北海道・東北エリアの人が小学生の頃にした遊びの思い出

1975年生まれ

「映画のチケットを買わされた思い出」公開されることのないホラー映画

南さん 北海道 1975年 女性 小学校の時に、たまに校門の近くで物を売っているおじさんがいました。担任の先生からは、買ってはいけないときつく言われていたのでいつも無視していました。 でも、その日はちょっと違いました。そのおじさんの周りに人だかりができていたんです。私は、いつもみたく無視しようと思っていたのですが友達がどうしても行こうと言うので仕方なく行きました。 すると、おじさんは映画のチケットを売っていました。 それも、聞いた事がないようなホラー映画。チケットには、お化け屋敷に出てきそうな落ち武者が描かれていました。 「1枚50円だよ。どうだい?」 私と友達は、かなり悩みました。他の子供達はほとんど買っています。もし、皆が観て私達だけ観ていなかったら仲間外れになってしまう。そう思ったら、我慢できませんでした。 私と友達は、50円を出してチケットを購入。お小遣いのほとんどを使いました。 でも、結局。その映画は公開されていなかったのです。騙されたショックは、今だに忘れられません。
1975年生まれ

逆にしたら面白くなった「逆じゃんけんの思い出」

紘子さん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校5年生の時に、友達3人とジャンケンで遊んでいました。でも、だいたい、いつも同じ人が勝つんです。これではツマラナイと、1人の子が文句を言いだしました。 トランプなどがないときに出来る遊びって「ジャンケン」か「しりとり」なんですよね。そうしていたら、その中の一人が「逆じゃんけんをしよう」と言いだしたんです。 つまり、グーはパーに勝って、チョキはグーに勝つんです。 たったこれだけのルール変更なのに、すごく複雑になって面白くなったんです。 ジャンケンに強い子も、すごく弱くなって皆が同じレベルになりました。気がついたら、誰が勝ったのか負けたのすら分からないぐらいグチャグチャになりました。 シンプルで遊びやすいジャンケンに、スピードを増したり、ルールを変更するだけで、途端にややこしいゲームになるんです。 しばらくはこの逆ジャンケンにハマっていました。あんなにジャンケンで盛り上がった事は、きっとなかったと思います。
1975年生まれ

相撲大会で好きな男の子を応援できなかった思い出

サユリさん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校の時に、好きな男の子がいました。ガキ大将で、いつも偉そうだったけど優しかったです。私は、本当は仲良くしたかったけど皆の手前そうはできませんでした。 そんな時に、町内の相撲大会にその男の子が出る事が決まったのです。女の子のなかには、横断幕を用意する子がいたり、お菓子や飲み物を差し入れする子もいました。でも、私はその勇気さえなかったのです。 友達の1人が、ガキ大将の事が好きだと言ったんです。だから、皆で応援して欲しいって。私は、自分も彼女と同じようにガキ大将が好きだとは言えずにいました。 結局、彼女の恋を応援する事になりました。相撲当日。私は、心の中で一生懸命応援しました。ガキ大将が勝つ度に嬉しくて、でも切なかったです。だって、ガキ大将は1度も私の事を見てくれませんでした。 結果。ガキ大将は優勝はできませんでしたが、仲間内のヒーローとなりました。そして、友達はガキ大将への告白を成功。私は、告白もできないまま失恋してしまいました。
1996年生まれ

「天井のボールは思い出の象徴」サバイバルドッジをしていて

ぽたち太郎さん 青森県 1996年生まれ 男性 当時の私の通っていた小学校ではサバイバルドッヂというものが流行っていました。その名の通り敵味方の境をなくしたサバイバルのドッヂボールのことです。 内野、外野という境目もありません。人数制限もありません。ただただ、体育館をすべてフル活用した何でもありのドッヂボールです。 アウトになった場合は真ん中のバスケットボール用のセンターサークルの中に入り、サークルの中から外の人(まだアウトになっていない人)に当てれば復活できる。そんな感じのルールでした。 ルールの中にはボールを持った人は3歩以上歩くことは禁止、ドリブルの禁止などもあったと思います。 当然、アウトになっていない人が少なくなってくると、あの広い体育館で移動の制限があるわけですから、当てるチャンスが減ってきます。 そんなときのリセットの合図がボールを天井に高く蹴り上げる行為でした。リセットされると、アウトで真ん中にいた人たちも無条件で全員復活になります。 これをすることでアウトになった人たちからは、一瞬の羨望のまなざしを得られます。もうお気づきかと思います。良かれと思いボールを高く蹴り上げ...つづき
1975年生まれ

「卒業式でわかった真相」体育館の天井のバスケットボール

ひかりさん 北海道 1975年生まれ 女性 私が小学校5年生になった時に、体育館の天井にバスケットボールが挟まってると、ちょっとした騒ぎになりました。先生から、心当たりがある人はいないかと聞かれましたが誰も手を上げませんでした。 でも、噂だけは広がったんです。当時、プロバスケ選手を目指していた男の子がいたのでその子ではないかと囁かれました。でも、その子も違うと言っていました。 そして、いつしか噂はオカルトめいていきました。夜中におばけが置きに行ったんだとか、透明人間がやったんだとか。今思えばなんとも笑ってしまう話しなのですが、当時は真剣に話していました。結局、誰がやったかもわからずに卒業式を迎えました。 すると、クラスでも一番おとなしい男の子がある告白をしたんです。実は、その子こそがバスケットボールを天井に挟めた張本人だったのです。 なんでも、バスケの練習をしていたら何故か天井まで届いてしまい挟まったそうです。その日は夏休みで先生はいなかったため、そのままにしておいただけだったのです。 「皆が、あんまり騒ぐから言えなかったんだよっ」と言って、その子は泣いていました。きっと、彼なりに悩ん...つづき
1994年生まれ

「謎のボールの思い出」謎が謎のまま解けない話

瑠璃さん 北海道 1994年生まれ 女性 自分が小学校に入学したときにはもう既に、その小学校の体育館の天井には、謎のボールが存在しました。 自分の記憶では、それはサッカーボールやバスケットボールではなかったので、おそらくソフトバレーボールだったと思います。 自分は入学してからというもの、体育館に来るたびにそのボールを見上げて、「なんであんなところにボールがあるのだろう?」「一体誰があんなところにボールを引っかけたのだろう?」と考えるばかりでした。 全校集会や行事の時も、あの謎のボールが気になって気になって仕方がなく、多くの人が無駄に長くて嫌いであっただろう校長先生のお話なんかは謎のボールに思考を支配されていた自分には全く頭に入って来ませんでした。 それから年を重ねて高学年になっても、あのボールの謎は解けず、結局卒業式のときもそのボールは天井にあるまま。 「なんであんなところにボールがあるのだろう?」「一体誰があんなところにボールを引っかけたのだろう?」という謎は解けずじまいに終わりました。
1975年生まれ

