学生が打つにはちょうどいい大きさったので非常に盛り上がったのを覚えています。 傍に排水路が流れていて、そこにボールが入ると大騒ぎ。長い棒を探して、一生懸命引き寄せて拾い上げていました。 高々100円もしないボールだったと思いますが、あの頃の僕らの100円はたいそうなお金だったのです。 今自分の子供達の財布の中を見て、あの頃の俺たちはなんだったのだろう?としみじみと考えてしまいます。
1965年生まれ

「懐かしの昭和の外遊び」指で小石を弾く陣取り遊び

ぷにおんさん 福島県 1965年生まれ 女性 あの頃、子供達は外で遊ぶのが当たり前でした。なかでも一番の遊び場は神社の境内でした。社務所も無く宮司さんも不在の田舎にある小さな神社です。 鳥居をくぐり階段を登り切った先に狛犬と土俵と社が。その背後には森があります。木登りやターザンごっこ、かくれんぼ、陣取り遊びと色々な遊びが出来ます。 当時、小学校低学年の女の子の私には、体力差も関係なく勝負ができる陣取り遊びが好きでした。 ルールは簡単。小石を指で弾いて飛んだ先までを線で引き、3回目で元いた場所まで上手く戻れれば線で囲んだエリアは自分の陣地になります。 小石の弾き加減や狙い通りのところへ飛ぶ小石選びの見極めが難しいですが、 運が良ければ上級生にも勝つことが出来ます。 田舎のレトロなとても懐かしい思い出です。
1964年生まれ

「ほぼ詐欺だろ!」ベーゴマの思い出

YOWAIZOさん 青森県 1964年生まれ 男性 初めてやったのは小学校1年の時だったと思います。当時はメンコが激烈に流行ってりましたが、少し上の年のお兄様方の間では、ベーゴマも流行っていました。 メンコに比べてベーゴマは大分高価であったため、小学1年の自分には手が出せずにいました。 ところが家族で街に食事に行った時に、酒に酔った父が程度のいいベーゴマを買ってくれました。ただし、家の中で自分だけで遊ぶという条件付き。 憧れのベーゴマを手に入れた自分は、うれしくなっていつもポケットに忍ばせておき、取り出してはしげしげと眺めておりました。 そこを目ざとく見つけた上級生のお兄様の一人が「教えてやるよ」と近寄ってきて、丁寧に紐の巻き方など教えてくれました。 そして試しにやってみようという話になり、実際に手合わせしたところ自分が勝ってしまいました。その時はタイマンだったので、1個手にいれたわけです。 その日はそれで終わり、また明日ということになったのですが、その日の晩はうれしくてうれしくて寝付けませんでした。もちろん家族には内緒です。 そして運命の次の日になったのです。ここまでくれば予想がつく...つづき
1963年生まれ

倉庫跡地の思い出

なみさん 愛知県 1963年生まれ 女性 子供のころ、自宅前の砂利道私道を数十メートル東に進むと、突き当りに毛織物会社の倉庫がポツンと1件だけ建っている広い草地がありました。 倉庫には会社名が描かれていたので、親しい子たちと集合するときの約束は、いつもその会社のネームを切り取り「ボンちゃん」でねというのが通常になりました。 樹木や野草も隅には多く生えており、温かい季節は土筆とりや、たんぽぽとり、シロツメクサとりに夢中になりました。 あるとき、ふと思い立って、ここに私たちだけの「基地」を作ろうと、皆で古い板切れや釘、かなづちを持ち寄り、小さな小屋を建て始めました。 学校が終わると、毎日のように集まり、無い知恵をしぼりながら、木切れをつなぎ合わせ立体にしていくのですが、どうしても上手くいきません。 そのうち、1人1人と脱落者が出始め、ついには皆諦めてしまいました。 完全に見捨てられて残骸になったその「基地」らしきものは上級生の男の子たちに蹴飛ばされていました。 ワクワクしながら作ったときの思い出が今でもよみがえります。
1964年生まれ

空き地で猫を拾ったときの思い出

よっちさん 鹿児島県 1964年生まれ 女性 小学5年生ぐらいの時、自転車で近くを走っていたら、空き地の脇に一メートル四方ぐらいのコンクリートの管があるのを見つけました。 長さも一メートルぐらいなのでちょうど立方体、といったところです。よくドラマなどで、親にられた子が隠れるようなものです。 中に入ってみると、小さな段ボール箱の中に生まれて間もない猫の赤ちゃんが入っているではありませんか。 小さな猫って毛がフサフサで本当に可愛いです。早速家に持ち帰りましたが、母がアレルギー体質なもので家で飼うことはかないませんでした。 ちょっと残念でしたが、また先ほどのところに戻り、子猫ちゃんと夕暮れまで遊びました。 そして翌日、このことを仲良しのクラスメイトに話し、ふたりでその空き地に行ったところ、子猫はもういなくなっていました。だれか猫好きな人に拾われたんですね。
1961年生まれ

