1990 年代に生まれた人が子どもの頃にした遊びの思い出

1996年生まれ

小学校5年生の時に出会った「風船をくれるおじさんの思い出」

そうたろうさん 京都府 1996年生まれ 男性 小学校5年生のときに身長の高い風船を売るおじさんがクラスで噂になりました。口裂け女などが流行っている時代で、そういった都市伝説系の噂話かと思っていました。 自宅に帰らず友達の家に行く日、そのおじさんに出会いました。 その友達の家とは学校を挟んで逆方向だったため、自宅に帰ってからその子の家に行っている時とは時間帯が30分程早く、そのタイミングで遭遇してしまったのです。 角を曲がった十数メートル先にそのおじさんがいました。 当時の私の身長を正確に覚えているわけではありませんが、体感で私の倍の身長があるのではないかと思うほどの大きさで、ヘリウム風船を5つ程度持っていました。 おじさんを見つけたときに恐怖を感じたのを覚えています。 友達は何度か見たことがあり、害がないということを知っているためケロッとしていたのを鮮明に覚えています。 友達の表情をみて安心したのもつかの間、おじさんが私達を見つけ真っ直ぐに歩いて来ました。 びくびくしながら数歩後退りしてしまうほどの圧力で、すぐ目の前まで来ると立ち止まりました。 そして、風船を持った手をこちらに突き出...つづき
1994年生まれ

たまごアイス

オニササさん 新潟県 1994年生まれ 女性 校門前でアイスを売っているおじさんがいました。味は1種類。自家製のアイスで食感はシャーベットに近く、優しい黄色が印象的でした。 何の味、と例えられないのですが、ほんのり甘かったです。アイス自体に決まった名前はないのですが、子どもたちの間ではその色味から「たまごアイス」と呼ばれていました。 価格はカップが300円、コーンが100円、モナカ(モナカの皮にアイスを挟んだ状態)が100円と小学生にも手を出しやすい価格です。 子どもたちに大変好評で、文化祭や運動会のときは必ず出店していたのですが、長蛇の列ができていました。 売っているおじさんは無口で必要最低限のことしか話しません。近所にお住まいだったので顔見知りではあったのですが、誰にもレシピを教えてくれませんでした。 おじさんが体調を崩されてからは奥さんが代わりに売り子をしていました。奥さんも体調を崩されてからは、もう味わえないのが残念でなりません。
1999年生まれ

家までついていく

ともさん 山口県 1999年生まれ 男性 小学校の頃、放課後になるとほぼ毎日、皆で僕の家の近所にある公園で遊ぶ約束をしていました。 毎日家に帰ってから集合をしていたのですが、ある時から「なんか一回帰ってから集合するの時間無駄だね」みたいな雰囲気になりました。 家に帰る途中、その公園までの道のりで友達の家に皆で寄って、その友達の着替えを待ち、その友達が着替え終わったら別の友達のところに皆で行って、また着替えるの時間を待ち、最後に僕の家に来て僕が着替えるのを皆が待つことで、全員が着替え終わったらすぐに遊べるということにしました。 これをすることで誰かが着替えている時間でも、友達と話せて楽しい時間をずっと過ごせるので、途切れることなく友達との時間が過ごせました。 今振り返ると友達との時間が途切れないのは良いが、肝心の皆で遊ぶ時間は逆に短くなっている気がしたので、効率が悪いことをしていたなと思います。けれど、楽しい思い出ではありました。
1993年生まれ

下校中のいたずらの思い出

たくとさん 静岡県 1993年生まれ 男性 登下校に40分ほどかかる場所に住んでいました。 ほとんど田んぼ道で途中に遊具がある神社を通ります。自然が多くて生き物や植物に数々触れながら登下校していました。 夏はザリガニがたくさんいるドブや田んぼを見つけては、神社の手水舎に入れて置いたり、持って帰って飼ったりしていました。 大雨や台風の後には川からたくさん水が流れてくるせいか、大きなフナやカメがいてテンションが上がったことを覚えています。 冬には凍った田んぼを走り回ったり、神社のイチョウの木に生っている銀杏の実に石を投げて落として持って帰ったりしていました。 近所のおじいさんと一緒に拾って帰ったものの、処理の仕方がわからないと母に困られました。 春や秋には道端に生えている花の蜜や野イチゴらしきものをなんとなくの知識で口にしていました。 おいしかった実は毎日下校の時食べて、まずかった実は人の家の庭に生えているバラの棘に刺していました。 家主の人に見つかったときは怒られずにあきれられている様子でした。子供ならではの怖いもの知らずの自然にあふれた思い出です。
1995年生まれ

「自由時間での一コマ」天井に挟まったボールを落とすゲーム

ばぼちゃん 山口県 1995年生まれ 女性 私が小学生のころミニバレー部に所属していました。放課後、学校の体育館で練習はとても楽しかったです。 私の小学校の体育館の天井は鉄の梁(はり)がむき出しになっており、練習中にバレーボールが高く上がってしまい、その梁に挟まってしまうこともありました。 練習中は、すぐに新しいボールを出して気にしないよう努めますが、そこは小学生、休憩に入るとそのボールを救出しようと、他のボールを高く上げて、挟まっているボールにぶつけるゲームを始めます。 私はこれが楽しくて仕方ありませんでした。なんといっても、自分がぶつけたボールで、挟まっているボールを救出できるからです。 誰がそのボールを救出できるか順番に挑戦します。そして、救出できたら、そのゲームに参加していたメンバ―だけでなく、ミニバレー部の監督コーチ含め笑い合います。 稀に、バトミントンのシャトルやテニスボール。そしてなぜか体育館シューズが挟まっていることもありました。 そして、これらのレアキャラを見つけるのも、楽しみの一つでした。 暇な時にボールを当ててそれらを救出することが一時期私たちミニバレー部の中で流...つづき
1996年生まれ

「天井のボールは思い出の象徴」サバイバルドッジをしていて

ぽたち太郎さん 青森県 1996年生まれ 男性 当時の私の通っていた小学校ではサバイバルドッヂというものが流行っていました。その名の通り敵味方の境をなくしたサバイバルのドッヂボールのことです。 内野、外野という境目もありません。人数制限もありません。ただただ、体育館をすべてフル活用した何でもありのドッヂボールです。 アウトになった場合は真ん中のバスケットボール用のセンターサークルの中に入り、サークルの中から外の人(まだアウトになっていない人)に当てれば復活できる。そんな感じのルールでした。 ルールの中にはボールを持った人は3歩以上歩くことは禁止、ドリブルの禁止などもあったと思います。 当然、アウトになっていない人が少なくなってくると、あの広い体育館で移動の制限があるわけですから、当てるチャンスが減ってきます。 そんなときのリセットの合図がボールを天井に高く蹴り上げる行為でした。リセットされると、アウトで真ん中にいた人たちも無条件で全員復活になります。 これをすることでアウトになった人たちからは、一瞬の羨望のまなざしを得られます。もうお気づきかと思います。良かれと思いボールを高く蹴り上げ...つづき
1994年生まれ

