罰ゲームの思い出

罰ゲームの思い出

罰ゲームの思い出
子どもの頃にした罰ゲームの思い出とエピソードを集めました。

1989年生まれ

「負けたら告白」罰ゲームの思い出

まささん 東京都 1989生まれ 男性 小学生の頃、気がついたら何か遊ぶにしろ罰ゲームをやるのがお決まりになってしまった時期がありました。 初めはデコピンやらシッペなど簡単なものです。 1番良くないなと思ったのは告白でした。 楽しんでいる側は楽しいだけで、なんとも無いと思いますし、告白する側も罰ゲームだから、と割り切る事もできるかも知れません。 告白された人からしたらこんなに残酷なことは無いです。 ある日の罰ゲームにて告白をした友人。返事はまさかのOK。実は告白された女の子は近いうちにその友人に告白をしようと思っていたらしく、一つ返事で告白をOK。 しかし小学生の口にチャックなんかある訳もなく、即日罰ゲームであったことが本人にもバレてしまい、別れてしまいました。 友人も実は気になる存在ではあったらしく。両思いであったのに罰ゲームなんかで告白をしたものだから上手くいくはずの二人が上手く行かなくなってしまったのは、幼心に複雑な気持ちでした。 それ以来罰ゲームは身内だけで完結するものがメインとなっていきました。
1974年生まれ

学校の帰り道の「荷物持ちの罰ゲーム」

ももえさん 新潟県 1974年生まれ 女性 私の実家は田舎の方にあったため子どもの数も少なく、同級生に限らず年上や年下の子たちとも一緒に遊ぶのが当たり前でした。 小学生の頃にはやっていたのが、荷物持ちの罰ゲームです。3~4人ほどのグループで下校することが多かったのですが、そのときによくしていました。 まず、みんなでじゃんけんをします。負けた人が全員の荷物をすべて持って歩く、という単純な罰ゲームです。 ランドセルは自分のもの一つだけでも結構重いですし、それに加えて他の子たちの荷物(ランドセルなど)を持つのはかなりの重労働です。 「次の電柱まで」とか「〇〇の家まで」などとそのたびごとにゴールを決めて行っていました。 低学年の子がじゃんけんに負けてしまったときには、距離を短めに設定してあげるなどの配慮も、自然とできていたように思います(たとえば、10歩だけ歩く…など)。 学期末になると、普段は学校に置いたままにしている荷物も、持ち帰ることになるため、荷物の量も増えて盛り上がりました。 田舎なだけに、通学路の交通量もかなり少なく、安全に遊びながら下校することができていました。
1992年生まれ

「ニッペの思い出」ジャンケンに負けたら2本指しっぺ

ハコテンスキーさん 静岡県 1992年生まれ 男性 私の子供の頃の罰ゲームでの思い出は、二の腕にニッペ(指を2本出して叩くこと)をしていました。 最初はゲームで負けた時の罰ゲームとして友達同士で行っていたのですが、次第にニッペをすることだけにこだわりだして、じゃんけんをして負けたらニッペをする遊びに変わるほど、小学生の時にやっていました。 あるときニッペ遊びをしていたら相手の腕を空振り。私の伸びていた爪だけが相手の腕に当たり引っかかりました。相手の腕から血が出るほどの事故が起きてしまったことがあります。 その時私は血の気が引いたのを覚えていますが、その後のことはあまり覚えていません。確か保健室に行って血が出ている手を治療をして、お互いに仲直りしたのだと思います。 それ以降ニッペをすることが減ってしまい。やっても手加減するようになりました。
1977年生まれ

「ドッチボールの思い出」負けたチームは全員 はりつけ死刑の罰ゲーム

ごまおさん 兵庫県 1977年生まれ 男性 小学生の頃、私の小学校では、ドッチボールが流行っていました。休み時間や給食を食べ終わった後には、必ず校庭でドッチボールをして遊んでいました。 当初は、勝ち負けを競うだけの遊びだったのですが、あまりにも熱中していたこともあり、いつしか負けたら罰ゲームを実施するようになっていました。 罰ゲームは「はりつけ死刑」という名前で呼ばれており、負けたチーム全員が、校舎の壁を背にし、手を後ろに組んで一列に並び、勝ったチームが一斉に壁に向かって思いっきりボールをぶつけるという壮絶なものでした。 勝った方の全員が、同時にボール投げるようにするため、体育館からバスケットボールをわざわざ取り出していました。 かなり至近距離からボールが放たれますので、時には顔面にバスケットボールが命中し、鼻血を出す子供がいるなど、かなりエスカレートしていきました。 最初は楽しかったドッチボールも、負け時の罰ゲームが、あまりにも痛くて、恐怖へと変わってきたのを覚えています。 負けると恐怖がまっているので、競技中に些細なことでも(当たった、当たってないなど)喧嘩に発展してしまうことが多...つづき
1956年生まれ

