1975年に生まれた人が子どもの頃にした遊びの思い出

1975年生まれ

「映画のチケットを買わされた思い出」公開されることのないホラー映画

南さん 北海道 1975年 女性 小学校の時に、たまに校門の近くで物を売っているおじさんがいました。担任の先生からは、買ってはいけないときつく言われていたのでいつも無視していました。 でも、その日はちょっと違いました。そのおじさんの周りに人だかりができていたんです。私は、いつもみたく無視しようと思っていたのですが友達がどうしても行こうと言うので仕方なく行きました。 すると、おじさんは映画のチケットを売っていました。 それも、聞いた事がないようなホラー映画。チケットには、お化け屋敷に出てきそうな落ち武者が描かれていました。 「1枚50円だよ。どうだい?」 私と友達は、かなり悩みました。他の子供達はほとんど買っています。もし、皆が観て私達だけ観ていなかったら仲間外れになってしまう。そう思ったら、我慢できませんでした。 私と友達は、50円を出してチケットを購入。お小遣いのほとんどを使いました。 でも、結局。その映画は公開されていなかったのです。騙されたショックは、今だに忘れられません。
1975年生まれ

逆にしたら面白くなった「逆じゃんけんの思い出」

紘子さん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校5年生の時に、友達3人とジャンケンで遊んでいました。でも、だいたい、いつも同じ人が勝つんです。これではツマラナイと、1人の子が文句を言いだしました。 トランプなどがないときに出来る遊びって「ジャンケン」か「しりとり」なんですよね。そうしていたら、その中の一人が「逆じゃんけんをしよう」と言いだしたんです。 つまり、グーはパーに勝って、チョキはグーに勝つんです。 たったこれだけのルール変更なのに、すごく複雑になって面白くなったんです。 ジャンケンに強い子も、すごく弱くなって皆が同じレベルになりました。気がついたら、誰が勝ったのか負けたのすら分からないぐらいグチャグチャになりました。 シンプルで遊びやすいジャンケンに、スピードを増したり、ルールを変更するだけで、途端にややこしいゲームになるんです。 しばらくはこの逆ジャンケンにハマっていました。あんなにジャンケンで盛り上がった事は、きっとなかったと思います。
1975年生まれ

相撲大会で好きな男の子を応援できなかった思い出

サユリさん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校の時に、好きな男の子がいました。ガキ大将で、いつも偉そうだったけど優しかったです。私は、本当は仲良くしたかったけど皆の手前そうはできませんでした。 そんな時に、町内の相撲大会にその男の子が出る事が決まったのです。女の子のなかには、横断幕を用意する子がいたり、お菓子や飲み物を差し入れする子もいました。でも、私はその勇気さえなかったのです。 友達の1人が、ガキ大将の事が好きだと言ったんです。だから、皆で応援して欲しいって。私は、自分も彼女と同じようにガキ大将が好きだとは言えずにいました。 結局、彼女の恋を応援する事になりました。相撲当日。私は、心の中で一生懸命応援しました。ガキ大将が勝つ度に嬉しくて、でも切なかったです。だって、ガキ大将は1度も私の事を見てくれませんでした。 結果。ガキ大将は優勝はできませんでしたが、仲間内のヒーローとなりました。そして、友達はガキ大将への告白を成功。私は、告白もできないまま失恋してしまいました。
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「卒業式でわかった真相」体育館の天井のバスケットボール

ひかりさん 北海道 1975年生まれ 女性 私が小学校5年生になった時に、体育館の天井にバスケットボールが挟まってると、ちょっとした騒ぎになりました。先生から、心当たりがある人はいないかと聞かれましたが誰も手を上げませんでした。 でも、噂だけは広がったんです。当時、プロバスケ選手を目指していた男の子がいたのでその子ではないかと囁かれました。でも、その子も違うと言っていました。 そして、いつしか噂はオカルトめいていきました。夜中におばけが置きに行ったんだとか、透明人間がやったんだとか。今思えばなんとも笑ってしまう話しなのですが、当時は真剣に話していました。結局、誰がやったかもわからずに卒業式を迎えました。 すると、クラスでも一番おとなしい男の子がある告白をしたんです。実は、その子こそがバスケットボールを天井に挟めた張本人だったのです。 なんでも、バスケの練習をしていたら何故か天井まで届いてしまい挟まったそうです。その日は夏休みで先生はいなかったため、そのままにしておいただけだったのです。 「皆が、あんまり騒ぐから言えなかったんだよっ」と言って、その子は泣いていました。きっと、彼なりに悩ん...つづき
1975年生まれ

