女性

1994年生まれ

たまごアイス

オニササさん新潟県 1994年生まれ 女性校門前でアイスを売っているおじさんがいました。味は1種類。自家製のアイスで食感はシャーベットに近く、優しい黄色が印象的でした。何の味、と例えられないのですが、ほんのり甘かったです。アイス自体に決まった名前はないのですが、子どもたちの間ではその色味から「たまごアイス」と呼ばれていました。価格はカップが300円、コーンが100円、モナカ(モナカの皮にアイスを挟んだ状態)が100円と小学生にも手を出しやすい価格です。子どもたちに大変好評で、文化祭や運動会のときは必ず出店していたのですが、長蛇の列ができていました。売っているおじさんは無口で必要最低限のことしか話しません。近所にお住まいだったので顔見知りではあったのですが、誰にもレシピを教えてくれませんでした。おじさんが体調を崩されてからは奥さんが代わりに売り子をしていました。奥さんも体調を崩されてからは、もう味わえないのが残念でなりません。
1975年生まれ

「映画のチケットを買わされた思い出」公開されることのないホラー映画

南さん北海道 1975年 女性小学校の時に、たまに校門の近くで物を売っているおじさんがいました。担任の先生からは、買ってはいけないときつく言われていたのでいつも無視していました。でも、その日はちょっと違いました。そのおじさんの周りに人だかりができていたんです。私は、いつもみたく無視しようと思っていたのですが友達がどうしても行こうと言うので仕方なく行きました。すると、おじさんは映画のチケットを売っていました。それも、聞いた事がないようなホラー映画。チケットには、お化け屋敷に出てきそうな落ち武者が描かれていました。「1枚50円だよ。どうだい?」私と友達は、かなり悩みました。他の子供達はほとんど買っています。もし、皆が観て私達だけ観ていなかったら仲間外れになってしまう。そう思ったら、我慢できませんでした。私と友達は、50円を出してチケットを購入。お小遣いのほとんどを使いました。でも、結局。その映画は公開されていなかったのです。騙されたショックは、今だに忘れられません。
1975年生まれ

逆にしたら面白くなった「逆じゃんけんの思い出」

紘子さん北海道 1975年生まれ 女性小学校5年生の時に、友達3人とジャンケンで遊んでいました。でも、だいたい、いつも同じ人が勝つんです。これではツマラナイと、1人の子が文句を言いだしました。トランプなどがないときに出来る遊びって「ジャンケン」か「しりとり」なんですよね。そうしていたら、その中の一人が「逆じゃんけんをしよう」と言いだしたんです。つまり、グーはパーに勝って、チョキはグーに勝つんです。たったこれだけのルール変更なのに、すごく複雑になって面白くなったんです。ジャンケンに強い子も、すごく弱くなって皆が同じレベルになりました。気がついたら、誰が勝ったのか負けたのすら分からないぐらいグチャグチャになりました。シンプルで遊びやすいジャンケンに、スピードを増したり、ルールを変更するだけで、途端にややこしいゲームになるんです。しばらくはこの逆ジャンケンにハマっていました。あんなにジャンケンで盛り上がった事は、きっとなかったと思います。
1988年生まれ

じゃんけんグリコの 駆け引き

ぽんずさん大阪府 1988年生まれ 女性私たちは小学生の頃には既に「駆け引き」を学んでいたのだと、今になって思います。階段があれば必ずやったじゃんけん遊びがありました。その名も「グリコ」。じゃんけんほい!と元気な掛け声でじゃんけんをして、グーで勝った人は「グリコ」、パーで勝った人は「パイナップル」、チョキで勝った人は「チョコレート」といった形で、その文字数だけ階段を上がれます。一番最初に上がりきった人が勝ち。グーの場合は「グリコ」で3文字なので当然数字的には早く上がるには不利になります。ところがこの遊びの面白いところで、じゃあ単純に文字数も多くてグーに勝てるパイナップルのパーを出せばいいのかとなると、そこにはそれを狙ったチョコレートのチョキが待ち構えている・・・。このシンプルながら先の先のそのまた先を読む遊びを、無邪気にしょっちゅう遊んでいたなぁと懐かしく思います。ただし、その頃「先の先のそのまた先」まで読んで楽しんでいた子供がどのくらいいたのかはわかりません。少なくとも私は何も考えずに(あ〜グリコ食べたいな〜)なんて思いながら大きな声で「じゃんけんほい!」と言っていたのでした。
1977年生まれ

「小さな宝物探し」学校の帰り道に不思議な石を探す 宝探し

とおこさん東京都 1977年生まれ 女性小学校三年か四年生の頃の思い出です。当時住んでいたのは、民家の途中に畑があり、マンションなどほとんどないちょっと田舎風な土地でした。家から学校までの通学路はのどかなもので、住宅街と畑を見ながら友達と変える毎日です。そんな通学路の途中に「面白い石が落ちている場所」がありました。小さな三角だったり、青くて平らな丸い石だったりと、子供の目からするとなんとも不思議で珍しいものばかりです。砂やがれきと共に落ちているそんな石を、友達と一緒に拾って帰るのが楽しい日々でした。時々ちょっと大きな花の形とかカラフルな石があって、互いに見せ合ったり交換したりと、それぞれが「面白い石」を宝探しのように見つけていました。そんな楽しい場所も引っ越しと共にお別れになりました。大人になって思い出してみると、あの場所は解体工事の時に出た石壁やタイル壁の廃材置き場だったのではないかと考えています。建物の裏側に捨て置かれた小さな欠片たちが、子供の頃にはなんとも不思議な宝探しの場所になっていたのでした。
1983年生まれ

下校中に遊んだ思い出

今日は明日さん広島県 1983年生まれ 女性下校は学校から放たれた開放感たっぷりの時間。一人の時は寄り道はしませんでしたが、友達と帰るときはおたまじゃくしやホネホネロックを探したり、ザリガニ釣りをしたり、蓮華の蜜を吸ってみたり、シロツメクサで花冠を作ったりといろんな思い出があります。子犬が産まれた家があれば見ず知らずの家であっても“ピンポーン“とチャイムを押し、「子犬と遊ばせてくださーいっ!」と飼い主にお願いしていました。ランドセルを放って夢中で遊んでいると、あっという間に日が傾き始めます。そろそろ帰ろうと言って子犬とお別れの挨拶をし、ようやく帰宅するのです。そして一人の時の土曜の下校中は、密かに“この家のお昼ごはんはなんだろなゲーム”をしていました。土曜は3時間目までしかないのでお昼で授業が終わります。帰りに歩いていると、人の家から焼きそばの香ばしい香りがしてきます。「ここは焼きそばか、ソースはオタフクだな。」さらに進んでいくと今度はカレーライスのスパイシーな香りがたまりません。「今作った匂いじゃないな、昨日の残りかな?」このように人の家のお昼メニューを心の中で言いながら帰宅していま...つづき
1983年生まれ

