東京都に住んでいた人が小学生の頃にした遊びの思い出

1956年生まれ

「小学生の図工的な遊び」型抜きの思い出

るーぶさん 東京都 1956年生まれ 男性 確か、痩せていて髪の毛がぼさぼさのおじさんだっ様な気がします。大小の型版と粘土と金や銀などピカピカした粉を売っていました。上手く、綺麗に、塗れたら少し大きめの型版が貰えます。 今思えば、此れといった正解がなく、おじさんの気持ち一つで決まっていたように思います。とても面白く集中出来ました。 粘土に色を塗りおじさんの処に持って行き、昇進するワクワク感やドキドキ感が在りました。当然、友達とも競いあいました。 最初は、10円程度で小さな型を買います。型は、鳥だったり、電車だったり、色々とあり自分で選びます。後、粘土を少々、白い紙に包まれた色を選んで買います。一式を揃えるのに50円~100円位だったと思います。 粘土を型にはめ、綺麗に取り出し、指に粉を付け塗って行きます。終わると、おじさんの処に持って行くき、上手く出来ていると、一つ上の型と粘土が貰えました。 駄目だと、アッと言う間に手で握りしめて終わりでです。 中~大の型が欲しくて、頑張っていました。
1955年生まれ

小学校の帰りの「型抜きの思い出」

DYさん 東京都 1955年生まれ 男性 思い起こせば小学校の頃です。当時のお小遣いは10円とか20円くらいで、100円を持って居る子はいませんでした。 うちの家族は人数はいっぱい居たのですが、おばあちゃんが働きに出ている、おやじは1週間に1〜2度しか返ってこない(仕事が忙しいのと、少々遊んでいたようでした)、母親は結核で入院、一緒に住んでいるおじさん2人は大学生と高校生という状況での小学生でした。 毎日貰った少々の小遣いを必死にためて、学校の帰りに何を買うのか楽しみにしておりました。 1週間に1回くらいの割合で駄菓子屋や学校の前でおじさんが出している店に興味深々で行き、何かを買って帰るという生活です。 今思い出されるのは小学校の校門の裏に自転車で店を出していた、型抜きのお店です。 見本の形通りにウエハーみたいな台紙からハリの様な物でその形通りに形状を仕上げるというものでした。 10〜20円程度の値段だったと思います。 上手く出来ると飴とか、ソースせんべいの様なお菓子をくれるというものでした。 チャレンジする形状の難易度によってもらえる物のレベルが上がります。 楽しみはそのお菓子だけで...つづき
1978年生まれ

じゃんけんリレーの思い出

くーくーさん 東京都 1978年生まれ 男性 じゃんけんは、幼稚園時代に覚えた初期の遊びでした。おもちゃを使う順番や遊具を遊ぶ際の順番を決めたりするためのものでした。 小学生になるとそれから発展し、じゃんけんを応用した遊びを考えるようになりました。特に盛り上がって遊んだのは、じゃんけんリレーです。 クラスの仲間十数人でグループ分けして、通常のリレー徒競走のようにアンカーを含めて走る順番を決めます。 このじゃんけんリレーの醍醐味は、足が遅くてもじゃんけんが強ければ、足が早い人にも勝てるというところです。 逆に言えば足が早くてもじゃんけんが弱ければ負けてしまいます。 リレーコースの途中にはじゃんけんポイントが3か所あり、そこにいる相手にじゃんけんで勝たない限り先には進めません。 じゃんけんに負けると焦り頭がパニックになります。 足の早い人がそのパターンにハマってしまうと、みんなで爆笑し、ワイワイと盛り上がりました。 今でもその時の友達と会うと、このじゃんけんリレーの話で昔を思い出します。
1977年生まれ

「小さな宝物探し」学校の帰り道に不思議な石を探す 宝探し

とおこさん 東京都 1977年生まれ 女性 小学校三年か四年生の頃の思い出です。 当時住んでいたのは、民家の途中に畑があり、マンションなどほとんどないちょっと田舎風な土地でした。 家から学校までの通学路はのどかなもので、住宅街と畑を見ながら友達と変える毎日です。そんな通学路の途中に「面白い石が落ちている場所」がありました。 小さな三角だったり、青くて平らな丸い石だったりと、子供の目からするとなんとも不思議で珍しいものばかりです。 砂やがれきと共に落ちているそんな石を、友達と一緒に拾って帰るのが楽しい日々でした。 時々ちょっと大きな花の形とかカラフルな石があって、互いに見せ合ったり交換したりと、それぞれが「面白い石」を宝探しのように見つけていました。 そんな楽しい場所も引っ越しと共にお別れになりました。 大人になって思い出してみると、あの場所は解体工事の時に出た石壁やタイル壁の廃材置き場だったのではないかと考えています。 建物の裏側に捨て置かれた小さな欠片たちが、子供の頃にはなんとも不思議な宝探しの場所になっていたのでした。
1978年生まれ

取れないボールの謎

リアムさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代は給食後の昼休みになると、校庭で遊ぶことが多かったのですが、たまにドッチボールなどの遊びをする時は体育館に行きました。 体育館の天井を見上げる機会はほとんどありませんが、実際に天井を見てみると細かい線状に柱が交差しています。 ある時、バスケットボールで遊んでいると、サッカークラブに所属していたクラスメイトが、たまたま目の前に来たボールをふざけて、下から蹴り上げてしまいました。蹴られたボールは一直線に天井に向かって高々と飛んで行きました。 天井にある柱の合間にスッポリとハマりました。完全固定されたので落ちてきません。みんなポカーンとします。 そして次には、どうボールを取るかに意識が変わり、全員で話し合いました。そこから出た結論は、体育館を揺らしてその振動でボールを落とすという子供の発想でした。 みんな真剣です。ドンドンと走り回ったり、何度もジャンプしてみたり、色々と試しましたが、結局はボールは落ちてこず、後日、先生に取り除いてもらいました。甘酸っぱい小学生時代の思い出です。
1978年生まれ

石蹴りレースの思い出

らんらんさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代は、登下校の時は必ずと言っていいほど、落ちている石を見つけては蹴っていました。周りの友達も石蹴りをしていて、密かに地味なブーム遊びでもありました。 ある放課後に、クラスの友達が10名ほど集まり、自分たちで考案した石蹴りレースをすることになりました。 まずは、自分が蹴るお気に入りの石を探します。 石には様々な形があり、重いもの軽いものと千差万別です。私のお気に入りは平たい軽めの石でした。重い石より遠くに蹴ることができるので飛距離を稼げます。 そして、全員がお気に入りの石を用意できたことで、レース場を作ります。レース場と言っても木の棒で土の上に線を引き、500メートルくらいの距離にスタート地点とゴール地点を設定します。 そして全員がスタート地点に石を置き、蹴る順番をじゃんけんで決めたらレーススタートです。相手の石をどかしながら、自分の石をゴールへと進めていきます。 単純な遊びのようですが、蹴る角度や相手の石を蹴り除くテクニックなど奥の深い遊びになりました。
1983年生まれ

