女性が小学生の頃にした遊びの思い出

1991年生まれ

「ジャングルジム鬼ごっこ」の思い出

葛さん 岩手県 1991年生まれ 女性 ローカルルール、というほどでもないのですが、ジャングルジムと鬼ごっこを組み合わせた「ジャングルジム鬼ごっこ」でよく遊んでいました。 ネーミングはそのまんまなのですが。ルールは簡単で、鬼を決めてジャングルジムを登り回り、タッチされたら鬼を交代するというものです。 ちなみに地面に足がついてしまったら強制的に鬼になります。 今思うと何故地面でできるものをわざわざジャングルジムでやらにゃならんのだ、という感じです。 ただ当時は、ジャングルジムという非常にハンデのある状況で鬼ごっこをすること、自分のフィジカルが存分に試される状況にあるスリルを楽しんでいたのだと思います。 とはいえ、足があまり早くはなかった私にとって、狭い範囲での鬼ごっこは他の友人と同等に、つまり同じリングに立って対等に戦えることは楽しかったように感じます。 残念ながら、白熱しすぎた友人の一人が落下して前歯を折り、それからジャングルジム鬼ごっこはお蔵入りになりました。
1982年生まれ

ジャングルジムの痛い思い出

ココちゃん 京都府 1982年生まれ 女性 小学生の頃に家から徒歩1分の所に公園があって、そこにジャングルジムがありました。 学校から戻ったらすぐにランドセルを家に置いて、その公園に遊びに行って、夕方日が暮れた頃に母が「ご飯ですよ〜!」と呼びにきたら家に帰るという生活でした。 近所の子供達と公園で集合しては鬼ごっこやケイドラなどをしつつ、ジャングルジムに逃げたりして遊んでいました。 多少の雨ならへっちゃら。お構いなしでジャングルジムを登ったり降りたりしていました。余りに慌てて逃げていたので頭の上にあった棒を潜りそびれてしまい、「ゴーン!」すごい勢いで棒に当たって目がチカチカ。 そのままジャングルジムジムの上から落ちてしまいました。 落ちた痛みより、棒に当たった痛みの方が勝っていて頭がクラクラ。おでこに大きなタンコブが出来てしまったのを覚えてます。 その後は、特にジャングルジムの上の方に登っている時には、棒にぶつからない方に慎重に遊ぶようになりました。
1992年生まれ

父による手作りの砂場で過ごした思い出

ねこちゃん 京都府 1992年生まれ 女性 小学校低学年の頃、外遊びが好きだった3人兄弟。いつでも遊べるようにと、父が砂場を手作りしてくれました。 休日になると父が一生懸命作ってくれて、完成した日、兄弟3人で飛び跳ねて喜んだことを今でも鮮明に覚えています。 砂場が出来たその日から、学校から帰って来てはすぐにバケツやスコップを持って砂場で遊びました。 時には砂遊びに夢中になり、日が暮れても遊んでいる私たちの姿を、近所のおばちゃんたちが、「仲良しやなあ」とほほ笑んで話しかけてくれました。 逆に母は「あんたらいつまで砂場にいるん~ご飯できたから片付けて入ってきな~」としびれをきらしていました。 そんなある日、砂場にウンチを発見。 大切にしていた砂場に誰が!!と兄弟3人で犯人探しが始まりました。 朝学校に行く前、学校から帰ってから、ご飯を食べる前、食べた後、お風呂に入る前、入った後、寝る前。 犯人捜しの日々に明け暮れました。 いつものように3人で遊んでいると、砂場に1匹の猫がやってきました。 以前、猫を飼っていたこともあり、猫はすぐに私たちになついてくれました。人懐っこいタイプのようです。猫も...つづき
1986年生まれ

ジャングルジムに登ろうとチャレンジ

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 私は身体障害があったので、ジャングルジムに登るという行為はとてもハードルが高くて、リスクもある行為でした。 幼稚園の頃はカラフルなジャングルジム。小学生になると普通の可愛くないシルバーのジャングルジムがありました。 そして幼稚園の物と違うのは明らかに高さがあるということです。 それでも子供なりに、他の子と同じように近づきたいという気持ちが強く。少しだけですがの登ったりしました。 もちろん怖くて上の方まで行くことはできないのですが、自分なりに少しでも登ったときは達成感があったような気がします。 私の体のことを知っている子たちは、無理しなくて大丈夫だよとか気遣ってくれたことが嬉しかったです。 もちろん無理をすることはありませんでした。登ったけれど降りられなくなってしまったら大変ですからね。 でも一度でいいから一番上まで登ってみたかったです。
1986年生まれ

ジャングルジムでの痛みと楽しさ

べこさん 宮城県 1986年生まれ 女性 ジャングルジムで思い出すのは、思い切り頭をぶつけて悶絶した記憶です。 学校の休み時間に友人たちとジャングルジムで遊んでいました。もうすぐ休み時間が終わると、皆が次々と離脱していくのに、私も慌てて続こうとしたときです。 運動神経が悪く素早く動けない私は、焦って身を乗り出し、丁度頭上にあったジャングルジムの枠に頭を激突! ぐわんと頭に衝撃があって、しばらく悶絶していました。友人たちはすでに誰もいなく、ひとり痛みと闘う私…。 痛さと寂しさが染みましたが、今思うとくすっと笑えてしまうエピソードです。 そんな痛い思いをしても、懲りずにジャングルジムで遊ぶのが大好きでした。 縦にも横にも動ける迷路に迷い込んだような楽しさがあって、そして何より、頂上からの眺めは最高です。 友人たちと駄菓子を持ち寄って、ジャングルジムの枠に駄菓子が入った袋をくくりつけて、少しずつ取り出しては、おやつタイムを楽しんだこともあります。 この歳になっても、あの時のわくわくした気持ちをまた味わってみたいな、なんてしんみり思うのでした。
1977年生まれ

「小学5年生の思い出」ジャングルジムの上で友達と見た夕焼け

勇気なしこさん 兵庫県 1977年生まれ 女性 昼休みにみんなで集まると、鬼がボールを持ち、ジャングルジムの下からの上にいる人を狙う遊びをしていました。鬼はジャングルジムの上には上がれません。 ボールが当たらないように避けるスリルがあって楽しかったです。 私が小学5年生頃、仲良しのなみちゃんという子がいました。休み時間もなみちゃんと一緒です。 彼女は運動神がよく、特に走るのが速かったです。私も足が速く一緒にリレーの代表に選ばれていました。 私たちは放課後によく小学校の運動場に集合して好きなお菓子を食べたり、大きくなったら何になりたいか話していました。 ベンチのない校庭で、椅子代わりに腰をかけていたのがジャングルジムです。1番上に座り何を話しても楽しかった記憶があります。 それからしばらくして、なみちゃんが引っ越すことになりました。 隣町でしたが小学生の私にはとても遠く感じました。ジャングルジムの上で「大人になっても遊ぼうね」と約束しました。 中学校は一緒になりましたが、あの頃の私には話しかける勇気はなく、中学時代は一度も話せずじまいでした。 今の私なら話せたのに、昔の私は忘れ去られてい...つづき
1984年生まれ

