1988年生まれ じゃんけん大会の思い出 tomjさん 広島県 1988年生まれ 男性 私の思い出は学校でのじゃんけん大会です。遊び方は簡単で、じゃんけんの勝ち抜き戦をして優勝者を決めるものでした。 私の小学校では、じゃんけん大会が毎年行われ、優勝者には賞状が贈られます。私は小学2年生の頃、この大会で優勝しました。 低学年が高学年に何かの競技で勝つことはほとんどないので、その時はとても嬉しかったです。 それから、毎年大会が行われるたびに参加し、友達と一緒に競い合っていました。 1988年生まれ男性
1999年生まれ 家までついていく ともさん 山口県 1999年生まれ 男性 小学校の頃、放課後になるとほぼ毎日、皆で僕の家の近所にある公園で遊ぶ約束をしていました。 毎日家に帰ってから集合をしていたのですが、ある時から「なんか一回帰ってから集合するの時間無駄だね」みたいな雰囲気になりました。 家に帰る途中、その公園までの道のりで友達の家に皆で寄って、その友達の着替えを待ち、その友達が着替え終わったら別の友達のところに皆で行って、また着替えるの時間を待ち、最後に僕の家に来て僕が着替えるのを皆が待つことで、全員が着替え終わったらすぐに遊べるということにしました。 これをすることで誰かが着替えている時間でも、友達と話せて楽しい時間をずっと過ごせるので、途切れることなく友達との時間が過ごせました。 今振り返ると友達との時間が途切れないのは良いが、肝心の皆で遊ぶ時間は逆に短くなっている気がしたので、効率が悪いことをしていたなと思います。けれど、楽しい思い出ではありました。 1999年生まれ男性
1983年生まれ 下校中に遊んだ思い出 今日は明日さん 広島県 1983年生まれ 女性 下校は学校から放たれた開放感たっぷりの時間。 一人の時は寄り道はしませんでしたが、友達と帰るときはおたまじゃくしやホネホネロックを探したり、ザリガニ釣りをしたり、蓮華の蜜を吸ってみたり、シロツメクサで花冠を作ったりといろんな思い出があります。 子犬が産まれた家があれば見ず知らずの家であっても“ピンポーン“とチャイムを押し、「子犬と遊ばせてくださーいっ!」と飼い主にお願いしていました。 ランドセルを放って夢中で遊んでいると、あっという間に日が傾き始めます。そろそろ帰ろうと言って子犬とお別れの挨拶をし、ようやく帰宅するのです。 そして一人の時の土曜の下校中は、密かに“この家のお昼ごはんはなんだろなゲーム”をしていました。土曜は3時間目までしかないのでお昼で授業が終わります。 帰りに歩いていると、人の家から焼きそばの香ばしい香りがしてきます。「ここは焼きそばか、ソースはオタフクだな。」 さらに進んでいくと今度はカレーライスのスパイシーな香りがたまりません。「今作った匂いじゃないな、昨日の残りかな?」 このように人の家のお昼メニューを心の中で言い...つづき 1983年生まれ女性
1983年生まれ オリジナル指相撲 すのーぼーるさん 広島県 1983年生まれ 女性 私は小学生低学年のころからなぜか指相撲が強く、男の子相手でも勝っていました。手が小さいのになぜ勝てるのか自分でも分かりませんが、気合と親指を俊敏に動かせるところが勝因なのかもしれません。 そうして指相撲試合を重ねるうちに、オリジナルルールが採用されました。“ピンチになったら人差し指使ってもいい“というルールです。このルールができたことで私は急にボロ負けしました。 指の長さが違うため人差し指が相手の親指に届かないのです。悔しい気持ちを胸にしまい、これではいけないと新たなルールを私も発案。 それは“3秒勝ち“というもので、今までは10秒間親指を捕まえたら勝ちでしたが、それを3秒に短縮。そうです、自分に有利なように設定したルールです。これは即座に「10秒親指つかめないからだろ!」と一瞬で却下されました。 仕方ないので実力で勝つために指の筋肉を強くしようと、親指と人差し指に重りをつけて上下を動かすという地味な運動を頑張りました。 結果、やりすぎて痛みが走り、しばらく対戦はお預けになったという切ない思い出です。 1983年生まれ女性