オリジナル指相撲

すのーぼーるさん広島県 1983年生まれ 女性私は小学生低学年のころからなぜか指相撲が強く、男の子相手でも勝っていました。手が小さいのになぜ勝てるのか自分でも分かりませんが、気合と親指を俊敏に動かせるところが勝因なのかもしれません。そうして指相撲試合を重ねるうちに、オリジナルルールが採用されました。“ピンチになったら人差し指使ってもいい“というルールです。このルールができたことで私は急にボロ負けしました。指の長さが違うため人差し指が相手の親指に届かないのです。悔しい気持ちを胸にしまい、これではいけないと新たなルールを私も発案。それは“3秒勝ち“というもので、今までは10秒間親指を捕まえたら勝ちでしたが、それを3秒に短縮。そうです、自分に有利なように設定したルールです。これは即座に「10秒親指つかめないからだろ!」と一瞬で却下されました。仕方ないので実力で勝つために指の筋肉を強くしようと、親指と人差し指に重りをつけて上下を動かすという地味な運動を頑張りました。結果、やりすぎて痛みが走り、しばらく対戦はお預けになったという切ない思い出です。
1975年生まれ

相撲大会で好きな男の子を応援できなかった思い出

サユリさん北海道 1975年生まれ 女性小学校の時に、好きな男の子がいました。ガキ大将で、いつも偉そうだったけど優しかったです。私は、本当は仲良くしたかったけど皆の手前そうはできませんでした。そんな時に、町内の相撲大会にその男の子が出る事が決まったのです。女の子のなかには、横断幕を用意する子がいたり、お菓子や飲み物を差し入れする子もいました。でも、私はその勇気さえなかったのです。友達の1人が、ガキ大将の事が好きだと言ったんです。だから、皆で応援して欲しいって。私は、自分も彼女と同じようにガキ大将が好きだとは言えずにいました。結局、彼女の恋を応援する事になりました。相撲当日。私は、心の中で一生懸命応援しました。ガキ大将が勝つ度に嬉しくて、でも切なかったです。だって、ガキ大将は1度も私の事を見てくれませんでした。結果。ガキ大将は優勝はできませんでしたが、仲間内のヒーローとなりました。そして、友達はガキ大将への告白を成功。私は、告白もできないまま失恋してしまいました。
1995年生まれ

「自由時間での一コマ」天井に挟まったボールを落とすゲーム

ばぼちゃん山口県 1995年生まれ 女性私が小学生のころミニバレー部に所属していました。放課後、学校の体育館で練習はとても楽しかったです。私の小学校の体育館の天井は鉄の梁(はり)がむき出しになっており、練習中にバレーボールが高く上がってしまい、その梁に挟まってしまうこともありました。練習中は、すぐに新しいボールを出して気にしないよう努めますが、そこは小学生、休憩に入るとそのボールを救出しようと、他のボールを高く上げて、挟まっているボールにぶつけるゲームを始めます。私はこれが楽しくて仕方ありませんでした。なんといっても、自分がぶつけたボールで、挟まっているボールを救出できるからです。誰がそのボールを救出できるか順番に挑戦します。そして、救出できたら、そのゲームに参加していたメンバ―だけでなく、ミニバレー部の監督コーチ含め笑い合います。稀に、バトミントンのシャトルやテニスボール。そしてなぜか体育館シューズが挟まっていることもありました。そして、これらのレアキャラを見つけるのも、楽しみの一つでした。暇な時にボールを当ててそれらを救出することが一時期私たちミニバレー部の中で流行っていたこともあ...つづき
1994年生まれ

「体育の時間の思い出」私はボールがハマる瞬間を目撃しました

片葉の葦新潟県 1994年生まれ 女性私の通っていた小学校の体育館にもいくつかボールが挟まっていましたが、そのうち2つは挟まるところを目撃しました。それは体育の時間に起きました。その日はバレーボールを行っていて、二人一組でパスの練習をしていました。バレーボールのパスは素人には難しく、特にアンダーハンドパス(いわゆるレシーブ)はオーバーハンドのように指でのコントロールができないため、ボールの制御が難しいのです。結構な頻度であちこちからホームランのようにボールを飛ばしてしまうチームがある中で、1つのチームがとうとう天井まで飛ばしてしまい、天井の梁(はり)の隙間に嵌って(はまって)しまいました。私の近くのチームだったので一緒になって「どうしよう、どうしよう」と焦っていると、先生が来て「他のボールを当てて(天井に挟まったボールを)押し出してみる」と力強く言ってくれました。そして先生が投げたボールは少々それて、別の場所に嵌ってしまいました。私は「先生でも駄目なんだ」と少し安心しました。先生は笑って誤魔化していました。
1975年生まれ

「卒業式でわかった真相」体育館の天井のバスケットボール

ひかりさん北海道 1975年生まれ 女性私が小学校5年生になった時に、体育館の天井にバスケットボールが挟まってると、ちょっとした騒ぎになりました。先生から、心当たりがある人はいないかと聞かれましたが誰も手を上げませんでした。でも、噂だけは広がったんです。当時、プロバスケ選手を目指していた男の子がいたのでその子ではないかと囁かれました。でも、その子も違うと言っていました。そして、いつしか噂はオカルトめいていきました。夜中におばけが置きに行ったんだとか、透明人間がやったんだとか。今思えばなんとも笑ってしまう話しなのですが、当時は真剣に話していました。結局、誰がやったかもわからずに卒業式を迎えました。すると、クラスでも一番おとなしい男の子がある告白をしたんです。実は、その子こそがバスケットボールを天井に挟めた張本人だったのです。なんでも、バスケの練習をしていたら何故か天井まで届いてしまい挟まったそうです。その日は夏休みで先生はいなかったため、そのままにしておいただけだったのです。「皆が、あんまり騒ぐから言えなかったんだよっ」と言って、その子は泣いていました。きっと、彼なりに悩んでいたのだろう...つづき
1983年生まれ

古典的なやり方でボールを取る先生たち

ブックさん広島県 1983年生まれ 女性どこの学校の天井にも挟まったボールは存在するのではないでしょうか。わたしの小学校はバレーボールが盛んで、とても強い学校でした。バレーボールが体育館の天井に挟まっているのは日常茶飯事でした。でも体育の授業で見たボールは次の体育の時にはなくなっています。内心あんな高いところに挟まっているボールを誰がどうやって取っているのか不思議でした。しかし、夏休みに入る前日、体育館のドアが開けられ先生たちが掃除をしていました。その時に先生方が一生懸命天井のバレーボールを箒の柄(ほおきのえ)でつついて落としていたのです。思っているより古典的なやり方でちょっと衝撃でした。そして体育館の真ん中らへんに挟まっているバレーボールは箒の柄では届かないのでテニスボールを投げつけて取っていました。こちらもボールを落とすためにボールを使うというなかなかのやり方。それにしても私たちが知らない間に先生たちはこうしていろんな細かいところまでしてくれているんだなと思い、感謝でした。
1994年生まれ

