関東エリアに住んでいた人が小学生の頃にした遊びの思い出

1956年生まれ

「小学生の図工的な遊び」型抜きの思い出

るーぶさん 東京都 1956年生まれ 男性 確か、痩せていて髪の毛がぼさぼさのおじさんだっ様な気がします。大小の型版と粘土と金や銀などピカピカした粉を売っていました。上手く、綺麗に、塗れたら少し大きめの型版が貰えます。 今思えば、此れといった正解がなく、おじさんの気持ち一つで決まっていたように思います。とても面白く集中出来ました。 粘土に色を塗りおじさんの処に持って行き、昇進するワクワク感やドキドキ感が在りました。当然、友達とも競いあいました。 最初は、10円程度で小さな型を買います。型は、鳥だったり、電車だったり、色々とあり自分で選びます。後、粘土を少々、白い紙に包まれた色を選んで買います。一式を揃えるのに50円~100円位だったと思います。 粘土を型にはめ、綺麗に取り出し、指に粉を付け塗って行きます。終わると、おじさんの処に持って行くき、上手く出来ていると、一つ上の型と粘土が貰えました。 駄目だと、アッと言う間に手で握りしめて終わりでです。 中~大の型が欲しくて、頑張っていました。
1955年生まれ

小学校の帰りの「型抜きの思い出」

DYさん 東京都 1955年生まれ 男性 思い起こせば小学校の頃です。当時のお小遣いは10円とか20円くらいで、100円を持って居る子はいませんでした。 うちの家族は人数はいっぱい居たのですが、おばあちゃんが働きに出ている、おやじは1週間に1〜2度しか返ってこない(仕事が忙しいのと、少々遊んでいたようでした)、母親は結核で入院、一緒に住んでいるおじさん2人は大学生と高校生という状況での小学生でした。 毎日貰った少々の小遣いを必死にためて、学校の帰りに何を買うのか楽しみにしておりました。 1週間に1回くらいの割合で駄菓子屋や学校の前でおじさんが出している店に興味深々で行き、何かを買って帰るという生活です。 今思い出されるのは小学校の校門の裏に自転車で店を出していた、型抜きのお店です。 見本の形通りにウエハーみたいな台紙からハリの様な物でその形通りに形状を仕上げるというものでした。 10〜20円程度の値段だったと思います。 上手く出来ると飴とか、ソースせんべいの様なお菓子をくれるというものでした。 チャレンジする形状の難易度によってもらえる物のレベルが上がります。 楽しみはそのお菓子だけで...つづき
1967年生まれ

スーパーカーブームの頃の話

いしゅとさん 千葉県 1967年生まれ 男性 私が小学生の頃、校門の前で何かを売っていたおじさんに出会いました。 彼はいつも古い本や漫画、おもちゃなどを売っていました。私は彼の売っていたものに興味を持ち、何度か彼のところに足を運びました。 ある日、私は彼が売っていたスーパーカーのプラモデルに目が留まりました。それは古びた感じがあるものの、デザインは非常にカッコよく、私にとっては非常に興味深いものでした。 私はそのスーパーカーのプラモデルを手に取り、おじさんに「これ、値段はいくらですか?」と尋ねました。おじさんは笑顔で「300円だよ。でも、お金がなければ安くしてあげるよ」と答えてくれました。 私は幸運にも、その日お金を持っていたため、彼からそのスーパーカーのプラモデルを300円で購入しました。おじさんはスーパーカーのプラモデルを私に手渡し、「楽しんでね!」と言ってくれました。 私はそのスーパーカーのプラモデルを組み立てることができ、完成した時の達成感と、そのカッコよさに大興奮しました。家の中で飾ったり、友達と一緒に遊んだりと、非常に楽しい時間を過ごすことができました。 そのスーパーカーの...つづき
1978年生まれ

じゃんけんリレーの思い出

くーくーさん 東京都 1978年生まれ 男性 じゃんけんは、幼稚園時代に覚えた初期の遊びでした。おもちゃを使う順番や遊具を遊ぶ際の順番を決めたりするためのものでした。 小学生になるとそれから発展し、じゃんけんを応用した遊びを考えるようになりました。特に盛り上がって遊んだのは、じゃんけんリレーです。 クラスの仲間十数人でグループ分けして、通常のリレー徒競走のようにアンカーを含めて走る順番を決めます。 このじゃんけんリレーの醍醐味は、足が遅くてもじゃんけんが強ければ、足が早い人にも勝てるというところです。 逆に言えば足が早くてもじゃんけんが弱ければ負けてしまいます。 リレーコースの途中にはじゃんけんポイントが3か所あり、そこにいる相手にじゃんけんで勝たない限り先には進めません。 じゃんけんに負けると焦り頭がパニックになります。 足の早い人がそのパターンにハマってしまうと、みんなで爆笑し、ワイワイと盛り上がりました。 今でもその時の友達と会うと、このじゃんけんリレーの話で昔を思い出します。
1965年生まれ

「じゃんけん遊びの思い出」負けたら負けよあっかんべえ!

つううてさん 埼玉県 1965年生まれ 男性 小学校のときはよく、友達や兄弟とじゃんけん遊びをしました。よくゲームをする前にその順番を決めるためにじゃんけんをした記憶があります。 かけ声は今とあまり変わらないと思います。「最初はグー、じゃんけんぽん!」です。そして、たまに「負けたら負けよあっかんべえ!」という言葉がかけられました。 負けたら、変な顔を見せて友達らを笑わせるというルールがありました。今で言う変顔のことです。 じゃんけんは何故か、同じ手を使い続けると勝率が上がった記憶があります。パーならずっとパーばかり、たまにチョキを入れたりしました。 じゃんけんに負けたときの罰ゲームみたいなものもありました。当時はデコピンと言っていました。今も存在するのかわかりません。負けた場合、勝者は利き手をつかい、手のひらを敗者のおでこにあてて、中指をパチンっとあてる方法です。 力の弱い人だとあまり痛くないですが、指の太い力持ちにされるときは怖かった思い出があります。
1977年生まれ

「小さな宝物探し」学校の帰り道に不思議な石を探す 宝探し

とおこさん 東京都 1977年生まれ 女性 小学校三年か四年生の頃の思い出です。 当時住んでいたのは、民家の途中に畑があり、マンションなどほとんどないちょっと田舎風な土地でした。 家から学校までの通学路はのどかなもので、住宅街と畑を見ながら友達と変える毎日です。そんな通学路の途中に「面白い石が落ちている場所」がありました。 小さな三角だったり、青くて平らな丸い石だったりと、子供の目からするとなんとも不思議で珍しいものばかりです。 砂やがれきと共に落ちているそんな石を、友達と一緒に拾って帰るのが楽しい日々でした。 時々ちょっと大きな花の形とかカラフルな石があって、互いに見せ合ったり交換したりと、それぞれが「面白い石」を宝探しのように見つけていました。 そんな楽しい場所も引っ越しと共にお別れになりました。 大人になって思い出してみると、あの場所は解体工事の時に出た石壁やタイル壁の廃材置き場だったのではないかと考えています。 建物の裏側に捨て置かれた小さな欠片たちが、子供の頃にはなんとも不思議な宝探しの場所になっていたのでした。
1986年生まれ