「体育の時間の思い出」私はボールがハマる瞬間を目撃しました

片葉の葦 新潟県 1994年生まれ 女性 私の通っていた小学校の体育館にもいくつかボールが挟まっていましたが、そのうち2つは挟まるところを目撃しました。 それは体育の時間に起きました。その日はバレーボールを行っていて、二人一組でパスの練習をしていました。 バレーボールのパスは素人には難しく、特にアンダーハンドパス(いわゆるレシーブ)はオーバーハンドのように指でのコントロールができないため、ボールの制御が難しいのです。 結構な頻度であちこちからホームランのようにボールを飛ばしてしまうチームがある中で、1つのチームがとうとう天井まで飛ばしてしまい、天井の梁(はり)の隙間に嵌って(はまって)しまいました。 私の近くのチームだったので一緒になって「どうしよう、どうしよう」と焦っていると、先生が来て「他のボールを当てて(天井に挟まったボールを)押し出してみる」と力強く言ってくれました。 そして先生が投げたボールは少々それて、別の場所に嵌ってしまいました。 私は「先生でも駄目なんだ」と少し安心しました。先生は笑って誤魔化していました。
1994年生まれ

「謎のボールの思い出」謎が謎のまま解けない話

瑠璃さん 北海道 1994年生まれ 女性 自分が小学校に入学したときにはもう既に、その小学校の体育館の天井には、謎のボールが存在しました。 自分の記憶では、それはサッカーボールやバスケットボールではなかったので、おそらくソフトバレーボールだったと思います。 自分は入学してからというもの、体育館に来るたびにそのボールを見上げて、「なんであんなところにボールがあるのだろう?」「一体誰があんなところにボールを引っかけたのだろう?」と考えるばかりでした。 全校集会や行事の時も、あの謎のボールが気になって気になって仕方がなく、多くの人が無駄に長くて嫌いであっただろう校長先生のお話なんかは謎のボールに思考を支配されていた自分には全く頭に入って来ませんでした。 それから年を重ねて高学年になっても、あのボールの謎は解けず、結局卒業式のときもそのボールは天井にあるまま。 「なんであんなところにボールがあるのだろう?」「一体誰があんなところにボールを引っかけたのだろう?」という謎は解けずじまいに終わりました。
1993年生まれ

危ないとわかっていても楽しかった回旋塔の思い出

たくとさん 静岡県 1993年生まれ 男性 グローブジャングルのことを、私の小学校では「回旋塔」と呼んでいて、私が卒業して少し経った頃に撤去されました。 低学年の頃は高学年の子供たちに混ざると、体格の違いで回転の速さについていけなく。落ちたり、回っている子供の足にぶつかったりして怖いと思っていました。 高学年になると逆に低学年の子供が気になって、加減して遊んでいたのを覚えています。 しかし同学年の男子と遊ぶときは加減なしで思いっきり回して、派手に転んで怪我をしていました。 今思えば危ないですが、当時は怪我なんて気にならなく、ズボンが破れようが多少血が出ようが楽しくて遊んでいました。 回っている最中に足を外に投げ出して座って地面にかかとを擦り付けて円を描いて遊んでいました。 汚れるし、服や靴はボロボロにするしで親にはかなり迷惑や心配をかける遊びだったと思います。 無茶があったおかげで運動神経は良い方です。多少の怪我では弱音を吐かないようになったと思います。 最近は見かけることが少ないですが私は好きな遊具でした。
1990年生まれ

回転ジャングルジムで遊んだ思い出

minさん 島根県 1990年生まれ 女性 回転ジャングルジムはよく小学生の頃に公園で遊んだ思い出があります。公園に着くと最初に滑り台、ブランコで遊び次に回転ジャングルジムで遊んでいました。 回転ジャングルジムはずっと遊べる遊具のひとつでした。最初に友達とじゃんけんをしてから誰が回すのかを決めて、「もう少し早くして!」と笑いあいながら遊んでいたことを思い出します。 乗っている方と回す方の遊び方があり、乗っている側はとにかく楽しく笑いが止まりません。 回す方は体力勝負であり、乗っている友達が楽しんでくれるように一生懸命走って回します。 途中自分の中で最高速度を回して自分も一緒に回転ジャングルジムに乗り込む時が、回す方の疲れを癒してくれるのです。 一生懸命走って回したので乗った時には汗をたくさんかいており、回っている時の風に当たっている時がとても気持ちが良かったと思い出があります。
1997年生まれ

通称「消しバト」休み時間に消しゴムバトルの思い出

momochinさん 千葉県 1997年生まれ 男性 小学校の休み時間によく消しゴムバトル、通称「消しバト」をやっていました。 このゲームは、学校の机の上で遊ぶゲームです。それぞれが持ち寄った消しゴムを手で順番に打ち合って、相手の消しゴムを机から落とすゲームです。 何人かで遊んでいましたが、皆それぞれオリジナルの消しゴムを用意していたのが面白かったです。 学校の授業とは別に、可愛いキャラクター物の消しゴムを用意したり、机から落とされないように重い消しゴムを用意したり、それぞれユニークな消しゴムを持っていました。 休みの日に近くの文房具屋さんに行って、バトル用にどんな消しゴムを買おうかと見ているのが面白かったです。 消しバトは、消しゴムさえ持っていれば誰でも参加できるので、普段あまり話さなかった女の子とも、このゲームを通じて仲良くなれました。そのような点でも楽しかった思い出があります。
1997年生まれ

校内かくれんぼ

らーんさん 北海道 1997年生まれ 女性 小学生の頃、クラス15人くらいで、放課後、校内を貸し切ってかくれんぼをしました。 学校が3階建てで一階には体育館や保健室に理科室。2階には教室やpc部屋。3階に教室や化学室など様々な部屋がありました。 鬼が4人と逃走者11人くらいでやりました。 5分数えてから鬼が探し始めました。 ドキドキワクワクでした。 どこに隠れるかと色々考えて、3階の化学室のさらに扉を開けた先生の部屋に隠れました。 足音が聞こえて、ドキドキしたけれど、そのままスルー。 10分ほど乗り切りました。 20分ぐらいすると次々に同じ階に隠れていた人たちの騒ぎ声が聞こえてきます。 きっと捕まったのでしょう。 そう考えるとドキドキとして鼓動が聞こえてくるくらいでした。 そして30分ほどすると、『あとらーんちゃんと○○ちゃんくらいじゃない?』と鬼の声が聞こえました。 鬼が化学室に再び入ってきました。『いらんでしょー!出てきなー!』との声も聞こえ、扉を開けられ、見つかってしまいました。 滅多に出来ない経験、とても楽しかったです。
1991年生まれ

「ジャングルジム鬼ごっこ」の思い出

葛さん 岩手県 1991年生まれ 女性 ローカルルール、というほどでもないのですが、ジャングルジムと鬼ごっこを組み合わせた「ジャングルジム鬼ごっこ」でよく遊んでいました。 ネーミングはそのまんまなのですが。ルールは簡単で、鬼を決めてジャングルジムを登り回り、タッチされたら鬼を交代するというものです。 ちなみに地面に足がついてしまったら強制的に鬼になります。 今思うと何故地面でできるものをわざわざジャングルジムでやらにゃならんのだ、という感じです。 ただ当時は、ジャングルジムという非常にハンデのある状況で鬼ごっこをすること、自分のフィジカルが存分に試される状況にあるスリルを楽しんでいたのだと思います。 とはいえ、足があまり早くはなかった私にとって、狭い範囲での鬼ごっこは他の友人と同等に、つまり同じリングに立って対等に戦えることは楽しかったように感じます。 残念ながら、白熱しすぎた友人の一人が落下して前歯を折り、それからジャングルジム鬼ごっこはお蔵入りになりました。
1992年生まれ