「謎のボールの思い出」謎が謎のまま解けない話

瑠璃さん北海道 1994年生まれ 女性自分が小学校に入学したときにはもう既に、その小学校の体育館の天井には、謎のボールが存在しました。自分の記憶では、それはサッカーボールやバスケットボールではなかったので、おそらくソフトバレーボールだったと思います。自分は入学してからというもの、体育館に来るたびにそのボールを見上げて、「なんであんなところにボールがあるのだろう?」「一体誰があんなところにボールを引っかけたのだろう?」と考えるばかりでした。全校集会や行事の時も、あの謎のボールが気になって気になって仕方がなく、多くの人が無駄に長くて嫌いであっただろう校長先生のお話なんかは謎のボールに思考を支配されていた自分には全く頭に入って来ませんでした。それから年を重ねて高学年になっても、あのボールの謎は解けず、結局卒業式のときもそのボールは天井にあるまま。「なんであんなところにボールがあるのだろう?」「一体誰があんなところにボールを引っかけたのだろう?」という謎は解けずじまいに終わりました。
1977年生まれ

「一番のお気に入り」グローブジャングルの思い出

はぁむさん埼玉県 1977年生まれ 女性私が公園で遊ぶ時に、決まって一番に走り寄るのはグローブジャングルでした。ブランコも滑り台も大好き、鉄棒でもたくさん遊ぶけど、一度回せばその後しばらく回っていてくれて、しかも大人数で遊べるこの遊具は特別大好きな存在でした。どこにでもあるわけではなく、たまたま友達の家のそばで見つけたそのグローブジャングルは、赤、青、黄色の3色に塗られてとても大きく、子どもの目にはまるでキラキラ輝く地球儀のようでした。友達数人と遊ぶのにちょうど良く、外周りを走りながらジャングルを回す子と、中でキャーキャー騒ぐ子とが順番に入れ替わっては楽しみ、何回やっても飽きません。ようやく疲れてくると、持ち寄ったお菓子を持って全員中に入り込み、おやつタイムになります。その後はまたゆっくり回したり速く回したり、サーカス団のようなポーズを決めながら面白おかしく回って笑い合ったりが延々に続き、いよいよ落ち着いてくるとジャングルの上に登ってお話をしたりして、大切な秘密基地のような思い出の場所です。
1990年生まれ

回転ジャングルジムで遊んだ思い出

minさん島根県 1990年生まれ 女性回転ジャングルジムはよく小学生の頃に公園で遊んだ思い出があります。公園に着くと最初に滑り台、ブランコで遊び次に回転ジャングルジムで遊んでいました。回転ジャングルジムはずっと遊べる遊具のひとつでした。最初に友達とじゃんけんをしてから誰が回すのかを決めて、「もう少し早くして!」と笑いあいながら遊んでいたことを思い出します。乗っている方と回す方の遊び方があり、乗っている側はとにかく楽しく笑いが止まりません。回す方は体力勝負であり、乗っている友達が楽しんでくれるように一生懸命走って回します。途中自分の中で最高速度を回して自分も一緒に回転ジャングルジムに乗り込む時が、回す方の疲れを癒してくれるのです。一生懸命走って回したので乗った時には汗をたくさんかいており、回っている時の風に当たっている時がとても気持ちが良かったと思い出があります。
1966年生まれ

グローブジャングルの怖かった思い出

キンモクセイさん埼玉県 1966年生まれ 女性私が通っていたの小学校の校庭の固定施設にグローブジャングルがありました。あの頃私たちはジャングルジムとの区別もあって、そのかたちから『地球儀』と呼んでいました。遊び方は真ん中の芯棒の部分につかまって乗っている子、外側につかまって上の方に乗る子、同じ外側でも回すために足を地につけている子などそれぞれ好きな位置に乗っていました。回す子は走って地球儀を回し、好きなタイミングで地面を蹴って遠心力で体を浮かせます。そしてまた体が降りてきたタイミングで走って回し、体を浮かせて遊ぶのです。地球儀を回す子はたいてい男の子たちで、特に運動神経が良く足の速い子たちがその役を買って出て、時にはものすごい速度で回すのです。学校の休み時間などは先生方も校庭に出ているので、先生方の目を気にしてか、静かに優しく回して遊びます。それでも時には思わぬ速度になってしまい、先生に怒られながら足を使って速度を落としたりしていることもありました。ある放課後の出来事です。私は友達に誘われて、地球儀で遊ぶことになりました。それでも友達の誘いを断る勇気もなく、あまり考えもせず友達と同様に...つづき
1978年生まれ

「学童の先生との石蹴りの思い出」ごんべえさん

ことねさん大阪府 1978年生まれ 女性私は小学生の頃「学童っこ」でした。その為、学校の子達が知らない学童だけでやっている遊びがいくつもありました。学童の先生は20代後半の女性でした。1960年代くらいの生まれだったと思いますが、その先生はおじいちゃんに育てられた人で、かなり古い遊びをたくさん知っていました。石蹴りもその一つです。道に『ごんべさん』を書いて、マスの中に石を蹴って入れます。上手く入ったら、石を入れたマスだけ飛び越えて、あとのマスをけんけんぱして行って戻ってこれたら成功という遊びでした。手前のマスから順番に石を入れて一番遠いマスまで到達できた人が勝ちでした。この遊びは2〜3人で、学童の前の狭い道路でやっていました。公園で大人数でやる石蹴りもありました。大きな四角を書いて、それを2列4行の8マスに区切ります。それぞれのマスの中にも線が引かれて、マスごとに『ここは右と左の両方に足を置いた状態で蹴る』といったルール。2チームに分かれて、各チームごとに石蹴りをし、誰か一人でもゴールできたチームが勝ちという遊びでした。今思うと石とチョークだけであんなにみんなで夢中に遊べてたなんて凄い...つづき
1982年生まれ

白熱する石蹴りの思い出

ねえちゃん大阪府 1982年生まれ 女性石蹴りは登校時は何故かせず、下校時にしていました。特別なルールはありませんが、必ず一つの石を交互に蹴るのが暗黙のルールだった気がします。下校時にたまたま見つけた程よい大きさの石を蹴りながら歩きます。あまり大人数ですることはなく、一緒に帰る友達が2〜3人でひたすら蹴るのです。何となく相手にパスしながら通学路を進みます。危ない話ですが、強めに蹴ったりすることもあります。特に早く帰りたい時などはロングパスをしたいため、勢いよく石を蹴ります。すると、知らない人のお家に入ったり、停まっている車の下に入ったりする訳です。何故か手を使って取るのはアウトなので、意地でも足で取ります。必死に足を伸ばしてプルプルさせながら足で石を取り、また石蹴りの再開です。通学路でしますので、どうやっても最後は一人になります。最後が自分だった場合は、勝手に自宅付近でゴールを決めるのですが、上手い具合にその場所へ石が入らないと家に入れないという自分ルールがあり、白熱してなかなか家に帰れないこともありました。
1975年生まれ

「転校先の子どもたちと仲良くなれた遊び」石蹴りの思い出

アカリさん北海道 1975年生まれ 女性両親の都合で、小学生の時に転校しました。知らない子ばかりで、私にとっては恐怖でしかありませんでした。仲良くしたかったけれど、声をかける勇気もなく、いつも教室の隅っこにいました。一人っ子で、自分から発言するのが苦手だった私はいつも一人でした。学校でも、家でも孤独な時間が増えました。そんな時にクラスの女の子から石けりに誘われました。でも、私には石けりが何なのかさえ分からなかったんです。「このチャンスを逃したら友達ができないかも」と思った私はその子に連れられるままグラウンドに行きました。そこでは、数人の子供達が地面に何やら書いて「ケンケンパ」をしてるんです。「こうやるんだよ」その子が、地面に書かれた1という数字の所に石を投げ入れて、後はケンケンパをしながら番号順に石を蹴っていくというものでした。私は、見よう見まねで初めて石けりをしました。気がつくと、他の子供達も集まってきて自然と仲良しになれました。石けりのおかげで、クラスに溶け込む事ができました。
1968年生まれ