「ちょっとした悪いこと」をしている怪しい先輩を遠くから観察するドキドキ スリルある遊び

まー次郎さん 福岡県 1961年生まれ 男性 休みの日、学校の校庭で友達と遊んでいたとき、その当時隣接した公共の建物の下の通気口から建物の床下に入る上級生を見ました。 その上級生の挙動が怪しかったため陰で観察していたら、なにやら手荷物をもって入っていていき、しばらくしたら何も持たず手ぶらで出てきて去っていきました。 この上級生は日ごろから酷なことしかしていなく、今でいえば「不良」と言われていて、ちょっと興味が湧き、先輩が去ったあと、ドキドキしながら悪友3人と先輩が入った建物の床下に入っていきました。 そこにはなんと、新品のグローブとバット、ボール等がありました。これは万引きしたに間違いないと思いました。 どうしようと悪友と相談し、とりあえずここから持ち去ってから考えようと言う決断になり、持ち去りました。 後日絶対に先輩は犯行現場に来ると思い、1週間後休みの日に見張っていたら現れました。 これにはあまりにも考えていたことにびっくりしドキドキしながら遠くで見ていました。 建物の床から出てきた時のあの先輩の顔は忘れません。キツネにつままれたかのような顔をしていました。
1968年生まれ

ガキ大将とカブトムシの幼虫の思い出

ポーちゃん 宮城県 1968年生まれ 女性 私の住んでいる地区には同級生は3人しかいませんでした。 気が合わなくてもだいたい3人で遊んでいました。 3人のうちの1人が、体も大きく態度も大きく常に主導権を握っている人でした。 その子はいつも弟を従わせていました。 私は何かあるとすぐに頭をパカパカたたかれていました。 遊んだあとに泣いて家に帰って頭をたたかれたと母に訴えることが何度かありました。 たまりかねて母は、相手の親に苦情を言いに行ったことがありました。 その後、何事もなかったように誘われて私はその子の家に遊びに行きました。 その日は普通に遊んでいましたが、その子は弟に「あれを見せてやったら?」と何かを持ってくるように命じました。 庭から何かを持ってきた弟は私にそれを見せました。 それは大きく成長したカブトムシの幼虫でした。 虫が苦手な私はぎゃーっと泣きながら逃げました。 弟は面白がって追いかけてきました。 それをその子は大笑いしながら見ていました。 それ以来私はその子の家には行かなくなりました。 学校でもその子は親分でした。 中学に入るとヤンキー仲間の中心にいました。 その精神は小...つづき
1968年生まれ

「ある日突然」みんなで1人を無視をする遊び

ローラさん 宮城県 1968年生まれ 女性 小学校6年の頃、いつも5人くらいの仲良しグループで遊んでいました。そのグループは、クラス内で優等生で教師からいつも可愛がられている女子を目の敵にしていたグループでした。教師からは嫌われていました。 でも、皆そこそこの成績をとっていたので教師もかなり扱いにくかったと思います。そのグループ内で、おそらく私が一番成績が良かったと思いますが、リーダーではなく、参謀的な存在でした。 ある日の朝、登校すると教室内の空気がよそよそしくいつもと違う感覚がありました。友達に話しかけても視線を合わせてくれません。いつものグループで私に声をかける人はいませんでした。 その日を境に小学校卒業までの私は無視をされつづけることになりました。 とりあえず違うグループの人達に仲間にいれてもらったものの、どこか心に壁がありました。 修学旅行などはどん底のメンタルだったのでほとんど覚えていません。 いじめは無視だけでした。それでも私は毎日学校へ通うのがとても辛かったです。1年ほど耐えて考えて、その無視の理由をどうしても確認したくなりました。 陰でこっそり、話しをしてくれそうなグ...つづき
1969年生まれ