「〇〇ちゃんに会いに来た」校庭に犬がやってきた思い出

眉毛イヌ 東京都 1983年生まれ 女性 校庭に犬がやってきたことは、何度かあります。しかも、毎回同じ犬です。 その犬は同じクラスにいる友達の飼い犬でした。脱走癖がある柴犬で、逃げるといつも小学校にやってきました。 誰かが「校庭に犬がいる!」と発見すると、子供達は一瞬にしてざわめきだし、授業はすぐに一時中断していました。 大抵、校庭で体育をしているクラスの先生や、職員室にいた手の空いてる先生が捕まえて保護すると、飼い主の友達のお母さんが連れ戻しにやってくるパターンでした。 しかし、6年生の時に一度だけ、とても印象に残っていることがあります。 その時の教室は1階で、校庭に面してテラスのようなスペースのある校舎でした。 いつもはすぐに友達のお母さんが連れ戻しにやって来るのですが、その日はなかなか来なくて、柴犬は校庭を走り抜け、友達の教室のテラスにやってきました。 友達を見つけると嬉しそうにしっぽを振る柴犬。とても可愛かったのを覚えています。 結局、お母さんに連絡がつくまで、テラスの柵に柴犬をつないで一緒に授業を受けました。 友達のことが大好きなんだなぁと、あったかい気持ちになりました。
1978年生まれ

「陣取り選手権の思い出」ケンケン陣取り

ちゃーはんくん 東京都 1978年生まれ 男性 いかに多くの陣地を奪い取り合うことができるか、この陣取り合戦での一番の醍醐味でした。 小学4年生の時にクラスでこの遊びがブームとなりました。校庭の一部を使い陣地の範囲を決めます。 そして二チームに分かれて陣取りをスタートします。それぞれのチームの人は、走ったり歩いたりするのではなく、けんけんで陣取りをします。 いかに相手より早くけんけんで進み陣を取るか、みんな必死になって遊んだことを覚えています。 学校全体にも陣取り合戦が広まり、あるクラスの提案で学年別の陣取り選手権が開催されることになりました。 私達の4年生も優勝に向けて日々練習に取り組みました。相手より早くけんけんで進むことが勝利の鍵となります。そのために、けんけんの練習を重点的に行いました。 毎日足のふくらはぎが筋肉痛になるくらい練習し、陣の取り方も効率的に奪えるようミーティングを重ねました。 そして迎えた選手権。決勝まで進みましたが、相手の6年生に勝てず準優勝でした。それでも、学年全員が一丸となって取り組めた陣取り選手権のおかげで絆が深まりました。
1955年生まれ

「ベーゴマと遊び仲間」最強ベーゴマの思い出

LongDYさん 東京都 1955年生まれ 男性 それはもう遠い昔です。私が10歳くらいの時の事ですからかれこれ50年以上も前の事ですね。 当時やっと、テレビも白黒からカラーに成る時代でしたので遊びも限定的でした。 家でやる遊びはトランプ、すごろく等、今では珍しくなっている物しかなく。中心は外での遊びです。 学校が終わると年齢差1〜2年内の子供たちが集まり、まずは人数と場所が確保できれば野球。それもボールはソフトボールで大きさは軟球の大きさでした。 人数が集まらない、場所が確保できない場合は、神社の境内に行ってめんこ、ビー玉、そしてベーゴマです。 ビー玉、メンコ(牛乳瓶の紙のふたも含む)は比較的年齢が低くても簡単に出来るので、多くの子供たちがそのもの自体(ビー玉、メンコ)を賭けて遊んでいました。 ベーゴマはその物自体に削りなどの手を加え、ひもを使っての回し方のテクニックは、年少にとっては難しい領域でした。割と高学年の少年向けの遊びと成って居ました。 ベーゴマを回す台は、漬物桶の様な丸い台のふたを取った状態で布を上に置き、その周りをひもで縛り、丸くなった布の中心をほんの僅かたわませて中心...つづき
1958年生まれ

ベーゴマ遊びは男のロマン「ペチャ」「タカ」「ちゅうだか」

manjukoyさん 東京都 1958年生まれ 男性 ベーゴマ遊びはとにかく熱く面白い遊びでした。 バケツの上に土俵をみたてた厚手の布を敷き、そこでベーゴマを回して相手と勝負します。3、4人位で一斉に回して相手のベーゴマをはじくという遊びです。 バケツの土俵から外にはじかれ落ちたら負けで、そのベーゴマは勝者に没収されます。 つまり遊びと言っても自分が持っているベーゴマがなくなるわけですから必死でした。 ベーゴマの種類と言いますかコマの高さが色々あって、高さのあるものを「タカ」平べったいものは「ペチャ」そしてその中間の高さのものを「ちゅうだか」と呼びます。 それぞれ特徴があって「タカ」で戦うときは上からたたきつけるように相手のベーゴマにぶつけて弾き飛ばすときに有利なベーゴマ。 その技をガッチャと呼んでいました。たたきつけたあとも自分のコマがしっかり回っていないと勝負不成立になります。 「ペチャ」は平べったく低いので、自分より高いベーゴマの下に入り込んで軸を狙うので弾きやすくなります。 勝負に勝つためにベーゴマの角や軸をヤスリで削って調整したり、コマに紐を巻きやすくするために巻く溝も削って...つづき
1958年生まれ

自分なりのベーゴマを作り上げる

かぶとんさん 東京都 1958年生まれ 男性 ベーゴマをやるには、まず、バケツなどを用意し、その上にブルーシートや厚手の布をかぶせ、周りを縛り「トコ」をつくります。中央はへこませることで、対戦がしやすくなります。 現代のベーブレードとよく似ています。 ベーゴマの巻き方には2種類あり、多分隠語なのでしょうが、「ち○んこ巻き」「まん○巻き」と読んでいました。地域的な特性があるかもしれません。 巻くときに滑ることがあるので、紐を舐めていました。今考えると、とても不潔です。 ベーゴマの種類は、通常のもの、背が低いもの、大型のものが当時ありました。 より強くするために、自分なりの加工を加えていました。たとえば、上部に蝋を垂らして重くしたり、軸の部分をやすりで削り、より回転力が増す工夫をしたり。その作業はとても楽しかった記憶があります。 勝負の基本は、相手のベーゴマを「トコ」からはじき出すことで、相手のベーゴマを奪い取ることができます。 とにかく「力」(リキと呼んでいました)を入れることが重要で、いかにひもを力強く引けるかが要です。 敵をはじき出したときの快感は、今でも覚えています。1960年代後...つづき
1974年生まれ