下校時の石蹴り遊び

スムージーさん千葉県 1968年生まれ 女性私の小学生の頃は、道はアスファルトでしたが、今ではあまり見かることのない、石が結構道に転がっていました。近所の友達と学校から帰る時、そんな石を見つけては、石蹴りをしながら、家に帰った思い出があります。蹴った石は、どこに転がるか分かりません。その事が面白く、石を追いかけながら、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、はたまた道を戻ったりと石蹴りは、続きます。石蹴りをしていると、なかなか家には辿り着きません。何処に転がるか分からない、自分の蹴った石を追いかけるのが、何故あれ程面白かったのか、今は分かりませんが、思えば人生も石蹴り遊びのようだと、中年になってしみじみと思います。
1975年生まれ

「男の子グループに勝った日」草野球の思い出

荘子さん北海道 1975年生まれ 女性小学校の頃。男子と女子は別れて草野球をしていました。男子はいつも広い場所をとっていて、私達女子は隅っこだけ。これでは全然楽しくない。そこで、女子達が直談判したんです。すると、男子が「野球で勝負だ」と言ってきました。正直、自信はありませんでした。でも、男子にバカにされたままなんて悔しい。私達は、その勝負を受ける事にしました。ですが、やはり男子の方が上でした。次々に打たれてしまい、皆悔しくて仕方がなかった。その時、リーダー格の女の子が皆を一生懸命励ましていました。皆、その言葉に諦めずに頑張りました。そして、結果は同点。勝てませんでしたが、同点になりました。すると、男子の方も私達を見直したみたいです。翌日から、一緒に遊ぶようになりました。男の子には負ける事がやっぱり多かったですが、たまに勝つ時もあってその日は大喜びしました。暗くなるまで、よく遊んだ日々は今でも良い思い出になって残っています。
1972年生まれ

「友達と研究したブレイクダンス?」休み時間の思い出

みゆさん埼玉県 1972年生まれ 女性小学校6年生の頃、「風見しんご」さんのブレイクダンスが流行っていました。友達と2人で前の晩に見た歌番組を一生懸命に思い出し、あーでもないこーでもないと再現し、ブレイクダンスを研究していました。小学校の廊下はジャージと相性がよく、背中で滑って回ったりととても楽しかった思い出です。当時はまだテレビを録画することは出来なかったので、記憶に頼るしかなく、それが大変だったのですが、少しづつ近づいている気がして楽しかったです。先生に見つからないように踊るのがまたスリルがあり、ワクワクしました。マイケル・ジャクソンのムーンウォークも流行っていて、何とかしてやってみたくて真似しましたが、なかなか上手くいきませんでした。友達が、足の動きを解明して出来た時は感動しましたし、その友達のことを天才だと思いました。今でもムーンウォークは出来ます!実は昨日、旦那にムーンウォークを教えてあげました。当時仲良しだった、教えてくれた友達を思い出して。
1980年生まれ

「意図的に逃がした兎」夏休みの思い出

えつこさん自宅の畑 1980年生まれ 女性私は小学校3年生の夏休み、友達も少なく親も共働きで、あまりかまってもらえず、家でゴロゴロする毎日を送っていました。日中の唯一の話し相手はペットの兎1匹。よく母から聞かされていた兎とカメのおとぎ話を思い出し、私と兎、どちらが速いのか勝負をしたくなりました。住まいは田舎の為、自宅の敷地は広く裏庭は畑になっています。ペットの兎を抱っこして畑に連れていき、さあ、勝負だ!とペットの兎を逃がしては必死に追いかけ捕まえ…を繰り返して遊んでいました。もし捕まえられなかったら、そのままペットの兎はどこかへ逃げ二度と戻らないでしょう。そして親の可愛がっている兎を逃がしてしまったらコテンパに怒られることでしょう。というスリルが堪らなく癖になり、親に内緒でその遊びを続けていました。その為か、学年でも遅かった私の脚は速くなり、運動会のリレーでは1位、2位は当たり前にまで成長しました。
1983年生まれ

回転する遊具「オーシャンの思い出」

マスクマンさん広島県 1983年生まれ 女性小学生時代に、オーシャンという遊具がありました。中心に柱があり、その周りに大きな輪っかが取り付けてある回転する遊具です。子どもたちはみんな輪っか部分を持ち、一人がその輪っかを持って走ることでビュンビュン高速回転するのです。このスリルがたまらなくて怖いのにやってしまうという中毒性があります。このような遊具なのでケガは当たり前でした。なんせ自分の力では止める事ができないので、手の力が限界になれば振り落とされるだけです。気付けば隣の子がいなくなっていたなんて事が毎回起きます。いつも顔から落ちたり膝を擦りむいたりしていました。それでも季節関係なく、休憩時間に行列に並んででもビュンビュン回されていました。現代では考えられないくらい危ない遊具です。回されるとずっと大笑いしている子と「止ーめーて!!!」と叫ぶ子に分かれます。私は後者。それならどうしてこの遊具で遊ぶのかと言われそうですが、なぜかやめられないのです。体が浮く浮遊感とか自分の握力の限界を知る瞬間とか、小学生なりにいろんな感覚を楽しんでいました。
1985年生まれ

「恐怖のサッカーの思い出」ゴール前に並ばされた女子

べあとさん大阪府 1985年 女性小学校5、6年の時の話です。その頃になると男子はサッカーにハマり始めたようで、天気の良い日は2時間目と3時間目の間の少し長めの休み時間に校庭でサッカーをよくするようになっていました。ある日クラスのリーダー格の男子が「クラス全員でやろうぜ!!」と言い出したのです。リーダー格の男子の言うことには逆らえない雰囲気のクラスだったので、女子は嫌々参加させられることになりました。チーム分けは代表男子同士のじゃんけんによる取り合いです。これもなかなか指名されないのは精神的にしんどい。チームが決まったらさっそく試合が始まるのですが、普段女子はサッカーをしていないので、何をどうしたら良いのかさっぱりわかりません。しかも、クラス全員が一つのサッカーコート内にいるわけなので、謎に人がたくさんいる状況に。すると女子の動きにイラついたリーダー格の男子が、「おい!!女子邪魔やわ!!もうお前ら全員ゴール前に横一列に並んどけ!!!」と言い出し、他の男子も「それめっちゃいいやん!!ナイス!!」と賛成したので、女子は全員ゴール前に並ばされました。こんなのボールに慣れていない私たちにしてみ...つづき
1984年生まれ