1995年生まれ 「自由時間での一コマ」天井に挟まったボールを落とすゲーム ばぼちゃん 山口県 1995年生まれ 女性 私が小学生のころミニバレー部に所属していました。放課後、学校の体育館で練習はとても楽しかったです。 私の小学校の体育館の天井は鉄の梁(はり)がむき出しになっており、練習中にバレーボールが高く上がってしまい、その梁に挟まってしまうこともありました。 練習中は、すぐに新しいボールを出して気にしないよう努めますが、そこは小学生、休憩に入るとそのボールを救出しようと、他のボールを高く上げて、挟まっているボールにぶつけるゲームを始めます。 私はこれが楽しくて仕方ありませんでした。なんといっても、自分がぶつけたボールで、挟まっているボールを救出できるからです。 誰がそのボールを救出できるか順番に挑戦します。そして、救出できたら、そのゲームに参加していたメンバ―だけでなく、ミニバレー部の監督コーチ含め笑い合います。 稀に、バトミントンのシャトルやテニスボール。そしてなぜか体育館シューズが挟まっていることもありました。 そして、これらのレアキャラを見つけるのも、楽しみの一つでした。 暇な時にボールを当ててそれらを救出することが一時期私たちミニバレー部の中で流...つづき 1995年生まれ女性
1983年生まれ 古典的なやり方でボールを取る先生たち ブックさん 広島県 1983年生まれ 女性 どこの学校の天井にも挟まったボールは存在するのではないでしょうか。わたしの小学校はバレーボールが盛んで、とても強い学校でした。バレーボールが体育館の天井に挟まっているのは日常茶飯事でした。 でも体育の授業で見たボールは次の体育の時にはなくなっています。内心あんな高いところに挟まっているボールを誰がどうやって取っているのか不思議でした。 しかし、夏休みに入る前日、体育館のドアが開けられ先生たちが掃除をしていました。その時に先生方が一生懸命天井のバレーボールを箒の柄(ほおきのえ)でつついて落としていたのです。思っているより古典的なやり方でちょっと衝撃でした。 そして体育館の真ん中らへんに挟まっているバレーボールは箒の柄では届かないのでテニスボールを投げつけて取っていました。こちらもボールを落とすためにボールを使うというなかなかのやり方。 それにしても私たちが知らない間に先生たちはこうしていろんな細かいところまでしてくれているんだなと思い、感謝でした。 1983年生まれ女性
1990年生まれ 回転ジャングルジムで遊んだ思い出 minさん 島根県 1990年生まれ 女性 回転ジャングルジムはよく小学生の頃に公園で遊んだ思い出があります。公園に着くと最初に滑り台、ブランコで遊び次に回転ジャングルジムで遊んでいました。 回転ジャングルジムはずっと遊べる遊具のひとつでした。最初に友達とじゃんけんをしてから誰が回すのかを決めて、「もう少し早くして!」と笑いあいながら遊んでいたことを思い出します。 乗っている方と回す方の遊び方があり、乗っている側はとにかく楽しく笑いが止まりません。 回す方は体力勝負であり、乗っている友達が楽しんでくれるように一生懸命走って回します。 途中自分の中で最高速度を回して自分も一緒に回転ジャングルジムに乗り込む時が、回す方の疲れを癒してくれるのです。 一生懸命走って回したので乗った時には汗をたくさんかいており、回っている時の風に当たっている時がとても気持ちが良かったと思い出があります。 1990年生まれ女性