「転校先の子どもたちと仲良くなれた遊び」石蹴りの思い出

アカリさん 北海道 1975年生まれ 女性 両親の都合で、小学生の時に転校しました。知らない子ばかりで、私にとっては恐怖でしかありませんでした。 仲良くしたかったけれど、声をかける勇気もなく、いつも教室の隅っこにいました。一人っ子で、自分から発言するのが苦手だった私はいつも一人でした。学校でも、家でも孤独な時間が増えました。 そんな時にクラスの女の子から石けりに誘われました。でも、私には石けりが何なのかさえ分からなかったんです。 「このチャンスを逃したら友達ができないかも」と思った私はその子に連れられるままグラウンドに行きました。そこでは、数人の子供達が地面に何やら書いて「ケンケンパ」をしてるんです。 「こうやるんだよ」その子が、地面に書かれた1という数字の所に石を投げ入れて、後はケンケンパをしながら番号順に石を蹴っていくというものでした。私は、見よう見まねで初めて石けりをしました。 気がつくと、他の子供達も集まってきて自然と仲良しになれました。石けりのおかげで、クラスに溶け込む事ができました。
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「男の子グループに勝った日」草野球の思い出

荘子さん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校の頃。男子と女子は別れて草野球をしていました。男子はいつも広い場所をとっていて、私達女子は隅っこだけ。これでは全然楽しくない。 そこで、女子達が直談判したんです。すると、男子が「野球で勝負だ」と言ってきました。 正直、自信はありませんでした。でも、男子にバカにされたままなんて悔しい。私達は、その勝負を受ける事にしました。 ですが、やはり男子の方が上でした。次々に打たれてしまい、皆悔しくて仕方がなかった。 その時、リーダー格の女の子が皆を一生懸命励ましていました。皆、その言葉に諦めずに頑張りました。 そして、結果は同点。勝てませんでしたが、同点になりました。すると、男子の方も私達を見直したみたいです。翌日から、一緒に遊ぶようになりました。 男の子には負ける事がやっぱり多かったですが、たまに勝つ時もあってその日は大喜びしました。 暗くなるまで、よく遊んだ日々は今でも良い思い出になって残っています。
1975年生まれ

体育の時間に犬が参加してきた

ワイジーさん 香川県 1975年生まれ 男性 小学校5年生のころ体育の授業。皆で校庭で整列していたら、どこからか犬が入ってきました。 中型犬で、首輪はしていなかったので野良犬っぽかったです。最初は遠巻きに見ているくらいだったのが、ボールを使い始めたら、遊んでくれると思ったのか、犬が興味をもって近づいてきてしまいました。 それだけなら良かったのですが、一人が急に走りだしたので、犬が喜んで追いかけてしまい。 走り出した子は、けっこう大柄な子で普段は威張っている感じの強い男子でしたが、どうやら犬が怖くて逃げたようです。え?あいつが?と意外に思いました。 犬は楽しんでじゃれて追いかけているようでしたが、逃げている子は必死です。みんなが「止まれ、止まれ〜」と叫ぶのですが、全然聞こえておらず。 「来んなー!来んなー!」と言いながら、パニックになって猛ダッシュ。可哀想だけど、ちょっと面白い構図になっていて、申し訳ないけど笑ってしまいました。 ついに追いつかれて、短パンのところを犬がじゃれて軽く噛んだようで、その子はコケて、半泣きに。 その騒ぎのせいで、校舎の窓からいろんな学年の人が顔を出して見ていて...つづき
1975年生まれ

