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1951年生まれ

「学校の下校時」飴細工のおじさんの思い出

katsuさん兵庫県 1951年生まれ 男性学校の下校時に校門を出て塀ぞいに少し歩いて行くと、飴細工のおじさんがいました。自転車の荷台には飴で作った金魚、うさぎ、カメ、等が棒に刺して並べて有る箱を乗せていました。箱の引き出しには色々な品物が入ってました。リクエストによっては何でも作るよとおじさんが子供達に講釈して売ってました。生意気な子が多分おじさんには出来ないだろうと思い「龍」を注文しました。おじさんもちょと難しいそうな顔してましたが、早速一塊の飴を出しバーナーで炙りながら火鉢みたいので引っ張ったり曲げたりして形にして行きました。龍の顔は難しいそうで細かい作業をしていましたが最後に髭を作って完成しました。注文した子に棒を刺して渡しました。僕は小遣いを余り持って無かったので、薄い板状を舐めて動物の形を抜き出させる飴と水飴を買いました。水飴は硬い透明な飴状な物が二本の箸に巻いてあるだけの飴です。それを何回も何回も捏ね回していくと、少しずつ柔らかくて美味しい飴に生まれ代わります。それを舐めながら家に帰りました。
1956年生まれ

「小学生の図工的な遊び」型抜きの思い出

るーぶさん東京都 1956年生まれ 男性確か、痩せていて髪の毛がぼさぼさのおじさんだっ様な気がします。大小の型版と粘土と金や銀などピカピカした粉を売っていました。上手く、綺麗に、塗れたら少し大きめの型版が貰えます。今思えば、此れといった正解がなく、おじさんの気持ち一つで決まっていたように思います。とても面白く集中出来ました。粘土に色を塗りおじさんの処に持って行き、昇進するワクワク感やドキドキ感が在りました。当然、友達とも競いあいました。最初は、10円程度で小さな型を買います。型は、鳥だったり、電車だったり、色々とあり自分で選びます。後、粘土を少々、白い紙に包まれた色を選んで買います。一式を揃えるのに50円~100円位だったと思います。粘土を型にはめ、綺麗に取り出し、指に粉を付け塗って行きます。終わると、おじさんの処に持って行くき、上手く出来ていると、一つ上の型と粘土が貰えました。駄目だと、アッと言う間に手で握りしめて終わりでです。中~大の型が欲しくて、頑張っていました。
1955年生まれ

小学校の帰りの「型抜きの思い出」

DYさん東京都 1955年生まれ 男性思い起こせば小学校の頃です。当時のお小遣いは10円とか20円くらいで、100円を持って居る子はいませんでした。うちの家族は人数はいっぱい居たのですが、おばあちゃんが働きに出ている、おやじは1週間に1〜2度しか返ってこない(仕事が忙しいのと、少々遊んでいたようでした)、母親は結核で入院、一緒に住んでいるおじさん2人は大学生と高校生という状況での小学生でした。毎日貰った少々の小遣いを必死にためて、学校の帰りに何を買うのか楽しみにしておりました。1週間に1回くらいの割合で駄菓子屋や学校の前でおじさんが出している店に興味深々で行き、何かを買って帰るという生活です。今思い出されるのは小学校の校門の裏に自転車で店を出していた、型抜きのお店です。見本の形通りにウエハーみたいな台紙からハリの様な物でその形通りに形状を仕上げるというものでした。10〜20円程度の値段だったと思います。上手く出来ると飴とか、ソースせんべいの様なお菓子をくれるというものでした。チャレンジする形状の難易度によってもらえる物のレベルが上がります。楽しみはそのお菓子だけでなく、時間をかけてやる...つづき
1967年生まれ

スーパーカーブームの頃の話

いしゅとさん千葉県 1967年生まれ 男性私が小学生の頃、校門の前で何かを売っていたおじさんに出会いました。彼はいつも古い本や漫画、おもちゃなどを売っていました。私は彼の売っていたものに興味を持ち、何度か彼のところに足を運びました。ある日、私は彼が売っていたスーパーカーのプラモデルに目が留まりました。それは古びた感じがあるものの、デザインは非常にカッコよく、私にとっては非常に興味深いものでした。私はそのスーパーカーのプラモデルを手に取り、おじさんに「これ、値段はいくらですか?」と尋ねました。おじさんは笑顔で「300円だよ。でも、お金がなければ安くしてあげるよ」と答えてくれました。私は幸運にも、その日お金を持っていたため、彼からそのスーパーカーのプラモデルを300円で購入しました。おじさんはスーパーカーのプラモデルを私に手渡し、「楽しんでね!」と言ってくれました。私はそのスーパーカーのプラモデルを組み立てることができ、完成した時の達成感と、そのカッコよさに大興奮しました。家の中で飾ったり、友達と一緒に遊んだりと、非常に楽しい時間を過ごすことができました。そのスーパーカーのプラモデルは、私...つづき
1996年生まれ

小学校5年生の時に出会った「風船をくれるおじさんの思い出」

そうたろうさん京都府 1996年生まれ 男性小学校5年生のときに身長の高い風船を売るおじさんがクラスで噂になりました。口裂け女などが流行っている時代で、そういった都市伝説系の噂話かと思っていました。自宅に帰らず友達の家に行く日、そのおじさんに出会いました。その友達の家とは学校を挟んで逆方向だったため、自宅に帰ってからその子の家に行っている時とは時間帯が30分程早く、そのタイミングで遭遇してしまったのです。角を曲がった十数メートル先にそのおじさんがいました。当時の私の身長を正確に覚えているわけではありませんが、体感で私の倍の身長があるのではないかと思うほどの大きさで、ヘリウム風船を5つ程度持っていました。おじさんを見つけたときに恐怖を感じたのを覚えています。友達は何度か見たことがあり、害がないということを知っているためケロッとしていたのを鮮明に覚えています。友達の表情をみて安心したのもつかの間、おじさんが私達を見つけ真っ直ぐに歩いて来ました。びくびくしながら数歩後退りしてしまうほどの圧力で、すぐ目の前まで来ると立ち止まりました。そして、風船を持った手をこちらに突き出し、こう言ったのです。...つづき
1977年生まれ

下校時の小学生に「教育教材を売るおじさん」

とまとさん大阪府 1977年生まれ 男性小学校の帰り、正門前に人だかりが出来ていて、見るからに怪しいおじさんが教育教材を売っていました。しかし、子ども向けに宣伝していた事もあったからか、教材についての説明は一切なく、その教材に申し込んだ時の特典付録についての説明ばかりでした。練り消しのように、とても伸びるが良く消える消しゴム。何色もあるロケット鉛筆。折りたためる定規など、少し不思議な所が小学生の気を引く所であり。それぞれの品をどのように使うか、実践して見せるので誰もが欲しくなり、興味津々に話を聞いていました。すると、最後に簡単なテストと申し込み用紙を渡され、申し込みたい人は学校前の電柱にポストを付けておくので、そこにテストと申し込み用紙を入れて下さいと言われました。私は、申し込む気満々で家に帰ってすぐにその渡されたテスト問題をし、母に「これをポストに入れる」と言うと、「それは騙しの教材なのでそんなのに乗っかったら駄目」と怒られてしまい、申し込まずに終わりました。これこそが、社会勉強です。ちなみに、ポストは翌朝の登校時、しっかりと電柱に巻き付けてありました。今思うと正門で堂々と商売をした...つづき
1994年生まれ

