中部エリアに住んでいた人が小学生の頃にした遊びの思い出

1994年生まれ

たまごアイス

オニササさん 新潟県 1994年生まれ 女性 校門前でアイスを売っているおじさんがいました。味は1種類。自家製のアイスで食感はシャーベットに近く、優しい黄色が印象的でした。 何の味、と例えられないのですが、ほんのり甘かったです。アイス自体に決まった名前はないのですが、子どもたちの間ではその色味から「たまごアイス」と呼ばれていました。 価格はカップが300円、コーンが100円、モナカ(モナカの皮にアイスを挟んだ状態)が100円と小学生にも手を出しやすい価格です。 子どもたちに大変好評で、文化祭や運動会のときは必ず出店していたのですが、長蛇の列ができていました。 売っているおじさんは無口で必要最低限のことしか話しません。近所にお住まいだったので顔見知りではあったのですが、誰にもレシピを教えてくれませんでした。 おじさんが体調を崩されてからは奥さんが代わりに売り子をしていました。奥さんも体調を崩されてからは、もう味わえないのが残念でなりません。
1965年生まれ

学校の前で売られていた「スーパーヨーヨー」の思い出」物売りのおっちゃん

クリ坊さん 愛知県 1965年生まれ 男性 小学生の頃「スーパーヨーヨー」というヨーヨーのおもちゃが流行り、大人から子供まで大流行していました。 「犬の散歩」とか「空中ブランコ」とか言った大技を競い会い、テレビでも特集番組が組まれたりしていました。 そんなに高価なおもちゃでは無かったので、クラスのほとんどの子供が持っていて、人によっては何個も持って自慢していました。 当時は学校の正門の前でも普通に物売りのおっちゃんとか来ていて、「スーパーヨーヨー」も時々売られていました。 コーラとかファンタとかのデザインの物が安くて人気でしたが、カラフルな装飾が入った物や、回すと電飾が光る物などバリエーションも豊富でした。 しかし、いわゆる正規物の「スーパーヨーヨー」と比べるとコーラのロゴも怪しく、糸が切れてすぐ壊れたりしていました。 まあ、勝手に作られたコピー商品だと思われますが、当時は世間もそんなに煩く無く値段も安かったので、壊れたらそれまでという感じでした。 学校の前で露店なんて、今では考えられない光景ですが、凄くワクワクして楽しかった記憶があります。
1980年生まれ

じゃんけん列車の思い出

ゆいまるさん 愛知県 1980年生まれ 男性 小学生の頃、年に何度か開催されるお楽しみ会で、全員参加で行われていた“じゃんけん列車”がすごく思い出に残っています。 やり方は、線路はつづくよ〜の曲に合わせて歩いて回って、曲が止まったら、近くの人とじゃんけんをします。 負けた方が、勝った方の後ろについていくというシンプルなもの。どんどん列車が長くなっていって、最後の1人に勝ち残ることを目指すというゲームです。 最後の1人になると、先頭で後ろに全員を従えている格好になるので、すごく優越感があります。 そのため、みんなが(特に男子)勝ち残りたいという気持ちが強く、すごくすごく盛り上がるゲームでした。 時には、気持ちが強すぎて、ヒートアップしてしまい、喧嘩に発展することもありました。当時は熱くなっていました。 ただ、面白いのが、このじゃんけん列車は、お楽しみ会限定の企画といいますか、他の場面ではやった記憶が一度もないんです。不思議な魅力のあるゲームでした。
1993年生まれ

下校中のいたずらの思い出

たくとさん 静岡県 1993年生まれ 男性 登下校に40分ほどかかる場所に住んでいました。 ほとんど田んぼ道で途中に遊具がある神社を通ります。自然が多くて生き物や植物に数々触れながら登下校していました。 夏はザリガニがたくさんいるドブや田んぼを見つけては、神社の手水舎に入れて置いたり、持って帰って飼ったりしていました。 大雨や台風の後には川からたくさん水が流れてくるせいか、大きなフナやカメがいてテンションが上がったことを覚えています。 冬には凍った田んぼを走り回ったり、神社のイチョウの木に生っている銀杏の実に石を投げて落として持って帰ったりしていました。 近所のおじいさんと一緒に拾って帰ったものの、処理の仕方がわからないと母に困られました。 春や秋には道端に生えている花の蜜や野イチゴらしきものをなんとなくの知識で口にしていました。 おいしかった実は毎日下校の時食べて、まずかった実は人の家の庭に生えているバラの棘に刺していました。 家主の人に見つかったときは怒られずにあきれられている様子でした。子供ならではの怖いもの知らずの自然にあふれた思い出です。
1962年生まれ

友達との相撲遊びの思い出

マックイーンさん 静岡県 1962年生まれ 男性 小学校に入学当時、おじいさんっ子だった私は、よく祖父が相撲を見ていた影響もあり、相撲中継を好んでよく見ていました。 四股名が難しい漢字でも、「大麒麟」とかを書けたりして、自然と相撲で出てくる漢字は覚えていて勉強になりました。 その後は見ているだけでは物足りなくなり、自分でも相撲を取りたいと思っていたのですが、近所には同じように相撲が好きな子供はおらず、実現できませんでした。 そんなとき、2年生でクラス替えがあり、同じように相撲好きな子がいて、話が合うのですぐ友達になり、お互いの家でよく相撲を取って遊ぶようになりました。 それから時が経って4年生になった頃に体育の授業。砂場で相撲のトーナメントをすることになりました。その友達とも同じクラスで、お互いサクサクと勝ち上がり、決勝で戦うことになりました。 正直遊んでいるときは私より友達のほうが優勢で、私は自信がありませんでした。しかしその時は、自分の体勢が有利な形になって勝つことができました。私は嬉しかったのですが、友達は悔しがっていました。 力士になりたいと思っていた頃もあって、その頃の思い出...つづき
1994年生まれ

「体育の時間の思い出」私はボールがハマる瞬間を目撃しました

片葉の葦 新潟県 1994年生まれ 女性 私の通っていた小学校の体育館にもいくつかボールが挟まっていましたが、そのうち2つは挟まるところを目撃しました。 それは体育の時間に起きました。その日はバレーボールを行っていて、二人一組でパスの練習をしていました。 バレーボールのパスは素人には難しく、特にアンダーハンドパス(いわゆるレシーブ)はオーバーハンドのように指でのコントロールができないため、ボールの制御が難しいのです。 結構な頻度であちこちからホームランのようにボールを飛ばしてしまうチームがある中で、1つのチームがとうとう天井まで飛ばしてしまい、天井の梁(はり)の隙間に嵌って(はまって)しまいました。 私の近くのチームだったので一緒になって「どうしよう、どうしよう」と焦っていると、先生が来て「他のボールを当てて(天井に挟まったボールを)押し出してみる」と力強く言ってくれました。 そして先生が投げたボールは少々それて、別の場所に嵌ってしまいました。 私は「先生でも駄目なんだ」と少し安心しました。先生は笑って誤魔化していました。
1956年生まれ