「皆のアイドル」校庭に迷い込んできた子犬の思い出

マナさん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校1年生の時に、校庭で遊んでいたら子犬が迷い込んできました。 首輪をしていたので、どこからか来た迷子だという事になったのです。私と友達は先生に言おうと言ったのですが、他の子達は言ったら駄目だと言うのです。 「可愛いから、校庭で飼おう」なんて言い出す子まで出てきたのです。子犬はたちまちアイドルになって、皆と校庭を走り回ったり、砂で遊んだりしていました。 私も、犬は大好きだったのですが触った事はなかったため、ちょっと怖かったんです。でも、子犬は本当に可愛くて私もいつしかその子が大好きになりました。 校庭でキャッキャッと遊んでいる声に気がついた先生が見に来たんです。そして、子犬がいる事がわかるとすぐに離れるように言いました。 「この子は、ちゃんと家に帰してあげないとダメだ」先生の言葉に、私達は落ち込みました。 子犬の飼い主は、思ったよりも早く見つかりました。近所のおばあさんだったのです。ほんの1時間ぐらいでしたが、子犬と遊んだ事はいい思い出です。
1975年生まれ

「好きな子に勝って複雑だった遊び」陣取りゲームの思い出

なず菜さん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校の頃に、よく友達と放課後のグラウンドで陣取りゲームをしました。その時に好きな男子もいて、かなりドキドキしていました。 私は元々陣取りゲームに弱くて、いつも負けてばかりでした。 ですが、なぜかこの日に限って勝ってしまったんです。すると、好きだった男の子にすごい目で睨まれてしまいました。 なぜなら、その子は陣取りゲームで負けた事がなかったのです。世ほど悔しかったのか。一言もないまま、その子は帰っていきました。私は、嫌われたのだと思いかなり複雑な気持ちになったのです。 その数日後。その男の子から、もう一度陣取りゲームをしようと言われました。 私は、今度こそ負けなきゃ負けなきゃと思っていたのですが、なぜか勝ってしまったんです。結局、またもやその男の子からライバル視されてしまって、本当に哀しかったです。 でも、そのおかげで、毎日のように遊びに誘ってもらえて嬉しかったです。 陣取りゲームは、私の淡い初恋の一部となったのです。
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「誰が一番高く作れるか」砂の山とトンネルづくりの思い出

あずきさん 香川県 1975年生まれ 女性 幼少期のころはよく近所の公園の砂場で遊びました。家からバケツやスコップをもってきて、できるだけ高い山を作る遊びをしていました。 誰が一番高い山を作れるか競争するのですが、遅れてきた友だちが手伝いに加わるのでグループになって二組ぐらいが競い合っていました。 水を混ぜると丈夫な山が出来るので、水を持ち込んではどろどろになることもありました。 山が出来上がると下の方からトンネルを掘ります。両側から少しずつ削っていきうまくつながって友だちと手が届いたときは嬉しかったです。 うまくいかずに崩れてしまうときもありましたが、こりずに何度も砂の山を作っていました。 夕方、帰るころには服も靴も道具も泥だらけでした。泥を家の玄関に持ち込まないよう注意されたり、すぐにお風呂に入るように言われたりして洗濯物を増やしてしまいました。 お風呂に入っても爪の間に入った砂はなかなか取れなくて苦労したのを覚えています。
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いじめっ子から守ってくれたガキ大将の思い出