「転校先の子どもたちと仲良くなれた遊び」石蹴りの思い出

アカリさん 北海道 1975年生まれ 女性 両親の都合で、小学生の時に転校しました。知らない子ばかりで、私にとっては恐怖でしかありませんでした。 仲良くしたかったけれど、声をかける勇気もなく、いつも教室の隅っこにいました。一人っ子で、自分から発言するのが苦手だった私はいつも一人でした。学校でも、家でも孤独な時間が増えました。 そんな時にクラスの女の子から石けりに誘われました。でも、私には石けりが何なのかさえ分からなかったんです。 「このチャンスを逃したら友達ができないかも」と思った私はその子に連れられるままグラウンドに行きました。そこでは、数人の子供達が地面に何やら書いて「ケンケンパ」をしてるんです。 「こうやるんだよ」その子が、地面に書かれた1という数字の所に石を投げ入れて、後はケンケンパをしながら番号順に石を蹴っていくというものでした。私は、見よう見まねで初めて石けりをしました。 気がつくと、他の子供達も集まってきて自然と仲良しになれました。石けりのおかげで、クラスに溶け込む事ができました。
1975年生まれ

「男の子グループに勝った日」草野球の思い出

荘子さん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校の頃。男子と女子は別れて草野球をしていました。男子はいつも広い場所をとっていて、私達女子は隅っこだけ。これでは全然楽しくない。 そこで、女子達が直談判したんです。すると、男子が「野球で勝負だ」と言ってきました。 正直、自信はありませんでした。でも、男子にバカにされたままなんて悔しい。私達は、その勝負を受ける事にしました。 ですが、やはり男子の方が上でした。次々に打たれてしまい、皆悔しくて仕方がなかった。 その時、リーダー格の女の子が皆を一生懸命励ましていました。皆、その言葉に諦めずに頑張りました。 そして、結果は同点。勝てませんでしたが、同点になりました。すると、男子の方も私達を見直したみたいです。翌日から、一緒に遊ぶようになりました。 男の子には負ける事がやっぱり多かったですが、たまに勝つ時もあってその日は大喜びしました。 暗くなるまで、よく遊んだ日々は今でも良い思い出になって残っています。
1984年生まれ

小学生のときの休み時間の過ごし方

ゆうさん 山形県 1984年生まれ 女性 低学年の頃1番遊んでいたのは、”うんてい”です。途中までしか出来なかったことが、全部渡れるようになり、そこから二段飛ばしをして遊んでいました。それから少しの間、誰が何段飛ばしまで出来るか競い合って悔しかったけれど楽しかった思い出があります。 それから、ジャングルジムでも遊びました。高いところに登るのが好きで、よく1番上まで登っていましたが、そのうち飽きてくると、ジャングルジムの中で鬼ごっこをしていました。ジャングルジムなので、逃げるのは至難の業でした。 低学年の時にいじめにあっていた私は、4年生頃になると図書館に入り浸るようになりました。自分が今どんな気分かによって、恋愛系の小説、ギャグ漫画のような小説、歴史の本等、どんな本でも読んでいました。 手書きの図書カードがあり、それが増えていくのが自分の中ではワクワクして、もっと読もうと思っていたのを覚えています。 5年生の頃、近所の年下の友達と一輪車クラブに入って、休み時間に一輪車で遊んだのは良い思い出です。ほとんどの時間を本に費やしていましたが、その頃から私の本好きの始まりになりました。
1988年生まれ

「どこまで入るの」昼休みの時間に校舎に侵入した犬

おさまりんさん 福島県 1988年生まれ 女性 私がまだ小学生の頃は、今とは違い、校門も開けたまま、玄関も開けたままで防犯対策など全くされておらず。今となれば考えられないですが、誰でも入って来れる場所だったかと思います。 でもまさか、それが人間ではなく犬であることは誰も予想しなかったのではないかと思います。 今でも覚えてますが、休み時間にベランダに出て校庭を何気なく見ていました。私が6年生の頃で、高学年は三階の教室でしたので校庭が一望できました。 周りは住宅地、近くに駅があり、でも地方でしたので人口も少なく、とても穏やかな場所に学校はあります。 そんな校庭に、ある一匹の茶色の中型犬がツテテテテ〜と入ってきました。 『え!?』となり、友達と先生に報告し、ベランダにはその犬見たさに皆んな集まる。その犬は慣れているかのように玄関に向かい姿を見失いました。まさか、と思いましたが、その犬は校舎に入ってきてしまったのです。 当時私は犬が嫌いだったので、入ってきて襲われたらどうしよう、どこまでくるんだろう、学校でおしっこしないよね?など、子供ながらに想像しまくりました。 ドキドキしながら待ってました...つづき
1975年生まれ

「皆のアイドル」校庭に迷い込んできた子犬の思い出

マナさん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校1年生の時に、校庭で遊んでいたら子犬が迷い込んできました。 首輪をしていたので、どこからか来た迷子だという事になったのです。私と友達は先生に言おうと言ったのですが、他の子達は言ったら駄目だと言うのです。 「可愛いから、校庭で飼おう」なんて言い出す子まで出てきたのです。子犬はたちまちアイドルになって、皆と校庭を走り回ったり、砂で遊んだりしていました。 私も、犬は大好きだったのですが触った事はなかったため、ちょっと怖かったんです。でも、子犬は本当に可愛くて私もいつしかその子が大好きになりました。 校庭でキャッキャッと遊んでいる声に気がついた先生が見に来たんです。そして、子犬がいる事がわかるとすぐに離れるように言いました。 「この子は、ちゃんと家に帰してあげないとダメだ」先生の言葉に、私達は落ち込みました。 子犬の飼い主は、思ったよりも早く見つかりました。近所のおばあさんだったのです。ほんの1時間ぐらいでしたが、子犬と遊んだ事はいい思い出です。
1975年生まれ

「好きな子に勝って複雑だった遊び」陣取りゲームの思い出

なず菜さん 北海道 1975年生まれ 女性 小学校の頃に、よく友達と放課後のグラウンドで陣取りゲームをしました。その時に好きな男子もいて、かなりドキドキしていました。 私は元々陣取りゲームに弱くて、いつも負けてばかりでした。 ですが、なぜかこの日に限って勝ってしまったんです。すると、好きだった男の子にすごい目で睨まれてしまいました。 なぜなら、その子は陣取りゲームで負けた事がなかったのです。世ほど悔しかったのか。一言もないまま、その子は帰っていきました。私は、嫌われたのだと思いかなり複雑な気持ちになったのです。 その数日後。その男の子から、もう一度陣取りゲームをしようと言われました。 私は、今度こそ負けなきゃ負けなきゃと思っていたのですが、なぜか勝ってしまったんです。結局、またもやその男の子からライバル視されてしまって、本当に哀しかったです。 でも、そのおかげで、毎日のように遊びに誘ってもらえて嬉しかったです。 陣取りゲームは、私の淡い初恋の一部となったのです。
1965年生まれ