たまごアイス

オニササさん新潟県 1994年生まれ 女性校門前でアイスを売っているおじさんがいました。味は1種類。自家製のアイスで食感はシャーベットに近く、優しい黄色が印象的でした。何の味、と例えられないのですが、ほんのり甘かったです。アイス自体に決まった名前はないのですが、子どもたちの間ではその色味から「たまごアイス」と呼ばれていました。価格はカップが300円、コーンが100円、モナカ(モナカの皮にアイスを挟んだ状態)が100円と小学生にも手を出しやすい価格です。子どもたちに大変好評で、文化祭や運動会のときは必ず出店していたのですが、長蛇の列ができていました。売っているおじさんは無口で必要最低限のことしか話しません。近所にお住まいだったので顔見知りではあったのですが、誰にもレシピを教えてくれませんでした。おじさんが体調を崩されてからは奥さんが代わりに売り子をしていました。奥さんも体調を崩されてからは、もう味わえないのが残念でなりません。
1975年生まれ

「映画のチケットを買わされた思い出」公開されることのないホラー映画

南さん北海道 1975年 女性小学校の時に、たまに校門の近くで物を売っているおじさんがいました。担任の先生からは、買ってはいけないときつく言われていたのでいつも無視していました。でも、その日はちょっと違いました。そのおじさんの周りに人だかりができていたんです。私は、いつもみたく無視しようと思っていたのですが友達がどうしても行こうと言うので仕方なく行きました。すると、おじさんは映画のチケットを売っていました。それも、聞いた事がないようなホラー映画。チケットには、お化け屋敷に出てきそうな落ち武者が描かれていました。「1枚50円だよ。どうだい?」私と友達は、かなり悩みました。他の子供達はほとんど買っています。もし、皆が観て私達だけ観ていなかったら仲間外れになってしまう。そう思ったら、我慢できませんでした。私と友達は、50円を出してチケットを購入。お小遣いのほとんどを使いました。でも、結局。その映画は公開されていなかったのです。騙されたショックは、今だに忘れられません。
1974年生まれ

昭和の時代「校門の前で商売をしていた謎のおじさん」

まさおさん京都府 1974年生まれ 男性小学生の時、授業が終わって帰ろうとすると校門の前に人だかりができていました。気になって覗いてみると、中年くらいのおじさんがテレビショッピングの実演販売のようにいろいろなものを紹介していました。主に文房具です。書いて手でこすって消せるボールペンとかだったような気がしますが、ははっきりと思い出せません。とにかく子供時代の私からすると魅力的なものばかりで欲しかったのですが、学校にはお金を持って行かないし、家に帰って母親に言っても買ってくれるはずもないので全く売れていなかったように思います。しかし、子供たちはみんな目を輝かせておじさんの巧みな実演販売を見つめていました。やがて先生がやってきて止めるように注意すると、「もうすぐ終わりますので」と言いながらおじさんは一向に終わる気配がなく、長時間やり続けていました。先生もそれ以上注意することはありませんでした。現代なら一発で警察に連絡されるかもしれないような状況ですが、当時はあらゆることに対して規制が緩く、良くも悪くも昭和だなあという気がします。
1965年生まれ

学校の前で売られていた「スーパーヨーヨー」の思い出」物売りのおっちゃん

クリ坊さん愛知県 1965年生まれ 男性小学生の頃「スーパーヨーヨー」というヨーヨーのおもちゃが流行り、大人から子供まで大流行していました。「犬の散歩」とか「空中ブランコ」とか言った大技を競い会い、テレビでも特集番組が組まれたりしていました。そんなに高価なおもちゃでは無かったので、クラスのほとんどの子供が持っていて、人によっては何個も持って自慢していました。当時は学校の正門の前でも普通に物売りのおっちゃんとか来ていて、「スーパーヨーヨー」も時々売られていました。コーラとかファンタとかのデザインの物が安くて人気でしたが、カラフルな装飾が入った物や、回すと電飾が光る物などバリエーションも豊富でした。しかし、いわゆる正規物の「スーパーヨーヨー」と比べるとコーラのロゴも怪しく、糸が切れてすぐ壊れたりしていました。まあ、勝手に作られたコピー商品だと思われますが、当時は世間もそんなに煩く無く値段も安かったので、壊れたらそれまでという感じでした。学校の前で露店なんて、今では考えられない光景ですが、凄くワクワクして楽しかった記憶があります。
1975年生まれ

逆にしたら面白くなった「逆じゃんけんの思い出」

紘子さん北海道 1975年生まれ 女性小学校5年生の時に、友達3人とジャンケンで遊んでいました。でも、だいたい、いつも同じ人が勝つんです。これではツマラナイと、1人の子が文句を言いだしました。トランプなどがないときに出来る遊びって「ジャンケン」か「しりとり」なんですよね。そうしていたら、その中の一人が「逆じゃんけんをしよう」と言いだしたんです。つまり、グーはパーに勝って、チョキはグーに勝つんです。たったこれだけのルール変更なのに、すごく複雑になって面白くなったんです。ジャンケンに強い子も、すごく弱くなって皆が同じレベルになりました。気がついたら、誰が勝ったのか負けたのすら分からないぐらいグチャグチャになりました。シンプルで遊びやすいジャンケンに、スピードを増したり、ルールを変更するだけで、途端にややこしいゲームになるんです。しばらくはこの逆ジャンケンにハマっていました。あんなにジャンケンで盛り上がった事は、きっとなかったと思います。
1978年生まれ

じゃんけんリレーの思い出

くーくーさん東京都 1978年生まれ 男性じゃんけんは、幼稚園時代に覚えた初期の遊びでした。おもちゃを使う順番や遊具を遊ぶ際の順番を決めたりするためのものでした。小学生になるとそれから発展し、じゃんけんを応用した遊びを考えるようになりました。特に盛り上がって遊んだのは、じゃんけんリレーです。クラスの仲間十数人でグループ分けして、通常のリレー徒競走のようにアンカーを含めて走る順番を決めます。このじゃんけんリレーの醍醐味は、足が遅くてもじゃんけんが強ければ、足が早い人にも勝てるというところです。逆に言えば足が早くてもじゃんけんが弱ければ負けてしまいます。リレーコースの途中にはじゃんけんポイントが3か所あり、そこにいる相手にじゃんけんで勝たない限り先には進めません。じゃんけんに負けると焦り頭がパニックになります。足の早い人がそのパターンにハマってしまうと、みんなで爆笑し、ワイワイと盛り上がりました。今でもその時の友達と会うと、このじゃんけんリレーの話で昔を思い出します。
1988年生まれ

じゃんけん大会の思い出

tomjさん広島県 1988年生まれ 男性私の思い出は学校でのじゃんけん大会です。遊び方は簡単で、じゃんけんの勝ち抜き戦をして優勝者を決めるものでした。私の小学校では、じゃんけん大会が毎年行われ、優勝者には賞状が贈られます。私は小学2年生の頃、この大会で優勝しました。低学年が高学年に何かの競技で勝つことはほとんどないので、その時はとても嬉しかったです。それから、毎年大会が行われるたびに参加し、友達と一緒に競い合っていました。
1980年生まれ