まみさん 北海道 1975年生まれ 女性 ガキ大将というのは、簡単に言うと近所の子達のリーダーでした。威張っていたけど決して傍若無人ではありませんでした。 私は、子供の頃は小柄でいじめっ子からよくからかわれていました。 その日は、初雪が降ったとても寒い日でお気に入りの毛糸の帽子を被っていたんです。 そうしたら、公園でいじめっ子達に見つかってしまい。追いかけられて帽子を取られて、私は半べそをかきながら歩いていました。 そのとき、ガキ大将の男の子が気がついて走ってきたんです。私が事情を話すと、その子は何も言わずに走っていきいじめっ子達から帽子を取り返してくれました。 6歳の私にとって、10歳のガキ大将はとてもお兄さんに感じたのです。それから、ガキ大将がいる時は安心して遊べました。 ガキ大将というと、いじめっ子のイメージを持っている人もいますが、そんな事はありません。弱い子にはとっても優しかったです。だから、どんな子でも一緒に遊べたのでないかと思います。
1975年生まれ

校内でも有名なガキ大将の思い出

なっつんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 小学生の頃、友達とよく近所の公園でドッジボールや縄跳びで遊んでいると、同じ学年で、校内では有名なガキ大将が現れ、私たちは頻繁にその場所から追いやられました。 そのガキ大将のまわりには2~4人くらい子分のような存在の子がついてきており、我が物顔で占領していた記憶です。 逆らうといじめられるため、遊んでいる子たちは必然的に隅っこでこじんまり遊んだり、移動したりしていました。 そんなガキ大将ですが、学年の遠足でも威厳を保っていて、お弁当タイムには、子分の子達のおかずとかお菓子を貰ったりしていました。ガキ大将のまわりには常に人がいる、色々な子が取り巻いていました。 おそらく、そのガキ大将と一緒に居ればいじめられる事もないという考えからだろうとは思っていました。 よく喧嘩もしていましたが、ひとりでも充分な様子で、大将になるだけあるとは感じていました。男の子同士の喧嘩でも本当に強かったです。 どの時代にもそういったリーダー的な人は存在し、大人になった今はどんな感じなんだろうと、ふと思い返す時はあります。
1975年生まれ

逃げる範囲が広すぎる11階建てのマンションでの ドロジュン

なっつんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 私が小学生の頃は「ドロジュン」と呼ばれている遊びをしていました。11階建てのマンモスマンションに住んでいたので、ドロジュンをやるには範囲が広すぎます。 いつもの仲間とやるのですが、マンションを縦半分のエリアに区切り、その範囲内だけと決めてからやりました。 しかし、半分と言え、11階まであり。戸数もかなりあるマンションでしたので人数が少ない時ほど、難易度が高かったです。 玄関に門戸がないマンションでした。人の部屋の前に隠れるところがあれば隠れ。時々、そこの住人が出てきてビックリされる事もありました。 皆、顔なども知れた住人でしたので、話しかけられる事もあり、それが見つかる決め手にもなります。 エレベーターは2基ありましたが、それを使うと見つかりやすいのと、住人へ迷惑がかかるため、禁止しました。 2時間ほど遊んでいた事もあります。 子供であれど、階段を行き来し、フロアを渡り、凄い運動量だったと思います。 時々、ルールを破って違うエリアに潜む子もいましたが、そういう子は次からは警察役にまわされました。 低学年の子供だったからできた遊びであり、大人...つづき
1975年生まれ

「技と音」ローラースケートの思い出

さぼてんさん 和歌山県 1975年生まれ 女性 4人兄弟で一つのローラースケートを使っていました。サイズを大きさによって調整できたのが当時で考えると画期的だったと思います。子供でも簡単に微調整できたので時間を決めて兄弟で使用していました。 最初はよくこけて、足がどんどん広がっていってしまったのを覚えています。子供は体が柔らかいのですぐに滑ることができました。 自転車に引っ張ってもらって早く滑ったのが楽しかったです。 坂道で下り降りるのもスリリングでしたが、大概途中で斜めに曲がって溝に落ちていました。 近所の友達と競争したり追いかけっこもしていました。 家の前の道路で遊んでいたので、使い終わったローラースケートが道に転がっているのも懐かしい風景です。 家が立ち並ぶ道で遊んでいたので、ローラースケートの滑る音がすごくうるさかったと思います。母には騒音になるとよく怒られていましたが、近所の人から怒られたことはありませんでした。 そう思うと近所の方の温厚さや穏やかさがあったんだと思います。今では難しいことですが、ご近所で子供を育てていたんだと思います。
1975年生まれ