「懐かしの昭和の外遊び」指で小石を弾く陣取り遊び

ぷにおんさん 福島県 1965年生まれ 女性 あの頃、子供達は外で遊ぶのが当たり前でした。なかでも一番の遊び場は神社の境内でした。社務所も無く宮司さんも不在の田舎にある小さな神社です。 鳥居をくぐり階段を登り切った先に狛犬と土俵と社が。その背後には森があります。木登りやターザンごっこ、かくれんぼ、陣取り遊びと色々な遊びが出来ます。 当時、小学校低学年の女の子の私には、体力差も関係なく勝負ができる陣取り遊びが好きでした。 ルールは簡単。小石を指で弾いて飛んだ先までを線で引き、3回目で元いた場所まで上手く戻れれば線で囲んだエリアは自分の陣地になります。 小石の弾き加減や狙い通りのところへ飛ぶ小石選びの見極めが難しいですが、 運が良ければ上級生にも勝つことが出来ます。 田舎のレトロなとても懐かしい思い出です。
1964年生まれ

「ほぼ詐欺だろ!」ベーゴマの思い出

YOWAIZOさん 青森県 1964年生まれ 男性 初めてやったのは小学校1年の時だったと思います。当時はメンコが激烈に流行ってりましたが、少し上の年のお兄様方の間では、ベーゴマも流行っていました。 メンコに比べてベーゴマは大分高価であったため、小学1年の自分には手が出せずにいました。 ところが家族で街に食事に行った時に、酒に酔った父が程度のいいベーゴマを買ってくれました。ただし、家の中で自分だけで遊ぶという条件付き。 憧れのベーゴマを手に入れた自分は、うれしくなっていつもポケットに忍ばせておき、取り出してはしげしげと眺めておりました。 そこを目ざとく見つけた上級生のお兄様の一人が「教えてやるよ」と近寄ってきて、丁寧に紐の巻き方など教えてくれました。 そして試しにやってみようという話になり、実際に手合わせしたところ自分が勝ってしまいました。その時はタイマンだったので、1個手にいれたわけです。 その日はそれで終わり、また明日ということになったのですが、その日の晩はうれしくてうれしくて寝付けませんでした。もちろん家族には内緒です。 そして運命の次の日になったのです。ここまでくれば予想がつく...つづき
1997年生まれ

校内かくれんぼ

らーんさん 北海道 1997年生まれ 女性 小学生の頃、クラス15人くらいで、放課後、校内を貸し切ってかくれんぼをしました。 学校が3階建てで一階には体育館や保健室に理科室。2階には教室やpc部屋。3階に教室や化学室など様々な部屋がありました。 鬼が4人と逃走者11人くらいでやりました。 5分数えてから鬼が探し始めました。 ドキドキワクワクでした。 どこに隠れるかと色々考えて、3階の化学室のさらに扉を開けた先生の部屋に隠れました。 足音が聞こえて、ドキドキしたけれど、そのままスルー。 10分ほど乗り切りました。 20分ぐらいすると次々に同じ階に隠れていた人たちの騒ぎ声が聞こえてきます。 きっと捕まったのでしょう。 そう考えるとドキドキとして鼓動が聞こえてくるくらいでした。 そして30分ほどすると、『あとらーんちゃんと○○ちゃんくらいじゃない?』と鬼の声が聞こえました。 鬼が化学室に再び入ってきました。『いらんでしょー!出てきなー!』との声も聞こえ、扉を開けられ、見つかってしまいました。 滅多に出来ない経験、とても楽しかったです。
1989年生まれ

「安心出来る場所だった」砂場で遊んだ思い出

ガウチョさん 北海道 1989年生まれ 男性 子供のころは、今のように遊具が危険扱いされておらず、どんなに小さい公園でも滑り台にブランコ、ジャングルジムや雲梯などが置いてありました。 活発な友達にとってはそういう遊具で危険な遊びをするのが流行っていました。ジャングルジムの上に立ったり、球形遊具でできるだけ早く回ったり…。 友達と一緒の空間で遊びたい癖にそういう遊びには混ざっていけなかった自分にとって、砂場遊びは心の救いのようでありました。 小さなバケツを持っていき、水飲み場で水を汲んでは砂を固め、積んで…高い塔や城のようなものを作れば一目おかれました。それをやっている間は当然他の遊びに混じる必要はありませんでした。 エスカレートしていく遊びに入ってケガをするのが何より恐ろしかった私は、小さな砂場で何か熱心にやっている…という体で自分を守っていました。 まあ高学年になるにつれそれも通用しなくなり、屋外遊びができないなら来るな、という雰囲気になってしまってからは行っていないのですが…小さい頃はよかったです。
1986年生まれ

雨上がりの砂場でお気に入りのスカートを汚してしまった思い出

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 小学1年生の頃だと思います。雨上がりに、砂場の砂が渇いていない状態で遊んだことがありました。 そういう時は水をわざわざ持ってこなくても泥団子を作るのにはぴったりなのです。 泥団子を作っても何もすることはないのですが、泥団子を作るのが楽しかったのです。今思えばおにぎりを作る練習にもなっていたような気がします。 苦い思い出になってしまうのですが、その時私はお気に入りのスカートを穿いていました。 お尻が付かないように、しゃがんで砂場遊びを楽しんでいたのですが、ついお尻をついてしまい、お気に入りのスカートを汚してしまいました。 パンツまで砂と泥で汚してしまいショックでした。本当に気に入っていたので、あの時のスカートをハッキリと覚えています。 それから雨上がりに砂遊びはしないようになりました。
1986年生まれ

「棒倒しを遊んだ」砂遊びの思い出

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 幼稚園の頃は砂場で遊ぶのは好きでしたが、小学生になるとあまり遊ばなくなりました。なぜなら小学生になると汚れが気になるようになったからです。 小学校の砂場で遊んでいたのは低学年くらいまでだったと記憶しています。 私は女の子としか遊ばなかったのですが、普通に砂山を作ったりしました。 棒倒しもしました。砂山を作り、順番に砂山の周りをなぞるようにして崩していきます。それで棒を倒してしまった人が負けというゲームです。 私の周りはお兄さんお姉さんのいる子が多かったので、その子たちが教わったものを継承したのかも知れないです。
1991年生まれ

「ジャングルジム鬼ごっこ」の思い出

葛さん 岩手県 1991年生まれ 女性 ローカルルール、というほどでもないのですが、ジャングルジムと鬼ごっこを組み合わせた「ジャングルジム鬼ごっこ」でよく遊んでいました。 ネーミングはそのまんまなのですが。ルールは簡単で、鬼を決めてジャングルジムを登り回り、タッチされたら鬼を交代するというものです。 ちなみに地面に足がついてしまったら強制的に鬼になります。 今思うと何故地面でできるものをわざわざジャングルジムでやらにゃならんのだ、という感じです。 ただ当時は、ジャングルジムという非常にハンデのある状況で鬼ごっこをすること、自分のフィジカルが存分に試される状況にあるスリルを楽しんでいたのだと思います。 とはいえ、足があまり早くはなかった私にとって、狭い範囲での鬼ごっこは他の友人と同等に、つまり同じリングに立って対等に戦えることは楽しかったように感じます。 残念ながら、白熱しすぎた友人の一人が落下して前歯を折り、それからジャングルジム鬼ごっこはお蔵入りになりました。
1986年生まれ

