1974年生まれ

1974年生まれ

昭和の時代「校門の前で商売をしていた謎のおじさん」

まさおさん京都府 1974年生まれ 男性小学生の時、授業が終わって帰ろうとすると校門の前に人だかりができていました。気になって覗いてみると、中年くらいのおじさんがテレビショッピングの実演販売のようにいろいろなものを紹介していました。主に文房具です。書いて手でこすって消せるボールペンとかだったような気がしますが、ははっきりと思い出せません。とにかく子供時代の私からすると魅力的なものばかりで欲しかったのですが、学校にはお金を持って行かないし、家に帰って母親に言っても買ってくれるはずもないので全く売れていなかったように思います。しかし、子供たちはみんな目を輝かせておじさんの巧みな実演販売を見つめていました。やがて先生がやってきて止めるように注意すると、「もうすぐ終わりますので」と言いながらおじさんは一向に終わる気配がなく、長時間やり続けていました。先生もそれ以上注意することはありませんでした。現代なら一発で警察に連絡されるかもしれないような状況ですが、当時はあらゆることに対して規制が緩く、良くも悪くも昭和だなあという気がします。
1974年生まれ

「ぐんかん ちんぼつ はれつ」と「グリン チリン パリン」楽しかったじゃんけんの思い出

まさおさん京都府 1974年生まれ 男性小学生の頃はじゃんけんから派生した遊びが流行りました。1つは「ぐんかん ちんぼつ はれつ」というものです。1人が「ぐんかんちんぼつはーれつ」という掛け声を出しながら、お互いにグーチョキパーを3回出して最後にアイコになったら声を掛けていた方が勝ちというゲームです。2つめは先ほどの発展形で、「グリン チリン パリン」というものです。やり方は「ぐんかんちんぼつはれつ」と同じですが、最後にアイコになったときに先に「ドン!」と言った方が勝ちというルールでした。3つめのじゃんけんの遊びは「グリコチョコレートパイナップル」です。じゃんけんをして勝った方がその文字数に合わせて歩数を進めるというもの。学校が終わって下校する時に同じ方向に帰る友達とやるのが定番でした。キックベースでチーム編成をするに、2人がじゃんけんをして好きな人からとっていくという時は、かなり気合が入った思い出があります。強さに偏りが出て機嫌が悪くなり、そのまま帰ってしまったというのも懐かしい思い出です。
1974年生まれ

「学校帰りに石蹴りをしてたら」石蹴り遊び2種類

マルコさん福岡県 1974年生まれ 男性僕たちの世代は子供のころ、学校帰りに友達と石蹴りをして遊んでました。石蹴りといってもいろいろ遊び方はあると思いますが、一つは「帰り道に家まで石を蹴って帰る」遊びです。ルールは単純で、途中で石をドブに落としたり、田んぼに落としたりせず、家まで無事にたどり着くこと。簡単なようで家までたどり着くまで何度も落とします。そのたびに新しい石でやりなおし。特に厳しいルールはないのですが、とにかく家まで石を蹴って帰っていました。途中で友達は帰る方向が違うので1人になりますが、それでも一応はズルをせずにちゃんと石を蹴って帰りました。ただこれにはひとつ問題があって、家に帰るまでかなり時間がかかります。ある日のこと、友達と喋りながら、夢中になって石蹴りをして帰っていました。かなり時間がたってしまい、夕方の5時を過ぎていました。気づいたのは家に帰ってランドセルを置いてからです。そう今日は夕方から塾に行く日だった。もう間に合わないと焦りながら、一生懸命に走って塾に行ったのを覚えています。【おまけ】もう一つの石蹴りの遊びとして、公園で友達が集まったらジュースの空き缶を置いて...つづき
1974年生まれ

学校帰りの草野球

ななし3さん東京都 1974年生まれ 男性今の東京では考えられませんでしたが、私が小学校の頃はまだ空き地が多くありました。団地の横に草が生い茂った大きな空き地があり、毎日のように誰かしら遊んでいました。私と仲の良かった友達たちは毎日のように学校が終わると、家にグローブとバットを取りに行って、その空き地に直行です。小学生と言ってもバットにジャストミートすれば、ボールは結構飛びます。しかし、どれだけ飛ばしても空き地を出ていくようなことがないぐらい、大きな空き地でした。今ではそんな場所が東京にはないと思います。当時は再開発予定の空き地であっても子供たちが遊ぶことに対して、制限をかけたりすることなく寛容でした。空き地があったとしても中には入れないことでしょう。当時ファミコンが大ブームではありましたが、ファミコンだけではなく、身体を動かして野球を楽しんでいました。今は空き地など、いつでも気軽に遊びに行ける環境がない子供たちが、かわいそうに思います。
1974年生まれ

