大阪府に住んでいた人が小学生の頃にした遊びの思い出

1977年生まれ

下校時の小学生に「教育教材を売るおじさん」

とまとさん 大阪府 1977年生まれ 男性 小学校の帰り、正門前に人だかりが出来ていて、見るからに怪しいおじさんが教育教材を売っていました。 しかし、子ども向けに宣伝していた事もあったからか、教材についての説明は一切なく、その教材に申し込んだ時の特典付録についての説明ばかりでした。 練り消しのように、とても伸びるが良く消える消しゴム。何色もあるロケット鉛筆。折りたためる定規など、少し不思議な所が小学生の気を引く所であり。 それぞれの品をどのように使うか、実践して見せるので誰もが欲しくなり、興味津々に話を聞いていました。 すると、最後に簡単なテストと申し込み用紙を渡され、申し込みたい人は学校前の電柱にポストを付けておくので、そこにテストと申し込み用紙を入れて下さいと言われました。 私は、申し込む気満々で家に帰ってすぐにその渡されたテスト問題をし、母に「これをポストに入れる」と言うと、「それは騙しの教材なのでそんなのに乗っかったら駄目」と怒られてしまい、申し込まずに終わりました。 これこそが、社会勉強です。ちなみに、ポストは翌朝の登校時、しっかりと電柱に巻き付けてありました。 今思うと正門...つづき
1967年生まれ

あっち向いてほいの思い出

50代の男性 大阪府 1967年生まれ 男性 昭和の子供世代、小学校の時は「あっち向いてほい」という遊びが流行った時期でした。 じゃんけんに勝った方が相手に対して、顔の動き(左向き、右向き、上向き、下向き)を指で当てれば勝ちと言うゲームです。 授業の間の休み時間は短く、教室内で遊んでいたので、この遊びもその一つでした。 じゃんけんに勝った上、顔の向きを当てないと勝ちになりません。単純にじゃんけんで勝つだけではないところが面白い。 基本的なルールを自分たちで複雑化していって、ゲームを楽しんでいました。 例えば、「ほい」と言って指を動かす回数と、首を動かす回数を変えるゲーム。 この指を動かす回数はじゃんけんに勝った方がその時に決めて、最終的に回数で、指の方向と顔の向きが一致した時にのみに勝ちとするというルール決めました。 今と違って、ゲーム機等はない時代だったので、自分たちで考えた遊びが多かったのが良い思い出です。
1988年生まれ

じゃんけんグリコの 駆け引き

ぽんずさん 大阪府 1988年生まれ 女性 私たちは小学生の頃には既に「駆け引き」を学んでいたのだと、今になって思います。 階段があれば必ずやったじゃんけん遊びがありました。その名も「グリコ」。 じゃんけんほい!と元気な掛け声でじゃんけんをして、グーで勝った人は「グリコ」、パーで勝った人は「パイナップル」、チョキで勝った人は「チョコレート」といった形で、その文字数だけ階段を上がれます。一番最初に上がりきった人が勝ち。 グーの場合は「グリコ」で3文字なので当然数字的には早く上がるには不利になります。ところがこの遊びの面白いところで、じゃあ単純に文字数も多くてグーに勝てるパイナップルのパーを出せばいいのかとなると、そこにはそれを狙ったチョコレートのチョキが待ち構えている・・・。 このシンプルながら先の先のそのまた先を読む遊びを、無邪気にしょっちゅう遊んでいたなぁと懐かしく思います。 ただし、その頃「先の先のそのまた先」まで読んで楽しんでいた子供がどのくらいいたのかはわかりません。 少なくとも私は何も考えずに(あ〜グリコ食べたいな〜)なんて思いながら大きな声で「じゃんけんほい!」と言っていた...つづき
1967年生まれ

「ハラハラ、ワクワク、ドキドキ」グローブジャングルの思い出

昭和世代のやんちゃ坊主 大阪府 1967年生まれ 男性 グローブジャングルは危ないからと今では設置されている公園は少ないかも知れませんが、昭和時代は子供がよく遊んでいました。 男とは言え、最初は怖いもので、下で、回しながら、足を浮かせたり、グローブジャングルに足を乗っけたりしていました。中は中で、よじ登って、回されるのも面白いものです。女の子も一緒に遊んでいました。 回転に慣れてくると、どうしても、高い所で回されるスリルを味わいたくて、徐々に高い位置に挑戦していました。 円状の上側で、外側に登っている時に、男の子が数名で、地面側で回されると、回転力が強くなり、しっかりとつかんでいないと振り落とされる感じで、怖い思いもしました。 まあ、中には、悪ガキ数名がいたずらで、強く、グローブジャングルをまわしていた事もありました。 今、50代になった自分から考えると、子供用の無料で近所の公園で遊べるジェットコースターの始まりというイメージです。 雨が降った後、機具がまだ濡れていると、回転と遠心力で手が滑りやすかった事もありました。 運が良かったのか、タイミングの問題なのかは分かりませんが、グローブ...つづき
1978年生まれ