いいところを見せたい「女子との缶蹴りの思い出」

みやぎさん 神奈川県 1969年生まれ 男性 40年以上前の川崎。繁華街、風俗街も近く、お世辞にも柄が良いとは言えない街。 市街地の広いとは言えない公園。ときには、浮浪者、野良犬も立ち寄る公園での缶蹴り。 缶蹴りは、当時の小学生たちの間では、あまりメジャーな遊びではなかったが、それでも始めれば日が暮れるまで盛り上がる。 いま思えば、放課後のあの時間に、よくもあれだけフリーで遊べる時間を持つ小学生がいたもんだなと思う。 そして、空き缶一つで良くもまぁ、あれだけ盛り上がれたもんだなぁと思う。 ごくまれに男子だけの缶蹴りに女子が混ざることがある。一人だけ女子ということはなく、3~4人のグループで混ざる。 3~4人の女子がいれば、男子各々にも、それぞれ気になる娘がいたりする。 いつもは、ひたすら「楽しい」缶蹴りが、なんだか「試される場」に変わる。 しかしながら、小学生時代の女子は、男子より体力があったりする。男子より缶を遠くに蹴ったりする。 始まる前は楽しい。しかし、終わってみると、小学生ながらに何か無力感のようなものを感じたものだ。大人になってからの合コンのように。 ところで、今の時代のアル...つづき
1967年生まれ

当時大流行したローラースケートでたくさん遊んだ体験談

ローラーたくやさん 兵庫県 1967年生まれ 男性 僕は小学校5年生の頃、父の仕事の関係で地方へ移住しました。生まれ育った都会とは違い、のどかな田園風景が広がる場所でした。 その地域で、流行っていたのがローラースケート。自動車があまり通らず、長く続く近所の道路は、絶好のローラースケート場です。 友だちが楽しそうにローラースケートをしているのを見て、親に同じものを買ってもらい、彼らの仲間入りをしました。 当時のローラースケートは、靴のサイズに合わせて金属製のローラースケートを履き、ベルトで固定するタイプでした。 アスファルトの道路は滑りが悪いので、あまり転ぶこともなく。ガチャガチャと音をたてながら滑っていました。放課後は、友だちとよく競争をしながら楽しく遊んでいたものです。 ある日、数キロ離れた手柄山公園という場所に無料の屋外ローラースケートリンクがあることを知りました。休日に友だちのご両親が車で、僕たちをそこへ連れて行ってくれました。 そこで初めて知ったのが、リンクの舗装がアスファルトとは違い、すごく滑らかだったことです。「すごくスピードがでそう。少し怖いかも。」と恐る恐る滑り始めると...つづき
1968年生まれ

すべってころんで楽しいローラースケート

昭和チルドレンさん 宮崎県 1968年生まれ 男性 小学生のころ、3つ上の兄がスケートボードを粋がって始めました。ホントに、流行り始めたばかりのころでした。残念ながら、バランス感覚や運動神経に乏しい私には、スケボーを乗りこなすことが難しかった。 そこで、まだ2本足だし、タイヤもたくさんついているローラースケートならやれるだろうと思い立ちました。ド昭和のローラースケートは、自分が普段履いている靴に、ヒモやバンドでしばりつけるようなタイプでした。 靴と一体型のような高級な物はとても買えません。靴にローラースケートをしばりつけ、まず立ち上がるところから大変でした。バランスを取るのに一苦労。 両足で立つことが出来るようになると、ゆっくり滑るのは、氷の上でやるスケートよりは簡単だなと思いました。 広い公園の固いコンクリートの上で滑る練習を一生懸命していました。慣れてくると、ちょっと大きめの石を並べて、8の字やスラロームで滑る練習をしました。 真っ暗になるまで夢中で滑っていた小学生時代が懐かしく思い出されます。
1968年生まれ

ミニスキーの思い出

バームクーヘンさん 北海道 1968年生まれ 女性 小学校2年生の夏に北海道の両親の故郷に引っ越しをすることになりました。横浜生まれの私にとっては、この北海道の小さな町で過ごした半年間は、かけがえのない思い出です。 特に冬になると、今までに見たことのないような雪が毎日降り続けました。母が、ミニスキーというものを買ってくれました。それは、長靴に装着するプラスチック製の短い板です。 スキーと違って、ストックなどは必要ありません。道の両側には、除雪車によって大きな雪の山が出来ていました。私は、ミニスキーを長靴に付けると、その山を登って何度も滑りました。雪の山を滑る楽しさに、私は虜になってしましました。 学校から帰ると毎日、毎日ミニスキーで遊びました。私が住んでいた家は、日本海に面していたので、強風と恐ろしいほどの波を見ながらミニスキーで遊び続けました。 ある時、子供の私は何を思ったのか、家の屋根からミニスキーを滑ってみたくなり、自分でも登れる場所を見つけて滑りました。 するとその家を借りていた大家のおばさんが慌てて、外に飛び出してきて、こっぴどく怒られてしましました。普段は優しいおばさんが、...つづき
1967年生まれ

