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1989年生まれ

「負けたら告白」罰ゲームの思い出

まささん東京都 1989生まれ 男性小学生の頃、気がついたら何か遊ぶにしろ罰ゲームをやるのがお決まりになってしまった時期がありました。初めはデコピンやらシッペなど簡単なものです。1番良くないなと思ったのは告白でした。楽しんでいる側は楽しいだけで、なんとも無いと思いますし、告白する側も罰ゲームだから、と割り切る事もできるかも知れません。告白された人からしたらこんなに残酷なことは無いです。ある日の罰ゲームにて告白をした友人。返事はまさかのOK。実は告白された女の子は近いうちにその友人に告白をしようと思っていたらしく、一つ返事で告白をOK。しかし小学生の口にチャックなんかある訳もなく、即日罰ゲームであったことが本人にもバレてしまい、別れてしまいました。友人も実は気になる存在ではあったらしく。両思いであったのに罰ゲームなんかで告白をしたものだから上手くいくはずの二人が上手く行かなくなってしまったのは、幼心に複雑な気持ちでした。それ以来罰ゲームは身内だけで完結するものがメインとなっていきました。
1974年生まれ

学校の帰り道の「荷物持ちの罰ゲーム」

ももえさん新潟県 1974年生まれ 女性私の実家は田舎の方にあったため子どもの数も少なく、同級生に限らず年上や年下の子たちとも一緒に遊ぶのが当たり前でした。小学生の頃にはやっていたのが、荷物持ちの罰ゲームです。3~4人ほどのグループで下校することが多かったのですが、そのときによくしていました。まず、みんなでじゃんけんをします。負けた人が全員の荷物をすべて持って歩く、という単純な罰ゲームです。ランドセルは自分のもの一つだけでも結構重いですし、それに加えて他の子たちの荷物(ランドセルなど)を持つのはかなりの重労働です。「次の電柱まで」とか「〇〇の家まで」などとそのたびごとにゴールを決めて行っていました。低学年の子がじゃんけんに負けてしまったときには、距離を短めに設定してあげるなどの配慮も、自然とできていたように思います(たとえば、10歩だけ歩く…など)。学期末になると、普段は学校に置いたままにしている荷物も、持ち帰ることになるため、荷物の量も増えて盛り上がりました。田舎なだけに、通学路の交通量もかなり少なく、安全に遊びながら下校することができていました。
1992年生まれ

「ニッペの思い出」ジャンケンに負けたら2本指しっぺ

ハコテンスキーさん静岡県 1992年生まれ 男性私の子供の頃の罰ゲームでの思い出は、二の腕にニッペ(指を2本出して叩くこと)をしていました。最初はゲームで負けた時の罰ゲームとして友達同士で行っていたのですが、次第にニッペをすることだけにこだわりだして、じゃんけんをして負けたらニッペをする遊びに変わるほど、小学生の時にやっていました。あるときニッペ遊びをしていたら相手の腕を空振り。私の伸びていた爪だけが相手の腕に当たり引っかかりました。相手の腕から血が出るほどの事故が起きてしまったことがあります。その時私は血の気が引いたのを覚えていますが、その後のことはあまり覚えていません。確か保健室に行って血が出ている手を治療をして、お互いに仲直りしたのだと思います。それ以降ニッペをすることが減ってしまい。やっても手加減するようになりました。
1977年生まれ

「ドッチボールの思い出」負けたチームは全員 はりつけ死刑の罰ゲーム

ごまおさん兵庫県 1977年生まれ 男性小学生の頃、私の小学校では、ドッチボールが流行っていました。休み時間や給食を食べ終わった後には、必ず校庭でドッチボールをして遊んでいました。当初は、勝ち負けを競うだけの遊びだったのですが、あまりにも熱中していたこともあり、いつしか負けたら罰ゲームを実施するようになっていました。罰ゲームは「はりつけ死刑」という名前で呼ばれており、負けたチーム全員が、校舎の壁を背にし、手を後ろに組んで一列に並び、勝ったチームが一斉に壁に向かって思いっきりボールをぶつけるという壮絶なものでした。勝った方の全員が、同時にボール投げるようにするため、体育館からバスケットボールをわざわざ取り出していました。かなり至近距離からボールが放たれますので、時には顔面にバスケットボールが命中し、鼻血を出す子供がいるなど、かなりエスカレートしていきました。最初は楽しかったドッチボールも、負け時の罰ゲームが、あまりにも痛くて、恐怖へと変わってきたのを覚えています。負けると恐怖がまっているので、競技中に些細なことでも(当たった、当たってないなど)喧嘩に発展してしまうことが多くなり、遊びの感...つづき
1956年生まれ

「近所の人ごめんなさい」罰ゲームでチャイムを鳴らす ピンポンゲーム

るーぶさん東京都 1956年 男性色々な遊びをして、負けた人が罰ゲームをする。暗黙のルールが在りました。遊びは、全て勝ち、負けが在り。例えば、道路に「ろーせき」で丸を書き、8分割に区切ります。中に「電車を3本見る」とか「即席ラーメンを食べてくる」など、その日に思いついた事を皆で書いていきます。石を投げて当たったことをします。一番遅く戻ってきた人は負け、当然、罰ゲームが在ります。当時は、本当に即席ラーメンを作り食べたのです。皆がズルをする事が無いのも、暗黙のルールでした。その他の、遊びでは缶蹴りや、ドッチボールの敗者。兎に角全てに罰ゲームが在りました。負けた者の罰ゲームは、当時、はやったピンポンゲームです。当時は、インターホーンが付いている家は少なく、ややお金持ちの家と言うイメージでした。みんなで集まり、その日の家を探して回り、1~2軒探し敗者に、覚悟を確認し、勝者は隠れて見ています。玄関のドアホーンのスイッチを押して逃げてくるのですが、この、スリルがとても面白かったのですが、たまに、全員掴まって怒られる事も在りました。
1993年生まれ

「図書館の本棚から立ち幅跳び」負けたら罰ゲームの思い出

ぽんぽこ7さん三重県 1993年生まれ 男性小学6年生の頃に同級生の男子で流行った遊びで、「図書館の本棚から立ち幅跳び」がありました。本棚といってもそんなに高くはなく2段だけで、安定感のあるしっかりした作りの本棚でした。その上によじ登りそこから立ち幅跳びするのが流行りました。その時の罰ゲームが最高に恥ずかしい内容だったのですが、それが「ズボンとパンツを脱いで図書館一周」だったのです。今の時代であれば、保護者絡みの大問題に発展する事ですが、当時は先生にチクる人もおらず、ただ自分達で楽しんでいました。可哀想なのが、やはり運動神経の優れない子が罰ゲームの対象になりやすくなる事です。私も運動神経は優れた方では無かったですが、私よりも絶望的に運動ができない子が1人いて、その子がいつも罰ゲームの対象になっていました。その子もノリノリでやってはいましたが、今思えばイジメに近い行動だったと思います。その子が無邪気で明るい性格でなければ、いじめ問題に発展していたかもしれません。
1999年生まれ