「曲がれない、止まれない!」ローラースケートの思い出

いちこさん 静岡県 1975年生まれ 女性 当時、テレビの歌番組でアイドルグループがローラースケートをはいて、歌って踊るのを見て、「自分もやってみたい」と、親にねだって買ってもらいました。 同じように買ってもらった友達と二人。移動するときも、自転車よりもローラースケート。難しい技はできなくても普通の道をひたすらコロコロするのが楽しかったです。 ある日、少し遠出した先で、左カーブの緩やかな下り坂にさしかかりました。これまで真っ直ぐでほぼ平らな道しか通ってこなかったのに、何を思ったのか「行ってみよう」と坂を降り始めました。 途中スピードが乗ってきていつもと違う感覚にワクワクしました。このままいける、とさらにスピードが上がったところで、もう目の前のカーブを曲がるにはスピードが出過ぎていました。 止まれないことに気付いた私は、とっさに、転べは止まると考えたんでしょうね。現場を見ていた友人が言うには、わたしは止まるのではなく前へ向かって飛んだそうです。 そのまま着地とはいかず、顔は怪我しなかったものの、膝と腕は擦りむいて友人には大笑いされました。その場は笑っていたものの、夜お風呂ですごくしみたの...つづき
1975年生まれ

めったにできない雪合戦の思い出

さよりさん 小学校の校庭 1975年生まれ 女性 私の実家は南国というイメージのあるところなので、めったに雪は降りません。しかし私が小学校1年生のある朝、今日はやけに空気が冷たいなあと思いカーテンをあけると庭一面の銀世界! 今まで見たことがないくらい雪が積もっていて、朝から姉と二人で外に出て雪だるまを作りました。 学校に行かなくてはいけないギリギリまで遊び登校。天気予報では午後から日差しが出るので、家に帰るころにはこの雪もなくなってしまうんだな、さみしいな、と思いながら登校しました。 そして学校に着いて1時間目の授業が始まるときに先生が「今日はめずらしく雪が積もっているので校庭で雪合戦をしましょう!」と提案がありました。 クラスのみんなはうれしくてうれしくて大喝采。もちろん私もクラスメイトと雪合戦ができることにワクワクしました。 2チームにわかれて生まれて初めての本格的な雪合戦。指先がじんじんしながらふわふわの雪を固める感触や、頬に冷たい風と氷の粒が当たり背筋がぶるぶるっとなる感覚。 そしてキラキラしたクラスメイトの笑顔と歓声。今でもしっかり私の心の中に存在しています。
1975年生まれ

先生ごっこの思い出

さらぴさん 静岡県 1975年生まれ 女性 子どもの頃から「ごっこ遊び」が好きで、子どもなりにこだわりを持って遊んでいました。なので、真剣にロールプレイをしてくれないお友達とは、ときどき本気のケンカに発展することもありました。 あるとき先生ごっこ遊びをしていて、1人のお友達が「私が先生やりたい!」と立候補したのです。その子が普段からあまり頭のいいキャラではなかったこともあって私は反対しました。 「○○ちゃんに先生役できるの?」と今思うとあまりにも失礼なことを言ったのですが、その子は意に介せず「いいのいいの、私が先生やりたいから」と勝手に確定してしまいました。 勝手に決められたことに対して私が憤慨し、他の子たちもポカンとしてその日の遊びはお流れになってしまいました。 私は遊びも真剣にやりたい子どもだったので、いわゆる「ニワカ」な子が入ってきて台無しにされたことが許せなかったのです。 相手の子は私がなぜ怒っているかもわからなかったようで、その後普通に話しかけてきて、その日のいざこざは無かったことになりました。
1975年生まれ