ジャングルジムに登ろうとチャレンジ

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 私は身体障害があったので、ジャングルジムに登るという行為はとてもハードルが高くて、リスクもある行為でした。 幼稚園の頃はカラフルなジャングルジム。小学生になると普通の可愛くないシルバーのジャングルジムがありました。 そして幼稚園の物と違うのは明らかに高さがあるということです。 それでも子供なりに、他の子と同じように近づきたいという気持ちが強く。少しだけですがの登ったりしました。 もちろん怖くて上の方まで行くことはできないのですが、自分なりに少しでも登ったときは達成感があったような気がします。 私の体のことを知っている子たちは、無理しなくて大丈夫だよとか気遣ってくれたことが嬉しかったです。 もちろん無理をすることはありませんでした。登ったけれど降りられなくなってしまったら大変ですからね。 でも一度でいいから一番上まで登ってみたかったです。
1986年生まれ

ジャングルジムでの痛みと楽しさ

べこさん 宮城県 1986年生まれ 女性 ジャングルジムで思い出すのは、思い切り頭をぶつけて悶絶した記憶です。 学校の休み時間に友人たちとジャングルジムで遊んでいました。もうすぐ休み時間が終わると、皆が次々と離脱していくのに、私も慌てて続こうとしたときです。 運動神経が悪く素早く動けない私は、焦って身を乗り出し、丁度頭上にあったジャングルジムの枠に頭を激突! ぐわんと頭に衝撃があって、しばらく悶絶していました。友人たちはすでに誰もいなく、ひとり痛みと闘う私…。 痛さと寂しさが染みましたが、今思うとくすっと笑えてしまうエピソードです。 そんな痛い思いをしても、懲りずにジャングルジムで遊ぶのが大好きでした。 縦にも横にも動ける迷路に迷い込んだような楽しさがあって、そして何より、頂上からの眺めは最高です。 友人たちと駄菓子を持ち寄って、ジャングルジムの枠に駄菓子が入った袋をくくりつけて、少しずつ取り出しては、おやつタイムを楽しんだこともあります。 この歳になっても、あの時のわくわくした気持ちをまた味わってみたいな、なんてしんみり思うのでした。
1975年生まれ

いじめっ子から守ってくれたガキ大将の思い出

まみさん 北海道 1975年生まれ 女性 ガキ大将というのは、簡単に言うと近所の子達のリーダーでした。威張っていたけど決して傍若無人ではありませんでした。 私は、子供の頃は小柄でいじめっ子からよくからかわれていました。 その日は、初雪が降ったとても寒い日でお気に入りの毛糸の帽子を被っていたんです。 そうしたら、公園でいじめっ子達に見つかってしまい。追いかけられて帽子を取られて、私は半べそをかきながら歩いていました。 そのとき、ガキ大将の男の子が気がついて走ってきたんです。私が事情を話すと、その子は何も言わずに走っていきいじめっ子達から帽子を取り返してくれました。 6歳の私にとって、10歳のガキ大将はとてもお兄さんに感じたのです。それから、ガキ大将がいる時は安心して遊べました。 ガキ大将というと、いじめっ子のイメージを持っている人もいますが、そんな事はありません。弱い子にはとっても優しかったです。だから、どんな子でも一緒に遊べたのでないかと思います。
1968年生まれ

ガキ大将とカブトムシの幼虫の思い出

ポーちゃん 宮城県 1968年生まれ 女性 私の住んでいる地区には同級生は3人しかいませんでした。 気が合わなくてもだいたい3人で遊んでいました。 3人のうちの1人が、体も大きく態度も大きく常に主導権を握っている人でした。 その子はいつも弟を従わせていました。 私は何かあるとすぐに頭をパカパカたたかれていました。 遊んだあとに泣いて家に帰って頭をたたかれたと母に訴えることが何度かありました。 たまりかねて母は、相手の親に苦情を言いに行ったことがありました。 その後、何事もなかったように誘われて私はその子の家に遊びに行きました。 その日は普通に遊んでいましたが、その子は弟に「あれを見せてやったら?」と何かを持ってくるように命じました。 庭から何かを持ってきた弟は私にそれを見せました。 それは大きく成長したカブトムシの幼虫でした。 虫が苦手な私はぎゃーっと泣きながら逃げました。 弟は面白がって追いかけてきました。 それをその子は大笑いしながら見ていました。 それ以来私はその子の家には行かなくなりました。 学校でもその子は親分でした。 中学に入るとヤンキー仲間の中心にいました。 その精神は小...つづき
1984年生まれ

「友達から映画鑑賞へのお誘い」遊びに誘われたつもりが 遊びではなかった思い出

ポンさん 秋田県1984年生まれ 女性 元々いじめられていた友人たちに「映画を見に行こう」と誘われました。これでいじめられなくなる?仲良くなれる?そう思った私は一緒に行くことを選びました。 当日待ち合わせ場所へ行き、映画館へ行き、座席につこうとしたら「チケット落としたから拾え」と言われて拾いました。 言い方から、仲良くしてくれるわけじゃないんだなと、思いながらも映画のチケットを買っていたので仕方なく、その場に残ることにしました。 そして映画が始まるまで飲み物を買いに行かされたり、私がさもいないかのように会話に入れようとしてくれず。席もはじっこに座ってました。 映画が終わり、やっと帰れると思い。少しほっとしていると「ちょっとお店見て回ろうよ」と友人たちが言い。お店を歩いていました。 すると「これ見てよ」と友人たちに言われたので、それを見ていると「ばーか」といって友人たちは走って私たちから離れていきました。 やっぱりこの人達とはなかよくなれないんだなと思い。悲しくなり、そのまま帰路につきました。
1996年生まれ

「復讐を誓った日」雪山の上から無理矢理ソリを押された思い出

まりもさん 北海道 1996年生まれ 無回答 私は小学生の頃、北海道のド田舎で暮らしていました。田舎だけあって人口も少なく、1クラス10人の小規模な学校に通っていました。 当時クラスの中で特につるむ二人の友達がいました。二人の性格は、A子が正義感があり優秀な人気者タイプ。B子は、意志が強くわがままなタイプ。 私はというと周りがわがままな子、個性強めな子が多かったため、みんなを繋ぐムードメーカー的な立場をしていました。 毎日学校から帰ると二人の友達と遊びます。ある日B子の提案で雪山でソリ滑りをしようということになりました。 3人でマイソリをもって雪山に集合し、いつものようにソリ滑りを楽しんでいたのですが、、、。 B子がいきなり斜面に頭をむけソリで滑ろうよ。といいだしたのです。 私は嫌な予感がしました。 その予感は的中し、B子は私にやってみろと突然命令してきました。 私は危ないので必死に拒否しましたが、二人に無理やりそりにのせられました。⁠A子は普段正義感はあるものの、面白いことには正義感は関係ないタイプです。そこがB子と意見があっていた様子でした。⁠ その時雪山の下には大きな一本の木があ...つづき
1968年生まれ