小学生のときの休み時間の過ごし方

ゆうさん山形県 1984年生まれ 女性低学年の頃1番遊んでいたのは、”うんてい”です。途中までしか出来なかったことが、全部渡れるようになり、そこから二段飛ばしをして遊んでいました。それから少しの間、誰が何段飛ばしまで出来るか競い合って悔しかったけれど楽しかった思い出があります。それから、ジャングルジムでも遊びました。高いところに登るのが好きで、よく1番上まで登っていましたが、そのうち飽きてくると、ジャングルジムの中で鬼ごっこをしていました。ジャングルジムなので、逃げるのは至難の業でした。低学年の時にいじめにあっていた私は、4年生頃になると図書館に入り浸るようになりました。自分が今どんな気分かによって、恋愛系の小説、ギャグ漫画のような小説、歴史の本等、どんな本でも読んでいました。手書きの図書カードがあり、それが増えていくのが自分の中ではワクワクして、もっと読もうと思っていたのを覚えています。5年生の頃、近所の年下の友達と一輪車クラブに入って、休み時間に一輪車で遊んだのは良い思い出です。ほとんどの時間を本に費やしていましたが、その頃から私の本好きの始まりになりました。
1989年生まれ

「野良犬 人気者になる」第一発見者の生徒もヒーロー

まいまいさん愛知県 1989年生まれ 女性私の母校周りは田んぼに囲まれた、川や竹藪などがあるのどかな田舎町でした。小学生の頃、登下校時に年に一度くらいは野良犬に遭遇していた頃で、学校に野良犬が迷い込んでくるのも年イチ行事くらいな間隔でありました。やはり年イチ行事、且つ突然訪れる行事だけに、野良犬が迷い込んで来たその日は全校生徒がざわつきます。そして一目見ようとあちこちから生徒が集まって来るのです。先生方は生徒の安全を守る為、必ず「教室から出るなー!」と叫んでいました。そして、野良犬を追い払うのはいつも決まって教頭先生でした。教頭先生が代わってもです。もしかしたら教頭先生の業務一覧に「野良犬を追い払う」という項目があったのかもしれませんね。(笑)そして、野良犬を見つけた生徒もヒーローとなるのです。なので「先生、犬がいるー!」と言った者勝ち。自分が見つけたかの如く、生徒たちは口々に叫んでいました。今ではセキュリティ面が強化され、大抵学校の門は閉まっていますし、住宅地が増える事で自然が減り、野良犬もなかなか見なくなりました。昔ならではの思い出話です。
1983年生まれ

「〇〇ちゃんに会いに来た」校庭に犬がやってきた思い出

眉毛イヌ東京都 1983年生まれ 女性校庭に犬がやってきたことは、何度かあります。しかも、毎回同じ犬です。その犬は同じクラスにいる友達の飼い犬でした。脱走癖がある柴犬で、逃げるといつも小学校にやってきました。誰かが「校庭に犬がいる!」と発見すると、子供達は一瞬にしてざわめきだし、授業はすぐに一時中断していました。大抵、校庭で体育をしているクラスの先生や、職員室にいた手の空いてる先生が捕まえて保護すると、飼い主の友達のお母さんが連れ戻しにやってくるパターンでした。しかし、6年生の時に一度だけ、とても印象に残っていることがあります。その時の教室は1階で、校庭に面してテラスのようなスペースのある校舎でした。いつもはすぐに友達のお母さんが連れ戻しにやって来るのですが、その日はなかなか来なくて、柴犬は校庭を走り抜け、友達の教室のテラスにやってきました。友達を見つけると嬉しそうにしっぽを振る柴犬。とても可愛かったのを覚えています。結局、お母さんに連絡がつくまで、テラスの柵に柴犬をつないで一緒に授業を受けました。友達のことが大好きなんだなぁと、あったかい気持ちになりました。
1983年生まれ

「平常心ではいられない」校庭に迷い犬の思い出

Neutralさん広島県 1983年生まれ 女性6年通っていて一度だけ野良犬が校庭に迷い込んだことがあります。茶色い雑種の犬でした。ある日隣の教室がやけにザワザワしているのが聞こえて窓側から「犬がいる!」と大きな声が聞こえました。私達のクラスもみんな窓から校庭を見てみると、犬がブランコの方へヒョコヒョコ歩いていきクンクンと辺りを嗅いでいる様子が見えました。次は鉄棒の方へ。担任の先生も一緒に見ていましたが、「はい、授業に戻るよー」と言って授業の続きが始まりました。しかしこのような事態で平常心を保てるわけがありません。校庭に犬がいる非日常感がワクワクします。早く学校が終わって触りに行きたいという気持ちでみんなザワザワします。比較的窓側の席だった私はそれからも目で追っていたのですが、先生らしき人が出てきて犬を校門まで連れていき出してしまいました。ガックリです。その後授業が終わり帰りの会を済ませ、靴箱で履き替えていると外に人だかりが。まだあの犬がいたのです。みんな撫でて可愛がっています。私も頭をヨシヨシして触れました。近くで見ると結構大きくて首輪もしていました。結局、近所の飼い犬だったことが分...つづき
1988年生まれ

「どこまで入るの」昼休みの時間に校舎に侵入した犬

おさまりんさん福島県 1988年生まれ 女性私がまだ小学生の頃は、今とは違い、校門も開けたまま、玄関も開けたままで防犯対策など全くされておらず。今となれば考えられないですが、誰でも入って来れる場所だったかと思います。でもまさか、それが人間ではなく犬であることは誰も予想しなかったのではないかと思います。今でも覚えてますが、休み時間にベランダに出て校庭を何気なく見ていました。私が6年生の頃で、高学年は三階の教室でしたので校庭が一望できました。周りは住宅地、近くに駅があり、でも地方でしたので人口も少なく、とても穏やかな場所に学校はあります。そんな校庭に、ある一匹の茶色の中型犬がツテテテテ〜と入ってきました。『え!?』となり、友達と先生に報告し、ベランダにはその犬見たさに皆んな集まる。その犬は慣れているかのように玄関に向かい姿を見失いました。まさか、と思いましたが、その犬は校舎に入ってきてしまったのです。当時私は犬が嫌いだったので、入ってきて襲われたらどうしよう、どこまでくるんだろう、学校でおしっこしないよね?など、子供ながらに想像しまくりました。ドキドキしながら待ってましたが、なかなか犬は三...つづき
1975年生まれ

「皆のアイドル」校庭に迷い込んできた子犬の思い出

マナさん北海道 1975年生まれ 女性小学校1年生の時に、校庭で遊んでいたら子犬が迷い込んできました。首輪をしていたので、どこからか来た迷子だという事になったのです。私と友達は先生に言おうと言ったのですが、他の子達は言ったら駄目だと言うのです。「可愛いから、校庭で飼おう」なんて言い出す子まで出てきたのです。子犬はたちまちアイドルになって、皆と校庭を走り回ったり、砂で遊んだりしていました。私も、犬は大好きだったのですが触った事はなかったため、ちょっと怖かったんです。でも、子犬は本当に可愛くて私もいつしかその子が大好きになりました。校庭でキャッキャッと遊んでいる声に気がついた先生が見に来たんです。そして、子犬がいる事がわかるとすぐに離れるように言いました。「この子は、ちゃんと家に帰してあげないとダメだ」先生の言葉に、私達は落ち込みました。子犬の飼い主は、思ったよりも早く見つかりました。近所のおばあさんだったのです。ほんの1時間ぐらいでしたが、子犬と遊んだ事はいい思い出です。
1983年生まれ