学校帰りの草野球

ななし3さん 東京都 1974年生まれ 男性 今の東京では考えられませんでしたが、私が小学校の頃はまだ空き地が多くありました。団地の横に草が生い茂った大きな空き地があり、毎日のように誰かしら遊んでいました。 私と仲の良かった友達たちは毎日のように学校が終わると、家にグローブとバットを取りに行って、その空き地に直行です。 小学生と言ってもバットにジャストミートすれば、ボールは結構飛びます。 しかし、どれだけ飛ばしても空き地を出ていくようなことがないぐらい、大きな空き地でした。今ではそんな場所が東京にはないと思います。 当時は再開発予定の空き地であっても子供たちが遊ぶことに対して、制限をかけたりすることなく寛容でした。空き地があったとしても中には入れないことでしょう。 当時ファミコンが大ブームではありましたが、ファミコンだけではなく、身体を動かして野球を楽しんでいました。 今は空き地など、いつでも気軽に遊びに行ける環境がない子供たちが、かわいそうに思います。
1978年生まれ

空き地で野球の思い出

トリトン教授さん 東京都 1978年生まれ 男性 放課後は、家にランドセルを置いて、おやつを食べたら近所の空き地に集合して野球をするのが大定番でした。 今では無くなりましたが、当時は野球ができるくらいの大きな空き地がありました。 そこに野球のグローブやバットなどのグッズを持って向かい、ベースは、木の棒で線を描いて作り、即席の野球場にして遊びました。 学校の校庭も放課後に開放していましたが、人気があり、サッカーなどの先約があると使用できませんでしたので、この空き地は宝物のように仲間内で重宝するとともに、他の人に知られると独占できなくなるので秘密にしていました。 学校を卒業する時も遊び仲間で最後に空き地に集まり、卒業野球をするなど、自分自身の青春の思い出がたくさん詰まった貴重な場所であったことを今でも記憶しています。 時が過ぎて、周りの環境も大きく変わりました。その時の空き地はもう家が建っていますが、今でもその付近に足を運ぶと、少年時代の楽しい思い出に浸ることができます。
1986年生まれ

「サラ砂をかけて固くしたり 泥団子を作った」公園の砂場での思い出

ぽこたさん 東京都 1986年生まれ 女性 小学生の頃、学校が終わると公園に行き、よく砂場遊びをしていました。 砂の山を作り友人と二人でそれぞれ別の方向から穴を開けてトンネルを掘ったり、そこに水を流したりして楽しんでいました。 今考えると不思議な遊びですが、コップに湿った土を詰めてその表面にサラサラした白い砂を振りかけてを繰り返し、どれだけ表面を固くサラサラに出来るかという遊びをよくしていた思い出があります。 また、それと似ていますが泥団子もよく作っていました。様々な大きさの泥団子をきれいに作れた時はとても嬉しかった記憶があります。 プラスチックのバケツやかわいらしい動物の型が販売されており、砂場遊び系のおもちゃはポップでカラフルなものが多く、お気に入りのものを持って公園に行くのが嬉しかった。 砂場遊びは友人とも一緒に楽しく遊べて、協力することや相手の作ったものを大事にする優しさも学べたように思います。
1978年生まれ

砂のお城作りの思い出

遊び大好き少年さん 東京都 1978年生まれ 男性 子供の時は公園や幼稚園にあった砂場で友達と遊んでいました。砂場と言うと地味なイメージになりますが、遊び方次第ではクリエイティブで不思議な遊びだと思います。 私の砂場遊びは、ディズニーランドのシンデレラ城などのお城を、砂で作る遊びでした。 その必需品としてジョウロは絶対でした。持ち込んだジョウロに公園の水を入れて砂場で使います。 水分を含んだ砂は、サラサラ感からドロドロ感に変わり、城のような建造物を製作するのに適しています。 初めは上手くお城が作れず、途中で砂が崩れてしまうなどのトラブルにも遭いましたが、徐々にコツを掴むと、友達と一緒に大きな城作りに時間を忘れて没頭していました。 一番の思い出は、雪のかまくらのような子供一人が入れるお城作りにトライしたことです。 休日の朝早くに公園に友達と集合し、一日かけて完成するに至りました。その時の達成感は後の人生においても役立っています。
1957年生まれ

「初めて刃物を使わせてもらった」竹とんぼ作りの思い出

UFOさん 東京都 1957年生まれ 男性 初めてナイフを使って物を作ることを学んだのは、竹トンボ作りでした。 近所の神社のお祭りで、屋台で売っていた竹トンボを見つけたときには狂喜乱舞し、徹底的にその飛ぶ秘密を解明しようと必死でした。 その後、それをお手本に自分で実際に作ってみようと、四苦八苦しました。 まず、基本となる材料の「竹」を手に入れることからどうすればよいのか分かりません。 近所の材木屋のおじさんに聞いてみると、工場の隅に転がっている木材の切れ端なら、タダで持って行って良いと言われたので、「竹」ではないのですが、作ってみることにしました。 当時は今のようなキャンプ用のカッコいいナイフなどありません。肥後守(ひごのかみ、と読みます)という和製ナイフを父親から借りて、早速まねして木を削り始めました。 当たり前ですが、最初から上手く削ることなどできず、指を切っては、痛い思いをしながら、安全に刃物を使う方法を実践で身に着けながら、作業を進めました。 最初に作ったその不格好な「竹とんぼ」は、それでも、何とか空高く舞い上がってくれて、本当に子供ながらに大いに達成感を得ることが出来ました。...つづき
1978年生まれ

児童館で初めて手作りした竹とんぼの思い出

工作マニア 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代に、クラスで竹とんぼが流行りました。きっかけはクラスの1人が、児童館の図工室で竹とんぼを製作し、学校に持ってきたことでした。 休み時間に中庭に集まり、その子が竹とんぼを飛ばすと、旋回しながら上空に舞い上がる姿を見て、みんなテンションが上がりました。 こうなると、自分でも竹とんぼを作りたくなり、学校が終わって帰宅後、ランドセルを投げるように玄関に置いてから児童館へとダッシュしました。図工室に着くと案の定、クラスのみんなも来ていて、満員状態でした。 人数が多いので、5人1グループで制作することになり、いよいよ私の番になりました。児童館のスタッフの方にノコギリとヤスリの使い方を教わり竹とんぼを製作しました。出来上がったものに満足し、早速、プレイルームで竹とんぼを飛ばしました。 この竹とんぼが、自分で初めて手作りした物となり、今でも当時の思い出とともに自宅の段ボールに保管しています。
1978年生まれ

ガキ大将とのいたずらの思い出

あの日の少年 東京都 1978年生まれ 男性 私の身近にいたガキ大将は、小学生時代にいました。どんな子かというと、ケンカが強く、遊びではリーダーとなって色々なやんちゃをしている子でした。 授業中でも居眠りや隣の席の子にちょっかいを出すなど、自由気ままにやりたいことをするガキ大将でした。 そんなガキ大将も仲間意識は強いので、上級生に仲間がいじめられていると率先して助けたりしていたので人望はありました。 放課後遊びもガキ大将が決めます。野球からサッカー、鬼ごっことワイワイと遊んだことを今でも覚えています。 今となっては恥ずかしい話ですが、ピンポンダッシュも流行っていて、ガキ大将から指名された子が、特定された家のピンポンダッシュをしていました。当然、私もガキ大将から何件か指名されてやっていました。 走って逃げるときは、いつもみんな一緒で、いたずらの快感に酔いしれて笑顔で遊んでいました。 そんなガキ大将は、中学校は私立中学に行くことになり、最後の卒業式では、涙を流しながら仲間一人一人と握手しました。私も感動し号泣しました。 色褪せないガキ大将との思い出です。
1978年生まれ