「4年3組だけの思い出」竹とんぼ作り名人の担任の先生

璃桜さん 東京都 1984年生まれ 女性 私が小学校4年生の時、担任の先生が竹とんぼ作りの名人でした。 ちょうど、小学四年生で図工担当の教師が指導する図工の授業が始まり、小刀を使う授業で竹とんぼを作ることになりました。 それまで、担任の先生が全校朝礼で作った特別な竹とんぼを披露していて、私達のクラスも頑張って先生に負けない竹とんぼを作るぞ!と指導を受けながら、校舎から体育館までの距離を飛ばせる竹とんぼを作りました。 小刀で竹とんぼを作り終え、暫くの間、休み時間はみんなで竹とんぼ競争をしていたある日、皆がさらに歓声を上げる出来事が起きました。 当時人気だったギャグ漫画のアニメの最後にあったミニコーナーで私達のクラスとその竹とんぼを披露することに。 以前から、担任の先生は色んなニュース番組などで、竹とんぼ名人として紹介されていましたが、まさかの大人気アニメのミニコーナーに出られるなんて先生も初めてのことだと言っていました。 放送された時間はとても短いものでしたが、私もバッチリ映っていて、今でも楽しかったね!とクラスメイトと話しています。
【1990年代】

竹とんぼ失踪事件の思い出

りすこさん 群馬県 1990年生まれ 女性 小学5年生の頃、近くに住んでいる大工さんが子どもたち向けに木製おもちゃを作ってくれていました。 「竹のおもちゃ」として、竹を削って作った竹トンボを持ってきてくれたので、年下の子を連れて遊ぶことになりました。 その前に竹とんぼを触ったのは5、6歳の頃、しかも昔のおもちゃで遊ぶ教室で、壊れかかった竹とんぼだったので、あまり上手く飛びませんでした。 大工さんの作った竹とんぼは今考えても、羽の薄さや削り方に工夫があって、作りもしっかりしていたのです。 広いゲートボール場で遊び始めましたが、小さい子が飛ばしてもかなり高く飛んだので、期待以上のおもしろさで夢中になりました。少し風のある日だったので余計によく飛んだのかもしれません。 そのうちもっと高く飛ばしたくなり、木陰にあるベンチに乗って飛ばしてみました。すると、風に煽られてベンチから離れた木の枝に引っかかってしまったのです。 登って取るにも枝の先で、縄跳びの持ち手を投げても上手く取れず、雨も降ってきてしまい。大人に言って怒られるのも怖いので、その日は仕方なく帰りました。 翌日も取れず、翌々日にボールを...つづき
1987年生まれ

「父大活躍」竹とんぼ作りの思い出

みのさん 大阪府 1987女性 小学生の低学年時、私は、小学校の理科の時間に竹とんぼを作った事があります。 子供でも作れる簡単なキットで、分厚い竹に串を刺しただけの簡単な物。あくまで、「空気抵抗を上手く活用すれば、宙に浮くことが出来る」を体験させる為の物であり、然程高性能では無かったでしょう。 それでも私は、自分の手で作った物が宙に浮かぶ経験が楽しくて、持って帰って自慢げに両親に見せました。 ところが、そこで、父の悪い癖に火が付いた。 手先が器用で、木材加工を趣味としている父は、「そんな分厚い竹では、飛べる高さも時間もたかが知れている。自分が作り直す」と言って、竹とんぼを取り上げてしまいました。 当時の私は、自分がせっかく作った物に手を加えられてしまう事が嫌で、大激怒。だが、そんな私を納得させ、黙らせるだけのスキルを父は持っていました。 自信ありげに笑う父は、私の目の前で、「ここをもうちょっと削ったら、重さが減るから、もっと飛びやすくなる。ここを、こういう形にすれば、より空気抵抗を上手く活用できる」と一つ一つレクチャ-しながら、器用に竹とんぼを削っていきました。 「父さんも子供の頃、こ...つづき
1985年生まれ

小学校の授業で作った竹とんぼ

リコさん 大阪府 1985年生まれ 女性 小学校二年生の頃に学校の生活の授業で竹とんぼを作りました。「昔の人たちはどんなおもちゃで遊んでいたのか、今とどのように違うのか」を学ぶ授業の一環です。 竹とんぼ作りは「竹とんぼキット」が用意されていたので、1から作るようなことはしませんが、微調整で削る作業をしました。 工作は不得意なので上手くいかず、削ったところもギザギザになって出来上がりました。案の定あまり上手く飛ばず、「つまらないな」と思いました。 出来上がった竹とんぼを持って、校庭でお友達と「誰が一番飛ぶか競争」をする子たちや、一人で黙々と飛ばす子、お友達とお話しながら飛ばす子、色々いました。 私は、「授業中なのに校庭に出ておもちゃで遊ぶ」ということが楽しかったです。
1982年生まれ

知らないおじさんから守ってくれた「げんこつたかちゃんの思い出」

たきあまーちさん 神奈川県 1982年生まれ 女性 私の小学校の時の思い出です。私の小学校の裏にはおじいさんがやっている駄菓子屋がありました。みんなそこで駄菓子を買って公園で遊ぶというのが毎日のルーティンでした。 そこの駄菓子屋の孫のたかし君は、まさにガキ大将でした。 たかし君は「たかちゃん」と呼ばれており、駄菓子を買う子にこれはダメだ。こっちを買え。等、店に居ては少し困ったところもあり、威張っているところを見つかると、よくおじいさんにげんこつをもらっていました。 ある日、公園でいつものように遊んでいると、知らないおじさんが話しかけてきて「学校でお母さんが困っている。一緒に来てほしい。」と言うのです。 お母さんは家に居るはずだしどうしようと私が困っていると、たかちゃんが来て、「こいつの家は近くだから俺が家に一緒に行ってくる。」と言ってくれたのです。 すると、おじさんはすぐにどこかに行ってしまいました。たかちゃんは、本当に家に行ってくれました。 家には母が居て、一緒に行っていたらと思うと怖かったなと思いました。 普段は威張っているところもあるガキ大将だけど、いざというときには頼りになるガ...つづき
1975年生まれ

いじめっ子から守ってくれたガキ大将の思い出

まみさん 北海道 1975年生まれ 女性 ガキ大将というのは、簡単に言うと近所の子達のリーダーでした。威張っていたけど決して傍若無人ではありませんでした。 私は、子供の頃は小柄でいじめっ子からよくからかわれていました。 その日は、初雪が降ったとても寒い日でお気に入りの毛糸の帽子を被っていたんです。 そうしたら、公園でいじめっ子達に見つかってしまい。追いかけられて帽子を取られて、私は半べそをかきながら歩いていました。 そのとき、ガキ大将の男の子が気がついて走ってきたんです。私が事情を話すと、その子は何も言わずに走っていきいじめっ子達から帽子を取り返してくれました。 6歳の私にとって、10歳のガキ大将はとてもお兄さんに感じたのです。それから、ガキ大将がいる時は安心して遊べました。 ガキ大将というと、いじめっ子のイメージを持っている人もいますが、そんな事はありません。弱い子にはとっても優しかったです。だから、どんな子でも一緒に遊べたのでないかと思います。
1968年生まれ

