すべての地域

1988年生まれ

「悪ガキたちの集い」空き地の思い出

ゲオさん千葉県 1988年生まれ 男性小学生時代、学校からの帰り道に草木が生い茂った空き地がありました。その空き地の一角に秘密基地を作ることにしました。空き地にある藁と木を集めて骨組みを作りました。その上に藁を乗せ、更にその上に枝をつけ、網目状に張り巡らして屋根を強化しました。床には家から持ってきた新聞紙を敷き、約一帖くらいの秘密基地ができました。秘密基地は夏と冬に一回ずつ作ったことがあります。夏場は虫が多く猫の糞の匂いが気になりました。冬は雪が降ってきて秘密基地が潰れてしまうことがありましたが、集めた雪を使って雪だるまを作ったり、かまくらを作ったこともあります。かまくらは秘密基地を作るよりも簡単でしっかりと作れました。日が経過しても形を保っていた記憶があります。そこは私有地であったので、今となれば入ってはダメなことが分かりますが、子どものころは何も分からず好奇心と興味だけで動いていました。
1964年生まれ

空き地で猫を拾ったときの思い出

よっちさん鹿児島県 1964年生まれ 女性小学5年生ぐらいの時、自転車で近くを走っていたら、空き地の脇に一メートル四方ぐらいのコンクリートの管があるのを見つけました。長さも一メートルぐらいなのでちょうど立方体、といったところです。よくドラマなどで、親にられた子が隠れるようなものです。中に入ってみると、小さな段ボール箱の中に生まれて間もない猫の赤ちゃんが入っているではありませんか。小さな猫って毛がフサフサで本当に可愛いです。早速家に持ち帰りましたが、母がアレルギー体質なもので家で飼うことはかないませんでした。ちょっと残念でしたが、また先ほどのところに戻り、子猫ちゃんと夕暮れまで遊びました。そして翌日、このことを仲良しのクラスメイトに話し、ふたりでその空き地に行ったところ、子猫はもういなくなっていました。だれか猫好きな人に拾われたんですね。
1974年生まれ

「頑張りすぎたかくれんぼ」お家かくれんぼの思い出

マルコさん福岡県 1974年生まれ 男性かくれんぼと言えば、暇があるとやっていた遊びです。公園や学校や家などいろいろな場所でやっていました。公園でかくれんぼをしたときのこと、僕は隠れる側で「もうーいーかい、まーだだよ」と言う声の中、みんなは一生懸命隠れる場所をさがしていました。だだっぴろい公園に隠れる場所はほどんどなく、木の裏か、滑り台の後ろの茂みか、ベンチの下ぐらいでした。案の定「もういいよ」の掛け声とともに、鬼役の子にみんな見つかってしまいました。それはそれですぐ終わるので、次のゲームが始まるのですが、やはりかくれんぼをする以上、いかに見つからないかと子供ながらに考えます。そして家の中でかくれんぼをすることになったとき、絶対に見つからない場所はないかと考えて、その場所を思いつきました。押し入れの上の段のさらに上に子供が入れる場所があったのです。そこに登ってから隙間に入り置いてあった荷物に隠れました。「もういいよー」の合図で鬼役が探し始めます。狭い家なので友達は、いっときすると笑い声ともに見つかっていました。僕だけはさすがに見つからないので余裕だと思っていましたが、こんなときにか限っ...つづき
1983年生まれ

「女性ドラえもんのマネで大騒ぎ」お家かくれんぼの思い出

ちぃ子さん広島県 1983年生まれ 女性友達が家に遊びに来て5人ほどで遊んでいました。最初はおままごとをして遊び、次はリカちゃんで遊び、その後はかくれんぼという流れがいつもの遊び方。ジャンケンをして鬼が50秒数え、みんなが隠れます。と言っても家の中なので隠れる場所は限られているので見つけやすいです。この時、私はドラえもんが押入れで寝ているのを真似しようと思い付き、押入れの中にそーっと隠れました。「もーいいかーい!」と言う声が聞こえます。いろんなところからかすかに「もーいいよー」と返事があります。襖を少しだけ開けて見てみると鬼はキョロキョロ。そしてどんどん見つけていきます。すると私は押入れの布団の中でだんだんと眠くなってしまいうとうと…。そして寝てしまいました。外がザワザワしている声で目が冷め、襖を勢いよく開けると一斉に母と友達が目を丸くしてこちらを見ています。鬼が私だけ見つけられず母にいないと言って騒ぎになっていたのです。その後こっぴどく叱られた私でした。
1971年生まれ

「竹やぶで見られちゃった」ちょっと恥ずかしいかくれんぼの思い出

マリンバさん埼玉県 1971年生まれ 女性周りは畑や竹やぶなどが多い埼玉県の田舎に住んでいました。ゴム段や縄跳び、缶けりなどでも良く遊びましたが、外でかくれんぼをすれば、なかなか見つけられず楽しかったのを覚えています。ある日、友人の家の大きな庭でかくれんぼをしました。私は探される番だったのですが、庭の竹やぶの中に隠れたところ。30分経っても1時間たっても、探しに来てもらえず…。鬼が探している声は聞こえるので、じっと息をひそめて隠れ続けていました。しかし、そのうちトイレに行きたくなり…。どうしよう、出て行こうかと迷ったのですが、どうせここなら誰にも気づかれないしと思い。竹やぶの中でおしっこをしてしまいました。最中に、なんだか、ガサゴソという音が聞こえてきて、驚いて振り返ると、なんと友人のお父様が、タケノコほりをする為に入ってきたところでした。もよおしている最中だったので、動くことも隠れることもできず。しゃがんだまま挨拶をして、とても気まずかったのを覚えています。その後、友人宅から、タケノコをおすそ分けしてもらう度に、微妙な気持ちになってのを覚えています。タケノコは、とても美味しかったです...つづき
1997年生まれ

校内かくれんぼ

らーんさん北海道 1997年生まれ 女性小学生の頃、クラス15人くらいで、放課後、校内を貸し切ってかくれんぼをしました。学校が3階建てで一階には体育館や保健室に理科室。2階には教室やpc部屋。3階に教室や化学室など様々な部屋がありました。鬼が4人と逃走者11人くらいでやりました。5分数えてから鬼が探し始めました。ドキドキワクワクでした。どこに隠れるかと色々考えて、3階の化学室のさらに扉を開けた先生の部屋に隠れました。足音が聞こえて、ドキドキしたけれど、そのままスルー。10分ほど乗り切りました。20分ぐらいすると次々に同じ階に隠れていた人たちの騒ぎ声が聞こえてきます。きっと捕まったのでしょう。そう考えるとドキドキとして鼓動が聞こえてくるくらいでした。そして30分ほどすると、『あとらーんちゃんと○○ちゃんくらいじゃない?』と鬼の声が聞こえました。鬼が化学室に再び入ってきました。『いらんでしょー!出てきなー!』との声も聞こえ、扉を開けられ、見つかってしまいました。滅多に出来ない経験、とても楽しかったです。
1974年生まれ