ジャンケンで負けたら「図書委員の女子に声をかける罰ゲーム」

コアラさん兵庫県 1999年生まれ 男性これは僕が小学生の時の話です。通っていた小学校の図書室では、図書委員の生徒が本の貸し出しの受付を担当していました。ある日ほ休み時間に友達と4人で図書室に遊びに来ていました。友達の1人が「ジャンケンで負けたら図書委員の女子を2人きりの遊びに誘おう」という罰ゲームを提案してきました。僕は絶対に嫌だったのですが、友達が皆参加してるのと、友達が負けて罰ゲームをするところを見てみたい気持ちが勝ってしまい。ジャンケンに参加しました。僕はジャンケンに負けてしまいました。すぐさま罰ゲーム。図書委員の女子に話しかけに行きました。「あの、今度2人で遊びに行かへん?」としっかり言いました。少し離れたところから友達のクスクス笑う声が聞こえてきます。すると、女子の返事はまさかのオッケー。断られる気満々で話しかけに行ったので、予想外の返答にびっくりしてしまいました。罰ゲームで女子を遊びに誘ったのですが、まさかのオッケー獲得で、その後しっかり待ち合わせ場所や日程を決めて、女子と遊びに行くことが出来ました。これが人生初のデートです。そこからその女子と話す機会も増えて、罰ゲームで...つづき
1976年生まれ

荷物持ちの罰ゲームなのにみんな喜んでいた

うさぎちゃん福島県 1986年生まれ 女性罰ゲームの代表と言えば、じゃんけんで負けたら荷物持ちというものがあります。遊びの中と言うよりは下校中でのできごとではあるのですが、そういうのをよくやっている子たちはいました。かくいう私はと言うと、障害があったので「持たせたら可哀想だよ」という理由でハブられていたという感じでした。私も混ぜて欲しいという気持ちがあったので、寧ろ私にとっては持たせてもらえないということが罰ゲームのように感じました。しかし、罰ゲームとは言っても荷物持ちをされている子たちがあまり苦痛そうではありませんでした。人の役に立って寧ろ喜んで引き受けているという印象を受けました。荷物持たせというのは、いじめのようにやる人たちもいると思うのですが、私の周囲ではそのような感じではありませんでした。寧ろ罰ゲームをしたいという子が多かったのではないかなと思います。私は病院からもあまり重い物は持たないようにと言われていたので寧ろこれで良かったのかも知れないです。
1958年生まれ

下手したらオニがエンドレスに続く「缶蹴りの思い出」

さるやまさん東京都 1958年生まれ 男性缶蹴りは、空き缶を置き、それを蹴り出すところからはじまります。公園などでよくやりました。オニは、蹴られた空き缶を元の位置に戻し、その間に様々なところに隠れたみんなを見つけます。ただし、見つけても、オニの知らぬ間に缶を他の誰かが蹴ってしまえば、つかまったみんなは解放されることに。鬼の目を盗んで缶を蹴り出して、仲間を解放することはとても快感です。卑怯なひとは、オニが間を踏んでいるのにそこを蹴り出してしまう輩もいました。オニは基本的にジャンケンで決めていました。ただ、下手をするとそのオニをみんなでいじめ?てしまうことになりかねない遊びだったかと思います。素早い動きができる子がいれば、オニの目を盗んでカーンと蹴り出します。これが続けば、オニはいつまでたってもオニのまま。ある意味、いじめっぽくなってしまいます。そこはどこか自制があり、わざと見つかってみて次のオニになってみたりする勇者もいました。オニになることも楽しみだったかと思います。大人でも面白い遊びです。そう、テレビ向きかも・・・と思います。
1984年生まれ

「缶蹴りのルールと遊び方」と「こち亀の両さんの話」

おかずさん岡山県 1984年生まれ 男性小学生の頃、私は学童保育に行っており、よく缶蹴りをして遊んでいました。学童保育の近くの公民館でやることが多かったです。鬼は、缶を立てて30秒ほど数え、隠れている人を探しに行きます。誰々を見つけたら、素早く缶のところまで戻り、缶を踏んで、誰々みっけ、と言えばその人は捕まります。逆に、鬼に見つかったとしても、鬼より早く缶を蹴れば、また隠れることが出来ます。岩場の影、倉庫や押し入れの中、木の裏、縁の下など、様々なところに隠れていました。あるとき、私が見つかっていない最後の1人となりました。岩場の影から素早く走り、缶を蹴って、捕まった人全員が解放された時は、爽快でした。遠くに蹴れば、鬼はそこまで缶を拾いに行って元の位置に戻るまで時間がかかります。その間に解放された人は遠くまで逃げる事ができます。おまけ大人になって、漫画のこち亀で缶蹴りの話を読み、昔を懐かしむとともに、イタリア人が名前が複雑で、顔もよく似ており、それでも両津が全員捕まえたという話があり。発想が面白かったです。
1973年生まれ

鬼が消えてしまった「夕暮れの缶蹴りの思い出」

ヨッシーさん神奈川県 1973年生まれ 男性小学生だったある日、近所の友達6人で学校が終わってから、缶蹴りをして遊びました。当時は缶蹴りが友達の間で流行っており、毎日のようにやっていました。その日もいつも通り、いつもの場所で遊んでいましたが、友達の1人が鬼になってから何度も缶を蹴られ。なかなか鬼から解放されずにいました。そのうち辺りもだんだん薄暗くなってきました。それでも構わず隠れていました。鬼の声が聞こえてこないなと思っていたら、他の友達が来て、「あいつ(鬼の友達)がいないぞ」と言ったのです。みんなで出て行ってみると確かにいませんでした。名前を呼びながら周りを探しましたが見つかりません。とりあえず、その友達の家に様子を見に行ってみたら、普通に家から出てきました。その友達曰く、「もう暗くなってきたし、お腹も空いたから」とのこと。それを聞いてみんなも「それじゃ、しょうがないか」となり、そのまま解散しました。
1981年生まれ

低学年の子も応援してくれた マンションの子達との「缶けり」は燃えました!!

ななさん埼玉県 1981年生まれ 女性子供時代の缶けりって本気なんです。私が住んでいたマンションは子供がたくさん居て、放課後とかめちゃくちゃ子供が集まります。10人ぐらいは集まると、そのまま缶けりの開始!年齢も様々で1年生~6年生まで集まります。缶を守るのはだいたい高学年と決まっていました。マンションの周りに、丁度いい感じの広場があったので、そこで遊びます。木もいい感じで生えていたので、隠れる場所もバッチリ!缶を思い切り蹴って鬼が取りに行くところからスタート!みんな一斉に隠れるのですが、隠れてもちょっと体が出てきてすぐに見つかっちゃう低学年の子供が可愛かったですね。私もあんな感じだったなぁ~なんて、お姉さんな気分で鬼をやったものです。だいたい隠れられる場所は決まっているので、まずは近くの子達を見つけて、あとは思いあたるところに行って、見つけて、戻るの繰り返し!めちゃくちゃ燃えました。最後は本気の高学年の戦いみたいになって、低学年の子も応援にまわり楽しかったです。
1978年生まれ