父による手作りの砂場で過ごした思い出

ねこちゃん 京都府 1992年生まれ 女性 小学校低学年の頃、外遊びが好きだった3人兄弟。いつでも遊べるようにと、父が砂場を手作りしてくれました。 休日になると父が一生懸命作ってくれて、完成した日、兄弟3人で飛び跳ねて喜んだことを今でも鮮明に覚えています。 砂場が出来たその日から、学校から帰って来てはすぐにバケツやスコップを持って砂場で遊びました。 時には砂遊びに夢中になり、日が暮れても遊んでいる私たちの姿を、近所のおばちゃんたちが、「仲良しやなあ」とほほ笑んで話しかけてくれました。 逆に母は「あんたらいつまで砂場にいるん~ご飯できたから片付けて入ってきな~」としびれをきらしていました。 そんなある日、砂場にウンチを発見。 大切にしていた砂場に誰が!!と兄弟3人で犯人探しが始まりました。 朝学校に行く前、学校から帰ってから、ご飯を食べる前、食べた後、お風呂に入る前、入った後、寝る前。 犯人捜しの日々に明け暮れました。 いつものように3人で遊んでいると、砂場に1匹の猫がやってきました。 以前、猫を飼っていたこともあり、猫はすぐに私たちになついてくれました。人懐っこいタイプのようです。猫も...つづき
【1990年代】

竹とんぼ失踪事件の思い出

りすこさん 群馬県 1990年生まれ 女性 小学5年生の頃、近くに住んでいる大工さんが子どもたち向けに木製おもちゃを作ってくれていました。 「竹のおもちゃ」として、竹を削って作った竹トンボを持ってきてくれたので、年下の子を連れて遊ぶことになりました。 その前に竹とんぼを触ったのは5、6歳の頃、しかも昔のおもちゃで遊ぶ教室で、壊れかかった竹とんぼだったので、あまり上手く飛びませんでした。 大工さんの作った竹とんぼは今考えても、羽の薄さや削り方に工夫があって、作りもしっかりしていたのです。 広いゲートボール場で遊び始めましたが、小さい子が飛ばしてもかなり高く飛んだので、期待以上のおもしろさで夢中になりました。少し風のある日だったので余計によく飛んだのかもしれません。 そのうちもっと高く飛ばしたくなり、木陰にあるベンチに乗って飛ばしてみました。すると、風に煽られてベンチから離れた木の枝に引っかかってしまったのです。 登って取るにも枝の先で、縄跳びの持ち手を投げても上手く取れず、雨も降ってきてしまい。大人に言って怒られるのも怖いので、その日は仕方なく帰りました。 翌日も取れず、翌々日にボールを...つづき
1999年生まれ

僕には優しかった 不良のガキ大将

パエリアさん 兵庫県 1999年生まれ 男性 僕は中学時代、身長がクラスで1番低く、性格もかなり大人しめでした。それに加えて体も弱く、肺に穴が空きかけて学校を休みがちな時期もありました。 そんな中学時代に、学年のガキ大将的存在がいました。その人は体も同級生の中ではかなり大きく。素行不良で先生に目を付けられており、同級生達は誰も逆らえないような人でした。 そのガキ大将とは中1の時クラスが一緒だったのですが、案の定弱々しい僕に絡んで来ていました。 出会った最初の頃は、とにかく何をされるか分からなくて怖い印象だったのですが、僕の体が弱いことを知ると、「新しい肺買ったろか?」と冗談を言ってくるようになりました。 嫌な感じでは無く、僕を明るく受け入れてくれるような感じでした。 ガキ大将はその後も、確かに素行は悪かったのですが、僕にだけは優しくしてくれました。 「肺買ったろか?」が会うたび挨拶のようになっており、時には隣を歩いて、僕が他の不良に絡まれないように、一緒に学校から家まで下校してくれる時もありました。 今となっては肺も良くなりましたが、当時の僕はその優しさが嬉しくてたまりませんでした。
1996年生まれ

「復讐を誓った日」雪山の上から無理矢理ソリを押された思い出

まりもさん 北海道 1996年生まれ 無回答 私は小学生の頃、北海道のド田舎で暮らしていました。田舎だけあって人口も少なく、1クラス10人の小規模な学校に通っていました。 当時クラスの中で特につるむ二人の友達がいました。二人の性格は、A子が正義感があり優秀な人気者タイプ。B子は、意志が強くわがままなタイプ。 私はというと周りがわがままな子、個性強めな子が多かったため、みんなを繋ぐムードメーカー的な立場をしていました。 毎日学校から帰ると二人の友達と遊びます。ある日B子の提案で雪山でソリ滑りをしようということになりました。 3人でマイソリをもって雪山に集合し、いつものようにソリ滑りを楽しんでいたのですが、、、。 B子がいきなり斜面に頭をむけソリで滑ろうよ。といいだしたのです。 私は嫌な予感がしました。 その予感は的中し、B子は私にやってみろと突然命令してきました。 私は危ないので必死に拒否しましたが、二人に無理やりそりにのせられました。⁠A子は普段正義感はあるものの、面白いことには正義感は関係ないタイプです。そこがB子と意見があっていた様子でした。⁠ その時雪山の下には大きな一本の木があ...つづき
1994年生まれ

「手汗の思い出」バイキン扱いをして 触れられることを避けるいじめ遊び

紗々さん 新潟県 1994年生まれ 女性 あれは小学校3年生の頃です。私は元々汗かきの方で、特によく手に汗をかいていました。テストの答案用紙が手汗でふやけて書けなくなるほどです。 ハンカチで定期的に手汗を拭うのですが、拭いても拭いても、止めどなくかいてしまうのであまり意味がありませんでした。 それに気づいた同級生が、私の手汗のことを「〇〇(私の名前)エキス」とし、私や私に触れた物、場所に触れた人は体が腐るというルールを作りました。 例えば掃除の時間などで私が使用した雑巾に触れた人は「〇〇エキスに感染して体が腐った」とされてしまうのです。 私や私に触れた物、場所が避けられるのはもちろんのこと、誤ってそれらに触れてしまった人は「〇〇エキスに感染したぞ!」「うわ、体が腐ってる!」と1、2週間ほど囃し立てられたり避けられたりしていました。 私から見ればいじめですが、他の同級生からすると「新しい遊び」という感覚らしく、喜喜として行っているように見えました。
1992年生まれ

「ニッペの思い出」ジャンケンに負けたら2本指しっぺ

ハコテンスキーさん 静岡県 1992年生まれ 男性 私の子供の頃の罰ゲームでの思い出は、二の腕にニッペ(指を2本出して叩くこと)をしていました。 最初はゲームで負けた時の罰ゲームとして友達同士で行っていたのですが、次第にニッペをすることだけにこだわりだして、じゃんけんをして負けたらニッペをする遊びに変わるほど、小学生の時にやっていました。 あるときニッペ遊びをしていたら相手の腕を空振り。私の伸びていた爪だけが相手の腕に当たり引っかかりました。相手の腕から血が出るほどの事故が起きてしまったことがあります。 その時私は血の気が引いたのを覚えていますが、その後のことはあまり覚えていません。確か保健室に行って血が出ている手を治療をして、お互いに仲直りしたのだと思います。 それ以降ニッペをすることが減ってしまい。やっても手加減するようになりました。
1993年生まれ