「絶対に負けたくなかった」かくれんぼの思い出

まさおさん京都府宇治市 1974年生まれ 男性かくれんぼは小学5,6年生の時によく遊んでいました。クラスの同級生とするよりも近所の子と遊ぶのが主でした。通常のルールは「もーいーかい」「まーだだよ」「もーいーよ」という掛け声とともに隠れて見つけるというものですが、私たちが遊んでいたルールは少し違いました。まずジャンケンをして負けた子が鬼になります。鬼が電柱で目を伏せて声を出して30秒数えます。30秒数えている間にほかの子は好きな所に隠れて30秒経ったら鬼が見つけに行きます。見つかったら鬼と隠れていた子が電柱へ向かって走り、鬼が先にタッチしたらアウト、隠れていた子が先にタッチしたらセーフとなります。要するに、ある程度遠くへ隠れると、かくれんぼというよりもただの徒競走になるのです。当時私はクラスでも足が速い方で、しかも毎回遊んでいる近所の子は2つ下だったので、負けたくないから遠くまで隠れて競争で勝っていただけでした。友達も「まさお君が隠れている場所分かってるねんな」と半ば文句を言いながら見つけていました。学校ではほとんどしゃべらない大人しい子供で、クラスで遊ぶときは空気を読んでガキ大将にわざ...つづき
1977年生まれ

小学生の時に見つけた 秘密の隠れ場所の思い出

ひでさん福岡県 1977年生まれ 男性当時私が住んでいたの団地では小学生の子供集会などがあり、そこで知り合った仲間とよくつるんでいました。当時まだファミコンが一家庭にあるかないかの時代で、外で野球やサッカーをしたら、ファミコンを持っている友達の家にお邪魔して遊んでいました。下の子供なども多くいたので、外の遊びでは良くかくれんぼをしていました。私が住んでいた団地は建物の真ん中に公園があり、そこを中心にかくれんぼをしていました。ただ、隠れる場所は公園よりも建物内で隠れることが多く。建物も13階ぐらいあったので、逃げ回りながら隠れました。ある時いつもの建物内に隠れていただのですが、その建物の地下の狭い通路みたいな所を見つけ、その建物の地下に隠れた事があります。薄暗く余り周りが見えない状況でした。その時は最後の最後まで見つかる事もなく、気がつけば日が暮れて、私一人が取り残されていました。とても寂しく悲しい気持ちになりました。流石にあそこに隠れているとは誰も思わないし、見つける事は無理だなと。それ以後はかくれんぼでは使用せず、みんなの秘密基地として活用しました。
1979年生まれ

「大きな水溜りに水路を作った話」砂場遊びの思い出

北中島南方さん福岡県 1979年生まれ 男性砂場遊びで今でも鮮明に残っている思い出があります。それは忘れもしない、小学3年生の頃です。すでに砂場での砂遊びから卒業していたのですが、その日は近所の団地の公園にある大きな砂場(真ん中にジャングルジムがある)に、前日の雨の影響で水溜りが出来ていました。水溜りの広さは砂場全体の概ね3割程度でしょうか。今思えば、なぜあんなに興奮したのかは分かりませんが、砂場の向かって左側にあった水溜りをどうにか右側に移したい。そんな感情に突き上げられ友人と3人で行動に出たのでした。砂場自体にはもちろん高低差がありませんので、ただ単に水路を作るだけでは水溜りの大移動はできません。そこでまず、移動予定地(砂場の右側)の砂を使い、水溜りの中に山を築こうという話になりました。しかしやってみるとべちゃべちゃな泥が増えるだけだったので、水溜りの真ん中に堤防を作り、片方の水をもう片方に掬い移すことにしました。するとどうでしょう、水がなくなった側の元水溜りの部分から、いくつかの猫のフンが現れたではありませんか。もう3人ともテンションがた落ちです。必死に手で掬っていた水は、猫のフ...つづき
1986年生まれ

「サラ砂をかけて固くしたり 泥団子を作った」公園の砂場での思い出

ぽこたさん東京都 1986年生まれ 女性小学生の頃、学校が終わると公園に行き、よく砂場遊びをしていました。砂の山を作り友人と二人でそれぞれ別の方向から穴を開けてトンネルを掘ったり、そこに水を流したりして楽しんでいました。今考えると不思議な遊びですが、コップに湿った土を詰めてその表面にサラサラした白い砂を振りかけてを繰り返し、どれだけ表面を固くサラサラに出来るかという遊びをよくしていた思い出があります。また、それと似ていますが泥団子もよく作っていました。様々な大きさの泥団子をきれいに作れた時はとても嬉しかった記憶があります。プラスチックのバケツやかわいらしい動物の型が販売されており、砂場遊び系のおもちゃはポップでカラフルなものが多く、お気に入りのものを持って公園に行くのが嬉しかった。砂場遊びは友人とも一緒に楽しく遊べて、協力することや相手の作ったものを大事にする優しさも学べたように思います。
1975年生まれ

「誰が一番高く作れるか」砂の山とトンネルづくりの思い出

あずきさん香川県 1975年生まれ 女性幼少期のころはよく近所の公園の砂場で遊びました。家からバケツやスコップをもってきて、できるだけ高い山を作る遊びをしていました。誰が一番高い山を作れるか競争するのですが、遅れてきた友だちが手伝いに加わるのでグループになって二組ぐらいが競い合っていました。水を混ぜると丈夫な山が出来るので、水を持ち込んではどろどろになることもありました。山が出来上がると下の方からトンネルを掘ります。両側から少しずつ削っていきうまくつながって友だちと手が届いたときは嬉しかったです。うまくいかずに崩れてしまうときもありましたが、こりずに何度も砂の山を作っていました。夕方、帰るころには服も靴も道具も泥だらけでした。泥を家の玄関に持ち込まないよう注意されたり、すぐにお風呂に入るように言われたりして洗濯物を増やしてしまいました。お風呂に入っても爪の間に入った砂はなかなか取れなくて苦労したのを覚えています。
1989年生まれ

「安心出来る場所だった」砂場で遊んだ思い出

ガウチョさん北海道 1989年生まれ 男性子供のころは、今のように遊具が危険扱いされておらず、どんなに小さい公園でも滑り台にブランコ、ジャングルジムや雲梯などが置いてありました。活発な友達にとってはそういう遊具で危険な遊びをするのが流行っていました。ジャングルジムの上に立ったり、球形遊具でできるだけ早く回ったり…。友達と一緒の空間で遊びたい癖にそういう遊びには混ざっていけなかった自分にとって、砂場遊びは心の救いのようでありました。小さなバケツを持っていき、水飲み場で水を汲んでは砂を固め、積んで…高い塔や城のようなものを作れば一目おかれました。それをやっている間は当然他の遊びに混じる必要はありませんでした。エスカレートしていく遊びに入ってケガをするのが何より恐ろしかった私は、小さな砂場で何か熱心にやっている…という体で自分を守っていました。まあ高学年になるにつれそれも通用しなくなり、屋外遊びができないなら来るな、という雰囲気になってしまってからは行っていないのですが…小さい頃はよかったです。
1974年生まれ