駄菓子屋のおばあちゃんから教わった「缶蹴りの遊び方」

ラーメン大好き小泉さん東京都 1978年生まれ 男性小学校時代の思い出です。授業が終わり帰宅し、おやつを食べたら毎日友達と遊びに行っていました。近所の駄菓子屋に集合してから何して遊ぶか決めます。ある日、駄菓子屋のおばあちゃんから、子供の頃に遊んだ缶蹴りの話を聞きました。それまでは缶蹴りという遊びは聞いたことはありましたが、実際に遊んだことはありません。おばあちゃんから缶蹴りに適した、みかんの空き缶を頂きました。それを持って近くの公園で缶蹴りを始めました。地面に円を描き缶を置きます。鬼を一人決めて、それ以外は全員ダッシュで隠れます。鬼が見つけると缶を踏み、見つけられた子は円内で鬼に捕まります。それを助けるために、隠れている人が鬼の隙をついて、円内にある缶を目指してダッシュ。蹴り上げます。見事成功すれば捕まった子は逃げられます。というルールで始めた缶蹴りでした。いつのまにかみんな夢中になり、小学生時代の遊びの思い出の一つになりました。
1982年生まれ

「また明日ね」缶蹴り遊びの思い出

たきあまーちさん神奈川県 1982年生まれ 女性小学校三年生の頃、放課後になると近所の公園で集まって毎日遊んでました。特に約束したわけではなく、その日に集まった子で缶蹴りなどをしていました。私の地域の缶蹴りは、じゃんけんで鬼を決め、鬼が百を数えるうちに隠れて、鬼に見つからないように缶を蹴れば勝ち。というルールです。途中で見つかってしまえば鬼に捕まります。鬼に捕まった子は、仲間が缶を蹴ってくれれば、鬼から逃げることが出きます。それぞれに自然に隠れる場所というのができてきます。私の隠れ場所は、アスレチックの城の影でした。ここだと、自分からは鬼の動きが分かるし周りの仲間の隠れ場所も分かるというメリットがありました。ただ、人気の隠れ場所であり、日によっては隠れる人が多いというデメリットがありました。その日も、いつもの場所に隠れていました。あまり話したことのない友達と隠れていました。隠れている間に、学校のことや家のこと、色々なことを話しました。いつの間にか、仲良くなっていました。また、明日も遊ぼうね。と何日も何日も当たり前のように遊ぶ毎日でした。ある日いつもの隠れ場所で、今度引越しをするんだと悲...つづき
1969年生まれ

いいところを見せたい「女子との缶蹴りの思い出」

みやぎさん神奈川県 1969年生まれ 男性40年以上前の川崎。繁華街、風俗街も近く、お世辞にも柄が良いとは言えない街。市街地の広いとは言えない公園。ときには、浮浪者、野良犬も立ち寄る公園での缶蹴り。缶蹴りは、当時の小学生たちの間では、あまりメジャーな遊びではなかったが、それでも始めれば日が暮れるまで盛り上がる。いま思えば、放課後のあの時間に、よくもあれだけフリーで遊べる時間を持つ小学生がいたもんだなと思う。そして、空き缶一つで良くもまぁ、あれだけ盛り上がれたもんだなぁと思う。ごくまれに男子だけの缶蹴りに女子が混ざることがある。一人だけ女子ということはなく、3~4人のグループで混ざる。3~4人の女子がいれば、男子各々にも、それぞれ気になる娘がいたりする。いつもは、ひたすら「楽しい」缶蹴りが、なんだか「試される場」に変わる。しかしながら、小学生時代の女子は、男子より体力があったりする。男子より缶を遠くに蹴ったりする。始まる前は楽しい。しかし、終わってみると、小学生ながらに何か無力感のようなものを感じたものだ。大人になってからの合コンのように。ところで、今の時代のアルミ缶は飛ぶのだろうか?久...つづき
1996年生まれ

缶を蹴って怪我をしてしまった缶蹴りの思い出

まめちんさん宮崎県 1996年生まれ 男性小学生の時、近所の空き地で友達6人で缶蹴りして遊んでいました。まず缶を探すところから始まります。みんなの家から空き地までが少し距離があり、家から缶を持ってくるのが面倒だったので、近くの公民館からもらうことにしました。その日の朝が缶の回収日だったらしく、缶はほとんど残っておらずスチール缶が一つしかありませんでした。仕方なくスチール缶で缶蹴りをすることになりました。早速じゃんけんをして誰が鬼になるかを決め、私は缶を狙うことになりました。缶から100mほど離れた木陰に身を潜め、缶を狙っていました。開始から10分後、鬼が反対方向に向かって行ったので、その隙にダッシュして缶目掛けて走りました。自分は小さい頃から運動神経がよく。足は早かったので、鬼が戻ってくる前に思いっきり缶を蹴りました。その時、右足の親指に激痛が走りました。自分が履いていた靴の親指部分は破けており、直で硬いスチール缶が親指の当たったのです。なかなか痛みが引かず、親と病院に行ったところ、親指にヒビが入っていました。皆さんも缶蹴りをするときに、スチール缶を使うのは気をつけて下さい。
1992年生まれ

鬼にはなりたくないと思った「公園での缶蹴り遊び」

サカイさん京都府 1992年生まれ 女性小学校5年生の頃、放課後に帰宅しランドセルを置いたら、いつもの公園で友人たちと待ち合わせ、暗くなるまで遊ぶのが習慣でした。他の公園に比べて大きい公園だったので、クラスの半分近い子どもがその公園に集まり、それぞれの仲良しグループで遊んでいたように思います。それぞれ遊んでいた子どもたちも、どこからともなく他のグループが空き缶を見つけてきて、缶蹴りを始めると、それに混ざる形でいつの間にか大所帯で缶蹴りが始まっていました。しかし、大勢になると鬼は大変。鬼以外が蹴った缶を、鬼が元の位置に戻している間にそれぞれ隠れる。全員を見つける前に定位置に置いた缶を誰かに蹴られてしまったら、一度捕まえたメンバーも解放され、また缶を戻すところから始まります。圧倒的に鬼が不利なルールの中で、いつまで経っても鬼から抜け出せない子が出てきます。泣いている子もいました。人気の遊びではありましたが、絶対に鬼にだけはなりたくないと、いつも思っていた記憶があります。
1986年生まれ

缶蹴りとお友達の思い出

パンさん岡山県 1986年生まれ 女性小学生の頃、よく缶蹴りをして遊びました。缶を蹴る力や場所、タイミング、いかに仲間を救えるかなど、意外と頭を使っていたことを思い出します。隠れる場所によってはしっかり参加できずに終わってしまうこともあります。私がが大きくなるにつれて、盛り上がりたいと思ったら積極的に缶を蹴りにいったり、休みたい時には見つからない場所に隠れたりと、状況によって動いていました。ただ、鬼になった時には、なかなか勝てないこともあります。絶対に鬼にはなりたくないと思っていました。缶を蹴る方が上手く協力体制を取っていると、鬼が交代出来なかったり、公園や学校が広すぎたことも原因だったかもしれません。今思えば、範囲を区切ってやっていれば、鬼の私ももっと楽しめたように思います。私が不甲斐なかったこともあり、鬼を2人にすることもありました。それはそれで私も楽しめるようにしようと、子どもなりに考えてくれたのでしょう。良いお友達に恵まれたと、今になって感じたことでした。
1974年生まれ

