1970 年代に生まれた人が子どもの頃にした遊びの思い出

1977年生まれ

「竹林は遊び道具を生み出す宝箱だった」竹とんぼの思い出

ブラックマークさん 京都府 1977年生まれ 男性 私の住んでいた地域は近くに竹林があり、竹が身近にありました。竹を使った遊具で遊ぶことが多く、竹とんぼや竹馬で友達と近所の広場に集まっていました。 最初、竹とんぼは、人に作ってもらったもので遊んでいたのですが、少し大きくなったときに自分たちで作ろうという事に。 肥後守を使って、竹を削り中心地点に二つ穴をあけ、そこに差し込める棒を作れば完成です。 言葉で並べると簡単なのですが、これが中々難しい。 羽根の部分の重さのバランスが取れていないと綺麗に飛んでくれないし、棒の太さが適切でないと手で回そうとした時に上手くいきません。 肥後守を使って竹を削っていると、一度、手を滑らせてしまいケガをしたことがありました。 その傷跡は今もうっすらと残っており、見る度に当時を思い出します。 完成した竹とんぼをもって、近くの広場に集まり、誰が一番高く飛ばせるか競争が始まります。 みんなそれぞれに工夫をした竹とんぼが飛び交う空は、とても綺麗だったなあと思い出します。
1975年生まれ

いじめっ子から守ってくれたガキ大将の思い出

まみさん 北海道 1975年生まれ 女性 ガキ大将というのは、簡単に言うと近所の子達のリーダーでした。威張っていたけど決して傍若無人ではありませんでした。 私は、子供の頃は小柄でいじめっ子からよくからかわれていました。 その日は、初雪が降ったとても寒い日でお気に入りの毛糸の帽子を被っていたんです。 そうしたら、公園でいじめっ子達に見つかってしまい。追いかけられて帽子を取られて、私は半べそをかきながら歩いていました。 そのとき、ガキ大将の男の子が気がついて走ってきたんです。私が事情を話すと、その子は何も言わずに走っていきいじめっ子達から帽子を取り返してくれました。 6歳の私にとって、10歳のガキ大将はとてもお兄さんに感じたのです。それから、ガキ大将がいる時は安心して遊べました。 ガキ大将というと、いじめっ子のイメージを持っている人もいますが、そんな事はありません。弱い子にはとっても優しかったです。だから、どんな子でも一緒に遊べたのでないかと思います。
1976年生まれ

ガキ大将に巻き込まれた「ケンカごっこ」でやりすぎてしまった話

ゆでたまごさん 大阪府 1976年生まれ 男性 ガキ大将と言えばケンカのイメージですが、だいたいは弱い人など殴ったりせず、相応の相手を選んでしていました。 私はおとなしく目立たない存在でしたが、成長期のタイミングの差からか、体が大きく力だけはありました。 そんな体格の良さからか、目をつけられたのか、ケンカごっこに巻き込まれてしまいました。 いつもは、ガキ大将の取り巻き同士でケンカごっこをしているのですが、飽きてきたのか私が目をつけられてしまいました。 まずは一番弱そうな子が私の相手に選ばれました。 ケンカといっても理由もなく殴り合いをする気も起きず、だいたいの人は「相撲もどき」の取っ組み合いでお茶を濁します。 そんな事とは知らない私は、ガキ大将と大勢の取り巻きに囲まれ、パニックになり、必至で腕や足を振り回しました。ガキ大将たちは、最初こそ混乱する様子を見てみんなで笑っていました。 私のほうが数十センチも身長が高く、必至に暴れるものだから、相手もたまったものではありません。 ガキ大将も「殴れ、蹴れ」とはやし立てますが、偶然当たった腕や足のせいでいつの間にか流血沙汰になっていました。 それ...つづき
1976年生まれ

学校の運動場で遊んだキックベースとガキ大将

ヒロタさん 大阪府 1976年生まれ 男性 我々の世代はガキ大将といえばアニメや漫画ではバリバリの現役でした。 当の子供たちは、「ガキ大将なんてお父さんの世代の話でしょう」と思っていたわけですが、実際には、いかにもガキ大将といった子がいて、遊びの中心になっていたものでした。 小学校の頃の話ですが、私の学校では休憩時間といえばキックベースという遊びが流行っていました。キックベースというのは野球に似たスポーツです。 違いはピッチャー役の人が人の頭程度の大きさのボールを転がして、それを蹴るという事。そしてランナーをアウトにする方法がタッチだけではなく、ボールをぶつけてもよいという事でした。 ボールを蹴る力、そしてキャッチしたボールを相手にぶつける肩の良さが大事です。 他にもボールをキャッチする技術や足の速さも必要です。チームとしてのバランスを考えるのが大変です。 遊びの最初にはチーム分けをします。キャプテン同士でじゃんけんをして勝った方から順番にメンバーを決めます。 このキャプテンはもうガキ大将やライバルたちが必ず勝手に引き受けてしまいます。こういう所がガキ大将たるゆえんなんでしょう。 そし...つづき
1978年生まれ

ガキ大将とのいたずらの思い出

あの日の少年 東京都 1978年生まれ 男性 私の身近にいたガキ大将は、小学生時代にいました。どんな子かというと、ケンカが強く、遊びではリーダーとなって色々なやんちゃをしている子でした。 授業中でも居眠りや隣の席の子にちょっかいを出すなど、自由気ままにやりたいことをするガキ大将でした。 そんなガキ大将も仲間意識は強いので、上級生に仲間がいじめられていると率先して助けたりしていたので人望はありました。 放課後遊びもガキ大将が決めます。野球からサッカー、鬼ごっことワイワイと遊んだことを今でも覚えています。 今となっては恥ずかしい話ですが、ピンポンダッシュも流行っていて、ガキ大将から指名された子が、特定された家のピンポンダッシュをしていました。当然、私もガキ大将から何件か指名されてやっていました。 走って逃げるときは、いつもみんな一緒で、いたずらの快感に酔いしれて笑顔で遊んでいました。 そんなガキ大将は、中学校は私立中学に行くことになり、最後の卒業式では、涙を流しながら仲間一人一人と握手しました。私も感動し号泣しました。 色褪せないガキ大将との思い出です。
1975年生まれ

校内でも有名なガキ大将の思い出

なっつんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 小学生の頃、友達とよく近所の公園でドッジボールや縄跳びで遊んでいると、同じ学年で、校内では有名なガキ大将が現れ、私たちは頻繁にその場所から追いやられました。 そのガキ大将のまわりには2~4人くらい子分のような存在の子がついてきており、我が物顔で占領していた記憶です。 逆らうといじめられるため、遊んでいる子たちは必然的に隅っこでこじんまり遊んだり、移動したりしていました。 そんなガキ大将ですが、学年の遠足でも威厳を保っていて、お弁当タイムには、子分の子達のおかずとかお菓子を貰ったりしていました。ガキ大将のまわりには常に人がいる、色々な子が取り巻いていました。 おそらく、そのガキ大将と一緒に居ればいじめられる事もないという考えからだろうとは思っていました。 よく喧嘩もしていましたが、ひとりでも充分な様子で、大将になるだけあるとは感じていました。男の子同士の喧嘩でも本当に強かったです。 どの時代にもそういったリーダー的な人は存在し、大人になった今はどんな感じなんだろうと、ふと思い返す時はあります。
1978年生まれ