苦い思い出もあった小学校の砂場

ユメカサゴさん神奈川県 1974年生まれ 男性私の通った小学校の校庭は他校よりも広く。体育、遊びの両方に使える大きなな砂場がありました。自宅が学校から近かった事もあり、低学年までは休み時間や休日に出掛け、幅跳び、相撲、大きな砂山作りなど、様々な遊びを楽しんでいました。ひとたび大きな構造物を作るとなると、周囲の事を一切忘れ夢中になってしまいます。そんな風にして苦労し作り上げたトンネル数本付きの砂山も、後の雨や授業により無残に崩されてしまうのが残念で仕方ありませんでした。楽しい思い出がある一方、嫌な事が無かった訳ではありません。校庭が大変広い上に私が通っていた頃は夕方や休日に誰もが学校へ自由に入れた為、近所から愛犬を連れ散歩に来る人がたくさんいました。それだけならどうという事は無いのですが、中には砂場の中に糞をさせて砂に埋め、そのまま放置し帰ってしまう人もいます。何も知らないまま遊ぶとそれが手に触れてしまい、言いようのない不快感と共に楽しい時間が台無しになってしまう事もありました。
1976年生まれ

「コースを作って車を走らせたりもした」年齢によって変わる砂場遊びいろいろ

すんすんさん兵庫県 1976年生まれ 男性 砂場での思い出と言えば、年齢によって異なります。幼稚園の頃はひたすら山を作ったり、女の子と一緒にままごとをした記憶があります。その段階が終わると、次はトンネル作りにはまりました。ただ山を作るだけではなく、山をしっかりと固めて、両サイドから慎重に掘っていったり、山の下の砂場の部分に穴を掘ったりしてトンネルを作りました。初めて貫通した時の喜びは今でも覚えています。その次の段階として、砂場に道を作って、コースのようにしてミニカーを走らせていました。小学校高学年の頃に、ミニ四駆が流行すると、みんなで砂場でコースを作って競争させました。ストレートのコースだけでは物足りなく、カーブを作ろうとしていましたが、ミニ四駆の力が強くて、カーブの壁を乗り越えてしまい、結局うまくカーブは作れませんでした。その後は、ラジコンを走らせるために、砂場でコースを作りました。今思えば、ずっと砂場で遊んでいた子ども時代でしたね。
1978年生まれ

砂のお城作りの思い出

遊び大好き少年さん東京都 1978年生まれ 男性子供の時は公園や幼稚園にあった砂場で友達と遊んでいました。砂場と言うと地味なイメージになりますが、遊び方次第ではクリエイティブで不思議な遊びだと思います。私の砂場遊びは、ディズニーランドのシンデレラ城などのお城を、砂で作る遊びでした。その必需品としてジョウロは絶対でした。持ち込んだジョウロに公園の水を入れて砂場で使います。水分を含んだ砂は、サラサラ感からドロドロ感に変わり、城のような建造物を製作するのに適しています。初めは上手くお城が作れず、途中で砂が崩れてしまうなどのトラブルにも遭いましたが、徐々にコツを掴むと、友達と一緒に大きな城作りに時間を忘れて没頭していました。一番の思い出は、雪のかまくらのような子供一人が入れるお城作りにトライしたことです。休日の朝早くに公園に友達と集合し、一日かけて完成するに至りました。その時の達成感は後の人生においても役立っています。
1977年生まれ

祖父の園芸店の砂遊び

きんぞくさん大阪府 1977年生まれ 男性祖父の園芸店では、園芸で使う大量の砂が積み上げてありました。そこでトンネルや落とし穴を作って遊びました。遊びの一つとして「どれだけ大きな山を作れるか」を競った事があります。その時、砂を奥深くまで掘っていたら、砂が粘土質になってきたので、最初は土粘土(つちねんど)として遊べるかも知れないと思い。必死になって穴を掘りました。すると、砂は粘土質から、少し湿って水を含んだ泥のような土に変わってきました。本で読んだ知識で、砂を奥まで掘り続けると水が出てくる事を思い出し、やる気が出て、水が出るまで夢中で穴を掘る事にしました。途中、その掘った砂を周りのあちこちに散らかしていたので、祖父からは【園芸で使う土なので綺麗に使いなさい」と怒られたりもしましたが、もう水が出るまで掘り続ける事に決めた私にとって、そんな事は聞く耳を持たず。1時間以上掘り続けると、何と底から水が出て来ました。これは感動。自画自賛しました。しかし、祖父からはもうあの遊びや止めてくれと言われ、結局1回しか出来ませんでした。とても良い思い出です。
1986年生まれ

雨上がりの砂場でお気に入りのスカートを汚してしまった思い出

うさぎちゃん福島県 1986年生まれ 女性小学1年生の頃だと思います。雨上がりに、砂場の砂が渇いていない状態で遊んだことがありました。そういう時は水をわざわざ持ってこなくても泥団子を作るのにはぴったりなのです。泥団子を作っても何もすることはないのですが、泥団子を作るのが楽しかったのです。今思えばおにぎりを作る練習にもなっていたような気がします。苦い思い出になってしまうのですが、その時私はお気に入りのスカートを穿いていました。お尻が付かないように、しゃがんで砂場遊びを楽しんでいたのですが、ついお尻をついてしまい、お気に入りのスカートを汚してしまいました。パンツまで砂と泥で汚してしまいショックでした。本当に気に入っていたので、あの時のスカートをハッキリと覚えています。それから雨上がりに砂遊びはしないようになりました。
1986年生まれ

「棒倒しを遊んだ」砂遊びの思い出

うさぎちゃん福島県 1986年生まれ 女性幼稚園の頃は砂場で遊ぶのは好きでしたが、小学生になるとあまり遊ばなくなりました。なぜなら小学生になると汚れが気になるようになったからです。小学校の砂場で遊んでいたのは低学年くらいまでだったと記憶しています。私は女の子としか遊ばなかったのですが、普通に砂山を作ったりしました。棒倒しもしました。砂山を作り、順番に砂山の周りをなぞるようにして崩していきます。それで棒を倒してしまった人が負けというゲームです。私の周りはお兄さんお姉さんのいる子が多かったので、その子たちが教わったものを継承したのかも知れないです。
1983年生まれ

「ジャングルジム鬼ごっこ」ルールと遊び方

東西さん広島県 1983年生まれ 女性ジャングルジムで遊ぶとなると、誰が一番高いところに登るのが早いかで競争するのがお決まりでした。グイグイ登って行って登頂を目指します。登頂部に座ると勝ちというわけです。その後、みんなでジャングルジム鬼ごっこという謎の遊びを考えました。鬼は2人で一段目しかグルグル回れないルール。逃げる人は登頂部分以外をグルグル逃げなければいけません。とにかく右に左にと鬼が迫ってくるので盛り上がります。ちなみに鬼も逃げる人も地面に足が付いたら反則です。手を伸ばしてタッチされそうになると急いで移動しジャングルジムの中に入って身を守ります。でも中にいられるのは30秒だけなのでまた逃げまどうのです。私はいざ鬼になるとなかなかタッチできませんでしたが、腕のリーチが長い友達は早々とタッチして鬼から卒業していました。うらやましく思いながらも追いかけますが手の力が限界を迎えとうとう地面に背中からゴロンと落ちたことがあります。「あっ!落ちた!」と言われ、誰からも心配されず反則の罰で5分牢屋に入れられるという重すぎる刑を処されたのでした。
1991年生まれ