1983年生まれ 回転する遊具「オーシャンの思い出」 マスクマンさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生時代に、オーシャンという遊具がありました。中心に柱があり、その周りに大きな輪っかが取り付けてある回転する遊具です。 子どもたちはみんな輪っか部分を持ち、一人がその輪っかを持って走ることでビュンビュン高速回転するのです。このスリルがたまらなくて怖いのにやってしまうという中毒性があります。 このような遊具なのでケガは当たり前でした。なんせ自分の力では止める事ができないので、手の力が限界になれば振り落とされるだけです。気付けば隣の子がいなくなっていたなんて事が毎回起きます。 いつも顔から落ちたり膝を擦りむいたりしていました。それでも季節関係なく、休憩時間に行列に並んででもビュンビュン回されていました。現代では考えられないくらい危ない遊具です。 回されるとずっと大笑いしている子と「止ーめーて!!!」と叫ぶ子に分かれます。私は後者。それならどうしてこの遊具で遊ぶのかと言われそうですが、なぜかやめられないのです。 体が浮く浮遊感とか自分の握力の限界を知る瞬間とか、小学生なりにいろんな感覚を楽しんでいました。 1983年生まれ女性
1983年生まれ 「平常心ではいられない」校庭に迷い犬の思い出 Neutralさん 広島県 1983年生まれ 女性 6年通っていて一度だけ野良犬が校庭に迷い込んだことがあります。茶色い雑種の犬でした。 ある日隣の教室がやけにザワザワしているのが聞こえて窓側から「犬がいる!」と大きな声が聞こえました。 私達のクラスもみんな窓から校庭を見てみると、犬がブランコの方へヒョコヒョコ歩いていきクンクンと辺りを嗅いでいる様子が見えました。 次は鉄棒の方へ。担任の先生も一緒に見ていましたが、「はい、授業に戻るよー」と言って授業の続きが始まりました。 しかしこのような事態で平常心を保てるわけがありません。校庭に犬がいる非日常感がワクワクします。早く学校が終わって触りに行きたいという気持ちでみんなザワザワします。 比較的窓側の席だった私はそれからも目で追っていたのですが、先生らしき人が出てきて犬を校門まで連れていき出してしまいました。ガックリです。 その後授業が終わり帰りの会を済ませ、靴箱で履き替えていると外に人だかりが。まだあの犬がいたのです。 みんな撫でて可愛がっています。私も頭をヨシヨシして触れました。近くで見ると結構大きくて首輪もしていました。結局、近所の飼...つづき 1983年生まれ女性
1975年生まれ 体育の時間に犬が参加してきた ワイジーさん 香川県 1975年生まれ 男性 小学校5年生のころ体育の授業。皆で校庭で整列していたら、どこからか犬が入ってきました。 中型犬で、首輪はしていなかったので野良犬っぽかったです。最初は遠巻きに見ているくらいだったのが、ボールを使い始めたら、遊んでくれると思ったのか、犬が興味をもって近づいてきてしまいました。 それだけなら良かったのですが、一人が急に走りだしたので、犬が喜んで追いかけてしまい。 走り出した子は、けっこう大柄な子で普段は威張っている感じの強い男子でしたが、どうやら犬が怖くて逃げたようです。え?あいつが?と意外に思いました。 犬は楽しんでじゃれて追いかけているようでしたが、逃げている子は必死です。みんなが「止まれ、止まれ〜」と叫ぶのですが、全然聞こえておらず。 「来んなー!来んなー!」と言いながら、パニックになって猛ダッシュ。可哀想だけど、ちょっと面白い構図になっていて、申し訳ないけど笑ってしまいました。 ついに追いつかれて、短パンのところを犬がじゃれて軽く噛んだようで、その子はコケて、半泣きに。 その騒ぎのせいで、校舎の窓からいろんな学年の人が顔を出して見ていて...つづき 1975年生まれ男性
1983年生まれ 陣取り紙相撲 霞さん 広島県 1983年生まれ 女性 昭和世代に育った人は紙相撲の経験があるのではないでしょうか。 紙相撲は紙で作った力士を台にのせて、指で台をトントン振動させて前へ動かしていきます。力士が倒れたり枠から出たら負け。 雨の日に家の中でしていた思い出があります。私たちはこのルールを徐々に変えていき、力士を6人に増やし相手の土俵まで攻め陣取るゲームを考えてやっていました。 10秒だけの対戦でどれだけ自分の力士が相手の土俵を陣取れているのかというゲームです。 力士の形に少し変化をつけてみたりして、どうすれば前に進みやすいよう考えて作っていました。 力士の名前は〇〇山、〇〇丸、そして外国人仕様の力士も作り”ステファニー”と女性の名前を付けていました。 友達もみんな”キャサリン”とか”ボブ”と、小学生なりに聞いたことのある精一杯の外国人の名前を付けていました。 ボブは非常に強く、前へ前へ進んでくる速さが凄まじいので陣取りに一番貢献した力士です。 次に紙相撲をする時はこのボブの取り合いになりました。 1983年生まれ女性