ばぁちゃんお手製お手玉の思い出

まかろんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 小学生の頃、同じマンションに住んでる同級生の家に集まっては、人形遊びや、あやとりをしていましたが、お手玉もやりました。 お手玉は各々手作り感溢れるものが多く、私はばぁちゃんが作ってくれたお手玉を持参して遊びました。和柄の生地で作られたお手玉は、着物の端切れで作ってくれたもので、手触りもよく、程よい小豆の量と重さが良かったです。 いつも集まっている子の中には強者もいて、片手で2個3個とポイポイ器用にやる子がいて、私もできるようになりたいと家でもよく練習していました。 しかし、なかなか片手では難しく、2個であればなんとか3回くらいは落とさずできても、3個はできませんでした。 できる子のやり方を見ていると、器用に一定間隔である程度の高さまで1個1個が宙を舞い、色々な柄が施されたお手玉がとても綺麗に見えました。 大きさや重さなども関係しているのかもしれないと思いましたが、はばぁちゃんは「手首に力を入れ過ぎたら駄目だよ」と教えてくれて、ばぁちゃんと一緒に練習した事もありました。
1975年生まれ

♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら

きょうさん 大阪府 1975年生まれ 女性 小さいころ、お母さんがよくつぎはぎの布にあずきを入れてお手玉を何個か作ってくれました。親が簡単そうに歌を歌いながら、高く投げ上げたお手玉を、残りのお手玉で拾い上げる。 ♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら 私は大人になっても、二つのお手玉を両手で投げることが精いっぱい。 母や兄はよく、片手でお出球を投げていました。 私がやるとどうも右に、左に飛んで行ってしまって、バランスよくお手玉を投げ上げることができません。 それで落ちたお手玉は、つまんで拾い上げてまたチャレンジ。 今は、完成したお手玉を和雑貨などのお店で見ることができます。何個か購入して、動画でも見ながら歌ってお手玉をほおり投げてみたいです。
1975年生まれ

長い長い滑り台

mugikoさん 兵庫県 1975年生まれ 女性 私が通っていた小学校の運動場は遊具が少なく。ブランコに古びた滑り台、ジャングルジムに鉄棒ぐらいだったと思います。 私が小学4年生の時に古い滑り台を取り壊して、長い長い滑り台を設置したのでした。生徒たちは大喜びで滑り台を遊んでいました。 長い長い滑り台だったので、滑っていると途中で止まります。生徒たちは、そこから立ち上がり下まで走り抜けている子供もいました。 出来たばかりの長い滑り台はなかなか順番が回って来ません。下校時間ギリギリになると、ようやくすべる事が出来るほどの人気の滑り台でした。 滑り台で遊びたい生徒は朝早く学校に行ったり、下校時間まで粘っている子供がいました。まぁ一ヶ月も経てば人気もなくなり、私もようやく長い滑り台を遊べるようになりました。 そこで友達と3人セットで滑ったり、後ろ向きになって滑ったり色々とふざけた遊びをしていたのですが、今まで遊んでいた短い距離の滑り台と違い。長い長い滑り台だったので途中でスピードが出なくなります。 そうすると、友達が後から押してくれました。私はいきなり後ろから押されたので体勢を崩して、滑り台か...つづき
1975年生まれ

できそうな気がしたけれど…「空中手乗っけ」の思い出

ねこ助さん 京都府 1975年生まれ 男性 幼稚園生の頃の話です。当時ちょっとした独楽回しのブームがあったと記憶しています。駄菓子屋さんで、ウルトラマンの絵が入った独楽(金属製)が販売されていて、友達の間で流行っていました。 独楽に色を塗って、回転した時の模様の変化が楽しかったのを覚えています。 2歳年上の兄がおり、父に教わって二人とも自分でも回せるようになりました。私も普通の独楽を回すだけなら上達して(上達した気になっていて)、友達や兄と、どちらが長く回せるが競って遊んでいました。 父が「ちょっと面白いものを見せる」と言って、独楽回しの技を見せてくれました。子供ながらに驚いたのが、独楽を空中にほおり投げてそのまま手の上に乗せて回しました。 父は簡単そうに独楽を回して、にっこりしていました。 投げ方を教えてもらったのですが、私は、手の上に乗せることができません。できそうな気がしたのだけれど…うまくいきませんでした。ささやかな懐かしい思い出です。
1975年生まれ