「図書館の本棚から立ち幅跳び」負けたら罰ゲームの思い出

ぽんぽこ7さん 三重県 1993年生まれ 男性 小学6年生の頃に同級生の男子で流行った遊びで、「図書館の本棚から立ち幅跳び」がありました。 本棚といってもそんなに高くはなく2段だけで、安定感のあるしっかりした作りの本棚でした。その上によじ登りそこから立ち幅跳びするのが流行りました。 その時の罰ゲームが最高に恥ずかしい内容だったのですが、それが「ズボンとパンツを脱いで図書館一周」だったのです。 今の時代であれば、保護者絡みの大問題に発展する事ですが、当時は先生にチクる人もおらず、ただ自分達で楽しんでいました。 可哀想なのが、やはり運動神経の優れない子が罰ゲームの対象になりやすくなる事です。 私も運動神経は優れた方では無かったですが、私よりも絶望的に運動ができない子が1人いて、その子がいつも罰ゲームの対象になっていました。 その子もノリノリでやってはいましたが、今思えばイジメに近い行動だったと思います。その子が無邪気で明るい性格でなければ、いじめ問題に発展していたかもしれません。
1999年生まれ

ジャンケンで負けたら「図書委員の女子に声をかける罰ゲーム」

コアラさん 兵庫県 1999年生まれ 男性 これは僕が小学生の時の話です。通っていた小学校の図書室では、図書委員の生徒が本の貸し出しの受付を担当していました。 ある日ほ休み時間に友達と4人で図書室に遊びに来ていました。友達の1人が「ジャンケンで負けたら図書委員の女子を2人きりの遊びに誘おう」という罰ゲームを提案してきました。 僕は絶対に嫌だったのですが、友達が皆参加してるのと、友達が負けて罰ゲームをするところを見てみたい気持ちが勝ってしまい。ジャンケンに参加しました。 僕はジャンケンに負けてしまいました。すぐさま罰ゲーム。図書委員の女子に話しかけに行きました。「あの、今度2人で遊びに行かへん?」としっかり言いました。 少し離れたところから友達のクスクス笑う声が聞こえてきます。すると、女子の返事はまさかのオッケー。断られる気満々で話しかけに行ったので、予想外の返答にびっくりしてしまいました。 罰ゲームで女子を遊びに誘ったのですが、まさかのオッケー獲得で、その後しっかり待ち合わせ場所や日程を決めて、女子と遊びに行くことが出来ました。これが人生初のデートです。 そこからその女子と話す機会も増...つづき
1996年生まれ

缶を蹴って怪我をしてしまった缶蹴りの思い出

まめちんさん 宮崎県 1996年生まれ 男性 小学生の時、近所の空き地で友達6人で缶蹴りして遊んでいました。 まず缶を探すところから始まります。みんなの家から空き地までが少し距離があり、家から缶を持ってくるのが面倒だったので、近くの公民館からもらうことにしました。 その日の朝が缶の回収日だったらしく、缶はほとんど残っておらずスチール缶が一つしかありませんでした。仕方なくスチール缶で缶蹴りをすることになりました。 早速じゃんけんをして誰が鬼になるかを決め、私は缶を狙うことになりました。缶から100mほど離れた木陰に身を潜め、缶を狙っていました。 開始から10分後、鬼が反対方向に向かって行ったので、その隙にダッシュして缶目掛けて走りました。自分は小さい頃から運動神経がよく。足は早かったので、鬼が戻ってくる前に思いっきり缶を蹴りました。 その時、右足の親指に激痛が走りました。自分が履いていた靴の親指部分は破けており、直で硬いスチール缶が親指の当たったのです。 なかなか痛みが引かず、親と病院に行ったところ、親指にヒビが入っていました。 皆さんも缶蹴りをするときに、スチール缶を使うのは気をつけて...つづき
1992年生まれ

鬼にはなりたくないと思った「公園での缶蹴り遊び」

サカイさん 京都府 1992年生まれ 女性 小学校5年生の頃、放課後に帰宅しランドセルを置いたら、いつもの公園で友人たちと待ち合わせ、暗くなるまで遊ぶのが習慣でした。 他の公園に比べて大きい公園だったので、クラスの半分近い子どもがその公園に集まり、それぞれの仲良しグループで遊んでいたように思います。 それぞれ遊んでいた子どもたちも、どこからともなく他のグループが空き缶を見つけてきて、缶蹴りを始めると、それに混ざる形でいつの間にか大所帯で缶蹴りが始まっていました。 しかし、大勢になると鬼は大変。鬼以外が蹴った缶を、鬼が元の位置に戻している間にそれぞれ隠れる。 全員を見つける前に定位置に置いた缶を誰かに蹴られてしまったら、一度捕まえたメンバーも解放され、また缶を戻すところから始まります。 圧倒的に鬼が不利なルールの中で、いつまで経っても鬼から抜け出せない子が出てきます。泣いている子もいました。 人気の遊びではありましたが、絶対に鬼にだけはなりたくないと、いつも思っていた記憶があります。
1992年生まれ

時間を忘れて遊び続けた小学校時代の思い出

ホワイトさん 東京都 1992年生まれ 女性 小学校時代に流行っていた遊びと言えば、ドロケイは外せません。 今思えば、誰が始めたのか、どこから流行ってきたのか分かりませんが、同じクラスの友達以外の違う学年の子もみんな知っていた遊びでした。 よく覚えているのは、中休みの時間になると誰かが“校庭集合”と合図を出すと、それがドロケイをやろうという意味。とにかく男女関係なくドロケイが始まっていました。 私はドロボウ役が面白くて、よくやっていたのですが、中休み中では決着がつかず、放課後に同じメンバーで集まって、続きをやるのがとても楽しかったです。 5時間目が終わりそうになると、みんながソワソワしだして、私も早く遊びたくて本当にワクワクしていた小学校時代でした。 私は小学校時代6年間リレーの選手だったのですが、それは日々警察から逃げるドロボウ役で逃げ回っていたおかげで、足が速くなり脚力もついたと思います!!更には身体能力も上がったと思います。 ドロケイで楽しかったのは、走り回るだけではなく、クラスや学校で人気の男の子と同じドロボウチームになると、助け合いながら逃げるという心理学的に恋に落ちそうな場...つづき
1992年生まれ

クラスみんなでドロケイ

mnytさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 この遊び、呼び方がいろいろあるようですが、私の周りではみんな「ドロケイ」と呼んでいました。そんなドロケイ、小学校4年生の頃にクラスで大ブームでした。 元々は、放課後によく一緒に遊んでいる仲良しグループの間で遊んでいたようですが、次第に他のクラスメイトにも広まっていったようで、最終的に昼休みとか学活の時間にクラスのみんなで遊ぶようになっていました。 校庭でやる時はいつも朝礼台が刑務所で、捕まっていない泥棒がこっそり台の下に隠れて、捕まった泥棒をどんどん解放します。 そうなると警察側は台の下をマークするようになって、その手が通じなくなるので子供なりにいろいろ戦略を考えて楽しんでました。 しかし、やはり最後に物を言うのは「走りの速さと持久力」です。運動音痴で走るのも得意ではなかった私は、泥棒をやればすぐに捕まり、警察をやれば誰も捕まえられな無い子でした。 それでも数十人の友達と一緒に遊ぶというのは今となっては出来ない、とても楽しい時間でした。
1996年生まれ