「学童の先生との石蹴りの思い出」ごんべえさん

ことねさん 大阪府 1978年生まれ 女性 私は小学生の頃「学童っこ」でした。その為、学校の子達が知らない学童だけでやっている遊びがいくつもありました。 学童の先生は20代後半の女性でした。1960年代くらいの生まれだったと思いますが、その先生はおじいちゃんに育てられた人で、かなり古い遊びをたくさん知っていました。石蹴りもその一つです。 道に『ごんべさん』を書いて、マスの中に石を蹴って入れます。上手く入ったら、石を入れたマスだけ飛び越えて、あとのマスをけんけんぱして行って戻ってこれたら成功という遊びでした。 手前のマスから順番に石を入れて一番遠いマスまで到達できた人が勝ちでした。 この遊びは2〜3人で、学童の前の狭い道路でやっていました。 公園で大人数でやる石蹴りもありました。大きな四角を書いて、それを2列4行の8マスに区切ります。それぞれのマスの中にも線が引かれて、マスごとに『ここは右と左の両方に足を置いた状態で蹴る』といったルール。 2チームに分かれて、各チームごとに石蹴りをし、誰か一人でもゴールできたチームが勝ちという遊びでした。 今思うと石とチョークだけであんなにみんなで夢中に...つづき
1982年生まれ

白熱する石蹴りの思い出

ねえちゃん 大阪府 1982年生まれ 女性 石蹴りは登校時は何故かせず、下校時にしていました。 特別なルールはありませんが、必ず一つの石を交互に蹴るのが暗黙のルールだった気がします。 下校時にたまたま見つけた程よい大きさの石を蹴りながら歩きます。 あまり大人数ですることはなく、一緒に帰る友達が2〜3人でひたすら蹴るのです。 何となく相手にパスしながら通学路を進みます。 危ない話ですが、強めに蹴ったりすることもあります。特に早く帰りたい時などはロングパスをしたいため、勢いよく石を蹴ります。 すると、知らない人のお家に入ったり、停まっている車の下に入ったりする訳です。 何故か手を使って取るのはアウトなので、意地でも足で取ります。 必死に足を伸ばしてプルプルさせながら足で石を取り、また石蹴りの再開です。 通学路でしますので、どうやっても最後は一人になります。 最後が自分だった場合は、勝手に自宅付近でゴールを決めるのですが、上手い具合にその場所へ石が入らないと家に入れないという自分ルールがあり、白熱してなかなか家に帰れないこともありました。
1977年生まれ

「登下校の思い出」嫌な教科があるときは石蹴りしながら登校

やまぺさん 大阪府 1977年生まれ 男性 嫌いな教科の授業がある時など学校へ行くのが嫌な日があると、よく朝から石蹴りをしながら登校していました。 石蹴りをしていると、それに夢中になって嫌な事などは全て忘れます。 当時流行していたキャプテン翼をイメージして、何とかシュートとか言いながら学校までずっと石を蹴りながら登校していました。 しかし、石蹴りをしながらの登校は、とても時間がかかるのでいつも授業が始まる直前に学校に着き、現実に戻されます。 すぐ授業に入らないといけないので、余裕がなく、後悔をしてしまいますが、どうしても現実逃避をしたいので、嫌な日は石蹴りをする事を自分の中で決めていました。 ある日、登校時から友達と一緒に石蹴りをして学校まで行ったことがありますが、その時は流石に遅刻してしまい、先生に怒られました。 その日は一日中嫌な気分だったので、帰りも石蹴りをして帰宅しましたが、家に帰って一日を振り返ってみると自分が悪い事に気付き、それ以降は石蹴りをしての登校は止めました。
1985年生まれ

「恐怖のサッカーの思い出」ゴール前に並ばされた女子

べあとさん 大阪府 1985年 女性 小学校5、6年の時の話です。その頃になると男子はサッカーにハマり始めたようで、天気の良い日は2時間目と3時間目の間の少し長めの休み時間に校庭でサッカーをよくするようになっていました。 ある日クラスのリーダー格の男子が「クラス全員でやろうぜ!!」と言い出したのです。リーダー格の男子の言うことには逆らえない雰囲気のクラスだったので、女子は嫌々参加させられることになりました。 チーム分けは代表男子同士のじゃんけんによる取り合いです。これもなかなか指名されないのは精神的にしんどい。 チームが決まったらさっそく試合が始まるのですが、普段女子はサッカーをしていないので、何をどうしたら良いのかさっぱりわかりません。 しかも、クラス全員が一つのサッカーコート内にいるわけなので、謎に人がたくさんいる状況に。 すると女子の動きにイラついたリーダー格の男子が、「おい!!女子邪魔やわ!!もうお前ら全員ゴール前に横一列に並んどけ!!!」と言い出し、他の男子も「それめっちゃいいやん!!ナイス!!」と賛成したので、女子は全員ゴール前に並ばされました。 こんなのボールに慣れていな...つづき
1977年生まれ

小学1年生とき クラスに入り込んだ犬の恐怖

卵焼きさん 大阪府 1977年生まれ 男性 私の通っていた小学校は1年生が校舎の1階で、廊下もドアを開放している事が多く、葉っぱや虫など色々なものが校舎に入って来ました。 その中でも犬が入って来た時は、クラス中が大騒ぎでした。 犬を飼っているクラスメイトも多かったので、ほとんどの人が大喜びでしたが、私は犬が大嫌いだったので、早く何処かへ行って欲しいと言う気持ちしかありませんでした。 「近くに来たらどうしよう」「嚙まれたらどうしよう」など、心配と恐怖ばかり。どうにか恐怖に打ち勝とうと必死に頑張っていると、もう泣いてしまっている女の子がいました。 その子を見ると、私も余計に不安になり、泣きそうになりましたが、一緒に泣くのは恥ずかしいと言う気持ちもあり。 怖さと恥ずかしさとで、もう何が何だかわからなくなっていました。 そこへ担任の先生がやって来て、その犬を校舎から追い払い、戻って来られないようにドアを閉めてくれたました。 私の緊張は一気に解けて結局泣いてしまいました。「先生、もう少し早く来て欲しかった」と言う気持ちは、今でも忘れられません。
1972年生まれ