「頑張りすぎたかくれんぼ」お家かくれんぼの思い出

マルコさん福岡県 1974年生まれ 男性かくれんぼと言えば、暇があるとやっていた遊びです。公園や学校や家などいろいろな場所でやっていました。公園でかくれんぼをしたときのこと、僕は隠れる側で「もうーいーかい、まーだだよ」と言う声の中、みんなは一生懸命隠れる場所をさがしていました。だだっぴろい公園に隠れる場所はほどんどなく、木の裏か、滑り台の後ろの茂みか、ベンチの下ぐらいでした。案の定「もういいよ」の掛け声とともに、鬼役の子にみんな見つかってしまいました。それはそれですぐ終わるので、次のゲームが始まるのですが、やはりかくれんぼをする以上、いかに見つからないかと子供ながらに考えます。そして家の中でかくれんぼをすることになったとき、絶対に見つからない場所はないかと考えて、その場所を思いつきました。押し入れの上の段のさらに上に子供が入れる場所があったのです。そこに登ってから隙間に入り置いてあった荷物に隠れました。「もういいよー」の合図で鬼役が探し始めます。狭い家なので友達は、いっときすると笑い声ともに見つかっていました。僕だけはさすがに見つからないので余裕だと思っていましたが、こんなときにか限っ...つづき
1974年生まれ

「絶対に負けたくなかった」かくれんぼの思い出

まさおさん京都府宇治市 1974年生まれ 男性かくれんぼは小学5,6年生の時によく遊んでいました。クラスの同級生とするよりも近所の子と遊ぶのが主でした。通常のルールは「もーいーかい」「まーだだよ」「もーいーよ」という掛け声とともに隠れて見つけるというものですが、私たちが遊んでいたルールは少し違いました。まずジャンケンをして負けた子が鬼になります。鬼が電柱で目を伏せて声を出して30秒数えます。30秒数えている間にほかの子は好きな所に隠れて30秒経ったら鬼が見つけに行きます。見つかったら鬼と隠れていた子が電柱へ向かって走り、鬼が先にタッチしたらアウト、隠れていた子が先にタッチしたらセーフとなります。要するに、ある程度遠くへ隠れると、かくれんぼというよりもただの徒競走になるのです。当時私はクラスでも足が速い方で、しかも毎回遊んでいる近所の子は2つ下だったので、負けたくないから遠くまで隠れて競争で勝っていただけでした。友達も「まさお君が隠れている場所分かってるねんな」と半ば文句を言いながら見つけていました。学校ではほとんどしゃべらない大人しい子供で、クラスで遊ぶときは空気を読んでガキ大将にわざ...つづき
1974年生まれ

苦い思い出もあった小学校の砂場

ユメカサゴさん神奈川県 1974年生まれ 男性私の通った小学校の校庭は他校よりも広く。体育、遊びの両方に使える大きなな砂場がありました。自宅が学校から近かった事もあり、低学年までは休み時間や休日に出掛け、幅跳び、相撲、大きな砂山作りなど、様々な遊びを楽しんでいました。ひとたび大きな構造物を作るとなると、周囲の事を一切忘れ夢中になってしまいます。そんな風にして苦労し作り上げたトンネル数本付きの砂山も、後の雨や授業により無残に崩されてしまうのが残念で仕方ありませんでした。楽しい思い出がある一方、嫌な事が無かった訳ではありません。校庭が大変広い上に私が通っていた頃は夕方や休日に誰もが学校へ自由に入れた為、近所から愛犬を連れ散歩に来る人がたくさんいました。それだけならどうという事は無いのですが、中には砂場の中に糞をさせて砂に埋め、そのまま放置し帰ってしまう人もいます。何も知らないまま遊ぶとそれが手に触れてしまい、言いようのない不快感と共に楽しい時間が台無しになってしまう事もありました。
1974年生まれ