ヒーロー気分を味わえた休み時間の思い出 ドロジュン

ぼんじりさん神奈川県 1974年生まれ 男性小学校時代、雨天以外の休み時間は大抵クラスメートと共に校庭へ出ます。10名ずつチームを組みドロジュンをして遊びました。校内は市内でも決して広いとは言えませんでしたが、それでも休み時間は大勢の生徒が外に出て遊びます。建物の周辺はかなり入り組んでおり、ドロ側に回っても隠れる場所を見付けるのに大して困らず。決して不利ではありませんでした。ドロ側で自分以外の友人が全て捕まってしまった時は、ちょっとしたヒーロー気分を味わえます。警側の厳しい警戒を巧みに潜り抜けて本拠地に突入し、仲間全員を救い出した時の気分は堪りません。普段は大人しくクラスでも目立たない存在でしたが、この時ばかりは仲間全員から感謝され、自分の存在感が大変大きくなったのを覚えています。一方夢中になり過ぎて、休み時間が過ぎた事も気付かず隠れ続けてしまい。教室に戻るのが遅れ、担任教師に叱られてしまった経験も何度かあります。中学以降は休み時間に思い切って校庭に出る機会も無くなり、今となっては良い思い出です。
1975年生まれ

逃げる範囲が広すぎる11階建てのマンションでの ドロジュン

なっつんさん愛知県 1975年生まれ 女性私が小学生の頃は「ドロジュン」と呼ばれている遊びをしていました。11階建てのマンモスマンションに住んでいたので、ドロジュンをやるには範囲が広すぎます。いつもの仲間とやるのですが、マンションを縦半分のエリアに区切り、その範囲内だけと決めてからやりました。しかし、半分と言え、11階まであり。戸数もかなりあるマンションでしたので人数が少ない時ほど、難易度が高かったです。玄関に門戸がないマンションでした。人の部屋の前に隠れるところがあれば隠れ。時々、そこの住人が出てきてビックリされる事もありました。皆、顔なども知れた住人でしたので、話しかけられる事もあり、それが見つかる決め手にもなります。エレベーターは2基ありましたが、それを使うと見つかりやすいのと、住人へ迷惑がかかるため、禁止しました。2時間ほど遊んでいた事もあります。子供であれど、階段を行き来し、フロアを渡り、凄い運動量だったと思います。時々、ルールを破って違うエリアに潜む子もいましたが、そういう子は次からは警察役にまわされました。低学年の子供だったからできた遊びであり、大人になった今、ドロジュン...つづき
1978年生まれ

ケイドロが繋いだ人生 後に警察官になった友達

みーごれんさん東京都 1978年生まれ 男性小学生の休み時間は決まって校庭に出てケイドロをして遊んでいました。警察チームと泥棒チームの2チームに分かれて対戦します。逃げるのが得意だったり好きな人は泥棒チーム。逆に追いかけたり捕まえることが好きな人は警察チームという具合に自然と構成されていました。私は主に警察チームでペアになって泥棒チームを捕まえていました。捕まった泥棒は牢獄に入ることになるのですが、別の泥棒が牢獄内にいる泥棒にタッチすると、その泥棒は牢獄を脱走できるというルールでした。なので、ただ泥棒を追いかけて捕まえるだけでなく、牢獄を守ることも重要でした。牢獄専門の人を3人セレクトし、貼り付けて見張りをさせれば、脱走は80%以上の確率で阻止できます。ひたすら汗を流し無我夢中でケイドロにハマっていた小学生時代でした。このケイドロ遊びの仲間から2人が本当の警察官になりました。大人になって再会してこの事実を知り、驚きました。その二人は主に泥棒チームだったので、大人になって警察官になっている人生の妙味を味わいました。少年時代のケイドロが繋いだ人生だと思います。
1984年生まれ

「ケイドロの思い出」遊び方とコツ

おかずさん岡山県 1984年生まれ 男性私は小学生の頃、学童保育に通っていました。そこでよくケイドロをして遊んでいました。警察チームと泥棒チームに分かれて、警察が泥棒を捕まえるというゲームです。サッカー場の半分を使っていました。サッカーゴールに警察に捕えられた人が集まっています。泥棒の全員が警察に捕まれば警察チームの勝ちです。ある泥棒が、サッカーゴールで捕まっている別の泥棒をタッチすれば、警察から解放されます。制限時間を設け、1人でも泥棒が生き残っていれば泥棒チームの勝ちです。制限時間は10分が多かった気がします。泥棒が、捕まっている泥棒を立て続けにタッチして行けば、どんどん泥棒が解放されていくのですが、警察側はそれを阻止したいので、終盤は特に、サッカーゴール前に集結して、泥棒がサッカーゴールに近づいてくるのをマークしていました。一方泥棒側は、1人でも生き残っていれば勝ちなので、終盤は捕まった泥棒をあえて助けずに生き残る。というのも作戦でした。
1992年生まれ

時間を忘れて遊び続けた小学校時代の思い出

ホワイトさん東京都 1992年生まれ 女性小学校時代に流行っていた遊びと言えば、ドロケイは外せません。今思えば、誰が始めたのか、どこから流行ってきたのか分かりませんが、同じクラスの友達以外の違う学年の子もみんな知っていた遊びでした。よく覚えているのは、中休みの時間になると誰かが“校庭集合”と合図を出すと、それがドロケイをやろうという意味。とにかく男女関係なくドロケイが始まっていました。私はドロボウ役が面白くて、よくやっていたのですが、中休み中では決着がつかず、放課後に同じメンバーで集まって、続きをやるのがとても楽しかったです。5時間目が終わりそうになると、みんながソワソワしだして、私も早く遊びたくて本当にワクワクしていた小学校時代でした。私は小学校時代6年間リレーの選手だったのですが、それは日々警察から逃げるドロボウ役で逃げ回っていたおかげで、足が速くなり脚力もついたと思います!!更には身体能力も上がったと思います。ドロケイで楽しかったのは、走り回るだけではなく、クラスや学校で人気の男の子と同じドロボウチームになると、助け合いながら逃げるという心理学的に恋に落ちそうな場面に沢山遭遇で来...つづき
1983年生まれ

狭いところでは気おつけたい ドロケイの思い出

はるひこさん東京都 1983年生まれ 男性ドロケイは好きな遊びの一つでした。子供の頃は学校の遊具を上手に使って、公園ではベンチや鉄棒など、子供同士で考えながらルールを守ってやっていた記憶があります。私が何より好きだったのは、泥棒の時と警察の時で全く違う心持ちで取り組むところです。泥棒の時は、お宝を狙うために色々と考えて。警察の時はその応用で逆をつく。さながら本物の様でした。そして、もう一つ好きな所が、男女、年上年下、関係なくルールの中で楽しめる所ですね。足が遅くても、仲間と協力すれば目標を達成できます。私は団地の様な場所で育ったので、子供は沢山いるのに性別年齢はバラバラでした。もちろん場所も限られます。その為遊びはみんなでできた方が良かったのです。そんな意味でもドロケイは好きでした。ただ、1つ注意が必要な事があります。それは、狭い場所で何人もが追いかけ合うので危いこともあります。私には子供がいますが、彼らを見ていると目標しか見ておらず、あわやっという場面もしばしば。勝負事ですから、ついムキになってしまうのが子供です。なので場所と人数はなるべく少ない方がいいのかもしれません。
1992年生まれ