「ジャングルジム鬼ごっこ」の思い出

葛さん岩手県 1991年生まれ 女性ローカルルール、というほどでもないのですが、ジャングルジムと鬼ごっこを組み合わせた「ジャングルジム鬼ごっこ」でよく遊んでいました。ネーミングはそのまんまなのですが。ルールは簡単で、鬼を決めてジャングルジムを登り回り、タッチされたら鬼を交代するというものです。ちなみに地面に足がついてしまったら強制的に鬼になります。今思うと何故地面でできるものをわざわざジャングルジムでやらにゃならんのだ、という感じです。ただ当時は、ジャングルジムという非常にハンデのある状況で鬼ごっこをすること、自分のフィジカルが存分に試される状況にあるスリルを楽しんでいたのだと思います。とはいえ、足があまり早くはなかった私にとって、狭い範囲での鬼ごっこは他の友人と同等に、つまり同じリングに立って対等に戦えることは楽しかったように感じます。残念ながら、白熱しすぎた友人の一人が落下して前歯を折り、それからジャングルジム鬼ごっこはお蔵入りになりました。
1982年生まれ

ジャングルジムの痛い思い出

ココちゃん京都府 1982年生まれ 女性小学生の頃に家から徒歩1分の所に公園があって、そこにジャングルジムがありました。学校から戻ったらすぐにランドセルを家に置いて、その公園に遊びに行って、夕方日が暮れた頃に母が「ご飯ですよ〜!」と呼びにきたら家に帰るという生活でした。近所の子供達と公園で集合しては鬼ごっこやケイドラなどをしつつ、ジャングルジムに逃げたりして遊んでいました。多少の雨ならへっちゃら。お構いなしでジャングルジムを登ったり降りたりしていました。余りに慌てて逃げていたので頭の上にあった棒を潜りそびれてしまい、「ゴーン!」すごい勢いで棒に当たって目がチカチカ。そのままジャングルジムジムの上から落ちてしまいました。落ちた痛みより、棒に当たった痛みの方が勝っていて頭がクラクラ。おでこに大きなタンコブが出来てしまったのを覚えてます。その後は、特にジャングルジムの上の方に登っている時には、棒にぶつからない方に慎重に遊ぶようになりました。
1970年生まれ

「回転型ジャングルジムの思い出」グローブジャングル

せいざいさん埼玉県 1970年生まれ 男性私はジャングルジムの中でも回転型のジャングルジムをマスターするのに燃えていました。小学校の20分休み、昼休みはだいたい回転型ジャングルジムで様々なクラスの子供と競い合いました。競い合う内容は二つです。どのくらいの速さまで回転させることが出来るかと、どのくらい回転しているジャングルジムにしがみつくことが出来るかです。前者については小学生には、しっかりとした測定はできないので、「体感(ジャングルジムの中に入った感じ)」で回る速さについて意見を出しあって、一番早いやつを決めていました。また後者の方、こちらも体感になります。「みんながおじけづいて、しがみつくことができない速さまで、しがみつけたら価値」みたいな感じで争っていました。手にマメを作りながら日々努力することで、まわりの友達からも一目置かれるまで成長したことを思い出します。上級生の先輩方にも声をかけていただき、嬉しかったのを覚えています。今改めて考えると、結構危ないことを行っていたなと思います。一種の根性だめしですね。現在はお勧めできません。
1984年生まれ

ジャングルジムで遊ぶ時の順番

おはるさん兵庫県 1984年生まれ 男性私たちがジャングルジムで遊ぶとき、まずは格子状の中を足から滑るように移動することから始まります。一人が滑るとゲームのパーティが移動するかのように続いて、他の人も滑って移動します。続いて条件をつけて遊びます。足を使ってはいけない、あるいは手を使ってはいけない等の条件をつけてジャングルジムを登っていきます。その際、必ずだれかは落ちていました。今思うと危険な遊びでしたが、当初はそれで大笑いしておりました。全員が上の方に上るとお互い手を取り合って、なぜか揺れてました。傍から見れば危険でしかない動きでしたが、なぜか誰も止めずに笑ってました。近所の公園にはジャングルジムからウンテイも続いていたので、そのままウンテイに移動しました。行き切ると戻って来て、またジャングルジムで暴れました。みんな、何かしら怪我をしていましたが、幸いにも骨折等の重症を負うこともなく遊んでました。ジャングルジムでの遊びは本当に楽しかったです。私たちは仲間と一緒に遊び、身体も心もリフレッシュすることができました。今では子供をジャングルジムに連れて行くことはありますが、できれば危ないことは...つづき
1992年生まれ

父による手作りの砂場で過ごした思い出

ねこちゃん京都府 1992年生まれ 女性小学校低学年の頃、外遊びが好きだった3人兄弟。いつでも遊べるようにと、父が砂場を手作りしてくれました。休日になると父が一生懸命作ってくれて、完成した日、兄弟3人で飛び跳ねて喜んだことを今でも鮮明に覚えています。砂場が出来たその日から、学校から帰って来てはすぐにバケツやスコップを持って砂場で遊びました。時には砂遊びに夢中になり、日が暮れても遊んでいる私たちの姿を、近所のおばちゃんたちが、「仲良しやなあ」とほほ笑んで話しかけてくれました。逆に母は「あんたらいつまで砂場にいるん~ご飯できたから片付けて入ってきな~」としびれをきらしていました。そんなある日、砂場にウンチを発見。大切にしていた砂場に誰が!!と兄弟3人で犯人探しが始まりました。朝学校に行く前、学校から帰ってから、ご飯を食べる前、食べた後、お風呂に入る前、入った後、寝る前。犯人捜しの日々に明け暮れました。いつものように3人で遊んでいると、砂場に1匹の猫がやってきました。以前、猫を飼っていたこともあり、猫はすぐに私たちになついてくれました。人懐っこいタイプのようです。猫もじゃれてきました。そして...つづき
1986年生まれ

ジャングルジムに登ろうとチャレンジ

うさぎちゃん福島県 1986年生まれ 女性私は身体障害があったので、ジャングルジムに登るという行為はとてもハードルが高くて、リスクもある行為でした。幼稚園の頃はカラフルなジャングルジム。小学生になると普通の可愛くないシルバーのジャングルジムがありました。そして幼稚園の物と違うのは明らかに高さがあるということです。それでも子供なりに、他の子と同じように近づきたいという気持ちが強く。少しだけですがの登ったりしました。もちろん怖くて上の方まで行くことはできないのですが、自分なりに少しでも登ったときは達成感があったような気がします。私の体のことを知っている子たちは、無理しなくて大丈夫だよとか気遣ってくれたことが嬉しかったです。もちろん無理をすることはありませんでした。登ったけれど降りられなくなってしまったら大変ですからね。でも一度でいいから一番上まで登ってみたかったです。
1986年生まれ

ジャングルジムでの痛みと楽しさ

べこさん宮城県 1986年生まれ 女性ジャングルジムで思い出すのは、思い切り頭をぶつけて悶絶した記憶です。学校の休み時間に友人たちとジャングルジムで遊んでいました。もうすぐ休み時間が終わると、皆が次々と離脱していくのに、私も慌てて続こうとしたときです。運動神経が悪く素早く動けない私は、焦って身を乗り出し、丁度頭上にあったジャングルジムの枠に頭を激突!ぐわんと頭に衝撃があって、しばらく悶絶していました。友人たちはすでに誰もいなく、ひとり痛みと闘う私…。痛さと寂しさが染みましたが、今思うとくすっと笑えてしまうエピソードです。そんな痛い思いをしても、懲りずにジャングルジムで遊ぶのが大好きでした。縦にも横にも動ける迷路に迷い込んだような楽しさがあって、そして何より、頂上からの眺めは最高です。友人たちと駄菓子を持ち寄って、ジャングルジムの枠に駄菓子が入った袋をくくりつけて、少しずつ取り出しては、おやつタイムを楽しんだこともあります。この歳になっても、あの時のわくわくした気持ちをまた味わってみたいな、なんてしんみり思うのでした。
1977年生まれ