陣取り紙相撲

霞さん広島県 1983年生まれ 女性昭和世代に育った人は紙相撲の経験があるのではないでしょうか。紙相撲は紙で作った力士を台にのせて、指で台をトントン振動させて前へ動かしていきます。力士が倒れたり枠から出たら負け。雨の日に家の中でしていた思い出があります。私たちはこのルールを徐々に変えていき、力士を6人に増やし相手の土俵まで攻め陣取るゲームを考えてやっていました。10秒だけの対戦でどれだけ自分の力士が相手の土俵を陣取れているのかというゲームです。力士の形に少し変化をつけてみたりして、どうすれば前に進みやすいよう考えて作っていました。力士の名前は〇〇山、〇〇丸、そして外国人仕様の力士も作り”ステファニー”と女性の名前を付けていました。友達もみんな”キャサリン”とか”ボブ”と、小学生なりに聞いたことのある精一杯の外国人の名前を付けていました。ボブは非常に強く、前へ前へ進んでくる速さが凄まじいので陣取りに一番貢献した力士です。次に紙相撲をする時はこのボブの取り合いになりました。
1983年生まれ

「どこでもできる陣取り」じゅうたんの絵柄を使ったジャンケン陣取り

マヨさん広島県 1983年生まれ 女性友達の家に遊びに行った際、子供部屋のじゅうたんに電車の線路が描かれてあるおもしろいデザインでした。そこで陣取りゲームを思い付きました。線路の端と端に別れてよーいドンでスタートを切り、駆け足で線路上に沿って進むと友達と会います。ジャンケンして勝った方は進み、負けた方はスタート地点から再スタート。どんどん相手の陣地を取って行きます。盛り上がるのはゴールにあと一歩で到達するという時です。何度ジャンケンに負けてもすぐに踵を返しまたジャンケンになるのでやっている方も見ている方も大笑いしてしまいます。ここでジャンケンに勝ったなら、さらにこの盛り上がりは加速し、あと一歩でゴールだった人がスタート地点から再スタートするというまるで人生ドラマのような光景が繰り広げられます。この陣取りゲームは校庭の地面に描いて休憩時間にするほどみんなでハマりました。一人ずつではなく列を成してやる時もあり、ジャンケンしまくりで全然前に進めないなんてこともあり、楽しいゲームでした。
1981年生まれ

「じゃんけん陣取りゲーム」ルールと遊び方

ボムンゴさん三重県 1981年生まれ 女性小学生の頃、休み時間や放課後によくじゃんけん陣取りゲームをしました。ルールは、棒でくねくねの道を地面に作り、その両端に丸く陣地を書きます。両端の丸陣地にチーム分けをして入ります。偶数の人数が良いですが、奇数の場合、1人はジャッジマンとして、陣取りゲームのジャッジをします。「よーいどん」の合図で、両端の陣地から1人走ってくねくね道を走ります。両者がぶつかった所で、じゃんけん。勝てばそのまま前進をし、負ければ道から外れ、自分の陣地に戻り順番を待ちます。じゃんけんに負けた方のチームは、次の番の子が丸陣地から出ます。このゲームは走るのが早い子、じゃんけんが強い子が有利なゲームです。私は体が大きかったのですが、足も速かったのでじゃんけん陣取りゲームは、とても好きな遊びでした。相手とぶつかるところまでダッシュをし、じゃんけんに数回勝っていけば、相手の丸陣地の前までたどり着きます。ラスト1人の位置まで来れれば、自チームからの「がんばれー」の歓喜の声が聞こえます。相手の陣地前まで来てしまえば、体の大きさが有利です。勢いよく飛び込めば、勝!今思い出しても、ワクワ...つづき
1973年生まれ

「駆け引きが難しい」渦巻き鬼と陣取り合戦

ぽんぽこさん小学校の校庭や体育館 1973年生まれ 女性私が小学生の頃は、朝は先生より早く学校に着き、学校が開いたら体育館で遊び、昼休みや中休みでも外で遊び、放課後は夏なら17:00頃まで校庭で遊んでいました。その中に陣取り遊びは幾つかあったのですが、覚えてるのは「渦巻き鬼」と「陣取りゲーム」ですね。「渦巻き鬼」は、ぐるぐると渦を描いて、中と外から入って出会い頭にじゃんけんをして、買った方が進んで、負けた人は初めから出直すか、後ろに並んだ人が進み出て来て、じゃんけんをしたはずです。最終的に多く進んだ方の勝ちでした。少人数学級だったので、全学年で遊べて、あまり揉め事のないゲームだったと記憶しています。「陣取り合戦」は、二つチームに分かれて、タッチした人を自分の陣地に連れて来るものでした。連れてこられた人は、壁などの掴まれるところから離れない様にして、仲間の救出を待ちます。きっと人質だったんですね。人質は捕まえられた順に手を繋ぎ、助けを待ちます。仲間は相手をうまく交わして、人質のところに来ると、「えった」の掛け声で、繋いだ手のところを手刀で切ります。すると、切られた先の人が解放されて、散ら...つづき
1975年生まれ

「好きな子に勝って複雑だった遊び」陣取りゲームの思い出

なず菜さん北海道 1975年生まれ 女性小学校の頃に、よく友達と放課後のグラウンドで陣取りゲームをしました。その時に好きな男子もいて、かなりドキドキしていました。私は元々陣取りゲームに弱くて、いつも負けてばかりでした。ですが、なぜかこの日に限って勝ってしまったんです。すると、好きだった男の子にすごい目で睨まれてしまいました。なぜなら、その子は陣取りゲームで負けた事がなかったのです。世ほど悔しかったのか。一言もないまま、その子は帰っていきました。私は、嫌われたのだと思いかなり複雑な気持ちになったのです。その数日後。その男の子から、もう一度陣取りゲームをしようと言われました。私は、今度こそ負けなきゃ負けなきゃと思っていたのですが、なぜか勝ってしまったんです。結局、またもやその男の子からライバル視されてしまって、本当に哀しかったです。でも、そのおかげで、毎日のように遊びに誘ってもらえて嬉しかったです。陣取りゲームは、私の淡い初恋の一部となったのです。
1965年生まれ

「懐かしの昭和の外遊び」指で小石を弾く陣取り遊び

ぷにおんさん福島県 1965年生まれ 女性あの頃、子供達は外で遊ぶのが当たり前でした。なかでも一番の遊び場は神社の境内でした。社務所も無く宮司さんも不在の田舎にある小さな神社です。鳥居をくぐり階段を登り切った先に狛犬と土俵と社が。その背後には森があります。木登りやターザンごっこ、かくれんぼ、陣取り遊びと色々な遊びが出来ます。当時、小学校低学年の女の子の私には、体力差も関係なく勝負ができる陣取り遊びが好きでした。ルールは簡単。小石を指で弾いて飛んだ先までを線で引き、3回目で元いた場所まで上手く戻れれば線で囲んだエリアは自分の陣地になります。小石の弾き加減や狙い通りのところへ飛ぶ小石選びの見極めが難しいですが、運が良ければ上級生にも勝つことが出来ます。田舎のレトロなとても懐かしい思い出です。
1983年生まれ