じゃんけん列車の思い出

ゆいまるさん愛知県 1980年生まれ 男性小学生の頃、年に何度か開催されるお楽しみ会で、全員参加で行われていた“じゃんけん列車”がすごく思い出に残っています。やり方は、線路はつづくよ〜の曲に合わせて歩いて回って、曲が止まったら、近くの人とじゃんけんをします。負けた方が、勝った方の後ろについていくというシンプルなもの。どんどん列車が長くなっていって、最後の1人に勝ち残ることを目指すというゲームです。最後の1人になると、先頭で後ろに全員を従えている格好になるので、すごく優越感があります。そのため、みんなが(特に男子)勝ち残りたいという気持ちが強く、すごくすごく盛り上がるゲームでした。時には、気持ちが強すぎて、ヒートアップしてしまい、喧嘩に発展することもありました。当時は熱くなっていました。ただ、面白いのが、このじゃんけん列車は、お楽しみ会限定の企画といいますか、他の場面ではやった記憶が一度もないんです。不思議な魅力のあるゲームでした。
1974年生まれ

「ぐんかん ちんぼつ はれつ」と「グリン チリン パリン」楽しかったじゃんけんの思い出

まさおさん京都府 1974年生まれ 男性小学生の頃はじゃんけんから派生した遊びが流行りました。1つは「ぐんかん ちんぼつ はれつ」というものです。1人が「ぐんかんちんぼつはーれつ」という掛け声を出しながら、お互いにグーチョキパーを3回出して最後にアイコになったら声を掛けていた方が勝ちというゲームです。2つめは先ほどの発展形で、「グリン チリン パリン」というものです。やり方は「ぐんかんちんぼつはれつ」と同じですが、最後にアイコになったときに先に「ドン!」と言った方が勝ちというルールでした。3つめのじゃんけんの遊びは「グリコチョコレートパイナップル」です。じゃんけんをして勝った方がその文字数に合わせて歩数を進めるというもの。学校が終わって下校する時に同じ方向に帰る友達とやるのが定番でした。キックベースでチーム編成をするに、2人がじゃんけんをして好きな人からとっていくという時は、かなり気合が入った思い出があります。強さに偏りが出て機嫌が悪くなり、そのまま帰ってしまったというのも懐かしい思い出です。
1967年生まれ

あっち向いてほいの思い出

50代の男性大阪府 1967年生まれ 男性昭和の子供世代、小学校の時は「あっち向いてほい」という遊びが流行った時期でした。じゃんけんに勝った方が相手に対して、顔の動き(左向き、右向き、上向き、下向き)を指で当てれば勝ちと言うゲームです。授業の間の休み時間は短く、教室内で遊んでいたので、この遊びもその一つでした。じゃんけんに勝った上、顔の向きを当てないと勝ちになりません。単純にじゃんけんで勝つだけではないところが面白い。基本的なルールを自分たちで複雑化していって、ゲームを楽しんでいました。例えば、「ほい」と言って指を動かす回数と、首を動かす回数を変えるゲーム。この指を動かす回数はじゃんけんに勝った方がその時に決めて、最終的に回数で、指の方向と顔の向きが一致した時にのみに勝ちとするというルール決めました。今と違って、ゲーム機等はない時代だったので、自分たちで考えた遊びが多かったのが良い思い出です。
1983年生まれ

「小学生の争い」給食じゃんけんの思い出

まりもさん兵庫県 1983年生まれ 男性じゃんけんと言われて一番に思い出すのが、給食の時のじゃんけんです。遊びでもあり、真剣勝負の場でもあったので、じゃんけんを一番楽しんでいたのでは無いかと思います。得に月に一度のお楽しみ給食と言うのがあり、その日はケーキや、プリン等普段出ないような、献立がある日があったのです。その日に欠席の子が居ると、お昼前には、もうどの品を取りに行くのか、周りとの心理合戦が始まります。そこから本番のじゃんけんをするのですが…。最初は人数が多いと、どうしても運が大きく作用します。普通にやっていましたが、人数が絞られると、そこから心理合戦が始まります。俺はチョキを出すとか、じゃ俺はグーやなとかいって相手を牽制したり、わざとチョキばっかりを出して相手を油断させてからパーを出したり、パーを出すタイミングを周りの相手の出し方をみながら謀ったりと、子供らしかなぬ、じゃんけんをしていました。僕の周りは、ごくごく普通のかけ声やルールでやっていましたが、無敵の手(手で鉄砲を作って小指から中指を指の付け根で折ってあわせる形)を作って、勝ちを取ってたこともありました。勿論、周りには認め...つづき
1965年生まれ

「じゃんけん遊びの思い出」負けたら負けよあっかんべえ!

つううてさん埼玉県 1965年生まれ 男性小学校のときはよく、友達や兄弟とじゃんけん遊びをしました。よくゲームをする前にその順番を決めるためにじゃんけんをした記憶があります。かけ声は今とあまり変わらないと思います。「最初はグー、じゃんけんぽん!」です。そして、たまに「負けたら負けよあっかんべえ!」という言葉がかけられました。負けたら、変な顔を見せて友達らを笑わせるというルールがありました。今で言う変顔のことです。じゃんけんは何故か、同じ手を使い続けると勝率が上がった記憶があります。パーならずっとパーばかり、たまにチョキを入れたりしました。じゃんけんに負けたときの罰ゲームみたいなものもありました。当時はデコピンと言っていました。今も存在するのかわかりません。負けた場合、勝者は利き手をつかい、手のひらを敗者のおでこにあてて、中指をパチンっとあてる方法です。力の弱い人だとあまり痛くないですが、指の太い力持ちにされるときは怖かった思い出があります。
1988年生まれ

じゃんけんグリコの 駆け引き

ぽんずさん大阪府 1988年生まれ 女性私たちは小学生の頃には既に「駆け引き」を学んでいたのだと、今になって思います。階段があれば必ずやったじゃんけん遊びがありました。その名も「グリコ」。じゃんけんほい!と元気な掛け声でじゃんけんをして、グーで勝った人は「グリコ」、パーで勝った人は「パイナップル」、チョキで勝った人は「チョコレート」といった形で、その文字数だけ階段を上がれます。一番最初に上がりきった人が勝ち。グーの場合は「グリコ」で3文字なので当然数字的には早く上がるには不利になります。ところがこの遊びの面白いところで、じゃあ単純に文字数も多くてグーに勝てるパイナップルのパーを出せばいいのかとなると、そこにはそれを狙ったチョコレートのチョキが待ち構えている・・・。このシンプルながら先の先のそのまた先を読む遊びを、無邪気にしょっちゅう遊んでいたなぁと懐かしく思います。ただし、その頃「先の先のそのまた先」まで読んで楽しんでいた子供がどのくらいいたのかはわかりません。少なくとも私は何も考えずに(あ〜グリコ食べたいな〜)なんて思いながら大きな声で「じゃんけんほい!」と言っていたのでした。
1977年生まれ