「小学5年生の思い出」ジャングルジムの上で友達と見た夕焼け

勇気なしこさん兵庫県 1977年生まれ 女性昼休みにみんなで集まると、鬼がボールを持ち、ジャングルジムの下からの上にいる人を狙う遊びをしていました。鬼はジャングルジムの上には上がれません。ボールが当たらないように避けるスリルがあって楽しかったです。私が小学5年生頃、仲良しのなみちゃんという子がいました。休み時間もなみちゃんと一緒です。彼女は運動神がよく、特に走るのが速かったです。私も足が速く一緒にリレーの代表に選ばれていました。私たちは放課後によく小学校の運動場に集合して好きなお菓子を食べたり、大きくなったら何になりたいか話していました。ベンチのない校庭で、椅子代わりに腰をかけていたのがジャングルジムです。1番上に座り何を話しても楽しかった記憶があります。それからしばらくして、なみちゃんが引っ越すことになりました。隣町でしたが小学生の私にはとても遠く感じました。ジャングルジムの上で「大人になっても遊ぼうね」と約束しました。中学校は一緒になりましたが、あの頃の私には話しかける勇気はなく、中学時代は一度も話せずじまいでした。今の私なら話せたのに、昔の私は忘れ去られているかも?の気持ちが強く...つづき
1976年生まれ

「ジャングルジムの痛い思い出」ジャングルジム鬼ごっこ

ちゅんちさん兵庫県 1976年生まれ 男性ジャングルジムでの思い出と言えば、みんなで鬼ごっこをしたことです。範囲をジャングルジム内に限定して鬼ごっこをするのですが、段々と興奮してくると、注意がおざなりになってしまい、痛い思いをすることがよくありました。一つ目は、鬼として追いかけている時に、前を逃げている子の足が顔に当たったり、自分の手が踏まれてしまうことです。相手は全く悪意はないのですが、これがけっこう痛いので、小さい頃はここで誰かが泣いてしまい、遊びが終わりになるということがよくありました。そして、もう一つ、痛いのが、これは自滅するパターンです。自分がジャングルジム内にいることを忘れて、思い切り立とうとして、ジャングルジムで頭を強打することです。今、思い出してもあの痛みはたまりません。本当に脳震盪を起こして記憶がなくなるんじゃないかというぐらいの痛さでした。そして、これは誰のせいでもない。自分のせいなので、誰かに八つ当たりすることもできず。ただ自分に腹が立つし、頭も痛いしで、本当に辛い思い出ですね。
1957年生まれ

「初めて刃物を使わせてもらった」竹とんぼ作りの思い出

UFOさん東京都 1957年生まれ 男性初めてナイフを使って物を作ることを学んだのは、竹トンボ作りでした。近所の神社のお祭りで、屋台で売っていた竹トンボを見つけたときには狂喜乱舞し、徹底的にその飛ぶ秘密を解明しようと必死でした。その後、それをお手本に自分で実際に作ってみようと、四苦八苦しました。まず、基本となる材料の「竹」を手に入れることからどうすればよいのか分かりません。近所の材木屋のおじさんに聞いてみると、工場の隅に転がっている木材の切れ端なら、タダで持って行って良いと言われたので、「竹」ではないのですが、作ってみることにしました。当時は今のようなキャンプ用のカッコいいナイフなどありません。肥後守(ひごのかみ、と読みます)という和製ナイフを父親から借りて、早速まねして木を削り始めました。当たり前ですが、最初から上手く削ることなどできず、指を切っては、痛い思いをしながら、安全に刃物を使う方法を実践で身に着けながら、作業を進めました。最初に作ったその不格好な「竹とんぼ」は、それでも、何とか空高く舞い上がってくれて、本当に子供ながらに大いに達成感を得ることが出来ました。怪我をするからと、...つづき
1984年生まれ

「4年3組だけの思い出」竹とんぼ作り名人の担任の先生

璃桜さん東京都 1984年生まれ 女性私が小学校4年生の時、担任の先生が竹とんぼ作りの名人でした。ちょうど、小学四年生で図工担当の教師が指導する図工の授業が始まり、小刀を使う授業で竹とんぼを作ることになりました。それまで、担任の先生が全校朝礼で作った特別な竹とんぼを披露していて、私達のクラスも頑張って先生に負けない竹とんぼを作るぞ!と指導を受けながら、校舎から体育館までの距離を飛ばせる竹とんぼを作りました。小刀で竹とんぼを作り終え、暫くの間、休み時間はみんなで竹とんぼ競争をしていたある日、皆がさらに歓声を上げる出来事が起きました。当時人気だったギャグ漫画のアニメの最後にあったミニコーナーで私達のクラスとその竹とんぼを披露することに。以前から、担任の先生は色んなニュース番組などで、竹とんぼ名人として紹介されていましたが、まさかの大人気アニメのミニコーナーに出られるなんて先生も初めてのことだと言っていました。放送された時間はとても短いものでしたが、私もバッチリ映っていて、今でも楽しかったね!とクラスメイトと話しています。
1978年生まれ

児童館で初めて手作りした竹とんぼの思い出

工作マニア東京都 1978年生まれ 男性小学生時代に、クラスで竹とんぼが流行りました。きっかけはクラスの1人が、児童館の図工室で竹とんぼを製作し、学校に持ってきたことでした。休み時間に中庭に集まり、その子が竹とんぼを飛ばすと、旋回しながら上空に舞い上がる姿を見て、みんなテンションが上がりました。こうなると、自分でも竹とんぼを作りたくなり、学校が終わって帰宅後、ランドセルを投げるように玄関に置いてから児童館へとダッシュしました。図工室に着くと案の定、クラスのみんなも来ていて、満員状態でした。人数が多いので、5人1グループで制作することになり、いよいよ私の番になりました。児童館のスタッフの方にノコギリとヤスリの使い方を教わり竹とんぼを製作しました。出来上がったものに満足し、早速、プレイルームで竹とんぼを飛ばしました。この竹とんぼが、自分で初めて手作りした物となり、今でも当時の思い出とともに自宅の段ボールに保管しています。
【1990年代】

竹とんぼ失踪事件の思い出

りすこさん群馬県 1990年生まれ 女性小学5年生の頃、近くに住んでいる大工さんが子どもたち向けに木製おもちゃを作ってくれていました。「竹のおもちゃ」として、竹を削って作った竹トンボを持ってきてくれたので、年下の子を連れて遊ぶことになりました。その前に竹とんぼを触ったのは5、6歳の頃、しかも昔のおもちゃで遊ぶ教室で、壊れかかった竹とんぼだったので、あまり上手く飛びませんでした。大工さんの作った竹とんぼは今考えても、羽の薄さや削り方に工夫があって、作りもしっかりしていたのです。広いゲートボール場で遊び始めましたが、小さい子が飛ばしてもかなり高く飛んだので、期待以上のおもしろさで夢中になりました。少し風のある日だったので余計によく飛んだのかもしれません。そのうちもっと高く飛ばしたくなり、木陰にあるベンチに乗って飛ばしてみました。すると、風に煽られてベンチから離れた木の枝に引っかかってしまったのです。登って取るにも枝の先で、縄跳びの持ち手を投げても上手く取れず、雨も降ってきてしまい。大人に言って怒られるのも怖いので、その日は仕方なく帰りました。翌日も取れず、翌々日にボールを持っていくと、なぜ...つづき
1973年生まれ