ガキ大将とカブトムシの幼虫の思い出

ポーちゃん 宮城県 1968年生まれ 女性 私の住んでいる地区には同級生は3人しかいませんでした。 気が合わなくてもだいたい3人で遊んでいました。 3人のうちの1人が、体も大きく態度も大きく常に主導権を握っている人でした。 その子はいつも弟を従わせていました。 私は何かあるとすぐに頭をパカパカたたかれていました。 遊んだあとに泣いて家に帰って頭をたたかれたと母に訴えることが何度かありました。 たまりかねて母は、相手の親に苦情を言いに行ったことがありました。 その後、何事もなかったように誘われて私はその子の家に遊びに行きました。 その日は普通に遊んでいましたが、その子は弟に「あれを見せてやったら?」と何かを持ってくるように命じました。 庭から何かを持ってきた弟は私にそれを見せました。 それは大きく成長したカブトムシの幼虫でした。 虫が苦手な私はぎゃーっと泣きながら逃げました。 弟は面白がって追いかけてきました。 それをその子は大笑いしながら見ていました。 それ以来私はその子の家には行かなくなりました。 学校でもその子は親分でした。 中学に入るとヤンキー仲間の中心にいました。 その精神は小...つづき
1975年生まれ

校内でも有名なガキ大将の思い出

なっつんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 小学生の頃、友達とよく近所の公園でドッジボールや縄跳びで遊んでいると、同じ学年で、校内では有名なガキ大将が現れ、私たちは頻繁にその場所から追いやられました。 そのガキ大将のまわりには2~4人くらい子分のような存在の子がついてきており、我が物顔で占領していた記憶です。 逆らうといじめられるため、遊んでいる子たちは必然的に隅っこでこじんまり遊んだり、移動したりしていました。 そんなガキ大将ですが、学年の遠足でも威厳を保っていて、お弁当タイムには、子分の子達のおかずとかお菓子を貰ったりしていました。ガキ大将のまわりには常に人がいる、色々な子が取り巻いていました。 おそらく、そのガキ大将と一緒に居ればいじめられる事もないという考えからだろうとは思っていました。 よく喧嘩もしていましたが、ひとりでも充分な様子で、大将になるだけあるとは感じていました。男の子同士の喧嘩でも本当に強かったです。 どの時代にもそういったリーダー的な人は存在し、大人になった今はどんな感じなんだろうと、ふと思い返す時はあります。
1984年生まれ

「友達から映画鑑賞へのお誘い」遊びに誘われたつもりが 遊びではなかった思い出

ポンさん 秋田県1984年生まれ 女性 元々いじめられていた友人たちに「映画を見に行こう」と誘われました。これでいじめられなくなる?仲良くなれる?そう思った私は一緒に行くことを選びました。 当日待ち合わせ場所へ行き、映画館へ行き、座席につこうとしたら「チケット落としたから拾え」と言われて拾いました。 言い方から、仲良くしてくれるわけじゃないんだなと、思いながらも映画のチケットを買っていたので仕方なく、その場に残ることにしました。 そして映画が始まるまで飲み物を買いに行かされたり、私がさもいないかのように会話に入れようとしてくれず。席もはじっこに座ってました。 映画が終わり、やっと帰れると思い。少しほっとしていると「ちょっとお店見て回ろうよ」と友人たちが言い。お店を歩いていました。 すると「これ見てよ」と友人たちに言われたので、それを見ていると「ばーか」といって友人たちは走って私たちから離れていきました。 やっぱりこの人達とはなかよくなれないんだなと思い。悲しくなり、そのまま帰路につきました。
1994年生まれ

「手汗の思い出」バイキン扱いをして 触れられることを避けるいじめ遊び

紗々さん 新潟県 1994年生まれ 女性 あれは小学校3年生の頃です。私は元々汗かきの方で、特によく手に汗をかいていました。テストの答案用紙が手汗でふやけて書けなくなるほどです。 ハンカチで定期的に手汗を拭うのですが、拭いても拭いても、止めどなくかいてしまうのであまり意味がありませんでした。 それに気づいた同級生が、私の手汗のことを「〇〇(私の名前)エキス」とし、私や私に触れた物、場所に触れた人は体が腐るというルールを作りました。 例えば掃除の時間などで私が使用した雑巾に触れた人は「〇〇エキスに感染して体が腐った」とされてしまうのです。 私や私に触れた物、場所が避けられるのはもちろんのこと、誤ってそれらに触れてしまった人は「〇〇エキスに感染したぞ!」「うわ、体が腐ってる!」と1、2週間ほど囃し立てられたり避けられたりしていました。 私から見ればいじめですが、他の同級生からすると「新しい遊び」という感覚らしく、喜喜として行っているように見えました。
1968年生まれ

「ある日突然」みんなで1人を無視をする遊び

ローラさん 宮城県 1968年生まれ 女性 小学校6年の頃、いつも5人くらいの仲良しグループで遊んでいました。そのグループは、クラス内で優等生で教師からいつも可愛がられている女子を目の敵にしていたグループでした。教師からは嫌われていました。 でも、皆そこそこの成績をとっていたので教師もかなり扱いにくかったと思います。そのグループ内で、おそらく私が一番成績が良かったと思いますが、リーダーではなく、参謀的な存在でした。 ある日の朝、登校すると教室内の空気がよそよそしくいつもと違う感覚がありました。友達に話しかけても視線を合わせてくれません。いつものグループで私に声をかける人はいませんでした。 その日を境に小学校卒業までの私は無視をされつづけることになりました。 とりあえず違うグループの人達に仲間にいれてもらったものの、どこか心に壁がありました。 修学旅行などはどん底のメンタルだったのでほとんど覚えていません。 いじめは無視だけでした。それでも私は毎日学校へ通うのがとても辛かったです。1年ほど耐えて考えて、その無視の理由をどうしても確認したくなりました。 陰でこっそり、話しをしてくれそうなグ...つづき
1974年生まれ

学校の帰り道の「荷物持ちの罰ゲーム」

ももえさん 新潟県 1974年生まれ 女性 私の実家は田舎の方にあったため子どもの数も少なく、同級生に限らず年上や年下の子たちとも一緒に遊ぶのが当たり前でした。 小学生の頃にはやっていたのが、荷物持ちの罰ゲームです。3~4人ほどのグループで下校することが多かったのですが、そのときによくしていました。 まず、みんなでじゃんけんをします。負けた人が全員の荷物をすべて持って歩く、という単純な罰ゲームです。 ランドセルは自分のもの一つだけでも結構重いですし、それに加えて他の子たちの荷物(ランドセルなど)を持つのはかなりの重労働です。 「次の電柱まで」とか「〇〇の家まで」などとそのたびごとにゴールを決めて行っていました。 低学年の子がじゃんけんに負けてしまったときには、距離を短めに設定してあげるなどの配慮も、自然とできていたように思います(たとえば、10歩だけ歩く…など)。 学期末になると、普段は学校に置いたままにしている荷物も、持ち帰ることになるため、荷物の量も増えて盛り上がりました。 田舎なだけに、通学路の交通量もかなり少なく、安全に遊びながら下校することができていました。
1976年生まれ

荷物持ちの罰ゲームなのにみんな喜んでいた

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 罰ゲームの代表と言えば、じゃんけんで負けたら荷物持ちというものがあります。 遊びの中と言うよりは下校中でのできごとではあるのですが、そういうのをよくやっている子たちはいました。 かくいう私はと言うと、障害があったので「持たせたら可哀想だよ」という理由でハブられていたという感じでした。 私も混ぜて欲しいという気持ちがあったので、寧ろ私にとっては持たせてもらえないということが罰ゲームのように感じました。 しかし、罰ゲームとは言っても荷物持ちをされている子たちがあまり苦痛そうではありませんでした。 人の役に立って寧ろ喜んで引き受けているという印象を受けました。 荷物持たせというのは、いじめのようにやる人たちもいると思うのですが、私の周囲ではそのような感じではありませんでした。 寧ろ罰ゲームをしたいという子が多かったのではないかなと思います。 私は病院からもあまり重い物は持たないようにと言われていたので寧ろこれで良かったのかも知れないです。
1981年生まれ

低学年の子も応援してくれた マンションの子達との「缶けり」は燃えました!!