駐車場でのローラースケートと その後のスケート場の思い出

なおくん 岐阜県 1996年生まれ 男性 小学生の頃、私は両親から誕生日にローラースケート靴を与えられました。 私は何も欲しがらない子どもだったので、両親は悩んだ挙げ句、誕生日プレゼントとしてローラースケート靴を買うことにしたそうです。 今思うと、あの時の誕生日プレゼントをローラースケート靴にしてくれたことは、私にとって良い体験となったので、本当に感謝しています。 私の家は拡大家族で、大人はみんな車で仕事に行くので、駐車場は6台分の車が止まれる広さでした。 私が学校から帰ってくると、大人はまだ仕事から帰って来ていないので、駐車場には一台も車がなく、そこはスケートリンクの様でした。 私は毎日、夕方大人が帰ってくるまでの数時間一人で思う存分ローラースケートを楽しみました。 友達が私の家の前を通ると、当時ローラースケートを見たことがない子どもが多かったので、羨望の眼差しで見られて、何だか嬉しかったです。 住んでいたところが田舎の山奥で冬になると雪が積もり駐車場でローラースケートをすることが出来なくなります。しかし、丁度ローラースケートをもらった年に近所にスケート場が新しく出来。私は両親に連れ...つづき
1991年生まれ

かっこいいローラースケートの思い出

ままんごさん 岩手県 1991年生まれ 女性 なぜローラースケートを欲しがったのか、今になって当時を振り返っても良く分からないのですが、なんとなく「他の子供たちが持っていなくてかっこいいな」と思ったのがきっかけだったと思います。 ローラースケートを持っていると友達に話しても、友達たちは持っていなくて、「何それ?」と馬鹿にされたり、言われたりしたのを思い出します。 私が住んでいたところが田舎という事もあり、あまりローラースケートが浸透していなかったように思えます。 それでも毎日学校から帰ってきては外に出て、ローラースケートで遊んでいました。特に大技などは出来ませんが、姉と一緒に良く遊んでいました。 最初はうまく滑れずに、転んでは膝をぶつけて嫌にもなりましたが、めげずに練習を重ねて滑れるようになったときは、とても嬉しかったです!!
1995年生まれ

ローラースケートを見たら思い出すこと

りんりんさん 兵庫県 1995年生まれ 女性 私は大人になった現在でもローラースケートを見ると苦い記憶が思い出されます。今から約20年前にローラースケートを滑る友達を見て、自分も滑ってみたいと思い親に買ってもらいました。 その友達はローラースケートを滑る時にフィギュアスケートのようにクルクルとその場で回るような技をしており、自分もそれがしたいと思っていました。 いざ買ってもらってローラースケートを履くと、まず一人で立てないことを知りました。実家の駐車場で滑る練習をしましたが、一向に滑れるようにならず。ある日段差につまづいて顎を強打してしました。 そこからというもの、全く滑る気にはならず、私のローラースケート体験は終わりました。後からその友達がフィギュアスケートを習っていたことを知り、そりゃ自分は滑れないわと子供ながらに思った記憶があります。 大人になり子供を育てる身になった今、ローラースケートのような継続して履けるかどうかわからない商品を買ってくれた親には感謝しています。
1997年生まれ

シーソーで罰ゲームの思い出

かぴばらさん 富山県 1997年生まれ 女性 幼いころ、近くの公園にあるシーソーで幼馴染と遊んでいました。そのシーソーは少し古く「ギーギー」と音がするようなもので、シーソーの両端の着地地点にはタイヤが埋め込まれていました。 そのタイヤの部分の土が大きくえぐれていて、雨が降ったあと5日間くらいは水たまりになります。着地するたびにタイヤが弾み。その影響でその溝にたまった泥水がはねて足がドロドロになりました。 親からすればやめてほしい遊びだとは思いますが、それだけでも幼い私たちにとっては楽しくて、雨のあとによくシーソーで遊んでいました。 ただ学年を重ねるにつれ、服が汚れることへの抵抗が大きくなり、そのシーソーは罰ゲームとなりました。 例えばカードゲームで遊んで負けたほうがシーソーをする。といったような用途となり、楽しい対象からちょっと嫌なものという印象になりました。 現在、そのシーソーは新しいものに変えられ。着地地点のタイヤ部分の溝もきれいになくなりました。今ではいい思い出です。
1991年生まれ

子どもの頃にした シーソーの危ない遊び

ままんごさん 岩手県 1991年生まれ 女性 今も公園に行けばあるシーソー。散歩をしている時に見かけると、小学生の時に友達と一緒に遊んだことを思い出します。 シーソーで遊ぶときに友達としたのが、一人シーソー(一人でシーソーを動かす)をして遊んだり、やってはいけないと思いながらも当時は友達とはまっていたのがシーソーの真ん中にある支え?の部分に乗って、本来の遊びではない遊びをしたことです。 当時は今みたいに危険なものを避けて遊ぶという事がなく、危険な遊びが大好きだった小学生でした。怪我をしてもまたその危険な遊びを繰り返していたことを思い出します。 後は思いっきりジャンプをしてシーソーで相手を上にあげたりしました。シーソーの下にあるタイヤに、友達が上に上がったタイミングで足をおき、降りてくるタイミングで足を離すなんて遊びをしていました…。絶対に良い子は真似してはいけない。 シーソーをしている時のあの上に上がるふわっとする瞬間が好きで、友達とワイワイ遊んだ事がとても楽しかったです。
1992年生まれ

かまくらの思い出

ぽんさん 神奈川県 1992年生まれ 女性 私が小学校低学年の頃、関東で積雪するほどの雪がふり、翌日には一面雪景色となった年がありました。私は集合住宅に住んでおり、家の前や駐輪場、駐車場の前に雪が積もっていてワクワクしたのを覚えています。 雪用の手袋と上着を装備して、住宅の前に出てみると、同じ年ぐらいの姉弟が既に遊んでいました。いま、かまくらをつくっているの!とその子達の父親と一緒にレンガのようなブロックを積み上げてかまくらの土台を作っていました。 私と姉は一緒に作っていい?とすぐに混ざり、一緒にかまくらブロック作りを始めました。そのうちに違う姉弟もやってきて 6、7人でかまくらを作り始めました。段々と子どもたちが飽きてきた頃になると父親たちが一生懸命完成まで作ってくれたのを覚えています。 その日から雪が溶けるまで、住宅内に作ったかまくらに入ってみんなで遊びました。中々雪が積もらない関東での出来事なので思い出に残っている事のひとつです。
1990年生まれ