「小さな宝物探し」学校の帰り道に不思議な石を探す 宝探し

とおこさん東京都 1977年生まれ 女性小学校三年か四年生の頃の思い出です。当時住んでいたのは、民家の途中に畑があり、マンションなどほとんどないちょっと田舎風な土地でした。家から学校までの通学路はのどかなもので、住宅街と畑を見ながら友達と変える毎日です。そんな通学路の途中に「面白い石が落ちている場所」がありました。小さな三角だったり、青くて平らな丸い石だったりと、子供の目からするとなんとも不思議で珍しいものばかりです。砂やがれきと共に落ちているそんな石を、友達と一緒に拾って帰るのが楽しい日々でした。時々ちょっと大きな花の形とかカラフルな石があって、互いに見せ合ったり交換したりと、それぞれが「面白い石」を宝探しのように見つけていました。そんな楽しい場所も引っ越しと共にお別れになりました。大人になって思い出してみると、あの場所は解体工事の時に出た石壁やタイル壁の廃材置き場だったのではないかと考えています。建物の裏側に捨て置かれた小さな欠片たちが、子供の頃にはなんとも不思議な宝探しの場所になっていたのでした。
1951年生まれ

カバン持ちと小石投げ

katsuさん兵庫県 1951年生まれ 男性カバン持ちは、学校帰りに皆んなでジヤイケンをして、負けた人が全員のランドセルを持ち、歩いている途中で犬か猫が来たら交代という遊びです。犬も猫もなかなか来ないので、ランドセルを持ってる友達は肩からずり落ちそうになって歩いてましたが、やっと犬が来て交代です。今度は電柱で交代に変えました。電柱はすぐ有るので何回も交代でした。だけどジヤイケンの弱い子は何回も持って歩いてました。家に近づいた子が一人抜け二人抜けして居なくなりましたが、僕は家の近くまでランドセルを持たずに帰る事が出来ました。その足でカバンを持ったまま友達と川まで行き、河原で平べったい小石を探し、川に向かって水平に投げるのです。すると小石は水面の上を一回、2回、3回と連続で跳ねて行きます。面白くて次は何回連続が出来るか友達と競うのですが、友達は上手く5回連続が出来たと歓声を挙げてました。こちらも負けじとやるのですが、焦れば焦るほどボチャンといって一回で水に落ちます。それではと深呼吸して、ゆっくりと力強く水面に投げると今度こそ5回連続が出来ました。
1999年生まれ

家までついていく

ともさん山口県 1999年生まれ 男性小学校の頃、放課後になるとほぼ毎日、皆で僕の家の近所にある公園で遊ぶ約束をしていました。毎日家に帰ってから集合をしていたのですが、ある時から「なんか一回帰ってから集合するの時間無駄だね」みたいな雰囲気になりました。家に帰る途中、その公園までの道のりで友達の家に皆で寄って、その友達の着替えを待ち、その友達が着替え終わったら別の友達のところに皆で行って、また着替えるの時間を待ち、最後に僕の家に来て僕が着替えるのを皆が待つことで、全員が着替え終わったらすぐに遊べるということにしました。これをすることで誰かが着替えている時間でも、友達と話せて楽しい時間をずっと過ごせるので、途切れることなく友達との時間が過ごせました。今振り返ると友達との時間が途切れないのは良いが、肝心の皆で遊ぶ時間は逆に短くなっている気がしたので、効率が悪いことをしていたなと思います。けれど、楽しい思い出ではありました。
1987年生まれ

寄り道の思い出

エリックさん沖縄県 1987年生まれ 男性通っていた小学校から自宅まで、子供の足で40分位の道のり。家が近所でいつも一緒に帰る仲良しメンバーがいました。いつものように帰っていると、友達が『俺、近道見つけたってば』と言って、いつもの道から少し外れ、林みたいな森みたいな崖に案内してくれました。今考えれば、人が通った形跡もなければ、確実に遠回りになることは明らかでした。しかし、その時の僕らはその友達の話を疑いもせず、むしろ冒険心が勝り、皆んなで競争して崖を登ったのを覚えています。木の枝に刺さったり、足を滑らせ落ちそうになったりしましたが必死で登りました。そしてついに頂上まで登り着いたら…使われていない畑と井戸、古い木造の家がありました。今まで知らなかった場所だったからか、登り切った達成感からなのか、なぜか、気分が上がりまくったのを覚えています。そこで僕たちは『ここを秘密基地にしよう』と考えました。その日から毎日のようにそこに行き、段ボールや、マンガ、その他遊び道具を持っていき、集まって遊んでいました。結局、家までの到着時間はいつもの2倍以上かかっていました。
1977年生まれ

「学校帰りの思い出」高鬼をしていたら怒られた話

るぅさん宮崎県 1977年生まれ 男性学校帰りにした遊びといえば、電柱ごとにジャンケンして負けたら友達のランドセルを持つ「カバン持ち」、影をふまれたら鬼交代の「影踏み」、一人で帰るときは石や缶をどこまで蹴って帰れるか等、いろいろ思いついては遊んでました。その中でも、覚えているのは、「高鬼」です。鬼よりも高い所にいると鬼はタッチできないのですが、その場にいることができるのは10秒だけで、10秒内に降りて走って逃げるか、別の段差に移動して鬼から逃げるという、どこにでもある鬼ごっこです。小学校1年生の時に、その「高鬼」をやっていて、鬼から逃げ回ってる時に丁度いい高さのブロック塀があり、それに飛び乗って一息ついた瞬間「コラーーー!」と怒鳴り声。振り返ると、こじんまりとしたボロボロの家から、下はスカートのようなものに上は肌着だけで、ガリガリのお婆さんが出てきて「人ん家の花壇で、何してるか!」と、怒鳴りながら近づいてきます。その姿が、絵本などで見る「鬼婆」に見えて、怖くなって周りを見たら友達も逃げて誰もいません。自分も走って逃げました。必死に走りますが、すぐ後ろにいるような気がして、家の中にとびこ...つづき
1956年生まれ

鮮烈!怒涛の路地遊び

ともぞうさん兵庫県 1956年生まれ 男性60代男性です。小学校時代を関西地方の工場街で過ごしました。ゲーム機など存在しないのは無論のこと、そもそも裕福な家の子以外ろくに物を持っていない時代でしたので、放課後は身一つでできる遊びが中心でした。中でも人気があったのが「路地遊び」です。1960年代以降に生まれた人たちにはイメージしにくいかもしれませんが、そのころの住宅地には木造モルタルの小さな家が密集して建っている所が多く、家と家の間には人ひとりようやく通れる狭い路地が随所に見られたものでした。地図の上では道がないように見えるのに、実際には路地を次々に抜けていくことによって反対側に移動することができたりしたのです。「路地遊び」とはあらかじめスタートとゴール地点を決めておき、こうした路地を使って競争する一種のストリートレースのようなものです。当然広い道を通った方が早いのですが、これをやって見つかると反則負けとなり、「ズル」をしたと言われ続けます。体力勝負というより日頃のリサーチ能力が物を言うため、自分だけが知る隠れ路地を発見するため放課後を使って日々研究にいそしんでいました。今から思えば住人...つづき
1993年生まれ