塾にあったマットでの相撲遊びやプロレス遊び

前頭三枚目さん 神奈川県 1986年生まれ 男性 私が小学校高学年から中学校卒業までにかけて通っていた学習塾での思い出です。 その塾は今でこそ中堅有名進学塾の一角を担うような大きな進学塾ですが、当時はまだ新興の学習塾だったと思います。 塾での活動は受験向けの授業を受けるというもので、他の塾と大差ないものだったとは思いますが、その塾には相撲ができるようなマットが置いてありました。 授業と授業の合間に講師と生徒が相撲やプロレスができるものでした。 私や私の塾友達は休み時間になるとその上で講師と取っ組み合いのじゃれあいをして楽しんでいました。 ある日の休み時間も一人の講師と複数人の生徒がじゃれあいをしていましたが、この頃合いの子供というのは手加減というのを知りませんし、エネルギーに満ち溢れています。 じゃれあってるうちに、相手になっていた講師のシャツがビリビリに破けてしまいました。 講師は怒ったりせずに、ただただ息を切らして呆然としながら次の授業のチャイムと同時に教室に入ってきてボロボロのシャツのまま授業を開始したのを覚えています。 そのときはその様がおかしくて笑うのを我慢していましたが、今...つづき
1978年生まれ

取れないボールの謎

リアムさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代は給食後の昼休みになると、校庭で遊ぶことが多かったのですが、たまにドッチボールなどの遊びをする時は体育館に行きました。 体育館の天井を見上げる機会はほとんどありませんが、実際に天井を見てみると細かい線状に柱が交差しています。 ある時、バスケットボールで遊んでいると、サッカークラブに所属していたクラスメイトが、たまたま目の前に来たボールをふざけて、下から蹴り上げてしまいました。蹴られたボールは一直線に天井に向かって高々と飛んで行きました。 天井にある柱の合間にスッポリとハマりました。完全固定されたので落ちてきません。みんなポカーンとします。 そして次には、どうボールを取るかに意識が変わり、全員で話し合いました。そこから出た結論は、体育館を揺らしてその振動でボールを落とすという子供の発想でした。 みんな真剣です。ドンドンと走り回ったり、何度もジャンプしてみたり、色々と試しましたが、結局はボールは落ちてこず、後日、先生に取り除いてもらいました。甘酸っぱい小学生時代の思い出です。
1977年生まれ

「一番のお気に入り」グローブジャングルの思い出

はぁむさん 埼玉県 1977年生まれ 女性 私が公園で遊ぶ時に、決まって一番に走り寄るのはグローブジャングルでした。 ブランコも滑り台も大好き、鉄棒でもたくさん遊ぶけど、一度回せばその後しばらく回っていてくれて、しかも大人数で遊べるこの遊具は特別大好きな存在でした。 どこにでもあるわけではなく、たまたま友達の家のそばで見つけたそのグローブジャングルは、赤、青、黄色の3色に塗られてとても大きく、子どもの目にはまるでキラキラ輝く地球儀のようでした。 友達数人と遊ぶのにちょうど良く、外周りを走りながらジャングルを回す子と、中でキャーキャー騒ぐ子とが順番に入れ替わっては楽しみ、何回やっても飽きません。 ようやく疲れてくると、持ち寄ったお菓子を持って全員中に入り込み、おやつタイムになります。 その後はまたゆっくり回したり速く回したり、サーカス団のようなポーズを決めながら面白おかしく回って笑い合ったりが延々に続き、いよいよ落ち着いてくるとジャングルの上に登ってお話をしたりして、大切な秘密基地のような思い出の場所です。
1966年生まれ

グローブジャングルの怖かった思い出

キンモクセイさん 埼玉県 1966年生まれ 女性 私が通っていたの小学校の校庭の固定施設にグローブジャングルがありました。 あの頃私たちはジャングルジムとの区別もあって、そのかたちから『地球儀』と呼んでいました。 遊び方は真ん中の芯棒の部分につかまって乗っている子、外側につかまって上の方に乗る子、同じ外側でも回すために足を地につけている子などそれぞれ好きな位置に乗っていました。 回す子は走って地球儀を回し、好きなタイミングで地面を蹴って遠心力で体を浮かせます。そしてまた体が降りてきたタイミングで走って回し、体を浮かせて遊ぶのです。 地球儀を回す子はたいてい男の子たちで、特に運動神経が良く足の速い子たちがその役を買って出て、時にはものすごい速度で回すのです。 学校の休み時間などは先生方も校庭に出ているので、先生方の目を気にしてか、静かに優しく回して遊びます。 それでも時には思わぬ速度になってしまい、先生に怒られながら足を使って速度を落としたりしていることもありました。 ある放課後の出来事です。私は友達に誘われて、地球儀で遊ぶことになりました。 それでも友達の誘いを断る勇気もなく、あまり考...つづき
1978年生まれ

石蹴りレースの思い出

らんらんさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代は、登下校の時は必ずと言っていいほど、落ちている石を見つけては蹴っていました。周りの友達も石蹴りをしていて、密かに地味なブーム遊びでもありました。 ある放課後に、クラスの友達が10名ほど集まり、自分たちで考案した石蹴りレースをすることになりました。 まずは、自分が蹴るお気に入りの石を探します。 石には様々な形があり、重いもの軽いものと千差万別です。私のお気に入りは平たい軽めの石でした。重い石より遠くに蹴ることができるので飛距離を稼げます。 そして、全員がお気に入りの石を用意できたことで、レース場を作ります。レース場と言っても木の棒で土の上に線を引き、500メートルくらいの距離にスタート地点とゴール地点を設定します。 そして全員がスタート地点に石を置き、蹴る順番をじゃんけんで決めたらレーススタートです。相手の石をどかしながら、自分の石をゴールへと進めていきます。 単純な遊びのようですが、蹴る角度や相手の石を蹴り除くテクニックなど奥の深い遊びになりました。
1978年生まれ

「いつもの病院の中庭で」

ピョンチャンさん 神奈川県 1978年生まれ 男性 私たちは学校が終わると、遊ぶ約束もせずにいつもの場所で、いつものメンバーが集まり、何をして遊ぶのかをその場で決めていました。 学校から徒歩で10分くらいの場所にある、国立の病院は、当時は知らなかったのですが、結核病棟があり、多くの入院患者がいたようです。 晴れている日には緑の草が私たちのふくらはぎをくすぐる中庭で、大きな声を出して笑ったり、ふざけ合って走り回ったり、賑やかに遊んでいました。 雨が降るとコンクリートの壁が鳴いているように、暗く濡れていました。 そこに集まるメンバーは各々に遊ぶ道具を持ってきていて、さまざまな遊びをしましたが、一番気に入った遊びはゴムボールの草野球でした。 プラスチックのカラーバットにビニールテープをグルグル巻きにして重くすると、ゴムボールを弾いた時の飛距離が違いました。 そうして大きな声を出して遊んでいた子供たちの歓声は、その病院の入院患者たちにとって、騒がしくも好ましい声だったに違いありません。
1972年生まれ

「友達と研究したブレイクダンス?」休み時間の思い出

みゆさん 埼玉県 1972年生まれ 女性 小学校6年生の頃、「風見しんご」さんのブレイクダンスが流行っていました。 友達と2人で前の晩に見た歌番組を一生懸命に思い出し、あーでもないこーでもないと再現し、ブレイクダンスを研究していました。 小学校の廊下はジャージと相性がよく、背中で滑って回ったりととても楽しかった思い出です。 当時はまだテレビを録画することは出来なかったので、記憶に頼るしかなく、それが大変だったのですが、少しづつ近づいている気がして楽しかったです。 先生に見つからないように踊るのがまたスリルがあり、ワクワクしました。 マイケル・ジャクソンのムーンウォークも流行っていて、何とかしてやってみたくて真似しましたが、なかなか上手くいきませんでした。 友達が、足の動きを解明して出来た時は感動しましたし、その友達のことを天才だと思いました。 今でもムーンウォークは出来ます!実は昨日、旦那にムーンウォークを教えてあげました。当時仲良しだった、教えてくれた友達を思い出して。
1969年生まれ