滅多に降らない雪で遊ぶのは最高の喜び

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 大阪に住んでいますから、降る雪を見ることはなかなかできません。雪が降ったとしても、積もることは滅多にないです。 ある日のこと、朝起きると母親がこう言いました。「庭を見てごらん、雪が積もってるよ」。 「えっ」と言い私は庭の方へ行き、戸を開けました。すると雪が積もっていて、「雪だるまが作れる」とその瞬間に思いました。外に出て、兄弟とともに雪だるまを作り始めました。 雪だるまは雪の量が多くないと、大きな雪だるまは作れません。道路にある雪は泥で汚く、きれいな白いままの雪だるまはとても難しい状況です。きれいな雪をかき集め、夢中で作り上げました。 目とか口はないものの雪だるまが完成しました。それが終わると兄弟で雪合戦です。道路の雪を丸めて兄や弟にぶつけるのです。この遊びは面白く、きゃきゃーと大きな声で雪をぶつけ合いました。 走り回りながら雪を手で丸めて投げる。投げては逃げ、また雪の球を作り投げ合いました。みんな息がハアハアを大きな呼吸をして、顔は喜びで満ち溢れ愉快な一日でした。
1964年生まれ

名前から節をつけて歌を作る 言葉遊び

よっちさん 鹿児島県 1964年生まれ 女性 あれはいくつの時だろう。小学校の高学年ぐらいだったでしょうか。ひとつの言葉遊びなんですが、 友達の名前の頭をとって、例えば山田さんなら、「山田さん、やがつく、やんやのやんすけ。焼いて焼かれて焼き殺された」というふうに節をつけて歌うんです。 このように意味が通じれば「やったー。意味が通じたー」と喜ぶ、というなんともいえない遊びをしてました。 そこに全く悪意はありません。山田さんも意味が成立して喜んでいます。やったー。てなもんです。ちゃんと成立させるのは難しいんです。山田さんは残酷だけど成功(!)。 あと、樋口さんも「轢いてひかれてひき殺された」で成功です。樋口さんもご満悦です。 私は「よ」で始まる苗字なので「よいてよかれてよき殺された」で不成立です。残念でした。 佐々木さんは「裂いて裂かれて裂き殺された」で大成功。 そうやって同級生の名前を片っ端から試して一喜一憂していました。残酷な殺され方をしても本人はご満悦、というだいぶ変わった遊びでした。言葉に興味をもつ年頃だったのでしょうか。
1968年生まれ

お手玉と祖母の思い出

harukiさん 宮城県 1968年生まれ 女性 お手玉と言って思い出すのは祖母です。私の祖母は厳しい人でした。 いつも正座しなさいとか、雑巾の絞り方があまいとか、家でも敬語を使いなさいとか細かいことを日頃から注意されていました。小さい時には従っていたけれど、小学生の頃には時に反発していました。 祖母は縫物がとても上手な人でした。お人形の着物を縫ってくれたりしました。お手玉も綺麗なちりめんの布で縫ってくれ。中身は小豆だった思います。 私はお手玉ができませんでした。お手玉でうまく遊べなくてたちまち不機嫌になりました。そんな様子を見て祖母はお手玉のお手本を見せてくれました。見たからと言って、すぐにできるものでもありません。 苦労してやっとコツをつかみ、2つは使えるようになりました。すると祖母は3つでうまく遊んでみせました。私は何度チャレンジしても3つでは遊べず。あらぬ方向へ飛ばす始末。それを祖母は笑って見ていました。 祖母と遊んだ記憶はそれしかありません。好きでも嫌いでもなかった祖母。あまり思い出らしい事がなかった中でお手玉は数少ない良い思い出かも知れません。
1963年生まれ

ブランコの「りんごいっこ!」

じゃすみんさん 大阪府 1963生まれ 女性 それは校庭や公園のブランコが二つや四つとあるところで、参加する人がブランコに乗って始まります。ギャラリーがいるときもいないときもありました。 「りんご一個」という掛け声と共にスタート。地面の土にりんごの絵を指で書き、それからそれぞれの人がブランコを漕ぎ始め、勢いをつけていかに早くいかに遠いところまで跳ぶことができるかが勝負。という遊びがありました。 「せーの」という掛け声でもいいのになぜ「りんご一個」なのかなぜ地面にりんごを描いたのか謎です。 もともと運動神経の弱い私でしたから、もちろん勝つことはまったくありませんでした。今から思うと「この人には勝てるから」という感じで誘われていたのかな。 でも誘ってもらえたことが嬉しくて、ついついその遊びのお誘いに応じてしまっていたのでした。 ただ、子供ながらに「ここで勝負にはならないんだ、違う遊びで勝負しなくちゃ」という気持ちが芽生えたのはよかったし、いい経験でした。
1965年生まれ

