1990 年代に生まれた人が子どもの頃にした遊びの思い出

1998年生まれ

母と縄跳びの思いで

さくらさん 福岡県 1988年生まれ 女性 「お母さん見て!」と頬を赤くしながら必死に母を呼んでいた時が懐かしい。 運動が大の苦手な私が唯一出来る運動が「縄跳び」でした。 自宅に庭はなかったものの駐車場でいつも練習しては、室内で家事をしている母を呼ぶ。 母は合間で出てきてくれて、「おぉ!すごい!」と声をかけてくれました。 小学生になると毎年冬に縄跳び大会があり、前跳び、後ろ跳びが何回連続で出来るのかという記録をとっていました。 全員一斉に跳び始め、縄に足が引っかかった人や疲れてもう無理・・という人はその場に座っていく。 引っ込み思案で注目されるのが苦手だったけれど、いつも励ましてくれる母の顔を思い浮かべながら必死に跳びました。 すると私は最後の一人になるまで残ることができたのです。 それから30年以上が経ち自分が母になった今、子どもたちも縄跳びが大好きで 「お母さん見ててね!」頬を赤くしながら跳んでいます。 あや跳びや交差跳び、出来るようになっては何度も何度も。 その姿を見るたびに私の幼少期がよみがえる、母と縄跳びの大切な思い出です。
1994年生まれ

女性縄跳び検定

ayoさん 大阪府 1994年生まれ 女性 私の小学校には縄跳び検定というものがありました。級毎にカセットテープが用意されており、冬の体育の時間にみんなで挑戦していくというもので、男女共に積極的に取り組んでいました。 音楽に合わせて飛んでいくのですが、10級は前飛びのみ、9級は後ろ飛びのみなど簡単なものです。 5級を越えてくると、複合技や2重飛び、更に聞いたこともないような技を要求され大変難しいものになっていました。 そこで、私の友達と一緒に1級を目指して取り組んでいくようになりました。体育の授業だけではなく、休憩時間に職員室の前でラジカセを借りて遊ぶこともできた為、一日中縄跳びに取り組んでいました。 それに取り組んでいた毎日でしたが、その友達の一人は急に転校することになってしまいました。学校の先生に縄跳び検定のカセットをダビングしてもらい、離れても1級成功を目指そうねと誓いお別れをしました。 私は1級まで成功することはできませんでしたが、友達はできたのかなと久しぶりに思い出しました。
1993年生まれ

縄跳びから友情の思い出

TYさん 沖縄県 1993年生まれ 男性 私が小学校4年生の頃に転校した先の学校で、友達ができずに悩んでいました。普段その学校の男の子たちはサッカーをして遊んでいましたが、私はサッカーが苦手でした。恥ずかしいので参加するのを拒んでいました。 ある日の休み時間にみんなは、サッカーではなく縄跳びをしていました。縄跳びならできると思い。私も参加しようとしましたが、A君は私のことが気に入らない感じで仲間外れにされてしまいました。 数日後、縄跳びで遊んでいた男の子達がいたので、参加したかったのですが、A君がまた仲間外れにしようとしました。 私は、心の中で「またか…また仲間外れか」と思い。その場を立ち去ろうとしたら、B君が寄ってきて、私に「一緒に遊ぼう」と言ってくれました。その時はすご嬉しかった記憶があります。 そして私とほかの男の子たちと縄跳びをして遊んでいると、A君がいないことに気づきました。その場から立ち去っていたのです。その時は何とも思いませんでしたが、他の男の子たちがA君を仲間外れにしたのです。 その日の放課後、A君は運動場で一人で泣いていました。それを見た私は、A君がかわいそうになり、...つづき
1995年生まれ