「用水路に落ちたカラーボール」野球の思い出

田舎の子さん 茨城県 1969年生まれ 男性 僕らの年代の子供は、ほとんどの子供は野球に夢中でした。 Jリーグなどなく、スポーツといえば野球。学校にも普通に好きな球団の野球帽をかぶって行きました。 休み時間になると、速攻でグランドに出て、ビニールのボールで野球をしていました。 僕の通っていた小学校はグランドが小さく、それでも小学生が打つにはちょうどいい大きさったので非常に盛り上がったのを覚えています。 傍に排水路が流れていて、そこにボールが入ると大騒ぎ。長い棒を探して、一生懸命引き寄せて拾い上げていました。 高々100円もしないボールだったと思いますが、あの頃の僕らの100円はたいそうなお金だったのです。 今自分の子供達の財布の中を見て、あの頃の俺たちはなんだったのだろう?としみじみと考えてしまいます。
1997年生まれ

通称「消しバト」休み時間に消しゴムバトルの思い出

momochinさん 千葉県 1997年生まれ 男性 小学校の休み時間によく消しゴムバトル、通称「消しバト」をやっていました。 このゲームは、学校の机の上で遊ぶゲームです。それぞれが持ち寄った消しゴムを手で順番に打ち合って、相手の消しゴムを机から落とすゲームです。 何人かで遊んでいましたが、皆それぞれオリジナルの消しゴムを用意していたのが面白かったです。 学校の授業とは別に、可愛いキャラクター物の消しゴムを用意したり、机から落とされないように重い消しゴムを用意したり、それぞれユニークな消しゴムを持っていました。 休みの日に近くの文房具屋さんに行って、バトル用にどんな消しゴムを買おうかと見ているのが面白かったです。 消しバトは、消しゴムさえ持っていれば誰でも参加できるので、普段あまり話さなかった女の子とも、このゲームを通じて仲良くなれました。そのような点でも楽しかった思い出があります。
1983年生まれ

「〇〇ちゃんに会いに来た」校庭に犬がやってきた思い出

眉毛イヌ 東京都 1983年生まれ 女性 校庭に犬がやってきたことは、何度かあります。しかも、毎回同じ犬です。 その犬は同じクラスにいる友達の飼い犬でした。脱走癖がある柴犬で、逃げるといつも小学校にやってきました。 誰かが「校庭に犬がいる!」と発見すると、子供達は一瞬にしてざわめきだし、授業はすぐに一時中断していました。 大抵、校庭で体育をしているクラスの先生や、職員室にいた手の空いてる先生が捕まえて保護すると、飼い主の友達のお母さんが連れ戻しにやってくるパターンでした。 しかし、6年生の時に一度だけ、とても印象に残っていることがあります。 その時の教室は1階で、校庭に面してテラスのようなスペースのある校舎でした。 いつもはすぐに友達のお母さんが連れ戻しにやって来るのですが、その日はなかなか来なくて、柴犬は校庭を走り抜け、友達の教室のテラスにやってきました。 友達を見つけると嬉しそうにしっぽを振る柴犬。とても可愛かったのを覚えています。 結局、お母さんに連絡がつくまで、テラスの柵に柴犬をつないで一緒に授業を受けました。 友達のことが大好きなんだなぁと、あったかい気持ちになりました。
1978年生まれ

「陣取り選手権の思い出」ケンケン陣取り

ちゃーはんくん 東京都 1978年生まれ 男性 いかに多くの陣地を奪い取り合うことができるか、この陣取り合戦での一番の醍醐味でした。 小学4年生の時にクラスでこの遊びがブームとなりました。校庭の一部を使い陣地の範囲を決めます。 そして二チームに分かれて陣取りをスタートします。それぞれのチームの人は、走ったり歩いたりするのではなく、けんけんで陣取りをします。 いかに相手より早くけんけんで進み陣を取るか、みんな必死になって遊んだことを覚えています。 学校全体にも陣取り合戦が広まり、あるクラスの提案で学年別の陣取り選手権が開催されることになりました。 私達の4年生も優勝に向けて日々練習に取り組みました。相手より早くけんけんで進むことが勝利の鍵となります。そのために、けんけんの練習を重点的に行いました。 毎日足のふくらはぎが筋肉痛になるくらい練習し、陣の取り方も効率的に奪えるようミーティングを重ねました。 そして迎えた選手権。決勝まで進みましたが、相手の6年生に勝てず準優勝でした。それでも、学年全員が一丸となって取り組めた陣取り選手権のおかげで絆が深まりました。
1955年生まれ

「ベーゴマと遊び仲間」最強ベーゴマの思い出

LongDYさん 東京都 1955年生まれ 男性 それはもう遠い昔です。私が10歳くらいの時の事ですからかれこれ50年以上も前の事ですね。 当時やっと、テレビも白黒からカラーに成る時代でしたので遊びも限定的でした。 家でやる遊びはトランプ、すごろく等、今では珍しくなっている物しかなく。中心は外での遊びです。 学校が終わると年齢差1〜2年内の子供たちが集まり、まずは人数と場所が確保できれば野球。それもボールはソフトボールで大きさは軟球の大きさでした。 人数が集まらない、場所が確保できない場合は、神社の境内に行ってめんこ、ビー玉、そしてベーゴマです。 ビー玉、メンコ(牛乳瓶の紙のふたも含む)は比較的年齢が低くても簡単に出来るので、多くの子供たちがそのもの自体(ビー玉、メンコ)を賭けて遊んでいました。 ベーゴマはその物自体に削りなどの手を加え、ひもを使っての回し方のテクニックは、年少にとっては難しい領域でした。割と高学年の少年向けの遊びと成って居ました。 ベーゴマを回す台は、漬物桶の様な丸い台のふたを取った状態で布を上に置き、その周りをひもで縛り、丸くなった布の中心をほんの僅かたわませて中心...つづき
1958年生まれ

ベーゴマ遊びは男のロマン「ペチャ」「タカ」「ちゅうだか」

manjukoyさん 東京都 1958年生まれ 男性 ベーゴマ遊びはとにかく熱く面白い遊びでした。 バケツの上に土俵をみたてた厚手の布を敷き、そこでベーゴマを回して相手と勝負します。3、4人位で一斉に回して相手のベーゴマをはじくという遊びです。 バケツの土俵から外にはじかれ落ちたら負けで、そのベーゴマは勝者に没収されます。 つまり遊びと言っても自分が持っているベーゴマがなくなるわけですから必死でした。 ベーゴマの種類と言いますかコマの高さが色々あって、高さのあるものを「タカ」平べったいものは「ペチャ」そしてその中間の高さのものを「ちゅうだか」と呼びます。 それぞれ特徴があって「タカ」で戦うときは上からたたきつけるように相手のベーゴマにぶつけて弾き飛ばすときに有利なベーゴマ。 その技をガッチャと呼んでいました。たたきつけたあとも自分のコマがしっかり回っていないと勝負不成立になります。 「ペチャ」は平べったく低いので、自分より高いベーゴマの下に入り込んで軸を狙うので弾きやすくなります。 勝負に勝つためにベーゴマの角や軸をヤスリで削って調整したり、コマに紐を巻きやすくするために巻く溝も削って...つづき
1958年生まれ