「ある日突然」みんなで1人を無視をする遊び

ローラさん 宮城県 1968年生まれ 女性 小学校6年の頃、いつも5人くらいの仲良しグループで遊んでいました。そのグループは、クラス内で優等生で教師からいつも可愛がられている女子を目の敵にしていたグループでした。教師からは嫌われていました。 でも、皆そこそこの成績をとっていたので教師もかなり扱いにくかったと思います。そのグループ内で、おそらく私が一番成績が良かったと思いますが、リーダーではなく、参謀的な存在でした。 ある日の朝、登校すると教室内の空気がよそよそしくいつもと違う感覚がありました。友達に話しかけても視線を合わせてくれません。いつものグループで私に声をかける人はいませんでした。 その日を境に小学校卒業までの私は無視をされつづけることになりました。 とりあえず違うグループの人達に仲間にいれてもらったものの、どこか心に壁がありました。 修学旅行などはどん底のメンタルだったのでほとんど覚えていません。 いじめは無視だけでした。それでも私は毎日学校へ通うのがとても辛かったです。1年ほど耐えて考えて、その無視の理由をどうしても確認したくなりました。 陰でこっそり、話しをしてくれそうなグ...つづき
1976年生まれ

荷物持ちの罰ゲームなのにみんな喜んでいた

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 罰ゲームの代表と言えば、じゃんけんで負けたら荷物持ちというものがあります。 遊びの中と言うよりは下校中でのできごとではあるのですが、そういうのをよくやっている子たちはいました。 かくいう私はと言うと、障害があったので「持たせたら可哀想だよ」という理由でハブられていたという感じでした。 私も混ぜて欲しいという気持ちがあったので、寧ろ私にとっては持たせてもらえないということが罰ゲームのように感じました。 しかし、罰ゲームとは言っても荷物持ちをされている子たちがあまり苦痛そうではありませんでした。 人の役に立って寧ろ喜んで引き受けているという印象を受けました。 荷物持たせというのは、いじめのようにやる人たちもいると思うのですが、私の周囲ではそのような感じではありませんでした。 寧ろ罰ゲームをしたいという子が多かったのではないかなと思います。 私は病院からもあまり重い物は持たないようにと言われていたので寧ろこれで良かったのかも知れないです。
1991年生まれ

かっこいいローラースケートの思い出

ままんごさん 岩手県 1991年生まれ 女性 なぜローラースケートを欲しがったのか、今になって当時を振り返っても良く分からないのですが、なんとなく「他の子供たちが持っていなくてかっこいいな」と思ったのがきっかけだったと思います。 ローラースケートを持っていると友達に話しても、友達たちは持っていなくて、「何それ?」と馬鹿にされたり、言われたりしたのを思い出します。 私が住んでいたところが田舎という事もあり、あまりローラースケートが浸透していなかったように思えます。 それでも毎日学校から帰ってきては外に出て、ローラースケートで遊んでいました。特に大技などは出来ませんが、姉と一緒に良く遊んでいました。 最初はうまく滑れずに、転んでは膝をぶつけて嫌にもなりましたが、めげずに練習を重ねて滑れるようになったときは、とても嬉しかったです!!
1991年生まれ

子どもの頃にした シーソーの危ない遊び

ままんごさん 岩手県 1991年生まれ 女性 今も公園に行けばあるシーソー。散歩をしている時に見かけると、小学生の時に友達と一緒に遊んだことを思い出します。 シーソーで遊ぶときに友達としたのが、一人シーソー(一人でシーソーを動かす)をして遊んだり、やってはいけないと思いながらも当時は友達とはまっていたのがシーソーの真ん中にある支え?の部分に乗って、本来の遊びではない遊びをしたことです。 当時は今みたいに危険なものを避けて遊ぶという事がなく、危険な遊びが大好きだった小学生でした。怪我をしてもまたその危険な遊びを繰り返していたことを思い出します。 後は思いっきりジャンプをしてシーソーで相手を上にあげたりしました。シーソーの下にあるタイヤに、友達が上に上がったタイミングで足をおき、降りてくるタイミングで足を離すなんて遊びをしていました…。絶対に良い子は真似してはいけない。 シーソーをしている時のあの上に上がるふわっとする瞬間が好きで、友達とワイワイ遊んだ事がとても楽しかったです。
1986年生まれ

実は怖かったシーソー遊び

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 子供というのはシーソーが大好きだと思いますが、私はどちらかというと苦手でした。苦手ではあるものの、どうしても友達との付き合いで幼稚園の頃や小学生の頃に遊ぶことがありました。 小学校にシーソーがあったかどうかは記憶にありませんが、幼稚園の頃にはありました。私はシーソーをしても基本的に長続きしません。 私は凄くガリガリに痩せている子供で、シーソーをすると必ず私の方が上の方に上がってしまいます。体重の重い子が相手だと、高くなってしまい非常に怖いという気持ちが強かったです。 私は身体に障害もある子供で普通の健常児たちと一緒に遊んでいたので、シーソーはちょっとした恐怖でした。テンポよくシーソーをしている子たちを見ると羨ましくなりました。 痩せすぎていて肉がない為にガッタンゴットンとなる度にお尻がめちゃくちゃ痛かった思い出があります。
1986年生まれ

身体に障害があっても立ち漕ぎが出来て嬉しかった箱ブランコ

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 小学生の頃団地に住んでおり、坂を少し下ればすぐに公園がありました。広さはかなりあるものの、遊具そのものは少なく。普段はお年よりがゲートボールで遊んでいます。遊具はブランコくらいしかありませんでした。 頃放課後に遊びに行って、先客がいると箱ブランコには乗れません。運よく乗ることができたらラッキーみたいな感じでした。 小学生でも上級生が遊んでいたら、上級生に譲らなければならないという暗黙のルールもありました。 乗れた時はとても嬉しくて、特別なことはせずに普通に乗ることが多かったのですが、私は立って横に立ちこぎをすることが好きでした。 私は身体に障害があり、普通のブランコだと立ちこぎができません。 しかし、箱ブランコはしっかりしているので立ちこぎもしやすく嬉しかったです。調子に乗って早くこいだりもしていました。 ただ、残念なことに今現在その公園はまだありますが、あの思い出の箱ブランコは撤去されて、倉庫みたいな物が設置さています。なぜなくなってしまったのかは分からないですが寂しいです。
1985年生まれ

「危険な遊び」箱ブランコの立ち漕ぎ

つぼたさん 北海道 1985年生まれ 男性 小学生の頃、よく遊びに行く公園に箱ブランコがありました。普通のブランコや滑り台、ジャングルジムなどの遊具がありましたが、よく遊んでいたのが箱ブランコでした。 乗っている人が足を踏ん張るように漕いで遊んでいましたが、誰かが始めた骨組みのところに手をかけて外側から足で箱ブランコを押すという遊び方で遊んでいました。 足で押すと勢いよく揺れます。限界まで揺らすとブランコの骨組み同士が当たり「ガッタン」と音がして中に乗っている人は少し浮くぐらいの振動がきます。とてもスリルがあり、楽しく遊んでいた思い出があります。 当時の自分たちは箱ブランコのことを「ガッタン」と呼んでいました。 当時は楽しく遊んでいましたが危ないことも何度かあり、足で漕いでいる人が足を滑らせて落ちてしまったり、中に乗っている人が衝撃に耐えきれず外に飛び出してしまったりしました。今思い出すととても危険で、よくケガをしなかったなと思います。
1989年生まれ