スリリングな登下校通学路 ランドセルへのイタズラ遊び

レノレノさん 広島県 1990年生まれ 女性 一緒に帰っている同級生の背後へこっそり忍び寄り、ランドセルの底面へそっと手を伸ばす。気付かれないようにかぶせの留め具を回し、ランドセルの中身が見える位置までかぶせを上へ跳ね上げさせることができれば、成功。 いかに相手に悟られずににランドセルを開けることができるか。そのスリルが癖になり、小学校の登下校時は仲間内で駆け引きを楽しんでいました。 この遊びを考案したのは私。当時見ていたアニメやゲームの影響で、スパイや裏組織のような存在に憧れを持っていました。 表立った活動はせず、気配を消して活躍するような存在。自分もそういう人間になりたいと思い、足音を消して歩く練習をしていたこともあります。 その延長で友人のランドセルの留め具を狙い始め、すっかりハマってしまったという訳です。 しばらく経つと、いつの間にか私達以外のグループにもこの遊びは広まっていきました。ランドセルを開けられないようにみんなが後ろ手に留め具を抑えながら歩く、何とも奇妙な通学路の光景。少なからず考案者として責任を感じたものです。 今ではランドセルも進化や多様化が進んで留め具の位置が違...つづき
1994年生まれ

お人形の家作り遊びの思い出

瑠璃さん 北海道 1994年生まれ 女性 その遊びを始めたのは小学生時代です。私は学校の成績は悪くない上にしっかりと宿題も提出する児童でした。 今となっては恥ずべきことでもないのですがゲームが好きで、しょっちゅう親との約束の時間を破ってゲームをし続ける悪癖がありました。 そして親によってゲーム禁止を言い渡され携帯ゲーム機は隠されました。当然親に怒りと憎悪を抱き、ゲームが出来ない悲しみと辛さを味わいました。 そんなある日、私の目に小学校に入学する前から集めていたミニチュア家具や、友人の母が作ったカラフルに彩られた小さな箱が目に入りました。私は何の気無しにそれらを使って、組み立てて、小さな家のようなものを作りました。 それから私はもっと大きな家を作ろうと、他にも使えそうな物はないかと探してみたり、友達が遊びに来た時に説明して、もっと大きな家を作る知恵を集めて大きな家を作ることに成功しました。 ゲームが手元に戻り、禁止が解除されてからも、私はゲーム禁止中に出会った家作り遊びを気に入ってしまい。やがて母にすごいと褒められるようになりました。 今でもその記憶は残っています。何処に何を置くかを考え...つづき
1990年生まれ

オリジナルカセットテープづくりの思い出

エスジーさん 埼玉県 1990年生まれ 男性 私が小学生の時は音楽を録音するものはまだカセットテープが使われていた時代でした。MDはすでに存在していましたが、MDコンポが必要で、カセットの方が身近だったと思います。 友達とカセットテープの録音にハマり、レンタルしたCDや買ってもらった音楽を入れて交換したりしていました。 カセットはスイッチ1個で録音できるのも特徴で、まるでDJのように何度も歌のフレーズを繰り返して録音したり、曲と曲の間を強引につなげたりと遊んでいました。 それとよく覚えてはいませんが、マイクを利用して自分の声を入れたりもしていました。 カセットは録音中に振動を受けると、微妙に音飛びしてしまいましたが、子どもだった私たちはむしろその変化を楽しんで、わざと入れていた気がします。 そうして1つのカセットテープでお互いに録音しあい、オリジナルのカセットテープを作りました。何度も重ねて録音したので状態も悪かったのですが、自分たちで作った満足感がすごかったです。 編集したり、構成を考えたり、小学生のレベルではありながらも、大きな経験になった遊びだと思います。
1990年生まれ

ポケモンごっこの思い出

りすこさん 群馬県 1990年生まれ 女性 小学校2年生か3年生の頃まで続いていたごっこ遊びは、「ポケモンごっこ」でした。 女の子たちはまだ「お母さんごっこ」と呼ばれている、おままごとを続けていましたが、ゲーム好きな男の子を中心に、さまざまな設定をしたポケモンごっこが流行っていました。 外で暴れられる時はポケモンバトルでした。トレーナー役とポケモン役に分かれて、ポケモン役が戦う(じゃれあう)というシンプルなものです。 放課後に我が家の大きな犬も、ガーディ役でポケモンバトルに参加して大喜びしていました。 私はいきもの係だったので、むしとり少年か博士の役です。教室の虫籠の芋虫を3匹並べて選んでもらったり。絵の上手い子に頼んで、自由帳にキャラクターの絵を描いてもらって、ポケモン図鑑を作ったりしていました。 主役の「お母さん」が取り合いになるおままごとや、「セーラームーン」が取り合いになるセーラームーンごっこと比べて、ポケモンごっこは、なりたいキャラクターがみんな違います。 勝ち負けや場面の変わるポケモンごっこは、私たちにとって長引く喧嘩が起きず、運動が苦手な子が入っても楽しめる画期的な遊びで...つづき
1990年生まれ

年下の子をみんなで守った思い出 色鬼

MAさん 東京都 1990年生まれ 女性 同学年のお友達とその妹と数人で色鬼ごっこをしていました。 鬼が指定した色のものを触るというシンプルな遊びです。通常の走り回る鬼ごっこよりも年下の子がいても遊びやすいという事でみんなで決めました。 ある子が、小さな妹さんの背が届きにくい場所や、走って行かないとたどり着けないような場所の色を指定したりと、わかりやすくその子を捕まえられるようにしていました。 あまりにも続くため、みんなで「妹を守ろう!」と団結しました。 高い部分はみんなで逃げながら妹を抱き上げ、触らせたりと可能な限りかばいながら逃げていました。 なかなか狙いの妹を捕まえることが出来ないので、鬼がずっと変わらないままです。ついに、鬼が怒り始めました。 しかし、こちらからすると弱い者いじめのように、不利な状況の子を狙っているその子の方が悪い!と完全にその場で言い合いに発展しました。 大人になった今では、私たちも謎の団結をする前に、その子に一言言えばよかったのにと思います。当時は仕返しのような事をする事が一番の正義と思っていたようです。 その場で色鬼ごっこは中断、解散となりました。 子供の...つづき
1990年生まれ

お互いいじっぱりの思い出 探検ごっこ

ぼくのふゆやすみさん 山口県 1990年生まれ 男性 小学4年生の時、水曜日は学校が早く終わるので、友達の石田くんと森を探検して遊ぶのが定例でした。ただおしゃべりをしながら木の棒をもって森の中を歩いてたまに珍しい虫を見つけては捕まえたりしていました。 ある日教育テレビでよくやってた「あいうえお」という歌の「いしころいっこころころっ」という歌詞が頭に浮かんで離れなくなり、何度も口ずさんでしまっていました。 すると石田くんが怖い顔でこちらを見ていたので、何か発見したのかなと、近寄ってみると、軽くぶたれました。 石田くんは、「いしころいっこころころっ」という歌詞で自分が馬鹿にされていると思ったのでしょうね。 そこで殴り合いの喧嘩になり、その日は石田くんが走って帰ってしまいました。 次の日も学校で目も合わせてくれません。こちらも意地を張ってしまい謝りもせずそのまま日々が流れました。定例の森の探検も無くなりました。 そして小学校卒業の日になってしまい、卒業式の前にトイレでかち合いました。 自然と「あの時はごめん」といえました。すると石田くんも「ぼくもごめん。」といって仲直りすることが出来ました。...つづき
1994年生まれ