「何でこんな物が!」体育館の天井から落ちて来た物

yuumi0108さん 福井県 1956年生まれ 男性 卒業シーズンになると、業者によって天井に引っかかってたボール類が取り除かれます。小学生の頃は卒業シーズンという認識はありませんでしたが、自分が学校の教員になって意味がわかりました。 天井を見上げると、ドッジボールが引っかかっています。最初は真面目な気持ちで、そのボールを落とそうと思って新たなボールを投げつけます。 ところがそう簡単に届くものではありません。投げて駄目なら蹴ろうとなります。何度も何度も続けていると、そのうちにボールの近くに当たります。すると歓声が上がり、さらに意欲が湧きます。 ところが偶然にも蹴ったボールが引っかかってしまったことがあります。結果は更に悪くなってしまいました。とは言っても先生には告白できません。 ゲンコが振り下ろされることは明白だからです。 そして卒業シーズンが到来しました。放課後、業者が引っかかっているボールを除去し出しました。ボールが落ちてくる度に何故か歓声が上がります。 そして、何と、何と僕たちが履いているズックが落ちてきました。 何でこんな物がと思って腹を抱えて笑いこけました。
1993年生まれ

危ないとわかっていても楽しかった回旋塔の思い出

たくとさん 静岡県 1993年生まれ 男性 グローブジャングルのことを、私の小学校では「回旋塔」と呼んでいて、私が卒業して少し経った頃に撤去されました。 低学年の頃は高学年の子供たちに混ざると、体格の違いで回転の速さについていけなく。落ちたり、回っている子供の足にぶつかったりして怖いと思っていました。 高学年になると逆に低学年の子供が気になって、加減して遊んでいたのを覚えています。 しかし同学年の男子と遊ぶときは加減なしで思いっきり回して、派手に転んで怪我をしていました。 今思えば危ないですが、当時は怪我なんて気にならなく、ズボンが破れようが多少血が出ようが楽しくて遊んでいました。 回っている最中に足を外に投げ出して座って地面にかかとを擦り付けて円を描いて遊んでいました。 汚れるし、服や靴はボロボロにするしで親にはかなり迷惑や心配をかける遊びだったと思います。 無茶があったおかげで運動神経は良い方です。多少の怪我では弱音を吐かないようになったと思います。 最近は見かけることが少ないですが私は好きな遊具でした。
1981年生まれ

「登下校時の一人遊び」石けりの思い出

昭和の少年時代さん 長野県 1981年生まれ 男性 私が小学生だった当時、石蹴りをしていたことを思い出します。 まずは、登下校時です。家を出ると同時に足元にある石ころを探します。大きすぎても小さすぎても、だめです。よく転がりすぎてもいけません。なぜなら、家から学校まで同じ石を蹴って転がし続けるためです。 通学路の川沿いや土手を白線に沿ってぎりぎりで歩きながら進んでいきます。何回も立ち止まって微調整しながら蹴っていったのでしょうか。登校時には時間上の制約から、雑な判定をとることも多かったです。 ある場所で別の石に乗り換えても良いことにして、他の石を蹴って無理やりゴールすることもありました。 たまに「ハンドあり」のルールになることもあります。 時間制限のない下校時は、立ち止まりながら蹴っていた記憶があります。 田舎とはいえ車も通行しており、横断歩道の通過時はロングパスで切り抜けていました。見かけた大人から何回怒られたのでしょうか…。 非常に難易度、危険性の高い遊びです。 とくに「サッカーが上手くなる」ようなこともありませんでした。
1956年生まれ

俺は将来のプロ野球選手だ!

yuumi0108さん 福井県 1956年生まれ 男性 小学6年生の夏休み、小さい頃から毎日のように遊んでいた近所の仲間もそろそろ野球を楽しむ年齢に達しました。 近所に50m四方の手頃な空き地があったのですが決して空き地の状態は良くなく。草は生えていて、こぶし大の石はゴロゴロ。抱えるには大変な石まで存在していました。 その当時、午前中は宿題か家の手伝いをするように先生から言われていました。 みんな真面目に守っていたのでしょうか。午前中に空き地へ行っても誰もいません。お昼ご飯を食べて暫くして空き地へ行ってみると、申し合わせたように近所の仲間が集まってきました。 その時に毎日のように空き地で遊んだのが野球です。と言っても草野球にも類さないような野球です。 レフト方向は道路向こうの電線を超えたらホームラン、電線下は2塁打、ライト方向は空き地向こうの畑に入ったらホームラン、ワンバウンドで2塁打という風に自分たちでルールを決めて遊びました。 1個しかない貴重な軟式のボールを探しに小山の茂みに入ったり、崖を上ったり、田んぼに入ったりしました。 その頃はジャイアンツの長嶋、王、金田選手が全盛期の頃で...つづき
1966年生まれ

「田んぼの田の思い出」鬼ごっこのルールと遊び方

Syouwakkoさん 愛知県 1966年生まれ 女性 小学校4年生から6年生の頃までに、お昼休みの時間によくやった遊びです。 5人以上でよく遊びました。最初は5人ではじめたとしても、後から「いれてー」と入りたい子がきても、どんどん増えても楽しく遊べました。 まず、グラウンドに「田」と描きます。5メートル×5メートル位で大きく描きます。グラウンドなのでみんな足で描きました。 描いた線の部分を幅50センチの道幅に広げて描きます。 ジャンケンをして鬼を1人決めます。鬼だけは道を自由に動けます。 他の人達は道に入れません。それ以外の4つの四角の中にいられます。 遊び方は、4つの四角の一つの中心に印をつけて、そこがスタート地点になります。 鬼以外の人は、そこに集合し、何周回ったらゴールかを決めます。スタート後に時計回りに回ります。 回る途中で鬼にタッチされたら、田の外にでます。ゴールまでに鬼が全員タッチしたろころで終了し、鬼を交代します。 鬼がつかまえられず、だれかがゴールできたら、鬼は再度鬼になります。 人数が多い時は、鬼の人数を増やします。誰でも何人でも一緒に道具もなく遊べたのが楽しかった...つづき
1989年生まれ