小学生の時に遊ん竹とんぼキットの思い出

もふさん愛媛県生まれ 1993年 男性小学生低学年のころ、友達と一緒にキットで作った竹とんぼを持って公園に出かけていました。公園は周辺に木がたくさんあり、中央は広場のようになっていました。そこで私たちは竹とんぼを使って遊んでいました。初めは誰が作った竹とんぼが一番飛んでいられるかを競い合っていました。それに飽きると竹とんぼを使ったレースもしました。決められたゴールまで竹とんぼを落とさずにキャッチして飛ばした分だけ進むルールでした。風もよく吹いていたので、色んな方向に竹とんぼが飛んで行ってしまいます。勝敗の予想がつかなくて皆新鮮な気持ちで楽しんでいました。少ないお小遣いで買った駄菓子を商品にして竹とんぼをボトルに当てるゲームも盛り上がりました。100円台のお菓子を商品にした時は緊張感があり、誰もが本気で当てにいっていました。
1977年生まれ

「竹林は遊び道具を生み出す宝箱だった」竹とんぼの思い出

ブラックマークさん京都府 1977年生まれ 男性私の住んでいた地域は近くに竹林があり、竹が身近にありました。竹を使った遊具で遊ぶことが多く、竹とんぼや竹馬で友達と近所の広場に集まっていました。最初、竹とんぼは、人に作ってもらったもので遊んでいたのですが、少し大きくなったときに自分たちで作ろうという事に。肥後守を使って、竹を削り中心地点に二つ穴をあけ、そこに差し込める棒を作れば完成です。言葉で並べると簡単なのですが、これが中々難しい。羽根の部分の重さのバランスが取れていないと綺麗に飛んでくれないし、棒の太さが適切でないと手で回そうとした時に上手くいきません。肥後守を使って竹を削っていると、一度、手を滑らせてしまいケガをしたことがありました。その傷跡は今もうっすらと残っており、見る度に当時を思い出します。完成した竹とんぼをもって、近くの広場に集まり、誰が一番高く飛ばせるか競争が始まります。みんなそれぞれに工夫をした竹とんぼが飛び交う空は、とても綺麗だったなあと思い出します。
1987年生まれ

「父大活躍」竹とんぼ作りの思い出

みのさん大阪府 1987女性小学生の低学年時、私は、小学校の理科の時間に竹とんぼを作った事があります。子供でも作れる簡単なキットで、分厚い竹に串を刺しただけの簡単な物。あくまで、「空気抵抗を上手く活用すれば、宙に浮くことが出来る」を体験させる為の物であり、然程高性能では無かったでしょう。それでも私は、自分の手で作った物が宙に浮かぶ経験が楽しくて、持って帰って自慢げに両親に見せました。ところが、そこで、父の悪い癖に火が付いた。手先が器用で、木材加工を趣味としている父は、「そんな分厚い竹では、飛べる高さも時間もたかが知れている。自分が作り直す」と言って、竹とんぼを取り上げてしまいました。当時の私は、自分がせっかく作った物に手を加えられてしまう事が嫌で、大激怒。だが、そんな私を納得させ、黙らせるだけのスキルを父は持っていました。自信ありげに笑う父は、私の目の前で、「ここをもうちょっと削ったら、重さが減るから、もっと飛びやすくなる。ここを、こういう形にすれば、より空気抵抗を上手く活用できる」と一つ一つレクチャ-しながら、器用に竹とんぼを削っていきました。「父さんも子供の頃、こうやって作った。戦...つづき
1985年生まれ

小学校の授業で作った竹とんぼ

リコさん大阪府 1985年生まれ 女性小学校二年生の頃に学校の生活の授業で竹とんぼを作りました。「昔の人たちはどんなおもちゃで遊んでいたのか、今とどのように違うのか」を学ぶ授業の一環です。竹とんぼ作りは「竹とんぼキット」が用意されていたので、1から作るようなことはしませんが、微調整で削る作業をしました。工作は不得意なので上手くいかず、削ったところもギザギザになって出来上がりました。案の定あまり上手く飛ばず、「つまらないな」と思いました。出来上がった竹とんぼを持って、校庭でお友達と「誰が一番飛ぶか競争」をする子たちや、一人で黙々と飛ばす子、お友達とお話しながら飛ばす子、色々いました。私は、「授業中なのに校庭に出ておもちゃで遊ぶ」ということが楽しかったです。
1982年生まれ

知らないおじさんから守ってくれた「げんこつたかちゃんの思い出」

たきあまーちさん神奈川県 1982年生まれ 女性私の小学校の時の思い出です。私の小学校の裏にはおじいさんがやっている駄菓子屋がありました。みんなそこで駄菓子を買って公園で遊ぶというのが毎日のルーティンでした。そこの駄菓子屋の孫のたかし君は、まさにガキ大将でした。たかし君は「たかちゃん」と呼ばれており、駄菓子を買う子にこれはダメだ。こっちを買え。等、店に居ては少し困ったところもあり、威張っているところを見つかると、よくおじいさんにげんこつをもらっていました。ある日、公園でいつものように遊んでいると、知らないおじさんが話しかけてきて「学校でお母さんが困っている。一緒に来てほしい。」と言うのです。お母さんは家に居るはずだしどうしようと私が困っていると、たかちゃんが来て、「こいつの家は近くだから俺が家に一緒に行ってくる。」と言ってくれたのです。すると、おじさんはすぐにどこかに行ってしまいました。たかちゃんは、本当に家に行ってくれました。家には母が居て、一緒に行っていたらと思うと怖かったなと思いました。普段は威張っているところもあるガキ大将だけど、いざというときには頼りになるガキ大将でした。
1961年生まれ

「ちょっとした悪いこと」をしている怪しい先輩を遠くから観察するドキドキ スリルある遊び

まー次郎さん福岡県 1961年生まれ 男性休みの日、学校の校庭で友達と遊んでいたとき、その当時隣接した公共の建物の下の通気口から建物の床下に入る上級生を見ました。その上級生の挙動が怪しかったため陰で観察していたら、なにやら手荷物をもって入っていていき、しばらくしたら何も持たず手ぶらで出てきて去っていきました。この上級生は日ごろから酷なことしかしていなく、今でいえば「不良」と言われていて、ちょっと興味が湧き、先輩が去ったあと、ドキドキしながら悪友3人と先輩が入った建物の床下に入っていきました。そこにはなんと、新品のグローブとバット、ボール等がありました。これは万引きしたに間違いないと思いました。どうしようと悪友と相談し、とりあえずここから持ち去ってから考えようと言う決断になり、持ち去りました。後日絶対に先輩は犯行現場に来ると思い、1週間後休みの日に見張っていたら現れました。これにはあまりにも考えていたことにびっくりしドキドキしながら遠くで見ていました。建物の床から出てきた時のあの先輩の顔は忘れません。キツネにつままれたかのような顔をしていました。
1975年生まれ