歴戦の勇士はちょっとズルい?

hanai-senseさん 大阪府 1972年生まれ 男性 昭和50年代後半の小学生時代に、古くからある近所の駄菓子屋に友達数人で行きました。 いつものように何を買おうかと物色していると、奥の方の棚にベーゴマがありました。「これ何や?」「どうするんや?」と話してると、一人が「知ってるで、『こち亀』でやってた。 回してぶつけて、残ったもん勝ちや」と言ってましたが、回し方も分からずその日はそこまででした。 後日みんなで行ってる子ども会のソフトボールの練習後に、その話をコーチにしてみると、他のコーチや監督までが「久しぶりやな~ヨッシャ!回し方教えたろ!」と言い出したので、みんなでやってみることにしました。 翌週新しいベーゴマと紐をもって集まると、大人の方が準備万端で待ち構えてくれていました。樽の上にシートを張った「場」まで用意してました。 さぁ勝負と思いましたが、これがなかなか回る所までが難しく、半日かかってやっとのことで回せるようになりましたが、歴戦の大人とは全く勝負にならず、大変悔しい思いとともに、少しの尊敬を抱いたのを覚えています。 30年ほどたっておじいちゃんになったコーチ達にどうし...つづき
1972年生まれ

「本日のヒーローは〇〇選手です!」空き地で草野球の思い出

hanai-senseさん 大阪府 1972年 男性 空地があれば「野球」と思い出すほど、同級生の友達と毎日のように明け暮れていた小学生時代。 学校から帰ったら、それこそカバンを放り投げて、グローブとバット、ボールを自転車のかごに突っ込んで、近所の大きな空地に集合です。 早く場所取りしないと、上級生に取られて、その日は小さな公園で遠慮しながらの三角ベースになってしまいます。 月曜日から金曜日までは人数のバラつきがあるため練習です。 空地での練習とは言え、全力で投げて、打って走るのでなかなかハードな時間ですが、その中でプロ野球選手のモノマネをして爆笑してました。 さすが大阪だけあって、阪神タイガースの掛布選手や小林投手のマネが絶妙に上手い者が大人気でした。 土曜は昼ご飯を食べてから集合、他のクラスのチームと試合です。 ミス連発の泥試合の中にも、まぐれのホームランやファインプレーも飛び出し、日が暮れるまで大盛り上がりでした。 そして勝ったときは、最後にプロ野球なみにヒーローインタビューです! 「本日のヒーローは〇〇選手です!」「打ったのは高めのスライダー、会心の当たりでした」などとプロ顔負...つづき
1977年生まれ

祖父の園芸店の砂遊び

きんぞくさん 大阪府 1977年生まれ 男性 祖父の園芸店では、園芸で使う大量の砂が積み上げてありました。そこでトンネルや落とし穴を作って遊びました。 遊びの一つとして「どれだけ大きな山を作れるか」を競った事があります。 その時、砂を奥深くまで掘っていたら、砂が粘土質になってきたので、最初は土粘土(つちねんど)として遊べるかも知れないと思い。必死になって穴を掘りました。 すると、砂は粘土質から、少し湿って水を含んだ泥のような土に変わってきました。 本で読んだ知識で、砂を奥まで掘り続けると水が出てくる事を思い出し、やる気が出て、水が出るまで夢中で穴を掘る事にしました。 途中、その掘った砂を周りのあちこちに散らかしていたので、祖父からは【園芸で使う土なので綺麗に使いなさい」と怒られたりもしましたが、もう水が出るまで掘り続ける事に決めた私にとって、そんな事は聞く耳を持たず。 1時間以上掘り続けると、何と底から水が出て来ました。これは感動。自画自賛しました。 しかし、祖父からはもうあの遊びや止めてくれと言われ、結局1回しか出来ませんでした。とても良い思い出です。
1987年生まれ

「父大活躍」竹とんぼ作りの思い出

みのさん 大阪府 1987女性 小学生の低学年時、私は、小学校の理科の時間に竹とんぼを作った事があります。 子供でも作れる簡単なキットで、分厚い竹に串を刺しただけの簡単な物。あくまで、「空気抵抗を上手く活用すれば、宙に浮くことが出来る」を体験させる為の物であり、然程高性能では無かったでしょう。 それでも私は、自分の手で作った物が宙に浮かぶ経験が楽しくて、持って帰って自慢げに両親に見せました。 ところが、そこで、父の悪い癖に火が付いた。 手先が器用で、木材加工を趣味としている父は、「そんな分厚い竹では、飛べる高さも時間もたかが知れている。自分が作り直す」と言って、竹とんぼを取り上げてしまいました。 当時の私は、自分がせっかく作った物に手を加えられてしまう事が嫌で、大激怒。だが、そんな私を納得させ、黙らせるだけのスキルを父は持っていました。 自信ありげに笑う父は、私の目の前で、「ここをもうちょっと削ったら、重さが減るから、もっと飛びやすくなる。ここを、こういう形にすれば、より空気抵抗を上手く活用できる」と一つ一つレクチャ-しながら、器用に竹とんぼを削っていきました。 「父さんも子供の頃、こ...つづき
1985年生まれ