1983年生まれ 「どこでもできる陣取り」じゅうたんの絵柄を使ったジャンケン陣取り マヨさん 広島県 1983年生まれ 女性 友達の家に遊びに行った際、子供部屋のじゅうたんに電車の線路が描かれてあるおもしろいデザインでした。そこで陣取りゲームを思い付きました。 線路の端と端に別れてよーいドンでスタートを切り、駆け足で線路上に沿って進むと友達と会います。 ジャンケンして勝った方は進み、負けた方はスタート地点から再スタート。どんどん相手の陣地を取って行きます。 盛り上がるのはゴールにあと一歩で到達するという時です。 何度ジャンケンに負けてもすぐに踵を返しまたジャンケンになるのでやっている方も見ている方も大笑いしてしまいます。 ここでジャンケンに勝ったなら、さらにこの盛り上がりは加速し、あと一歩でゴールだった人がスタート地点から再スタートするというまるで人生ドラマのような光景が繰り広げられます。 この陣取りゲームは校庭の地面に描いて休憩時間にするほどみんなでハマりました。一人ずつではなく列を成してやる時もあり、ジャンケンしまくりで全然前に進めないなんてこともあり、楽しいゲームでした。 1983年生まれ女性
1988年生まれ 陣取りゲームの大会と戦略 tomjさん 広島県 1988年生まれ 男性 陣取りゲームは、子供時代に特に好きな遊びでした。私が育った地域では、公園や学校の校庭などでよく陣取り遊びをしていました。 陣取りゲームのルールは2つのチームに分かれて、それぞれの陣地を守りながら四隅の陣地をケンケンしながら奪い合うというものでした。激しい運動量と戦略的な要素が組み合わさっていて好きでした。 小学3年生の頃、学校で陣取りゲームの大会が開かれました。 私たちのチームは最初の試合では負けましたが、次の試合では2対1の構図を作り、相手チームの攻撃を見事に防ぎ、勝利を手にしました。自分たちで戦略を立てて勝ち取ったこの一勝は大きな自信になりました。 陣取りゲームは、ただ走り回って遊ぶだけではなく、相手チームの陣形や戦術を観察して、自分たちの戦略を立てます。遊びを通じて、チームワークや戦略的思考を学びました。 1988年生まれ男性
1983年生まれ スケボーで大惨事の思い出 森のパンさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、家の前に広い空き地があり、兄とよくスケボーをしていました。 普通に乗るのでは飽き足らず、ちょこんと体育すわりをして後ろから勢いよく押してもらって、どこまで進むかという遊びをしていました。 空き地内のでこぼこした地面や坂道を通ったり、いろんな乗り方をして遊んでいたのですが、ある日兄がお腹でスケボーに乗りスーパーマンのように飛ぶ格好をして「スケボーを押してー」と言って来ました。 言われた通りに押すと、スーパーマンのようにスーッと進んでいるのがおかしくて何度も何度も押し、この”スーパーマン乗り”は流行り、繰り返ししていたのですがある時、急に兄が「痛ーい!!」と叫んだのです。 この時兄はスーパーマンの態勢でしたがいつものように手をグーにして左手を腰に右手を伸ばしておらず、手のひらを地面につけていたそうで、それに気づかず私がスケボーを思いっきり押したのです。 その結果、右の中指の爪が全部めくれるという大惨事になってしまい、両親が青ざめ病院を探して車で行ったのを覚えています。 病院内で爪を取り除く手術がされ兄の泣き声が院内に響き渡りました。...つづき 1983年生まれ女性
