九州・沖縄エリアに住んでいた人が小学生の頃にした遊びの思い出

1987年生まれ

寄り道の思い出

エリックさん 沖縄県 1987年生まれ 男性 通っていた小学校から自宅まで、子供の足で40分位の道のり。家が近所でいつも一緒に帰る仲良しメンバーがいました。 いつものように帰っていると、友達が『俺、近道見つけたってば』と言って、いつもの道から少し外れ、林みたいな森みたいな崖に案内してくれました。 今考えれば、人が通った形跡もなければ、確実に遠回りになることは明らかでした。しかし、その時の僕らはその友達の話を疑いもせず、むしろ冒険心が勝り、皆んなで競争して崖を登ったのを覚えています。 木の枝に刺さったり、足を滑らせ落ちそうになったりしましたが必死で登りました。そしてついに頂上まで登り着いたら…使われていない畑と井戸、古い木造の家がありました。 今まで知らなかった場所だったからか、登り切った達成感からなのか、なぜか、気分が上がりまくったのを覚えています。 そこで僕たちは『ここを秘密基地にしよう』と考えました。その日から毎日のようにそこに行き、段ボールや、マンガ、その他遊び道具を持っていき、集まって遊んでいました。 結局、家までの到着時間はいつもの2倍以上かかっていました。
1977年生まれ

「学校帰りの思い出」高鬼をしていたら怒られた話

るぅさん 宮崎県 1977年生まれ 男性 学校帰りにした遊びといえば、電柱ごとにジャンケンして負けたら友達のランドセルを持つ「カバン持ち」、影をふまれたら鬼交代の「影踏み」、一人で帰るときは石や缶をどこまで蹴って帰れるか等、いろいろ思いついては遊んでました。 その中でも、覚えているのは、「高鬼」です。 鬼よりも高い所にいると鬼はタッチできないのですが、その場にいることができるのは10秒だけで、10秒内に降りて走って逃げるか、別の段差に移動して鬼から逃げるという、どこにでもある鬼ごっこです。 小学校1年生の時に、その「高鬼」をやっていて、鬼から逃げ回ってる時に丁度いい高さのブロック塀があり、それに飛び乗って一息ついた瞬間「コラーーー!」と怒鳴り声。 振り返ると、こじんまりとしたボロボロの家から、下はスカートのようなものに上は肌着だけで、ガリガリのお婆さんが出てきて「人ん家の花壇で、何してるか!」と、怒鳴りながら近づいてきます。 その姿が、絵本などで見る「鬼婆」に見えて、怖くなって周りを見たら友達も逃げて誰もいません。 自分も走って逃げました。必死に走りますが、すぐ後ろにいるような気がして...つづき
2000年生まれ

初恋の思い出

タマゴさん 沖縄県 2000年生まれ 男性 私の住んでいた田舎には、小さな公園がありました。その公園には滑り台と雲梯、そしてぐるぐるジャングルジム(グローブジャングル)がありました。 田舎と言うこともあり、同級生の友達はそこまで多くなかったです。毎日遊ぶのは決まって、近所のみわちゃん、もえかちゃんと言う女の子でした。幼稚園生の頃からずっと幼なじみで、小学生に上がっても3人で遊ぶことが多かったです。 毎日、学校が終わっては3人でランドセルを背負いながら、誰が公園へ早く着くかかけっこ勝負をしていました。 私たちは雲梯で遊ぶのが大好きで、着いてからすぐに、両端から雲梯にぶら下がり、「ドンジャンケン」を楽しんでいました。私は、みわちゃんの事が好きでずっとみわちゃんのチームに入っていました。 その後、決まってみわちゃんは雲梯で遊び疲れ、ぐるぐるジャングルジムに入って休んでいました。 僕は外で全速力走り回り、ぐるぐるジャングルジムを回して、みわちゃんにちょっとした意地悪を楽しんでいました。 走り回って心拍数が上がったのか、みわちゃんに対する思いでドキドキしているのかその当時は有耶無耶にしていました...つづき
1979年生まれ

石蹴りゴルフ

たかさん 大分県 1979年生まれ 男性 小学校低学年から3年生くらいまでにかけて、我々のグループでは石蹴りゴルフが流行っていました。 同じ学区の通学路としては比較的長い約1kmを楽しむために考えたもので、学校を出るときに平べったい小石を各自選び、ゴルフのように蹴って道を進んでいくというものでした。 ゴルフのように第何打とカウントしていき、もし水路や川などに石が落ちてしまった場合は、1打加えて新しい石を見つけていました。 最終的に一番近い人の家が近づいたら適当なマンホールを決め、そのマンホールの真ん中に石を止めて終了します。 順位はつきますが特に何かあるわけではなく、翌日になるとまた同じ調子で遊んでいました。 毎日同じだと飽きるので、変化をつけるためにたまにルートを変えるなど、子供ながらに工夫をしていた記憶があります。 それなりに盛り上がって楽しかったのですが、数は少ないものの車も通る道を使っていたので、現在では少し問題のある遊び方だったと思っています。
1974年生まれ