「探偵ごっこの思い出」自分たちはいじめたつもりはないけれど 相手はいじめられた思ったゲーム

ぴかちゅうさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代に流行った遊びの一つに探偵ごっこがありました。遊び友達と考えたオリジナルの遊びです。内容は、じゃんけんで負けた一人が探偵役になり持ち物を学校の色々な場所に隠されます。 隠した人達は、隠し場所のヒントを探偵役に示して、その情報をもとに探偵役は推理して隠された持ち物を探し当てるというものでした。 ある時、初めて探偵ごっこをするクラスメイトが一人参加。じゃんけんで負けて探偵役になりました。その子の鉛筆や体育着などを、私を含めて6人で隠しました。 そして、探偵役に隠し場所のヒントを一人ずつ教えていきます。私は音楽室のロッカーに探偵役の子の靴を隠したので、音楽関係のヒントを伝えました。 全員からのヒントを教わった探偵役は探しにいくのですが、全然見つからず、時間だけが経過し夕方になりました。すると、探偵役が号泣し始めました。 あまりにも見つからず、このまま家に帰れなくなると不安になったのが号泣理由でした。 私達は、いじめという感覚は無かったのですが、後日、探偵役の子の母親からクラス担任に相談があり、本人はいじめられたと認識していたようでした...つづき
1974年生まれ

学校の帰り道の「荷物持ちの罰ゲーム」

ももえさん 新潟県 1974年生まれ 女性 私の実家は田舎の方にあったため子どもの数も少なく、同級生に限らず年上や年下の子たちとも一緒に遊ぶのが当たり前でした。 小学生の頃にはやっていたのが、荷物持ちの罰ゲームです。3~4人ほどのグループで下校することが多かったのですが、そのときによくしていました。 まず、みんなでじゃんけんをします。負けた人が全員の荷物をすべて持って歩く、という単純な罰ゲームです。 ランドセルは自分のもの一つだけでも結構重いですし、それに加えて他の子たちの荷物(ランドセルなど)を持つのはかなりの重労働です。 「次の電柱まで」とか「〇〇の家まで」などとそのたびごとにゴールを決めて行っていました。 低学年の子がじゃんけんに負けてしまったときには、距離を短めに設定してあげるなどの配慮も、自然とできていたように思います(たとえば、10歩だけ歩く…など)。 学期末になると、普段は学校に置いたままにしている荷物も、持ち帰ることになるため、荷物の量も増えて盛り上がりました。 田舎なだけに、通学路の交通量もかなり少なく、安全に遊びながら下校することができていました。
1977年生まれ

「ドッチボールの思い出」負けたチームは全員 はりつけ死刑の罰ゲーム

ごまおさん 兵庫県 1977年生まれ 男性 小学生の頃、私の小学校では、ドッチボールが流行っていました。休み時間や給食を食べ終わった後には、必ず校庭でドッチボールをして遊んでいました。 当初は、勝ち負けを競うだけの遊びだったのですが、あまりにも熱中していたこともあり、いつしか負けたら罰ゲームを実施するようになっていました。 罰ゲームは「はりつけ死刑」という名前で呼ばれており、負けたチーム全員が、校舎の壁を背にし、手を後ろに組んで一列に並び、勝ったチームが一斉に壁に向かって思いっきりボールをぶつけるという壮絶なものでした。 勝った方の全員が、同時にボール投げるようにするため、体育館からバスケットボールをわざわざ取り出していました。 かなり至近距離からボールが放たれますので、時には顔面にバスケットボールが命中し、鼻血を出す子供がいるなど、かなりエスカレートしていきました。 最初は楽しかったドッチボールも、負け時の罰ゲームが、あまりにも痛くて、恐怖へと変わってきたのを覚えています。 負けると恐怖がまっているので、競技中に些細なことでも(当たった、当たってないなど)喧嘩に発展してしまうことが多...つづき
1976年生まれ

荷物持ちの罰ゲームなのにみんな喜んでいた

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 罰ゲームの代表と言えば、じゃんけんで負けたら荷物持ちというものがあります。 遊びの中と言うよりは下校中でのできごとではあるのですが、そういうのをよくやっている子たちはいました。 かくいう私はと言うと、障害があったので「持たせたら可哀想だよ」という理由でハブられていたという感じでした。 私も混ぜて欲しいという気持ちがあったので、寧ろ私にとっては持たせてもらえないということが罰ゲームのように感じました。 しかし、罰ゲームとは言っても荷物持ちをされている子たちがあまり苦痛そうではありませんでした。 人の役に立って寧ろ喜んで引き受けているという印象を受けました。 荷物持たせというのは、いじめのようにやる人たちもいると思うのですが、私の周囲ではそのような感じではありませんでした。 寧ろ罰ゲームをしたいという子が多かったのではないかなと思います。 私は病院からもあまり重い物は持たないようにと言われていたので寧ろこれで良かったのかも知れないです。
1973年生まれ

鬼が消えてしまった「夕暮れの缶蹴りの思い出」

ヨッシーさん 神奈川県 1973年生まれ 男性 小学生だったある日、近所の友達6人で学校が終わってから、缶蹴りをして遊びました。当時は缶蹴りが友達の間で流行っており、毎日のようにやっていました。 その日もいつも通り、いつもの場所で遊んでいましたが、友達の1人が鬼になってから何度も缶を蹴られ。なかなか鬼から解放されずにいました。 そのうち辺りもだんだん薄暗くなってきました。 それでも構わず隠れていました。鬼の声が聞こえてこないなと思っていたら、他の友達が来て、「あいつ(鬼の友達)がいないぞ」と言ったのです。みんなで出て行ってみると確かにいませんでした。 名前を呼びながら周りを探しましたが見つかりません。とりあえず、その友達の家に様子を見に行ってみたら、普通に家から出てきました。 その友達曰く、「もう暗くなってきたし、お腹も空いたから」とのこと。 それを聞いてみんなも「それじゃ、しょうがないか」となり、そのまま解散しました。
1978年生まれ

駄菓子屋のおばあちゃんから教わった「缶蹴りの遊び方」

ラーメン大好き小泉さん 東京都 1978年生まれ 男性 小学校時代の思い出です。授業が終わり帰宅し、おやつを食べたら毎日友達と遊びに行っていました。 近所の駄菓子屋に集合してから何して遊ぶか決めます。 ある日、駄菓子屋のおばあちゃんから、子供の頃に遊んだ缶蹴りの話を聞きました。それまでは缶蹴りという遊びは聞いたことはありましたが、実際に遊んだことはありません。 おばあちゃんから缶蹴りに適した、みかんの空き缶を頂きました。それを持って近くの公園で缶蹴りを始めました。 地面に円を描き缶を置きます。 鬼を一人決めて、それ以外は全員ダッシュで隠れます。 鬼が見つけると缶を踏み、見つけられた子は円内で鬼に捕まります。 それを助けるために、隠れている人が鬼の隙をついて、円内にある缶を目指してダッシュ。蹴り上げます。 見事成功すれば捕まった子は逃げられます。 というルールで始めた缶蹴りでした。 いつのまにかみんな夢中になり、小学生時代の遊びの思い出の一つになりました。
1974年生まれ