1983年生まれ 「女性ドラえもんのマネで大騒ぎ」お家かくれんぼの思い出 ちぃ子さん 広島県 1983年生まれ 女性 友達が家に遊びに来て5人ほどで遊んでいました。 最初はおままごとをして遊び、次はリカちゃんで遊び、その後はかくれんぼという流れがいつもの遊び方。 ジャンケンをして鬼が50秒数え、みんなが隠れます。と言っても家の中なので隠れる場所は限られているので見つけやすいです。 この時、私はドラえもんが押入れで寝ているのを真似しようと思い付き、押入れの中にそーっと隠れました。 「もーいいかーい!」と言う声が聞こえます。いろんなところからかすかに「もーいいよー」と返事があります。 襖を少しだけ開けて見てみると鬼はキョロキョロ。そしてどんどん見つけていきます。 すると私は押入れの布団の中でだんだんと眠くなってしまいうとうと…。そして寝てしまいました。 外がザワザワしている声で目が冷め、襖を勢いよく開けると一斉に母と友達が目を丸くしてこちらを見ています。 鬼が私だけ見つけられず母にいないと言って騒ぎになっていたのです。その後こっぴどく叱られた私でした。 1983年生まれ女性
1975年生まれ 「誰が一番高く作れるか」砂の山とトンネルづくりの思い出 あずきさん 香川県 1975年生まれ 女性 幼少期のころはよく近所の公園の砂場で遊びました。家からバケツやスコップをもってきて、できるだけ高い山を作る遊びをしていました。 誰が一番高い山を作れるか競争するのですが、遅れてきた友だちが手伝いに加わるのでグループになって二組ぐらいが競い合っていました。 水を混ぜると丈夫な山が出来るので、水を持ち込んではどろどろになることもありました。 山が出来上がると下の方からトンネルを掘ります。両側から少しずつ削っていきうまくつながって友だちと手が届いたときは嬉しかったです。 うまくいかずに崩れてしまうときもありましたが、こりずに何度も砂の山を作っていました。 夕方、帰るころには服も靴も道具も泥だらけでした。泥を家の玄関に持ち込まないよう注意されたり、すぐにお風呂に入るように言われたりして洗濯物を増やしてしまいました。 お風呂に入っても爪の間に入った砂はなかなか取れなくて苦労したのを覚えています。 1975年生まれ女性
1983年生まれ 「ジャングルジム鬼ごっこ」ルールと遊び方 東西さん 広島県 1983年生まれ 女性 ジャングルジムで遊ぶとなると、誰が一番高いところに登るのが早いかで競争するのがお決まりでした。グイグイ登って行って登頂を目指します。登頂部に座ると勝ちというわけです。 その後、みんなでジャングルジム鬼ごっこという謎の遊びを考えました。鬼は2人で一段目しかグルグル回れないルール。 逃げる人は登頂部分以外をグルグル逃げなければいけません。とにかく右に左にと鬼が迫ってくるので盛り上がります。ちなみに鬼も逃げる人も地面に足が付いたら反則です。 手を伸ばしてタッチされそうになると急いで移動しジャングルジムの中に入って身を守ります。 でも中にいられるのは30秒だけなのでまた逃げまどうのです。 私はいざ鬼になるとなかなかタッチできませんでしたが、腕のリーチが長い友達は早々とタッチして鬼から卒業していました。 うらやましく思いながらも追いかけますが手の力が限界を迎えとうとう地面に背中からゴロンと落ちたことがあります。 「あっ!落ちた!」と言われ、誰からも心配されず反則の罰で5分牢屋に入れられるという重すぎる刑を処されたのでした。 1983年生まれ女性
1973年生まれ 小学生の時に遊ん竹とんぼキットの思い出 もふさん 愛媛県生まれ 1993年 男性 小学生低学年のころ、友達と一緒にキットで作った竹とんぼを持って公園に出かけていました。公園は周辺に木がたくさんあり、中央は広場のようになっていました。そこで私たちは竹とんぼを使って遊んでいました。 初めは誰が作った竹とんぼが一番飛んでいられるかを競い合っていました。 それに飽きると竹とんぼを使ったレースもしました。決められたゴールまで竹とんぼを落とさずにキャッチして飛ばした分だけ進むルールでした。 風もよく吹いていたので、色んな方向に竹とんぼが飛んで行ってしまいます。勝敗の予想がつかなくて皆新鮮な気持ちで楽しんでいました。 少ないお小遣いで買った駄菓子を商品にして竹とんぼをボトルに当てるゲームも盛り上がりました。100円台のお菓子を商品にした時は緊張感があり、誰もが本気で当てにいっていました。 1973年生まれ男性