「野良犬 人気者になる」第一発見者の生徒もヒーロー

まいまいさん 愛知県 1989年生まれ 女性 私の母校周りは田んぼに囲まれた、川や竹藪などがあるのどかな田舎町でした。 小学生の頃、登下校時に年に一度くらいは野良犬に遭遇していた頃で、学校に野良犬が迷い込んでくるのも年イチ行事くらいな間隔でありました。 やはり年イチ行事、且つ突然訪れる行事だけに、野良犬が迷い込んで来たその日は全校生徒がざわつきます。そして一目見ようとあちこちから生徒が集まって来るのです。 先生方は生徒の安全を守る為、必ず「教室から出るなー!」と叫んでいました。 そして、野良犬を追い払うのはいつも決まって教頭先生でした。教頭先生が代わってもです。もしかしたら教頭先生の業務一覧に「野良犬を追い払う」という項目があったのかもしれませんね。(笑) そして、野良犬を見つけた生徒もヒーローとなるのです。なので「先生、犬がいるー!」と言った者勝ち。自分が見つけたかの如く、生徒たちは口々に叫んでいました。 今ではセキュリティ面が強化され、大抵学校の門は閉まっていますし、住宅地が増える事で自然が減り、野良犬もなかなか見なくなりました。昔ならではの思い出話です。
1956年生まれ

「窓の外」授業中に校庭へ犬が入って来た思い出

yuumi0108さん 福井県 1956年生まれ 男性 小学生の頃は勉強が苦手だった。毎日のように先生に「ゲンコ」を貰っていました。 何の授業だっかも思い出せないほど退屈な時間でした。校庭の見える窓側の列の前から5番目,後ろから2番目が私の席です。 外を見ることが日課で,トンビが飛んでいるとか稀にセスナが飛んだりすることもあります。 ある日,いつものようにボーッと外を見ていると,突然近所の知っている犬が校庭で吠えています。数羽のハトを追いかけているようです。捕まるはずがありません。既の所でハトは嘲笑うように逃げます。 暫くするとハトがいなくなって,今度はスズメを追いかけ出しました。ハト以上にスズメは機敏な動きで逃げます。ハトと違って,スズメはちょっと離れたところにまた降り立ちます。また,犬が吠えながら追っかけます。 その時は全く先生の声は耳に入っていませんでした。先生が何処に位置しているのかも全くわかっていませんでした。内心「アホやな。捕まえられるわけないやろ!」と思って窓の外に集中していました。 その瞬間,いつもより強烈なゲンコがごつん!
1970年生まれ

年上のお兄さんから学んだベーゴマの思い出

たけしさん 愛知県 1970年生まれ 男性 生まれは北海道札幌市ですが、親の転勤によって愛知県に3歳から8歳まで住んでいました。 当時この地域は近所に複数の駄菓子屋が営業をしていて、親にねだってお小遣いをもらい、30円もあれば菓子類であればいくつも買えた時代です。 幼稚園から小学校2年生まで親友と呼べる友達がいて、駄菓子屋に通うことが多々ありました。 ある日のこと、友人と駄菓子屋に行った時に、恐らく小学4年生くらいのお兄さんたちが、太鼓をカットしたような円形の土台を使って、駄菓子屋の前でベーゴマ遊びをしていました。 かなり興味を持った私は、直ぐに帰宅をしてお小遣いをもらい、人生初となるベーゴマを購入しました。 紐を巻き付ける方法も分からず苦戦していたところ、親切なお兄さんたちから紐を結ぶ部分と巻き方、投げ方を習うことが出来ました。この日を境にしてベーゴマに熱中していました。 我が家は1階部分が事務所になっており、床がコンクリートだったので絶好の特訓スペースになりました。 後日、駄菓子屋に行くとお兄さんたちから仲間に入るように勧められました。合図と共に自信たっぷりにベーゴマを回しました。...つづき
1963年生まれ

倉庫跡地の思い出

なみさん 愛知県 1963年生まれ 女性 子供のころ、自宅前の砂利道私道を数十メートル東に進むと、突き当りに毛織物会社の倉庫がポツンと1件だけ建っている広い草地がありました。 倉庫には会社名が描かれていたので、親しい子たちと集合するときの約束は、いつもその会社のネームを切り取り「ボンちゃん」でねというのが通常になりました。 樹木や野草も隅には多く生えており、温かい季節は土筆とりや、たんぽぽとり、シロツメクサとりに夢中になりました。 あるとき、ふと思い立って、ここに私たちだけの「基地」を作ろうと、皆で古い板切れや釘、かなづちを持ち寄り、小さな小屋を建て始めました。 学校が終わると、毎日のように集まり、無い知恵をしぼりながら、木切れをつなぎ合わせ立体にしていくのですが、どうしても上手くいきません。 そのうち、1人1人と脱落者が出始め、ついには皆諦めてしまいました。 完全に見捨てられて残骸になったその「基地」らしきものは上級生の男の子たちに蹴飛ばされていました。 ワクワクしながら作ったときの思い出が今でもよみがえります。
1988年生まれ

「土の匂いの思い出」けんと遊び

レディさん 新潟県 1988年生まれ 女性 小学生の頃、天気のいい日にはよく空き地で遊んでいました。ドラえもんのシーンでよく見る大きな土管がある空き地でした。 そこで学年問わず、男女が集まりしていた遊びと言えば、”けんと”です。同じ世代や上の世代の方はもちろんわかる遊びだと思います。 かくれんぼに似た遊びで鬼を一人決めて、他の人たちは隠れます。 鬼は誰か見つけると”けんと”する場所に行き「け~んと!」と言います。 見つかった人は”けんと”する場所に居て助けを待ちます。 まだ見つかっていない人が”けんと”する場所に行き「け~んと!」と言うと、鬼に見つかっていた子達は解放され、また隠れることができます。 この遊びでいつも活躍するのが足が速くて運動神経抜群の子です。 足が速い子はなぜかモテるのですが、私の時もそうでした。 ”けんと”をしていて捕まると、彼がいるから大丈夫、必ず助けに来てくれる!と捕らえられた姫みたいな感じで助けを待っていました。 そして助けに向かって走ってくる彼を「キャー、かっこいい!」と思いながら見ている光景は今思い出しても微笑ましいです。
1975年生まれ

校内でも有名なガキ大将の思い出

なっつんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 小学生の頃、友達とよく近所の公園でドッジボールや縄跳びで遊んでいると、同じ学年で、校内では有名なガキ大将が現れ、私たちは頻繁にその場所から追いやられました。 そのガキ大将のまわりには2~4人くらい子分のような存在の子がついてきており、我が物顔で占領していた記憶です。 逆らうといじめられるため、遊んでいる子たちは必然的に隅っこでこじんまり遊んだり、移動したりしていました。 そんなガキ大将ですが、学年の遠足でも威厳を保っていて、お弁当タイムには、子分の子達のおかずとかお菓子を貰ったりしていました。ガキ大将のまわりには常に人がいる、色々な子が取り巻いていました。 おそらく、そのガキ大将と一緒に居ればいじめられる事もないという考えからだろうとは思っていました。 よく喧嘩もしていましたが、ひとりでも充分な様子で、大将になるだけあるとは感じていました。男の子同士の喧嘩でも本当に強かったです。 どの時代にもそういったリーダー的な人は存在し、大人になった今はどんな感じなんだろうと、ふと思い返す時はあります。
1994年生まれ