ヒーロー気分を味わえた休み時間の思い出 ドロジュン

ぼんじりさん 神奈川県 1974年生まれ 男性 小学校時代、雨天以外の休み時間は大抵クラスメートと共に校庭へ出ます。10名ずつチームを組みドロジュンをして遊びました。 校内は市内でも決して広いとは言えませんでしたが、それでも休み時間は大勢の生徒が外に出て遊びます。 建物の周辺はかなり入り組んでおり、ドロ側に回っても隠れる場所を見付けるのに大して困らず。決して不利ではありませんでした。 ドロ側で自分以外の友人が全て捕まってしまった時は、ちょっとしたヒーロー気分を味わえます。 警側の厳しい警戒を巧みに潜り抜けて本拠地に突入し、仲間全員を救い出した時の気分は堪りません。 普段は大人しくクラスでも目立たない存在でしたが、この時ばかりは仲間全員から感謝され、自分の存在感が大変大きくなったのを覚えています。 一方夢中になり過ぎて、休み時間が過ぎた事も気付かず隠れ続けてしまい。教室に戻るのが遅れ、担任教師に叱られてしまった経験も何度かあります。 中学以降は休み時間に思い切って校庭に出る機会も無くなり、今となっては良い思い出です。
1975年生まれ

逃げる範囲が広すぎる11階建てのマンションでの ドロジュン

なっつんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 私が小学生の頃は「ドロジュン」と呼ばれている遊びをしていました。11階建てのマンモスマンションに住んでいたので、ドロジュンをやるには範囲が広すぎます。 いつもの仲間とやるのですが、マンションを縦半分のエリアに区切り、その範囲内だけと決めてからやりました。 しかし、半分と言え、11階まであり。戸数もかなりあるマンションでしたので人数が少ない時ほど、難易度が高かったです。 玄関に門戸がないマンションでした。人の部屋の前に隠れるところがあれば隠れ。時々、そこの住人が出てきてビックリされる事もありました。 皆、顔なども知れた住人でしたので、話しかけられる事もあり、それが見つかる決め手にもなります。 エレベーターは2基ありましたが、それを使うと見つかりやすいのと、住人へ迷惑がかかるため、禁止しました。 2時間ほど遊んでいた事もあります。 子供であれど、階段を行き来し、フロアを渡り、凄い運動量だったと思います。 時々、ルールを破って違うエリアに潜む子もいましたが、そういう子は次からは警察役にまわされました。 低学年の子供だったからできた遊びであり、大人...つづき
1978年生まれ

ケイドロが繋いだ人生 後に警察官になった友達

みーごれんさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生の休み時間は決まって校庭に出てケイドロをして遊んでいました。警察チームと泥棒チームの2チームに分かれて対戦します。 逃げるのが得意だったり好きな人は泥棒チーム。逆に追いかけたり捕まえることが好きな人は警察チームという具合に自然と構成されていました。私は主に警察チームでペアになって泥棒チームを捕まえていました。 捕まった泥棒は牢獄に入ることになるのですが、別の泥棒が牢獄内にいる泥棒にタッチすると、その泥棒は牢獄を脱走できるというルールでした。なので、ただ泥棒を追いかけて捕まえるだけでなく、牢獄を守ることも重要でした。 牢獄専門の人を3人セレクトし、貼り付けて見張りをさせれば、脱走は80%以上の確率で阻止できます。 ひたすら汗を流し無我夢中でケイドロにハマっていた小学生時代でした。 このケイドロ遊びの仲間から2人が本当の警察官になりました。大人になって再会してこの事実を知り、驚きました。 その二人は主に泥棒チームだったので、大人になって警察官になっている人生の妙味を味わいました。少年時代のケイドロが繋いだ人生だと思います。
1972年生まれ

小学生のころのケイドロで遊んだ思い出

プリンさん 千葉県 1972年生まれ 男性 小学生のころは友達がたくさんいました。学校が終わったら近くの公園に行って、ケイドロをした記憶があります。 刑事とドロボーに分かれて、捕まえていくのですが、遊び方は鬼ごっこと同じようなルールです。 誰が刑事で、誰がドロボーか分かるように、体育でかぶる赤白帽を被って遊びました。 私の時にはケイドロかドロケーか覚えてませんが、どちらも遊び方は同じです。私がドロボーになって逃げていた時に、捕まることもなかったので、一人寂しくしていた時を思い出します。 刑事とドロボーのどっちが大変かと言ったら、絶対的に逃げる方だと思います。 刑事は捕まえるだけで心理上は、落ち着いた感じになってます。 ドロボーはホッとしていると急に捕まることもあるので、常に緊張状態は続いてました。その時私は足が遅かったので、すぐに捕まることが多かったです。
1971年生まれ

おさがりのローラースケート

あっき~さん 千葉県 1971生まれ 男性 小学生の頃、友達の間でローラースケートが流行り、自分もローラースケートが欲しくなりました。親にローラースケート買ってよと言ってもなかなか買ってもらえませんでした。 家には兄が使ってたと思われるローラースケートがあったので、仕方なくそれを履いてあそんでいましたが、いかんせん古くて、タイヤもゴムではなく硬いプラスチックのような素材であまり滑りませんでした。 ある時、近所の友達数人で土手のサイクリングロードに滑りに行こうぜということになり、みんなでローラースケートで行きました。 サイクリングロードを走っているとみんなとの差がどんどん開いてくる。全然すべらないローラースケートを履いて懸命に滑っているけど、全然ついていけない。 遠ざかる友達たちをみながら、ああ悔しい。 なんで俺は新しいローラースケートじゃないんだよ。 あいつがもってたゴムのぶっといタイヤのローラースケートめっちゃすべりやすそうだったじゃん。 おれもほしーなー、ああいうやつが。 と思いながらノロノロすべっていると、はるか先に行ってた友達たちが、もう引き返して来たので、屈辱的な気分でまた合...つづき
1975年生まれ

「技と音」ローラースケートの思い出

さぼてんさん 和歌山県 1975年生まれ 女性 4人兄弟で一つのローラースケートを使っていました。サイズを大きさによって調整できたのが当時で考えると画期的だったと思います。子供でも簡単に微調整できたので時間を決めて兄弟で使用していました。 最初はよくこけて、足がどんどん広がっていってしまったのを覚えています。子供は体が柔らかいのですぐに滑ることができました。 自転車に引っ張ってもらって早く滑ったのが楽しかったです。 坂道で下り降りるのもスリリングでしたが、大概途中で斜めに曲がって溝に落ちていました。 近所の友達と競争したり追いかけっこもしていました。 家の前の道路で遊んでいたので、使い終わったローラースケートが道に転がっているのも懐かしい風景です。 家が立ち並ぶ道で遊んでいたので、ローラースケートの滑る音がすごくうるさかったと思います。母には騒音になるとよく怒られていましたが、近所の人から怒られたことはありませんでした。 そう思うと近所の方の温厚さや穏やかさがあったんだと思います。今では難しいことですが、ご近所で子供を育てていたんだと思います。
1975年生まれ