1984年生まれ 「缶蹴りのルールと遊び方」と「こち亀の両さんの話」 おかずさん 岡山県 1984年生まれ 男性 小学生の頃、私は学童保育に行っており、よく缶蹴りをして遊んでいました。学童保育の近くの公民館でやることが多かったです。 鬼は、缶を立てて30秒ほど数え、隠れている人を探しに行きます。 誰々を見つけたら、素早く缶のところまで戻り、缶を踏んで、誰々みっけ、と言えばその人は捕まります。 逆に、鬼に見つかったとしても、鬼より早く缶を蹴れば、また隠れることが出来ます。 岩場の影、倉庫や押し入れの中、木の裏、縁の下など、様々なところに隠れていました。 あるとき、私が見つかっていない最後の1人となりました。岩場の影から素早く走り、缶を蹴って、捕まった人全員が解放された時は、爽快でした。 遠くに蹴れば、鬼はそこまで缶を拾いに行って元の位置に戻るまで時間がかかります。その間に解放された人は遠くまで逃げる事ができます。 おまけ 大人になって、漫画のこち亀で缶蹴りの話を読み、昔を懐かしむとともに、イタリア人が名前が複雑で、顔もよく似ており、それでも両津が全員捕まえたという話があり。発想が面白かったです。 1984年生まれ男性
1986年生まれ 缶蹴りとお友達の思い出 パンさん 岡山県 1986年生まれ 女性 小学生の頃、よく缶蹴りをして遊びました。缶を蹴る力や場所、タイミング、いかに仲間を救えるかなど、意外と頭を使っていたことを思い出します。 隠れる場所によってはしっかり参加できずに終わってしまうこともあります。 私がが大きくなるにつれて、盛り上がりたいと思ったら積極的に缶を蹴りにいったり、休みたい時には見つからない場所に隠れたりと、状況によって動いていました。 ただ、鬼になった時には、なかなか勝てないこともあります。絶対に鬼にはなりたくないと思っていました。 缶を蹴る方が上手く協力体制を取っていると、鬼が交代出来なかったり、公園や学校が広すぎたことも原因だったかもしれません。 今思えば、範囲を区切ってやっていれば、鬼の私ももっと楽しめたように思います。 私が不甲斐なかったこともあり、鬼を2人にすることもありました。それはそれで私も楽しめるようにしようと、子どもなりに考えてくれたのでしょう。 良いお友達に恵まれたと、今になって感じたことでした。 1986年生まれ女性
1984年生まれ 「ケイドロの思い出」遊び方とコツ おかずさん 岡山県 1984年生まれ 男性 私は小学生の頃、学童保育に通っていました。そこでよくケイドロをして遊んでいました。警察チームと泥棒チームに分かれて、警察が泥棒を捕まえるというゲームです。 サッカー場の半分を使っていました。サッカーゴールに警察に捕えられた人が集まっています。泥棒の全員が警察に捕まれば警察チームの勝ちです。 ある泥棒が、サッカーゴールで捕まっている別の泥棒をタッチすれば、警察から解放されます。 制限時間を設け、1人でも泥棒が生き残っていれば泥棒チームの勝ちです。制限時間は10分が多かった気がします。 泥棒が、捕まっている泥棒を立て続けにタッチして行けば、どんどん泥棒が解放されていくのですが、警察側はそれを阻止したいので、終盤は特に、サッカーゴール前に集結して、泥棒がサッカーゴールに近づいてくるのをマークしていました。 一方泥棒側は、1人でも生き残っていれば勝ちなので、終盤は捕まった泥棒をあえて助けずに生き残る。というのも作戦でした。 1984年生まれ男性