自分なりのベーゴマを作り上げる

かぶとんさん 東京都 1958年生まれ 男性 ベーゴマをやるには、まず、バケツなどを用意し、その上にブルーシートや厚手の布をかぶせ、周りを縛り「トコ」をつくります。中央はへこませることで、対戦がしやすくなります。 現代のベーブレードとよく似ています。 ベーゴマの巻き方には2種類あり、多分隠語なのでしょうが、「ち○んこ巻き」「まん○巻き」と読んでいました。地域的な特性があるかもしれません。 巻くときに滑ることがあるので、紐を舐めていました。今考えると、とても不潔です。 ベーゴマの種類は、通常のもの、背が低いもの、大型のものが当時ありました。 より強くするために、自分なりの加工を加えていました。たとえば、上部に蝋を垂らして重くしたり、軸の部分をやすりで削り、より回転力が増す工夫をしたり。その作業はとても楽しかった記憶があります。 勝負の基本は、相手のベーゴマを「トコ」からはじき出すことで、相手のベーゴマを奪い取ることができます。 とにかく「力」(リキと呼んでいました)を入れることが重要で、いかにひもを力強く引けるかが要です。 敵をはじき出したときの快感は、今でも覚えています。1960年代後...つづき
1974年生まれ

学校帰りの草野球

ななし3さん 東京都 1974年生まれ 男性 今の東京では考えられませんでしたが、私が小学校の頃はまだ空き地が多くありました。団地の横に草が生い茂った大きな空き地があり、毎日のように誰かしら遊んでいました。 私と仲の良かった友達たちは毎日のように学校が終わると、家にグローブとバットを取りに行って、その空き地に直行です。 小学生と言ってもバットにジャストミートすれば、ボールは結構飛びます。 しかし、どれだけ飛ばしても空き地を出ていくようなことがないぐらい、大きな空き地でした。今ではそんな場所が東京にはないと思います。 当時は再開発予定の空き地であっても子供たちが遊ぶことに対して、制限をかけたりすることなく寛容でした。空き地があったとしても中には入れないことでしょう。 当時ファミコンが大ブームではありましたが、ファミコンだけではなく、身体を動かして野球を楽しんでいました。 今は空き地など、いつでも気軽に遊びに行ける環境がない子供たちが、かわいそうに思います。
1978年生まれ

空き地で野球の思い出

トリトン教授さん 東京都 1978年生まれ 男性 放課後は、家にランドセルを置いて、おやつを食べたら近所の空き地に集合して野球をするのが大定番でした。 今では無くなりましたが、当時は野球ができるくらいの大きな空き地がありました。 そこに野球のグローブやバットなどのグッズを持って向かい、ベースは、木の棒で線を描いて作り、即席の野球場にして遊びました。 学校の校庭も放課後に開放していましたが、人気があり、サッカーなどの先約があると使用できませんでしたので、この空き地は宝物のように仲間内で重宝するとともに、他の人に知られると独占できなくなるので秘密にしていました。 学校を卒業する時も遊び仲間で最後に空き地に集まり、卒業野球をするなど、自分自身の青春の思い出がたくさん詰まった貴重な場所であったことを今でも記憶しています。 時が過ぎて、周りの環境も大きく変わりました。その時の空き地はもう家が建っていますが、今でもその付近に足を運ぶと、少年時代の楽しい思い出に浸ることができます。
1970年生まれ

家の近くの空き地での思い出

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 小学生のころ、家の近くの細い道は砂利道で、舗装道路が整備されていませんでした。区画整理から漏れた駐車場に、使えそうな空き地がありました。 近所には同じ世代の子供たちがたくさんおり、みんなで暗くなるまでその空き地でプラスチックボールトプラスチックバットを使った野球をしていました。 ドラえもんにでてくるような土管がある公園ではありませんでしたが、似たり寄ったりの空き地です。 野球をするにはちょっと外野が狭くはありましたが、プラスチックボールでの野球ですので、漫画にでてくるような窓ガラスを割って怒ったおやじが出てくるようなシーンはありませんでした。 その空き地の端には柿の木があり、秋にはおいしそうな柿が熟したのでみんなで木に登って柿を食べたら、渋柿で口の中の水分が一気になくなったのを覚えています。 小学生の頃はコンピュータゲームもなかったので、限られたスペースとちょっとした自然で、暗くなるまで楽しく遊んだのを思い出します。
1988年生まれ

「悪ガキたちの集い」空き地の思い出

ゲオさん 千葉県 1988年生まれ 男性 小学生時代、学校からの帰り道に草木が生い茂った空き地がありました。その空き地の一角に秘密基地を作ることにしました。 空き地にある藁と木を集めて骨組みを作りました。その上に藁を乗せ、更にその上に枝をつけ、網目状に張り巡らして屋根を強化しました。 床には家から持ってきた新聞紙を敷き、約一帖くらいの秘密基地ができました。 秘密基地は夏と冬に一回ずつ作ったことがあります。 夏場は虫が多く猫の糞の匂いが気になりました。 冬は雪が降ってきて秘密基地が潰れてしまうことがありましたが、集めた雪を使って雪だるまを作ったり、かまくらを作ったこともあります。 かまくらは秘密基地を作るよりも簡単でしっかりと作れました。日が経過しても形を保っていた記憶があります。 そこは私有地であったので、今となれば入ってはダメなことが分かりますが、子どものころは何も分からず好奇心と興味だけで動いていました。
1971年生まれ

「竹やぶで見られちゃった」ちょっと恥ずかしいかくれんぼの思い出

マリンバさん 埼玉県 1971年生まれ 女性 周りは畑や竹やぶなどが多い埼玉県の田舎に住んでいました。 ゴム段や縄跳び、缶けりなどでも良く遊びましたが、外でかくれんぼをすれば、なかなか見つけられず楽しかったのを覚えています。 ある日、友人の家の大きな庭でかくれんぼをしました。 私は探される番だったのですが、庭の竹やぶの中に隠れたところ。30分経っても1時間たっても、探しに来てもらえず…。鬼が探している声は聞こえるので、じっと息をひそめて隠れ続けていました。 しかし、そのうちトイレに行きたくなり…。どうしよう、出て行こうかと迷ったのですが、どうせここなら誰にも気づかれないしと思い。竹やぶの中でおしっこをしてしまいました。 最中に、なんだか、ガサゴソという音が聞こえてきて、驚いて振り返ると、なんと友人のお父様が、タケノコほりをする為に入ってきたところでした。 もよおしている最中だったので、動くことも隠れることもできず。しゃがんだまま挨拶をして、とても気まずかったのを覚えています。 その後、友人宅から、タケノコをおすそ分けしてもらう度に、微妙な気持ちになってのを覚えています。 タケノコは、と...つづき
1986年生まれ