ローラー滑り台の恐怖

うなぎさん 三重県 1994年生まれ 女性 小学生の頃、従兄弟と一緒に地元近くにある長いローラー滑り台がある公園に遊びに行きました。 いつもの公園の滑り台よりもとっても長くて、たくさんの子供が滑り台を順番待ちして並んでいました。自分の番が来るまで、とてもドキドキワクワクしていたのを覚えています。 そしていざ、自分の番!従兄弟が先に滑り、その後しばらくして自分も滑り始めました。序盤は景色を見ながら長い滑り台に大興奮!だったのですが、徐々にお尻が痛くなり始め、摩擦で熱さを感じるようになりました。 「だから周りの子たちは段ボールをお尻の下に敷いてたのか」と思っても後の祭り。滑り台は残り半分というところで、お尻が痛すぎて涙が出そうになったので、子供ながらに機転を効かして、足を立ててお尻を浮かし、しゃがんで触って滑ることに。 「よし、これでお尻は痛くないぞ!」と思ったのですが、しゃがんで座る姿勢はよりスピードが上がって、今度は違う意味で恐怖心を抱き、結局滑り終わる頃には「もう2度とやるもんか!」という気持ちになっていました。
1992年生まれ

初めて滑ったローラー滑り台

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 小さい頃、私がよく行く近所の公園にあったのは金属の板で出来た、普通のまっすぐの滑り台でした。その頃の私にとって滑り台とはそういう物で、幼稚園の頃ならともかく小学生にもなるとそれほど面白い遊具ではなくなっていました。 それがある時、家族で出かけた少し遠くの大きな公園で初めてローラーがついた滑り台を見たのです。近所の公園の滑り台とは全くサイズが違い、丘の上から始まっていて長くてカーブもあり、とても豪華に思えました。 そして、滑る面がローラーである事に気づいた時の最初の印象は「肉が巻き込まれて挟まりそうで怖い」という感じだったのを覚えています。 しかし初めて見る遊具は遊んでみたいのが子供の性、意を決して滑ってみました。 すると、今まで滑ってきた滑り台では全く感じた事がなかったガタガタという振動、ローラーの回転によるスピード感、初めての経験に衝撃を受けました。 すっかりその滑り台にハマった私は、その日は足が痛くなるまで何度も丘を登ってその滑り台を滑っていました。
1992年生まれ

タイヤブランコでグルグル

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 ちょっと遠くの大きめの公園にタイヤを3本のロープで吊るしたようなブランコがありました。 普通のブランコと違って前後だけでなく全方向に揺らす事ができる。それだけでも楽しかったのですが、他に大きな特徴としてクルクルと回転するようになっていて、そこが私の一番のお気に入りポイントでした。 内側を向いて座ったり、外側を向いて座ったり、またがるように座ったり、立ったり、いろんな乗り方をしてはブランコをぐるぐる回して遊んでいました。 ただ回っているだけなのですが、周りの景色がヒュンヒュン動いて見えたり、目が回ってきてブランコから降りるとまっすぐ歩けずフラフラになったり、子供の頃はそれがとても面白かった。 しかし、子供の頃は楽しいと思ってしまうとどうしても歯止めが効かなくなってしまう事ってありますよね。 私もタイヤブランコの回転にハマりすぎて、ついつい気持ち悪くなって吐くまで回ってしまうことがありました。
1994年生まれ

公園のブランコで立ち漕ぎ乗り

野球少年さん 千葉県八千代市まどか公園 1994年生まれ 男性 小学生の頃、放課後によく友達数名と地元のまどか公園という公園で遊んでいました。ブランコが4つある公園でそのブランコの前には大きな芝生が広がっていました。 小学生だった僕は、友達と一斉にブランコを立ち漕ぎをしてその勢いを利用して靴を芝生の方向に蹴り飛ばしその飛距離を争うという「靴飛ばしゲーム」に熱中していました。 当時野球のクラブチームに所属していたので周りより運動神経も良く。芝生を超えた先の木に直撃することもありました。距離で言うと30メートルくらいはあったかもしれません。 天気の良い日は良いのですが、雨あがりの次の日に靴飛ばしをした時は靴がグチュグチュになり、家に帰宅すると親に怒られた記憶があります。 ブランコでは二人乗りという遊びもしたことがあります。 一人が通常通りで座って、もう一人が立ち漕ぎを向き合う形で一つのブランコで漕ぎ合います。 座ってる方は立ってる方のが漕ぐたびに、股間が顔面に直撃します。しかし小学生だったのでそんなの気にせず無我夢中で楽しくブランコで遊んでいました。
1997年生まれ

初めての凧揚げ体験

貴ちゃん 大阪府吹田市 1997年生まれ 男性 私が初めて体験した凧揚げ体験は寒くて操るのが大変でした。 学校のグランドや公園などに行き、始めは自分では飛ばせなかったので、親や先生などに飛ばしてもらい、安定したら自分で操っていました。風を読むのにタイミングが分からなく、人の掛け声に頼って飛ばしていました。 高く上がった凧は空を舞っていますが、複数の凧が上がると凧同士がぶつかって上手く操作が出来なかったり、喧嘩したりするハプニング。糸が他の糸と絡まって、ほどくのに時間がかかるので大変でした。 自分で創った凧の絵は遠くに飛ばすほど、描いてある絵が分からなくなり、目を細くしながら見ていました。 小さい時には、お正月に自分で創った凧を持って来て、遊んでいたのを覚えています。
1992年生まれ

お祭りで凧揚げ

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 私の地元で毎年ゴールデンウィーク中に巨大な凧を揚げるお祭りが河川敷で開かれていました。しかし、そのお祭りの目玉である巨大凧の凧揚げはただ遠くから見ているだけであり、失敗する年も多かったので正直あまり興味がありませんでした。 お祭りの中では個人で自由に凧を上げられる時間とスペースが設けられていて、それが個人的にはお祭りのメインの楽しみでした。お祭りに出ているお店で買ったり、図工の授業で作ったりした凧を揚げて遊んでいました。 風が強い時には簡単に凧が空に揚がって楽しめるのですが、普段は近所の公園では近くに電線があるので、凧揚げをする機会がほとんどありません。凧揚げに不慣れということもあり、あまり風がない時は凧を揚げるだけでも一苦労でした。 凧をぶら下げなら走り回り「今なら揚がりそう」と思って手を離しても、凧は虚しく地面に落ちてしまうばかり。そんな失敗を繰り返しやっと凧が揚がった時は嬉しかったのを覚えています。
1990年生まれ

綺麗だったもの おはじきの思い出

ぺんぺんさん 青森県 1990年生まれ 女性 おはじきってヒラっぺったい透明なガラスの中かに色のついたガラスが混じり合った形の少し重たいやや楕円形のものじゃないですか。プラスチックだったかもしれません。小学生の時に遊んだのでよく覚えていません。 唯一、覚えているのはそのおはじきをおはじきにぶつけてテーブルの上に残ったおはじきは勝ち、みたいなことをして一人であそんでいました。 おはじき達をテーブルの上に並べて、まずは先に弾くおははじきを決めます。おはじきを決めると近くにあるおはじきをめがけて人差し指でそっと弾きます。間違えてテーブルから落とした場合は別のおはじきからスタートさせます。 弾き終えたらまたテーブル周りのおはじきを拾いまた繰り返します。そうやって時間がくるまで一人で永遠と遊んでいました。 おはじきは透明な部分がキラキラしていて、色がついてる部分は透けて、向こう側の世界が透けて見え、まるで別世界のようで何度眺めても飽きませんでした。 色んな色があり、色んな世界が見えて、私にとって異世界に迷い込んだかのようでした。
1997年生まれ