給食の牛乳のふたパッチでめんこ遊び

月音山さん 新潟県 1975年生まれ 男性 自分たちの地域でも子供たちの遊びはめんこ遊びでした。 当時、駄菓子屋にはテレビのキャラクター、仮面ライダーやウルトラマンなどの絵が描かれためんこは大人気でしたが、そういっためんこは大型のめんこで、上手な子には簡単に負けてしまうことが多かったです。 子供が買えるめんこの多くは500円程度だったと記憶しています。そんなに頻繁にキャラクターの入っためんこは買えず、小さなあまり有名でないような絵のめんこで遊んでいました。 そんな時、ある同級生が給食中にふとあることに気づきました。当時、小学校の給食には牛乳が必ず出てきて、その牛乳は今と違って瓶詰めの牛乳でした。その牛乳の瓶には紙の蓋がついていました。 それに目を付けた同級生が、牛乳瓶のふたでめんこ遊びを始めました。ところが、使用済のその蓋は反っているためにすぐに負けてしまいます。 そこで考えた子がいて、牛乳会社の本社に「新品の牛乳瓶のふたが欲しい」旨の手紙と返信用に封筒を同封して送りました。すると、その牛乳会社から返信があり、たくさんの新品の牛乳瓶のふたが送られてきました。 それは硬く、真っ平らな新品...つづき
1975年生まれ

世代を超えたフラフープ

きょうさん 大阪府 1975年 女性 小学校の時、体育の授業の時にフラフープを使って遊んでいました。腰で回したり、腕で回したり、縄跳びみたいにして飛んでみたりして、楽しかったです。 大学生の時、タイムボカンの歌で有名な山本正之さんの歌で「フラフープ」という短い歌があり。曲の中で「フラフープをぱりんと割ってしまう」というような内容がありました。家族に話したら、親の時代はフラフープがとっても流行っていたと言っていました。 私の頃のフラフープは、プラスチックだったり、分解して、片づけるものも出ていたので不思議だと思いました。「ぱりんとわれるもの」という認識は私の中にはなかったと思います。 そして数年前、スポーツクラブでZUMBAを習っているときに「HULA HOOP」という曲があり、フラフープを回しているような振りが全世界で踊られています。 かつて親の時代に流行し、私たちの小学校時代や、子供の頃の遊びの中にも定着したフラフープが、今や世界でもよく知られる遊び道具の一つになっていることに驚かされました。 それでも私にとってのフラフープは、やっぱり小学校の時の無邪気に遊んでいた頃のフラフープがし...つづき
1975年生まれ

鬼ごっこで見捨てられた私

こむぎさん 兵庫県1975年生まれ 女性 私が住んでいた地域は田舎で山が多い場所です。 山は子供の遊び場でした。 私は子供の頃から方向音痴でした。 山の中は似たような場所が多く、私はいつも迷子になってました。 山の中は広く、迷子になってばかりの私を友達に探してもらって家に帰っていました。 だから山の中では遊びたくなかったのですが、田舎なので山しかありません。 他の友達は迷わなかったのに、なぜ私だけ迷うのか謎でした。 私が小学生低学年の頃によく、友達と鬼ごっこをして遊んでいました。 鬼ごっこは大体、校庭や公園で遊んでいました。 校庭や公園などでは隠れる場所があまりないので、鬼ごっこをしてもすぐに見つかってしまう退屈な遊びでした。 しかし、山の中はそうもいきません。 山の中で鬼ごっこをすると私の場合は悲惨でした。 隠れる場所は、たくさんあるので鬼になった場合は本当に大変です。 誰も見つける事が出来ない時もありました。 そういう場合、友達は退屈になって勝手に私を見捨てて自宅へ帰っていきました。 私は友達に見捨てられた事にも気づかずに、ずーっと探していました。 今、思い出すと子供って本当に残酷...つづき