下校中のいたずらの思い出

たくとさん静岡県 1993年生まれ 男性登下校に40分ほどかかる場所に住んでいました。ほとんど田んぼ道で途中に遊具がある神社を通ります。自然が多くて生き物や植物に数々触れながら登下校していました。夏はザリガニがたくさんいるドブや田んぼを見つけては、神社の手水舎に入れて置いたり、持って帰って飼ったりしていました。大雨や台風の後には川からたくさん水が流れてくるせいか、大きなフナやカメがいてテンションが上がったことを覚えています。冬には凍った田んぼを走り回ったり、神社のイチョウの木に生っている銀杏の実に石を投げて落として持って帰ったりしていました。近所のおじいさんと一緒に拾って帰ったものの、処理の仕方がわからないと母に困られました。春や秋には道端に生えている花の蜜や野イチゴらしきものをなんとなくの知識で口にしていました。おいしかった実は毎日下校の時食べて、まずかった実は人の家の庭に生えているバラの棘に刺していました。家主の人に見つかったときは怒られずにあきれられている様子でした。子供ならではの怖いもの知らずの自然にあふれた思い出です。
1983年生まれ

下校中に遊んだ思い出

今日は明日さん広島県 1983年生まれ 女性下校は学校から放たれた開放感たっぷりの時間。一人の時は寄り道はしませんでしたが、友達と帰るときはおたまじゃくしやホネホネロックを探したり、ザリガニ釣りをしたり、蓮華の蜜を吸ってみたり、シロツメクサで花冠を作ったりといろんな思い出があります。子犬が産まれた家があれば見ず知らずの家であっても“ピンポーン“とチャイムを押し、「子犬と遊ばせてくださーいっ!」と飼い主にお願いしていました。ランドセルを放って夢中で遊んでいると、あっという間に日が傾き始めます。そろそろ帰ろうと言って子犬とお別れの挨拶をし、ようやく帰宅するのです。そして一人の時の土曜の下校中は、密かに“この家のお昼ごはんはなんだろなゲーム”をしていました。土曜は3時間目までしかないのでお昼で授業が終わります。帰りに歩いていると、人の家から焼きそばの香ばしい香りがしてきます。「ここは焼きそばか、ソースはオタフクだな。」さらに進んでいくと今度はカレーライスのスパイシーな香りがたまりません。「今作った匂いじゃないな、昨日の残りかな?」このように人の家のお昼メニューを心の中で言いながら帰宅していま...つづき
1983年生まれ

オリジナル指相撲

すのーぼーるさん広島県 1983年生まれ 女性私は小学生低学年のころからなぜか指相撲が強く、男の子相手でも勝っていました。手が小さいのになぜ勝てるのか自分でも分かりませんが、気合と親指を俊敏に動かせるところが勝因なのかもしれません。そうして指相撲試合を重ねるうちに、オリジナルルールが採用されました。“ピンチになったら人差し指使ってもいい“というルールです。このルールができたことで私は急にボロ負けしました。指の長さが違うため人差し指が相手の親指に届かないのです。悔しい気持ちを胸にしまい、これではいけないと新たなルールを私も発案。それは“3秒勝ち“というもので、今までは10秒間親指を捕まえたら勝ちでしたが、それを3秒に短縮。そうです、自分に有利なように設定したルールです。これは即座に「10秒親指つかめないからだろ!」と一瞬で却下されました。仕方ないので実力で勝つために指の筋肉を強くしようと、親指と人差し指に重りをつけて上下を動かすという地味な運動を頑張りました。結果、やりすぎて痛みが走り、しばらく対戦はお預けになったという切ない思い出です。
1962年生まれ

友達との相撲遊びの思い出

マックイーンさん静岡県 1962年生まれ 男性小学校に入学当時、おじいさんっ子だった私は、よく祖父が相撲を見ていた影響もあり、相撲中継を好んでよく見ていました。四股名が難しい漢字でも、「大麒麟」とかを書けたりして、自然と相撲で出てくる漢字は覚えていて勉強になりました。その後は見ているだけでは物足りなくなり、自分でも相撲を取りたいと思っていたのですが、近所には同じように相撲が好きな子供はおらず、実現できませんでした。そんなとき、2年生でクラス替えがあり、同じように相撲好きな子がいて、話が合うのですぐ友達になり、お互いの家でよく相撲を取って遊ぶようになりました。それから時が経って4年生になった頃に体育の授業。砂場で相撲のトーナメントをすることになりました。その友達とも同じクラスで、お互いサクサクと勝ち上がり、決勝で戦うことになりました。正直遊んでいるときは私より友達のほうが優勢で、私は自信がありませんでした。しかしその時は、自分の体勢が有利な形になって勝つことができました。私は嬉しかったのですが、友達は悔しがっていました。力士になりたいと思っていた頃もあって、その頃の思い出は強く印象に残っ...つづき
1975年生まれ

相撲大会で好きな男の子を応援できなかった思い出

サユリさん北海道 1975年生まれ 女性小学校の時に、好きな男の子がいました。ガキ大将で、いつも偉そうだったけど優しかったです。私は、本当は仲良くしたかったけど皆の手前そうはできませんでした。そんな時に、町内の相撲大会にその男の子が出る事が決まったのです。女の子のなかには、横断幕を用意する子がいたり、お菓子や飲み物を差し入れする子もいました。でも、私はその勇気さえなかったのです。友達の1人が、ガキ大将の事が好きだと言ったんです。だから、皆で応援して欲しいって。私は、自分も彼女と同じようにガキ大将が好きだとは言えずにいました。結局、彼女の恋を応援する事になりました。相撲当日。私は、心の中で一生懸命応援しました。ガキ大将が勝つ度に嬉しくて、でも切なかったです。だって、ガキ大将は1度も私の事を見てくれませんでした。結果。ガキ大将は優勝はできませんでしたが、仲間内のヒーローとなりました。そして、友達はガキ大将への告白を成功。私は、告白もできないまま失恋してしまいました。
1986年生まれ

塾にあったマットでの相撲遊びやプロレス遊び

前頭三枚目さん神奈川県 1986年生まれ 男性私が小学校高学年から中学校卒業までにかけて通っていた学習塾での思い出です。その塾は今でこそ中堅有名進学塾の一角を担うような大きな進学塾ですが、当時はまだ新興の学習塾だったと思います。塾での活動は受験向けの授業を受けるというもので、他の塾と大差ないものだったとは思いますが、その塾には相撲ができるようなマットが置いてありました。授業と授業の合間に講師と生徒が相撲やプロレスができるものでした。私や私の塾友達は休み時間になるとその上で講師と取っ組み合いのじゃれあいをして楽しんでいました。ある日の休み時間も一人の講師と複数人の生徒がじゃれあいをしていましたが、この頃合いの子供というのは手加減というのを知りませんし、エネルギーに満ち溢れています。じゃれあってるうちに、相手になっていた講師のシャツがビリビリに破けてしまいました。講師は怒ったりせずに、ただただ息を切らして呆然としながら次の授業のチャイムと同時に教室に入ってきてボロボロのシャツのまま授業を開始したのを覚えています。そのときはその様がおかしくて笑うのを我慢していましたが、今になって思うととんで...つづき
1995年生まれ