かまくらの思い出

ひえんさん 山形県 1989年生まれ 女性 私の住んでいる地域は豪雪地帯で、家の回りには背丈を越えるほどの雪が積もっていました。 小学生の頃、父の提案でかまくらを作ることに。作り方は簡単で、固めた雪に穴をあけるだけです。私と弟はさっそく雪山に登り、足で雪を踏み固めていきました。穴を掘るのは父の仕事。 今では考えられませんが、当時は雪がしっかり固まってさえいれば上に登って遊んでいても怒られなかったのです。 雪は柔らかい部分と固い部分があって、弟は時々柔らかい部分にはまって動けなくなってしまうので、ドキドキしながらの作業でした。 穴を掘るのも結構な重労働です。朝から始めて、完成したのは夕方だったように思います。父は凝り性で、ただ雪山に穴をあけるだけでなく、雪でテーブルと椅子、ランタンを置くための小さな棚まで作っていました。 「雪で作ったのだから寒いはず」と思っていたのに、かまくらの中は暖かくて驚いたことを覚えています。 その日の夕食はかまくらの中で焼肉。当然、その熱で雪が溶けて頭にポタポタと降ってくるのですが、それすらも家族の楽しい思い出になりました。
1986年生まれ

一番乗りで積もった雪に足跡を付ける地味な遊び

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 あまり雪の降らない地域だったので、小学生の頃と言ったら少し雪が積もっただけでも大騒ぎな状態でした。 これは遊びのうちに分類されないかも知れませんが、真っ白な新雪に誰が最初に足跡を付けることができるのかという、謎の暗黙のルールのゲームみたいなものがありました。 まだ誰も足跡を付けていない場所に一番最初に足跡を付けるのは気持ちが良いものです。 登校中の道もそうですが、学校の敷地内でも同じです。休み時間などにまだ誰の足跡が付いていない所を狙っては、自分が足跡を付けるのは凄く快感です。 小学生の頃にやっていたことではありますが、実は大人になった今でもたまに雪が積もった時に、一番乗りで足跡を付けたいという気持ちが強くなります。一人で足跡を付けて喜んでしまっている自分がいます。 いい歳をしてちょっと恥ずかしいですが、子供の頃の地味だけど楽しい、雪が積もった時の遊びが忘れられないからだと思います。
1968年生まれ

ミニスキーの思い出

バームクーヘンさん 北海道 1968年生まれ 女性 小学校2年生の夏に北海道の両親の故郷に引っ越しをすることになりました。横浜生まれの私にとっては、この北海道の小さな町で過ごした半年間は、かけがえのない思い出です。 特に冬になると、今までに見たことのないような雪が毎日降り続けました。母が、ミニスキーというものを買ってくれました。それは、長靴に装着するプラスチック製の短い板です。 スキーと違って、ストックなどは必要ありません。道の両側には、除雪車によって大きな雪の山が出来ていました。私は、ミニスキーを長靴に付けると、その山を登って何度も滑りました。雪の山を滑る楽しさに、私は虜になってしましました。 学校から帰ると毎日、毎日ミニスキーで遊びました。私が住んでいた家は、日本海に面していたので、強風と恐ろしいほどの波を見ながらミニスキーで遊び続けました。 ある時、子供の私は何を思ったのか、家の屋根からミニスキーを滑ってみたくなり、自分でも登れる場所を見つけて滑りました。 するとその家を借りていた大家のおばさんが慌てて、外に飛び出してきて、こっぴどく怒られてしましました。普段は優しいおばさんが、...つづき
1989年生まれ

おばあちゃんの家での雪遊び

mqqsさん 山形県 1989年生まれ 女性 私は東北の出身で、祖母の家は山形にありました。長期休みは母の運転する車に乗り、よく遊びに行っていました。 冬になると膝までかかるくらいの雪が毎年積もり、私を含め兄弟は祖母の家で遊ぶことが何よりの楽しみでした。柔らかくしっかりした雪は雪だるまやかまくらを作るのに最適です。 雪国には大きなシャベルやスコップは常備されているので土台は簡単に作れます。家の周りや庭の雪をかき集め、兄弟と完成させました。 雪だるまには庭の赤い木の実を目にして、駐車場の石を口にしました。 かまくらは穴をあけるのが難しいので祖母にお願いし、子ども一人入れるくらいのものを作るのがやっとでした。 東北ではなかなか雪が溶けないので、作った雪だるまやかまくらは数日残ります。 誰が一番大きなつららを取れるか、大きな雪玉を作った人の勝ち、など遊びは尽きませんでした。 とにかく楽しくてあっという間に時間が過ぎましたそ、疲れも感じませんでした。東北ならではの雪の楽しみ方だと思います。
1980年生まれ

変則ルールの雪合戦

カメットさん 山形県 1980年生まれ 男性 雪遊びの定番といえば雪合戦。皆でワイワイと楽しんだ人もいるでしょう。私が小学生の頃、変な雪合戦が流行り、ちょっとした恐怖とスリルを味わいました。 その内容はシンプル。雪玉十個の内の一個に氷の欠片などを入れる、と言うもの(良い子は真似しないでね)。ただの雪玉よりよく飛び、何より当たった人は「痛え!氷入りだ!」などと騒ぐと皆それだけで笑い転げたものでした。 しかし、皆段々とエスカレートして「十個に一個」というルールが破られ、殆どが氷入りの雪玉になり、時には氷をそのまま投げる者まで現れました。流石に不味いと思った者もいて、学校の先生に相談したようです。 全校集会の最後に校長先生が「雪合戦の雪玉に氷を使わない様に」と付け加えました。このスピーチは仲間の間で長く語り継がれる事となりました。
1994年生まれ

お人形の家作り遊びの思い出

瑠璃さん 北海道 1994年生まれ 女性 その遊びを始めたのは小学生時代です。私は学校の成績は悪くない上にしっかりと宿題も提出する児童でした。 今となっては恥ずべきことでもないのですがゲームが好きで、しょっちゅう親との約束の時間を破ってゲームをし続ける悪癖がありました。 そして親によってゲーム禁止を言い渡され携帯ゲーム機は隠されました。当然親に怒りと憎悪を抱き、ゲームが出来ない悲しみと辛さを味わいました。 そんなある日、私の目に小学校に入学する前から集めていたミニチュア家具や、友人の母が作ったカラフルに彩られた小さな箱が目に入りました。私は何の気無しにそれらを使って、組み立てて、小さな家のようなものを作りました。 それから私はもっと大きな家を作ろうと、他にも使えそうな物はないかと探してみたり、友達が遊びに来た時に説明して、もっと大きな家を作る知恵を集めて大きな家を作ることに成功しました。 ゲームが手元に戻り、禁止が解除されてからも、私はゲーム禁止中に出会った家作り遊びを気に入ってしまい。やがて母にすごいと褒められるようになりました。 今でもその記憶は残っています。何処に何を置くかを考え...つづき
2004年生まれ