「曲がれない、止まれない!」ローラースケートの思い出

いちこさん 静岡県 1975年生まれ 女性 当時、テレビの歌番組でアイドルグループがローラースケートをはいて、歌って踊るのを見て、「自分もやってみたい」と、親にねだって買ってもらいました。 同じように買ってもらった友達と二人。移動するときも、自転車よりもローラースケート。難しい技はできなくても普通の道をひたすらコロコロするのが楽しかったです。 ある日、少し遠出した先で、左カーブの緩やかな下り坂にさしかかりました。これまで真っ直ぐでほぼ平らな道しか通ってこなかったのに、何を思ったのか「行ってみよう」と坂を降り始めました。 途中スピードが乗ってきていつもと違う感覚にワクワクしました。このままいける、とさらにスピードが上がったところで、もう目の前のカーブを曲がるにはスピードが出過ぎていました。 止まれないことに気付いた私は、とっさに、転べは止まると考えたんでしょうね。現場を見ていた友人が言うには、わたしは止まるのではなく前へ向かって飛んだそうです。 そのまま着地とはいかず、顔は怪我しなかったものの、膝と腕は擦りむいて友人には大笑いされました。その場は笑っていたものの、夜お風呂ですごくしみたの...つづき
1978年生まれ

「一人シーソー」と「大人数シーソー」

banaさん 神奈川県 1978年生まれ 男性 シーソーは遊び方次第で危険な遊具にもなります。今の子供たちには決して真似してほしくないシーソーの遊び方です。 基本的なシーソーの遊び方は? ニ人もしくは、四人でバランスをとって交互に跳ねて遊びます。 一人で遊ぶシーソーの遊び方とは? 難易度は高いですが実はジャンプをすることで、一人シーソーは可能なのです。ただし、己のお尻にダメージを与えてしまいます。ジャンプする。浮いて落下する着地と同時にお尻を強打する。あまり楽しかったという記憶はありません。 多人数で遊ぶシーソーの遊び方とは? 単純にシーソーに乗れるだけ子供たちが乗りこむだけ。ただし、みんな遊びの顔はしていません。どれだけ体重がある子を乗せられるかという闘いなのであります。 皆で勢いよくジャンプする。相手チームも負けじと勢いよくジャンプする。勝負にならないときが多いですが、相手チームにお尻を強打させた方が勝ちとなります。
1978年生まれ

スリル感満載のシーソー遊び

遊び大好き少年さん 東京都 1978年生まれ 男性 小学校の校庭にあったシーソーで、放課後にクラスの友達と遊びました。 シーソーというと交互に上がったり下がったりという単純な遊びのイメージがありますが、その遊び方だけに捉われずに、友達と話し合いスリル感を味わえるシーソー遊びを考えました。 それは、シーソーに乗る人数を通常は左右に1人ずつですが、片方の人数を増やし(例えば3人)、1:3の割合でシーソーをするということです。 これによりシーソー自体のバランスが悪くなり、振り子のように一定のリズムで動かなくなります。これがシーソーから振り落とされるかもしれないというスリル感が生まれ、楽しめることができました。 また、片方3人のうち、1人が向かい相手のシーソーに上下に動いている最中に移動するという遊びも考案しました。これは、先生とかに見つかると確実に注意されることになるので、放課後で先生が手薄になった頃を見計らい遊びました。 「先生に見つからないか」というスリル要素も加わり、今思い出しても最高に楽しかったです。
1977年生まれ

シーソーの両端に石を置いてバランスをとる遊び

さんかくさん 山大阪府 1977年生まれ 男性 公園にあったシーソー。最初は、兄弟や友達と普通に乗り合って遊んでいるだけで楽しかったが、小学校も高学年になると、それだけではつまらなくなります。 そして、思いついたのが大きくて同じような石を友達と1個ずつ見つけてきて左右に乗せて重さを競い合う遊びでした。 この遊びは石を見つけるのが難しく。やっと同じような大きさの石を見つけてきた頃には、もうどっちが重いかなんてどうでも良くなってしまい。全然面白くありませんでした。 最終的にたどり着いたのが「同じ重さの石」を見つける事でした。遊び方としては、先程と何も変わっていませんが、どっちが重いかを考えるより、同じ重さの石を見つける方が、友達と何かを共有しているような気持ちになりました。 同じ重さの石を見つけられた時には、一緒に何かをやり遂げたような充実感が漂い。単純な遊びでしたが、繰り返して遊ぶ事が出来ました。
1977年生まれ

箱ブランコで劇遊び

あんまんさん 大阪府 1977年生まれ 女性 今はない公園ですが、商店街の裏に小さな公園がありました。隣がこんにゃく工場のため匂いがきつく、人が少ないので、人気の箱ブランコで遊ぶのにいつもその公園へ行っていました。 箱ブランコは女子にも男子にも人気があり、男子がいると箱ブランコを必要以上に揺らすため、ゆっくり遊べません。そこで人の少ない公園に行く必要があったんです。 女子に人気の遊びは、箱ブランコで劇遊びでした。箱ブランコは家にもなり、乗り物にもなります。いくらでも物語が続くので何時間でもそこにいることができました。 箱ブランコの下にはなぜか土が溜まっていて、そこに宝物を隠し冒険に行くという遊びが当時流行っていて、だれがお姫様の役をするかでもめていたのを覚えています。 みんな悪役はしたくないので、みんなお姫様ということもあり、何がなんだかわからない劇になっていましたが、楽しんでいました。 それを担任の先生に話したら、ビデオを撮ってあげると言われ。みんなできちんと台本を作ろうと頑張りましたが、意見がまとまらず。その話はいつの間にかなくなってしまいました。
1974年生まれ

幼馴染の男の子と二人きりで箱ブランコ

水色メランコリーさん 神奈川県 1974年生まれ 女性 小学生の当時、私はいわゆるマンモス団地に住んでいました。マンモス団地内の至る所にある公園には、ほぼ箱ブランコがある状態でした。 物心ついた頃から箱ブランコは馴染み深いものであり。小学校低学年くらいまで大好きだった幼馴染の男の子と二人きりで、箱ブランコに乗って遊んでおりました。 幼馴染の男の子と、箱ブランコに向かい合って座ったり、時には二人で横並び状態で座ってみたり…。 ちなみに、二人で並んで座っていると当然の事ながら座っている方側に箱ブランコは傾いてしまいます。そのアンバランスな傾き加減さえも、子供ながらには何故か楽しく、はしゃいでしまいました。 勿論、座るだけではなく、”立ち漕ぎ”と表現すればいいのでしょうか?二人で向かい合った状態で、箱ブランコの椅子の上に立って、お互いの体重を利用して箱ブランコを漕ぐ。箱ブランコをゆらゆら揺らして楽しんだりもしていました。 大好きだった幼馴染の男の子との箱ブランコ遊びは、小学校低学年までで、いつの間にか遊ばなくなっちゃったなぁ…といった感じ。今思い出すとちょっぴりノスタルジックというか甘酸っぱ...つづき
1970年生まれ