「手汗の思い出」バイキン扱いをして 触れられることを避けるいじめ遊び

紗々さん 新潟県 1994年生まれ 女性 あれは小学校3年生の頃です。私は元々汗かきの方で、特によく手に汗をかいていました。テストの答案用紙が手汗でふやけて書けなくなるほどです。 ハンカチで定期的に手汗を拭うのですが、拭いても拭いても、止めどなくかいてしまうのであまり意味がありませんでした。 それに気づいた同級生が、私の手汗のことを「〇〇(私の名前)エキス」とし、私や私に触れた物、場所に触れた人は体が腐るというルールを作りました。 例えば掃除の時間などで私が使用した雑巾に触れた人は「〇〇エキスに感染して体が腐った」とされてしまうのです。 私や私に触れた物、場所が避けられるのはもちろんのこと、誤ってそれらに触れてしまった人は「〇〇エキスに感染したぞ!」「うわ、体が腐ってる!」と1、2週間ほど囃し立てられたり避けられたりしていました。 私から見ればいじめですが、他の同級生からすると「新しい遊び」という感覚らしく、喜喜として行っているように見えました。
1974年生まれ

学校の帰り道の「荷物持ちの罰ゲーム」

ももえさん 新潟県 1974年生まれ 女性 私の実家は田舎の方にあったため子どもの数も少なく、同級生に限らず年上や年下の子たちとも一緒に遊ぶのが当たり前でした。 小学生の頃にはやっていたのが、荷物持ちの罰ゲームです。3~4人ほどのグループで下校することが多かったのですが、そのときによくしていました。 まず、みんなでじゃんけんをします。負けた人が全員の荷物をすべて持って歩く、という単純な罰ゲームです。 ランドセルは自分のもの一つだけでも結構重いですし、それに加えて他の子たちの荷物(ランドセルなど)を持つのはかなりの重労働です。 「次の電柱まで」とか「〇〇の家まで」などとそのたびごとにゴールを決めて行っていました。 低学年の子がじゃんけんに負けてしまったときには、距離を短めに設定してあげるなどの配慮も、自然とできていたように思います(たとえば、10歩だけ歩く…など)。 学期末になると、普段は学校に置いたままにしている荷物も、持ち帰ることになるため、荷物の量も増えて盛り上がりました。 田舎なだけに、通学路の交通量もかなり少なく、安全に遊びながら下校することができていました。
1992年生まれ

「ニッペの思い出」ジャンケンに負けたら2本指しっぺ

ハコテンスキーさん 静岡県 1992年生まれ 男性 私の子供の頃の罰ゲームでの思い出は、二の腕にニッペ(指を2本出して叩くこと)をしていました。 最初はゲームで負けた時の罰ゲームとして友達同士で行っていたのですが、次第にニッペをすることだけにこだわりだして、じゃんけんをして負けたらニッペをする遊びに変わるほど、小学生の時にやっていました。 あるときニッペ遊びをしていたら相手の腕を空振り。私の伸びていた爪だけが相手の腕に当たり引っかかりました。相手の腕から血が出るほどの事故が起きてしまったことがあります。 その時私は血の気が引いたのを覚えていますが、その後のことはあまり覚えていません。確か保健室に行って血が出ている手を治療をして、お互いに仲直りしたのだと思います。 それ以降ニッペをすることが減ってしまい。やっても手加減するようになりました。
1975年生まれ

逃げる範囲が広すぎる11階建てのマンションでの ドロジュン

なっつんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 私が小学生の頃は「ドロジュン」と呼ばれている遊びをしていました。11階建てのマンモスマンションに住んでいたので、ドロジュンをやるには範囲が広すぎます。 いつもの仲間とやるのですが、マンションを縦半分のエリアに区切り、その範囲内だけと決めてからやりました。 しかし、半分と言え、11階まであり。戸数もかなりあるマンションでしたので人数が少ない時ほど、難易度が高かったです。 玄関に門戸がないマンションでした。人の部屋の前に隠れるところがあれば隠れ。時々、そこの住人が出てきてビックリされる事もありました。 皆、顔なども知れた住人でしたので、話しかけられる事もあり、それが見つかる決め手にもなります。 エレベーターは2基ありましたが、それを使うと見つかりやすいのと、住人へ迷惑がかかるため、禁止しました。 2時間ほど遊んでいた事もあります。 子供であれど、階段を行き来し、フロアを渡り、凄い運動量だったと思います。 時々、ルールを破って違うエリアに潜む子もいましたが、そういう子は次からは警察役にまわされました。 低学年の子供だったからできた遊びであり、大人...つづき
1996年生まれ

駐車場でのローラースケートと その後のスケート場の思い出

なおくん 岐阜県 1996年生まれ 男性 小学生の頃、私は両親から誕生日にローラースケート靴を与えられました。 私は何も欲しがらない子どもだったので、両親は悩んだ挙げ句、誕生日プレゼントとしてローラースケート靴を買うことにしたそうです。 今思うと、あの時の誕生日プレゼントをローラースケート靴にしてくれたことは、私にとって良い体験となったので、本当に感謝しています。 私の家は拡大家族で、大人はみんな車で仕事に行くので、駐車場は6台分の車が止まれる広さでした。 私が学校から帰ってくると、大人はまだ仕事から帰って来ていないので、駐車場には一台も車がなく、そこはスケートリンクの様でした。 私は毎日、夕方大人が帰ってくるまでの数時間一人で思う存分ローラースケートを楽しみました。 友達が私の家の前を通ると、当時ローラースケートを見たことがない子どもが多かったので、羨望の眼差しで見られて、何だか嬉しかったです。 住んでいたところが田舎の山奥で冬になると雪が積もり駐車場でローラースケートをすることが出来なくなります。しかし、丁度ローラースケートをもらった年に近所にスケート場が新しく出来。私は両親に連れ...つづき
1985年生まれ

ローラースケート大会の思い出

あろえさん 福井県 1985年生まれ 男性 小学生の時に学校近くの公園で行った「ローラースケート大会」の日のことです。会場は緑豊かな公園で、陽気な音楽が流れていました。 先生たちが主催してくれた大会は、走っているだけでも楽しいと思うような企画がたくさんありました。 例えば、謎解きコースやテクニカルなコースが用意されていたり、色んな色の巨大なクレヨンを使って、足元に色を付けながら走るという企画がありました。私は友達と一緒に、楽しいコースを存分に楽しみました 最後は、全校生徒で一緒に大回りをして、大会を締めくくりました。今でも、陽気な音楽が流れながら、仲間と一緒に走る思い出が鮮明に思い出されます。「ローラースケート」を通じて、私たちは楽しい思い出を作ることができました。 その日は、川沿いのレストランで仲の良い友人たちと一緒にご飯を食べ、再びローラースケートを楽しんでいました。そんな一日を過ごしたことは、今でも忘れられない思い出です。
1975年生まれ