いじめっ子から守ってくれたガキ大将の思い出

まみさん北海道 1975年生まれ 女性ガキ大将というのは、簡単に言うと近所の子達のリーダーでした。威張っていたけど決して傍若無人ではありませんでした。私は、子供の頃は小柄でいじめっ子からよくからかわれていました。その日は、初雪が降ったとても寒い日でお気に入りの毛糸の帽子を被っていたんです。そうしたら、公園でいじめっ子達に見つかってしまい。追いかけられて帽子を取られて、私は半べそをかきながら歩いていました。そのとき、ガキ大将の男の子が気がついて走ってきたんです。私が事情を話すと、その子は何も言わずに走っていきいじめっ子達から帽子を取り返してくれました。6歳の私にとって、10歳のガキ大将はとてもお兄さんに感じたのです。それから、ガキ大将がいる時は安心して遊べました。ガキ大将というと、いじめっ子のイメージを持っている人もいますが、そんな事はありません。弱い子にはとっても優しかったです。だから、どんな子でも一緒に遊べたのでないかと思います。
1976年生まれ

ガキ大将に巻き込まれた「ケンカごっこ」でやりすぎてしまった話

ゆでたまごさん大阪府 1976年生まれ 男性ガキ大将と言えばケンカのイメージですが、だいたいは弱い人など殴ったりせず、相応の相手を選んでしていました。私はおとなしく目立たない存在でしたが、成長期のタイミングの差からか、体が大きく力だけはありました。そんな体格の良さからか、目をつけられたのか、ケンカごっこに巻き込まれてしまいました。いつもは、ガキ大将の取り巻き同士でケンカごっこをしているのですが、飽きてきたのか私が目をつけられてしまいました。まずは一番弱そうな子が私の相手に選ばれました。ケンカといっても理由もなく殴り合いをする気も起きず、だいたいの人は「相撲もどき」の取っ組み合いでお茶を濁します。そんな事とは知らない私は、ガキ大将と大勢の取り巻きに囲まれ、パニックになり、必至で腕や足を振り回しました。ガキ大将たちは、最初こそ混乱する様子を見てみんなで笑っていました。私のほうが数十センチも身長が高く、必至に暴れるものだから、相手もたまったものではありません。ガキ大将も「殴れ、蹴れ」とはやし立てますが、偶然当たった腕や足のせいでいつの間にか流血沙汰になっていました。それ以後はケンカごっこはご...つづき
1976年生まれ

学校の運動場で遊んだキックベースとガキ大将

ヒロタさん大阪府 1976年生まれ 男性我々の世代はガキ大将といえばアニメや漫画ではバリバリの現役でした。当の子供たちは、「ガキ大将なんてお父さんの世代の話でしょう」と思っていたわけですが、実際には、いかにもガキ大将といった子がいて、遊びの中心になっていたものでした。小学校の頃の話ですが、私の学校では休憩時間といえばキックベースという遊びが流行っていました。キックベースというのは野球に似たスポーツです。違いはピッチャー役の人が人の頭程度の大きさのボールを転がして、それを蹴るという事。そしてランナーをアウトにする方法がタッチだけではなく、ボールをぶつけてもよいという事でした。ボールを蹴る力、そしてキャッチしたボールを相手にぶつける肩の良さが大事です。他にもボールをキャッチする技術や足の速さも必要です。チームとしてのバランスを考えるのが大変です。遊びの最初にはチーム分けをします。キャプテン同士でじゃんけんをして勝った方から順番にメンバーを決めます。このキャプテンはもうガキ大将やライバルたちが必ず勝手に引き受けてしまいます。こういう所がガキ大将たるゆえんなんでしょう。そして何よりクラスメイト...つづき
1978年生まれ

ガキ大将とのいたずらの思い出

あの日の少年東京都 1978年生まれ 男性私の身近にいたガキ大将は、小学生時代にいました。どんな子かというと、ケンカが強く、遊びではリーダーとなって色々なやんちゃをしている子でした。授業中でも居眠りや隣の席の子にちょっかいを出すなど、自由気ままにやりたいことをするガキ大将でした。そんなガキ大将も仲間意識は強いので、上級生に仲間がいじめられていると率先して助けたりしていたので人望はありました。放課後遊びもガキ大将が決めます。野球からサッカー、鬼ごっことワイワイと遊んだことを今でも覚えています。今となっては恥ずかしい話ですが、ピンポンダッシュも流行っていて、ガキ大将から指名された子が、特定された家のピンポンダッシュをしていました。当然、私もガキ大将から何件か指名されてやっていました。走って逃げるときは、いつもみんな一緒で、いたずらの快感に酔いしれて笑顔で遊んでいました。そんなガキ大将は、中学校は私立中学に行くことになり、最後の卒業式では、涙を流しながら仲間一人一人と握手しました。私も感動し号泣しました。色褪せないガキ大将との思い出です。
1968年生まれ

ガキ大将とカブトムシの幼虫の思い出

ポーちゃん宮城県 1968年生まれ 女性私の住んでいる地区には同級生は3人しかいませんでした。気が合わなくてもだいたい3人で遊んでいました。3人のうちの1人が、体も大きく態度も大きく常に主導権を握っている人でした。その子はいつも弟を従わせていました。私は何かあるとすぐに頭をパカパカたたかれていました。遊んだあとに泣いて家に帰って頭をたたかれたと母に訴えることが何度かありました。たまりかねて母は、相手の親に苦情を言いに行ったことがありました。その後、何事もなかったように誘われて私はその子の家に遊びに行きました。その日は普通に遊んでいましたが、その子は弟に「あれを見せてやったら?」と何かを持ってくるように命じました。庭から何かを持ってきた弟は私にそれを見せました。それは大きく成長したカブトムシの幼虫でした。虫が苦手な私はぎゃーっと泣きながら逃げました。弟は面白がって追いかけてきました。それをその子は大笑いしながら見ていました。それ以来私はその子の家には行かなくなりました。学校でもその子は親分でした。中学に入るとヤンキー仲間の中心にいました。その精神は小さい頃と変わらないなあと遠巻きに私は見...つづき
1999年生まれ

僕には優しかった 不良のガキ大将

パエリアさん兵庫県 1999年生まれ 男性僕は中学時代、身長がクラスで1番低く、性格もかなり大人しめでした。それに加えて体も弱く、肺に穴が空きかけて学校を休みがちな時期もありました。そんな中学時代に、学年のガキ大将的存在がいました。その人は体も同級生の中ではかなり大きく。素行不良で先生に目を付けられており、同級生達は誰も逆らえないような人でした。そのガキ大将とは中1の時クラスが一緒だったのですが、案の定弱々しい僕に絡んで来ていました。出会った最初の頃は、とにかく何をされるか分からなくて怖い印象だったのですが、僕の体が弱いことを知ると、「新しい肺買ったろか?」と冗談を言ってくるようになりました。嫌な感じでは無く、僕を明るく受け入れてくれるような感じでした。ガキ大将はその後も、確かに素行は悪かったのですが、僕にだけは優しくしてくれました。「肺買ったろか?」が会うたび挨拶のようになっており、時には隣を歩いて、僕が他の不良に絡まれないように、一緒に学校から家まで下校してくれる時もありました。今となっては肺も良くなりましたが、当時の僕はその優しさが嬉しくてたまりませんでした。
1975年生まれ