「サラ砂をかけて固くしたり 泥団子を作った」公園の砂場での思い出

ぽこたさん 東京都 1986年生まれ 女性 小学生の頃、学校が終わると公園に行き、よく砂場遊びをしていました。 砂の山を作り友人と二人でそれぞれ別の方向から穴を開けてトンネルを掘ったり、そこに水を流したりして楽しんでいました。 今考えると不思議な遊びですが、コップに湿った土を詰めてその表面にサラサラした白い砂を振りかけてを繰り返し、どれだけ表面を固くサラサラに出来るかという遊びをよくしていた思い出があります。 また、それと似ていますが泥団子もよく作っていました。様々な大きさの泥団子をきれいに作れた時はとても嬉しかった記憶があります。 プラスチックのバケツやかわいらしい動物の型が販売されており、砂場遊び系のおもちゃはポップでカラフルなものが多く、お気に入りのものを持って公園に行くのが嬉しかった。 砂場遊びは友人とも一緒に楽しく遊べて、協力することや相手の作ったものを大事にする優しさも学べたように思います。
1974年生まれ

苦い思い出もあった小学校の砂場

ユメカサゴさん 神奈川県 1974年生まれ 男性 私の通った小学校の校庭は他校よりも広く。体育、遊びの両方に使える大きなな砂場がありました。 自宅が学校から近かった事もあり、低学年までは休み時間や休日に出掛け、幅跳び、相撲、大きな砂山作りなど、様々な遊びを楽しんでいました。 ひとたび大きな構造物を作るとなると、周囲の事を一切忘れ夢中になってしまいます。 そんな風にして苦労し作り上げたトンネル数本付きの砂山も、後の雨や授業により無残に崩されてしまうのが残念で仕方ありませんでした。 楽しい思い出がある一方、嫌な事が無かった訳ではありません。校庭が大変広い上に私が通っていた頃は夕方や休日に誰もが学校へ自由に入れた為、近所から愛犬を連れ散歩に来る人がたくさんいました。 それだけならどうという事は無いのですが、中には砂場の中に糞をさせて砂に埋め、そのまま放置し帰ってしまう人もいます。 何も知らないまま遊ぶとそれが手に触れてしまい、言いようのない不快感と共に楽しい時間が台無しになってしまう事もありました。
1978年生まれ

砂のお城作りの思い出

遊び大好き少年さん 東京都 1978年生まれ 男性 子供の時は公園や幼稚園にあった砂場で友達と遊んでいました。砂場と言うと地味なイメージになりますが、遊び方次第ではクリエイティブで不思議な遊びだと思います。 私の砂場遊びは、ディズニーランドのシンデレラ城などのお城を、砂で作る遊びでした。 その必需品としてジョウロは絶対でした。持ち込んだジョウロに公園の水を入れて砂場で使います。 水分を含んだ砂は、サラサラ感からドロドロ感に変わり、城のような建造物を製作するのに適しています。 初めは上手くお城が作れず、途中で砂が崩れてしまうなどのトラブルにも遭いましたが、徐々にコツを掴むと、友達と一緒に大きな城作りに時間を忘れて没頭していました。 一番の思い出は、雪のかまくらのような子供一人が入れるお城作りにトライしたことです。 休日の朝早くに公園に友達と集合し、一日かけて完成するに至りました。その時の達成感は後の人生においても役立っています。
1970年生まれ

「回転型ジャングルジムの思い出」グローブジャングル

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 私はジャングルジムの中でも回転型のジャングルジムをマスターするのに燃えていました。 小学校の20分休み、昼休みはだいたい回転型ジャングルジムで様々なクラスの子供と競い合いました。 競い合う内容は二つです。 どのくらいの速さまで回転させることが出来るかと、どのくらい回転しているジャングルジムにしがみつくことが出来るかです。 前者については小学生には、しっかりとした測定はできないので、「体感(ジャングルジムの中に入った感じ)」で回る速さについて意見を出しあって、一番早いやつを決めていました。 また後者の方、こちらも体感になります。「みんながおじけづいて、しがみつくことができない速さまで、しがみつけたら価値」みたいな感じで争っていました。 手にマメを作りながら日々努力することで、まわりの友達からも一目置かれるまで成長したことを思い出します。上級生の先輩方にも声をかけていただき、嬉しかったのを覚えています。 今改めて考えると、結構危ないことを行っていたなと思います。一種の根性だめしですね。現在はお勧めできません。
1957年生まれ

「初めて刃物を使わせてもらった」竹とんぼ作りの思い出

UFOさん 東京都 1957年生まれ 男性 初めてナイフを使って物を作ることを学んだのは、竹トンボ作りでした。 近所の神社のお祭りで、屋台で売っていた竹トンボを見つけたときには狂喜乱舞し、徹底的にその飛ぶ秘密を解明しようと必死でした。 その後、それをお手本に自分で実際に作ってみようと、四苦八苦しました。 まず、基本となる材料の「竹」を手に入れることからどうすればよいのか分かりません。 近所の材木屋のおじさんに聞いてみると、工場の隅に転がっている木材の切れ端なら、タダで持って行って良いと言われたので、「竹」ではないのですが、作ってみることにしました。 当時は今のようなキャンプ用のカッコいいナイフなどありません。肥後守(ひごのかみ、と読みます)という和製ナイフを父親から借りて、早速まねして木を削り始めました。 当たり前ですが、最初から上手く削ることなどできず、指を切っては、痛い思いをしながら、安全に刃物を使う方法を実践で身に着けながら、作業を進めました。 最初に作ったその不格好な「竹とんぼ」は、それでも、何とか空高く舞い上がってくれて、本当に子供ながらに大いに達成感を得ることが出来ました。...つづき
1984年生まれ

「4年3組だけの思い出」竹とんぼ作り名人の担任の先生

璃桜さん 東京都 1984年生まれ 女性 私が小学校4年生の時、担任の先生が竹とんぼ作りの名人でした。 ちょうど、小学四年生で図工担当の教師が指導する図工の授業が始まり、小刀を使う授業で竹とんぼを作ることになりました。 それまで、担任の先生が全校朝礼で作った特別な竹とんぼを披露していて、私達のクラスも頑張って先生に負けない竹とんぼを作るぞ!と指導を受けながら、校舎から体育館までの距離を飛ばせる竹とんぼを作りました。 小刀で竹とんぼを作り終え、暫くの間、休み時間はみんなで竹とんぼ競争をしていたある日、皆がさらに歓声を上げる出来事が起きました。 当時人気だったギャグ漫画のアニメの最後にあったミニコーナーで私達のクラスとその竹とんぼを披露することに。 以前から、担任の先生は色んなニュース番組などで、竹とんぼ名人として紹介されていましたが、まさかの大人気アニメのミニコーナーに出られるなんて先生も初めてのことだと言っていました。 放送された時間はとても短いものでしたが、私もバッチリ映っていて、今でも楽しかったね!とクラスメイトと話しています。
1978年生まれ

児童館で初めて手作りした竹とんぼの思い出

工作マニア 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代に、クラスで竹とんぼが流行りました。きっかけはクラスの1人が、児童館の図工室で竹とんぼを製作し、学校に持ってきたことでした。 休み時間に中庭に集まり、その子が竹とんぼを飛ばすと、旋回しながら上空に舞い上がる姿を見て、みんなテンションが上がりました。 こうなると、自分でも竹とんぼを作りたくなり、学校が終わって帰宅後、ランドセルを投げるように玄関に置いてから児童館へとダッシュしました。図工室に着くと案の定、クラスのみんなも来ていて、満員状態でした。 人数が多いので、5人1グループで制作することになり、いよいよ私の番になりました。児童館のスタッフの方にノコギリとヤスリの使い方を教わり竹とんぼを製作しました。出来上がったものに満足し、早速、プレイルームで竹とんぼを飛ばしました。 この竹とんぼが、自分で初めて手作りした物となり、今でも当時の思い出とともに自宅の段ボールに保管しています。
【1990年代】