学校の帰り道の「荷物持ちの罰ゲーム」

ももえさん新潟県 1974年生まれ 女性私の実家は田舎の方にあったため子どもの数も少なく、同級生に限らず年上や年下の子たちとも一緒に遊ぶのが当たり前でした。小学生の頃にはやっていたのが、荷物持ちの罰ゲームです。3~4人ほどのグループで下校することが多かったのですが、そのときによくしていました。まず、みんなでじゃんけんをします。負けた人が全員の荷物をすべて持って歩く、という単純な罰ゲームです。ランドセルは自分のもの一つだけでも結構重いですし、それに加えて他の子たちの荷物(ランドセルなど)を持つのはかなりの重労働です。「次の電柱まで」とか「〇〇の家まで」などとそのたびごとにゴールを決めて行っていました。低学年の子がじゃんけんに負けてしまったときには、距離を短めに設定してあげるなどの配慮も、自然とできていたように思います(たとえば、10歩だけ歩く…など)。学期末になると、普段は学校に置いたままにしている荷物も、持ち帰ることになるため、荷物の量も増えて盛り上がりました。田舎なだけに、通学路の交通量もかなり少なく、安全に遊びながら下校することができていました。
1974年生まれ

ヒーロー気分を味わえた休み時間の思い出 ドロジュン

ぼんじりさん神奈川県 1974年生まれ 男性小学校時代、雨天以外の休み時間は大抵クラスメートと共に校庭へ出ます。10名ずつチームを組みドロジュンをして遊びました。校内は市内でも決して広いとは言えませんでしたが、それでも休み時間は大勢の生徒が外に出て遊びます。建物の周辺はかなり入り組んでおり、ドロ側に回っても隠れる場所を見付けるのに大して困らず。決して不利ではありませんでした。ドロ側で自分以外の友人が全て捕まってしまった時は、ちょっとしたヒーロー気分を味わえます。警側の厳しい警戒を巧みに潜り抜けて本拠地に突入し、仲間全員を救い出した時の気分は堪りません。普段は大人しくクラスでも目立たない存在でしたが、この時ばかりは仲間全員から感謝され、自分の存在感が大変大きくなったのを覚えています。一方夢中になり過ぎて、休み時間が過ぎた事も気付かず隠れ続けてしまい。教室に戻るのが遅れ、担任教師に叱られてしまった経験も何度かあります。中学以降は休み時間に思い切って校庭に出る機会も無くなり、今となっては良い思い出です。
1974年生まれ

幼馴染の男の子と二人きりで箱ブランコ

水色メランコリーさん神奈川県 1974年生まれ 女性小学生の当時、私はいわゆるマンモス団地に住んでいました。マンモス団地内の至る所にある公園には、ほぼ箱ブランコがある状態でした。物心ついた頃から箱ブランコは馴染み深いものであり。小学校低学年くらいまで大好きだった幼馴染の男の子と二人きりで、箱ブランコに乗って遊んでおりました。幼馴染の男の子と、箱ブランコに向かい合って座ったり、時には二人で横並び状態で座ってみたり…。ちなみに、二人で並んで座っていると当然の事ながら座っている方側に箱ブランコは傾いてしまいます。そのアンバランスな傾き加減さえも、子供ながらには何故か楽しく、はしゃいでしまいました。勿論、座るだけではなく、”立ち漕ぎ”と表現すればいいのでしょうか?二人で向かい合った状態で、箱ブランコの椅子の上に立って、お互いの体重を利用して箱ブランコを漕ぐ。箱ブランコをゆらゆら揺らして楽しんだりもしていました。大好きだった幼馴染の男の子との箱ブランコ遊びは、小学校低学年までで、いつの間にか遊ばなくなっちゃったなぁ…といった感じ。今思い出すとちょっぴりノスタルジックというか甘酸っぱいような気持ち...つづき
1974年生まれ