校内でも有名なガキ大将の思い出

なっつんさん愛知県 1975年生まれ 女性小学生の頃、友達とよく近所の公園でドッジボールや縄跳びで遊んでいると、同じ学年で、校内では有名なガキ大将が現れ、私たちは頻繁にその場所から追いやられました。そのガキ大将のまわりには2~4人くらい子分のような存在の子がついてきており、我が物顔で占領していた記憶です。逆らうといじめられるため、遊んでいる子たちは必然的に隅っこでこじんまり遊んだり、移動したりしていました。そんなガキ大将ですが、学年の遠足でも威厳を保っていて、お弁当タイムには、子分の子達のおかずとかお菓子を貰ったりしていました。ガキ大将のまわりには常に人がいる、色々な子が取り巻いていました。おそらく、そのガキ大将と一緒に居ればいじめられる事もないという考えからだろうとは思っていました。よく喧嘩もしていましたが、ひとりでも充分な様子で、大将になるだけあるとは感じていました。男の子同士の喧嘩でも本当に強かったです。どの時代にもそういったリーダー的な人は存在し、大人になった今はどんな感じなんだろうと、ふと思い返す時はあります。
1984年生まれ

「友達から映画鑑賞へのお誘い」遊びに誘われたつもりが 遊びではなかった思い出

ポンさん秋田県1984年生まれ 女性元々いじめられていた友人たちに「映画を見に行こう」と誘われました。これでいじめられなくなる?仲良くなれる?そう思った私は一緒に行くことを選びました。当日待ち合わせ場所へ行き、映画館へ行き、座席につこうとしたら「チケット落としたから拾え」と言われて拾いました。言い方から、仲良くしてくれるわけじゃないんだなと、思いながらも映画のチケットを買っていたので仕方なく、その場に残ることにしました。そして映画が始まるまで飲み物を買いに行かされたり、私がさもいないかのように会話に入れようとしてくれず。席もはじっこに座ってました。映画が終わり、やっと帰れると思い。少しほっとしていると「ちょっとお店見て回ろうよ」と友人たちが言い。お店を歩いていました。すると「これ見てよ」と友人たちに言われたので、それを見ていると「ばーか」といって友人たちは走って私たちから離れていきました。やっぱりこの人達とはなかよくなれないんだなと思い。悲しくなり、そのまま帰路につきました。
1996年生まれ

「復讐を誓った日」雪山の上から無理矢理ソリを押された思い出

まりもさん北海道 1996年生まれ 無回答私は小学生の頃、北海道のド田舎で暮らしていました。田舎だけあって人口も少なく、1クラス10人の小規模な学校に通っていました。当時クラスの中で特につるむ二人の友達がいました。二人の性格は、A子が正義感があり優秀な人気者タイプ。B子は、意志が強くわがままなタイプ。私はというと周りがわがままな子、個性強めな子が多かったため、みんなを繋ぐムードメーカー的な立場をしていました。毎日学校から帰ると二人の友達と遊びます。ある日B子の提案で雪山でソリ滑りをしようということになりました。3人でマイソリをもって雪山に集合し、いつものようにソリ滑りを楽しんでいたのですが、、、。B子がいきなり斜面に頭をむけソリで滑ろうよ。といいだしたのです。私は嫌な予感がしました。その予感は的中し、B子は私にやってみろと突然命令してきました。私は危ないので必死に拒否しましたが、二人に無理やりそりにのせられました。⁠A子は普段正義感はあるものの、面白いことには正義感は関係ないタイプです。そこがB子と意見があっていた様子でした。⁠その時雪山の下には大きな一本の木があり、二人は私の乗ってい...つづき
1994年生まれ

「手汗の思い出」バイキン扱いをして 触れられることを避けるいじめ遊び

紗々さん新潟県 1994年生まれ 女性あれは小学校3年生の頃です。私は元々汗かきの方で、特によく手に汗をかいていました。テストの答案用紙が手汗でふやけて書けなくなるほどです。ハンカチで定期的に手汗を拭うのですが、拭いても拭いても、止めどなくかいてしまうのであまり意味がありませんでした。それに気づいた同級生が、私の手汗のことを「〇〇(私の名前)エキス」とし、私や私に触れた物、場所に触れた人は体が腐るというルールを作りました。例えば掃除の時間などで私が使用した雑巾に触れた人は「〇〇エキスに感染して体が腐った」とされてしまうのです。私や私に触れた物、場所が避けられるのはもちろんのこと、誤ってそれらに触れてしまった人は「〇〇エキスに感染したぞ!」「うわ、体が腐ってる!」と1、2週間ほど囃し立てられたり避けられたりしていました。私から見ればいじめですが、他の同級生からすると「新しい遊び」という感覚らしく、喜喜として行っているように見えました。
1978年生まれ

「探偵ごっこの思い出」自分たちはいじめたつもりはないけれど 相手はいじめられた思ったゲーム

ぴかちゅうさん東京都 1978年生まれ 男性小学生時代に流行った遊びの一つに探偵ごっこがありました。遊び友達と考えたオリジナルの遊びです。内容は、じゃんけんで負けた一人が探偵役になり持ち物を学校の色々な場所に隠されます。隠した人達は、隠し場所のヒントを探偵役に示して、その情報をもとに探偵役は推理して隠された持ち物を探し当てるというものでした。ある時、初めて探偵ごっこをするクラスメイトが一人参加。じゃんけんで負けて探偵役になりました。その子の鉛筆や体育着などを、私を含めて6人で隠しました。そして、探偵役に隠し場所のヒントを一人ずつ教えていきます。私は音楽室のロッカーに探偵役の子の靴を隠したので、音楽関係のヒントを伝えました。全員からのヒントを教わった探偵役は探しにいくのですが、全然見つからず、時間だけが経過し夕方になりました。すると、探偵役が号泣し始めました。あまりにも見つからず、このまま家に帰れなくなると不安になったのが号泣理由でした。私達は、いじめという感覚は無かったのですが、後日、探偵役の子の母親からクラス担任に相談があり、本人はいじめられたと認識していたようでした。
1968年生まれ

「ある日突然」みんなで1人を無視をする遊び

ローラさん宮城県 1968年生まれ 女性小学校6年の頃、いつも5人くらいの仲良しグループで遊んでいました。そのグループは、クラス内で優等生で教師からいつも可愛がられている女子を目の敵にしていたグループでした。教師からは嫌われていました。でも、皆そこそこの成績をとっていたので教師もかなり扱いにくかったと思います。そのグループ内で、おそらく私が一番成績が良かったと思いますが、リーダーではなく、参謀的な存在でした。ある日の朝、登校すると教室内の空気がよそよそしくいつもと違う感覚がありました。友達に話しかけても視線を合わせてくれません。いつものグループで私に声をかける人はいませんでした。その日を境に小学校卒業までの私は無視をされつづけることになりました。とりあえず違うグループの人達に仲間にいれてもらったものの、どこか心に壁がありました。修学旅行などはどん底のメンタルだったのでほとんど覚えていません。いじめは無視だけでした。それでも私は毎日学校へ通うのがとても辛かったです。1年ほど耐えて考えて、その無視の理由をどうしても確認したくなりました。陰でこっそり、話しをしてくれそうなグループの一員に聞い...つづき