ななさん 埼玉県 1981年生まれ 女性 子供時代の缶けりって本気なんです。私が住んでいたマンションは子供がたくさん居て、放課後とかめちゃくちゃ子供が集まります。10人ぐらいは集まると、そのまま缶けりの開始! 年齢も様々で1年生~6年生まで集まります。缶を守るのはだいたい高学年と決まっていました。 マンションの周りに、丁度いい感じの広場があったので、そこで遊びます。木もいい感じで生えていたので、隠れる場所もバッチリ! 缶を思い切り蹴って鬼が取りに行くところからスタート! みんな一斉に隠れるのですが、隠れてもちょっと体が出てきてすぐに見つかっちゃう低学年の子供が可愛かったですね。私もあんな感じだったなぁ~なんて、お姉さんな気分で鬼をやったものです。 だいたい隠れられる場所は決まっているので、まずは近くの子達を見つけて、あとは思いあたるところに行って、見つけて、戻るの繰り返し!めちゃくちゃ燃えました。 最後は本気の高学年の戦いみたいになって、低学年の子も応援にまわり楽しかったです。
1982年生まれ

「また明日ね」缶蹴り遊びの思い出

たきあまーちさん 神奈川県 1982年生まれ 女性 小学校三年生の頃、放課後になると近所の公園で集まって毎日遊んでました。特に約束したわけではなく、その日に集まった子で缶蹴りなどをしていました。 私の地域の缶蹴りは、じゃんけんで鬼を決め、鬼が百を数えるうちに隠れて、鬼に見つからないように缶を蹴れば勝ち。というルールです。 途中で見つかってしまえば鬼に捕まります。鬼に捕まった子は、仲間が缶を蹴ってくれれば、鬼から逃げることが出きます。 それぞれに自然に隠れる場所というのができてきます。私の隠れ場所は、アスレチックの城の影でした。ここだと、自分からは鬼の動きが分かるし周りの仲間の隠れ場所も分かるというメリットがありました。 ただ、人気の隠れ場所であり、日によっては隠れる人が多いというデメリットがありました。 その日も、いつもの場所に隠れていました。あまり話したことのない友達と隠れていました。隠れている間に、学校のことや家のこと、色々なことを話しました。いつの間にか、仲良くなっていました。 また、明日も遊ぼうね。と何日も何日も当たり前のように遊ぶ毎日でした。 ある日いつもの隠れ場所で、今度引...つづき
1992年生まれ

鬼にはなりたくないと思った「公園での缶蹴り遊び」

サカイさん 京都府 1992年生まれ 女性 小学校5年生の頃、放課後に帰宅しランドセルを置いたら、いつもの公園で友人たちと待ち合わせ、暗くなるまで遊ぶのが習慣でした。 他の公園に比べて大きい公園だったので、クラスの半分近い子どもがその公園に集まり、それぞれの仲良しグループで遊んでいたように思います。 それぞれ遊んでいた子どもたちも、どこからともなく他のグループが空き缶を見つけてきて、缶蹴りを始めると、それに混ざる形でいつの間にか大所帯で缶蹴りが始まっていました。 しかし、大勢になると鬼は大変。鬼以外が蹴った缶を、鬼が元の位置に戻している間にそれぞれ隠れる。 全員を見つける前に定位置に置いた缶を誰かに蹴られてしまったら、一度捕まえたメンバーも解放され、また缶を戻すところから始まります。 圧倒的に鬼が不利なルールの中で、いつまで経っても鬼から抜け出せない子が出てきます。泣いている子もいました。 人気の遊びではありましたが、絶対に鬼にだけはなりたくないと、いつも思っていた記憶があります。
1986年生まれ

缶蹴りとお友達の思い出

パンさん 岡山県 1986年生まれ 女性 小学生の頃、よく缶蹴りをして遊びました。缶を蹴る力や場所、タイミング、いかに仲間を救えるかなど、意外と頭を使っていたことを思い出します。 隠れる場所によってはしっかり参加できずに終わってしまうこともあります。 私がが大きくなるにつれて、盛り上がりたいと思ったら積極的に缶を蹴りにいったり、休みたい時には見つからない場所に隠れたりと、状況によって動いていました。 ただ、鬼になった時には、なかなか勝てないこともあります。絶対に鬼にはなりたくないと思っていました。 缶を蹴る方が上手く協力体制を取っていると、鬼が交代出来なかったり、公園や学校が広すぎたことも原因だったかもしれません。 今思えば、範囲を区切ってやっていれば、鬼の私ももっと楽しめたように思います。 私が不甲斐なかったこともあり、鬼を2人にすることもありました。それはそれで私も楽しめるようにしようと、子どもなりに考えてくれたのでしょう。 良いお友達に恵まれたと、今になって感じたことでした。
1975年生まれ

逃げる範囲が広すぎる11階建てのマンションでの ドロジュン

なっつんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 私が小学生の頃は「ドロジュン」と呼ばれている遊びをしていました。11階建てのマンモスマンションに住んでいたので、ドロジュンをやるには範囲が広すぎます。 いつもの仲間とやるのですが、マンションを縦半分のエリアに区切り、その範囲内だけと決めてからやりました。 しかし、半分と言え、11階まであり。戸数もかなりあるマンションでしたので人数が少ない時ほど、難易度が高かったです。 玄関に門戸がないマンションでした。人の部屋の前に隠れるところがあれば隠れ。時々、そこの住人が出てきてビックリされる事もありました。 皆、顔なども知れた住人でしたので、話しかけられる事もあり、それが見つかる決め手にもなります。 エレベーターは2基ありましたが、それを使うと見つかりやすいのと、住人へ迷惑がかかるため、禁止しました。 2時間ほど遊んでいた事もあります。 子供であれど、階段を行き来し、フロアを渡り、凄い運動量だったと思います。 時々、ルールを破って違うエリアに潜む子もいましたが、そういう子は次からは警察役にまわされました。 低学年の子供だったからできた遊びであり、大人...つづき
1992年生まれ