「自由時間での一コマ」天井に挟まったボールを落とすゲーム

ばぼちゃん山口県 1995年生まれ 女性私が小学生のころミニバレー部に所属していました。放課後、学校の体育館で練習はとても楽しかったです。私の小学校の体育館の天井は鉄の梁(はり)がむき出しになっており、練習中にバレーボールが高く上がってしまい、その梁に挟まってしまうこともありました。練習中は、すぐに新しいボールを出して気にしないよう努めますが、そこは小学生、休憩に入るとそのボールを救出しようと、他のボールを高く上げて、挟まっているボールにぶつけるゲームを始めます。私はこれが楽しくて仕方ありませんでした。なんといっても、自分がぶつけたボールで、挟まっているボールを救出できるからです。誰がそのボールを救出できるか順番に挑戦します。そして、救出できたら、そのゲームに参加していたメンバ―だけでなく、ミニバレー部の監督コーチ含め笑い合います。稀に、バトミントンのシャトルやテニスボール。そしてなぜか体育館シューズが挟まっていることもありました。そして、これらのレアキャラを見つけるのも、楽しみの一つでした。暇な時にボールを当ててそれらを救出することが一時期私たちミニバレー部の中で流行っていたこともあ...つづき
1996年生まれ

「天井のボールは思い出の象徴」サバイバルドッジをしていて

ぽたち太郎さん青森県 1996年生まれ 男性当時の私の通っていた小学校ではサバイバルドッヂというものが流行っていました。その名の通り敵味方の境をなくしたサバイバルのドッヂボールのことです。内野、外野という境目もありません。人数制限もありません。ただただ、体育館をすべてフル活用した何でもありのドッヂボールです。アウトになった場合は真ん中のバスケットボール用のセンターサークルの中に入り、サークルの中から外の人(まだアウトになっていない人)に当てれば復活できる。そんな感じのルールでした。ルールの中にはボールを持った人は3歩以上歩くことは禁止、ドリブルの禁止などもあったと思います。当然、アウトになっていない人が少なくなってくると、あの広い体育館で移動の制限があるわけですから、当てるチャンスが減ってきます。そんなときのリセットの合図がボールを天井に高く蹴り上げる行為でした。リセットされると、アウトで真ん中にいた人たちも無条件で全員復活になります。これをすることでアウトになった人たちからは、一瞬の羨望のまなざしを得られます。もうお気づきかと思います。良かれと思いボールを高く蹴り上げた後…。ものの見...つづき
1994年生まれ

「体育の時間の思い出」私はボールがハマる瞬間を目撃しました

片葉の葦新潟県 1994年生まれ 女性私の通っていた小学校の体育館にもいくつかボールが挟まっていましたが、そのうち2つは挟まるところを目撃しました。それは体育の時間に起きました。その日はバレーボールを行っていて、二人一組でパスの練習をしていました。バレーボールのパスは素人には難しく、特にアンダーハンドパス(いわゆるレシーブ)はオーバーハンドのように指でのコントロールができないため、ボールの制御が難しいのです。結構な頻度であちこちからホームランのようにボールを飛ばしてしまうチームがある中で、1つのチームがとうとう天井まで飛ばしてしまい、天井の梁(はり)の隙間に嵌って(はまって)しまいました。私の近くのチームだったので一緒になって「どうしよう、どうしよう」と焦っていると、先生が来て「他のボールを当てて(天井に挟まったボールを)押し出してみる」と力強く言ってくれました。そして先生が投げたボールは少々それて、別の場所に嵌ってしまいました。私は「先生でも駄目なんだ」と少し安心しました。先生は笑って誤魔化していました。
1975年生まれ

「卒業式でわかった真相」体育館の天井のバスケットボール

ひかりさん北海道 1975年生まれ 女性私が小学校5年生になった時に、体育館の天井にバスケットボールが挟まってると、ちょっとした騒ぎになりました。先生から、心当たりがある人はいないかと聞かれましたが誰も手を上げませんでした。でも、噂だけは広がったんです。当時、プロバスケ選手を目指していた男の子がいたのでその子ではないかと囁かれました。でも、その子も違うと言っていました。そして、いつしか噂はオカルトめいていきました。夜中におばけが置きに行ったんだとか、透明人間がやったんだとか。今思えばなんとも笑ってしまう話しなのですが、当時は真剣に話していました。結局、誰がやったかもわからずに卒業式を迎えました。すると、クラスでも一番おとなしい男の子がある告白をしたんです。実は、その子こそがバスケットボールを天井に挟めた張本人だったのです。なんでも、バスケの練習をしていたら何故か天井まで届いてしまい挟まったそうです。その日は夏休みで先生はいなかったため、そのままにしておいただけだったのです。「皆が、あんまり騒ぐから言えなかったんだよっ」と言って、その子は泣いていました。きっと、彼なりに悩んでいたのだろう...つづき
1978年生まれ

取れないボールの謎

リアムさん東京都 1978年生まれ 男性小学生時代は給食後の昼休みになると、校庭で遊ぶことが多かったのですが、たまにドッチボールなどの遊びをする時は体育館に行きました。体育館の天井を見上げる機会はほとんどありませんが、実際に天井を見てみると細かい線状に柱が交差しています。ある時、バスケットボールで遊んでいると、サッカークラブに所属していたクラスメイトが、たまたま目の前に来たボールをふざけて、下から蹴り上げてしまいました。蹴られたボールは一直線に天井に向かって高々と飛んで行きました。天井にある柱の合間にスッポリとハマりました。完全固定されたので落ちてきません。みんなポカーンとします。そして次には、どうボールを取るかに意識が変わり、全員で話し合いました。そこから出た結論は、体育館を揺らしてその振動でボールを落とすという子供の発想でした。みんな真剣です。ドンドンと走り回ったり、何度もジャンプしてみたり、色々と試しましたが、結局はボールは落ちてこず、後日、先生に取り除いてもらいました。甘酸っぱい小学生時代の思い出です。
1956年生まれ

「何でこんな物が!」体育館の天井から落ちて来た物

yuumi0108さん福井県 1956年生まれ 男性卒業シーズンになると、業者によって天井に引っかかってたボール類が取り除かれます。小学生の頃は卒業シーズンという認識はありませんでしたが、自分が学校の教員になって意味がわかりました。天井を見上げると、ドッジボールが引っかかっています。最初は真面目な気持ちで、そのボールを落とそうと思って新たなボールを投げつけます。ところがそう簡単に届くものではありません。投げて駄目なら蹴ろうとなります。何度も何度も続けていると、そのうちにボールの近くに当たります。すると歓声が上がり、さらに意欲が湧きます。ところが偶然にも蹴ったボールが引っかかってしまったことがあります。結果は更に悪くなってしまいました。とは言っても先生には告白できません。ゲンコが振り下ろされることは明白だからです。そして卒業シーズンが到来しました。放課後、業者が引っかかっているボールを除去し出しました。ボールが落ちてくる度に何故か歓声が上がります。そして、何と、何と僕たちが履いているズックが落ちてきました。何でこんな物がと思って腹を抱えて笑いこけました。
1983年生まれ

古典的なやり方でボールを取る先生たち

ブックさん広島県 1983年生まれ 女性どこの学校の天井にも挟まったボールは存在するのではないでしょうか。わたしの小学校はバレーボールが盛んで、とても強い学校でした。バレーボールが体育館の天井に挟まっているのは日常茶飯事でした。でも体育の授業で見たボールは次の体育の時にはなくなっています。内心あんな高いところに挟まっているボールを誰がどうやって取っているのか不思議でした。しかし、夏休みに入る前日、体育館のドアが開けられ先生たちが掃除をしていました。その時に先生方が一生懸命天井のバレーボールを箒の柄(ほおきのえ)でつついて落としていたのです。思っているより古典的なやり方でちょっと衝撃でした。そして体育館の真ん中らへんに挟まっているバレーボールは箒の柄では届かないのでテニスボールを投げつけて取っていました。こちらもボールを落とすためにボールを使うというなかなかのやり方。それにしても私たちが知らない間に先生たちはこうしていろんな細かいところまでしてくれているんだなと思い、感謝でした。
1994年生まれ