「学校帰りに石蹴りをしてたら」石蹴り遊び2種類

マルコさん 福岡県 1974年生まれ 男性 僕たちの世代は子供のころ、学校帰りに友達と石蹴りをして遊んでました。 石蹴りといってもいろいろ遊び方はあると思いますが、一つは「帰り道に家まで石を蹴って帰る」遊びです。 ルールは単純で、途中で石をドブに落としたり、田んぼに落としたりせず、家まで無事にたどり着くこと。 簡単なようで家までたどり着くまで何度も落とします。そのたびに新しい石でやりなおし。特に厳しいルールはないのですが、とにかく家まで石を蹴って帰っていました。 途中で友達は帰る方向が違うので1人になりますが、それでも一応はズルをせずにちゃんと石を蹴って帰りました。 ただこれにはひとつ問題があって、家に帰るまでかなり時間がかかります。 ある日のこと、友達と喋りながら、夢中になって石蹴りをして帰っていました。かなり時間がたってしまい、夕方の5時を過ぎていました。 気づいたのは家に帰ってランドセルを置いてからです。そう今日は夕方から塾に行く日だった。もう間に合わないと焦りながら、一生懸命に走って塾に行ったのを覚えています。 【おまけ】 もう一つの石蹴りの遊びとして、公園で友達が集まったらジ...つづき
1979年生まれ

「必ず捕獲される犬」授業中に廊下を通り過ぎる犬と先生

としさん 大分県 1979年生まれ 男性 現在では野良犬なんてほとんど見かけることはありませんが、私が小学生の頃はまだそんなに珍しくない存在でした。 校庭が広くて走りやすいからか、わりと学校周辺に犬が来ることが多かった記憶があります。うさぎなどを学校で飼うときは注意が必要でした。 そして年に1回は校舎に入り込んで、ちょっとした騒ぎを起こしていました。 多かったパターンは授業中にぼーっと廊下の方を眺めていると視線の先を野良犬が横切っていくというもので、通り過ぎていった教室から先生が出てきて犬が歩いて行った方向に向かっていきます。 我々はそんなに騒ぐことなく授業の再開を待っているのですが、しばらくすると必ず先生に抱えられながら再び目の前を通り過ぎて外に出されていました。 犬の方も人が追いかけてきたら警戒するだろうし、どうやって捕獲していたのかは分かりませんが、先生に抱えられて運ばれるときの犬の観念した様子が面白くて思い出せます。 良し悪しは別にして当時は捕獲後保健所に連れて行くことはなかったようで、そのまま外に帰されていたようです。
1964年生まれ

空き地で猫を拾ったときの思い出

よっちさん 鹿児島県 1964年生まれ 女性 小学5年生ぐらいの時、自転車で近くを走っていたら、空き地の脇に一メートル四方ぐらいのコンクリートの管があるのを見つけました。 長さも一メートルぐらいなのでちょうど立方体、といったところです。よくドラマなどで、親にられた子が隠れるようなものです。 中に入ってみると、小さな段ボール箱の中に生まれて間もない猫の赤ちゃんが入っているではありませんか。 小さな猫って毛がフサフサで本当に可愛いです。早速家に持ち帰りましたが、母がアレルギー体質なもので家で飼うことはかないませんでした。 ちょっと残念でしたが、また先ほどのところに戻り、子猫ちゃんと夕暮れまで遊びました。 そして翌日、このことを仲良しのクラスメイトに話し、ふたりでその空き地に行ったところ、子猫はもういなくなっていました。だれか猫好きな人に拾われたんですね。
1974年生まれ

「頑張りすぎたかくれんぼ」お家かくれんぼの思い出

マルコさん 福岡県 1974年生まれ 男性 かくれんぼと言えば、暇があるとやっていた遊びです。公園や学校や家などいろいろな場所でやっていました。 公園でかくれんぼをしたときのこと、僕は隠れる側で「もうーいーかい、まーだだよ」と言う声の中、みんなは一生懸命隠れる場所をさがしていました。 だだっぴろい公園に隠れる場所はほどんどなく、木の裏か、滑り台の後ろの茂みか、ベンチの下ぐらいでした。 案の定「もういいよ」の掛け声とともに、鬼役の子にみんな見つかってしまいました。 それはそれですぐ終わるので、次のゲームが始まるのですが、やはりかくれんぼをする以上、いかに見つからないかと子供ながらに考えます。 そして家の中でかくれんぼをすることになったとき、絶対に見つからない場所はないかと考えて、その場所を思いつきました。 押し入れの上の段のさらに上に子供が入れる場所があったのです。そこに登ってから隙間に入り置いてあった荷物に隠れました。 「もういいよー」の合図で鬼役が探し始めます。 狭い家なので友達は、いっときすると笑い声ともに見つかっていました。 僕だけはさすがに見つからないので余裕だと思っていました...つづき
1977年生まれ