小学校の授業で作った竹とんぼ

リコさん 大阪府 1985年生まれ 女性 小学校二年生の頃に学校の生活の授業で竹とんぼを作りました。「昔の人たちはどんなおもちゃで遊んでいたのか、今とどのように違うのか」を学ぶ授業の一環です。 竹とんぼ作りは「竹とんぼキット」が用意されていたので、1から作るようなことはしませんが、微調整で削る作業をしました。 工作は不得意なので上手くいかず、削ったところもギザギザになって出来上がりました。案の定あまり上手く飛ばず、「つまらないな」と思いました。 出来上がった竹とんぼを持って、校庭でお友達と「誰が一番飛ぶか競争」をする子たちや、一人で黙々と飛ばす子、お友達とお話しながら飛ばす子、色々いました。 私は、「授業中なのに校庭に出ておもちゃで遊ぶ」ということが楽しかったです。
1976年生まれ

ガキ大将に巻き込まれた「ケンカごっこ」でやりすぎてしまった話

ゆでたまごさん 大阪府 1976年生まれ 男性 ガキ大将と言えばケンカのイメージですが、だいたいは弱い人など殴ったりせず、相応の相手を選んでしていました。 私はおとなしく目立たない存在でしたが、成長期のタイミングの差からか、体が大きく力だけはありました。 そんな体格の良さからか、目をつけられたのか、ケンカごっこに巻き込まれてしまいました。 いつもは、ガキ大将の取り巻き同士でケンカごっこをしているのですが、飽きてきたのか私が目をつけられてしまいました。 まずは一番弱そうな子が私の相手に選ばれました。 ケンカといっても理由もなく殴り合いをする気も起きず、だいたいの人は「相撲もどき」の取っ組み合いでお茶を濁します。 そんな事とは知らない私は、ガキ大将と大勢の取り巻きに囲まれ、パニックになり、必至で腕や足を振り回しました。ガキ大将たちは、最初こそ混乱する様子を見てみんなで笑っていました。 私のほうが数十センチも身長が高く、必至に暴れるものだから、相手もたまったものではありません。 ガキ大将も「殴れ、蹴れ」とはやし立てますが、偶然当たった腕や足のせいでいつの間にか流血沙汰になっていました。 それ...つづき
1976年生まれ

学校の運動場で遊んだキックベースとガキ大将

ヒロタさん 大阪府 1976年生まれ 男性 我々の世代はガキ大将といえばアニメや漫画ではバリバリの現役でした。 当の子供たちは、「ガキ大将なんてお父さんの世代の話でしょう」と思っていたわけですが、実際には、いかにもガキ大将といった子がいて、遊びの中心になっていたものでした。 小学校の頃の話ですが、私の学校では休憩時間といえばキックベースという遊びが流行っていました。キックベースというのは野球に似たスポーツです。 違いはピッチャー役の人が人の頭程度の大きさのボールを転がして、それを蹴るという事。そしてランナーをアウトにする方法がタッチだけではなく、ボールをぶつけてもよいという事でした。 ボールを蹴る力、そしてキャッチしたボールを相手にぶつける肩の良さが大事です。 他にもボールをキャッチする技術や足の速さも必要です。チームとしてのバランスを考えるのが大変です。 遊びの最初にはチーム分けをします。キャプテン同士でじゃんけんをして勝った方から順番にメンバーを決めます。 このキャプテンはもうガキ大将やライバルたちが必ず勝手に引き受けてしまいます。こういう所がガキ大将たるゆえんなんでしょう。 そし...つづき
1982年生まれ

度胸試しなシーソーの思い出

ちーさまさん 大阪府 1982年生まれ 女性 一般的なシーソーの遊び方は、大体同じくらいの体重の子が両サイドに座り、お互いに足を使って地面を蹴り上げて、交互に上下するのを楽しむと思いますが、盛り上がってくると必ず度胸試しの様な遊び方になっていました。 今考えると、なかなか危なっかしいのですが、最初に乗れるだけ乗って、特に掛け声もなく、アクションもない状態から、突然一人抜け、二人抜け、三人…と抜けていき。残り両サイドに一人ずつになった瞬間、最後になった子は凄まじい勢いで下に下がってお尻を打つ…という遊びをしていました。 抜けるタイミングをみはかるのが難しく、途中で抜けれても抜け方が下手ならば転けたりして怪我をすることもあった気がします。 他にも、そもそも座って遊ばずに平均台の様に木の上をバランス良く右から左に歩いたたり、両サイドに一人ずつ立って、思いっきりその場で跳ねてボヨンボヨンと遊ぶ等、優雅にシーソーを遊んだ記憶がありません。 いつも、いつのまにか度胸試しになっていました。
1977年生まれ

シーソーの両端に石を置いてバランスをとる遊び

さんかくさん 山大阪府 1977年生まれ 男性 公園にあったシーソー。最初は、兄弟や友達と普通に乗り合って遊んでいるだけで楽しかったが、小学校も高学年になると、それだけではつまらなくなります。 そして、思いついたのが大きくて同じような石を友達と1個ずつ見つけてきて左右に乗せて重さを競い合う遊びでした。 この遊びは石を見つけるのが難しく。やっと同じような大きさの石を見つけてきた頃には、もうどっちが重いかなんてどうでも良くなってしまい。全然面白くありませんでした。 最終的にたどり着いたのが「同じ重さの石」を見つける事でした。遊び方としては、先程と何も変わっていませんが、どっちが重いかを考えるより、同じ重さの石を見つける方が、友達と何かを共有しているような気持ちになりました。 同じ重さの石を見つけられた時には、一緒に何かをやり遂げたような充実感が漂い。単純な遊びでしたが、繰り返して遊ぶ事が出来ました。
1977年生まれ