自作の凧の思い出

tacky1920さん 愛知県 1965年生まれ 男性 自分達の世代が小学生の頃、「ゲイラカイト」という凧が流行りました。従来の竹と和紙の組み合わせで出来ている日本式の凧と違い、プラスチックの骨組みにビニールを張り付けた三角形の形状で、確かアメリカが発祥だったと思います。 とにかく大ブームになって、ある程度裕福な家庭の子供は斬新なデザインの「ゲイラカイト」を親に買ってもらって、自慢げに学校にも持ってきていました。 自分も含め、大多数の子供は買ってもらう事は出来なかったのですが、とにかく手軽に作れるのが特徴で、決っして器用では無かった当時の自分も、家にあるビニール袋と拾ってきた廃材のプラスチックの棒で手製の凧を作り友達と競って遊んでいました。 近くに市営の広い陸上競技場があり、日曜日になると大空の一面に色とりどりの凧が溢れ壮大な光景でした。 風の強い日には糸が切れて凧が飛んで行って行方不明になったり、友達の凧と絡まって落下してしまったりと失敗も沢山ありましたが、自分の手から遠く離れた大空をなびく自作の凧に、子供ながらにロマンを感じていました。
1968年生まれ

たこ〜 たこ〜 天まで上がれ〜

昭和原人さん 宮崎県 1968年生まれ 男性 凧あげについては、失敗例と成功例が1つずつあります。 まず、うまくいかなかった思い出は、小学校の図画工作の授業でつくった立体凧です。長い割りばしのような木材にビニール生地を貼り付けて、細長い直方体の立体凧を作りました。 クラス中のみんながそれなりの格好に出来上がったので、運動場で飛ばす段取りになりました。みんなが全力で走り回りながら、凧を飛ばそうとしましたが、風がないせいか、重心がとれてないせいか、誰一人高く飛ばせませんでした。 先生も困った顔をしてました。それほどに、凧を高く飛ばすのはむずかしいのだなと感じました。 そのリベンジではありませんが、駄菓子屋で当時ゲイラカイトのパチモンを見つけて、再チャレンジしてみようとしました。パチモンだから、飛ぶかな~と心配でもありました。 その日は、風も強く、一旦飛び出したら、グングン高いところまで一気に登っていきました。糸を引っ張る風の力をリアルに感じ、すごい力なんだなと思いました。 タコ糸が終わりかけになるぐらい高く飛んだので、もう一組のタコ糸に結び付けて、さらに高くとばして、ゲイラカイトのパチモン...つづき
1965年生まれ

凧上げと父の思い出

てつうさん 埼玉県 1965年生まれ 男性 凧上げは、埼玉県にある父の社宅横の広いグラウンドで遊びました。正月以外にもよく兄や近所の友達らとも楽しみました。 当時約50年前位は、普通の軽い木に紙をはっただけのシンプルなものがほとんどでした。勢いよく、空高くあがると非常に嬉しく興奮しました。たまに友達の凧と糸がからまって墜落することもありましたが、良い思い出です。 当時は父も若く、先ほど写真で見ると今の私の顔に似ています。ホント、父母から生まれたんだな、と再実感します。父は2年前に突然、心臓突然死で他界しました。仕事で最後の言葉を聞くことが出来ず、残念でした。 凧上げは、父からコツを教わり、よく遊びました。自転車に補助輪を無しで乗れたときの喜びを皆さんは、覚えていらっしゃいますか?それと同様に世界が突然と広くなった感じが、凧上げの上達でも感じました。 当時は雪もよく降り、今と違いよく積もったので、雪遊びと凧上げを同時に楽しんだ記憶もあります。 無邪気にシンプルに楽しんだあの頃は本当に楽しかったものです。
1967年生まれ