小学生の時に見つけた 秘密の隠れ場所の思い出

ひでさん 福岡県 1977年生まれ 男性 当時私が住んでいたの団地では小学生の子供集会などがあり、そこで知り合った仲間とよくつるんでいました。 当時まだファミコンが一家庭にあるかないかの時代で、外で野球やサッカーをしたら、ファミコンを持っている友達の家にお邪魔して遊んでいました。 下の子供なども多くいたので、外の遊びでは良くかくれんぼをしていました。 私が住んでいた団地は建物の真ん中に公園があり、そこを中心にかくれんぼをしていました。 ただ、隠れる場所は公園よりも建物内で隠れることが多く。建物も13階ぐらいあったので、逃げ回りながら隠れました。 ある時いつもの建物内に隠れていただのですが、その建物の地下の狭い通路みたいな所を見つけ、その建物の地下に隠れた事があります。 薄暗く余り周りが見えない状況でした。 その時は最後の最後まで見つかる事もなく、気がつけば日が暮れて、私一人が取り残されていました。とても寂しく悲しい気持ちになりました。 流石にあそこに隠れているとは誰も思わないし、見つける事は無理だなと。それ以後はかくれんぼでは使用せず、みんなの秘密基地として活用しました。
1979年生まれ

「大きな水溜りに水路を作った話」砂場遊びの思い出

北中島南方さん 福岡県 1979年生まれ 男性 砂場遊びで今でも鮮明に残っている思い出があります。 それは忘れもしない、小学3年生の頃です。 すでに砂場での砂遊びから卒業していたのですが、その日は近所の団地の公園にある大きな砂場(真ん中にジャングルジムがある)に、前日の雨の影響で水溜りが出来ていました。 水溜りの広さは砂場全体の概ね3割程度でしょうか。今思えば、なぜあんなに興奮したのかは分かりませんが、砂場の向かって左側にあった水溜りをどうにか右側に移したい。そんな感情に突き上げられ友人と3人で行動に出たのでした。 砂場自体にはもちろん高低差がありませんので、ただ単に水路を作るだけでは水溜りの大移動はできません。そこでまず、移動予定地(砂場の右側)の砂を使い、水溜りの中に山を築こうという話になりました。 しかしやってみるとべちゃべちゃな泥が増えるだけだったので、水溜りの真ん中に堤防を作り、片方の水をもう片方に掬い移すことにしました。 するとどうでしょう、水がなくなった側の元水溜りの部分から、いくつかの猫のフンが現れたではありませんか。 もう3人ともテンションがた落ちです。必死に手で掬っ...つづき
1961年生まれ

「ちょっとした悪いこと」をしている怪しい先輩を遠くから観察するドキドキ スリルある遊び

まー次郎さん 福岡県 1961年生まれ 男性 休みの日、学校の校庭で友達と遊んでいたとき、その当時隣接した公共の建物の下の通気口から建物の床下に入る上級生を見ました。 その上級生の挙動が怪しかったため陰で観察していたら、なにやら手荷物をもって入っていていき、しばらくしたら何も持たず手ぶらで出てきて去っていきました。 この上級生は日ごろから酷なことしかしていなく、今でいえば「不良」と言われていて、ちょっと興味が湧き、先輩が去ったあと、ドキドキしながら悪友3人と先輩が入った建物の床下に入っていきました。 そこにはなんと、新品のグローブとバット、ボール等がありました。これは万引きしたに間違いないと思いました。 どうしようと悪友と相談し、とりあえずここから持ち去ってから考えようと言う決断になり、持ち去りました。 後日絶対に先輩は犯行現場に来ると思い、1週間後休みの日に見張っていたら現れました。 これにはあまりにも考えていたことにびっくりしドキドキしながら遠くで見ていました。 建物の床から出てきた時のあの先輩の顔は忘れません。キツネにつままれたかのような顔をしていました。
1996年生まれ