「曲がれない、止まれない!」ローラースケートの思い出

いちこさん 静岡県 1975年生まれ 女性 当時、テレビの歌番組でアイドルグループがローラースケートをはいて、歌って踊るのを見て、「自分もやってみたい」と、親にねだって買ってもらいました。 同じように買ってもらった友達と二人。移動するときも、自転車よりもローラースケート。難しい技はできなくても普通の道をひたすらコロコロするのが楽しかったです。 ある日、少し遠出した先で、左カーブの緩やかな下り坂にさしかかりました。これまで真っ直ぐでほぼ平らな道しか通ってこなかったのに、何を思ったのか「行ってみよう」と坂を降り始めました。 途中スピードが乗ってきていつもと違う感覚にワクワクしました。このままいける、とさらにスピードが上がったところで、もう目の前のカーブを曲がるにはスピードが出過ぎていました。 止まれないことに気付いた私は、とっさに、転べは止まると考えたんでしょうね。現場を見ていた友人が言うには、わたしは止まるのではなく前へ向かって飛んだそうです。 そのまま着地とはいかず、顔は怪我しなかったものの、膝と腕は擦りむいて友人には大笑いされました。その場は笑っていたものの、夜お風呂ですごくしみたの...つづき
1997年生まれ

シーソーで罰ゲームの思い出

かぴばらさん 富山県 1997年生まれ 女性 幼いころ、近くの公園にあるシーソーで幼馴染と遊んでいました。そのシーソーは少し古く「ギーギー」と音がするようなもので、シーソーの両端の着地地点にはタイヤが埋め込まれていました。 そのタイヤの部分の土が大きくえぐれていて、雨が降ったあと5日間くらいは水たまりになります。着地するたびにタイヤが弾み。その影響でその溝にたまった泥水がはねて足がドロドロになりました。 親からすればやめてほしい遊びだとは思いますが、それだけでも幼い私たちにとっては楽しくて、雨のあとによくシーソーで遊んでいました。 ただ学年を重ねるにつれ、服が汚れることへの抵抗が大きくなり、そのシーソーは罰ゲームとなりました。 例えばカードゲームで遊んで負けたほうがシーソーをする。といったような用途となり、楽しい対象からちょっと嫌なものという印象になりました。 現在、そのシーソーは新しいものに変えられ。着地地点のタイヤ部分の溝もきれいになくなりました。今ではいい思い出です。
1987年生まれ

しりとりシーソー

moamoaさん 静岡県 1987年生まれ 女性 小学生の低学年の頃、学校内にあったシーソーが友人たちの間でブームになりました。 最初は普通に遊んでいたのですが、だんだんと飽きてくるようになると、しりとりと組み合わせて遊ぶようになりました。 ルールは簡単です。シーソーが下がるごとにしりとりのワードを言います。 特に縛りがないうちはとっても簡単なので、自分たちよりも小さい子と遊ぶときもこのルールで遊んでいました。 ただし、シーソーはスピードを上げることができるので、テンポよく答えないとアウトになってしまいます。だんだん慣れてきたら、食べ物や学校にあるものなど、縛りを入れてしりとりをするようになりました。 このしりとりを取り入れてからは、なんとなくシーソー遊びがブームになっていき、昼休みになったらシーソーへと集まるようになりました。 シーソーは1台で4人まで乗れるタイプだったので、仲良しの4人で一緒に遊んだ記憶が残っています。あるときシーソーが撤去されて遊ぶことができなくなりましたが、とても楽しかった思い出です。
1985年生まれ

シーソージャンプでどれだけ高く華麗に飛べるかを競い合う

あろえさん 福井県 1985年生まれ 男性 小学生の頃、毎週金曜日は遊びの日でした。私たちの学校から徒歩で数分の公園によく行きました。「シーソー」は大人気の遊びでした。 私たちは、普通にシーソーを漕いで遊ぶだけでは飽きてしまい、かなり無茶な遊びをしていました。 普通シーソーは両側に1人か2人ずつ座って遊ぶイメージですが、私たちは一度に3人も4人も乗って遊んでいたのです。たくさんの仲間と一緒に乗って大はしゃぎして遊ぶのが楽しかったです。 それからたくさんのオリジナルゲームを考えました。一番過激たっだ遊びは「シーソージャンプ」でした。 一人がシーソーの端っこに立った状態で、逆側のシーソーに二人が飛び乗ります。端っこに立っていた人はシーソーが大きく漕がれて勢いよくジャンプします。そのジャンプの飛距離や芸術性を競うというゲームでした。 今思うと非常に危険です。自分の子供がこんな遊びをしていたらと思うと怖いですが、当時はこういったオリジナルなゲームを考えることで、「シーソー」の遊びは楽しさが倍増しました。 仲間と一緒に遊ぶと、笑い声が響き、楽しい時間。今でも思い出すと懐かしさが溢れてきます。
1985年生まれ

小学生ぶりの箱ブランコ

ゆさん 静岡県 1985年生まれ 男性 小学生の頃に地元の公園に箱ブランコがありました。普通のブランコは小学校や他の公園にもありましたが、箱ブランコはその公園にしかありませんでした。 箱ブランコは何人かで同時に遊べるところが楽しいです。協力して漕ぐと揺れが大きくなってワクワクしたことを覚えています。 他の遊び方としては、箱ブランコに2人で乗り、お互いに向き合い、座る部分のふちに立ちます。そして交互に体重をかけて揺らし合って遊んだ記憶があります。 結婚をして子どもが産まれ、いとこの家に遊びに行った時のことです。いとこの家の庭に箱ブランコがあったのです。近隣の公園でも見かけることがなくなった箱ブランコを見て興奮しました。 子どもたちに箱ブランコのことを説明して一緒に遊びました。小学生ぶりの箱ブランコ。子どもたちにとっては初めての箱ブランコです。私の好きだった遊具で遊べてとても充実した時間でした。
1987年生まれ