「一歩進化した遊び」箱ブランコからのジャンプ

せいざいさん 家の近くの公園 1970年生まれ 男性 小学校のころは通常のブランコ、箱ブランコ、滑り台などをフル活用して遊んでいました。特にスリルがあったのは箱ブランコからのジャンプです。 遊び方は、箱ブランコに二人で乗って一生懸命漕ぎます。その一方で背もたれの上の部分のパイプに一人がブランコの外側を向いてつかまります。 箱ブランコは一生懸命漕ぐと漕いでいる人の足場がなくなるのも恐怖ですが、その状況の中、背もたれの部分に外側に向いてつかまり、ブランコの勢いでジャンプするのはとてもスリルがあります。 自分が思った以上に飛び出すので、空中で安定した姿勢をとるのが難しいほどです。 当時ガンダムが流行していたので、みんな「アムロ行きまーす」といって、箱ブランコをカタパルト代わりにして飛び出したものです。 私の子供の記憶なので詳細ではありませんが、2階建てのベランダぐらいはジャンプできたと思います。 着地した時は土の地面でも足が痛かった記憶があります。今考えるとかなり危ない遊びをしていたなと思います。現在は許してもらえないでしょうね。
1973年生まれ

初めて作った かまくらの思い出

ぱぴこさん 徳島県 1973年生まれ 女性 私が子供のころは雪が数cm積もることがよくありました。学校のある日は雪道を友達と雪で遊びながら集団登校したり、休み時間は校庭で雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりしました。 ある時とてもたくさんの雪が積もりました。その日は学校が休みだったので姉と自宅の庭で雪だるまを作っていると「かまくらを作ってみよう」と姉が言い出しました。 かまくらなんてテレビで見たことがあるだけで、作り方もわかりません。父に教えてもらいながら、雪をかき集め半日以上かかって何とか小さいながらも完成しました。 小さいので1人ずつしか入れない大きさでしたが、初めて入るかまくらの中は雪の中なのに暖かく、不思議な感じがしたのを覚えています。手袋が冷たくなっていることも忘れて、その日は姉とかまくらでたくさん遊びました。 人生の中でかまくらを作ったのはこの1回だけでしたが忘れられない楽しかった思い出として残っています。
1978年生まれ

雪の風雲たけし城遊びの思い出

らむらむさん 東京都 1978年生まれ 男性 子供の頃にテレビ放映されていた「風雲たけし城」が学校でも大人気。よく友達と公園で遊んでいました。 ある冬に何十年ぶりかの大雪が降り、普段の景色とは全く違う一面の雪景色になりました。私も含めて全員で喜び、学校の休み時間には雪合戦などをして楽しみました。 その時、友達の1人が「この雪を使って風雲たけし城しようぜ!」と発言し、放課後にいつもの公園で遊ぶことになりました。 普段は障害物などはボールや縄跳びを使って挑戦者がゴールに到着しないよう障害物を設けていましたが、この日は全て雪を使って整えることができました。 雪のボールをたくさん作ったり、雪山を全員で3つほど作り上げるなど、いつもと違う準備に気持ちはワクワクしました。 そして風雲たけし城遊びをスタートしました。挑戦者に向けて、私を含め城を守る側は雪ボールを投げつけたりします。雪山に登る挑戦者には、登り切らないよう雪山を崩したりして阻止します。 こんな感じで全員雪まみれになり、靴下なども濡れてしまいましたが、普段は体験できない遊びに全員が笑顔だったことを今でも記憶しております。
1978年生まれ

「貴重な雪」での雪遊びの思い出

もももさん 大阪府 1978年生まれ 女性 私の住んでいた大阪は、雪がほとんど積もりません。最近は全くと言ってよいほど積もることはありませんが、それでも幼少期は年に1、2度うっすら積もることもありました。 たまに積もった雪は、子どもたちのテンションを高くします。溶けにくい車のボンネットなどに薄くつもった雪を手寧にかき集めて、小さな雪だるまを作るのがお決まりです。 子どもの手のひらで握っても小さいと感じるくらいの小さい雪だるまが出来ます。同じようなことをして、玄関前に小さな小さな雪だるまを飾っている家を見ると自分の作品と比べてみたりしたものです。 雪合戦などの経験はほとんどありません。テレビで雪合戦やかまくら等の映像を見るとあこがれたものです。 男の子たちは、雪らチラつき始めると、口を開けて上を向いて走っていました。よくわからない遊びでしたが、雪の冷たさを口の中で感じながら、あれはあれで楽しそうでした。 運動場にうっすら積もった白い雪を一番に踏みたくて、休み時間になると我先に・・・と外へ走って出たことも懐かしい思い出です。
1975年生まれ

めったにできない雪合戦の思い出

さよりさん 小学校の校庭 1975年生まれ 女性 私の実家は南国というイメージのあるところなので、めったに雪は降りません。しかし私が小学校1年生のある朝、今日はやけに空気が冷たいなあと思いカーテンをあけると庭一面の銀世界! 今まで見たことがないくらい雪が積もっていて、朝から姉と二人で外に出て雪だるまを作りました。 学校に行かなくてはいけないギリギリまで遊び登校。天気予報では午後から日差しが出るので、家に帰るころにはこの雪もなくなってしまうんだな、さみしいな、と思いながら登校しました。 そして学校に着いて1時間目の授業が始まるときに先生が「今日はめずらしく雪が積もっているので校庭で雪合戦をしましょう!」と提案がありました。 クラスのみんなはうれしくてうれしくて大喝采。もちろん私もクラスメイトと雪合戦ができることにワクワクしました。 2チームにわかれて生まれて初めての本格的な雪合戦。指先がじんじんしながらふわふわの雪を固める感触や、頬に冷たい風と氷の粒が当たり背筋がぶるぶるっとなる感覚。 そしてキラキラしたクラスメイトの笑顔と歓声。今でもしっかり私の心の中に存在しています。
1970年生まれ

小学校からの帰り道に「何かを探しながら帰る」遊び

みふぁさん 神奈川県 1970年生まれ 女性 小学校までは子どもの足でも歩きで10分程の、今考えればさほど遠くない距離でしたが、帰り道では住まいが近所のお友達と、即席の遊びをしながら帰りました。 その中でも、すぐできて競争の要素があり、ワクワクしながら遊んでいたのが、「何かを探しながら帰る」ことです。 今では探せないものとしては、道に落ちている缶飲料のプルタブです。昔は缶ジュースなどを開けるとプルタブは、缶からはずれるものが主流でしたから、道端にポイ捨てされてることが多々ありました。 それを帰り道でたくさん見つけた方が勝ちという、いたってシンプルな遊びをやっていました。ゴミ拾いのつもりではやっていませんでしたが、今思えば公道の掃除にもなっていました。 あの頃は目をさらのようにして、落ちているプルタブを探し、お友達とほぼ同時に見つけると、ワー!と歓声を上げながら拾いに走ったりしていました。 探すものはプルタブでないこともあり、何という名称かわかりませんが、道路の端に埋められている、ボルトのようなもので、上部に安全のためにゴム製か何かの丸いカバーがかけられているものがありました。 このカバ...つづき
1973年生まれ