凧あげは奥が深い 釣り用のリールで糸を巻いてみる

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 小学生の時、凧あげに夢中になりました。どこまで高く上がるかそればかり考えていました。風が全くない時でも上空にとにかく上げれば上がるときがあります。 自宅の近くの田んぼで、いつも揚げていました。タコの糸が稲の根っこに絡んだり、根っこに躓いたり、楽しく遊びました。 あまり高く上げ過ぎると、糸を巻くのに時間がかかります。時間どころか、下手すると糸がからみ、もつれた糸を元通りにするのに泣きたくなることがあります。 その時、たまたま兄貴の彼女が来てたので、兄貴が彼女に「得意だからやってもらったら・・・」。付き合いだしたばかりの彼女は真剣に糸の絡みをほどいてくれました。私は「良いひとだなあ」と思いました。 糸を巻くのに時間がかかるので、釣のリールを持ち出してそれにタコ糸を巻き、楽な凧あげを考えました。 そんなことをしている人は私だけで得意げにリールを見せびらかしたりしました。 子供の時の凧あげは大人になっても、誰かが公園で凧あげをしいているのを見ると、「懐かしいなあ」と空を見上げます。
1963年生まれ

小学校の昼休みに遊んだ おはじき遊びの思い出

ナオミさん 青森県 1963年生まれ 女性 おはじきと言えば、小学校の昼休み時間にクラスのみんなで遊んだ思い出があります。その頃は何故かおはじき遊びが大流行していて、みんな一人ひとり自分のおはじき入れを学校に持って来ていました。 遊び方はシンプル。何人かで机の上に自分のおはじきを数枚出し、ジャラジャラとランダムに混ぜたおはじきの中から、ひとつのおはじきをもうひとつのおはじきに人差し指か親指の爪ではじいて移動させます。 その移動させた二つのおはじきの間を、別のおはじきをまた弾き飛ばしてくぐらせたら、そのくぐらせたおはじきは自分のものにできるというものだったと思います。 学校の机の上は思ったよりもすべりが悪く、指先で弾いてもけっこう進んでいかなくて、途中で止まったりすることもありました。そうすると次の順番のひとに取られたりして、なかなかスリリングな遊びだったと記憶しています。 あまりにも流行って学校中で昼休み時間におはじきをする人が多く。おはじきのやり取りでトラブルが起きたりして、おはじき遊びは禁止になってしまいました。
1964年生まれ

平たく丸くしたものをビー玉と呼んでいました

よっちさん 鹿児島県 1964年生まれ 女性 ビー玉とは、一般的に球状のものを指すと思いますが、私、及び私の周りではビー玉を潰して平たく丸くしたものをビー玉と呼んでいました、確か。 では、球状の丸いものはなんと呼んでいたかは記憶にありません、なぜか。 小学校の3-4年生ぐらいまでそれで遊んだ記憶があります。相手は専ら、隣に住むひとつ上のいとこです。 遊び方ですが、30個ぐらいのビー玉を手に持ち、一気に畳の上にサイドスローして、ランダムに散らばったビー玉の、とあるひとつを手ではじいて他のビー玉にぶつけます。 ぶつけたビー玉とぶつけられたビー玉の間に他の(第三の)ビー玉をはじいて、うまく通すことができたら成功というごくごく単純なルールです。通したそのビー玉は自分のものです。 そうやってビー玉が残り2個になるまでやって、最後多くのビー玉を持っていた方が勝ち、というゲームです。 ごくごく単純な遊びですが、暇さえあれば隣のいとこと、この遊びをしていた記憶があります。
1967年生まれ

近所の男の子と独楽遊び

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 この遊びはお正月に遊ぶものですが、時期が過ぎても独楽回しはしていました。近所の男の子や自分の兄弟と独楽で遊びました。 独楽の遊び方は上の兄が教えてくれました。私は5人兄弟の次男坊です。5人のうち4人が男です。自分の子供ができた今でもお正月に独楽回しをしています。 独楽の遊び方としては、右手で勢いよく回した独楽を空中に飛ばし、右手に乗せる遊びです。これは今でもできます。 右手に乗せたら、そのまま走ってどこまで走れるか競い合いました。走る途中で独楽を手から落としてもダメですし、手の上の独楽が止まるのもダメです。 今は独楽で遊ぶ方が少ないのでしょうか。保育園で独楽回しをしたら、それを練習するようになります。新しい遊びが主流ですが、昔懐かしい独楽回しなどをお正月にすると、懐かしい子供の頃を思い出します。
1968年生まれ