缶を蹴って怪我をしてしまった缶蹴りの思い出

まめちんさん 宮崎県 1996年生まれ 男性 小学生の時、近所の空き地で友達6人で缶蹴りして遊んでいました。 まず缶を探すところから始まります。みんなの家から空き地までが少し距離があり、家から缶を持ってくるのが面倒だったので、近くの公民館からもらうことにしました。 その日の朝が缶の回収日だったらしく、缶はほとんど残っておらずスチール缶が一つしかありませんでした。仕方なくスチール缶で缶蹴りをすることになりました。 早速じゃんけんをして誰が鬼になるかを決め、私は缶を狙うことになりました。缶から100mほど離れた木陰に身を潜め、缶を狙っていました。 開始から10分後、鬼が反対方向に向かって行ったので、その隙にダッシュして缶目掛けて走りました。自分は小さい頃から運動神経がよく。足は早かったので、鬼が戻ってくる前に思いっきり缶を蹴りました。 その時、右足の親指に激痛が走りました。自分が履いていた靴の親指部分は破けており、直で硬いスチール缶が親指の当たったのです。 なかなか痛みが引かず、親と病院に行ったところ、親指にヒビが入っていました。 皆さんも缶蹴りをするときに、スチール缶を使うのは気をつけて...つづき
1988年生まれ

牢屋へ仲間が助けに来てくれた ケイドロの思い出

さくらさん 福岡県 1988年生まれ 女性 遊びといえばケイドロ!というくらい小学生時代は毎日夢中で遊んでいました。 警察が泥棒にタッチすると捕まるという遊びなのですが、私は走るのが遅いので、警察になっても誰も捕まえることが出来ず。泥棒になればすぐ捕まっていました。 グラウンドの端にある木の下が「牢屋」で、仲間が助けに来てくれるのをずっと待っていたことをよく覚えています。そんな走るのが遅い私ですがケイドロが大好きでした。仲間が助けに来てくれるからでしょうか? 現在私の子どもも小学生になったのですが、今でも「ケイドロ」は人気の遊びのようです。 昔からある遊びを子どももまたしているんだなと思うと嬉しいですし、子どものエピソードを聞くたびになんだか優しい気持ちになります。 たくさん走って転んで怪我して立ち上がって。捕まっても仲間が助けに来てくれて・・私の青春の1ページにもなっている。ケイドロで遊んだ記憶は友達の声、チャイムの音、空の色までよみがえってくるような大切な思い出です。
1968年生まれ

すべってころんで楽しいローラースケート

昭和チルドレンさん 宮崎県 1968年生まれ 男性 小学生のころ、3つ上の兄がスケートボードを粋がって始めました。ホントに、流行り始めたばかりのころでした。残念ながら、バランス感覚や運動神経に乏しい私には、スケボーを乗りこなすことが難しかった。 そこで、まだ2本足だし、タイヤもたくさんついているローラースケートならやれるだろうと思い立ちました。ド昭和のローラースケートは、自分が普段履いている靴に、ヒモやバンドでしばりつけるようなタイプでした。 靴と一体型のような高級な物はとても買えません。靴にローラースケートをしばりつけ、まず立ち上がるところから大変でした。バランスを取るのに一苦労。 両足で立つことが出来るようになると、ゆっくり滑るのは、氷の上でやるスケートよりは簡単だなと思いました。 広い公園の固いコンクリートの上で滑る練習を一生懸命していました。慣れてくると、ちょっと大きめの石を並べて、8の字やスラロームで滑る練習をしました。 真っ暗になるまで夢中で滑っていた小学生時代が懐かしく思い出されます。
1964年生まれ

名前から節をつけて歌を作る 言葉遊び

よっちさん 鹿児島県 1964年生まれ 女性 あれはいくつの時だろう。小学校の高学年ぐらいだったでしょうか。ひとつの言葉遊びなんですが、 友達の名前の頭をとって、例えば山田さんなら、「山田さん、やがつく、やんやのやんすけ。焼いて焼かれて焼き殺された」というふうに節をつけて歌うんです。 このように意味が通じれば「やったー。意味が通じたー」と喜ぶ、というなんともいえない遊びをしてました。 そこに全く悪意はありません。山田さんも意味が成立して喜んでいます。やったー。てなもんです。ちゃんと成立させるのは難しいんです。山田さんは残酷だけど成功(!)。 あと、樋口さんも「轢いてひかれてひき殺された」で成功です。樋口さんもご満悦です。 私は「よ」で始まる苗字なので「よいてよかれてよき殺された」で不成立です。残念でした。 佐々木さんは「裂いて裂かれて裂き殺された」で大成功。 そうやって同級生の名前を片っ端から試して一喜一憂していました。残酷な殺され方をしても本人はご満悦、というだいぶ変わった遊びでした。言葉に興味をもつ年頃だったのでしょうか。
1983年生まれ