箱ブランコで劇遊び

あんまんさん 大阪府 1977年生まれ 女性 今はない公園ですが、商店街の裏に小さな公園がありました。隣がこんにゃく工場のため匂いがきつく、人が少ないので、人気の箱ブランコで遊ぶのにいつもその公園へ行っていました。 箱ブランコは女子にも男子にも人気があり、男子がいると箱ブランコを必要以上に揺らすため、ゆっくり遊べません。そこで人の少ない公園に行く必要があったんです。 女子に人気の遊びは、箱ブランコで劇遊びでした。箱ブランコは家にもなり、乗り物にもなります。いくらでも物語が続くので何時間でもそこにいることができました。 箱ブランコの下にはなぜか土が溜まっていて、そこに宝物を隠し冒険に行くという遊びが当時流行っていて、だれがお姫様の役をするかでもめていたのを覚えています。 みんな悪役はしたくないので、みんなお姫様ということもあり、何がなんだかわからない劇になっていましたが、楽しんでいました。 それを担任の先生に話したら、ビデオを撮ってあげると言われ。みんなできちんと台本を作ろうと頑張りましたが、意見がまとまらず。その話はいつの間にかなくなってしまいました。
1967年生まれ

滅多に降らない雪で遊ぶのは最高の喜び

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 大阪に住んでいますから、降る雪を見ることはなかなかできません。雪が降ったとしても、積もることは滅多にないです。 ある日のこと、朝起きると母親がこう言いました。「庭を見てごらん、雪が積もってるよ」。 「えっ」と言い私は庭の方へ行き、戸を開けました。すると雪が積もっていて、「雪だるまが作れる」とその瞬間に思いました。外に出て、兄弟とともに雪だるまを作り始めました。 雪だるまは雪の量が多くないと、大きな雪だるまは作れません。道路にある雪は泥で汚く、きれいな白いままの雪だるまはとても難しい状況です。きれいな雪をかき集め、夢中で作り上げました。 目とか口はないものの雪だるまが完成しました。それが終わると兄弟で雪合戦です。道路の雪を丸めて兄や弟にぶつけるのです。この遊びは面白く、きゃきゃーと大きな声で雪をぶつけ合いました。 走り回りながら雪を手で丸めて投げる。投げては逃げ、また雪の球を作り投げ合いました。みんな息がハアハアを大きな呼吸をして、顔は喜びで満ち溢れ愉快な一日でした。
1978年生まれ

「貴重な雪」での雪遊びの思い出

もももさん 大阪府 1978年生まれ 女性 私の住んでいた大阪は、雪がほとんど積もりません。最近は全くと言ってよいほど積もることはありませんが、それでも幼少期は年に1、2度うっすら積もることもありました。 たまに積もった雪は、子どもたちのテンションを高くします。溶けにくい車のボンネットなどに薄くつもった雪を手寧にかき集めて、小さな雪だるまを作るのがお決まりです。 子どもの手のひらで握っても小さいと感じるくらいの小さい雪だるまが出来ます。同じようなことをして、玄関前に小さな小さな雪だるまを飾っている家を見ると自分の作品と比べてみたりしたものです。 雪合戦などの経験はほとんどありません。テレビで雪合戦やかまくら等の映像を見るとあこがれたものです。 男の子たちは、雪らチラつき始めると、口を開けて上を向いて走っていました。よくわからない遊びでしたが、雪の冷たさを口の中で感じながら、あれはあれで楽しそうでした。 運動場にうっすら積もった白い雪を一番に踏みたくて、休み時間になると我先に・・・と外へ走って出たことも懐かしい思い出です。
1973年生まれ

花の遊びの思い出

きょうこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 公園で咲いている花を使って遊んでいました。 白い花がたくさん咲いていて、1つずつ千切って繋げていきます。茎の部分を絡ませて繋げます。そうして長めに花を繋げたら輪っかにします。花の輪を頭に乗っけて出来上がり。とてもかわいく仕上がります。 白い小さなボンボリみたいな花が輪になり、花を繋げるのに時間がかかるので、出来上がったときは喜びが増します。 近所の子供とよく花輪を作って遊んでいました。器用でないと出来ませんが、1回できるとかわいいので再び作ろうと思います。 この遊びは結構したことがあると思う遊びです。今でも花を見ると花輪のことを時々思い出すくらいかわいい花輪でした。
1973年生まれ

看護師さんごっこの思い出

みぃこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 子供の頃、近所の子供と「看護師さんごっこ」をして遊んでいました。風邪を引いた設定。私が看護師さん役で、近所の子供が患者役です。 注射器のおもちゃを持っていたので注射をしていきます。 風邪を引いているので、注射をしましょうと言って少しづつ押しながら注射をうっていきます。これを繰り返します。少し時間が経ったり、場所を変えて公園や近所で注射をうっていきます。 患者は絶えず風邪を引いています。なかなか直らず、ずっとおもちゃの注射器で注射をする遊びをしていました。 近所の子供はいつも鼻水が出ていたので、余計に注射が必要だと思っていました。子供ながらにはやく直してあげたいと思ってした遊びです。
1973年生まれ