時間を忘れて遊び続けた小学校時代の思い出

ホワイトさん 東京都 1992年生まれ 女性 小学校時代に流行っていた遊びと言えば、ドロケイは外せません。 今思えば、誰が始めたのか、どこから流行ってきたのか分かりませんが、同じクラスの友達以外の違う学年の子もみんな知っていた遊びでした。 よく覚えているのは、中休みの時間になると誰かが“校庭集合”と合図を出すと、それがドロケイをやろうという意味。とにかく男女関係なくドロケイが始まっていました。 私はドロボウ役が面白くて、よくやっていたのですが、中休み中では決着がつかず、放課後に同じメンバーで集まって、続きをやるのがとても楽しかったです。 5時間目が終わりそうになると、みんながソワソワしだして、私も早く遊びたくて本当にワクワクしていた小学校時代でした。 私は小学校時代6年間リレーの選手だったのですが、それは日々警察から逃げるドロボウ役で逃げ回っていたおかげで、足が速くなり脚力もついたと思います!!更には身体能力も上がったと思います。 ドロケイで楽しかったのは、走り回るだけではなく、クラスや学校で人気の男の子と同じドロボウチームになると、助け合いながら逃げるという心理学的に恋に落ちそうな場...つづき
1988年生まれ

牢屋へ仲間が助けに来てくれた ケイドロの思い出

さくらさん 福岡県 1988年生まれ 女性 遊びといえばケイドロ!というくらい小学生時代は毎日夢中で遊んでいました。 警察が泥棒にタッチすると捕まるという遊びなのですが、私は走るのが遅いので、警察になっても誰も捕まえることが出来ず。泥棒になればすぐ捕まっていました。 グラウンドの端にある木の下が「牢屋」で、仲間が助けに来てくれるのをずっと待っていたことをよく覚えています。そんな走るのが遅い私ですがケイドロが大好きでした。仲間が助けに来てくれるからでしょうか? 現在私の子どもも小学生になったのですが、今でも「ケイドロ」は人気の遊びのようです。 昔からある遊びを子どももまたしているんだなと思うと嬉しいですし、子どものエピソードを聞くたびになんだか優しい気持ちになります。 たくさん走って転んで怪我して立ち上がって。捕まっても仲間が助けに来てくれて・・私の青春の1ページにもなっている。ケイドロで遊んだ記憶は友達の声、チャイムの音、空の色までよみがえってくるような大切な思い出です。
1980年生まれ

光GENJIと共に始まった ローラースケートの思い出

ローマさん 栃木県 1980年生まれ 女性 自分が小学低学年の頃、世間では「光GENJI」がとても人気でした。かっこいい男性アイドルがローラースケートで走り回りながら歌って踊る、テレビ歌番組でよく見ていました。 そして巷ではその影響でローラースケートが人気になり、町のおもちゃ屋さんはどこでも扱っていたように記憶しています。 学校のクラスメイトの中でも何人かが持っていて、例にもれず自分も欲しかったのですが運動神経があまり良くなかったので買ってもらえず。近所に住んでる子が持っていたローラースケートを借りて遊んでいました。 子供が集まると少し危険なことにも挑戦し始めるもので、近くの住宅地になだらかな坂があり「その上の方から滑り降りよう」となりました。 自分は運動音痴なこともあり、早々にリタイアしたのですが数人が挑戦。5人程が滑ったところで近くを通りがかった知らないおばちゃんに「何やってるの!あぶないでしょ!」と怒られました。 車も走る道だったので当然です。上級生の子たちが特に怒られていたことを覚えています。 ローラースケートの興味は光GENJIの興味とともに次第に薄れましたが、あの頃もっと挑...つづき
1991年生まれ

かっこいいローラースケートの思い出

ままんごさん 岩手県 1991年生まれ 女性 なぜローラースケートを欲しがったのか、今になって当時を振り返っても良く分からないのですが、なんとなく「他の子供たちが持っていなくてかっこいいな」と思ったのがきっかけだったと思います。 ローラースケートを持っていると友達に話しても、友達たちは持っていなくて、「何それ?」と馬鹿にされたり、言われたりしたのを思い出します。 私が住んでいたところが田舎という事もあり、あまりローラースケートが浸透していなかったように思えます。 それでも毎日学校から帰ってきては外に出て、ローラースケートで遊んでいました。特に大技などは出来ませんが、姉と一緒に良く遊んでいました。 最初はうまく滑れずに、転んでは膝をぶつけて嫌にもなりましたが、めげずに練習を重ねて滑れるようになったときは、とても嬉しかったです!!
1995年生まれ

ローラースケートを見たら思い出すこと

りんりんさん 兵庫県 1995年生まれ 女性 私は大人になった現在でもローラースケートを見ると苦い記憶が思い出されます。今から約20年前にローラースケートを滑る友達を見て、自分も滑ってみたいと思い親に買ってもらいました。 その友達はローラースケートを滑る時にフィギュアスケートのようにクルクルとその場で回るような技をしており、自分もそれがしたいと思っていました。 いざ買ってもらってローラースケートを履くと、まず一人で立てないことを知りました。実家の駐車場で滑る練習をしましたが、一向に滑れるようにならず。ある日段差につまづいて顎を強打してしました。 そこからというもの、全く滑る気にはならず、私のローラースケート体験は終わりました。後からその友達がフィギュアスケートを習っていたことを知り、そりゃ自分は滑れないわと子供ながらに思った記憶があります。 大人になり子供を育てる身になった今、ローラースケートのような継続して履けるかどうかわからない商品を買ってくれた親には感謝しています。
1975年生まれ

「曲がれない、止まれない!」ローラースケートの思い出

いちこさん 静岡県 1975年生まれ 女性 当時、テレビの歌番組でアイドルグループがローラースケートをはいて、歌って踊るのを見て、「自分もやってみたい」と、親にねだって買ってもらいました。 同じように買ってもらった友達と二人。移動するときも、自転車よりもローラースケート。難しい技はできなくても普通の道をひたすらコロコロするのが楽しかったです。 ある日、少し遠出した先で、左カーブの緩やかな下り坂にさしかかりました。これまで真っ直ぐでほぼ平らな道しか通ってこなかったのに、何を思ったのか「行ってみよう」と坂を降り始めました。 途中スピードが乗ってきていつもと違う感覚にワクワクしました。このままいける、とさらにスピードが上がったところで、もう目の前のカーブを曲がるにはスピードが出過ぎていました。 止まれないことに気付いた私は、とっさに、転べは止まると考えたんでしょうね。現場を見ていた友人が言うには、わたしは止まるのではなく前へ向かって飛んだそうです。 そのまま着地とはいかず、顔は怪我しなかったものの、膝と腕は擦りむいて友人には大笑いされました。その場は笑っていたものの、夜お風呂ですごくしみたの...つづき
1982年生まれ

度胸試しなシーソーの思い出

ちーさまさん 大阪府 1982年生まれ 女性 一般的なシーソーの遊び方は、大体同じくらいの体重の子が両サイドに座り、お互いに足を使って地面を蹴り上げて、交互に上下するのを楽しむと思いますが、盛り上がってくると必ず度胸試しの様な遊び方になっていました。 今考えると、なかなか危なっかしいのですが、最初に乗れるだけ乗って、特に掛け声もなく、アクションもない状態から、突然一人抜け、二人抜け、三人…と抜けていき。残り両サイドに一人ずつになった瞬間、最後になった子は凄まじい勢いで下に下がってお尻を打つ…という遊びをしていました。 抜けるタイミングをみはかるのが難しく、途中で抜けれても抜け方が下手ならば転けたりして怪我をすることもあった気がします。 他にも、そもそも座って遊ばずに平均台の様に木の上をバランス良く右から左に歩いたたり、両サイドに一人ずつ立って、思いっきりその場で跳ねてボヨンボヨンと遊ぶ等、優雅にシーソーを遊んだ記憶がありません。 いつも、いつのまにか度胸試しになっていました。
1997年生まれ