クラスみんなでドロケイ

mnytさん埼玉県 1992年生まれ 男性この遊び、呼び方がいろいろあるようですが、私の周りではみんな「ドロケイ」と呼んでいました。そんなドロケイ、小学校4年生の頃にクラスで大ブームでした。元々は、放課後によく一緒に遊んでいる仲良しグループの間で遊んでいたようですが、次第に他のクラスメイトにも広まっていったようで、最終的に昼休みとか学活の時間にクラスのみんなで遊ぶようになっていました。校庭でやる時はいつも朝礼台が刑務所で、捕まっていない泥棒がこっそり台の下に隠れて、捕まった泥棒をどんどん解放します。そうなると警察側は台の下をマークするようになって、その手が通じなくなるので子供なりにいろいろ戦略を考えて楽しんでました。しかし、やはり最後に物を言うのは「走りの速さと持久力」です。運動音痴で走るのも得意ではなかった私は、泥棒をやればすぐに捕まり、警察をやれば誰も捕まえられな無い子でした。それでも数十人の友達と一緒に遊ぶというのは今となっては出来ない、とても楽しい時間でした。
1988年生まれ

牢屋へ仲間が助けに来てくれた ケイドロの思い出

さくらさん福岡県 1988年生まれ 女性遊びといえばケイドロ!というくらい小学生時代は毎日夢中で遊んでいました。警察が泥棒にタッチすると捕まるという遊びなのですが、私は走るのが遅いので、警察になっても誰も捕まえることが出来ず。泥棒になればすぐ捕まっていました。グラウンドの端にある木の下が「牢屋」で、仲間が助けに来てくれるのをずっと待っていたことをよく覚えています。そんな走るのが遅い私ですがケイドロが大好きでした。仲間が助けに来てくれるからでしょうか?現在私の子どもも小学生になったのですが、今でも「ケイドロ」は人気の遊びのようです。昔からある遊びを子どももまたしているんだなと思うと嬉しいですし、子どものエピソードを聞くたびになんだか優しい気持ちになります。たくさん走って転んで怪我して立ち上がって。捕まっても仲間が助けに来てくれて・・私の青春の1ページにもなっている。ケイドロで遊んだ記憶は友達の声、チャイムの音、空の色までよみがえってくるような大切な思い出です。
1972年生まれ

小学生のころのケイドロで遊んだ思い出

プリンさん千葉県 1972年生まれ 男性小学生のころは友達がたくさんいました。学校が終わったら近くの公園に行って、ケイドロをした記憶があります。刑事とドロボーに分かれて、捕まえていくのですが、遊び方は鬼ごっこと同じようなルールです。誰が刑事で、誰がドロボーか分かるように、体育でかぶる赤白帽を被って遊びました。私の時にはケイドロかドロケーか覚えてませんが、どちらも遊び方は同じです。私がドロボーになって逃げていた時に、捕まることもなかったので、一人寂しくしていた時を思い出します。刑事とドロボーのどっちが大変かと言ったら、絶対的に逃げる方だと思います。刑事は捕まえるだけで心理上は、落ち着いた感じになってます。ドロボーはホッとしていると急に捕まることもあるので、常に緊張状態は続いてました。その時私は足が遅かったので、すぐに捕まることが多かったです。
1996年生まれ

駐車場でのローラースケートと その後のスケート場の思い出

なおくん岐阜県 1996年生まれ 男性小学生の頃、私は両親から誕生日にローラースケート靴を与えられました。私は何も欲しがらない子どもだったので、両親は悩んだ挙げ句、誕生日プレゼントとしてローラースケート靴を買うことにしたそうです。今思うと、あの時の誕生日プレゼントをローラースケート靴にしてくれたことは、私にとって良い体験となったので、本当に感謝しています。私の家は拡大家族で、大人はみんな車で仕事に行くので、駐車場は6台分の車が止まれる広さでした。私が学校から帰ってくると、大人はまだ仕事から帰って来ていないので、駐車場には一台も車がなく、そこはスケートリンクの様でした。私は毎日、夕方大人が帰ってくるまでの数時間一人で思う存分ローラースケートを楽しみました。友達が私の家の前を通ると、当時ローラースケートを見たことがない子どもが多かったので、羨望の眼差しで見られて、何だか嬉しかったです。住んでいたところが田舎の山奥で冬になると雪が積もり駐車場でローラースケートをすることが出来なくなります。しかし、丁度ローラースケートをもらった年に近所にスケート場が新しく出来。私は両親に連れられ、スケート場に...つづき
1980年生まれ

光GENJIと共に始まった ローラースケートの思い出

ローマさん栃木県 1980年生まれ 女性自分が小学低学年の頃、世間では「光GENJI」がとても人気でした。かっこいい男性アイドルがローラースケートで走り回りながら歌って踊る、テレビ歌番組でよく見ていました。そして巷ではその影響でローラースケートが人気になり、町のおもちゃ屋さんはどこでも扱っていたように記憶しています。学校のクラスメイトの中でも何人かが持っていて、例にもれず自分も欲しかったのですが運動神経があまり良くなかったので買ってもらえず。近所に住んでる子が持っていたローラースケートを借りて遊んでいました。子供が集まると少し危険なことにも挑戦し始めるもので、近くの住宅地になだらかな坂があり「その上の方から滑り降りよう」となりました。自分は運動音痴なこともあり、早々にリタイアしたのですが数人が挑戦。5人程が滑ったところで近くを通りがかった知らないおばちゃんに「何やってるの!あぶないでしょ!」と怒られました。車も走る道だったので当然です。上級生の子たちが特に怒られていたことを覚えています。ローラースケートの興味は光GENJIの興味とともに次第に薄れましたが、あの頃もっと挑戦しておいてもよ...つづき
1985年生まれ

ローラースケート大会の思い出

あろえさん福井県 1985年生まれ 男性小学生の時に学校近くの公園で行った「ローラースケート大会」の日のことです。会場は緑豊かな公園で、陽気な音楽が流れていました。先生たちが主催してくれた大会は、走っているだけでも楽しいと思うような企画がたくさんありました。例えば、謎解きコースやテクニカルなコースが用意されていたり、色んな色の巨大なクレヨンを使って、足元に色を付けながら走るという企画がありました。私は友達と一緒に、楽しいコースを存分に楽しみました最後は、全校生徒で一緒に大回りをして、大会を締めくくりました。今でも、陽気な音楽が流れながら、仲間と一緒に走る思い出が鮮明に思い出されます。「ローラースケート」を通じて、私たちは楽しい思い出を作ることができました。その日は、川沿いのレストランで仲の良い友人たちと一緒にご飯を食べ、再びローラースケートを楽しんでいました。そんな一日を過ごしたことは、今でも忘れられない思い出です。
1971年生まれ

おさがりのローラースケート

あっき~さん千葉県 1971生まれ 男性小学生の頃、友達の間でローラースケートが流行り、自分もローラースケートが欲しくなりました。親にローラースケート買ってよと言ってもなかなか買ってもらえませんでした。家には兄が使ってたと思われるローラースケートがあったので、仕方なくそれを履いてあそんでいましたが、いかんせん古くて、タイヤもゴムではなく硬いプラスチックのような素材であまり滑りませんでした。ある時、近所の友達数人で土手のサイクリングロードに滑りに行こうぜということになり、みんなでローラースケートで行きました。サイクリングロードを走っているとみんなとの差がどんどん開いてくる。全然すべらないローラースケートを履いて懸命に滑っているけど、全然ついていけない。遠ざかる友達たちをみながら、ああ悔しい。なんで俺は新しいローラースケートじゃないんだよ。あいつがもってたゴムのぶっといタイヤのローラースケートめっちゃすべりやすそうだったじゃん。おれもほしーなー、ああいうやつが。と思いながらノロノロすべっていると、はるか先に行ってた友達たちが、もう引き返して来たので、屈辱的な気分でまた合流して帰ることになり...つづき
1991年生まれ