ドラマごっこの思い出

ゆーこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 小学生の頃に近所の子供と流行っていた遊びが「ドラマごっこ」です。その頃に流行っていたドラマで、飛行機の教官とスチュワーデスの物語で、その2人を真似して台詞を言って遊んでいました。 「お前はなんてノロマな亀なんだ」と教官が言い、スチュワーデスが「教官」と言って泣きつくシーンなどです。とてもおもしろく1日に何回も繰り返して遊んでいました。 そのドラマは毎週見ていて、子供でもわかる、わかりやすい物語でした。主人公の方も大げさに演技していたのが伝わりやすく印象が強かったので、真似をして遊んでいました。 少し独特な遊びですが、他のドラマで手袋を口で取るシーンも真似していました。主人公の手が動かない手だけマネキンのような感じで手袋をしていて、取る時に口で取るのが流行っていました。 毎週このシーンが流れるので印象に残ったので真似していました。ドラマの主人公になりきって遊んで、やりきると笑いあい、とても楽しい遊びでした。
1975年生まれ

♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら

きょうさん 大阪府 1975年生まれ 女性 小さいころ、お母さんがよくつぎはぎの布にあずきを入れてお手玉を何個か作ってくれました。親が簡単そうに歌を歌いながら、高く投げ上げたお手玉を、残りのお手玉で拾い上げる。 ♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら 私は大人になっても、二つのお手玉を両手で投げることが精いっぱい。 母や兄はよく、片手でお出球を投げていました。 私がやるとどうも右に、左に飛んで行ってしまって、バランスよくお手玉を投げ上げることができません。 それで落ちたお手玉は、つまんで拾い上げてまたチャレンジ。 今は、完成したお手玉を和雑貨などのお店で見ることができます。何個か購入して、動画でも見ながら歌ってお手玉をほおり投げてみたいです。
1963年生まれ

ブランコの「りんごいっこ!」

じゃすみんさん 大阪府 1963生まれ 女性 それは校庭や公園のブランコが二つや四つとあるところで、参加する人がブランコに乗って始まります。ギャラリーがいるときもいないときもありました。 「りんご一個」という掛け声と共にスタート。地面の土にりんごの絵を指で書き、それからそれぞれの人がブランコを漕ぎ始め、勢いをつけていかに早くいかに遠いところまで跳ぶことができるかが勝負。という遊びがありました。 「せーの」という掛け声でもいいのになぜ「りんご一個」なのかなぜ地面にりんごを描いたのか謎です。 もともと運動神経の弱い私でしたから、もちろん勝つことはまったくありませんでした。今から思うと「この人には勝てるから」という感じで誘われていたのかな。 でも誘ってもらえたことが嬉しくて、ついついその遊びのお誘いに応じてしまっていたのでした。 ただ、子供ながらに「ここで勝負にはならないんだ、違う遊びで勝負しなくちゃ」という気持ちが芽生えたのはよかったし、いい経験でした。
1967年生まれ

凧あげは奥が深い 釣り用のリールで糸を巻いてみる

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 小学生の時、凧あげに夢中になりました。どこまで高く上がるかそればかり考えていました。風が全くない時でも上空にとにかく上げれば上がるときがあります。 自宅の近くの田んぼで、いつも揚げていました。タコの糸が稲の根っこに絡んだり、根っこに躓いたり、楽しく遊びました。 あまり高く上げ過ぎると、糸を巻くのに時間がかかります。時間どころか、下手すると糸がからみ、もつれた糸を元通りにするのに泣きたくなることがあります。 その時、たまたま兄貴の彼女が来てたので、兄貴が彼女に「得意だからやってもらったら・・・」。付き合いだしたばかりの彼女は真剣に糸の絡みをほどいてくれました。私は「良いひとだなあ」と思いました。 糸を巻くのに時間がかかるので、釣のリールを持ち出してそれにタコ糸を巻き、楽な凧あげを考えました。 そんなことをしている人は私だけで得意げにリールを見せびらかしたりしました。 子供の時の凧あげは大人になっても、誰かが公園で凧あげをしいているのを見ると、「懐かしいなあ」と空を見上げます。
1997年生まれ

初めての凧揚げ体験

貴ちゃん 大阪府吹田市 1997年生まれ 男性 私が初めて体験した凧揚げ体験は寒くて操るのが大変でした。 学校のグランドや公園などに行き、始めは自分では飛ばせなかったので、親や先生などに飛ばしてもらい、安定したら自分で操っていました。風を読むのにタイミングが分からなく、人の掛け声に頼って飛ばしていました。 高く上がった凧は空を舞っていますが、複数の凧が上がると凧同士がぶつかって上手く操作が出来なかったり、喧嘩したりするハプニング。糸が他の糸と絡まって、ほどくのに時間がかかるので大変でした。 自分で創った凧の絵は遠くに飛ばすほど、描いてある絵が分からなくなり、目を細くしながら見ていました。 小さい時には、お正月に自分で創った凧を持って来て、遊んでいたのを覚えています。
1995年生まれ