初めて箱ブランコと出会った日

haniwaさん 静岡県 1987生まれ 女性 箱ブランコは、住んでいた家の周りにはありませんでした。ただTVなどでその存在は知っていました。楽しそうだな、やってみたいなと思っていましたが、家の周りにはないので、ちょっとだけ憧れのような存在でした。 ある日、近くに住む従兄妹の家族に行ったとき。両親たちが話している間、従兄妹同士で遊ぶことになりました。従兄妹の家の近くにある公園へ行くことにした私たち。 すると、そこにはTVで観ていた箱ブランコがあるではありませんか!しかも、誰も乗っていません。自分から言いだしたのか、従兄妹たちが言いだしたのか忘れましたが、すぐに箱ブランコに乗って遊ぶことになり、私はワクワク! ところが、想像とは異なりそんなに楽しくはありません…。当時、私はブランコが大好きで、保育園でもブランコによく乗っていました。ゆらゆらと高く揺れることが好きだったのですが、箱ブランコはそれほど高く揺れません。 従兄妹たちは楽しそうにしていますが、想像以上に揺れないブランコに私だけががっかりした思いを抱いていました。 見た瞬間、わくわくドキドキした思いでいたのに、実際乗ってみたら、ひど...つづき
1956年生まれ

スリル満点の雪遊び

yuumi0108 福井県 1956年生まれ 男性 片田舎の雪深い地域に生まれ育った私は,6年生にもなれば屋根の雪下ろしをしなければなりません。ある雪深い日に一人で屋根の雪下ろしをしていました。 雨と違って家の中が汚れたり濡れたりすることがありません。部屋から屋根に出るときも、終わって部屋に戻るときもウォークインスルーです。 ところがその日は天気も良く、降ろした雪が高く積もっていたので屋根から跳び下りることにしました。ちょっとした悪ガキの思い立った雪遊びです。 「えい!」と見事跳び下りることができました。膝辺りまで沈みました。子どもの考えることです。一つ成功すると、次はより高い屋根からと思います。思い立ったか吉日。直ぐにもう一つ高い屋根に上って跳び下りようとしました。 ところが予想していたよりも屋根が高く足がすくみました。なかなか跳び下りることができません。しかし、意を決してとうとう跳び下りました。降りてしまうとあの怖さは何のその。直ぐに有頂天になりました。 ところが事件です。高くなった分、胸の辺りまで沈み、体が抜けなくなってしまったのです。もがきにもがいて長靴を残したまま何とか脱出す...つづき
1989年生まれ

裏庭でソリ遊び

りんさん 山梨県 1989年生まれ 女性 私は小学生のころ、都市部から山梨県へ引っ越しました。それまでは、せいぜい雪が降っても少ない雪をかき集めて小さい雪だるまを作るくらいでした。 しかし引越し先は雪も積もるし庭もある!ということで簡単なソリを買ってもらい、妹と積もった雪に傾斜をつけて滑って遊んでいました。 最初は長靴を履いているのですが、そのうち中に雪が入ってびしょびしょになると、最終的には裸足にサンダルです。当然寒いので、しっかりスキーウェアは着ています。 さすが子供というのか、足の冷たさよりも楽しさの方が上回っていたのだと思います。当時の写真をたまに家族で見るたびに、格好は重装備なのに裸足というギャップに笑われます。 積もった雪にみかんを埋めて、冷凍みかんも作りました。しかしいくつ埋めたのか忘れてしまい。雪が溶けた頃にブヨブヨになったみかんが出てきて思い出す。なんていうこともありました。 一度大雪が降ると通学は大変で苦労しましたが、今ではできない体験もしていたなと思います。
1987年生まれ

初めての雪遊びの思い出

しゅりさん 愛知県 1987年生まれ 女性 幼稚園の頃に初めて雪遊びをしました。私が住んでいる地域は、冬でも殆ど雪が降らず。振っても少し舞う程度でしたが、その年は数センチ積もりました。 地面で雪が真っ白になったのを見たのは初めて。寒さも忘れてずっと外で足跡をつけて遊んだり、雪だるまを作ったりしました。 親に霜柱の存在も教えてもらい。踏むとサクサクと音がして、子供心にすごく不思議でワクワクしてずっと踏み続けていました。今は、アスファルトの場所がほとんどなので霜柱を見る機会もほとんどなくなってしまったので、とても貴重な思い出になっています。 近所の友達と集まって雪合戦もしました。雪合戦をしたのも初めてで、親が呼びに来るまで夢中になって遊んでいました。 もともと雪が少ない地域で、思いっきり遊ぶ場所も少なくなっているので、雪遊びをした思い出は私にとって本当に大切なものです。この先もずっと忘れずに心にしまっておきたいと思います。
1981年生まれ

思う存分楽しんだ雪遊び 3種類

つららさん 長野県 1981年生まれ 女性 私の故郷は日本で有数の豪雪地帯でした。小さい頃はまだ融雪や除雪の設備が整っていなかったので、街中、自分の背丈よりはるかに高く雪が積もっていました。2階から家の中に入った記憶もあります。 幼少期にした雪遊びの思い出は何点かあります。 1つ目は学校帰りに自分の基地を作ったことです。空き地に積もった雪へ後ろ向きにバタンと倒れます。手で穴を掘ります。友達数人と自分のオリジナルの穴を作って基地にします。家に帰ってはまた戻り、そこでおやつを食べるのが楽しみでした。みかんを凍らして食べたのが美味しかったです。 2つ目は屋根からの雪を利用した滑り台。自然と落雪で雪が積もるので、そこを滑り台のようにしてソリで滑ります。工場などの屋根の下は多くの雪が積もるので長い滑り台ができます。 3つ目は、屋根に長いつららができていたので、氷柱に雪玉を当てると言うゲームです。みんなでやっていました。 寒かったはずですが寒さは覚えてないのが不思議です。
1975年生まれ

先生ごっこの思い出

さらぴさん 静岡県 1975年生まれ 女性 子どもの頃から「ごっこ遊び」が好きで、子どもなりにこだわりを持って遊んでいました。なので、真剣にロールプレイをしてくれないお友達とは、ときどき本気のケンカに発展することもありました。 あるとき先生ごっこ遊びをしていて、1人のお友達が「私が先生やりたい!」と立候補したのです。その子が普段からあまり頭のいいキャラではなかったこともあって私は反対しました。 「○○ちゃんに先生役できるの?」と今思うとあまりにも失礼なことを言ったのですが、その子は意に介せず「いいのいいの、私が先生やりたいから」と勝手に確定してしまいました。 勝手に決められたことに対して私が憤慨し、他の子たちもポカンとしてその日の遊びはお流れになってしまいました。 私は遊びも真剣にやりたい子どもだったので、いわゆる「ニワカ」な子が入ってきて台無しにされたことが許せなかったのです。 相手の子は私がなぜ怒っているかもわからなかったようで、その後普通に話しかけてきて、その日のいざこざは無かったことになりました。
1987年生まれ