伝承されるお手玉遊び

砂子さん 長崎県 1983年生まれ 女性 お手玉は母や祖母など年齢が上の人ほどびっくりするぐらい上手で、一種の大道芸のような、芸の域になります。 幼少の頃私は、 2つのお手玉を回すのが限界でした。しかし、母や祖母は2個どころか、3個、4個、5個、さらなる個数まで、かなり高さをだしながらどんどん個数を増やして、なおかつとても早いスピード回していくことができました。 その様はとても、華麗で、慣れた手つきがとても格好良く思えたものです。 いつも教えてもらい、1つから練習し、2つに増やし、多く回すための手つきや投げ方を毎日練習していました。いつか祖母のようになれるといいな、と思いながらやっておりましたが、私の限界は3個までで、それが最高記録でした。母や祖母を心から尊敬したものです。 お手玉は手作りのものを使っておりました。母が作ってくれたものを使用しておりましたが、そのうち作り方も習い、自作するようになり、それがまた楽しかったです。 気に入った可愛い柄の布を購入してもらい、中に大豆やあずきを入れて、糸をつかって止めていました。それを使用して、またさらに使用しやすいお手玉の大きさや重さに変えてい...つづき
2002年生まれ

鬼ごっこと鼻血と滑り台

Narutoさん 沖縄県 2002年 男性 小さいころ、特に幼稚園にいたとき、園内の滑り台でよく遊んでいました。しかし今思うと、滑り台単体をみんな楽しんでいたわけではなかったように思えます。 私を含めて全員、鬼ごっこ等をするときに逃げ道の一つとして滑り台を使って、滑ることもあれば、滑り台を下から登って階段から下っていくという「逆滑り台」状態が多々起こっていたことを今でも覚えています。 今ではそんな危ないこともしなくなりましたが、あの頃はそういったことが心の底から楽しく思えました。 もう一つ滑り台で覚えているのが、友人がよそ見をしていたせいで滑り台に自分の顔をぶつけてしまい、それが原因で鼻血が出ていたことです。
1970年生まれ

ブランコの乗り方 3種類

ぽんたさん 熊本県 1970年生まれ 女性 【その1】 ブランコといえば一人で乗ったり、友達が背後から背中を押したりするのが普通だと思います。 私の小学校では一人がブランコに普通に腰掛け、もう一人が向かい合った状態で腰掛けてる子の両端に足を置き立ち漕ぎする二人乗りが主流でした。一人で漕ぐよりも、地面と平行になるくらいに高い位置に! ちょうど腰掛けている子の顔の前に、立ち漕ぎする子の股間がある。今思えば、なんとも気まずい体勢だったな⋯。当時は女の子同士だから恥ずかしさはありませんでしたが⋯。 男の子は一人で立ち漕ぎしている子ばかりでしたね。やっぱり男の子のほうが恥ずかしがり屋でデリケートなんでしょうね。 【その2】 ブランコ改造系だと、ブランコの鎖を乗る部分に巻き付けて、鎖を短くして乗るのも流行っていたかな~。これって鎖を巻きつけるときに気をつけないと、良く指を挟んで指が紫色になってたり。 【その3】 体を下向きで乗る部分にお腹を乗せて、その場でクルクル回って鎖を縄状にして地面から足を離す。反対回転のクルクルを楽しむだけの遊びとかもやったな。 伝わったかな?
1968年生まれ

たこ〜 たこ〜 天まで上がれ〜

昭和原人さん 宮崎県 1968年生まれ 男性 凧あげについては、失敗例と成功例が1つずつあります。 まず、うまくいかなかった思い出は、小学校の図画工作の授業でつくった立体凧です。長い割りばしのような木材にビニール生地を貼り付けて、細長い直方体の立体凧を作りました。 クラス中のみんながそれなりの格好に出来上がったので、運動場で飛ばす段取りになりました。みんなが全力で走り回りながら、凧を飛ばそうとしましたが、風がないせいか、重心がとれてないせいか、誰一人高く飛ばせませんでした。 先生も困った顔をしてました。それほどに、凧を高く飛ばすのはむずかしいのだなと感じました。 そのリベンジではありませんが、駄菓子屋で当時ゲイラカイトのパチモンを見つけて、再チャレンジしてみようとしました。パチモンだから、飛ぶかな~と心配でもありました。 その日は、風も強く、一旦飛び出したら、グングン高いところまで一気に登っていきました。糸を引っ張る風の力をリアルに感じ、すごい力なんだなと思いました。 タコ糸が終わりかけになるぐらい高く飛んだので、もう一組のタコ糸に結び付けて、さらに高くとばして、ゲイラカイトのパチモン...つづき
1964年生まれ