「駄菓子屋で運命の出会い」ベーゴマ遊びの思い出

昭和チルドレンさん 宮崎県 1968年生まれ 男性 昭和の小学生の社交場、それは駄菓子屋。そこで友人と見つけたベーゴマ。当時の小学生は遊ぶ時間はイヤというほどあったので、友人とベーゴマにチャレンジしてみました。 怪しげな説明書きを見ながら、ヒモの先の方に1cmぐらい開けて結び目を2か所つくりました。その2つの結び目をとっかかりにして、ベーゴマにヒモを巻きつけていきます。 これがなかなか難しく。頼りなさそうな説明書きを真似しながら、巻きつけていきました。なんとか巻きつけて、固そうな地面に向けてスナップを効かせて回してみました。 最初は、むなしく転がるだけでした。しかし、時間だけはたっぷりある小学生だったので、友人たちとあーでもない、こーでもないと言いながら、何度も何度もチャレンジしました。 だれかのが、少しでも回り始めると、そいつのやり方を真似しながら、研究開発が進みました。これぞ昭和の遊びの醍醐味といった感じでした。 みんながそこそこ回せるようになったら、大きめのバケツに布を張って、ベーゴマの台をつくりました。台の布をぴんと張るのもコツがあって大変でした。 最初はその台の中に着地させる...つづき
1967年生まれ

熱き漢(おとこ)のメンコバトル!

昭和の生きた化石さん 宮崎県1967年生まれ 男性 駄菓子屋で買った四角いメンコや大判の丸いメンコを使って、公園で遊んでいました。会場は砂地ながら、固い地面のところでやっていました。 相手のメンコをひっくり返すと、そのメンコをもらうことができました。上手な子は、金属製の箱にぎっしりと戦利品のメンコを詰めこんで自慢していました。 戦略としては、できるだけひっくり返されないように、メンコ自体をセロハンテープなどで補強したり、水分や油分など、いろいろなものをメンコの紙に吸わせて重くしたりする作戦がありました。 相手のメンコを狙うときに、自分の足をそえて狙いやすくするのと、風圧をコントロールするテクニックがありました。 叩き付けるときの風圧を上げるために、できるだけデカいメンコを使うようにしていましたが、逆にデカいとターゲットになった時に、ひっくり返りやすかったので戦略的にも奥深いものがありました。 学校にメンコを持ち込むと、先生に没収される恐れがあったので、学校では牛乳瓶のふたでメンコバトルをしていたのも、懐かしい良き昭和の思い出です。 牛乳瓶のふたでも、アホのように盛り上がってやってました...つづき
1961年生まれ

今から50年ぐらい前の話 パッチンの遊び方

たくしゅんさん 広島県 1961年生まれ 男性 小学生の時の遊びなので、今から50年ぐらい前の話になります。「めんこ」という言い方が一般的に全国区のようですが、私の地域では「パッチン」と言っていましたので、「めんこ」と言うと何となくピンときません。 「パッチン」で遊ぶには、自身が持つパッチンがもちろん必要ですが、もう一つ必要なものがあります。それは「覚悟」です。パッチンでの勝負による結果によって、そのパッチンの所有権が移動するからです。 すなわち、勝負に負けるとそのパッチンは相手に取られるのです。よって、遊びの醍醐味は勝つことそのものではなく、相手から奪い取った戦勝品の数の多さを競うことになります。 私の地域では、スタンダードな遊び方である、地面に置いた相手のパッチンを自分のパッチンで叩いて裏返すという遊び方もしていました。 こちらで流行っていたのは、名前は忘れましたが、道路上適度に設置してあったゴミ入れ(石製)の上部にパッチンを置いて、草履やツッカケ、サンダルなどを使ってパッチンを横から叩き、前方に飛ばす遊びです。 ルールは簡単で、一番よく飛んだパッチンが勝ちとなります。勝負のカギは...つづき
1964年生まれ

輪ゴムを繋いで作ったカラフルな輪ゴム紐の思い出

きょんさん 鹿児島県 1964年生まれ 女性 小学校の5、6年生の時に夢中になって遊んだのが「ゴム跳び」です。 よく、テレビのバラエティー番組などで、タレントが小さい頃の遊びを語る時に、「ゴム段、ゴム段」と言うので、ゴム跳びと呼ぶのは鹿児島県ぐらいかと思っていましたが、ゴム跳びとも言うんだなあと少し安心しました。 ゴム跳びをするにはまず、長ーいゴム跳び用のゴムを作らなくてはなりません。普通の輪ゴムを繋げて大体2メートルぐらいの長さに作ったと思います。 誰か一人で作ったのか、みんなで手分けして作ったのか、そこら辺の記憶がなぜかありません。その繋がったゴムの色は赤、黄、緑、オレンジとやたらカラフルだったと記憶しています。 いつも放課後に校庭の決まった場所で、大体同じ仲良しのメンバーで、長い時間飽きもせずに遊んだものです。小学生なので短い丈のスカートを着てますが、裾をパンツの中に入れてゴムを跳びます。 遊び方ですが「丸跳び」という跳び方だったと思います。なぜか跳ぶ時、一回ジャンプしてからゴムに向かっていったと記憶しています。弾みをつけるためでしょうか。ゴムのことろまで来たら、思いっきり右足を...つづき
1968年生まれ