かっこいいローラースケートの思い出

ままんごさん岩手県 1991年生まれ 女性なぜローラースケートを欲しがったのか、今になって当時を振り返っても良く分からないのですが、なんとなく「他の子供たちが持っていなくてかっこいいな」と思ったのがきっかけだったと思います。ローラースケートを持っていると友達に話しても、友達たちは持っていなくて、「何それ?」と馬鹿にされたり、言われたりしたのを思い出します。私が住んでいたところが田舎という事もあり、あまりローラースケートが浸透していなかったように思えます。それでも毎日学校から帰ってきては外に出て、ローラースケートで遊んでいました。特に大技などは出来ませんが、姉と一緒に良く遊んでいました。最初はうまく滑れずに、転んでは膝をぶつけて嫌にもなりましたが、めげずに練習を重ねて滑れるようになったときは、とても嬉しかったです!!
1975年生まれ

「技と音」ローラースケートの思い出

さぼてんさん和歌山県 1975年生まれ 女性4人兄弟で一つのローラースケートを使っていました。サイズを大きさによって調整できたのが当時で考えると画期的だったと思います。子供でも簡単に微調整できたので時間を決めて兄弟で使用していました。最初はよくこけて、足がどんどん広がっていってしまったのを覚えています。子供は体が柔らかいのですぐに滑ることができました。自転車に引っ張ってもらって早く滑ったのが楽しかったです。坂道で下り降りるのもスリリングでしたが、大概途中で斜めに曲がって溝に落ちていました。近所の友達と競争したり追いかけっこもしていました。家の前の道路で遊んでいたので、使い終わったローラースケートが道に転がっているのも懐かしい風景です。家が立ち並ぶ道で遊んでいたので、ローラースケートの滑る音がすごくうるさかったと思います。母には騒音になるとよく怒られていましたが、近所の人から怒られたことはありませんでした。そう思うと近所の方の温厚さや穏やかさがあったんだと思います。今では難しいことですが、ご近所で子供を育てていたんだと思います。
1967年生まれ

当時大流行したローラースケートでたくさん遊んだ体験談

ローラーたくやさん兵庫県 1967年生まれ 男性僕は小学校5年生の頃、父の仕事の関係で地方へ移住しました。生まれ育った都会とは違い、のどかな田園風景が広がる場所でした。その地域で、流行っていたのがローラースケート。自動車があまり通らず、長く続く近所の道路は、絶好のローラースケート場です。友だちが楽しそうにローラースケートをしているのを見て、親に同じものを買ってもらい、彼らの仲間入りをしました。当時のローラースケートは、靴のサイズに合わせて金属製のローラースケートを履き、ベルトで固定するタイプでした。アスファルトの道路は滑りが悪いので、あまり転ぶこともなく。ガチャガチャと音をたてながら滑っていました。放課後は、友だちとよく競争をしながら楽しく遊んでいたものです。ある日、数キロ離れた手柄山公園という場所に無料の屋外ローラースケートリンクがあることを知りました。休日に友だちのご両親が車で、僕たちをそこへ連れて行ってくれました。そこで初めて知ったのが、リンクの舗装がアスファルトとは違い、すごく滑らかだったことです。「すごくスピードがでそう。少し怖いかも。」と恐る恐る滑り始めると、案の定後ろに転...つづき
1968年生まれ

すべってころんで楽しいローラースケート

昭和チルドレンさん宮崎県 1968年生まれ 男性小学生のころ、3つ上の兄がスケートボードを粋がって始めました。ホントに、流行り始めたばかりのころでした。残念ながら、バランス感覚や運動神経に乏しい私には、スケボーを乗りこなすことが難しかった。そこで、まだ2本足だし、タイヤもたくさんついているローラースケートならやれるだろうと思い立ちました。ド昭和のローラースケートは、自分が普段履いている靴に、ヒモやバンドでしばりつけるようなタイプでした。靴と一体型のような高級な物はとても買えません。靴にローラースケートをしばりつけ、まず立ち上がるところから大変でした。バランスを取るのに一苦労。両足で立つことが出来るようになると、ゆっくり滑るのは、氷の上でやるスケートよりは簡単だなと思いました。広い公園の固いコンクリートの上で滑る練習を一生懸命していました。慣れてくると、ちょっと大きめの石を並べて、8の字やスラロームで滑る練習をしました。真っ暗になるまで夢中で滑っていた小学生時代が懐かしく思い出されます。
1995年生まれ

ローラースケートを見たら思い出すこと

りんりんさん兵庫県 1995年生まれ 女性私は大人になった現在でもローラースケートを見ると苦い記憶が思い出されます。今から約20年前にローラースケートを滑る友達を見て、自分も滑ってみたいと思い親に買ってもらいました。その友達はローラースケートを滑る時にフィギュアスケートのようにクルクルとその場で回るような技をしており、自分もそれがしたいと思っていました。いざ買ってもらってローラースケートを履くと、まず一人で立てないことを知りました。実家の駐車場で滑る練習をしましたが、一向に滑れるようにならず。ある日段差につまづいて顎を強打してしました。そこからというもの、全く滑る気にはならず、私のローラースケート体験は終わりました。後からその友達がフィギュアスケートを習っていたことを知り、そりゃ自分は滑れないわと子供ながらに思った記憶があります。大人になり子供を育てる身になった今、ローラースケートのような継続して履けるかどうかわからない商品を買ってくれた親には感謝しています。
1975年生まれ

「曲がれない、止まれない!」ローラースケートの思い出

いちこさん静岡県 1975年生まれ 女性当時、テレビの歌番組でアイドルグループがローラースケートをはいて、歌って踊るのを見て、「自分もやってみたい」と、親にねだって買ってもらいました。同じように買ってもらった友達と二人。移動するときも、自転車よりもローラースケート。難しい技はできなくても普通の道をひたすらコロコロするのが楽しかったです。ある日、少し遠出した先で、左カーブの緩やかな下り坂にさしかかりました。これまで真っ直ぐでほぼ平らな道しか通ってこなかったのに、何を思ったのか「行ってみよう」と坂を降り始めました。途中スピードが乗ってきていつもと違う感覚にワクワクしました。このままいける、とさらにスピードが上がったところで、もう目の前のカーブを曲がるにはスピードが出過ぎていました。止まれないことに気付いた私は、とっさに、転べは止まると考えたんでしょうね。現場を見ていた友人が言うには、わたしは止まるのではなく前へ向かって飛んだそうです。そのまま着地とはいかず、顔は怪我しなかったものの、膝と腕は擦りむいて友人には大笑いされました。その場は笑っていたものの、夜お風呂ですごくしみたのも、今では良い...つづき
1982年生まれ