「近所の人ごめんなさい」罰ゲームでチャイムを鳴らす ピンポンゲーム

るーぶさん 東京都 1956年 男性 色々な遊びをして、負けた人が罰ゲームをする。 暗黙のルールが在りました。 遊びは、全て勝ち、負けが在り。 例えば、道路に「ろーせき」で丸を書き、8分割に区切ります。中に「電車を3本見る」とか「即席ラーメンを食べてくる」など、その日に思いついた事を皆で書いていきます。石を投げて当たったことをします。 一番遅く戻ってきた人は負け、当然、罰ゲームが在ります。 当時は、本当に即席ラーメンを作り食べたのです。皆がズルをする事が無いのも、暗黙のルールでした。 その他の、遊びでは缶蹴りや、ドッチボールの敗者。兎に角全てに罰ゲームが在りました。 負けた者の罰ゲームは、当時、はやったピンポンゲームです。 当時は、インターホーンが付いている家は少なく、ややお金持ちの家と言うイメージでした。 みんなで集まり、その日の家を探して回り、1~2軒探し敗者に、覚悟を確認し、勝者は隠れて見ています。 玄関のドアホーンのスイッチを押して逃げてくるのですが、この、スリルがとても面白かったのですが、たまに、全員掴まって怒られる事も在りました。
1993年生まれ

「図書館の本棚から立ち幅跳び」負けたら罰ゲームの思い出

ぽんぽこ7さん 三重県 1993年生まれ 男性 小学6年生の頃に同級生の男子で流行った遊びで、「図書館の本棚から立ち幅跳び」がありました。 本棚といってもそんなに高くはなく2段だけで、安定感のあるしっかりした作りの本棚でした。その上によじ登りそこから立ち幅跳びするのが流行りました。 その時の罰ゲームが最高に恥ずかしい内容だったのですが、それが「ズボンとパンツを脱いで図書館一周」だったのです。 今の時代であれば、保護者絡みの大問題に発展する事ですが、当時は先生にチクる人もおらず、ただ自分達で楽しんでいました。 可哀想なのが、やはり運動神経の優れない子が罰ゲームの対象になりやすくなる事です。 私も運動神経は優れた方では無かったですが、私よりも絶望的に運動ができない子が1人いて、その子がいつも罰ゲームの対象になっていました。 その子もノリノリでやってはいましたが、今思えばイジメに近い行動だったと思います。その子が無邪気で明るい性格でなければ、いじめ問題に発展していたかもしれません。
1999年生まれ

ジャンケンで負けたら「図書委員の女子に声をかける罰ゲーム」

コアラさん 兵庫県 1999年生まれ 男性 これは僕が小学生の時の話です。通っていた小学校の図書室では、図書委員の生徒が本の貸し出しの受付を担当していました。 ある日ほ休み時間に友達と4人で図書室に遊びに来ていました。友達の1人が「ジャンケンで負けたら図書委員の女子を2人きりの遊びに誘おう」という罰ゲームを提案してきました。 僕は絶対に嫌だったのですが、友達が皆参加してるのと、友達が負けて罰ゲームをするところを見てみたい気持ちが勝ってしまい。ジャンケンに参加しました。 僕はジャンケンに負けてしまいました。すぐさま罰ゲーム。図書委員の女子に話しかけに行きました。「あの、今度2人で遊びに行かへん?」としっかり言いました。 少し離れたところから友達のクスクス笑う声が聞こえてきます。すると、女子の返事はまさかのオッケー。断られる気満々で話しかけに行ったので、予想外の返答にびっくりしてしまいました。 罰ゲームで女子を遊びに誘ったのですが、まさかのオッケー獲得で、その後しっかり待ち合わせ場所や日程を決めて、女子と遊びに行くことが出来ました。これが人生初のデートです。 そこからその女子と話す機会も増...つづき
1976年生まれ

荷物持ちの罰ゲームなのにみんな喜んでいた

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 罰ゲームの代表と言えば、じゃんけんで負けたら荷物持ちというものがあります。 遊びの中と言うよりは下校中でのできごとではあるのですが、そういうのをよくやっている子たちはいました。 かくいう私はと言うと、障害があったので「持たせたら可哀想だよ」という理由でハブられていたという感じでした。 私も混ぜて欲しいという気持ちがあったので、寧ろ私にとっては持たせてもらえないということが罰ゲームのように感じました。 しかし、罰ゲームとは言っても荷物持ちをされている子たちがあまり苦痛そうではありませんでした。 人の役に立って寧ろ喜んで引き受けているという印象を受けました。 荷物持たせというのは、いじめのようにやる人たちもいると思うのですが、私の周囲ではそのような感じではありませんでした。 寧ろ罰ゲームをしたいという子が多かったのではないかなと思います。 私は病院からもあまり重い物は持たないようにと言われていたので寧ろこれで良かったのかも知れないです。
1997年生まれ

シーソーで罰ゲームの思い出

かぴばらさん 富山県 1997年生まれ 女性 幼いころ、近くの公園にあるシーソーで幼馴染と遊んでいました。そのシーソーは少し古く「ギーギー」と音がするようなもので、シーソーの両端の着地地点にはタイヤが埋め込まれていました。 そのタイヤの部分の土が大きくえぐれていて、雨が降ったあと5日間くらいは水たまりになります。着地するたびにタイヤが弾み。その影響でその溝にたまった泥水がはねて足がドロドロになりました。 親からすればやめてほしい遊びだとは思いますが、それだけでも幼い私たちにとっては楽しくて、雨のあとによくシーソーで遊んでいました。 ただ学年を重ねるにつれ、服が汚れることへの抵抗が大きくなり、そのシーソーは罰ゲームとなりました。 例えばカードゲームで遊んで負けたほうがシーソーをする。といったような用途となり、楽しい対象からちょっと嫌なものという印象になりました。 現在、そのシーソーは新しいものに変えられ。着地地点のタイヤ部分の溝もきれいになくなりました。今ではいい思い出です。