平たく丸くしたものをビー玉と呼んでいました

よっちさん 鹿児島県 1964年生まれ 女性 ビー玉とは、一般的に球状のものを指すと思いますが、私、及び私の周りではビー玉を潰して平たく丸くしたものをビー玉と呼んでいました、確か。 では、球状の丸いものはなんと呼んでいたかは記憶にありません、なぜか。 小学校の3-4年生ぐらいまでそれで遊んだ記憶があります。相手は専ら、隣に住むひとつ上のいとこです。 遊び方ですが、30個ぐらいのビー玉を手に持ち、一気に畳の上にサイドスローして、ランダムに散らばったビー玉の、とあるひとつを手ではじいて他のビー玉にぶつけます。 ぶつけたビー玉とぶつけられたビー玉の間に他の(第三の)ビー玉をはじいて、うまく通すことができたら成功というごくごく単純なルールです。通したそのビー玉は自分のものです。 そうやってビー玉が残り2個になるまでやって、最後多くのビー玉を持っていた方が勝ち、というゲームです。 ごくごく単純な遊びですが、暇さえあれば隣のいとこと、この遊びをしていた記憶があります。
1983年生まれ

大縄跳びの記録と自分のせいで記録を止められないという思い

梨の子さん 長崎県 1983年生まれ 女性 一時期クラスの女子全員で大縄跳びを昼休みに行うのがブームになりました。給食を食べた後、体育館の前の中庭に集合し、縄を回してくれるのは担任の先生と、身体が大きめのクラスメートでした。 最初は数回しか続かず、10回くらい続いては引っかかるを繰り返しておりました。そのうち掛け声を全員で言って盛り上がるようになり、どんどん跳ぶ回数が増えていきました。 とうとう、ある日100回の大台に乗りそうになりました。50.60.70と続き、100になる直前のとんでもない緊張感と集中力。自分のせいで記録を止められないという思い。その時の全力な気持ちを今でも鮮明に思い出します。 100にのったときの、ひゃーーーくという大きな掛け声とともに、おそらくそのあと200近くまで跳んだのですが、私の前の前の女子でとうとう引っかかってしまいました。 内心自分がひっかからなかったことへの変な安堵感と、その子がかなり罪悪感で落ち込んでしまったのをみんなで慰めて、なおかつ記録に喜んだのを覚えています。 そうやってこつこつ忍耐して練習したり、チームワークを大切に一体感を出していくことの...つづき
1998年生まれ

母と縄跳びの思いで

さくらさん 福岡県 1988年生まれ 女性 「お母さん見て!」と頬を赤くしながら必死に母を呼んでいた時が懐かしい。 運動が大の苦手な私が唯一出来る運動が「縄跳び」でした。 自宅に庭はなかったものの駐車場でいつも練習しては、室内で家事をしている母を呼ぶ。 母は合間で出てきてくれて、「おぉ!すごい!」と声をかけてくれました。 小学生になると毎年冬に縄跳び大会があり、前跳び、後ろ跳びが何回連続で出来るのかという記録をとっていました。 全員一斉に跳び始め、縄に足が引っかかった人や疲れてもう無理・・という人はその場に座っていく。 引っ込み思案で注目されるのが苦手だったけれど、いつも励ましてくれる母の顔を思い浮かべながら必死に跳びました。 すると私は最後の一人になるまで残ることができたのです。 それから30年以上が経ち自分が母になった今、子どもたちも縄跳びが大好きで 「お母さん見ててね!」頬を赤くしながら跳んでいます。 あや跳びや交差跳び、出来るようになっては何度も何度も。 その姿を見るたびに私の幼少期がよみがえる、母と縄跳びの大切な思い出です。
1993年生まれ

縄跳びから友情の思い出

TYさん 沖縄県 1993年生まれ 男性 私が小学校4年生の頃に転校した先の学校で、友達ができずに悩んでいました。普段その学校の男の子たちはサッカーをして遊んでいましたが、私はサッカーが苦手でした。恥ずかしいので参加するのを拒んでいました。 ある日の休み時間にみんなは、サッカーではなく縄跳びをしていました。縄跳びならできると思い。私も参加しようとしましたが、A君は私のことが気に入らない感じで仲間外れにされてしまいました。 数日後、縄跳びで遊んでいた男の子達がいたので、参加したかったのですが、A君がまた仲間外れにしようとしました。 私は、心の中で「またか…また仲間外れか」と思い。その場を立ち去ろうとしたら、B君が寄ってきて、私に「一緒に遊ぼう」と言ってくれました。その時はすご嬉しかった記憶があります。 そして私とほかの男の子たちと縄跳びをして遊んでいると、A君がいないことに気づきました。その場から立ち去っていたのです。その時は何とも思いませんでしたが、他の男の子たちがA君を仲間外れにしたのです。 その日の放課後、A君は運動場で一人で泣いていました。それを見た私は、A君がかわいそうになり、...つづき
1968年生まれ