近所の仲間と缶蹴りの思い出

ももさん 東京都 1968年生まれ 女性 子供の頃、東京の下町で暮らしていました。私には一才年上の兄がいて、いつも兄のお尻を追いかけてばかりいました。 近所には同年代の子供達がたくさんいたのですが、それがどういうわけか全員男の子ばかり。 必然的に私は男の子ばかりの中に一人混ざって遊ぶようになりました。その頃、近所の子供達は皆半ば兄弟みたいな関係でした。 当時流行っていたのは缶蹴りです。必要なのは空き缶一つだけ。 ゲームの始めは、じゃんけんで負けた子供が鬼です。 他の子供達は隠れるのですが、隠れる前にできるだけ遠くに思い切り缶を蹴飛ばします。鬼はその缶を拾いに走り地面に立てたら足で踏むように押さえます。 そして目を閉じ、決められた数を数えてから、隠れた仲間達を探します。 この段階に微妙な駆け引きがあって、鬼は缶を見守りつつ必死に隠れた仲間を探します。 隠れた子供は鬼に見つからないように缶に近づき、蹴飛ばして倒そうと狙います。缶を倒されたら鬼の負けにです。 けれど隠れた子供を見つけ「×××見つけ!」と叫んだ後、缶を飛ばされないように足で押さえれば鬼の勝ちです。 鬼の近くに隠れれば缶を倒しや...つづき
1968年生まれ

「鬼ごっこ」で味わえるもの

Tenさん 福井県の学校の校庭 1968年生まれ 男性 テレパシーで示し合わしたかのように、放課後の校庭で「鬼ごっこ」がはじまります。 鬼決めしたあと、逃げる子たち(以下、逃げ子)は広大な校庭の端々にある遊具をうまく逃げるツールとして使いながら鬼との距離を保とうと必死です。 鬼に追い詰められタッチされた子は鬼になり、おおよそ3人単位で手をつないだまま、次のターゲットを追い込んでいきます。 鬼グループは少しずつ多くなっていきます。 この時逃げている自分は、高所恐怖症のような下半身がゾクゾクするようななんとも言えない恐怖心にかられますが、最後まで逃げ切る雄姿を頭に描きながら奮闘します。 3人が手をつなぎ構成する単位は絶妙な大きさで、両端の2人が別の方向へ追いかけようとするとターゲットを逃してしまいます。 何せ校庭は広く1グループだけで攻めるには限界があり、複数のグループが同じターゲットを攻めないと追い込めません。 時には鬼がのばした手の指の風圧を袖に感じながらすり抜けた達成感は「逃げ子」でなければ感じることができません。 追い詰めている途中よりも、いよいよ最後の「逃げ子」が捕まった瞬間が、...つづき
1968年生まれ

アメリカザリガニの思い出

昭和原人さん 宮崎県 1968年生まれ 男性 小学校時代、田んぼの用水路の流れがよどんでいるところでアメリカザリガニをよく釣っていました。 長い棒の先にタコ糸をむすびつけ、その糸の先にさきイカの切れ端を結び付けて準備オッケーです。 ザリガニが潜んでいそうな水草あたりにゆっくり下ろしていってじっくり待ちます。 ザリガニがさきイカに気づくと、しっかりとハサミでつまんだ状態で引き上げることができます。 ザリガニがいそうなポイントを下調べして知り尽くしていることが大切です。 友達と二人で競争したときは、二人でバケツからあふれるぐらい釣った思い出があります。 夢中になっていて時間があっというまに過ぎていました。 一人で、釣っている時に用水路にすべり落ちて全身水まみれ泥だらけになったことがありました。 今考えると命に関わっていたかもしれません。 安全にザリガニ釣りをするのは難しい気がします。 さすがにザリガニを食べようとしたことはありませんが、大人になった今、食べてみたらどんな味がするのか、興味はあります。 ロブスターっぽい味がするのでしょうか?