花の遊びの思い出

きょうこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 公園で咲いている花を使って遊んでいました。 白い花がたくさん咲いていて、1つずつ千切って繋げていきます。茎の部分を絡ませて繋げます。そうして長めに花を繋げたら輪っかにします。花の輪を頭に乗っけて出来上がり。とてもかわいく仕上がります。 白い小さなボンボリみたいな花が輪になり、花を繋げるのに時間がかかるので、出来上がったときは喜びが増します。 近所の子供とよく花輪を作って遊んでいました。器用でないと出来ませんが、1回できるとかわいいので再び作ろうと思います。 この遊びは結構したことがあると思う遊びです。今でも花を見ると花輪のことを時々思い出すくらいかわいい花輪でした。
1973年生まれ

看護師さんごっこの思い出

みぃこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 子供の頃、近所の子供と「看護師さんごっこ」をして遊んでいました。風邪を引いた設定。私が看護師さん役で、近所の子供が患者役です。 注射器のおもちゃを持っていたので注射をしていきます。 風邪を引いているので、注射をしましょうと言って少しづつ押しながら注射をうっていきます。これを繰り返します。少し時間が経ったり、場所を変えて公園や近所で注射をうっていきます。 患者は絶えず風邪を引いています。なかなか直らず、ずっとおもちゃの注射器で注射をする遊びをしていました。 近所の子供はいつも鼻水が出ていたので、余計に注射が必要だと思っていました。子供ながらにはやく直してあげたいと思ってした遊びです。
1973年生まれ

ドラマごっこの思い出

ゆーこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 小学生の頃に近所の子供と流行っていた遊びが「ドラマごっこ」です。その頃に流行っていたドラマで、飛行機の教官とスチュワーデスの物語で、その2人を真似して台詞を言って遊んでいました。 「お前はなんてノロマな亀なんだ」と教官が言い、スチュワーデスが「教官」と言って泣きつくシーンなどです。とてもおもしろく1日に何回も繰り返して遊んでいました。 そのドラマは毎週見ていて、子供でもわかる、わかりやすい物語でした。主人公の方も大げさに演技していたのが伝わりやすく印象が強かったので、真似をして遊んでいました。 少し独特な遊びですが、他のドラマで手袋を口で取るシーンも真似していました。主人公の手が動かない手だけマネキンのような感じで手袋をしていて、取る時に口で取るのが流行っていました。 毎週このシーンが流れるので印象に残ったので真似していました。ドラマの主人公になりきって遊んで、やりきると笑いあい、とても楽しい遊びでした。
1976年生まれ

今思いだすと恥ずかしい ”貧乏ごっこ”

いちごフェアさん 神奈川県 1976年生まれ 女性 小学生のころ、小公女セーラやマッチ売りの少女、フランダースの犬、など苦労しているけれど健気に生きている物語が大好きでした。 自分もその世界にどっぷりつかりたくて、一人でおままごとをする時には”貧乏ごっこ”をして遊んでいました。 押入れの中が家という設定で、薄暗い中お人形を相手に「こんな物しかなくてごめんね」「今日もおかゆだけだよ」「お母さん、寒いよ」など生活に苦しむ母子の会話を脳内再生し楽しんでいました。 いわゆる普通の家庭をモチーフにしたおままごとではない、背徳感のある遊びだと小学生ながらに感じていたので、貧乏ごっこは基本一人で遊ぶ時の特別な設定です。 一度だけ仲の良い友人と遊んだことがありましたが、その事などすっかり忘れ。大人になってからその友人と再会した時に、当時の貧乏ごっこをやった時の事を話してくれて、あの時は若干引いていた、と聞いたときには顔が熱くなるくらい恥ずかしくなりました。 貧乏ごっこのおかげか、現在は節約が大好きな主婦になっています。
1975年生まれ

先生ごっこの思い出

さらぴさん 静岡県 1975年生まれ 女性 子どもの頃から「ごっこ遊び」が好きで、子どもなりにこだわりを持って遊んでいました。なので、真剣にロールプレイをしてくれないお友達とは、ときどき本気のケンカに発展することもありました。 あるとき先生ごっこ遊びをしていて、1人のお友達が「私が先生やりたい!」と立候補したのです。その子が普段からあまり頭のいいキャラではなかったこともあって私は反対しました。 「○○ちゃんに先生役できるの?」と今思うとあまりにも失礼なことを言ったのですが、その子は意に介せず「いいのいいの、私が先生やりたいから」と勝手に確定してしまいました。 勝手に決められたことに対して私が憤慨し、他の子たちもポカンとしてその日の遊びはお流れになってしまいました。 私は遊びも真剣にやりたい子どもだったので、いわゆる「ニワカ」な子が入ってきて台無しにされたことが許せなかったのです。 相手の子は私がなぜ怒っているかもわからなかったようで、その後普通に話しかけてきて、その日のいざこざは無かったことになりました。
1970年生まれ

団地で友達とラグビーゲームをしていたらケンカ

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 小学校のとき、1つ年上のあきら君と一緒によく団地の中の公園で遊んでいたことを覚えています。当時わんぱくであって当たり前の時代で、ケンカして負けて帰ってきたら怒られるような風潮でした。 私はあきら君とラグビーに近い遊びをしていました。その遊びはボールを力ずくで奪い合って自分の陣地にボールを入れる遊びです。ボールを奪うには何をしてもかまわないルールだったと思います。 私よりも一回り大きいあきら君に勝つには、力ずくでは難しいと考えて、ボールを遠くに投げ、それをとって陣地に入れることで私は点数を稼いでいました。一方あきら君は力ずく(タックル)でボールを確実に自分の陣地に入れていきます。 あたりも暗くなり、だんだんボールが見えなくなってきたなか、あきら君が私の投げようとしたボールに向かって、もともとあったプラスチックバットを振りかぶってきました。 そのプラスチックバットが思いっきり私にあたりました。私はわざと私をバットで殴ったと判断して、取っ組み合いのケンカになりました。 あきら君も負けず嫌いなタイプだったのでケンカは大きく発展してしまい。私は殴られ...つづき
1975年生まれ

ばぁちゃんお手製お手玉の思い出

まかろんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 小学生の頃、同じマンションに住んでる同級生の家に集まっては、人形遊びや、あやとりをしていましたが、お手玉もやりました。 お手玉は各々手作り感溢れるものが多く、私はばぁちゃんが作ってくれたお手玉を持参して遊びました。和柄の生地で作られたお手玉は、着物の端切れで作ってくれたもので、手触りもよく、程よい小豆の量と重さが良かったです。 いつも集まっている子の中には強者もいて、片手で2個3個とポイポイ器用にやる子がいて、私もできるようになりたいと家でもよく練習していました。 しかし、なかなか片手では難しく、2個であればなんとか3回くらいは落とさずできても、3個はできませんでした。 できる子のやり方を見ていると、器用に一定間隔である程度の高さまで1個1個が宙を舞い、色々な柄が施されたお手玉がとても綺麗に見えました。 大きさや重さなども関係しているのかもしれないと思いましたが、はばぁちゃんは「手首に力を入れ過ぎたら駄目だよ」と教えてくれて、ばぁちゃんと一緒に練習した事もありました。
1978年生まれ