「探偵ごっこの思い出」自分たちはいじめたつもりはないけれど 相手はいじめられた思ったゲーム

ぴかちゅうさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生時代に流行った遊びの一つに探偵ごっこがありました。遊び友達と考えたオリジナルの遊びです。内容は、じゃんけんで負けた一人が探偵役になり持ち物を学校の色々な場所に隠されます。 隠した人達は、隠し場所のヒントを探偵役に示して、その情報をもとに探偵役は推理して隠された持ち物を探し当てるというものでした。 ある時、初めて探偵ごっこをするクラスメイトが一人参加。じゃんけんで負けて探偵役になりました。その子の鉛筆や体育着などを、私を含めて6人で隠しました。 そして、探偵役に隠し場所のヒントを一人ずつ教えていきます。私は音楽室のロッカーに探偵役の子の靴を隠したので、音楽関係のヒントを伝えました。 全員からのヒントを教わった探偵役は探しにいくのですが、全然見つからず、時間だけが経過し夕方になりました。すると、探偵役が号泣し始めました。 あまりにも見つからず、このまま家に帰れなくなると不安になったのが号泣理由でした。 私達は、いじめという感覚は無かったのですが、後日、探偵役の子の母親からクラス担任に相談があり、本人はいじめられたと認識していたようでした...つづき
1989年生まれ

「負けたら告白」罰ゲームの思い出

まささん 東京都 1989生まれ 男性 小学生の頃、気がついたら何か遊ぶにしろ罰ゲームをやるのがお決まりになってしまった時期がありました。 初めはデコピンやらシッペなど簡単なものです。 1番良くないなと思ったのは告白でした。 楽しんでいる側は楽しいだけで、なんとも無いと思いますし、告白する側も罰ゲームだから、と割り切る事もできるかも知れません。 告白された人からしたらこんなに残酷なことは無いです。 ある日の罰ゲームにて告白をした友人。返事はまさかのOK。実は告白された女の子は近いうちにその友人に告白をしようと思っていたらしく、一つ返事で告白をOK。 しかし小学生の口にチャックなんかある訳もなく、即日罰ゲームであったことが本人にもバレてしまい、別れてしまいました。 友人も実は気になる存在ではあったらしく。両思いであったのに罰ゲームなんかで告白をしたものだから上手くいくはずの二人が上手く行かなくなってしまったのは、幼心に複雑な気持ちでした。 それ以来罰ゲームは身内だけで完結するものがメインとなっていきました。
1956年生まれ

「近所の人ごめんなさい」罰ゲームでチャイムを鳴らす ピンポンゲーム

るーぶさん 東京都 1956年 男性 色々な遊びをして、負けた人が罰ゲームをする。 暗黙のルールが在りました。 遊びは、全て勝ち、負けが在り。 例えば、道路に「ろーせき」で丸を書き、8分割に区切ります。中に「電車を3本見る」とか「即席ラーメンを食べてくる」など、その日に思いついた事を皆で書いていきます。石を投げて当たったことをします。 一番遅く戻ってきた人は負け、当然、罰ゲームが在ります。 当時は、本当に即席ラーメンを作り食べたのです。皆がズルをする事が無いのも、暗黙のルールでした。 その他の、遊びでは缶蹴りや、ドッチボールの敗者。兎に角全てに罰ゲームが在りました。 負けた者の罰ゲームは、当時、はやったピンポンゲームです。 当時は、インターホーンが付いている家は少なく、ややお金持ちの家と言うイメージでした。 みんなで集まり、その日の家を探して回り、1~2軒探し敗者に、覚悟を確認し、勝者は隠れて見ています。 玄関のドアホーンのスイッチを押して逃げてくるのですが、この、スリルがとても面白かったのですが、たまに、全員掴まって怒られる事も在りました。
1958年生まれ

下手したらオニがエンドレスに続く「缶蹴りの思い出」

さるやまさん 東京都 1958年生まれ 男性 缶蹴りは、空き缶を置き、それを蹴り出すところからはじまります。公園などでよくやりました。 オニは、蹴られた空き缶を元の位置に戻し、その間に様々なところに隠れたみんなを見つけます。 ただし、見つけても、オニの知らぬ間に缶を他の誰かが蹴ってしまえば、つかまったみんなは解放されることに。 鬼の目を盗んで缶を蹴り出して、仲間を解放することはとても快感です。 卑怯なひとは、オニが間を踏んでいるのにそこを蹴り出してしまう輩もいました。 オニは基本的にジャンケンで決めていました。 ただ、下手をするとそのオニをみんなでいじめ?てしまうことになりかねない遊びだったかと思います。 素早い動きができる子がいれば、オニの目を盗んでカーンと蹴り出します。 これが続けば、オニはいつまでたってもオニのまま。 ある意味、いじめっぽくなってしまいます。 そこはどこか自制があり、わざと見つかってみて次のオニになってみたりする勇者もいました。 オニになることも楽しみだったかと思います。 大人でも面白い遊びです。そう、テレビ向きかも・・・と思います。
1978年生まれ

駄菓子屋のおばあちゃんから教わった「缶蹴りの遊び方」

ラーメン大好き小泉さん 東京都 1978年生まれ 男性 小学校時代の思い出です。授業が終わり帰宅し、おやつを食べたら毎日友達と遊びに行っていました。 近所の駄菓子屋に集合してから何して遊ぶか決めます。 ある日、駄菓子屋のおばあちゃんから、子供の頃に遊んだ缶蹴りの話を聞きました。それまでは缶蹴りという遊びは聞いたことはありましたが、実際に遊んだことはありません。 おばあちゃんから缶蹴りに適した、みかんの空き缶を頂きました。それを持って近くの公園で缶蹴りを始めました。 地面に円を描き缶を置きます。 鬼を一人決めて、それ以外は全員ダッシュで隠れます。 鬼が見つけると缶を踏み、見つけられた子は円内で鬼に捕まります。 それを助けるために、隠れている人が鬼の隙をついて、円内にある缶を目指してダッシュ。蹴り上げます。 見事成功すれば捕まった子は逃げられます。 というルールで始めた缶蹴りでした。 いつのまにかみんな夢中になり、小学生時代の遊びの思い出の一つになりました。
1978年生まれ