「駄菓子屋で運命の出会い」ベーゴマ遊びの思い出

昭和チルドレンさん 宮崎県 1968年生まれ 男性 昭和の小学生の社交場、それは駄菓子屋。そこで友人と見つけたベーゴマ。当時の小学生は遊ぶ時間はイヤというほどあったので、友人とベーゴマにチャレンジしてみました。 怪しげな説明書きを見ながら、ヒモの先の方に1cmぐらい開けて結び目を2か所つくりました。その2つの結び目をとっかかりにして、ベーゴマにヒモを巻きつけていきます。 これがなかなか難しく。頼りなさそうな説明書きを真似しながら、巻きつけていきました。なんとか巻きつけて、固そうな地面に向けてスナップを効かせて回してみました。 最初は、むなしく転がるだけでした。しかし、時間だけはたっぷりある小学生だったので、友人たちとあーでもない、こーでもないと言いながら、何度も何度もチャレンジしました。 だれかのが、少しでも回り始めると、そいつのやり方を真似しながら、研究開発が進みました。これぞ昭和の遊びの醍醐味といった感じでした。 みんながそこそこ回せるようになったら、大きめのバケツに布を張って、ベーゴマの台をつくりました。台の布をぴんと張るのもコツがあって大変でした。 最初はその台の中に着地させる...つづき
1967年生まれ

熱き漢(おとこ)のメンコバトル!

昭和の生きた化石さん 宮崎県1967年生まれ 男性 駄菓子屋で買った四角いメンコや大判の丸いメンコを使って、公園で遊んでいました。会場は砂地ながら、固い地面のところでやっていました。 相手のメンコをひっくり返すと、そのメンコをもらうことができました。上手な子は、金属製の箱にぎっしりと戦利品のメンコを詰めこんで自慢していました。 戦略としては、できるだけひっくり返されないように、メンコ自体をセロハンテープなどで補強したり、水分や油分など、いろいろなものをメンコの紙に吸わせて重くしたりする作戦がありました。 相手のメンコを狙うときに、自分の足をそえて狙いやすくするのと、風圧をコントロールするテクニックがありました。 叩き付けるときの風圧を上げるために、できるだけデカいメンコを使うようにしていましたが、逆にデカいとターゲットになった時に、ひっくり返りやすかったので戦略的にも奥深いものがありました。 学校にメンコを持ち込むと、先生に没収される恐れがあったので、学校では牛乳瓶のふたでメンコバトルをしていたのも、懐かしい良き昭和の思い出です。 牛乳瓶のふたでも、アホのように盛り上がってやってました...つづき
1986年生まれ

お菓子のおまけのメンコと 牛乳のフタのメンコ

倉田さん 福岡県 1986年生まれ 男性 小学校時代にメンコ遊びが流行っていました。僕の世代ではアニメのお菓子におまけとして付いている丸型のメンコでした。みんな小学校の近所にあるお菓子屋でお菓子を買い、中に入っているメンコを使って遊んでいました。 最初はひっくり返したら相手のメンコが貰えるというルールで遊んでいました。自分のメンコが取られたくない人が増えて、おまけのメンコは収集目的のトレーディングカード的なものになりました。 牛乳瓶の蓋を平らにして乾かし、お互いメンコのやり取りなしというルールで遊んだりもしました。 牛乳のフタを何枚も重ねてテープで貼って分厚くして、分厚くしたフタをひっくり返せるか?と遊んだり、牛乳のフタを横につなげて広く平たいものを普通のメンコでひっくり返せるか?など色々なバリエーションの遊び方をしていました。
1998年生まれ

ゴム紐を跳ぶ娘にヒヤッとした思い出

ゆんさん 熊本県 1988年生まれ 女性 娘が小学校低学年の頃、近所のお友達、妹、弟五人でゴム跳びをしました。 始めはゴムの上を跳んでいく、とルールを決めて運動能力の高い子供たちの集まりだったようで私(163センチ)の胸下の高さまでなんなくクリアしていく子供たち。 ゴムにひっかかっても笑顔あふれる時間でしたが私の肩の高さまできたゴムを跳ぼうとしたわが子。笑顔で引っ掛かりにくるものだと思っていたら、本気で跳ぼうと全力で向かってきた娘。ゴムに引っ掛かかる予定でしたが、ゴムがぷつりと切れ、目の前には近所のお友達の車が…。ボンネットの上まで飛んでしまいました。 娘に怪我はなく、お友達の車にも傷はなく、なんとか無事に終わることが出来ましたがあの勢いで跳ぶ娘を目の当たりにした私や子供たち、そして娘自身もう二度とゴム跳びはしない。と誓うこととなりました。 今では息子が小学校の体育の時間にゴム跳びがあるそうで楽しいと話をしてきますが、私と娘はいつも苦笑しながら聞いています。少しだけ苦い思い出のゴム跳びでした。
1964年生まれ