度胸試しなシーソーの思い出

ちーさまさん大阪府 1982年生まれ 女性一般的なシーソーの遊び方は、大体同じくらいの体重の子が両サイドに座り、お互いに足を使って地面を蹴り上げて、交互に上下するのを楽しむと思いますが、盛り上がってくると必ず度胸試しの様な遊び方になっていました。今考えると、なかなか危なっかしいのですが、最初に乗れるだけ乗って、特に掛け声もなく、アクションもない状態から、突然一人抜け、二人抜け、三人…と抜けていき。残り両サイドに一人ずつになった瞬間、最後になった子は凄まじい勢いで下に下がってお尻を打つ…という遊びをしていました。抜けるタイミングをみはかるのが難しく、途中で抜けれても抜け方が下手ならば転けたりして怪我をすることもあった気がします。他にも、そもそも座って遊ばずに平均台の様に木の上をバランス良く右から左に歩いたたり、両サイドに一人ずつ立って、思いっきりその場で跳ねてボヨンボヨンと遊ぶ等、優雅にシーソーを遊んだ記憶がありません。いつも、いつのまにか度胸試しになっていました。
1997年生まれ

シーソーで罰ゲームの思い出

かぴばらさん富山県 1997年生まれ 女性幼いころ、近くの公園にあるシーソーで幼馴染と遊んでいました。そのシーソーは少し古く「ギーギー」と音がするようなもので、シーソーの両端の着地地点にはタイヤが埋め込まれていました。そのタイヤの部分の土が大きくえぐれていて、雨が降ったあと5日間くらいは水たまりになります。着地するたびにタイヤが弾み。その影響でその溝にたまった泥水がはねて足がドロドロになりました。親からすればやめてほしい遊びだとは思いますが、それだけでも幼い私たちにとっては楽しくて、雨のあとによくシーソーで遊んでいました。ただ学年を重ねるにつれ、服が汚れることへの抵抗が大きくなり、そのシーソーは罰ゲームとなりました。例えばカードゲームで遊んで負けたほうがシーソーをする。といったような用途となり、楽しい対象からちょっと嫌なものという印象になりました。現在、そのシーソーは新しいものに変えられ。着地地点のタイヤ部分の溝もきれいになくなりました。今ではいい思い出です。
1987年生まれ

しりとりシーソー

moamoaさん静岡県 1987年生まれ 女性小学生の低学年の頃、学校内にあったシーソーが友人たちの間でブームになりました。最初は普通に遊んでいたのですが、だんだんと飽きてくるようになると、しりとりと組み合わせて遊ぶようになりました。ルールは簡単です。シーソーが下がるごとにしりとりのワードを言います。特に縛りがないうちはとっても簡単なので、自分たちよりも小さい子と遊ぶときもこのルールで遊んでいました。ただし、シーソーはスピードを上げることができるので、テンポよく答えないとアウトになってしまいます。だんだん慣れてきたら、食べ物や学校にあるものなど、縛りを入れてしりとりをするようになりました。このしりとりを取り入れてからは、なんとなくシーソー遊びがブームになっていき、昼休みになったらシーソーへと集まるようになりました。シーソーは1台で4人まで乗れるタイプだったので、仲良しの4人で一緒に遊んだ記憶が残っています。あるときシーソーが撤去されて遊ぶことができなくなりましたが、とても楽しかった思い出です。
1982年生まれ

シーソーで遊んだ思い出「相手を浮かせたり 勢いよく落とす遊び」

ココちゃん京都府 1982年生まれ 女性子供の頃、公園といえば大概シーソーが置いてありました。座るところが赤色と青色になっていて、なるべく相手を空中に浮かしておけた方が勝ちというルールで遊んでいました。なぜそうだったのか?覚えてないのですが、なるべく相手が浮いておけるように自分だ下がった時にどれほど足で勢いよく踏み込むかそうでないか?を考えながら遊んでました。さらに、相手が1番高いところからドン!と勢いよく地面に落ちるように、相手が1番高いところまで浮いたらタイミングを見計らって椅子から飛び降りたりもしてました。自分が1番高いところからドン!と落ちた時には、下にクッションでタイヤが埋め込まれていたんですが、それでもお尻に衝撃が走ったのを覚えてます。後は体重が重い子に対して何人ほど反対側に乗ったら体重の重い事同じくらいの重さになるか?なんて調べながらも遊んだりしてました。今だとあまりそんな事したらいじめだとか言われるかも知れないですが、お互いに特に悪気もなく、みんな楽しんで遊んでました。
1991年生まれ

子どもの頃にした シーソーの危ない遊び

ままんごさん岩手県 1991年生まれ 女性今も公園に行けばあるシーソー。散歩をしている時に見かけると、小学生の時に友達と一緒に遊んだことを思い出します。シーソーで遊ぶときに友達としたのが、一人シーソー(一人でシーソーを動かす)をして遊んだり、やってはいけないと思いながらも当時は友達とはまっていたのがシーソーの真ん中にある支え?の部分に乗って、本来の遊びではない遊びをしたことです。当時は今みたいに危険なものを避けて遊ぶという事がなく、危険な遊びが大好きだった小学生でした。怪我をしてもまたその危険な遊びを繰り返していたことを思い出します。後は思いっきりジャンプをしてシーソーで相手を上にあげたりしました。シーソーの下にあるタイヤに、友達が上に上がったタイミングで足をおき、降りてくるタイミングで足を離すなんて遊びをしていました…。絶対に良い子は真似してはいけない。シーソーをしている時のあの上に上がるふわっとする瞬間が好きで、友達とワイワイ遊んだ事がとても楽しかったです。
1986年生まれ

実は怖かったシーソー遊び

うさぎちゃん福島県 1986年生まれ 女性 子供というのはシーソーが大好きだと思いますが、私はどちらかというと苦手でした。苦手ではあるものの、どうしても友達との付き合いで幼稚園の頃や小学生の頃に遊ぶことがありました。小学校にシーソーがあったかどうかは記憶にありませんが、幼稚園の頃にはありました。私はシーソーをしても基本的に長続きしません。私は凄くガリガリに痩せている子供で、シーソーをすると必ず私の方が上の方に上がってしまいます。体重の重い子が相手だと、高くなってしまい非常に怖いという気持ちが強かったです。私は身体に障害もある子供で普通の健常児たちと一緒に遊んでいたので、シーソーはちょっとした恐怖でした。テンポよくシーソーをしている子たちを見ると羨ましくなりました。痩せすぎていて肉がない為にガッタンゴットンとなる度にお尻がめちゃくちゃ痛かった思い出があります。
1985年生まれ

シーソージャンプでどれだけ高く華麗に飛べるかを競い合う

あろえさん福井県 1985年生まれ 男性小学生の頃、毎週金曜日は遊びの日でした。私たちの学校から徒歩で数分の公園によく行きました。「シーソー」は大人気の遊びでした。私たちは、普通にシーソーを漕いで遊ぶだけでは飽きてしまい、かなり無茶な遊びをしていました。普通シーソーは両側に1人か2人ずつ座って遊ぶイメージですが、私たちは一度に3人も4人も乗って遊んでいたのです。たくさんの仲間と一緒に乗って大はしゃぎして遊ぶのが楽しかったです。それからたくさんのオリジナルゲームを考えました。一番過激たっだ遊びは「シーソージャンプ」でした。一人がシーソーの端っこに立った状態で、逆側のシーソーに二人が飛び乗ります。端っこに立っていた人はシーソーが大きく漕がれて勢いよくジャンプします。そのジャンプの飛距離や芸術性を競うというゲームでした。今思うと非常に危険です。自分の子供がこんな遊びをしていたらと思うと怖いですが、当時はこういったオリジナルなゲームを考えることで、「シーソー」の遊びは楽しさが倍増しました。仲間と一緒に遊ぶと、笑い声が響き、楽しい時間。今でも思い出すと懐かしさが溢れてきます。
1978年生まれ