昔の思い出 ブランコのボール当て

くうきさん 山形県 2004年生まれ 男性 私が小学生の頃ブランコに乗る人と、ボールを投げる人に分かれて、ボールを当てられたら投げ手と交代する遊びをやっていました。 これをやり始めたのは小学4年生のころ、友達がいきなり「なぁなぁ、新しい遊び思い浮かんだけどみんなでやろうぜ!」と言い始めたことから始まりました。 最初にやった時は足でサッカーボールを蹴ってやる遊びでした。 しかし、蹴ったボールをうまくコントロールができず変なところに行ったり、怪我をしかけたりする人が出たことから、近所の人に学校へ報告されてみんなで怒られました。 結果、先ほども言った通り「手で投げて体のどこかに当てれば交代」みたいなルールになり、危険な要素が少し薄れながら面白い遊びが生まれました。 手投げのボールを交わすためにブランコで回って回避する、派生型の遊びも生まれました。
1968年生まれ

お手玉と祖母の思い出

harukiさん 宮城県 1968年生まれ 女性 お手玉と言って思い出すのは祖母です。私の祖母は厳しい人でした。 いつも正座しなさいとか、雑巾の絞り方があまいとか、家でも敬語を使いなさいとか細かいことを日頃から注意されていました。小さい時には従っていたけれど、小学生の頃には時に反発していました。 祖母は縫物がとても上手な人でした。お人形の着物を縫ってくれたりしました。お手玉も綺麗なちりめんの布で縫ってくれ。中身は小豆だった思います。 私はお手玉ができませんでした。お手玉でうまく遊べなくてたちまち不機嫌になりました。そんな様子を見て祖母はお手玉のお手本を見せてくれました。見たからと言って、すぐにできるものでもありません。 苦労してやっとコツをつかみ、2つは使えるようになりました。すると祖母は3つでうまく遊んでみせました。私は何度チャレンジしても3つでは遊べず。あらぬ方向へ飛ばす始末。それを祖母は笑って見ていました。 祖母と遊んだ記憶はそれしかありません。好きでも嫌いでもなかった祖母。あまり思い出らしい事がなかった中でお手玉は数少ない良い思い出かも知れません。
1989年生まれ

今も昔もブランコは人気遊具

たまねえさん 北海道 1989年生まれ 女性 実家の近所にある公園で、必ず遊んだのがブランコです。いつも人気で、上級生が遊んでいるといつまでも待たされてしまい、乗れないまま夕方になってしょんぼりしながら帰宅したこともありました。 遊べたときは友達とどこまで高く漕げるかを競ったり、ブランコの二人乗りをしたり、ブランコに乗りながら靴を飛ばして遊んでいました。 危なかしい遊び方もしたと思いますが、当時はブランコで遊べるだけでとてもテンションが上がり、楽しかったです。 そこから5〜6年経って、高校生や専門学生になったころ、久しぶりによく遊んだ公園へ行くと、ブランコがとても小さく感じました。座ってみると、お尻がピチピチ状態でだいぶきつくなっており…ある意味での成長を実感させられました(笑)。 現在は子どもも生まれ、よく公園に遊びに行くのですが、やはりブランコは人気者。子どもたちが列をなしています。 いつの時代も人気遊具として鎮座し続けるブランコってすごいなあと思います。
1984年生まれ

神社の公園にあった ぶらんこの思い出

ゆうさん 山形県 1984年生まれ 女性 小さい頃、祖母の家のすぐそばに、公園のある神社があって、よくそこで遊んでいました。 そこに行くまでに長い階段があり、妹や従妹と「グリコ」をしながら登り、公園につくと一目散に公園にある2個のぶらんこの取り合いをするのがお決まりでした。 最初は普通に漕ぎながらたわいもない話をしていたのですが、段々時間が経つと立ち漕ぎをしたり、勢いをつけてどこまで漕げるかを競い合ったりしました。 「〇〇ちゃんより私の方が漕げるもん」なんて言いあいをしたりもしました。 それにも飽きてくると、今度は靴飛ばしで競い合うのが恒例でした。どこまで飛んだか土の上に石で線を引いて、「〇〇ちゃんはここ!」「私はここ!」なんて言い合いながら、日が暮れるまで競い合うことが度々ありました。 そして、母に「そろそろ帰ってきなさい」と言われると、また長い階段を「グリコ」をしながら帰るのでした。 とても懐かしいですが、今思うと怖くて出来ない漕ぎ方をしていたなぁと思います。 本当に空に飛んでいきそうなくらい漕いでいた。その時に見た空は凄く綺麗だったことを、今でも覚えています。
1990年生まれ

綺麗だったもの おはじきの思い出

ぺんぺんさん 青森県 1990年生まれ 女性 おはじきってヒラっぺったい透明なガラスの中かに色のついたガラスが混じり合った形の少し重たいやや楕円形のものじゃないですか。プラスチックだったかもしれません。小学生の時に遊んだのでよく覚えていません。 唯一、覚えているのはそのおはじきをおはじきにぶつけてテーブルの上に残ったおはじきは勝ち、みたいなことをして一人であそんでいました。 おはじき達をテーブルの上に並べて、まずは先に弾くおははじきを決めます。おはじきを決めると近くにあるおはじきをめがけて人差し指でそっと弾きます。間違えてテーブルから落とした場合は別のおはじきからスタートさせます。 弾き終えたらまたテーブル周りのおはじきを拾いまた繰り返します。そうやって時間がくるまで一人で永遠と遊んでいました。 おはじきは透明な部分がキラキラしていて、色がついてる部分は透けて、向こう側の世界が透けて見え、まるで別世界のようで何度眺めても飽きませんでした。 色んな色があり、色んな世界が見えて、私にとって異世界に迷い込んだかのようでした。
1963年生まれ

小学校の昼休みに遊んだ おはじき遊びの思い出

ナオミさん 青森県 1963年生まれ 女性 おはじきと言えば、小学校の昼休み時間にクラスのみんなで遊んだ思い出があります。その頃は何故かおはじき遊びが大流行していて、みんな一人ひとり自分のおはじき入れを学校に持って来ていました。 遊び方はシンプル。何人かで机の上に自分のおはじきを数枚出し、ジャラジャラとランダムに混ぜたおはじきの中から、ひとつのおはじきをもうひとつのおはじきに人差し指か親指の爪ではじいて移動させます。 その移動させた二つのおはじきの間を、別のおはじきをまた弾き飛ばしてくぐらせたら、そのくぐらせたおはじきは自分のものにできるというものだったと思います。 学校の机の上は思ったよりもすべりが悪く、指先で弾いてもけっこう進んでいかなくて、途中で止まったりすることもありました。そうすると次の順番のひとに取られたりして、なかなかスリリングな遊びだったと記憶しています。 あまりにも流行って学校中で昼休み時間におはじきをする人が多く。おはじきのやり取りでトラブルが起きたりして、おはじき遊びは禁止になってしまいました。
1997年生まれ