竹とんぼ失踪事件の思い出

りすこさん 群馬県 1990年生まれ 女性 小学5年生の頃、近くに住んでいる大工さんが子どもたち向けに木製おもちゃを作ってくれていました。 「竹のおもちゃ」として、竹を削って作った竹トンボを持ってきてくれたので、年下の子を連れて遊ぶことになりました。 その前に竹とんぼを触ったのは5、6歳の頃、しかも昔のおもちゃで遊ぶ教室で、壊れかかった竹とんぼだったので、あまり上手く飛びませんでした。 大工さんの作った竹とんぼは今考えても、羽の薄さや削り方に工夫があって、作りもしっかりしていたのです。 広いゲートボール場で遊び始めましたが、小さい子が飛ばしてもかなり高く飛んだので、期待以上のおもしろさで夢中になりました。少し風のある日だったので余計によく飛んだのかもしれません。 そのうちもっと高く飛ばしたくなり、木陰にあるベンチに乗って飛ばしてみました。すると、風に煽られてベンチから離れた木の枝に引っかかってしまったのです。 登って取るにも枝の先で、縄跳びの持ち手を投げても上手く取れず、雨も降ってきてしまい。大人に言って怒られるのも怖いので、その日は仕方なく帰りました。 翌日も取れず、翌々日にボールを...つづき
1982年生まれ

知らないおじさんから守ってくれた「げんこつたかちゃんの思い出」

たきあまーちさん 神奈川県 1982年生まれ 女性 私の小学校の時の思い出です。私の小学校の裏にはおじいさんがやっている駄菓子屋がありました。みんなそこで駄菓子を買って公園で遊ぶというのが毎日のルーティンでした。 そこの駄菓子屋の孫のたかし君は、まさにガキ大将でした。 たかし君は「たかちゃん」と呼ばれており、駄菓子を買う子にこれはダメだ。こっちを買え。等、店に居ては少し困ったところもあり、威張っているところを見つかると、よくおじいさんにげんこつをもらっていました。 ある日、公園でいつものように遊んでいると、知らないおじさんが話しかけてきて「学校でお母さんが困っている。一緒に来てほしい。」と言うのです。 お母さんは家に居るはずだしどうしようと私が困っていると、たかちゃんが来て、「こいつの家は近くだから俺が家に一緒に行ってくる。」と言ってくれたのです。 すると、おじさんはすぐにどこかに行ってしまいました。たかちゃんは、本当に家に行ってくれました。 家には母が居て、一緒に行っていたらと思うと怖かったなと思いました。 普段は威張っているところもあるガキ大将だけど、いざというときには頼りになるガ...つづき
1978年生まれ

ガキ大将とのいたずらの思い出

あの日の少年 東京都 1978年生まれ 男性 私の身近にいたガキ大将は、小学生時代にいました。どんな子かというと、ケンカが強く、遊びではリーダーとなって色々なやんちゃをしている子でした。 授業中でも居眠りや隣の席の子にちょっかいを出すなど、自由気ままにやりたいことをするガキ大将でした。 そんなガキ大将も仲間意識は強いので、上級生に仲間がいじめられていると率先して助けたりしていたので人望はありました。 放課後遊びもガキ大将が決めます。野球からサッカー、鬼ごっことワイワイと遊んだことを今でも覚えています。 今となっては恥ずかしい話ですが、ピンポンダッシュも流行っていて、ガキ大将から指名された子が、特定された家のピンポンダッシュをしていました。当然、私もガキ大将から何件か指名されてやっていました。 走って逃げるときは、いつもみんな一緒で、いたずらの快感に酔いしれて笑顔で遊んでいました。 そんなガキ大将は、中学校は私立中学に行くことになり、最後の卒業式では、涙を流しながら仲間一人一人と握手しました。私も感動し号泣しました。 色褪せないガキ大将との思い出です。
1978年生まれ

「探偵ごっこの思い出」自分たちはいじめたつもりはないけれど 相手はいじめられた思ったゲーム

ぴかちゅうさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代に流行った遊びの一つに探偵ごっこがありました。遊び友達と考えたオリジナルの遊びです。内容は、じゃんけんで負けた一人が探偵役になり持ち物を学校の色々な場所に隠されます。 隠した人達は、隠し場所のヒントを探偵役に示して、その情報をもとに探偵役は推理して隠された持ち物を探し当てるというものでした。 ある時、初めて探偵ごっこをするクラスメイトが一人参加。じゃんけんで負けて探偵役になりました。その子の鉛筆や体育着などを、私を含めて6人で隠しました。 そして、探偵役に隠し場所のヒントを一人ずつ教えていきます。私は音楽室のロッカーに探偵役の子の靴を隠したので、音楽関係のヒントを伝えました。 全員からのヒントを教わった探偵役は探しにいくのですが、全然見つからず、時間だけが経過し夕方になりました。すると、探偵役が号泣し始めました。 あまりにも見つからず、このまま家に帰れなくなると不安になったのが号泣理由でした。 私達は、いじめという感覚は無かったのですが、後日、探偵役の子の母親からクラス担任に相談があり、本人はいじめられたと認識していたようでした...つづき
1989年生まれ

「負けたら告白」罰ゲームの思い出

まささん 東京都 1989生まれ 男性 小学生の頃、気がついたら何か遊ぶにしろ罰ゲームをやるのがお決まりになってしまった時期がありました。 初めはデコピンやらシッペなど簡単なものです。 1番良くないなと思ったのは告白でした。 楽しんでいる側は楽しいだけで、なんとも無いと思いますし、告白する側も罰ゲームだから、と割り切る事もできるかも知れません。 告白された人からしたらこんなに残酷なことは無いです。 ある日の罰ゲームにて告白をした友人。返事はまさかのOK。実は告白された女の子は近いうちにその友人に告白をしようと思っていたらしく、一つ返事で告白をOK。 しかし小学生の口にチャックなんかある訳もなく、即日罰ゲームであったことが本人にもバレてしまい、別れてしまいました。 友人も実は気になる存在ではあったらしく。両思いであったのに罰ゲームなんかで告白をしたものだから上手くいくはずの二人が上手く行かなくなってしまったのは、幼心に複雑な気持ちでした。 それ以来罰ゲームは身内だけで完結するものがメインとなっていきました。
1956年生まれ

「近所の人ごめんなさい」罰ゲームでチャイムを鳴らす ピンポンゲーム

るーぶさん 東京都 1956年 男性 色々な遊びをして、負けた人が罰ゲームをする。 暗黙のルールが在りました。 遊びは、全て勝ち、負けが在り。 例えば、道路に「ろーせき」で丸を書き、8分割に区切ります。中に「電車を3本見る」とか「即席ラーメンを食べてくる」など、その日に思いついた事を皆で書いていきます。石を投げて当たったことをします。 一番遅く戻ってきた人は負け、当然、罰ゲームが在ります。 当時は、本当に即席ラーメンを作り食べたのです。皆がズルをする事が無いのも、暗黙のルールでした。 その他の、遊びでは缶蹴りや、ドッチボールの敗者。兎に角全てに罰ゲームが在りました。 負けた者の罰ゲームは、当時、はやったピンポンゲームです。 当時は、インターホーンが付いている家は少なく、ややお金持ちの家と言うイメージでした。 みんなで集まり、その日の家を探して回り、1~2軒探し敗者に、覚悟を確認し、勝者は隠れて見ています。 玄関のドアホーンのスイッチを押して逃げてくるのですが、この、スリルがとても面白かったのですが、たまに、全員掴まって怒られる事も在りました。
1958年生まれ