楽しかったコマ回しの思い出

まさおさん京都府宇治市 1974年生まれ 男性小学低学年の頃にコマの回し方を覚えてから、5年生の頃まで遊んでいました。ある日、全校朝礼の時に校長先生が、「実は教頭先生がコマ回しの名人です。これから見せてもらいましょう」と言って、教頭先生がグラウンドでコマ回しを披露してくれました。コマを回して手のひらに乗せたり、綱渡りをしたりと多彩な技を見せてくれ。すごいなあと感動しました。それからコマの紐のつけ方を教えてもらって練習しました。最初は失敗が続きましたがすぐに回せるようになり、そこから毎日練習していました。コマの素材としてはプラスチックや木でできたものなど色々ありますが、一番安いプラスチック製が一番回しやすかったように思います。手のひらに乗せたり綱渡りができたり技も習得して、ますますコマ回しが楽しくなりました。友達と同時にコマを回してどちらが長く回っているかを競ったり、お互いに回したコマを紐で引き寄せてぶつけあったりいろいろな遊び方をした記憶があります。何年か経って高校生くらいの時に、当時遊んでいたコマ回しをやってみようとしたら上手く回せなかったので、子供の頃の集中力ってすごいなと感じまし...つづき
1974年生まれ

長縄跳びの練習の思い出

タケシさん大阪府 1974年生まれ 男性小学生の頃、私は長縄跳びが苦手でした。実際に縄跳びをするとヘタヘタでした。いつも練習している子たちよりも遅く降りてしまうことが多かったです。そんなときに思い出に残るエピソードがあります。1つ目は、縄跳びの練習中に縄が切れてしまったことです。私は練習をしていたところ、突然縄が切れて、思わず足が抜けて転んでしまいました。周りの子たちは私を見て笑いましたが、私はとても恥ずかしかったです。2つ目は、大縄跳びの大会で負けてしまったことです。学校で行われた大縄跳びの縄跳びの大会に出場しましたが、私のミスで、引っ掛かり残念ながら負けてしまいました。周りの子たちががっかりしているところを見て、とても悔しい、悲しい気持ちになりました。このような経験から、私は「練習することが大切」ということを学びました。毎日、少しでずつですが、練習して、縄跳びが多少はできるようになったのを覚えています。大げさですが、努力は大切だと感じました。
1974年生まれ

ガンダム ウルトラマン 仮面ライダーなどのメンコのコレクションと遊んだ思い出

まさおさん京都府宇治市 1974年生まれ 男性私の地域でメンコが流行していたのは小学4,5年生の頃だったと記憶しています。当時は駄菓子屋やおもちゃ屋でメンコをたくさん販売しており、お小遣いで購入していました。ガンダムやウルトラマン、仮面ライダーなどのメンコが主流だったように思います。メンコはクラスの同級生よりも近所の子と主に遊んでいました。地面が砂だとめくるのが難しく、アスファルトだと簡単にめくれました。めくれたメンコはめくった人の物になるので、みんなかなり気合を入れて遊んでいました。セロテープを巻いたり、軽く折ったりして少しでも強力にしようとみんな工夫していました。みんな自分のお気に入りの柄のメンコは取られたくないので、いらないメンコばかり出していたように思います。コツが分かってくると、力任せに振り下ろすのではなく角度をつけて投げたりと頭も使うようになりました。メンコはコレクションとしても大きな楽しみの1つ。日曜大工が趣味の父親が木で箱を作ってくれて、そこに入れて大切に保管してました。その箱をテーブルに置いてメンコを取り出して眺めるのが何よりの楽しみでした。
1974年生まれ

熱中した!「ノータイム」と呼ばれたゴム跳び遊び

あぼちゃん大阪府 1974年生まれ 女性小学校の頃はまだ、外で遊んでいた子どもたちがたくさんいました。テレビゲームもそこまで浸透していませんでした。私が住んでいた家のそばには、同年齢の子たちがいたこともあって、いろいろと外遊びを楽しんだ思い出があります。ドッジボール、鬼ごっこ、ケンケンパ、コマ回し…。普通のゴム跳びもやりましたが当時現地で「ノータイム」と呼ばれたゴム遊びがとても流行った時期がありました。ゴム跳びのゴムを大きな輪っかにして、両端に人が入ります(2人でやる時は一方を柱などに引っ掛けました)。2本のゴムの川を足で引っ掛けながらステップを踏んで楽しむ遊びでした。高さは膝丈・ヒップ・腰の3段階。ステップの種類は6種類(1番2番…などど呼んだ)。膝丈はステップを3回、ヒップは2回、腰は1回という決まり。1番の膝丈・ヒップ・腰…2番の膝丈・ヒップ・腰…という順だったか…?引っかかってしまったら交代だったか…?もう記憶が曖昧です。ステップは番号が上がるに連れて複雑になりました。最初はゲームを楽しむというより、そのステップを踏めるようになるのが課題。暗くなるまで練習しました。よく頑張った...つづき