色鬼ごっこをしていた時に…

ハリーさん 静岡県 1987年生まれ 女性 確か小学校低学年以下だったと思います。当時、色鬼が流行っていて、その日も色鬼をして遊んでいました。 私はあまり鬼をしたくなかったので、一生懸命色を探して逃げ回っていました。ただ、その日、鬼になった友達の狙いは私に絞られており、執拗に狙われていました。 がんばって逃げていたのですが、あと一歩というところでタッチされてしまい、私は鬼になってしまったのです。 その時、私としてはすでに指定された色のものに触れていたつもりでした。それなのに、鬼にタッチされてしまい。次の鬼だよと言われ。悔しさでいっぱいになってしまいました。 タッチされて声を掛けられた時にそれまでずっと狙われていたことや悔しさなどから、つい私は泣いてしまったのです。 突然泣き出した私に鬼だった友達は戸惑います。 私が泣きながら怒るので、友達も怒り、喧嘩に発展。その内に他の友人たちも集まり、更には先生まで駆け寄ってきました。 興奮状態の私はもうこの時には支離滅裂な言葉を話していたように思います。 先生に宥められ、少しずつ落ち着きを取り戻して行きました。鬼だった友達も落ち着いて、最後には私に...つづき
1975年生まれ

ばぁちゃんお手製お手玉の思い出

まかろんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 小学生の頃、同じマンションに住んでる同級生の家に集まっては、人形遊びや、あやとりをしていましたが、お手玉もやりました。 お手玉は各々手作り感溢れるものが多く、私はばぁちゃんが作ってくれたお手玉を持参して遊びました。和柄の生地で作られたお手玉は、着物の端切れで作ってくれたもので、手触りもよく、程よい小豆の量と重さが良かったです。 いつも集まっている子の中には強者もいて、片手で2個3個とポイポイ器用にやる子がいて、私もできるようになりたいと家でもよく練習していました。 しかし、なかなか片手では難しく、2個であればなんとか3回くらいは落とさずできても、3個はできませんでした。 できる子のやり方を見ていると、器用に一定間隔である程度の高さまで1個1個が宙を舞い、色々な柄が施されたお手玉がとても綺麗に見えました。 大きさや重さなども関係しているのかもしれないと思いましたが、はばぁちゃんは「手首に力を入れ過ぎたら駄目だよ」と教えてくれて、ばぁちゃんと一緒に練習した事もありました。
1956年生まれ

怖いもの知らずのブランコ遊び

yuumin0108さん 福井県 1956年生まれ 男性 場所は校門近くの桜の木に囲まれたブランコ。小学校の5,6年の頃だと記憶しています。雨さえ降らなければ毎日のように5,6人の友達とブランコ遊びをしていまいた。 やんちゃな頃ですから,大きく振れば振るほど友達の称賛を得ます。最初は大きく振ったブランコから前方に飛び降りて飛距離を競いました。 着地した足が滑って頭を打ったことを覚えています。それでも涙も流さず何度もトライしました。今の時代であれば即禁止でしょうか! そのうちに前方ではなく後方への飛距離を競うようになりました。その時も着地の足が滑って,両手の掌を擦りむき顎を打った覚えがあります。しばらく耳の奥が痛く,笑うことも給食を食べることも苦労しました。 しかしながら子どもの遊び方は無限大です。友達の一人がブランコを大きく振って前方にある桜の木の小枝に足タッチし始めました。 更に,静止したブランコに座った状態から,全身で揺すって大きく漕ぎ出して桜の小枝にタッチする。更にはタッチ後に前方に飛び降りて飛距離を競う。 また,個人競技ではなくリレーの団体競技にもトライした覚えがあります。今思...つづき
1965年生まれ

自作の凧の思い出

tacky1920さん 愛知県 1965年生まれ 男性 自分達の世代が小学生の頃、「ゲイラカイト」という凧が流行りました。従来の竹と和紙の組み合わせで出来ている日本式の凧と違い、プラスチックの骨組みにビニールを張り付けた三角形の形状で、確かアメリカが発祥だったと思います。 とにかく大ブームになって、ある程度裕福な家庭の子供は斬新なデザインの「ゲイラカイト」を親に買ってもらって、自慢げに学校にも持ってきていました。 自分も含め、大多数の子供は買ってもらう事は出来なかったのですが、とにかく手軽に作れるのが特徴で、決っして器用では無かった当時の自分も、家にあるビニール袋と拾ってきた廃材のプラスチックの棒で手製の凧を作り友達と競って遊んでいました。 近くに市営の広い陸上競技場があり、日曜日になると大空の一面に色とりどりの凧が溢れ壮大な光景でした。 風の強い日には糸が切れて凧が飛んで行って行方不明になったり、友達の凧と絡まって落下してしまったりと失敗も沢山ありましたが、自分の手から遠く離れた大空をなびく自作の凧に、子供ながらにロマンを感じていました。
1989年生まれ

パチンコ台づくりの思い出

harukazuさん 岐阜県 1989年生まれ 無回答 小学校の時、夏休みの工作で何を作ろうかと悩んでいた時、友達と一緒に「パチンコ台」を作ろうという話になりました。 一緒に材料を買いに行く中でビー玉をたくさん買い、玉の1つ1つの模様が違い、キレイに輝いていたことを覚えています。 いつしかパチンコ台を作ることよりもビー玉を転がして遊ぶことに夢中になりました。友達と指ではじいて当たったビー玉を自分のものにできるというゲームを始め。何度も繰り返しながら自分の好きな色、模様の玉を集めるのが楽しかったです。 不思議なものでお気に入りのビー玉は大切にしまっていたつもりなのに、いつの間にか無くなることがありました。 どこかで落としたのか、転がって隙間に入ってしまったのか分かりませんが、1つでも無くなったことに落ち込み。泣いてしまいました。
1989年生まれ

回る独楽の絵柄を虹色に出来なくて

あきびよりさん 長野県 1989年生まれ 女性 20年以上前のこと、我が家にはビデオテープに録画された「一休さん」のアニメに独楽に関するお話がありました。 「とある貴族の娘がもうすぐ誕生日。その娘は独楽が好きなので、みんなで自慢の独楽を持ちよりお披露目兼プレゼントすることに。その娘にプレゼントする独楽を作って欲しいと頼まれた一休さんは試行錯誤を重ね。ある独楽を完成させた。 誕生日当日、様々な独楽が貴族の娘の前で披露され、その後回してみせた。しかし止まっているときは素敵な柄だと思った独楽でも、回っている間はその柄が見ることは出来ない。 つまらない…そう貴族の娘が思っているところに一休さんの独楽が披露された。特に着色もされていない独楽に、上の平らな面に黒の数本の線が描かれているだけ。なんだあの独楽は!とその場がざわつく中、一休さんが言った。 この独楽は回すと不思議なことが起こります。それ!!と独楽を回し始めた一休さん。 その場の誰もが回る独楽を見守ると、突然独楽が虹色に色づいたのです。 独楽が止まるとやはり黒の数本の線があるだけ。なんとも不思議な現象に貴族の娘は大喜び!!それからその娘は、...つづき
1989年生まれ