1983年生まれ 雪合戦で流血の思い出 しもやけさん 広島県 1983年生まれ 女性 雪が積もった日、校庭で急遽雪合戦をすることになりました、クラス半々に分かれてみんな必死な形相で雪玉を投げます。 雪玉はけっこう固く、イヤーマフをしたりニット帽をかぶっていい学校ではなかったので、頭や耳に当たると痛くてたまりませんでした。 でも一生懸命に雪玉を作る係に徹したり代わって投げに投げまくったりすると、寒さはどこかへ行ってしまいます。吐く息は白いのに背中は汗でびちゃびちゃという感じです。 一通り楽しんだ後、教室へ戻るように先生から指示があり下駄箱へ向かっていました。男子数人はまだ後ろの方で投げ合っています。 そして「あっ!!」という声が聞こえて振り向くと遊んでいた男子が投げた雪玉が私の顔にクリーンヒットしました。私の感覚では鼻に当たったと思って思わず鼻を手で覆いましたが、流血しているのは口からでした。 友達がトイレに連れて行ってくれ、鏡を見ると上唇と歯茎から血が出ていて前歯が真っ赤に染まっています。今でも傷跡が残っていて、楽しい思い出は痛い思い出と共に刻まれました。 1983年生まれ女性
1986年生まれ 珍しく雪が積もった日に 祖父が作った小さいかまくら 桜と雪さん 福島県 1986年生まれ 女性 私の住んでいる地域は福島県ですが雪があまり降らない地域でした。私は寒いのが苦手だったのですが、雪が降るとちょっと嬉しいという気持ちもありました。 珍しく雪が積もったその日は休みでした。祖父の家に遊びに行き、祖父が小さめではありますがかまくらを作ってくれました。 私と妹がやっとギリギリ入ることのできるくらいの小さいサイズのかまくら。テレビでかまくらを見て、凄く憧れていたので、実際に入ることができたことが嬉しかったです。 かまくらが作れるくらい雪が積もったのはあの日くらい。一度切りではありましたがいい思い出になりました。探せばその時の写真がどこかにあるかも知れません。 1986年生まれ女性
1973年生まれ 初めて作った かまくらの思い出 ぱぴこさん 徳島県 1973年生まれ 女性 私が子供のころは雪が数cm積もることがよくありました。学校のある日は雪道を友達と雪で遊びながら集団登校したり、休み時間は校庭で雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりしました。 ある時とてもたくさんの雪が積もりました。その日は学校が休みだったので姉と自宅の庭で雪だるまを作っていると「かまくらを作ってみよう」と姉が言い出しました。 かまくらなんてテレビで見たことがあるだけで、作り方もわかりません。父に教えてもらいながら、雪をかき集め半日以上かかって何とか小さいながらも完成しました。 小さいので1人ずつしか入れない大きさでしたが、初めて入るかまくらの中は雪の中なのに暖かく、不思議な感じがしたのを覚えています。手袋が冷たくなっていることも忘れて、その日は姉とかまくらでたくさん遊びました。 人生の中でかまくらを作ったのはこの1回だけでしたが忘れられない楽しかった思い出として残っています。 1973年生まれ女性
1983年生まれ 雪ウサギの思い出 かつおぶしさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、珍しく雪が積もった日がありました。こういう日はなぜか早く目が覚めてしまいます。 家の前に積もった雪で早速雪だるまを作り、枝を手に見立ててミカンを目にしました。ニット帽をかぶせてできあがり。すると妙に愛情が湧いてくるので不思議です。こんな雪だるまを作り続けた結果、家の前の綺麗な雪がなくなってしまいました。 少ない雪で他に何か作れないかと思っていると母が「雪ウサギが作れるよ」と教えてくれました。雪ウサギは南天の赤い実を目にして葉を耳に見立てます。雪だるま以外のものを作ったのは初めてで、想像以上にかわいく作れたので嬉しくなってしまいました。 学校へ行き、友達にこの事を話すとやってみたいと言ってくれ、放課後作ることに。しかし南天の実がありません。小石や葉をちぎって目にしてみましたがあまり可愛くならず。私は一旦帰って庭の南天の実を取りまた学校へ走りました。 行き帰りで30分全速力。日頃、何かに熱中することはありませんがこういう情熱は持っているのです。無事に可愛い雪ウサギが作れて満足した私たちでした。 1983年生まれ女性