「謎のボールの思い出」謎が謎のまま解けない話

瑠璃さん北海道 1994年生まれ 女性自分が小学校に入学したときにはもう既に、その小学校の体育館の天井には、謎のボールが存在しました。自分の記憶では、それはサッカーボールやバスケットボールではなかったので、おそらくソフトバレーボールだったと思います。自分は入学してからというもの、体育館に来るたびにそのボールを見上げて、「なんであんなところにボールがあるのだろう?」「一体誰があんなところにボールを引っかけたのだろう?」と考えるばかりでした。全校集会や行事の時も、あの謎のボールが気になって気になって仕方がなく、多くの人が無駄に長くて嫌いであっただろう校長先生のお話なんかは謎のボールに思考を支配されていた自分には全く頭に入って来ませんでした。それから年を重ねて高学年になっても、あのボールの謎は解けず、結局卒業式のときもそのボールは天井にあるまま。「なんであんなところにボールがあるのだろう?」「一体誰があんなところにボールを引っかけたのだろう?」という謎は解けずじまいに終わりました。
1977年生まれ

「一番のお気に入り」グローブジャングルの思い出

はぁむさん埼玉県 1977年生まれ 女性私が公園で遊ぶ時に、決まって一番に走り寄るのはグローブジャングルでした。ブランコも滑り台も大好き、鉄棒でもたくさん遊ぶけど、一度回せばその後しばらく回っていてくれて、しかも大人数で遊べるこの遊具は特別大好きな存在でした。どこにでもあるわけではなく、たまたま友達の家のそばで見つけたそのグローブジャングルは、赤、青、黄色の3色に塗られてとても大きく、子どもの目にはまるでキラキラ輝く地球儀のようでした。友達数人と遊ぶのにちょうど良く、外周りを走りながらジャングルを回す子と、中でキャーキャー騒ぐ子とが順番に入れ替わっては楽しみ、何回やっても飽きません。ようやく疲れてくると、持ち寄ったお菓子を持って全員中に入り込み、おやつタイムになります。その後はまたゆっくり回したり速く回したり、サーカス団のようなポーズを決めながら面白おかしく回って笑い合ったりが延々に続き、いよいよ落ち着いてくるとジャングルの上に登ってお話をしたりして、大切な秘密基地のような思い出の場所です。
1967年生まれ

「ハラハラ、ワクワク、ドキドキ」グローブジャングルの思い出

昭和世代のやんちゃ坊主大阪府 1967年生まれ 男性グローブジャングルは危ないからと今では設置されている公園は少ないかも知れませんが、昭和時代は子供がよく遊んでいました。男とは言え、最初は怖いもので、下で、回しながら、足を浮かせたり、グローブジャングルに足を乗っけたりしていました。中は中で、よじ登って、回されるのも面白いものです。女の子も一緒に遊んでいました。回転に慣れてくると、どうしても、高い所で回されるスリルを味わいたくて、徐々に高い位置に挑戦していました。円状の上側で、外側に登っている時に、男の子が数名で、地面側で回されると、回転力が強くなり、しっかりとつかんでいないと振り落とされる感じで、怖い思いもしました。まあ、中には、悪ガキ数名がいたずらで、強く、グローブジャングルをまわしていた事もありました。今、50代になった自分から考えると、子供用の無料で近所の公園で遊べるジェットコースターの始まりというイメージです。雨が降った後、機具がまだ濡れていると、回転と遠心力で手が滑りやすかった事もありました。運が良かったのか、タイミングの問題なのかは分かりませんが、グローブジャングルで自分が...つづき
1993年生まれ

危ないとわかっていても楽しかった回旋塔の思い出

たくとさん静岡県 1993年生まれ 男性グローブジャングルのことを、私の小学校では「回旋塔」と呼んでいて、私が卒業して少し経った頃に撤去されました。低学年の頃は高学年の子供たちに混ざると、体格の違いで回転の速さについていけなく。落ちたり、回っている子供の足にぶつかったりして怖いと思っていました。高学年になると逆に低学年の子供が気になって、加減して遊んでいたのを覚えています。しかし同学年の男子と遊ぶときは加減なしで思いっきり回して、派手に転んで怪我をしていました。今思えば危ないですが、当時は怪我なんて気にならなく、ズボンが破れようが多少血が出ようが楽しくて遊んでいました。回っている最中に足を外に投げ出して座って地面にかかとを擦り付けて円を描いて遊んでいました。汚れるし、服や靴はボロボロにするしで親にはかなり迷惑や心配をかける遊びだったと思います。無茶があったおかげで運動神経は良い方です。多少の怪我では弱音を吐かないようになったと思います。最近は見かけることが少ないですが私は好きな遊具でした。
2000年生まれ

初恋の思い出

タマゴさん沖縄県 2000年生まれ 男性私の住んでいた田舎には、小さな公園がありました。その公園には滑り台と雲梯、そしてぐるぐるジャングルジム(グローブジャングル)がありました。田舎と言うこともあり、同級生の友達はそこまで多くなかったです。毎日遊ぶのは決まって、近所のみわちゃん、もえかちゃんと言う女の子でした。幼稚園生の頃からずっと幼なじみで、小学生に上がっても3人で遊ぶことが多かったです。毎日、学校が終わっては3人でランドセルを背負いながら、誰が公園へ早く着くかかけっこ勝負をしていました。私たちは雲梯で遊ぶのが大好きで、着いてからすぐに、両端から雲梯にぶら下がり、「ドンジャンケン」を楽しんでいました。私は、みわちゃんの事が好きでずっとみわちゃんのチームに入っていました。その後、決まってみわちゃんは雲梯で遊び疲れ、ぐるぐるジャングルジムに入って休んでいました。僕は外で全速力走り回り、ぐるぐるジャングルジムを回して、みわちゃんにちょっとした意地悪を楽しんでいました。走り回って心拍数が上がったのか、みわちゃんに対する思いでドキドキしているのかその当時は有耶無耶にしていました。結局、私が校区...つづき
1990年生まれ

回転ジャングルジムで遊んだ思い出

minさん島根県 1990年生まれ 女性回転ジャングルジムはよく小学生の頃に公園で遊んだ思い出があります。公園に着くと最初に滑り台、ブランコで遊び次に回転ジャングルジムで遊んでいました。回転ジャングルジムはずっと遊べる遊具のひとつでした。最初に友達とじゃんけんをしてから誰が回すのかを決めて、「もう少し早くして!」と笑いあいながら遊んでいたことを思い出します。乗っている方と回す方の遊び方があり、乗っている側はとにかく楽しく笑いが止まりません。回す方は体力勝負であり、乗っている友達が楽しんでくれるように一生懸命走って回します。途中自分の中で最高速度を回して自分も一緒に回転ジャングルジムに乗り込む時が、回す方の疲れを癒してくれるのです。一生懸命走って回したので乗った時には汗をたくさんかいており、回っている時の風に当たっている時がとても気持ちが良かったと思い出があります。
1966年生まれ