ケイドロが繋いだ人生 後に警察官になった友達

みーごれんさん 東京都 1978年生まれ 男性 小学生の休み時間は決まって校庭に出てケイドロをして遊んでいました。警察チームと泥棒チームの2チームに分かれて対戦します。 逃げるのが得意だったり好きな人は泥棒チーム。逆に追いかけたり捕まえることが好きな人は警察チームという具合に自然と構成されていました。私は主に警察チームでペアになって泥棒チームを捕まえていました。 捕まった泥棒は牢獄に入ることになるのですが、別の泥棒が牢獄内にいる泥棒にタッチすると、その泥棒は牢獄を脱走できるというルールでした。なので、ただ泥棒を追いかけて捕まえるだけでなく、牢獄を守ることも重要でした。 牢獄専門の人を3人セレクトし、貼り付けて見張りをさせれば、脱走は80%以上の確率で阻止できます。 ひたすら汗を流し無我夢中でケイドロにハマっていた小学生時代でした。 このケイドロ遊びの仲間から2人が本当の警察官になりました。大人になって再会してこの事実を知り、驚きました。 その二人は主に泥棒チームだったので、大人になって警察官になっている人生の妙味を味わいました。少年時代のケイドロが繋いだ人生だと思います。
1992年生まれ

時間を忘れて遊び続けた小学校時代の思い出

ホワイトさん 東京都 1992年生まれ 女性 小学校時代に流行っていた遊びと言えば、ドロケイは外せません。 今思えば、誰が始めたのか、どこから流行ってきたのか分かりませんが、同じクラスの友達以外の違う学年の子もみんな知っていた遊びでした。 よく覚えているのは、中休みの時間になると誰かが“校庭集合”と合図を出すと、それがドロケイをやろうという意味。とにかく男女関係なくドロケイが始まっていました。 私はドロボウ役が面白くて、よくやっていたのですが、中休み中では決着がつかず、放課後に同じメンバーで集まって、続きをやるのがとても楽しかったです。 5時間目が終わりそうになると、みんながソワソワしだして、私も早く遊びたくて本当にワクワクしていた小学校時代でした。 私は小学校時代6年間リレーの選手だったのですが、それは日々警察から逃げるドロボウ役で逃げ回っていたおかげで、足が速くなり脚力もついたと思います!!更には身体能力も上がったと思います。 ドロケイで楽しかったのは、走り回るだけではなく、クラスや学校で人気の男の子と同じドロボウチームになると、助け合いながら逃げるという心理学的に恋に落ちそうな場...つづき
1983年生まれ

狭いところでは気おつけたい ドロケイの思い出

はるひこさん 東京都 1983年生まれ 男性 ドロケイは好きな遊びの一つでした。子供の頃は学校の遊具を上手に使って、公園ではベンチや鉄棒など、子供同士で考えながらルールを守ってやっていた記憶があります。 私が何より好きだったのは、泥棒の時と警察の時で全く違う心持ちで取り組むところです。 泥棒の時は、お宝を狙うために色々と考えて。 警察の時はその応用で逆をつく。さながら本物の様でした。 そして、もう一つ好きな所が、男女、年上年下、関係なくルールの中で楽しめる所ですね。足が遅くても、仲間と協力すれば目標を達成できます。 私は団地の様な場所で育ったので、子供は沢山いるのに性別年齢はバラバラでした。もちろん場所も限られます。その為遊びはみんなでできた方が良かったのです。 そんな意味でもドロケイは好きでした。 ただ、1つ注意が必要な事があります。それは、狭い場所で何人もが追いかけ合うので危いこともあります。 私には子供がいますが、彼らを見ていると目標しか見ておらず、あわやっという場面もしばしば。勝負事ですから、ついムキになってしまうのが子供です。なので場所と人数はなるべく少ない方がいいのかもしれ...つづき
1978年生まれ

スリル感満載のシーソー遊び

遊び大好き少年さん 東京都 1978年生まれ 男性 小学校の校庭にあったシーソーで、放課後にクラスの友達と遊びました。 シーソーというと交互に上がったり下がったりという単純な遊びのイメージがありますが、その遊び方だけに捉われずに、友達と話し合いスリル感を味わえるシーソー遊びを考えました。 それは、シーソーに乗る人数を通常は左右に1人ずつですが、片方の人数を増やし(例えば3人)、1:3の割合でシーソーをするということです。 これによりシーソー自体のバランスが悪くなり、振り子のように一定のリズムで動かなくなります。これがシーソーから振り落とされるかもしれないというスリル感が生まれ、楽しめることができました。 また、片方3人のうち、1人が向かい相手のシーソーに上下に動いている最中に移動するという遊びも考案しました。これは、先生とかに見つかると確実に注意されることになるので、放課後で先生が手薄になった頃を見計らい遊びました。 「先生に見つからないか」というスリル要素も加わり、今思い出しても最高に楽しかったです。
1989年生まれ

「怖い箱」箱ブランコの思い出

りんさん 東京都 1989年生まれ 女性 物心がついたとき、通っていた幼稚園にも近所の公園にも箱ブランコがありました。私は早生まれで他の同級生よりも体が小さく、運動神経も悪かったのです。 幼稚園の先生は子供たちを箱ブランコに乗せてくれたのですが、私にとっては恐怖の箱そのものでした。 きちんと席に座ってゆっくり漕いでもらう分には構わないのですが、やんちゃな子供たちはそれだけでは物足りません。 男の子も女の子も背もたれのところに足をかけて立ち上がり、外から自分の体重をかけて箱を揺らすように漕ぐスタイルが多かったように思います。 そうすると当然揺れがどんどん大きくなって怖いし、もう簡単には降りられません。乗っている本人たちはもちろん危ないのですが、ふり幅が大きくなるので周りにいる子も気を付けないと巻き込まれてしまいます。 友達が何度か立ったまま飛ばされたり箱ブランコの下で頭をぶつける姿を見ていたので、そのたびに怖くてあまり近づきたくなかった思い出です。 今でこそ安全面から見かけなくなりましたが、思い出すとぞわぞわしてしまいます。
1978年生まれ

雪の風雲たけし城遊びの思い出

らむらむさん 東京都 1978年生まれ 男性 子供の頃にテレビ放映されていた「風雲たけし城」が学校でも大人気。よく友達と公園で遊んでいました。 ある冬に何十年ぶりかの大雪が降り、普段の景色とは全く違う一面の雪景色になりました。私も含めて全員で喜び、学校の休み時間には雪合戦などをして楽しみました。 その時、友達の1人が「この雪を使って風雲たけし城しようぜ!」と発言し、放課後にいつもの公園で遊ぶことになりました。 普段は障害物などはボールや縄跳びを使って挑戦者がゴールに到着しないよう障害物を設けていましたが、この日は全て雪を使って整えることができました。 雪のボールをたくさん作ったり、雪山を全員で3つほど作り上げるなど、いつもと違う準備に気持ちはワクワクしました。 そして風雲たけし城遊びをスタートしました。挑戦者に向けて、私を含め城を守る側は雪ボールを投げつけたりします。雪山に登る挑戦者には、登り切らないよう雪山を崩したりして阻止します。 こんな感じで全員雪まみれになり、靴下なども濡れてしまいましたが、普段は体験できない遊びに全員が笑顔だったことを今でも記憶しております。
1957年生まれ