周りでやっている子がいなかったお手玉遊び

ういんAさん 東京都1978年生まれ 女性 幼いころに母からお手玉を教わっていました。 周囲にお手玉やおはじきを持っている子が全くおらず。いとこなども年上ばかりでマンガやゲームの話題が多く。幼稚園でも習ったことはなかったので、お手玉は専ら自分一人で手持ち無沙汰の時などにやっていました。 家になぜお手玉があったのか分かりませんが、しゃこしゃこと鳴って、手触りが好きで、よく触っていました。 座布団のような布地を使っているんだなあと思っていましたが、中身が小豆だと知ったときは幼心に大変驚いたものです。 教わったのは両手で二つのお手玉を回す、三つ回す、片手で二つのお手玉を回す、三つ回す、寄せ玉遊び(おさらい)です。 幼稚園児くらいだと両手で二つのお手玉を回すのすら大変で、出来たときは自然に顔が綻ぶのが分かりました。 幼かったので寄せ玉遊びは途中までしか出来ませんでした。曲も全ては覚えていませんが、何だかリズミカルな音が心地よく。たまにふと頭の中に流れることがあります。
1975年生まれ

♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら

きょうさん 大阪府 1975年生まれ 女性 小さいころ、お母さんがよくつぎはぎの布にあずきを入れてお手玉を何個か作ってくれました。親が簡単そうに歌を歌いながら、高く投げ上げたお手玉を、残りのお手玉で拾い上げる。 ♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら 私は大人になっても、二つのお手玉を両手で投げることが精いっぱい。 母や兄はよく、片手でお出球を投げていました。 私がやるとどうも右に、左に飛んで行ってしまって、バランスよくお手玉を投げ上げることができません。 それで落ちたお手玉は、つまんで拾い上げてまたチャレンジ。 今は、完成したお手玉を和雑貨などのお店で見ることができます。何個か購入して、動画でも見ながら歌ってお手玉をほおり投げてみたいです。
1975年生まれ

長い長い滑り台

mugikoさん 兵庫県 1975年生まれ 女性 私が通っていた小学校の運動場は遊具が少なく。ブランコに古びた滑り台、ジャングルジムに鉄棒ぐらいだったと思います。 私が小学4年生の時に古い滑り台を取り壊して、長い長い滑り台を設置したのでした。生徒たちは大喜びで滑り台を遊んでいました。 長い長い滑り台だったので、滑っていると途中で止まります。生徒たちは、そこから立ち上がり下まで走り抜けている子供もいました。 出来たばかりの長い滑り台はなかなか順番が回って来ません。下校時間ギリギリになると、ようやくすべる事が出来るほどの人気の滑り台でした。 滑り台で遊びたい生徒は朝早く学校に行ったり、下校時間まで粘っている子供がいました。まぁ一ヶ月も経てば人気もなくなり、私もようやく長い滑り台を遊べるようになりました。 そこで友達と3人セットで滑ったり、後ろ向きになって滑ったり色々とふざけた遊びをしていたのですが、今まで遊んでいた短い距離の滑り台と違い。長い長い滑り台だったので途中でスピードが出なくなります。 そうすると、友達が後から押してくれました。私はいきなり後ろから押されたので体勢を崩して、滑り台か...つづき
1970年生まれ

滑り台で遊びつくした子供時代の思い出

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 子供の頃は公園でいろいろ工夫して遊ぶのが楽しかったことを思い出します。 特に滑り台は工夫して滑るのが楽しい遊具の一つでした。今では危ないといって辞めさせられてしまうようなことを平気で行っていました。 ・頭から滑り降りたり、 ・胸から滑り降りたり、 ・砂をかけながら摩擦を減らして滑り降り、 ・どこまで遠くへ着地できるか、 ・また滑り台を走って降りて同様にどこまで遠くまで着地できるか、 など、暗くなるまで友達と競い合ったことを思い出します。 滑り台としての使い方以外にも、缶蹴りの隠れ場所だったり、鬼ごっこの隠れ場所など使い方は豊富でさんざん遊びつくしました。 当時は滑り台のない公園はなかったので、遊びつくしたら他の公園の滑り台を使ってまた新たな遊び方を考えました。子供時代の仲間たちは遊びの天才でした。 いい仲間がいたおかげでケガも耐えませんでしたが、充実した子供時代を過ごせたと思っています。
1970年生まれ

ブランコの乗り方 3種類

ぽんたさん 熊本県 1970年生まれ 女性 【その1】 ブランコといえば一人で乗ったり、友達が背後から背中を押したりするのが普通だと思います。 私の小学校では一人がブランコに普通に腰掛け、もう一人が向かい合った状態で腰掛けてる子の両端に足を置き立ち漕ぎする二人乗りが主流でした。一人で漕ぐよりも、地面と平行になるくらいに高い位置に! ちょうど腰掛けている子の顔の前に、立ち漕ぎする子の股間がある。今思えば、なんとも気まずい体勢だったな⋯。当時は女の子同士だから恥ずかしさはありませんでしたが⋯。 男の子は一人で立ち漕ぎしている子ばかりでしたね。やっぱり男の子のほうが恥ずかしがり屋でデリケートなんでしょうね。 【その2】 ブランコ改造系だと、ブランコの鎖を乗る部分に巻き付けて、鎖を短くして乗るのも流行っていたかな~。これって鎖を巻きつけるときに気をつけないと、良く指を挟んで指が紫色になってたり。 【その3】 体を下向きで乗る部分にお腹を乗せて、その場でクルクル回って鎖を縄状にして地面から足を離す。反対回転のクルクルを楽しむだけの遊びとかもやったな。 伝わったかな?
1978年生まれ

凧上げに詰まった少年時代の思い出

コタツにみかんさん 東京都 1978年生まれ 男性 毎年お正月になると、父と弟の3人で近所の公園グラウンドに行き凧上げを楽しみました。当時は人気アニメが描かれた凧が流行っており、私の凧もドラゴンボールのキャラクターが描かれたものを父に買ってもらい。凧上げを楽しみました。 弟も専用の凧を持っており、2人でどちらが長く凧上げできるかを競走しました。ポイントはいかに上空で凧を浮揚させる時間を長く保つことができるかで、吹いている風の強さや質が勝負を分けます。 上空で凧が上手く浮揚状態に入れば、地上から凧糸を少し戻して微妙な力加減で保つように凧に集中します。途中で風が弱まることがあれば、自分自身を加速させて、新たな良い風が吹くまで走り続けます。 この動きを何度も繰り返す事で、凧を上げ続けられました。弟も負けじと頑張ったり、父がジュースを買ってきてくれて休憩で飲んだりと、今でも凧上げをする子供をお正月に見かけると、自分の少年時代のお正月の思い出が蘇り懐かしさを感じることができます。
1977年生まれ

母とのおはじき遊びの思い出

ヤクルトさん 自宅 1977年生まれ 女性 小学校低学年のころ、母はよく遊び相手になってくれていました。おはじきのルールのある遊び方は母に教えてもらいました。 おはじきをばらまいて、2つのおはじきの間をぶつからずに通り抜けたらゲットできる。それを交互にやって、手持ちのおはじきが多いほうが勝ち。という単純なルールです。 簡単そうに見えますが、小学生の不器用な私には少し難しく。間を抜けずにぶつかってしまったり、通過せずに手前で止まってしまったりしました。 その点、母は上手で、母の順番が来るたびにどんどん自分のおはじきを増やしていきます。私は負けず嫌いでわがままなので、とにかく負けることが悔しくて面白くない。 すぐにそれが顔に出てしまい、母に怒られてまたふてくされる。それでも何度か相手をしてくれました。結局一度も勝つことが出来なかった気がします。 母の幼少期には、よく遊んだらしく、とても上手で、どこか母も得意げでした。私も母になり、何度か子供たちと同じルールで遊んだことがありますが、大人になってからのほうが力加減をうまくコントロールできるみたいです。 子供たちは負けてふてくされ、結局数えるほ...つづき
1975年生まれ