戦わずして遊ぶベーゴマ

harukazuさん 岐阜県 1989年生まれ 男性 小学校6年制の時、クラスの中でベーゴマが流行りました。私ははじめ、ベーゴマの存在も知らず遊び方もよく分かっていませんでした。 仲の良かった子がやっていたこともあり、コマを購入し戦っていくうちにベーゴマの魅力にとりつかれました。 相手のコマを飛ばして勝った時の快感は今でも忘れられないです。みんなで集まってワイワイ騒ぐこともとっても楽しかった。 ある時一人の子がどこから入手してきた情報なのか分かりませんが、「コマを削るときれいだし角がとがって強くなる」と言って自分のコマを削ってきました。 そのコマを見た時、キラキラと銀に光ったコマが本当にかっこよく、強そうに見えました。自分も真似してみたいと思い、やり方を聞きコマを削ってみました。 削られたところがきれいに光るのが嬉しく、オリジナルのものを作っている感覚がまた面白さを増し、みんなどんどんとこだわるようになっていきました。 いつしかコマを回して戦うよりも、いかにきれいなコマを作るかが主になっていきました。今はどこにいってしまったか分からないコマですが、思い出としてはずっと大切なものです。
1975年生まれ

給食の牛乳のふたパッチでめんこ遊び

月音山さん 新潟県 1975年生まれ 男性 自分たちの地域でも子供たちの遊びはめんこ遊びでした。 当時、駄菓子屋にはテレビのキャラクター、仮面ライダーやウルトラマンなどの絵が描かれためんこは大人気でしたが、そういっためんこは大型のめんこで、上手な子には簡単に負けてしまうことが多かったです。 子供が買えるめんこの多くは500円程度だったと記憶しています。そんなに頻繁にキャラクターの入っためんこは買えず、小さなあまり有名でないような絵のめんこで遊んでいました。 そんな時、ある同級生が給食中にふとあることに気づきました。当時、小学校の給食には牛乳が必ず出てきて、その牛乳は今と違って瓶詰めの牛乳でした。その牛乳の瓶には紙の蓋がついていました。 それに目を付けた同級生が、牛乳瓶のふたでめんこ遊びを始めました。ところが、使用済のその蓋は反っているためにすぐに負けてしまいます。 そこで考えた子がいて、牛乳会社の本社に「新品の牛乳瓶のふたが欲しい」旨の手紙と返信用に封筒を同封して送りました。すると、その牛乳会社から返信があり、たくさんの新品の牛乳瓶のふたが送られてきました。 それは硬く、真っ平らな新品...つづき
1987年生まれ

ゴム飛びを遊んでいたあの頃の年齢になった息子

かかのんさん 静岡県 家の近所の駐車場 1987年生まれ 女性 私がゴム飛びと聞いて思い出すのは、近所の友達と遊んだ記憶です。「3年生までは子供だけで自転車に乗ってはいけない」という学校の決まりがあったので、近所の友達と遊ぶことが多かったのです。 さらに学区の端に家があったため、帰宅後にまた学校で待ち合わせをして遊ぶのは、子供ながらに大変だとの思いもありました。 男の子の友達と遊ぶときは鬼ごっこや野球など、体を思いっきり動かす遊びが多かったけれど、女の子と遊ぶ時は「縄跳びの縄をゴム代わり」にしてよく遊びました。 近所の女の子といつも2人で遊んでいました。2人でも頭を使えばゴム跳びはできます。縄跳びの縄を柱に結んで固定し、一人が縄を動かし、一人が跳ぶ。それに飽きると、縄に当たらないようにくぐり抜けるリンボーダンスのような遊びをするのが私たちの鉄板でした。 縄跳びの縄が2本あれば、暗くなるまで2人で遊んでいられたあの頃。縄に当たりにくくするためなら真冬でも上着を脱いで、寒さもなんのそので遊んでいられたあの頃。 今は、小学校から帰ってくると、「遊びに行ってくる!」と、元気よく出かける息子の後...つづき
1968年生まれ

「鬼ごっこ」で味わえるもの

Tenさん 福井県の学校の校庭 1968年生まれ 男性 テレパシーで示し合わしたかのように、放課後の校庭で「鬼ごっこ」がはじまります。 鬼決めしたあと、逃げる子たち(以下、逃げ子)は広大な校庭の端々にある遊具をうまく逃げるツールとして使いながら鬼との距離を保とうと必死です。 鬼に追い詰められタッチされた子は鬼になり、おおよそ3人単位で手をつないだまま、次のターゲットを追い込んでいきます。 鬼グループは少しずつ多くなっていきます。 この時逃げている自分は、高所恐怖症のような下半身がゾクゾクするようななんとも言えない恐怖心にかられますが、最後まで逃げ切る雄姿を頭に描きながら奮闘します。 3人が手をつなぎ構成する単位は絶妙な大きさで、両端の2人が別の方向へ追いかけようとするとターゲットを逃してしまいます。 何せ校庭は広く1グループだけで攻めるには限界があり、複数のグループが同じターゲットを攻めないと追い込めません。 時には鬼がのばした手の指の風圧を袖に感じながらすり抜けた達成感は「逃げ子」でなければ感じることができません。 追い詰めている途中よりも、いよいよ最後の「逃げ子」が捕まった瞬間が、...つづき
1991年生まれ

鉄棒が嫌だった

こむももみじさん 静岡県 1991生まれ 女性 小学生の時鉄棒の授業鉄棒で思い出すことは体育の鉄棒のテスト。 出席番号順にテストしていくので「あ行の苗字」だった私は、いつも一番で(鉄棒にかぎらず・・・)した。 ホントに嫌だったな。 自分は運動が得意ではないので、尚更一番にやることが嫌でした。 鉄棒にまたがるとき女子でもそこそこ痛いです(どこがとは言えませんが)。コウモリという両足のみででぶら下がり逆さまになるやつを低い鉄棒でやって頭を擦ったりもしました。 鉄棒で遊ぼうとする日に限ってスカートだったりします。 でも気にせずやってたら男子に見られたりしました。 自分たちの世代から逆上がりの補助をしてくれる「沿っている台」みたいなものが設置されました。当時はもう高学年になっていたため、早くこういうものが欲しかったなという思い出があります。 小学校3年の娘も鉄棒が苦手で、逆上がり練習中に背中から落ちてトラウマになってました。 自分も当時は逆上がりの練習は大嫌いでしたが、たくさん練習したり、タオルを腰に巻くといいとか、いろんな方法で逆上がりの練習をしたことで自分なりにコツがつかみました。 出来た...つづき