下手したらオニがエンドレスに続く「缶蹴りの思い出」

さるやまさん 東京都 1958年生まれ 男性 缶蹴りは、空き缶を置き、それを蹴り出すところからはじまります。公園などでよくやりました。 オニは、蹴られた空き缶を元の位置に戻し、その間に様々なところに隠れたみんなを見つけます。 ただし、見つけても、オニの知らぬ間に缶を他の誰かが蹴ってしまえば、つかまったみんなは解放されることに。 鬼の目を盗んで缶を蹴り出して、仲間を解放することはとても快感です。 卑怯なひとは、オニが間を踏んでいるのにそこを蹴り出してしまう輩もいました。 オニは基本的にジャンケンで決めていました。 ただ、下手をするとそのオニをみんなでいじめ?てしまうことになりかねない遊びだったかと思います。 素早い動きができる子がいれば、オニの目を盗んでカーンと蹴り出します。 これが続けば、オニはいつまでたってもオニのまま。 ある意味、いじめっぽくなってしまいます。 そこはどこか自制があり、わざと見つかってみて次のオニになってみたりする勇者もいました。 オニになることも楽しみだったかと思います。 大人でも面白い遊びです。そう、テレビ向きかも・・・と思います。
1973年生まれ

鬼が消えてしまった「夕暮れの缶蹴りの思い出」

ヨッシーさん 神奈川県 1973年生まれ 男性 小学生だったある日、近所の友達6人で学校が終わってから、缶蹴りをして遊びました。当時は缶蹴りが友達の間で流行っており、毎日のようにやっていました。 その日もいつも通り、いつもの場所で遊んでいましたが、友達の1人が鬼になってから何度も缶を蹴られ。なかなか鬼から解放されずにいました。 そのうち辺りもだんだん薄暗くなってきました。 それでも構わず隠れていました。鬼の声が聞こえてこないなと思っていたら、他の友達が来て、「あいつ(鬼の友達)がいないぞ」と言ったのです。みんなで出て行ってみると確かにいませんでした。 名前を呼びながら周りを探しましたが見つかりません。とりあえず、その友達の家に様子を見に行ってみたら、普通に家から出てきました。 その友達曰く、「もう暗くなってきたし、お腹も空いたから」とのこと。 それを聞いてみんなも「それじゃ、しょうがないか」となり、そのまま解散しました。
1981年生まれ

低学年の子も応援してくれた マンションの子達との「缶けり」は燃えました!!

ななさん 埼玉県 1981年生まれ 女性 子供時代の缶けりって本気なんです。私が住んでいたマンションは子供がたくさん居て、放課後とかめちゃくちゃ子供が集まります。10人ぐらいは集まると、そのまま缶けりの開始! 年齢も様々で1年生~6年生まで集まります。缶を守るのはだいたい高学年と決まっていました。 マンションの周りに、丁度いい感じの広場があったので、そこで遊びます。木もいい感じで生えていたので、隠れる場所もバッチリ! 缶を思い切り蹴って鬼が取りに行くところからスタート! みんな一斉に隠れるのですが、隠れてもちょっと体が出てきてすぐに見つかっちゃう低学年の子供が可愛かったですね。私もあんな感じだったなぁ~なんて、お姉さんな気分で鬼をやったものです。 だいたい隠れられる場所は決まっているので、まずは近くの子達を見つけて、あとは思いあたるところに行って、見つけて、戻るの繰り返し!めちゃくちゃ燃えました。 最後は本気の高学年の戦いみたいになって、低学年の子も応援にまわり楽しかったです。
1978年生まれ

駄菓子屋のおばあちゃんから教わった「缶蹴りの遊び方」

ラーメン大好き小泉さん 東京都 1978年生まれ 男性 小学校時代の思い出です。授業が終わり帰宅し、おやつを食べたら毎日友達と遊びに行っていました。 近所の駄菓子屋に集合してから何して遊ぶか決めます。 ある日、駄菓子屋のおばあちゃんから、子供の頃に遊んだ缶蹴りの話を聞きました。それまでは缶蹴りという遊びは聞いたことはありましたが、実際に遊んだことはありません。 おばあちゃんから缶蹴りに適した、みかんの空き缶を頂きました。それを持って近くの公園で缶蹴りを始めました。 地面に円を描き缶を置きます。 鬼を一人決めて、それ以外は全員ダッシュで隠れます。 鬼が見つけると缶を踏み、見つけられた子は円内で鬼に捕まります。 それを助けるために、隠れている人が鬼の隙をついて、円内にある缶を目指してダッシュ。蹴り上げます。 見事成功すれば捕まった子は逃げられます。 というルールで始めた缶蹴りでした。 いつのまにかみんな夢中になり、小学生時代の遊びの思い出の一つになりました。
1982年生まれ

「また明日ね」缶蹴り遊びの思い出

たきあまーちさん 神奈川県 1982年生まれ 女性 小学校三年生の頃、放課後になると近所の公園で集まって毎日遊んでました。特に約束したわけではなく、その日に集まった子で缶蹴りなどをしていました。 私の地域の缶蹴りは、じゃんけんで鬼を決め、鬼が百を数えるうちに隠れて、鬼に見つからないように缶を蹴れば勝ち。というルールです。 途中で見つかってしまえば鬼に捕まります。鬼に捕まった子は、仲間が缶を蹴ってくれれば、鬼から逃げることが出きます。 それぞれに自然に隠れる場所というのができてきます。私の隠れ場所は、アスレチックの城の影でした。ここだと、自分からは鬼の動きが分かるし周りの仲間の隠れ場所も分かるというメリットがありました。 ただ、人気の隠れ場所であり、日によっては隠れる人が多いというデメリットがありました。 その日も、いつもの場所に隠れていました。あまり話したことのない友達と隠れていました。隠れている間に、学校のことや家のこと、色々なことを話しました。いつの間にか、仲良くなっていました。 また、明日も遊ぼうね。と何日も何日も当たり前のように遊ぶ毎日でした。 ある日いつもの隠れ場所で、今度引...つづき
1969年生まれ

いいところを見せたい「女子との缶蹴りの思い出」

みやぎさん 神奈川県 1969年生まれ 男性 40年以上前の川崎。繁華街、風俗街も近く、お世辞にも柄が良いとは言えない街。 市街地の広いとは言えない公園。ときには、浮浪者、野良犬も立ち寄る公園での缶蹴り。 缶蹴りは、当時の小学生たちの間では、あまりメジャーな遊びではなかったが、それでも始めれば日が暮れるまで盛り上がる。 いま思えば、放課後のあの時間に、よくもあれだけフリーで遊べる時間を持つ小学生がいたもんだなと思う。 そして、空き缶一つで良くもまぁ、あれだけ盛り上がれたもんだなぁと思う。 ごくまれに男子だけの缶蹴りに女子が混ざることがある。一人だけ女子ということはなく、3~4人のグループで混ざる。 3~4人の女子がいれば、男子各々にも、それぞれ気になる娘がいたりする。 いつもは、ひたすら「楽しい」缶蹴りが、なんだか「試される場」に変わる。 しかしながら、小学生時代の女子は、男子より体力があったりする。男子より缶を遠くに蹴ったりする。 始まる前は楽しい。しかし、終わってみると、小学生ながらに何か無力感のようなものを感じたものだ。大人になってからの合コンのように。 ところで、今の時代のアル...つづき
1974年生まれ