学童保育のベーゴマ遊び

ゆいぽんさん 神奈川県 1995年生まれ 無回答 普通の独楽とは違い、ベーゴマはテクニックが必要です。小学生の私にはなかなか回せず、上級生の友達と遊べず悔しい思いをしたこともあります。 何回も練習してついに回せたときの達成感や喜びは忘れられない程の思い出になっています。 私は、学童保育でよく遊んでいたのですが、一人一個自分のベーゴマがありました。回せるようになった人は、ちょっとした学童内での大会に参加することができ、そこで勝った人は、商品と勝った相手とのベーゴマ交換の権利がありました。 どのベーゴマもデザインは似通っていて、今にして思えば、なんでそんなにほかの人のベーゴマが欲しかったのか不思議でなりません。それでも自分が欲しいと思ったベーゴマを勝ち取った時には子供ながらも誇らしく思ったものでした。 今でも、子供と関わる機会は多くありますが、どの子供も今はベーゴマをやっていないようで、時代を感じ悲しくなることもあります。
1998年生まれ

ゴム紐を跳ぶ娘にヒヤッとした思い出

ゆんさん 熊本県 1988年生まれ 女性 娘が小学校低学年の頃、近所のお友達、妹、弟五人でゴム跳びをしました。 始めはゴムの上を跳んでいく、とルールを決めて運動能力の高い子供たちの集まりだったようで私(163センチ)の胸下の高さまでなんなくクリアしていく子供たち。 ゴムにひっかかっても笑顔あふれる時間でしたが私の肩の高さまできたゴムを跳ぼうとしたわが子。笑顔で引っ掛かりにくるものだと思っていたら、本気で跳ぼうと全力で向かってきた娘。ゴムに引っ掛かかる予定でしたが、ゴムがぷつりと切れ、目の前には近所のお友達の車が…。ボンネットの上まで飛んでしまいました。 娘に怪我はなく、お友達の車にも傷はなく、なんとか無事に終わることが出来ましたがあの勢いで跳ぶ娘を目の当たりにした私や子供たち、そして娘自身もう二度とゴム跳びはしない。と誓うこととなりました。 今では息子が小学校の体育の時間にゴム跳びがあるそうで楽しいと話をしてきますが、私と娘はいつも苦笑しながら聞いています。少しだけ苦い思い出のゴム跳びでした。
1990年生まれ

ゴム跳びと友達の思い出

ことさん 岡山県 1990年生まれ 女性 ゴム飛びは小学校の時になぜか一時期クラスのブームになりました。なぜなのかは思い出せないのですがクラスの女の子と一緒にゴム飛びを楽しんでいた事をよく覚えています。 色んな曲で遊んでいたので、童謡のような曲やその時流行っていたKinKi Kidsの曲などをみんなで歌いながら遊んでいました。 色んな技があったのですが私はあんまり上手くありませんでした。友達の上手な女の子は大変複雑な技を披露してくれてみんなの尊敬を集めていた事を覚えています。 冬に運動場で転けるとかなり痛いので、転けないように必死にゴムを見ながら運動していました。 一緒に遊んでいて転けてしまった友達が、泣きながら保健室に行ったら足の骨が折れていました。当時はとんでもない事をしてしまった、と思い非常に焦った事を今でも覚えています。 小学校の頃の楽しい思い出の遊びなのでとても懐かしくなり、また体が動くならやってみたいなと思いました。
1997年生まれ

フラフープ何個回せるかな?

からーさん 北海道 1997年生まれ 女性 小学生の頃「私の特技はフラフープです!」と言えるくらいにフラフープが大好きでした。 フラフープを好きになったきっかけは体育の授業です。「自由に遊んでいい」ということになり、私はフラフープを回してみました。 フラフープを簡単に回せた私は「何個かでも回せるのかな?」と思い。試しに3個を…それも回せました。 じゃあ5個…できる。 そしたら10個やってみよう!10個も出来ました。 まるでバルーンスカートのように綺麗なフラフープでした。 周りの子達もすごいと歓声を上げて、みんなは最大何個で回せるかとか、どれだけ綺麗に回せるかを競って遊んでました。多分、あの頃は15〜20個一気に回せた記憶があります。 そのあと腰で回すだけでなく、首で回してみたり、手で回してみたりと、まるでサーカスの状態になっていました。 あまりにも回すことが楽しい私は家でもやりたくなり、スポーツショップでフラフープを購入して遊んでいました。 今もまだできるか試してみたいです。
1997年生まれ