シーソーで罰ゲームの思い出

かぴばらさん 富山県 1997年生まれ 女性 幼いころ、近くの公園にあるシーソーで幼馴染と遊んでいました。そのシーソーは少し古く「ギーギー」と音がするようなもので、シーソーの両端の着地地点にはタイヤが埋め込まれていました。 そのタイヤの部分の土が大きくえぐれていて、雨が降ったあと5日間くらいは水たまりになります。着地するたびにタイヤが弾み。その影響でその溝にたまった泥水がはねて足がドロドロになりました。 親からすればやめてほしい遊びだとは思いますが、それだけでも幼い私たちにとっては楽しくて、雨のあとによくシーソーで遊んでいました。 ただ学年を重ねるにつれ、服が汚れることへの抵抗が大きくなり、そのシーソーは罰ゲームとなりました。 例えばカードゲームで遊んで負けたほうがシーソーをする。といったような用途となり、楽しい対象からちょっと嫌なものという印象になりました。 現在、そのシーソーは新しいものに変えられ。着地地点のタイヤ部分の溝もきれいになくなりました。今ではいい思い出です。
1987年生まれ

しりとりシーソー

moamoaさん 静岡県 1987年生まれ 女性 小学生の低学年の頃、学校内にあったシーソーが友人たちの間でブームになりました。 最初は普通に遊んでいたのですが、だんだんと飽きてくるようになると、しりとりと組み合わせて遊ぶようになりました。 ルールは簡単です。シーソーが下がるごとにしりとりのワードを言います。 特に縛りがないうちはとっても簡単なので、自分たちよりも小さい子と遊ぶときもこのルールで遊んでいました。 ただし、シーソーはスピードを上げることができるので、テンポよく答えないとアウトになってしまいます。だんだん慣れてきたら、食べ物や学校にあるものなど、縛りを入れてしりとりをするようになりました。 このしりとりを取り入れてからは、なんとなくシーソー遊びがブームになっていき、昼休みになったらシーソーへと集まるようになりました。 シーソーは1台で4人まで乗れるタイプだったので、仲良しの4人で一緒に遊んだ記憶が残っています。あるときシーソーが撤去されて遊ぶことができなくなりましたが、とても楽しかった思い出です。
1982年生まれ

シーソーで遊んだ思い出「相手を浮かせたり 勢いよく落とす遊び」

ココちゃん 京都府 1982年生まれ 女性 子供の頃、公園といえば大概シーソーが置いてありました。座るところが赤色と青色になっていて、なるべく相手を空中に浮かしておけた方が勝ちというルールで遊んでいました。 なぜそうだったのか?覚えてないのですが、なるべく相手が浮いておけるように自分だ下がった時にどれほど足で勢いよく踏み込むかそうでないか?を考えながら遊んでました。 さらに、相手が1番高いところからドン!と勢いよく地面に落ちるように、相手が1番高いところまで浮いたらタイミングを見計らって椅子から飛び降りたりもしてました。 自分が1番高いところからドン!と落ちた時には、下にクッションでタイヤが埋め込まれていたんですが、それでもお尻に衝撃が走ったのを覚えてます。 後は体重が重い子に対して何人ほど反対側に乗ったら体重の重い事同じくらいの重さになるか?なんて調べながらも遊んだりしてました。 今だとあまりそんな事したらいじめだとか言われるかも知れないですが、お互いに特に悪気もなく、みんな楽しんで遊んでました。
1991年生まれ

子どもの頃にした シーソーの危ない遊び

ままんごさん 岩手県 1991年生まれ 女性 今も公園に行けばあるシーソー。散歩をしている時に見かけると、小学生の時に友達と一緒に遊んだことを思い出します。 シーソーで遊ぶときに友達としたのが、一人シーソー(一人でシーソーを動かす)をして遊んだり、やってはいけないと思いながらも当時は友達とはまっていたのがシーソーの真ん中にある支え?の部分に乗って、本来の遊びではない遊びをしたことです。 当時は今みたいに危険なものを避けて遊ぶという事がなく、危険な遊びが大好きだった小学生でした。怪我をしてもまたその危険な遊びを繰り返していたことを思い出します。 後は思いっきりジャンプをしてシーソーで相手を上にあげたりしました。シーソーの下にあるタイヤに、友達が上に上がったタイミングで足をおき、降りてくるタイミングで足を離すなんて遊びをしていました…。絶対に良い子は真似してはいけない。 シーソーをしている時のあの上に上がるふわっとする瞬間が好きで、友達とワイワイ遊んだ事がとても楽しかったです。
1986年生まれ

実は怖かったシーソー遊び

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 子供というのはシーソーが大好きだと思いますが、私はどちらかというと苦手でした。苦手ではあるものの、どうしても友達との付き合いで幼稚園の頃や小学生の頃に遊ぶことがありました。 小学校にシーソーがあったかどうかは記憶にありませんが、幼稚園の頃にはありました。私はシーソーをしても基本的に長続きしません。 私は凄くガリガリに痩せている子供で、シーソーをすると必ず私の方が上の方に上がってしまいます。体重の重い子が相手だと、高くなってしまい非常に怖いという気持ちが強かったです。 私は身体に障害もある子供で普通の健常児たちと一緒に遊んでいたので、シーソーはちょっとした恐怖でした。テンポよくシーソーをしている子たちを見ると羨ましくなりました。 痩せすぎていて肉がない為にガッタンゴットンとなる度にお尻がめちゃくちゃ痛かった思い出があります。
1977年生まれ

箱ブランコで劇遊び

あんまんさん 大阪府 1977年生まれ 女性 今はない公園ですが、商店街の裏に小さな公園がありました。隣がこんにゃく工場のため匂いがきつく、人が少ないので、人気の箱ブランコで遊ぶのにいつもその公園へ行っていました。 箱ブランコは女子にも男子にも人気があり、男子がいると箱ブランコを必要以上に揺らすため、ゆっくり遊べません。そこで人の少ない公園に行く必要があったんです。 女子に人気の遊びは、箱ブランコで劇遊びでした。箱ブランコは家にもなり、乗り物にもなります。いくらでも物語が続くので何時間でもそこにいることができました。 箱ブランコの下にはなぜか土が溜まっていて、そこに宝物を隠し冒険に行くという遊びが当時流行っていて、だれがお姫様の役をするかでもめていたのを覚えています。 みんな悪役はしたくないので、みんなお姫様ということもあり、何がなんだかわからない劇になっていましたが、楽しんでいました。 それを担任の先生に話したら、ビデオを撮ってあげると言われ。みんなできちんと台本を作ろうと頑張りましたが、意見がまとまらず。その話はいつの間にかなくなってしまいました。
1974年生まれ