牛乳ビンと一升瓶のフタのメンコ遊び

サンダーバード2号さん 東京都 1957年生まれ 男性 今では恐らく想像もつかない遊びだと思います。牛乳ビンと言っても、もう、あまりピンと来ないかもしれません。 当時、殆どの家で新聞などと同様に毎朝牛乳を家に配達してもらっていました。今のような紙パックではなくガラス製の牛乳ビンでの配達でした。その牛乳ビンのフタを使っての遊びに夢中になっていました。 正確なルールは忘れましたが、手のひらを使ってメンコのようにひっくり返すことで取ったり取られたりを競うもので、珍しい柄のフタだと争って奪いあうといったことで勝負遊びをしていました。 それは後に、日本酒の一升瓶のフタにとって代わって、やはり、取ったり取られたりの勝負遊びに変化していきました。 これもまた、珍しくあまり見た事のない種類のフタを集めることに躍起になっていました。 良く考えると、人間の本来持っているであろう本能のような収集癖と賭け事への執着が、子供の世界にもそれなりにあって、そこで、大袈裟な言い方をすれば、知らず知らずのうちに小さな人生経験を積んでいる、貴重な時期であったと思います。
1984年生まれ

家族ごっこで毎回立候補していた犬役の思い出

キラキラさん 東京都 1984年生まれ 女性 女の子という事もあり、小学生の頃はおままごと遊びのような「家族ごっこ」を頻繁にしていました。友達3、4人でひとつの家族を作り、お父さん役・お母さん役・子供役を決めて、一緒にご飯を食べるなどのごっこ遊びをしていました。 家族の配役を決めるにあたり、私が毎回立候補していたのが「ペットの犬役」でした。 ペット役と聞くと、喋ることも出来ないし、あまり面白味を感じない気もするのですが、当時の私は、「ワンワン」という簡単なセリフだけで他の家族役の友達から可愛がってもらえる、ペットの犬役が大好きでした。 時に、お腹が空いた・散歩に行きたいと、激しくワンワンと吠える事もありましたが、ペットという事で家族のみんなに嫌な顔もされずかまってもらる事が嬉しくて、本当にペットになったような気分を味わっていました。 お世話がしたい子はお母さん役、どしっと偉そうにしていたい子がお父さん役、駄々をこねたり兄弟げんかをしたい子が子供役などと、子供ながらに自分に合った配役についていた事が、今では可愛らしく感じます。懐かしい思い出です。
1990年生まれ

年下の子をみんなで守った思い出 色鬼

MAさん 東京都 1990年生まれ 女性 同学年のお友達とその妹と数人で色鬼ごっこをしていました。 鬼が指定した色のものを触るというシンプルな遊びです。通常の走り回る鬼ごっこよりも年下の子がいても遊びやすいという事でみんなで決めました。 ある子が、小さな妹さんの背が届きにくい場所や、走って行かないとたどり着けないような場所の色を指定したりと、わかりやすくその子を捕まえられるようにしていました。 あまりにも続くため、みんなで「妹を守ろう!」と団結しました。 高い部分はみんなで逃げながら妹を抱き上げ、触らせたりと可能な限りかばいながら逃げていました。 なかなか狙いの妹を捕まえることが出来ないので、鬼がずっと変わらないままです。ついに、鬼が怒り始めました。 しかし、こちらからすると弱い者いじめのように、不利な状況の子を狙っているその子の方が悪い!と完全にその場で言い合いに発展しました。 大人になった今では、私たちも謎の団結をする前に、その子に一言言えばよかったのにと思います。当時は仕返しのような事をする事が一番の正義と思っていたようです。 その場で色鬼ごっこは中断、解散となりました。 子供の...つづき
1978年生まれ

周りでやっている子がいなかったお手玉遊び

ういんAさん 東京都1978年生まれ 女性 幼いころに母からお手玉を教わっていました。 周囲にお手玉やおはじきを持っている子が全くおらず。いとこなども年上ばかりでマンガやゲームの話題が多く。幼稚園でも習ったことはなかったので、お手玉は専ら自分一人で手持ち無沙汰の時などにやっていました。 家になぜお手玉があったのか分かりませんが、しゃこしゃこと鳴って、手触りが好きで、よく触っていました。 座布団のような布地を使っているんだなあと思っていましたが、中身が小豆だと知ったときは幼心に大変驚いたものです。 教わったのは両手で二つのお手玉を回す、三つ回す、片手で二つのお手玉を回す、三つ回す、寄せ玉遊び(おさらい)です。 幼稚園児くらいだと両手で二つのお手玉を回すのすら大変で、出来たときは自然に顔が綻ぶのが分かりました。 幼かったので寄せ玉遊びは途中までしか出来ませんでした。曲も全ては覚えていませんが、何だかリズミカルな音が心地よく。たまにふと頭の中に流れることがあります。
1984年生まれ

お手玉と母親の思い出

キラキラさん 東京都 1984年生まれ 女性 小学生の頃に、自宅には母が手作りしたお手玉がいくつもありました。そのため、うちには丸いボールみたいなおもちゃが沢山あるな、とよく思っていました。 ある日、母がお手玉で遊ぼうと私を誘ってきました。私は、この丸いボールで何をして遊ぶんだろうと不思議に思いました。すると、目の前で母が2つのお手玉をくるくると手で投げて回し始めました。 私はくるくる回るお手玉の姿と、シャカシャカとした音に魅了されました。さらに母は、もう一つのお手玉を回っている2つの中に投げ入れて回し始めたのです。まるで手品を見ているかのような、とても面白いものでした。 何よりも、こんな不思議な事ができるお母さんてすごい!と、いつもと違う手品師のような母にびっくりした事を今でも覚えています。巧みな技を披露する母がとてもかっこよく見えました。 それから、何度も何度も母にお手玉のやり方を教わったのですが、私は2個を回す事が限界でした。やっぱりうちのお母さんてすごい!と、母を誇りに思った思い出です。
1978年生まれ

凧上げに詰まった少年時代の思い出

コタツにみかんさん 東京都 1978年生まれ 男性 毎年お正月になると、父と弟の3人で近所の公園グラウンドに行き凧上げを楽しみました。当時は人気アニメが描かれた凧が流行っており、私の凧もドラゴンボールのキャラクターが描かれたものを父に買ってもらい。凧上げを楽しみました。 弟も専用の凧を持っており、2人でどちらが長く凧上げできるかを競走しました。ポイントはいかに上空で凧を浮揚させる時間を長く保つことができるかで、吹いている風の強さや質が勝負を分けます。 上空で凧が上手く浮揚状態に入れば、地上から凧糸を少し戻して微妙な力加減で保つように凧に集中します。途中で風が弱まることがあれば、自分自身を加速させて、新たな良い風が吹くまで走り続けます。 この動きを何度も繰り返す事で、凧を上げ続けられました。弟も負けじと頑張ったり、父がジュースを買ってきてくれて休憩で飲んだりと、今でも凧上げをする子供をお正月に見かけると、自分の少年時代のお正月の思い出が蘇り懐かしさを感じることができます。
1957年生まれ