楽しかったバナナ鬼の思い出

なー!さん 北海道 1997年生まれ 女性 鬼ごっこは広い場所と人がいれば成り立つので、小学生の頃によくやっていました。 昼休みになれば、グランドでサッカーをする人たちをのぞいて、みんなで走り回ったり、体育館からスタートして鬼ごっこができるところまで逃げあったりしました。 通常の鬼ごっこをすることが多かったと思いますが、氷鬼をやったこともありますし、バナナ鬼というものも遊びました。ケイドロ、ドロケイが流行ったのも覚えています。 私はバナナ鬼が好きです。 バナナ鬼のルールは、鬼が15秒くらい数えたらスタートをして、みんなを探します。逃げている人が鬼にタッチされた場合、その人はバナナの真似をしてその場に止まり、助けを求めます。 逃げている人が捕まった人を助ける時に、バナナになっている人の皮をむいてあげるような形です。捕まった人は皮をむいてもらったら自由に逃げられます。 ただ、タッチだけではなく一工夫されていて楽しかった記憶があります。
1992年生まれ

田んぼの側溝でザリガニ釣り

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 今はもう埋め立てられて住宅になってしまいましたが、私が子供の頃は家の近くに田んぼがあり、その側溝でよくザリガニを釣っていました。 ネットでザリガニ釣りについて調べるとさきイカなどを餌にするとよく釣れるといった情報を見かけますが、当時の私は特に餌とか糸だとかザリガニ釣りのために道具を用意するような事はしていませんでした。 そこら辺で拾った細い枝や長くて丈夫な草なんかでつついたりするとハサミでそれを挟んでくる事があるので、そのタイミングで引っ張り上げて釣っていたと思います。 釣った後はなかなかハサミを離さないのを面白がって枝や草ごと振り回したり、近くの公園の水道を全開にして水を浴びせてみたり結構ひどい遊びをしていました。 ただザリガニを釣るのは好きでも触るのは苦手なタイプだったので、ハサミをちぎるとか解体して楽しむような残酷な遊びはやらないしできなかったですね。 飽きたら側溝に帰すわけでもなくそこら辺にほったらかしにしていたような気がするので結局死なせてはいたと思いますが。
1997年生まれ

お兄ちゃんとザリガニ

むーさん 北海道 1997年生まれ 女性 私たちは毎年夏、家族でキャンプに行ってました。 キャンプは山の時と海の時もありました。 小学3年生くらいの時に海のキャンプに行き、テントを立て、水着に着替えて海辺へ。お兄ちゃんとどっちが先にザリガニを釣れるか勝負しようとしました。 海辺で15分葛藤して、ほとんど同じ時間でザリガニをゲットできました。 しっかりザリガニを家で育てられるように水槽を用意しました。 次の日の昼間、家に帰宅し、早速家の大きな水槽へ。 2匹ゲットしたのでどっちがどっちか分かりませんが、私はマーチ、お兄ちゃんはヨーチとザリガニに名前をつけました。 ちょうど、オスとメスだったみたいで、子供が産まれました。 ものすごく小さなザリガニの赤ちゃんがたっぷり水の中にいて、すごく不思議な気持ちだったのを覚えてます。 そこから赤ちゃんも数匹育ち、友達にも飼ってもらうようにしました。 それから、育てていくと、海で取った子たちも天国へ。 家の裏庭に埋めたのを覚えてます。 ありがとうザリガニさん。 しんごパパ追記 ザリガニは淡水にしかいないと思うので、もしかしたらショウグンエビのことなのかも知...つづき
1992年生まれ

ザリガニ釣りのおもいで

こめさん 宮城県 1992年生まれ 女性 今から25年ほど前、母方の祖父母の家の近くには水が流れる大きな側溝がありました。末孫だった私は年の離れた従兄弟の遊びに一生懸命着いて行ったのを覚えています。 その頃流行っていた遊びが、その側溝でのザリガニ釣りでした。 今となってはザリガニは怖くて触ることなど出来ないのですが、幼い頃の私は怖いもの知らずで、尚且つ従兄弟たちに追いつこうと必死でその遊びに参加していました。 祖父は釣りが趣味だったこともあり、ザリガニ釣りの釣竿はたくさん祖父母の家にあったのです。 誰が1番早く釣れるか、誰が1番多く釣れるか、時間を忘れてみんなで競い合って遊んでいました。 みんなで大量に捕まえたザリガニを家に持ち帰った時、母親たちの悲鳴が響いたのが忘れられません。 捕まえたザリガニをまた同じ場所に戻しに行って、またみんなで勝負しようね!と約束するのがお決まりの流れでした。 今は危険な場所なので封鎖されてしまったのですが、そこの前を通ると幼い頃の無邪気な思い出がふと思い出されます。
1991年生まれ