幼馴染の男の子と二人きりで箱ブランコ

水色メランコリーさん 神奈川県 1974年生まれ 女性 小学生の当時、私はいわゆるマンモス団地に住んでいました。マンモス団地内の至る所にある公園には、ほぼ箱ブランコがある状態でした。 物心ついた頃から箱ブランコは馴染み深いものであり。小学校低学年くらいまで大好きだった幼馴染の男の子と二人きりで、箱ブランコに乗って遊んでおりました。 幼馴染の男の子と、箱ブランコに向かい合って座ったり、時には二人で横並び状態で座ってみたり…。 ちなみに、二人で並んで座っていると当然の事ながら座っている方側に箱ブランコは傾いてしまいます。そのアンバランスな傾き加減さえも、子供ながらには何故か楽しく、はしゃいでしまいました。 勿論、座るだけではなく、”立ち漕ぎ”と表現すればいいのでしょうか?二人で向かい合った状態で、箱ブランコの椅子の上に立って、お互いの体重を利用して箱ブランコを漕ぐ。箱ブランコをゆらゆら揺らして楽しんだりもしていました。 大好きだった幼馴染の男の子との箱ブランコ遊びは、小学校低学年までで、いつの間にか遊ばなくなっちゃったなぁ…といった感じ。今思い出すとちょっぴりノスタルジックというか甘酸っぱ...つづき
1986年生まれ

身体に障害があっても立ち漕ぎが出来て嬉しかった箱ブランコ

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 小学生の頃団地に住んでおり、坂を少し下ればすぐに公園がありました。広さはかなりあるものの、遊具そのものは少なく。普段はお年よりがゲートボールで遊んでいます。遊具はブランコくらいしかありませんでした。 頃放課後に遊びに行って、先客がいると箱ブランコには乗れません。運よく乗ることができたらラッキーみたいな感じでした。 小学生でも上級生が遊んでいたら、上級生に譲らなければならないという暗黙のルールもありました。 乗れた時はとても嬉しくて、特別なことはせずに普通に乗ることが多かったのですが、私は立って横に立ちこぎをすることが好きでした。 私は身体に障害があり、普通のブランコだと立ちこぎができません。 しかし、箱ブランコはしっかりしているので立ちこぎもしやすく嬉しかったです。調子に乗って早くこいだりもしていました。 ただ、残念なことに今現在その公園はまだありますが、あの思い出の箱ブランコは撤去されて、倉庫みたいな物が設置さています。なぜなくなってしまったのかは分からないですが寂しいです。
1982年生まれ

箱ブランコはみんなでおやつを食べる場所

たきあまーちさん 神奈川県 1982年生まれ 女性 私が小学生の時、放課後は近所の公園に集まるのが日常でした。約束などはなくその日に集まった友達と遊ぶのです。 まずは、それぞれ持ち寄ったおやつをぽっけの中から取り出し交換会です。場所は、箱ブランコに乗りながらです。 くだらない話をしながら、その日のテストや好きな人の話、先生へのちょっとした悪口など、箱ブランコの中でたくさんの時間をすごしてきました。 ある日、隣のクラスのエリちゃんが箱ブランコに乗って泣いてしまいました。いつものようにおやつを出し、話を聞きながら一緒に食べました。 もう少ししたら引越しをすることになった。行きたくないよ。と涙をポロポロと流しながら箱ブランコをこいでいました。私も反対側に座り、行ってほしくないよ。と一緒にこぎました。 二人でこいだので箱ブランコは右へ左へ行ったりきたり、風をきって楽しくなってきました。悲しい顔をしていたエリちゃんもいつの間にか笑顔になっていました。 また、遊ぼうね。と約束して、別れたエリちゃんとの再会はありませんでしたが、私のなかでは大切な思い出です。
1989年生まれ

「怖い箱」箱ブランコの思い出

りんさん 東京都 1989年生まれ 女性 物心がついたとき、通っていた幼稚園にも近所の公園にも箱ブランコがありました。私は早生まれで他の同級生よりも体が小さく、運動神経も悪かったのです。 幼稚園の先生は子供たちを箱ブランコに乗せてくれたのですが、私にとっては恐怖の箱そのものでした。 きちんと席に座ってゆっくり漕いでもらう分には構わないのですが、やんちゃな子供たちはそれだけでは物足りません。 男の子も女の子も背もたれのところに足をかけて立ち上がり、外から自分の体重をかけて箱を揺らすように漕ぐスタイルが多かったように思います。 そうすると当然揺れがどんどん大きくなって怖いし、もう簡単には降りられません。乗っている本人たちはもちろん危ないのですが、ふり幅が大きくなるので周りにいる子も気を付けないと巻き込まれてしまいます。 友達が何度か立ったまま飛ばされたり箱ブランコの下で頭をぶつける姿を見ていたので、そのたびに怖くてあまり近づきたくなかった思い出です。 今でこそ安全面から見かけなくなりましたが、思い出すとぞわぞわしてしまいます。
1987年生まれ

初めて箱ブランコと出会った日

haniwaさん 静岡県 1987生まれ 女性 箱ブランコは、住んでいた家の周りにはありませんでした。ただTVなどでその存在は知っていました。楽しそうだな、やってみたいなと思っていましたが、家の周りにはないので、ちょっとだけ憧れのような存在でした。 ある日、近くに住む従兄妹の家族に行ったとき。両親たちが話している間、従兄妹同士で遊ぶことになりました。従兄妹の家の近くにある公園へ行くことにした私たち。 すると、そこにはTVで観ていた箱ブランコがあるではありませんか!しかも、誰も乗っていません。自分から言いだしたのか、従兄妹たちが言いだしたのか忘れましたが、すぐに箱ブランコに乗って遊ぶことになり、私はワクワク! ところが、想像とは異なりそんなに楽しくはありません…。当時、私はブランコが大好きで、保育園でもブランコによく乗っていました。ゆらゆらと高く揺れることが好きだったのですが、箱ブランコはそれほど高く揺れません。 従兄妹たちは楽しそうにしていますが、想像以上に揺れないブランコに私だけががっかりした思いを抱いていました。 見た瞬間、わくわくドキドキした思いでいたのに、実際乗ってみたら、ひど...つづき
1989年生まれ

かまくらの思い出

ひえんさん 山形県 1989年生まれ 女性 私の住んでいる地域は豪雪地帯で、家の回りには背丈を越えるほどの雪が積もっていました。 小学生の頃、父の提案でかまくらを作ることに。作り方は簡単で、固めた雪に穴をあけるだけです。私と弟はさっそく雪山に登り、足で雪を踏み固めていきました。穴を掘るのは父の仕事。 今では考えられませんが、当時は雪がしっかり固まってさえいれば上に登って遊んでいても怒られなかったのです。 雪は柔らかい部分と固い部分があって、弟は時々柔らかい部分にはまって動けなくなってしまうので、ドキドキしながらの作業でした。 穴を掘るのも結構な重労働です。朝から始めて、完成したのは夕方だったように思います。父は凝り性で、ただ雪山に穴をあけるだけでなく、雪でテーブルと椅子、ランタンを置くための小さな棚まで作っていました。 「雪で作ったのだから寒いはず」と思っていたのに、かまくらの中は暖かくて驚いたことを覚えています。 その日の夕食はかまくらの中で焼肉。当然、その熱で雪が溶けて頭にポタポタと降ってくるのですが、それすらも家族の楽しい思い出になりました。
1983年生まれ