スケボーで大惨事の思い出

森のパンさん広島県 1983年生まれ 女性小学生の頃、家の前に広い空き地があり、兄とよくスケボーをしていました。普通に乗るのでは飽き足らず、ちょこんと体育すわりをして後ろから勢いよく押してもらって、どこまで進むかという遊びをしていました。空き地内のでこぼこした地面や坂道を通ったり、いろんな乗り方をして遊んでいたのですが、ある日兄がお腹でスケボーに乗りスーパーマンのように飛ぶ格好をして「スケボーを押してー」と言って来ました。言われた通りに押すと、スーパーマンのようにスーッと進んでいるのがおかしくて何度も何度も押し、この”スーパーマン乗り”は流行り、繰り返ししていたのですがある時、急に兄が「痛ーい!!」と叫んだのです。この時兄はスーパーマンの態勢でしたがいつものように手をグーにして左手を腰に右手を伸ばしておらず、手のひらを地面につけていたそうで、それに気づかず私がスケボーを思いっきり押したのです。その結果、右の中指の爪が全部めくれるという大惨事になってしまい、両親が青ざめ病院を探して車で行ったのを覚えています。病院内で爪を取り除く手術がされ兄の泣き声が院内に響き渡りました。私がしょんぼりし...つづき
1963年生まれ

倉庫跡地の思い出

なみさん愛知県 1963年生まれ 女性子供のころ、自宅前の砂利道私道を数十メートル東に進むと、突き当りに毛織物会社の倉庫がポツンと1件だけ建っている広い草地がありました。倉庫には会社名が描かれていたので、親しい子たちと集合するときの約束は、いつもその会社のネームを切り取り「ボンちゃん」でねというのが通常になりました。樹木や野草も隅には多く生えており、温かい季節は土筆とりや、たんぽぽとり、シロツメクサとりに夢中になりました。あるとき、ふと思い立って、ここに私たちだけの「基地」を作ろうと、皆で古い板切れや釘、かなづちを持ち寄り、小さな小屋を建て始めました。学校が終わると、毎日のように集まり、無い知恵をしぼりながら、木切れをつなぎ合わせ立体にしていくのですが、どうしても上手くいきません。そのうち、1人1人と脱落者が出始め、ついには皆諦めてしまいました。完全に見捨てられて残骸になったその「基地」らしきものは上級生の男の子たちに蹴飛ばされていました。ワクワクしながら作ったときの思い出が今でもよみがえります。
1988年生まれ

「土の匂いの思い出」けんと遊び

レディさん新潟県 1988年生まれ 女性小学生の頃、天気のいい日にはよく空き地で遊んでいました。ドラえもんのシーンでよく見る大きな土管がある空き地でした。そこで学年問わず、男女が集まりしていた遊びと言えば、”けんと”です。同じ世代や上の世代の方はもちろんわかる遊びだと思います。かくれんぼに似た遊びで鬼を一人決めて、他の人たちは隠れます。鬼は誰か見つけると”けんと”する場所に行き「け~んと!」と言います。見つかった人は”けんと”する場所に居て助けを待ちます。まだ見つかっていない人が”けんと”する場所に行き「け~んと!」と言うと、鬼に見つかっていた子達は解放され、また隠れることができます。この遊びでいつも活躍するのが足が速くて運動神経抜群の子です。足が速い子はなぜかモテるのですが、私の時もそうでした。”けんと”をしていて捕まると、彼がいるから大丈夫、必ず助けに来てくれる!と捕らえられた姫みたいな感じで助けを待っていました。そして助けに向かって走ってくる彼を「キャー、かっこいい!」と思いながら見ている光景は今思い出しても微笑ましいです。
1982年生まれ

探検隊ごっこで空き地に行った思い出

ココちゃん京都府 1982年生まれ 女性小さい頃ご近所さんに同年代の子供たちが10人ほどいて、いつもいろんなところに行って検隊ごっこをしてました。町内から少し歩いたところに空き地があって、春になると、つくしが生えていたのを思い出します。その当時の私は、つくしという物が食べれる物だと知らないのに、なぜか必死になって引っこ抜き、それを嬉しそうに家に持ち帰ってました。持ち帰ったら親が綺麗に洗って、つくしの佃煮を作ってくれました。それが大人の味だった事を覚えています。別の時には、畑を休めるために蓮華が畑に植えてあって、その蓮華を摘んで、編み花冠にしてお嬢様ごっこもしていました。昭和の子供時代はひたすら外にいて、いろんな花や草を取っては遊びのネタにしていました。
1964年生まれ

空き地で猫を拾ったときの思い出

よっちさん鹿児島県 1964年生まれ 女性小学5年生ぐらいの時、自転車で近くを走っていたら、空き地の脇に一メートル四方ぐらいのコンクリートの管があるのを見つけました。長さも一メートルぐらいなのでちょうど立方体、といったところです。よくドラマなどで、親にられた子が隠れるようなものです。中に入ってみると、小さな段ボール箱の中に生まれて間もない猫の赤ちゃんが入っているではありませんか。小さな猫って毛がフサフサで本当に可愛いです。早速家に持ち帰りましたが、母がアレルギー体質なもので家で飼うことはかないませんでした。ちょっと残念でしたが、また先ほどのところに戻り、子猫ちゃんと夕暮れまで遊びました。そして翌日、このことを仲良しのクラスメイトに話し、ふたりでその空き地に行ったところ、子猫はもういなくなっていました。だれか猫好きな人に拾われたんですね。
1983年生まれ

「女性ドラえもんのマネで大騒ぎ」お家かくれんぼの思い出

ちぃ子さん広島県 1983年生まれ 女性友達が家に遊びに来て5人ほどで遊んでいました。最初はおままごとをして遊び、次はリカちゃんで遊び、その後はかくれんぼという流れがいつもの遊び方。ジャンケンをして鬼が50秒数え、みんなが隠れます。と言っても家の中なので隠れる場所は限られているので見つけやすいです。この時、私はドラえもんが押入れで寝ているのを真似しようと思い付き、押入れの中にそーっと隠れました。「もーいいかーい!」と言う声が聞こえます。いろんなところからかすかに「もーいいよー」と返事があります。襖を少しだけ開けて見てみると鬼はキョロキョロ。そしてどんどん見つけていきます。すると私は押入れの布団の中でだんだんと眠くなってしまいうとうと…。そして寝てしまいました。外がザワザワしている声で目が冷め、襖を勢いよく開けると一斉に母と友達が目を丸くしてこちらを見ています。鬼が私だけ見つけられず母にいないと言って騒ぎになっていたのです。その後こっぴどく叱られた私でした。
1971年生まれ