ヒーロー気分を味わえた休み時間の思い出 ドロジュン

ぼんじりさん 神奈川県 1974年生まれ 男性 小学校時代、雨天以外の休み時間は大抵クラスメートと共に校庭へ出ます。10名ずつチームを組みドロジュンをして遊びました。 校内は市内でも決して広いとは言えませんでしたが、それでも休み時間は大勢の生徒が外に出て遊びます。 建物の周辺はかなり入り組んでおり、ドロ側に回っても隠れる場所を見付けるのに大して困らず。決して不利ではありませんでした。 ドロ側で自分以外の友人が全て捕まってしまった時は、ちょっとしたヒーロー気分を味わえます。 警側の厳しい警戒を巧みに潜り抜けて本拠地に突入し、仲間全員を救い出した時の気分は堪りません。 普段は大人しくクラスでも目立たない存在でしたが、この時ばかりは仲間全員から感謝され、自分の存在感が大変大きくなったのを覚えています。 一方夢中になり過ぎて、休み時間が過ぎた事も気付かず隠れ続けてしまい。教室に戻るのが遅れ、担任教師に叱られてしまった経験も何度かあります。 中学以降は休み時間に思い切って校庭に出る機会も無くなり、今となっては良い思い出です。
1978年生まれ

ケイドロが繋いだ人生 後に警察官になった友達

みーごれんさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生の休み時間は決まって校庭に出てケイドロをして遊んでいました。警察チームと泥棒チームの2チームに分かれて対戦します。 逃げるのが得意だったり好きな人は泥棒チーム。逆に追いかけたり捕まえることが好きな人は警察チームという具合に自然と構成されていました。私は主に警察チームでペアになって泥棒チームを捕まえていました。 捕まった泥棒は牢獄に入ることになるのですが、別の泥棒が牢獄内にいる泥棒にタッチすると、その泥棒は牢獄を脱走できるというルールでした。なので、ただ泥棒を追いかけて捕まえるだけでなく、牢獄を守ることも重要でした。 牢獄専門の人を3人セレクトし、貼り付けて見張りをさせれば、脱走は80%以上の確率で阻止できます。 ひたすら汗を流し無我夢中でケイドロにハマっていた小学生時代でした。 このケイドロ遊びの仲間から2人が本当の警察官になりました。大人になって再会してこの事実を知り、驚きました。 その二人は主に泥棒チームだったので、大人になって警察官になっている人生の妙味を味わいました。少年時代のケイドロが繋いだ人生だと思います。
1992年生まれ

時間を忘れて遊び続けた小学校時代の思い出

ホワイトさん 東京都 1992年生まれ 女性 小学校時代に流行っていた遊びと言えば、ドロケイは外せません。 今思えば、誰が始めたのか、どこから流行ってきたのか分かりませんが、同じクラスの友達以外の違う学年の子もみんな知っていた遊びでした。 よく覚えているのは、中休みの時間になると誰かが“校庭集合”と合図を出すと、それがドロケイをやろうという意味。とにかく男女関係なくドロケイが始まっていました。 私はドロボウ役が面白くて、よくやっていたのですが、中休み中では決着がつかず、放課後に同じメンバーで集まって、続きをやるのがとても楽しかったです。 5時間目が終わりそうになると、みんながソワソワしだして、私も早く遊びたくて本当にワクワクしていた小学校時代でした。 私は小学校時代6年間リレーの選手だったのですが、それは日々警察から逃げるドロボウ役で逃げ回っていたおかげで、足が速くなり脚力もついたと思います!!更には身体能力も上がったと思います。 ドロケイで楽しかったのは、走り回るだけではなく、クラスや学校で人気の男の子と同じドロボウチームになると、助け合いながら逃げるという心理学的に恋に落ちそうな場...つづき
1983年生まれ

狭いところでは気おつけたい ドロケイの思い出

はるひこさん 東京都 1983年生まれ 男性 ドロケイは好きな遊びの一つでした。子供の頃は学校の遊具を上手に使って、公園ではベンチや鉄棒など、子供同士で考えながらルールを守ってやっていた記憶があります。 私が何より好きだったのは、泥棒の時と警察の時で全く違う心持ちで取り組むところです。 泥棒の時は、お宝を狙うために色々と考えて。 警察の時はその応用で逆をつく。さながら本物の様でした。 そして、もう一つ好きな所が、男女、年上年下、関係なくルールの中で楽しめる所ですね。足が遅くても、仲間と協力すれば目標を達成できます。 私は団地の様な場所で育ったので、子供は沢山いるのに性別年齢はバラバラでした。もちろん場所も限られます。その為遊びはみんなでできた方が良かったのです。 そんな意味でもドロケイは好きでした。 ただ、1つ注意が必要な事があります。それは、狭い場所で何人もが追いかけ合うので危いこともあります。 私には子供がいますが、彼らを見ていると目標しか見ておらず、あわやっという場面もしばしば。勝負事ですから、ついムキになってしまうのが子供です。なので場所と人数はなるべく少ない方がいいのかもしれ...つづき
1992年生まれ

クラスみんなでドロケイ

mnytさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 この遊び、呼び方がいろいろあるようですが、私の周りではみんな「ドロケイ」と呼んでいました。そんなドロケイ、小学校4年生の頃にクラスで大ブームでした。 元々は、放課後によく一緒に遊んでいる仲良しグループの間で遊んでいたようですが、次第に他のクラスメイトにも広まっていったようで、最終的に昼休みとか学活の時間にクラスのみんなで遊ぶようになっていました。 校庭でやる時はいつも朝礼台が刑務所で、捕まっていない泥棒がこっそり台の下に隠れて、捕まった泥棒をどんどん解放します。 そうなると警察側は台の下をマークするようになって、その手が通じなくなるので子供なりにいろいろ戦略を考えて楽しんでました。 しかし、やはり最後に物を言うのは「走りの速さと持久力」です。運動音痴で走るのも得意ではなかった私は、泥棒をやればすぐに捕まり、警察をやれば誰も捕まえられな無い子でした。 それでも数十人の友達と一緒に遊ぶというのは今となっては出来ない、とても楽しい時間でした。
1972年生まれ

小学生のころのケイドロで遊んだ思い出

プリンさん 千葉県 1972年生まれ 男性 小学生のころは友達がたくさんいました。学校が終わったら近くの公園に行って、ケイドロをした記憶があります。 刑事とドロボーに分かれて、捕まえていくのですが、遊び方は鬼ごっこと同じようなルールです。 誰が刑事で、誰がドロボーか分かるように、体育でかぶる赤白帽を被って遊びました。 私の時にはケイドロかドロケーか覚えてませんが、どちらも遊び方は同じです。私がドロボーになって逃げていた時に、捕まることもなかったので、一人寂しくしていた時を思い出します。 刑事とドロボーのどっちが大変かと言ったら、絶対的に逃げる方だと思います。 刑事は捕まえるだけで心理上は、落ち着いた感じになってます。 ドロボーはホッとしていると急に捕まることもあるので、常に緊張状態は続いてました。その時私は足が遅かったので、すぐに捕まることが多かったです。