その美しさに魅了されました おはじきの思い出

AKANEさん 東京都 1957年 男性 姉の影響もあって、男の子でしたが、女の子に混ざって「おはじき」で遊んでいました。 お決まりの指で弾き飛ばして別のおはじきに当てて、動かされたおはじきを取っていくのですが、なぜか、はじいたおはじきとはじかれたおはじきの間に、人差し指を通してその指におはじきが触れないことを確認しながら、つぎにはじくという、謎のルールがそこではいつものことでした。 また、別の遊び方では、歌を歌いながら、お手玉を放り投げてその間に、畳に散らばっているおはじきを一つ一つのお手玉をほおっている手で素早く拾い上げ、つまずくまでに何個おはじきを拾えるかを競うという、アクロバティックな遊び方もありました。 いずれにしても、「おはじき」はそもそも女の子の遊び道具と言う感覚は、当時の自分には全くなく、みんな一緒になって楽しく遊んでいました。 独特のギザギザした表面に中には色とりどりの模様が入っていて、大きさも様々あって、大きなものは本当に子供心に宝石みたいだなと感心したものでした。
1957年生まれ

デカビーの思い出

ジュウゴさん 東京都 1957年生まれ 男性 とにかくビー玉をはじくためのハンドテクニックが勝負の分かれ目です。まずは、トレーニングから始めます。 様々な想定の元、地面の表面の状態やビー玉の大きさ、転がり具合等、全てをあらゆる角度から検討し、どのようにはじくかを頭の中でシミュレーションします。実際にはじいてみて、その結果を確かめる。そんなことを繰り返しながら、遊んでいました。 そんなとき、思いもかけず、通常のビー玉より2倍ほどあるビー玉(デカビーと呼んでいました)を手に入れることができ。遊び仲間からは、羨ましがられ、得意になっていました。 勝負には絶対使わずに、お守り代わりに持っていたのですが、ある日、年上の上級生がそれを欲しがり、勝負に出せと言われました。 低学年だった自分は今思えば、その上級生に上手いように勝負させられ、結局、体よく、持って行かれてしまい、泣きながら家に帰ったことがありました。 小さいながらも、そのときに、様々なことを学び、大きくなっていくための修練の一つだったような気がします。
1957年生まれ

ジャイロ効果に仰天した「地球ゴマ」

あかねさん 東京都 1957年 男性 コマ自体が足一本でどうして立って回っていられるのか、不思議でしょうがないと何度も回してみては繰り返し、じっと眺めている子供でした。 下手すると1日でもじっと見つめていることも苦ではなく、むしろ夢中になってその秘密を探ろうと躍起になっていました。 そんなとき、当時の漫画雑誌の広告に「地球ゴマ」なる、何とも自分にとっては魅力的な宣伝が掲載されていました。一体どんなコマなのか手に取って見て見たいと思い、近所のおもちゃ屋に日参したものでした。 当時の事でしたので、そうそうすぐに店先に並んではおらず、やっとのことで店先で実物を見たときには本当に驚き、腰を抜かしたものです。 今まで見たことも想像したこともない形で、何と様々なアクロバティックな回し方が可能と言うことで、何としても欲しいと思い、当時のなけなしの小遣いをかき集めました。 しかし、その当時の自分としては相当に高価なおもちゃでした。足りない分は、親を説得して無理を言って購入することに成功。そこから先は、もう、夢中で遊びました。 遠心力による独特の力の加わりやジャイロ効果を実感でき、飽きることなく遊びきっ...つづき
1992年生まれ

夢中になった独楽の思い出

まんまるさん 東京都1992年生まれ 女性 小学校の1年生と2年生の頃、学校の休み時間や総合時間に昔の遊びを楽しみました。 自分たちの両親や祖父母が「小さい頃に遊んでいたことをやってみて知る」ということを目的とし、実際にやる機会がたくさんありました。 特に独楽遊びは私も、クラスメイトもハマり、みんなで誰が長く回せるかの勝負を何度も何度も行いました。夢中になって放課後にも残って友達と楽しむこともありました。 時には帰宅後や休日も家の中でやることもあり、床が傷つくので止めるように親に注意されることもありました。大人になった今では、家の中で独楽を遊ぶなんてあり得ないと親の気持ちがよくわかります。 土や草の上ではうまく回せないので、コンクリートを探し、何度も回しました。 縄の巻き方次第で長く早く回せることを知ると、それを試してみたり、もっと良い方法があるのではないかと研究してみたり、今思うとなんでそこまでハマったのかと思うほどです。
1973年生まれ

痛かった 悔しかった縄跳びの思い出

ナポリタン星人さん 東京都 1973年生まれ 無回答 縄跳びは幼稚園から中学生の頃にやったと記憶しています。 幼稚園の時は走り縄跳びをやりました。普通の縄跳びではなくどこかに縄を結んでおいてそれをジャンプするだけのもので、何回か縄を高くしすぎて足を引っかけてしまい地面に頭を打ってすごく痛かった記憶があります。 小波跳びという縄の片方をどこかに結んで、もう片方を姉が持って自分の足元で左右に揺らしその縄をジャンプし続ける。あまり楽しくはないんですが姉と遊んだのはその時ぐらいだったなと思い出しました。 小学生になってからは、自分一人で前回し跳びや二重跳びなど普通の縄跳びをします。後ろ二重跳びがうまくできませんでした。 友達と二重跳びの回数を競ったりした時、自分はあまり運動神経はよくないので必ず負けてしまって悔しい思いをしました。 中学生の頃は大勢で並んで縄跳びをする大縄跳びで、自分が足に引っかけて止めてしまうことがよくありましてその時も悔しい思いをしました。
2000年生まれ

嫌いな縄跳びが少しだけ好きになった思い出

hyontyeさん 東京都 2000年生まれ 女性 私は心底縄跳びが嫌いでした。なぜなら、縄跳びの技ができるようになったり、一定数飛べたら、ハンコが押されるノルマカードに、ハンコを押されることが一向に出来なかったからです。以来、小学生時代からずっと嫌いで飛びませんでした。 女子校に進学し縄跳びがありました。しかも、ノルマが加速し、1ハンコにつき技と回数両方ともに設けられてしまいました。加えて、縄跳びクリアのボーダー基準をこなせなければ補習時に呼び出されるとの事でした。 補習は夏休みにあり、貴重な夏休みを縄跳びに侵食されたくない一心で早朝と帰宅時に練習しました。高校生が縄跳びをすると目立ちます。気恥しさで、いっそう嫌いになりました。 好きで練習している訳でなく、本当は練習したくない気持ちと葛藤しながら日々練習しました。授業時にテストをされますが、時間内にクリア出来ず補習になりました。 で、渋々夏休みにやりましたが、私以外にも補習の人がいました。その補習の人の中では、1番最初にどうにか半日でクリアしました。ゆっくり飛んだり反則スレスレの行為をしましたが、練習の成果は出ていたと思います。少し...つづき
1957年生まれ