「竹やぶで見られちゃった」ちょっと恥ずかしいかくれんぼの思い出

マリンバさん埼玉県 1971年生まれ 女性周りは畑や竹やぶなどが多い埼玉県の田舎に住んでいました。ゴム段や縄跳び、缶けりなどでも良く遊びましたが、外でかくれんぼをすれば、なかなか見つけられず楽しかったのを覚えています。ある日、友人の家の大きな庭でかくれんぼをしました。私は探される番だったのですが、庭の竹やぶの中に隠れたところ。30分経っても1時間たっても、探しに来てもらえず…。鬼が探している声は聞こえるので、じっと息をひそめて隠れ続けていました。しかし、そのうちトイレに行きたくなり…。どうしよう、出て行こうかと迷ったのですが、どうせここなら誰にも気づかれないしと思い。竹やぶの中でおしっこをしてしまいました。最中に、なんだか、ガサゴソという音が聞こえてきて、驚いて振り返ると、なんと友人のお父様が、タケノコほりをする為に入ってきたところでした。もよおしている最中だったので、動くことも隠れることもできず。しゃがんだまま挨拶をして、とても気まずかったのを覚えています。その後、友人宅から、タケノコをおすそ分けしてもらう度に、微妙な気持ちになってのを覚えています。タケノコは、とても美味しかったです...つづき
1997年生まれ

校内かくれんぼ

らーんさん北海道 1997年生まれ 女性小学生の頃、クラス15人くらいで、放課後、校内を貸し切ってかくれんぼをしました。学校が3階建てで一階には体育館や保健室に理科室。2階には教室やpc部屋。3階に教室や化学室など様々な部屋がありました。鬼が4人と逃走者11人くらいでやりました。5分数えてから鬼が探し始めました。ドキドキワクワクでした。どこに隠れるかと色々考えて、3階の化学室のさらに扉を開けた先生の部屋に隠れました。足音が聞こえて、ドキドキしたけれど、そのままスルー。10分ほど乗り切りました。20分ぐらいすると次々に同じ階に隠れていた人たちの騒ぎ声が聞こえてきます。きっと捕まったのでしょう。そう考えるとドキドキとして鼓動が聞こえてくるくらいでした。そして30分ほどすると、『あとらーんちゃんと○○ちゃんくらいじゃない?』と鬼の声が聞こえました。鬼が化学室に再び入ってきました。『いらんでしょー!出てきなー!』との声も聞こえ、扉を開けられ、見つかってしまいました。滅多に出来ない経験、とても楽しかったです。
1986年生まれ

「サラ砂をかけて固くしたり 泥団子を作った」公園の砂場での思い出

ぽこたさん東京都 1986年生まれ 女性小学生の頃、学校が終わると公園に行き、よく砂場遊びをしていました。砂の山を作り友人と二人でそれぞれ別の方向から穴を開けてトンネルを掘ったり、そこに水を流したりして楽しんでいました。今考えると不思議な遊びですが、コップに湿った土を詰めてその表面にサラサラした白い砂を振りかけてを繰り返し、どれだけ表面を固くサラサラに出来るかという遊びをよくしていた思い出があります。また、それと似ていますが泥団子もよく作っていました。様々な大きさの泥団子をきれいに作れた時はとても嬉しかった記憶があります。プラスチックのバケツやかわいらしい動物の型が販売されており、砂場遊び系のおもちゃはポップでカラフルなものが多く、お気に入りのものを持って公園に行くのが嬉しかった。砂場遊びは友人とも一緒に楽しく遊べて、協力することや相手の作ったものを大事にする優しさも学べたように思います。
1975年生まれ

「誰が一番高く作れるか」砂の山とトンネルづくりの思い出

あずきさん香川県 1975年生まれ 女性幼少期のころはよく近所の公園の砂場で遊びました。家からバケツやスコップをもってきて、できるだけ高い山を作る遊びをしていました。誰が一番高い山を作れるか競争するのですが、遅れてきた友だちが手伝いに加わるのでグループになって二組ぐらいが競い合っていました。水を混ぜると丈夫な山が出来るので、水を持ち込んではどろどろになることもありました。山が出来上がると下の方からトンネルを掘ります。両側から少しずつ削っていきうまくつながって友だちと手が届いたときは嬉しかったです。うまくいかずに崩れてしまうときもありましたが、こりずに何度も砂の山を作っていました。夕方、帰るころには服も靴も道具も泥だらけでした。泥を家の玄関に持ち込まないよう注意されたり、すぐにお風呂に入るように言われたりして洗濯物を増やしてしまいました。お風呂に入っても爪の間に入った砂はなかなか取れなくて苦労したのを覚えています。
1986年生まれ

雨上がりの砂場でお気に入りのスカートを汚してしまった思い出

うさぎちゃん福島県 1986年生まれ 女性小学1年生の頃だと思います。雨上がりに、砂場の砂が渇いていない状態で遊んだことがありました。そういう時は水をわざわざ持ってこなくても泥団子を作るのにはぴったりなのです。泥団子を作っても何もすることはないのですが、泥団子を作るのが楽しかったのです。今思えばおにぎりを作る練習にもなっていたような気がします。苦い思い出になってしまうのですが、その時私はお気に入りのスカートを穿いていました。お尻が付かないように、しゃがんで砂場遊びを楽しんでいたのですが、ついお尻をついてしまい、お気に入りのスカートを汚してしまいました。パンツまで砂と泥で汚してしまいショックでした。本当に気に入っていたので、あの時のスカートをハッキリと覚えています。それから雨上がりに砂遊びはしないようになりました。
1986年生まれ

「棒倒しを遊んだ」砂遊びの思い出

うさぎちゃん福島県 1986年生まれ 女性幼稚園の頃は砂場で遊ぶのは好きでしたが、小学生になるとあまり遊ばなくなりました。なぜなら小学生になると汚れが気になるようになったからです。小学校の砂場で遊んでいたのは低学年くらいまでだったと記憶しています。私は女の子としか遊ばなかったのですが、普通に砂山を作ったりしました。棒倒しもしました。砂山を作り、順番に砂山の周りをなぞるようにして崩していきます。それで棒を倒してしまった人が負けというゲームです。私の周りはお兄さんお姉さんのいる子が多かったので、その子たちが教わったものを継承したのかも知れないです。
1983年生まれ

「ジャングルジム鬼ごっこ」ルールと遊び方

東西さん広島県 1983年生まれ 女性ジャングルジムで遊ぶとなると、誰が一番高いところに登るのが早いかで競争するのがお決まりでした。グイグイ登って行って登頂を目指します。登頂部に座ると勝ちというわけです。その後、みんなでジャングルジム鬼ごっこという謎の遊びを考えました。鬼は2人で一段目しかグルグル回れないルール。逃げる人は登頂部分以外をグルグル逃げなければいけません。とにかく右に左にと鬼が迫ってくるので盛り上がります。ちなみに鬼も逃げる人も地面に足が付いたら反則です。手を伸ばしてタッチされそうになると急いで移動しジャングルジムの中に入って身を守ります。でも中にいられるのは30秒だけなのでまた逃げまどうのです。私はいざ鬼になるとなかなかタッチできませんでしたが、腕のリーチが長い友達は早々とタッチして鬼から卒業していました。うらやましく思いながらも追いかけますが手の力が限界を迎えとうとう地面に背中からゴロンと落ちたことがあります。「あっ!落ちた!」と言われ、誰からも心配されず反則の罰で5分牢屋に入れられるという重すぎる刑を処されたのでした。