輪ゴムを繋いで作ったカラフルな輪ゴム紐の思い出

きょんさん 鹿児島県 1964年生まれ 女性 小学校の5、6年生の時に夢中になって遊んだのが「ゴム跳び」です。 よく、テレビのバラエティー番組などで、タレントが小さい頃の遊びを語る時に、「ゴム段、ゴム段」と言うので、ゴム跳びと呼ぶのは鹿児島県ぐらいかと思っていましたが、ゴム跳びとも言うんだなあと少し安心しました。 ゴム跳びをするにはまず、長ーいゴム跳び用のゴムを作らなくてはなりません。普通の輪ゴムを繋げて大体2メートルぐらいの長さに作ったと思います。 誰か一人で作ったのか、みんなで手分けして作ったのか、そこら辺の記憶がなぜかありません。その繋がったゴムの色は赤、黄、緑、オレンジとやたらカラフルだったと記憶しています。 いつも放課後に校庭の決まった場所で、大体同じ仲良しのメンバーで、長い時間飽きもせずに遊んだものです。小学生なので短い丈のスカートを着てますが、裾をパンツの中に入れてゴムを跳びます。 遊び方ですが「丸跳び」という跳び方だったと思います。なぜか跳ぶ時、一回ジャンプしてからゴムに向かっていったと記憶しています。弾みをつけるためでしょうか。ゴムのことろまで来たら、思いっきり右足を...つづき
1980年生まれ

タッチ鬼の思い出

KHさん 佐賀県1980年生まれ 無回答 「タッチ鬼」は鬼にタッチされたら自分も鬼になってしまう、という遊びでした。 最初に鬼を決めて10秒の間になるべく遠くに逃げます。 鬼が来たらもちろん逃げるのですが、遊び始める前に「バリアルール」を決めておきそのバリアルールの中ではタッチされても鬼にならないというものでした。 バリアの例としては、 ・石の上に乗っていたらタッチされても鬼にならない。 ・滑り台の上はタッチされても鬼にならない。 ・けんけんしていたらタッチされても鬼にならない。 というものでした。 私には3歳下に妹がいましたが、妹がもしタッチされそうになっても「鬼じゃない子が手を繋いでいたときは鬼にならない」というハンデをつけて一緒に遊んでいました。 バリアルールで必死で逃げるのですが、バリアエリアに鬼がいて近づけなくなったりして、結局最後はみんな鬼になって終わるというものでした。 「タッチされた、されてない」とか「バリアだからなし」とか「バリアが間に合わなかった」とかで盛り上がり、夕方暗くなるまであの頃は走り回っていたなぁという思い出があります。
1968年生まれ

アメリカザリガニの思い出

昭和原人さん 宮崎県 1968年生まれ 男性 小学校時代、田んぼの用水路の流れがよどんでいるところでアメリカザリガニをよく釣っていました。 長い棒の先にタコ糸をむすびつけ、その糸の先にさきイカの切れ端を結び付けて準備オッケーです。 ザリガニが潜んでいそうな水草あたりにゆっくり下ろしていってじっくり待ちます。 ザリガニがさきイカに気づくと、しっかりとハサミでつまんだ状態で引き上げることができます。 ザリガニがいそうなポイントを下調べして知り尽くしていることが大切です。 友達と二人で競争したときは、二人でバケツからあふれるぐらい釣った思い出があります。 夢中になっていて時間があっというまに過ぎていました。 一人で、釣っている時に用水路にすべり落ちて全身水まみれ泥だらけになったことがありました。 今考えると命に関わっていたかもしれません。 安全にザリガニ釣りをするのは難しい気がします。 さすがにザリガニを食べようとしたことはありませんが、大人になった今、食べてみたらどんな味がするのか、興味はあります。 ロブスターっぽい味がするのでしょうか?
1976年生まれ

ぶらさがりの思い出

ぷくり子さん 沖縄県 1976年生まれ 女性 縁あって、私が通っていた小学校に娘も通うことになりました。 娘を見送りながら、久しぶりに校舎や校庭をながめると、小学生の頃に友達といろんな遊びをした事を思い出し、懐かしさでホッコリ。 変わらない物もあれば、変わった物もありました。 そんな中、校庭の片隅に苦手だった鉄棒が変わらず並んでいました。 体育の授業で鉄棒がうまく回れず、ぶら下がりも握力が弱かったのでダメダメでした。 そんなある時、鉄棒の上手な女の子と放課後遊ぶことになりました。 その子は、鉄棒が本当に好きなようで、体操選手かというくらいクルクル回っていました。 私もマネしてみようと鉄棒をつかみましたが、できないイメージが大きくて、ぶら下がって揺れているだけでした。 その姿を見てたのか、その友達が背中と背中を合わせて、後ろから押してくれ、まわる練習をに付き合ってくれました。 根気よく練習に付き合ってくれたこともあり、少しずつまわることが出来ました。 だんだんと上手くなってきたのをいいことに、調子にのちゃって鉄棒から落ちてしまって尻もち。 痛い思い出も浮かびますが、それ以上に一つのことを...つづき