ベーゴマ遊び そこでは沢山のことを教えてもらいました

akusubさん 東京都江東区 1957年 男性 その当時は、今と違って、年齢に関係なく、様々な学年の友達グループがあって、遊びの種類でもグループ別に遊ぶことが自然に出来ていました。 メンコのグループ、ビー玉のグループ、ベーゴマのグループ等々。もちろん、重複したメンバーもいるのですが、多くの遊びのための集まりがあちらこちらに存在しているのでした。 それぞれに得意な分野があって、そこで技量を競い合うというところが楽しみの一つでもあったのです。 年下の子に年上の子がツルツルしたベーゴマをどうやって回すのかを手取り足取りで教えるところから始まります。 回すひもで結び目を二つ作り、それを上手にまいて、たたきつける様にバケツに敷いた特殊なシートに投げ込むテクニック。 出来ずに泣きたくなるような時もありましたが、みんながめげずに一生懸命に教えてくれたので、上手く回せたときの喜びは何とも言えないものでした。 しかし、ひとたび勝負となればお互い容赦はしません。年上の子が、年下の子を負かせて、ベーゴマを取り上げることも当たり前で、その逆もあることで、勝負の厳しさを身に染みて身体で学ぶのです。 子供の世界...つづき
1957年生まれ

「大切な1枚を仕上げていく楽しさ」メンコの思い出

はなちゃん 東京都 1957年生まれ 男性 小遣いを握りしめ、近所の駄菓子屋で売っているメンコを選ぶところから勝負は始まります。 一つ一つ、表面の絵柄はもちろんですが、紙の厚さや表面のツルツル加減、手にしっくり馴染むかどうかまで、じっくりと時間をかけて選びます。それが、本当に楽しくて、なけなしの僅かな小遣いから勝負に勝つための大切な1枚を選び抜くところは、至福の時でした。 更に、選び抜かれたその1枚にはカッコいい表面の図柄をより引き立たせ、しかも、勝負に有利なようにする工夫が施されるのです。 容易にひっくり返されないために、全体の重量を増すために、表裏にロウを丁寧に塗るのです。そうすることでカッコいいツヤのある図柄となり、大事な勝負にうってつけの1枚になります。 第一、ロウが塗ってあるので、水をはじくことで、雨の日でも勝負に負けることはありません。 みんなそんな工夫をそれぞれが持ち寄って、最高のメンコに仕上げて勝負に挑むわけですから,いやがうえにも勝負の最中は盛り上がります。 欲しいと思った相手のメンコをひっくり返した時の喜びや、大切にしていた1枚を持って行かれた時の悔しさを、繰り返し...つづき
1984年生まれ

「イチニノサンのシノニノゴ」の歌に合わせて跳んだゴム跳び

もっちさん 東京都 1984年生まれ 女性 小学校高学年の頃、学校から帰ってランドセルと水分を摂って友達のお家に集まるのが日課。寒い日は家でゲームや歌を歌って過ごすが、天気のいい日はゴム跳びが大盛り上がりしたのを覚えています。 2人は足でゴムを持つ係、あとは順番待ちで歌う人、1人だけ、ゴムを絡ませながら踊ります。われ先にとやりたがりましたが女の子同士なので、上手く順番を守りました。 イチニノサンのシノニノゴ、サンイチシノニノシノニノゴ。と歌って合わせて踊りました。 兄弟で遊びにきて飛べない子がいたら電車ごっこや、くぐったりしてもらっていました。人が少ない日は棒に絡ませて、1人で持ち、高さを調節しながら飛びました。 飛び方もたくさんの技があり、回転したり、わざと踏みつけたりと、カッコよく飛べるのを競い、いろんな知恵を出し合いました。ゴム1つでこんなにもいろんな遊びができて、楽しく過ごせた記憶が今でも残っています。
1968年生まれ

近所の仲間と缶蹴りの思い出

ももさん 東京都 1968年生まれ 女性 子供の頃、東京の下町で暮らしていました。私には一才年上の兄がいて、いつも兄のお尻を追いかけてばかりいました。 近所には同年代の子供達がたくさんいたのですが、それがどういうわけか全員男の子ばかり。 必然的に私は男の子ばかりの中に一人混ざって遊ぶようになりました。その頃、近所の子供達は皆半ば兄弟みたいな関係でした。 当時流行っていたのは缶蹴りです。必要なのは空き缶一つだけ。 ゲームの始めは、じゃんけんで負けた子供が鬼です。 他の子供達は隠れるのですが、隠れる前にできるだけ遠くに思い切り缶を蹴飛ばします。鬼はその缶を拾いに走り地面に立てたら足で踏むように押さえます。 そして目を閉じ、決められた数を数えてから、隠れた仲間達を探します。 この段階に微妙な駆け引きがあって、鬼は缶を見守りつつ必死に隠れた仲間を探します。 隠れた子供は鬼に見つからないように缶に近づき、蹴飛ばして倒そうと狙います。缶を倒されたら鬼の負けにです。 けれど隠れた子供を見つけ「×××見つけ!」と叫んだ後、缶を飛ばされないように足で押さえれば鬼の勝ちです。 鬼の近くに隠れれば缶を倒しや...つづき
1978年生まれ

高尾山で遊んだ鬼ごっこ

少年の心を持った中年親父さん 東京都 1978年生まれ 男性 幼稚園と小学生時代に鬼ごっこにハマりました。 特に小学校の昼休憩では、必ず友達と校庭に出て、毎日鬼ごっこを楽しんだ記憶があります。 20人くらいで鬼ごっこする時は、鬼1人では大変なので、「鬼チーム」と「逃げるチーム」に、じゃんけんで分かれるルールを作り遊んでいました。 小学校高学年になると学校の校庭などではエリアが狭く感じるようになり、遠足で高尾山登山が予定されていたことから、担任に登山後に1時間鬼ごっこを高尾山で行いたい旨を遊び友達全員で提案し、30分の時間制限での実施が了承されました。 高尾山に行くのは初めてだったので、事前にと友達の家に集合し高尾山について調べました。 そこで、鬼ごっこができそうなエリアも目星をつけ、遠足当日を迎えました。 高尾山に着いて、まずは登山でしたので無我夢中で登り切り、スタート地点に下山しました。 鬼ごっこ遊びをする友達全員の下山を待ち、揃ったところで事前に調べたエリアに移動し、高尾山鬼ごっこを行いました。 学校の校庭と違い広いことこの上なしでした。 また、山ならではの開放感も遊び心が刺激され...つづき