できそうな気がしたけれど…「空中手乗っけ」の思い出

ねこ助さん 京都府 1975年生まれ 男性 幼稚園生の頃の話です。当時ちょっとした独楽回しのブームがあったと記憶しています。駄菓子屋さんで、ウルトラマンの絵が入った独楽(金属製)が販売されていて、友達の間で流行っていました。 独楽に色を塗って、回転した時の模様の変化が楽しかったのを覚えています。 2歳年上の兄がおり、父に教わって二人とも自分でも回せるようになりました。私も普通の独楽を回すだけなら上達して(上達した気になっていて)、友達や兄と、どちらが長く回せるが競って遊んでいました。 父が「ちょっと面白いものを見せる」と言って、独楽回しの技を見せてくれました。子供ながらに驚いたのが、独楽を空中にほおり投げてそのまま手の上に乗せて回しました。 父は簡単そうに独楽を回して、にっこりしていました。 投げ方を教えてもらったのですが、私は、手の上に乗せることができません。できそうな気がしたのだけれど…うまくいきませんでした。ささやかな懐かしい思い出です。
1972年生まれ

幼少期の思い出 コマの回した方とコマを上手く回すコツ

プリンさん 千葉県 1972年生まれ 男性 私が子供の頃、友達とコマで遊んだことがあります。男の子同士で遊んでいた記憶があります。 コマにしっかりと紐で巻いて、コマを投げるのですが、一斉に回してどれだけ長く回っているかを競い合ってました。コマ用の紐が売っているので、その紐を使うとよく回ります。 下の床の状態でコマの回り方が変わります。フローリングですと溝に入ることもありますので、なるべく平らな所、コンクリートや板の上などが最適です。カーペットの上でも回すことができますが、回る時間も少なくなってしまいます。 長く回すにはコマの重量も必要だということがわかり、コマに重しをつけたのを覚えてます。コマの軸がとがっているほど長く回ります。 コマの上の部分に模様を描くと、回っときにすごく綺麗になるコマもあります。 コマを投げたと同時に手の平に載せたりすることもできましたが、今は幼少期から何十年も経ってるので、できる自身はありません。
1974年生まれ

楽しかったコマ回しの思い出

まさおさん 京都府宇治市 1974年生まれ 男性 小学低学年の頃にコマの回し方を覚えてから、5年生の頃まで遊んでいました。 ある日、全校朝礼の時に校長先生が、「実は教頭先生がコマ回しの名人です。これから見せてもらいましょう」と言って、教頭先生がグラウンドでコマ回しを披露してくれました。コマを回して手のひらに乗せたり、綱渡りをしたりと多彩な技を見せてくれ。すごいなあと感動しました。 それからコマの紐のつけ方を教えてもらって練習しました。最初は失敗が続きましたがすぐに回せるようになり、そこから毎日練習していました。 コマの素材としてはプラスチックや木でできたものなど色々ありますが、一番安いプラスチック製が一番回しやすかったように思います。 手のひらに乗せたり綱渡りができたり技も習得して、ますますコマ回しが楽しくなりました。 友達と同時にコマを回してどちらが長く回っているかを競ったり、お互いに回したコマを紐で引き寄せてぶつけあったりいろいろな遊び方をした記憶があります。 何年か経って高校生くらいの時に、当時遊んでいたコマ回しをやってみようとしたら上手く回せなかったので、子供の頃の集中力ってす...つづき
1977年生まれ

縄跳びとともに育った小学生時代 遊びと成長の物語

一服係長さん 栃木県 1979年生まれ 男性 私が小学生の頃「縄跳び」は立派な遊びのツールでした。今ほどにゲーム機や遊びのコンテンツはない時代、縄跳びで友達と遊びまた競い合った思い出が蘇ります。 放課後に学校のグラウンドや近所の神社で友達と一緒に「縄跳び」をしました。 最初は跳べなかったり、友達に追いつけなかったりすることもありました。それがまた次の挑戦へのモチベーションになりました。 「縄跳び」をするたびに自分の跳躍力が上がっていくのを実感でき、仲間とのコミュニケーションも強くなりました。 特に「リレー縄跳び」は一緒に跳ぶ仲間たちとのチームワークが大切だということを学べました。ときには「リレー縄跳び」で転倒してしまい。痛いし恥ずかしい思いをしました。 「二重飛び」「三重飛び」は友達より多く早く飛ぼうと夢中になり、一人日が暮れた家の庭で練習を繰り返したりと今思えば夢中になっていました。 小学生の時に「縄跳び」をすることができたことを思い出すと、今でも懐かしい気持ちになります。
1973年生まれ

痛かった 悔しかった縄跳びの思い出

ナポリタン星人さん 東京都 1973年生まれ 無回答 縄跳びは幼稚園から中学生の頃にやったと記憶しています。 幼稚園の時は走り縄跳びをやりました。普通の縄跳びではなくどこかに縄を結んでおいてそれをジャンプするだけのもので、何回か縄を高くしすぎて足を引っかけてしまい地面に頭を打ってすごく痛かった記憶があります。 小波跳びという縄の片方をどこかに結んで、もう片方を姉が持って自分の足元で左右に揺らしその縄をジャンプし続ける。あまり楽しくはないんですが姉と遊んだのはその時ぐらいだったなと思い出しました。 小学生になってからは、自分一人で前回し跳びや二重跳びなど普通の縄跳びをします。後ろ二重跳びがうまくできませんでした。 友達と二重跳びの回数を競ったりした時、自分はあまり運動神経はよくないので必ず負けてしまって悔しい思いをしました。 中学生の頃は大勢で並んで縄跳びをする大縄跳びで、自分が足に引っかけて止めてしまうことがよくありましてその時も悔しい思いをしました。
1974年生まれ

長縄跳びの練習の思い出

タケシさん 大阪府 1974年生まれ 男性 小学生の頃、私は長縄跳びが苦手でした。実際に縄跳びをするとヘタヘタでした。いつも練習している子たちよりも遅く降りてしまうことが多かったです。 そんなときに思い出に残るエピソードがあります。 1つ目は、縄跳びの練習中に縄が切れてしまったことです。私は練習をしていたところ、突然縄が切れて、思わず足が抜けて転んでしまいました。周りの子たちは私を見て笑いましたが、私はとても恥ずかしかったです。 2つ目は、大縄跳びの大会で負けてしまったことです。学校で行われた大縄跳びの縄跳びの大会に出場しましたが、私のミスで、引っ掛かり残念ながら負けてしまいました。周りの子たちががっかりしているところを見て、とても悔しい、悲しい気持ちになりました。 このような経験から、私は「練習することが大切」ということを学びました。毎日、少しでずつですが、練習して、縄跳びが多少はできるようになったのを覚えています。大げさですが、努力は大切だと感じました。