ビー玉キラキラ

からさん 北海道 1997年生まれ 女性 夏になるとお祭りなどでビー玉すくいが開催されます。小学校低学年の時に必ず友達4人と一緒に、限られたお金の中でビー玉すくいをしました。 一回に6個くらい手に入ったはずです。それをお祭りが開催される時期に自転車で行ける範囲の場所であれば向かい。とにかくビー玉すくいをしました。 全てのお祭りに参加したら30個くらいそれぞれ手に入ったかと思います。 後日、その4人のうちの誰かの家にお邪魔し、友達のお部屋でビー玉を広げて交換会をします。 事前に持っているビー玉を何個で交換するか紙に書いて、それぞれ好きな色や可愛いデザインは交換個数が3個。シンプルなものなどは1個など決めて交換しました。 集めたビー玉は、水槽のようなものに水を入れてその中に入れて飾ったり、それぞれ思うままにデザインしてたと思います。それぞれのお家にお邪魔し、みんなの水槽のビー玉を眺めるのが日課でした!
1995年生まれ

ビー玉を水晶だと思っていたあの頃

紫苑さん 北海道 1995年生まれ 女性 よくあるビー玉の中には、他のビー玉に比べて「大きなビー玉」が入っていたりしていませんでしたか?私はビー玉の中でも模様のない500円玉サイズのビー玉を、大事に専用の袋に入れて持ち歩いていました。 砂場で遊ぶ時は、砂で小さな山を作った上にちょこんと載せて飾りのようにしてみたり、おはじきとビー玉で遊んだ時にはボーナスボールと呼んで遊んでいました。シルバニアファミリーで水晶玉の代わりに使って、占い師ごっこをして遊んだりもました。 模様のない大きなビー玉を水晶と思いながら持ち歩いていたあの頃、家の中で失くしただけでも大騒ぎ。妹が勝手に触っただけでも大激怒するほど、そのビー玉を大事にしていました。 今考えると模様のない、ただ他と比べて大きいビー玉にそこまで執着していたのかはわかりません。最終的には大事にしまっていた巾着を入れた箱ごと失くしてしまったのですが、当時の私はそのビー玉が大好きでした。
1995年生まれ

ベイブレードで知ったベーゴマ

鳩サブ子 大阪府 1995年生まれ 女性 私は3人兄弟の末っ子で兄とは7歳差、姉とは5歳差でした。2000年ごろに「ベイブレード」というアニメが流行っており、兄は当時12歳ごろだったのでちょうど大流行していた時期だと思います。 その頃私はまだ5歳でさほどベーゴマの記憶はほとんど残っていません。しかし、兄がハマっていて一緒に遊んだという話を母から聞きました。 私が10歳ぐらいになった頃、兄のお下がりの勉強机にはベイブレードのシールがたくさん貼ってあり、ベーゴマもいくつか残っていました。 小学校の授業で「日本の昔からの遊びで遊んでみよう」という内容のものがあったのですが、けん玉や羽つき、お手玉の中にベーゴマがあったことを記憶しています。ベイブレードでベーゴマの存在を知っていた私はすぐにベーゴマに関心が向きました。 そのとき見た昔のベーゴマは、ベイブレードのベーゴマと違って鉄でできており、肌触りのいい質感で重厚感。当時の私の小さい手にしっかりフィットしました。 紐で何重にもぐるぐる巻きにして投げてスッと紐を引き抜くタイミングが難しかったと思います。悔しくて何回もトライしてるうちにベーゴマがう...つづき
1992年生まれ

夢中になった独楽の思い出

まんまるさん 東京都1992年生まれ 女性 小学校の1年生と2年生の頃、学校の休み時間や総合時間に昔の遊びを楽しみました。 自分たちの両親や祖父母が「小さい頃に遊んでいたことをやってみて知る」ということを目的とし、実際にやる機会がたくさんありました。 特に独楽遊びは私も、クラスメイトもハマり、みんなで誰が長く回せるかの勝負を何度も何度も行いました。夢中になって放課後にも残って友達と楽しむこともありました。 時には帰宅後や休日も家の中でやることもあり、床が傷つくので止めるように親に注意されることもありました。大人になった今では、家の中で独楽を遊ぶなんてあり得ないと親の気持ちがよくわかります。 土や草の上ではうまく回せないので、コンクリートを探し、何度も回しました。 縄の巻き方次第で長く早く回せることを知ると、それを試してみたり、もっと良い方法があるのではないかと研究してみたり、今思うとなんでそこまでハマったのかと思うほどです。
1997年生まれ

長縄跳びの苦い思い出

えぬこさん 埼玉県 1997年生まれ 女性 自分が小学生の時のことです。あまり当時のことは覚えていないのですが、その中でも鮮明に頭に残っている稀有なエピソードです。 みんなで体育の授業中に縄跳びをしていた時のことです。いわゆる大縄跳びというもので、迫っていた運動会の競争のために練習していました。 みんなで2列ほどになって一斉に跳び、その跳んだ回数を数えていました。跳んでいる最中、誰かが縄にひっかかったらまた最初からカウントをはじめる…といった風にして練習しました。 私は縄を回す側ではなく、跳ぶ側として参加していました。みんなでほとんど休むことなく練習し、もうそろそろ授業が終わろうか、という時になって、私が縄に足をひっかけてしまいました。 その時ちょうど、校舎の方から授業の終了を告げるチャイムが鳴りました。完全に偶然で、クスッと笑ってしまうようなタイミングなので面白く感じましたが、同時に、みんなで一生懸命に跳んでいたのに、自分がその足を引っ張ってしまって申し訳ないな、と感じたことを覚えています。
1996年生まれ

体育の授業の嫌だった縄跳びの思い出

白菜太郎さん 茨城県 1996年生まれ 男性 私が小学生だった頃の体育の授業での少し嫌な思い出です。当時、冬になると体育の授業では毎年のように縄跳びがありました。私は縄跳びが得意ではなく、特に二重跳びが1回もできなかったことを今でも覚えています。 そんなある日の授業で、先生が皆の前で言いました。「今日は最初に皆で二重跳びをやってもらいます。10回跳べた人からその場に座ってください。全員ができるまで終わりませんよ。」 二重跳びができない私にとっては地獄のような提案でした。 そして、先生の「始め」の合図で皆が一斉に縄跳びを始めました。縄跳びが得意な子から座り始め、あまり得意ではない子もやっとのことで跳び終わり座っていきます。 しかし、私は1度も跳ぶことができませんでした。次第に私以外の全員が跳び終わり、私が跳ぶのを見守り始めます。クラスの皆や先生が見ている中、1人で何度も何度も失敗し続ける姿はとても悔しく恥ずかしかったです。 結局は1度もできることなく、「今回はここまでにしましょう。」という先生の言葉で地獄のような時間は終わりました。今思い出しても本当に嫌な思い出です。 ちなみに、中学校で...つづき