鉄棒が嫌だった

こむももみじさん 静岡県 1991生まれ 女性 小学生の時鉄棒の授業鉄棒で思い出すことは体育の鉄棒のテスト。 出席番号順にテストしていくので「あ行の苗字」だった私は、いつも一番で(鉄棒にかぎらず・・・)した。 ホントに嫌だったな。 自分は運動が得意ではないので、尚更一番にやることが嫌でした。 鉄棒にまたがるとき女子でもそこそこ痛いです(どこがとは言えませんが)。コウモリという両足のみででぶら下がり逆さまになるやつを低い鉄棒でやって頭を擦ったりもしました。 鉄棒で遊ぼうとする日に限ってスカートだったりします。 でも気にせずやってたら男子に見られたりしました。 自分たちの世代から逆上がりの補助をしてくれる「沿っている台」みたいなものが設置されました。当時はもう高学年になっていたため、早くこういうものが欲しかったなという思い出があります。 小学校3年の娘も鉄棒が苦手で、逆上がり練習中に背中から落ちてトラウマになってました。 自分も当時は逆上がりの練習は大嫌いでしたが、たくさん練習したり、タオルを腰に巻くといいとか、いろんな方法で逆上がりの練習をしたことで自分なりにコツがつかみました。 出来た...つづき
1997年生まれ

鉄棒でブランコ遊び

らんさん 北海道 1997年生まれ 女性 この遊びは幼稚園に通っていた頃の話です。 遊んでいい時間になるとみんな遊具のあるところへ急ぎます。 1番人気なのはブランコでした。 ブランコはたった二つしかありません。 幼稚園児なので譲るという概念はあまりみんなないので、早い者勝ちでした。 たまにブランコは使えるものの、なかなか使えるタイミングがありません。 そこで、私たちは鉄棒を使ってブランコを思いつきました。 どのように?と思うかもしれませんが、ブランコする人は鉄棒にただぶら下がる、そして、ブランコとして遊ぶためにもう1人がその人の背中を押すといった形です。 子供なので低めの鉄棒でもブランコとして利用可能なのと鉄棒の幅もあるので一つの鉄棒で2人は入れました。 そこから鉄棒ブランコのブームも来ていたと思います! ですが、ある日私が鉄棒ブランコをする側で押してもらってたとき、あまりに勢いが凄かったので「もう押さなくていいよ!」と友達に伝えたものの止まらず、手が限界で落ちて、手を骨折しました笑。 そこからその遊びはかなり減ったと思います。
1992年生まれ

耐久鬼ごっこ

サカイさん 京都府 1992年生まれ 女性 当時私は小学校低学年で、休み時間に「高鬼」が流行っていました。 ルールはほぼ鬼ごっこと同じで、鬼にタッチをされたらその人がオニオ交代するというものなのですが、「高鬼」は、鬼より高い場所にいる人は捕まえられないというものでした。 ただし10秒以上同じ高い場所に留まることはできないので、走って逃げることと高い場所で休息を挟むことをうまく組み合わせて逃げる必要があるゲームです。 私たちがよく遊んでいた公園には、よくある高さの鉄棒と、ぶら下がることのできる大きな鉄棒がありました。 鬼以外のメンバーはしばしば鉄棒に座ったりぶら下がったりして鬼から逃れていたのですが、ある日の高鬼でヒートアップした鬼役の私とお友達のAちゃんは大きな鉄棒のところで睨み合いをすることになりました。 10秒数えているのにAちゃんが鉄棒にぶら下がって降りてこないのです。捕まりたくないAちゃんと、ズルだと大騒ぎする私。最後には体力の限界がきたAちゃんが尻もちをついて軽い怪我をしてしまい、私は母に叱られてしまった思い出があります。