雪合戦で流血の思い出

しもやけさん 広島県 1983年生まれ 女性 雪が積もった日、校庭で急遽雪合戦をすることになりました、クラス半々に分かれてみんな必死な形相で雪玉を投げます。 雪玉はけっこう固く、イヤーマフをしたりニット帽をかぶっていい学校ではなかったので、頭や耳に当たると痛くてたまりませんでした。 でも一生懸命に雪玉を作る係に徹したり代わって投げに投げまくったりすると、寒さはどこかへ行ってしまいます。吐く息は白いのに背中は汗でびちゃびちゃという感じです。 一通り楽しんだ後、教室へ戻るように先生から指示があり下駄箱へ向かっていました。男子数人はまだ後ろの方で投げ合っています。 そして「あっ!!」という声が聞こえて振り向くと遊んでいた男子が投げた雪玉が私の顔にクリーンヒットしました。私の感覚では鼻に当たったと思って思わず鼻を手で覆いましたが、流血しているのは口からでした。 友達がトイレに連れて行ってくれ、鏡を見ると上唇と歯茎から血が出ていて前歯が真っ赤に染まっています。今でも傷跡が残っていて、楽しい思い出は痛い思い出と共に刻まれました。
1986年生まれ

一番乗りで積もった雪に足跡を付ける地味な遊び

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 あまり雪の降らない地域だったので、小学生の頃と言ったら少し雪が積もっただけでも大騒ぎな状態でした。 これは遊びのうちに分類されないかも知れませんが、真っ白な新雪に誰が最初に足跡を付けることができるのかという、謎の暗黙のルールのゲームみたいなものがありました。 まだ誰も足跡を付けていない場所に一番最初に足跡を付けるのは気持ちが良いものです。 登校中の道もそうですが、学校の敷地内でも同じです。休み時間などにまだ誰の足跡が付いていない所を狙っては、自分が足跡を付けるのは凄く快感です。 小学生の頃にやっていたことではありますが、実は大人になった今でもたまに雪が積もった時に、一番乗りで足跡を付けたいという気持ちが強くなります。一人で足跡を付けて喜んでしまっている自分がいます。 いい歳をしてちょっと恥ずかしいですが、子供の頃の地味だけど楽しい、雪が積もった時の遊びが忘れられないからだと思います。
1968年生まれ

ミニスキーの思い出

バームクーヘンさん 北海道 1968年生まれ 女性 小学校2年生の夏に北海道の両親の故郷に引っ越しをすることになりました。横浜生まれの私にとっては、この北海道の小さな町で過ごした半年間は、かけがえのない思い出です。 特に冬になると、今までに見たことのないような雪が毎日降り続けました。母が、ミニスキーというものを買ってくれました。それは、長靴に装着するプラスチック製の短い板です。 スキーと違って、ストックなどは必要ありません。道の両側には、除雪車によって大きな雪の山が出来ていました。私は、ミニスキーを長靴に付けると、その山を登って何度も滑りました。雪の山を滑る楽しさに、私は虜になってしましました。 学校から帰ると毎日、毎日ミニスキーで遊びました。私が住んでいた家は、日本海に面していたので、強風と恐ろしいほどの波を見ながらミニスキーで遊び続けました。 ある時、子供の私は何を思ったのか、家の屋根からミニスキーを滑ってみたくなり、自分でも登れる場所を見つけて滑りました。 するとその家を借りていた大家のおばさんが慌てて、外に飛び出してきて、こっぴどく怒られてしましました。普段は優しいおばさんが、...つづき
1986年生まれ

珍しく雪が積もった日に 祖父が作った小さいかまくら

桜と雪さん 福島県 1986年生まれ 女性 私の住んでいる地域は福島県ですが雪があまり降らない地域でした。私は寒いのが苦手だったのですが、雪が降るとちょっと嬉しいという気持ちもありました。 珍しく雪が積もったその日は休みでした。祖父の家に遊びに行き、祖父が小さめではありますがかまくらを作ってくれました。 私と妹がやっとギリギリ入ることのできるくらいの小さいサイズのかまくら。テレビでかまくらを見て、凄く憧れていたので、実際に入ることができたことが嬉しかったです。 かまくらが作れるくらい雪が積もったのはあの日くらい。一度切りではありましたがいい思い出になりました。探せばその時の写真がどこかにあるかも知れません。
1973年生まれ

初めて作った かまくらの思い出

ぱぴこさん 徳島県 1973年生まれ 女性 私が子供のころは雪が数cm積もることがよくありました。学校のある日は雪道を友達と雪で遊びながら集団登校したり、休み時間は校庭で雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりしました。 ある時とてもたくさんの雪が積もりました。その日は学校が休みだったので姉と自宅の庭で雪だるまを作っていると「かまくらを作ってみよう」と姉が言い出しました。 かまくらなんてテレビで見たことがあるだけで、作り方もわかりません。父に教えてもらいながら、雪をかき集め半日以上かかって何とか小さいながらも完成しました。 小さいので1人ずつしか入れない大きさでしたが、初めて入るかまくらの中は雪の中なのに暖かく、不思議な感じがしたのを覚えています。手袋が冷たくなっていることも忘れて、その日は姉とかまくらでたくさん遊びました。 人生の中でかまくらを作ったのはこの1回だけでしたが忘れられない楽しかった思い出として残っています。
1989年生まれ

裏庭でソリ遊び

りんさん 山梨県 1989年生まれ 女性 私は小学生のころ、都市部から山梨県へ引っ越しました。それまでは、せいぜい雪が降っても少ない雪をかき集めて小さい雪だるまを作るくらいでした。 しかし引越し先は雪も積もるし庭もある!ということで簡単なソリを買ってもらい、妹と積もった雪に傾斜をつけて滑って遊んでいました。 最初は長靴を履いているのですが、そのうち中に雪が入ってびしょびしょになると、最終的には裸足にサンダルです。当然寒いので、しっかりスキーウェアは着ています。 さすが子供というのか、足の冷たさよりも楽しさの方が上回っていたのだと思います。当時の写真をたまに家族で見るたびに、格好は重装備なのに裸足というギャップに笑われます。 積もった雪にみかんを埋めて、冷凍みかんも作りました。しかしいくつ埋めたのか忘れてしまい。雪が溶けた頃にブヨブヨになったみかんが出てきて思い出す。なんていうこともありました。 一度大雪が降ると通学は大変で苦労しましたが、今ではできない体験もしていたなと思います。
1989年生まれ

おばあちゃんの家での雪遊び

mqqsさん 山形県 1989年生まれ 女性 私は東北の出身で、祖母の家は山形にありました。長期休みは母の運転する車に乗り、よく遊びに行っていました。 冬になると膝までかかるくらいの雪が毎年積もり、私を含め兄弟は祖母の家で遊ぶことが何よりの楽しみでした。柔らかくしっかりした雪は雪だるまやかまくらを作るのに最適です。 雪国には大きなシャベルやスコップは常備されているので土台は簡単に作れます。家の周りや庭の雪をかき集め、兄弟と完成させました。 雪だるまには庭の赤い木の実を目にして、駐車場の石を口にしました。 かまくらは穴をあけるのが難しいので祖母にお願いし、子ども一人入れるくらいのものを作るのがやっとでした。 東北ではなかなか雪が溶けないので、作った雪だるまやかまくらは数日残ります。 誰が一番大きなつららを取れるか、大きな雪玉を作った人の勝ち、など遊びは尽きませんでした。 とにかく楽しくてあっという間に時間が過ぎましたそ、疲れも感じませんでした。東北ならではの雪の楽しみ方だと思います。