ベイブレードで知ったベーゴマ

鳩サブ子 大阪府 1995年生まれ 女性 私は3人兄弟の末っ子で兄とは7歳差、姉とは5歳差でした。2000年ごろに「ベイブレード」というアニメが流行っており、兄は当時12歳ごろだったのでちょうど大流行していた時期だと思います。 その頃私はまだ5歳でさほどベーゴマの記憶はほとんど残っていません。しかし、兄がハマっていて一緒に遊んだという話を母から聞きました。 私が10歳ぐらいになった頃、兄のお下がりの勉強机にはベイブレードのシールがたくさん貼ってあり、ベーゴマもいくつか残っていました。 小学校の授業で「日本の昔からの遊びで遊んでみよう」という内容のものがあったのですが、けん玉や羽つき、お手玉の中にベーゴマがあったことを記憶しています。ベイブレードでベーゴマの存在を知っていた私はすぐにベーゴマに関心が向きました。 そのとき見た昔のベーゴマは、ベイブレードのベーゴマと違って鉄でできており、肌触りのいい質感で重厚感。当時の私の小さい手にしっかりフィットしました。 紐で何重にもぐるぐる巻きにして投げてスッと紐を引き抜くタイミングが難しかったと思います。悔しくて何回もトライしてるうちにベーゴマがう...つづき
1967年生まれ

近所の男の子と独楽遊び

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 この遊びはお正月に遊ぶものですが、時期が過ぎても独楽回しはしていました。近所の男の子や自分の兄弟と独楽で遊びました。 独楽の遊び方は上の兄が教えてくれました。私は5人兄弟の次男坊です。5人のうち4人が男です。自分の子供ができた今でもお正月に独楽回しをしています。 独楽の遊び方としては、右手で勢いよく回した独楽を空中に飛ばし、右手に乗せる遊びです。これは今でもできます。 右手に乗せたら、そのまま走ってどこまで走れるか競い合いました。走る途中で独楽を手から落としてもダメですし、手の上の独楽が止まるのもダメです。 今は独楽で遊ぶ方が少ないのでしょうか。保育園で独楽回しをしたら、それを練習するようになります。新しい遊びが主流ですが、昔懐かしい独楽回しなどをお正月にすると、懐かしい子供の頃を思い出します。
1994年生まれ

女性縄跳び検定

ayoさん 大阪府 1994年生まれ 女性 私の小学校には縄跳び検定というものがありました。級毎にカセットテープが用意されており、冬の体育の時間にみんなで挑戦していくというもので、男女共に積極的に取り組んでいました。 音楽に合わせて飛んでいくのですが、10級は前飛びのみ、9級は後ろ飛びのみなど簡単なものです。 5級を越えてくると、複合技や2重飛び、更に聞いたこともないような技を要求され大変難しいものになっていました。 そこで、私の友達と一緒に1級を目指して取り組んでいくようになりました。体育の授業だけではなく、休憩時間に職員室の前でラジカセを借りて遊ぶこともできた為、一日中縄跳びに取り組んでいました。 それに取り組んでいた毎日でしたが、その友達の一人は急に転校することになってしまいました。学校の先生に縄跳び検定のカセットをダビングしてもらい、離れても1級成功を目指そうねと誓いお別れをしました。 私は1級まで成功することはできませんでしたが、友達はできたのかなと久しぶりに思い出しました。
1974年生まれ

長縄跳びの練習の思い出

タケシさん 大阪府 1974年生まれ 男性 小学生の頃、私は長縄跳びが苦手でした。実際に縄跳びをするとヘタヘタでした。いつも練習している子たちよりも遅く降りてしまうことが多かったです。 そんなときに思い出に残るエピソードがあります。 1つ目は、縄跳びの練習中に縄が切れてしまったことです。私は練習をしていたところ、突然縄が切れて、思わず足が抜けて転んでしまいました。周りの子たちは私を見て笑いましたが、私はとても恥ずかしかったです。 2つ目は、大縄跳びの大会で負けてしまったことです。学校で行われた大縄跳びの縄跳びの大会に出場しましたが、私のミスで、引っ掛かり残念ながら負けてしまいました。周りの子たちががっかりしているところを見て、とても悔しい、悲しい気持ちになりました。 このような経験から、私は「練習することが大切」ということを学びました。毎日、少しでずつですが、練習して、縄跳びが多少はできるようになったのを覚えています。大げさですが、努力は大切だと感じました。
1978年生まれ

10人で一斉ベーゴマ

あそびーさん 大阪府 1978年生まれ 男性 小学校の低学年の時、よくベーゴマで遊んでいました。隣の小学校では全然流行っていなかったけど自分の小学校ではとても流行っていました。 大きめのフライパンを用意して、その中でお互いにベーゴマを回し、ぶつからせてはじき出したら勝利というゲーム。勝つとそのベーゴマを取られるということをしていたので、勝てばうれしいし、負ければ悔しいという感じでした。 一度自分のベーゴマを全部取られてしまい、悔しい思いをしましたが、何個か返してくれたのでよかったです。 コツは無理に回そうとするのではなくて、腕を使うのではなくて体を動かすようにして回すと、勢いよく最後まで回転を保つことができます。 10人ぐらいで大きな机の上で一斉に回し、最後まで残れば勝ち。すべてのベーゴマをとれるというゲームをやっていました。1年程度でベーゴマで遊ぶことはなくなったけれど、今思えばみんなで遊ぶことができた良い経験をできたと思います。
1978年生まれ

代表的なメンコのゲームルール3種類

あそびーさん 大阪府 1978年生まれ 男性 小学校の時、よくメンコ遊びが流行っていました。遊び方はいろいろとあります。 その① 机にあるメンコを上からメンコで叩き、裏返したらそのメンコを取ることができます。 その② 次に机の上にあるメンコ同士をはじきとばして、机から落せたらそのメンコをとることができます。 その③ 机にあるメンコをパッパッと勢いよく息を吐くようとばし、裏返ったらそのメンコをとれることができます。 代表的なメンコのゲームはこれぐらいで、人によりさまざまなゲームの仕方があります。みんないろいろなゲームを考えて遊んでいました。 叩いて裏返すメンコのコツは、力任せに思い切り叩くのではなく、軽く打ち付け風を起こすような感じでメンコを叩きつけると簡単に裏返すことができます。 メンコを取られることもあったけど、取り返すこともあり、楽しい思い出です。 一番メンコを持っている子は1000枚くらい持っていたので、絵柄など欲しいものがあると交換したり、お菓子と替えたりして遊んでいました。
1974年生まれ