グローブジャングルの怖かった思い出

キンモクセイさん埼玉県 1966年生まれ 女性私が通っていたの小学校の校庭の固定施設にグローブジャングルがありました。あの頃私たちはジャングルジムとの区別もあって、そのかたちから『地球儀』と呼んでいました。遊び方は真ん中の芯棒の部分につかまって乗っている子、外側につかまって上の方に乗る子、同じ外側でも回すために足を地につけている子などそれぞれ好きな位置に乗っていました。回す子は走って地球儀を回し、好きなタイミングで地面を蹴って遠心力で体を浮かせます。そしてまた体が降りてきたタイミングで走って回し、体を浮かせて遊ぶのです。地球儀を回す子はたいてい男の子たちで、特に運動神経が良く足の速い子たちがその役を買って出て、時にはものすごい速度で回すのです。学校の休み時間などは先生方も校庭に出ているので、先生方の目を気にしてか、静かに優しく回して遊びます。それでも時には思わぬ速度になってしまい、先生に怒られながら足を使って速度を落としたりしていることもありました。ある放課後の出来事です。私は友達に誘われて、地球儀で遊ぶことになりました。それでも友達の誘いを断る勇気もなく、あまり考えもせず友達と同様に...つづき
1978年生まれ

「学童の先生との石蹴りの思い出」ごんべえさん

ことねさん大阪府 1978年生まれ 女性私は小学生の頃「学童っこ」でした。その為、学校の子達が知らない学童だけでやっている遊びがいくつもありました。学童の先生は20代後半の女性でした。1960年代くらいの生まれだったと思いますが、その先生はおじいちゃんに育てられた人で、かなり古い遊びをたくさん知っていました。石蹴りもその一つです。道に『ごんべさん』を書いて、マスの中に石を蹴って入れます。上手く入ったら、石を入れたマスだけ飛び越えて、あとのマスをけんけんぱして行って戻ってこれたら成功という遊びでした。手前のマスから順番に石を入れて一番遠いマスまで到達できた人が勝ちでした。この遊びは2〜3人で、学童の前の狭い道路でやっていました。公園で大人数でやる石蹴りもありました。大きな四角を書いて、それを2列4行の8マスに区切ります。それぞれのマスの中にも線が引かれて、マスごとに『ここは右と左の両方に足を置いた状態で蹴る』といったルール。2チームに分かれて、各チームごとに石蹴りをし、誰か一人でもゴールできたチームが勝ちという遊びでした。今思うと石とチョークだけであんなにみんなで夢中に遊べてたなんて凄い...つづき
1982年生まれ

白熱する石蹴りの思い出

ねえちゃん大阪府 1982年生まれ 女性石蹴りは登校時は何故かせず、下校時にしていました。特別なルールはありませんが、必ず一つの石を交互に蹴るのが暗黙のルールだった気がします。下校時にたまたま見つけた程よい大きさの石を蹴りながら歩きます。あまり大人数ですることはなく、一緒に帰る友達が2〜3人でひたすら蹴るのです。何となく相手にパスしながら通学路を進みます。危ない話ですが、強めに蹴ったりすることもあります。特に早く帰りたい時などはロングパスをしたいため、勢いよく石を蹴ります。すると、知らない人のお家に入ったり、停まっている車の下に入ったりする訳です。何故か手を使って取るのはアウトなので、意地でも足で取ります。必死に足を伸ばしてプルプルさせながら足で石を取り、また石蹴りの再開です。通学路でしますので、どうやっても最後は一人になります。最後が自分だった場合は、勝手に自宅付近でゴールを決めるのですが、上手い具合にその場所へ石が入らないと家に入れないという自分ルールがあり、白熱してなかなか家に帰れないこともありました。
1975年生まれ

「転校先の子どもたちと仲良くなれた遊び」石蹴りの思い出

アカリさん北海道 1975年生まれ 女性両親の都合で、小学生の時に転校しました。知らない子ばかりで、私にとっては恐怖でしかありませんでした。仲良くしたかったけれど、声をかける勇気もなく、いつも教室の隅っこにいました。一人っ子で、自分から発言するのが苦手だった私はいつも一人でした。学校でも、家でも孤独な時間が増えました。そんな時にクラスの女の子から石けりに誘われました。でも、私には石けりが何なのかさえ分からなかったんです。「このチャンスを逃したら友達ができないかも」と思った私はその子に連れられるままグラウンドに行きました。そこでは、数人の子供達が地面に何やら書いて「ケンケンパ」をしてるんです。「こうやるんだよ」その子が、地面に書かれた1という数字の所に石を投げ入れて、後はケンケンパをしながら番号順に石を蹴っていくというものでした。私は、見よう見まねで初めて石けりをしました。気がつくと、他の子供達も集まってきて自然と仲良しになれました。石けりのおかげで、クラスに溶け込む事ができました。
1979年生まれ

石蹴りゴルフ

たかさん大分県 1979年生まれ 男性小学校低学年から3年生くらいまでにかけて、我々のグループでは石蹴りゴルフが流行っていました。同じ学区の通学路としては比較的長い約1kmを楽しむために考えたもので、学校を出るときに平べったい小石を各自選び、ゴルフのように蹴って道を進んでいくというものでした。ゴルフのように第何打とカウントしていき、もし水路や川などに石が落ちてしまった場合は、1打加えて新しい石を見つけていました。最終的に一番近い人の家が近づいたら適当なマンホールを決め、そのマンホールの真ん中に石を止めて終了します。順位はつきますが特に何かあるわけではなく、翌日になるとまた同じ調子で遊んでいました。毎日同じだと飽きるので、変化をつけるためにたまにルートを変えるなど、子供ながらに工夫をしていた記憶があります。それなりに盛り上がって楽しかったのですが、数は少ないものの車も通る道を使っていたので、現在では少し問題のある遊び方だったと思っています。
1974年生まれ

「学校帰りに石蹴りをしてたら」石蹴り遊び2種類

マルコさん福岡県 1974年生まれ 男性僕たちの世代は子供のころ、学校帰りに友達と石蹴りをして遊んでました。石蹴りといってもいろいろ遊び方はあると思いますが、一つは「帰り道に家まで石を蹴って帰る」遊びです。ルールは単純で、途中で石をドブに落としたり、田んぼに落としたりせず、家まで無事にたどり着くこと。簡単なようで家までたどり着くまで何度も落とします。そのたびに新しい石でやりなおし。特に厳しいルールはないのですが、とにかく家まで石を蹴って帰っていました。途中で友達は帰る方向が違うので1人になりますが、それでも一応はズルをせずにちゃんと石を蹴って帰りました。ただこれにはひとつ問題があって、家に帰るまでかなり時間がかかります。ある日のこと、友達と喋りながら、夢中になって石蹴りをして帰っていました。かなり時間がたってしまい、夕方の5時を過ぎていました。気づいたのは家に帰ってランドセルを置いてからです。そう今日は夕方から塾に行く日だった。もう間に合わないと焦りながら、一生懸命に走って塾に行ったのを覚えています。【おまけ】もう一つの石蹴りの遊びとして、公園で友達が集まったらジュースの空き缶を置いて...つづき