ビー玉キラキラ

からさん 北海道 1997年生まれ 女性 夏になるとお祭りなどでビー玉すくいが開催されます。小学校低学年の時に必ず友達4人と一緒に、限られたお金の中でビー玉すくいをしました。 一回に6個くらい手に入ったはずです。それをお祭りが開催される時期に自転車で行ける範囲の場所であれば向かい。とにかくビー玉すくいをしました。 全てのお祭りに参加したら30個くらいそれぞれ手に入ったかと思います。 後日、その4人のうちの誰かの家にお邪魔し、友達のお部屋でビー玉を広げて交換会をします。 事前に持っているビー玉を何個で交換するか紙に書いて、それぞれ好きな色や可愛いデザインは交換個数が3個。シンプルなものなどは1個など決めて交換しました。 集めたビー玉は、水槽のようなものに水を入れてその中に入れて飾ったり、それぞれ思うままにデザインしてたと思います。それぞれのお家にお邪魔し、みんなの水槽のビー玉を眺めるのが日課でした!
1955年生まれ

なつかしいなぁ~ビー玉は小学校の遊びベスト5に入るな

Valonさん 北海道 1955年生まれ 男性 あれは小学校の3・4年だったな。田舎は、こんな遊びをする場所に苦労しない。5mx8m位の、小さい倉庫の前の敷地だったかな。もちろん舗装もされていないから、地面は「釘指し」なんかもできる土だ。 友達5~6人、多い時は、10人位いたかな。 端に線を引いて、その反対に端から2m位の場所に、丸を書いて、そこにそれぞれのビー玉を置く。 そこから1m位のところに線を引いて、そこから出てしまうと、ビー玉は没収されて、その丸の中に入れなきぁならない。 そして、端に書いた線から、順番に持ってるビー玉を投げて、丸の中のビー玉を丸の中から出せば、自分のものになる。 でも、そんなルールを覚えた記憶もないが、みんな知ってたな。持っているビー玉が増えたり減ったりする。当然負ければ悔しいし、勝てばうれしい。 しかし、それで友達との仲が悪くなる訳ではない。ビー玉が無くなってしまった友達には、みんな1個ずつあげたりもしていた。こんなことから、人間関係を覚えていったのかな。 暗くなる前まで遊んで、解散、また明日ということになる。あの場所の風景、友達の顔、ついでに近くの駄菓子...つづき
2004年生まれ

ビー玉を使ったおもちゃ「ビーダマン」の思い出

くうきさん 山形県 2004年生まれ 男性 私が幼稚園から小学生にかけて、タカラトミーからビー玉を用いて遊ぶホビーが発売されました。「ビーダマン」というのですが、それを用いて缶や特定のターゲットを命中させる遊びをよくやっていました。 ビーダマンは対戦することも可能です。電動で動く壁を用いて先に多くのマーカー(というんですかね?)を打ち抜いたほうが勝ち、というゲームがあったり。ボーリングもできたりと多種多様の遊びができるホビーでした。 私自身も、ビーダマンはいくつか持っていました。友達と命中精度を競ったり、ビー玉の射出速度を競ったりしたものです。 他にも、ビー玉をおはじきのように弾いたり、ビー玉とビー玉の狭い間を潜らせたりもしました。ビー玉は球体なので、上手に弾いたり、潜らせることが難しいのですが、それが逆に面白い! 私はまだ高校生ですが、記憶の中では難しさの中にある楽しさを見いだせたのかなと思います。
1995年生まれ

ビー玉を水晶だと思っていたあの頃

紫苑さん 北海道 1995年生まれ 女性 よくあるビー玉の中には、他のビー玉に比べて「大きなビー玉」が入っていたりしていませんでしたか?私はビー玉の中でも模様のない500円玉サイズのビー玉を、大事に専用の袋に入れて持ち歩いていました。 砂場で遊ぶ時は、砂で小さな山を作った上にちょこんと載せて飾りのようにしてみたり、おはじきとビー玉で遊んだ時にはボーナスボールと呼んで遊んでいました。シルバニアファミリーで水晶玉の代わりに使って、占い師ごっこをして遊んだりもました。 模様のない大きなビー玉を水晶と思いながら持ち歩いていたあの頃、家の中で失くしただけでも大騒ぎ。妹が勝手に触っただけでも大激怒するほど、そのビー玉を大事にしていました。 今考えると模様のない、ただ他と比べて大きいビー玉にそこまで執着していたのかはわかりません。最終的には大事にしまっていた巾着を入れた箱ごと失くしてしまったのですが、当時の私はそのビー玉が大好きでした。
1985年生まれ

コマ名人になった思い出

チャーリーさん 北海道1985年生まれ 男性 昔の事なので記憶が曖昧なところもありますが、小学生の時によくコマで遊んでいた記憶があります。 当時登校していた小学校には昔の遊び道具がたくさん置いてあり、休み時間になるとみんなでいろいろな遊びをしていました。その中でも自分が特にはまったのがコマでした。 誰から遊び方を教えてもらったかはわかりませんが、紐を巻いてコマを回してそのコマを紐で飛ばして手の上に乗っけたり。回すときに地面ではなくそのまま自分の手に乗るように回してコマで遊んでいました。 他の友達はめんこをやったり、卓球をやったり、竹馬で遊んだりしていましたが、自分はコマばかりで遊んでいたので周りの友達よりもうまくなっていて「コマ名人」と呼ばれていました。 学校に置いてあるコマは決まった形しかありませんでしたが、誕生日に親に連れて行ってもらったおもちゃ屋さんで、軸の部分が金属になっているコマを見つけ、すぐにそれを買ってもらいました。 うれしくて家や学校でとにかくコマばかりやっていた思い出があります。
1989年生まれ

縄跳びで二重跳びができた思い出

佐和子さん 福島県1989年生まれ 女性 私が小学2年生の頃、二重跳びや三重跳びをするのが流行りました。教室の外のベランダで練習したり校庭で練習します。私はなかなか二重跳びができず悩んでいました。 それで私は、二重跳びが上手い人を参考に練習していました。あまりの熱心さに自分の家でも練習して、下の階の方から苦情がきて怒られたこともあります。 それからは自主的に練習するときはエントランスでするようにしたのですが、隣の家のおじちゃんが励ましてくれたことを思い出します。 そうやっていくうちに二重跳びができるようになって、学校で何回跳べるか実施したこともあります。最終的には20回くらい跳べるようになって、家族からも褒められ嬉しかったです。 特に祖父母が1番喜んでくれて、よく跳べるようになったなあなどと言われて嬉しかったです。 1番跳べる子は1分間くらい跳んでましたが、私には真似できないなあと思いながら見てました。ときどき縄跳びの縄が頭にパチっと当たることがあって、それは痛かったです。