熱中した!「ノータイム」と呼ばれたゴム跳び遊び

あぼちゃん 大阪府 1974年生まれ 女性 小学校の頃はまだ、外で遊んでいた子どもたちがたくさんいました。テレビゲームもそこまで浸透していませんでした。私が住んでいた家のそばには、同年齢の子たちがいたこともあって、いろいろと外遊びを楽しんだ思い出があります。 ドッジボール、鬼ごっこ、ケンケンパ、コマ回し…。普通のゴム跳びもやりましたが当時現地で「ノータイム」と呼ばれたゴム遊びがとても流行った時期がありました。 ゴム跳びのゴムを大きな輪っかにして、両端に人が入ります(2人でやる時は一方を柱などに引っ掛けました)。 2本のゴムの川を足で引っ掛けながらステップを踏んで楽しむ遊びでした。高さは膝丈・ヒップ・腰の3段階。 ステップの種類は6種類(1番2番…などど呼んだ)。膝丈はステップを3回、ヒップは2回、腰は1回という決まり。 1番の膝丈・ヒップ・腰…2番の膝丈・ヒップ・腰…という順だったか…?引っかかってしまったら交代だったか…?もう記憶が曖昧です。 ステップは番号が上がるに連れて複雑になりました。最初はゲームを楽しむというより、そのステップを踏めるようになるのが課題。 暗くなるまで練習しま...つづき
1975年生まれ

世代を超えたフラフープ

きょうさん 大阪府 1975年 女性 小学校の時、体育の授業の時にフラフープを使って遊んでいました。腰で回したり、腕で回したり、縄跳びみたいにして飛んでみたりして、楽しかったです。 大学生の時、タイムボカンの歌で有名な山本正之さんの歌で「フラフープ」という短い歌があり。曲の中で「フラフープをぱりんと割ってしまう」というような内容がありました。家族に話したら、親の時代はフラフープがとっても流行っていたと言っていました。 私の頃のフラフープは、プラスチックだったり、分解して、片づけるものも出ていたので不思議だと思いました。「ぱりんとわれるもの」という認識は私の中にはなかったと思います。 そして数年前、スポーツクラブでZUMBAを習っているときに「HULA HOOP」という曲があり、フラフープを回しているような振りが全世界で踊られています。 かつて親の時代に流行し、私たちの小学校時代や、子供の頃の遊びの中にも定着したフラフープが、今や世界でもよく知られる遊び道具の一つになっていることに驚かされました。 それでも私にとってのフラフープは、やっぱり小学校の時の無邪気に遊んでいた頃のフラフープがし...つづき
1985年生まれ

いろんな鬼ごっこの思い出

りかこさん 大阪府家のマンションの廊下 1985年生まれ 女性 小学校低学年の頃は放課後や休日によく同じマンションの近所のお友達5〜10人くらいで鬼ごっこをしていました。 定番の鬼ごっこでは人数が多く集まった時は鬼を2人にして遊びました。 私はいつも逃げている思い出しかないので、あまり鬼にならなかったのだと思います。 初めは普通の鬼ごっこをしていたのですが、学年が上がるにつれて色んな種類の鬼ごっこを楽しみました。 「色鬼」は難しかったです。 なんせマンションの踊り場でしていたので色がなく、みんなの遊び道具や自転車を持ってきて遊んでいました。 「高鬼」は遊びながら、この遊びは卑怯だなと思っていました。 高いところに登ればタッチをされないので、ずっと高い場所にいれば安全だからです。 なので、高いところに居れる時間を20秒にしたりしましたが、鬼に待ち伏せされたら終わりでした。 一番流行った鬼ごっこは「氷鬼」でした。 タッチされた時の格好で固まるのも面白かったですし、タッチされても仲間に助けてもらえるところも良かったのだと思います。
1989年生まれ

懐かしいザリガニ釣り

みぃさん 大阪府 1989年生まれ 女性私は大阪府の中でもほんの少し田舎の小学校に通っていました。 山がとても近い場所だったため、小さな池や用水路が結構ありそこにザリガニが住みついていました。 初めてザリガニ釣りを見たのは、小学校4年生の頃です。 忘れもしません、男の子の友達が「ザリガニおるんやで!」と用水路を指さし教えてくれました。 当時、図鑑でしか見たことがなく、田舎と言えどこんな大阪にザリガニなんているの?と半信半疑でした。 そんな気持ちで用水路を覗き込むと思った以上にいたザリガニにビックリ。 ザリガニもびっくりしたのか大きなハサミで威嚇してくるんです。 「見ときや」と男の子はタコ糸に割り箸を付けたものをポケットから取りだしザリガニを釣り始めました。 また、私はびっくりしました。餌がついてなかったからです。 こんなもので釣れるの?と疑いとワクワクでその様子を見てたのを今でも覚えてます。 初めはザリガニが怖くて見ていただけでしたが、数日後、スルメイカを持ってきた友達に教えてもらい初ザリガニ釣りをしました。 今となってはとても楽しい思い出です。