「一人シーソー」と「大人数シーソー」

banaさん神奈川県 1978年生まれ 男性シーソーは遊び方次第で危険な遊具にもなります。今の子供たちには決して真似してほしくないシーソーの遊び方です。基本的なシーソーの遊び方は?ニ人もしくは、四人でバランスをとって交互に跳ねて遊びます。一人で遊ぶシーソーの遊び方とは?難易度は高いですが実はジャンプをすることで、一人シーソーは可能なのです。ただし、己のお尻にダメージを与えてしまいます。ジャンプする。浮いて落下する着地と同時にお尻を強打する。あまり楽しかったという記憶はありません。多人数で遊ぶシーソーの遊び方とは?単純にシーソーに乗れるだけ子供たちが乗りこむだけ。ただし、みんな遊びの顔はしていません。どれだけ体重がある子を乗せられるかという闘いなのであります。皆で勢いよくジャンプする。相手チームも負けじと勢いよくジャンプする。勝負にならないときが多いですが、相手チームにお尻を強打させた方が勝ちとなります。
1978年生まれ

スリル感満載のシーソー遊び

遊び大好き少年さん東京都 1978年生まれ 男性小学校の校庭にあったシーソーで、放課後にクラスの友達と遊びました。シーソーというと交互に上がったり下がったりという単純な遊びのイメージがありますが、その遊び方だけに捉われずに、友達と話し合いスリル感を味わえるシーソー遊びを考えました。それは、シーソーに乗る人数を通常は左右に1人ずつですが、片方の人数を増やし(例えば3人)、1:3の割合でシーソーをするということです。これによりシーソー自体のバランスが悪くなり、振り子のように一定のリズムで動かなくなります。これがシーソーから振り落とされるかもしれないというスリル感が生まれ、楽しめることができました。また、片方3人のうち、1人が向かい相手のシーソーに上下に動いている最中に移動するという遊びも考案しました。これは、先生とかに見つかると確実に注意されることになるので、放課後で先生が手薄になった頃を見計らい遊びました。「先生に見つからないか」というスリル要素も加わり、今思い出しても最高に楽しかったです。
1977年生まれ

シーソーの両端に石を置いてバランスをとる遊び

さんかくさん山大阪府 1977年生まれ 男性公園にあったシーソー。最初は、兄弟や友達と普通に乗り合って遊んでいるだけで楽しかったが、小学校も高学年になると、それだけではつまらなくなります。そして、思いついたのが大きくて同じような石を友達と1個ずつ見つけてきて左右に乗せて重さを競い合う遊びでした。この遊びは石を見つけるのが難しく。やっと同じような大きさの石を見つけてきた頃には、もうどっちが重いかなんてどうでも良くなってしまい。全然面白くありませんでした。最終的にたどり着いたのが「同じ重さの石」を見つける事でした。遊び方としては、先程と何も変わっていませんが、どっちが重いかを考えるより、同じ重さの石を見つける方が、友達と何かを共有しているような気持ちになりました。同じ重さの石を見つけられた時には、一緒に何かをやり遂げたような充実感が漂い。単純な遊びでしたが、繰り返して遊ぶ事が出来ました。
1977年生まれ

箱ブランコで劇遊び

あんまんさん大阪府 1977年生まれ 女性今はない公園ですが、商店街の裏に小さな公園がありました。隣がこんにゃく工場のため匂いがきつく、人が少ないので、人気の箱ブランコで遊ぶのにいつもその公園へ行っていました。箱ブランコは女子にも男子にも人気があり、男子がいると箱ブランコを必要以上に揺らすため、ゆっくり遊べません。そこで人の少ない公園に行く必要があったんです。女子に人気の遊びは、箱ブランコで劇遊びでした。箱ブランコは家にもなり、乗り物にもなります。いくらでも物語が続くので何時間でもそこにいることができました。箱ブランコの下にはなぜか土が溜まっていて、そこに宝物を隠し冒険に行くという遊びが当時流行っていて、だれがお姫様の役をするかでもめていたのを覚えています。みんな悪役はしたくないので、みんなお姫様ということもあり、何がなんだかわからない劇になっていましたが、楽しんでいました。それを担任の先生に話したら、ビデオを撮ってあげると言われ。みんなできちんと台本を作ろうと頑張りましたが、意見がまとまらず。その話はいつの間にかなくなってしまいました。
1974年生まれ

幼馴染の男の子と二人きりで箱ブランコ

水色メランコリーさん神奈川県 1974年生まれ 女性小学生の当時、私はいわゆるマンモス団地に住んでいました。マンモス団地内の至る所にある公園には、ほぼ箱ブランコがある状態でした。物心ついた頃から箱ブランコは馴染み深いものであり。小学校低学年くらいまで大好きだった幼馴染の男の子と二人きりで、箱ブランコに乗って遊んでおりました。幼馴染の男の子と、箱ブランコに向かい合って座ったり、時には二人で横並び状態で座ってみたり…。ちなみに、二人で並んで座っていると当然の事ながら座っている方側に箱ブランコは傾いてしまいます。そのアンバランスな傾き加減さえも、子供ながらには何故か楽しく、はしゃいでしまいました。勿論、座るだけではなく、”立ち漕ぎ”と表現すればいいのでしょうか?二人で向かい合った状態で、箱ブランコの椅子の上に立って、お互いの体重を利用して箱ブランコを漕ぐ。箱ブランコをゆらゆら揺らして楽しんだりもしていました。大好きだった幼馴染の男の子との箱ブランコ遊びは、小学校低学年までで、いつの間にか遊ばなくなっちゃったなぁ…といった感じ。今思い出すとちょっぴりノスタルジックというか甘酸っぱいような気持ち...つづき
1985年生まれ

小学生ぶりの箱ブランコ

ゆさん静岡県 1985年生まれ 男性小学生の頃に地元の公園に箱ブランコがありました。普通のブランコは小学校や他の公園にもありましたが、箱ブランコはその公園にしかありませんでした。箱ブランコは何人かで同時に遊べるところが楽しいです。協力して漕ぐと揺れが大きくなってワクワクしたことを覚えています。他の遊び方としては、箱ブランコに2人で乗り、お互いに向き合い、座る部分のふちに立ちます。そして交互に体重をかけて揺らし合って遊んだ記憶があります。結婚をして子どもが産まれ、いとこの家に遊びに行った時のことです。いとこの家の庭に箱ブランコがあったのです。近隣の公園でも見かけることがなくなった箱ブランコを見て興奮しました。子どもたちに箱ブランコのことを説明して一緒に遊びました。小学生ぶりの箱ブランコ。子どもたちにとっては初めての箱ブランコです。私の好きだった遊具で遊べてとても充実した時間でした。