1990年生まれ スリリングな登下校通学路 ランドセルへのイタズラ遊び レノレノさん 広島県 1990年生まれ 女性 一緒に帰っている同級生の背後へこっそり忍び寄り、ランドセルの底面へそっと手を伸ばす。気付かれないようにかぶせの留め具を回し、ランドセルの中身が見える位置までかぶせを上へ跳ね上げさせることができれば、成功。 いかに相手に悟られずににランドセルを開けることができるか。そのスリルが癖になり、小学校の登下校時は仲間内で駆け引きを楽しんでいました。 この遊びを考案したのは私。当時見ていたアニメやゲームの影響で、スパイや裏組織のような存在に憧れを持っていました。 表立った活動はせず、気配を消して活躍するような存在。自分もそういう人間になりたいと思い、足音を消して歩く練習をしていたこともあります。 その延長で友人のランドセルの留め具を狙い始め、すっかりハマってしまったという訳です。 しばらく経つと、いつの間にか私達以外のグループにもこの遊びは広まっていきました。ランドセルを開けられないようにみんなが後ろ手に留め具を抑えながら歩く、何とも奇妙な通学路の光景。少なからず考案者として責任を感じたものです。 今ではランドセルも進化や多様化が進んで留め具の位置が違...つづき 1990年生まれ女性
1983年生まれ 石を積み上げるゲームで人生の厳しさを知った モモンガさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、川沿いに行って意味もなく石を重ねる遊びをしていました。30秒で積めるだけ積んで高い方が勝ちというものです。 なるべく平たく面積がある石が好ましいので、探すのにけっこう時間がかかります。 考えなく積むと結局バラバラと崩れてしまうのでタイムオーバーになり負けます。時間をかけてでも積みやすくバランスがとれる石を探し求めウロウロするのです。 ある日この遊びをしていたところ、運よくちょうど良さそうな石がたくさん見つかりました。せっせと積み上げ、もうこのくらいで勝てるだろうという高さまで積み上げる事ができました。 対戦の友達はまだ石を探しています。その様子を見て勝ちを確信した私は30秒経つのを静かに待っていました。するとバランスが崩れたのか、一番上の石がコロンと落ちました。そこでタイムアップ。 そしてさっきまで石を探していた友達が、土壇場で石を上手く積み上げていて勝ちました。この時、何事も最後まで気を抜いてはいけないのだという事を学んだ私でした。 1983年生まれ女性
1983年生まれ マイクはネギ坊主 しーさーさん 広島県 1983年生まれ 女性 名前のない遊びとして、ネギ坊主をマイク代わりにしてカラオケ大会をする遊びをしていました。ネギ坊主とはネギの先端がフサフサしているところです。 家の周りの畑でネギを育てているおばさんがひょいっとネギ坊主をくれたのがきっかけで、マイク代わりに歌うようになったのです。 近所の子と3人で家の花壇に立って歌うのがお決まりでした。 即興でその時の気持ちを謳うのが面白く、「きょうの~ばんごはん~ステーキだったのらぁいいのにぃ~」という個人的希望を歌にしたり「さんすうー、りかしゃかいー全部きらいー」という今後の成長が心配されるような歌などを大声で歌っていました。 友達が笑ってくれるので、だんだんと気持ちよくなって、みんなでハモリにも挑戦。テレビの音楽番組で見たハモリでしたが上手くできず、そのできないことをまた歌うのです。 日に日にネギ坊主はしおれていきますが、それでもカラオケ大会は続けられました。大人になった今でもネギ坊主を見るとあの頃を思い出します。 1983年生まれ女性
1983年生まれ 出演者多めのぬいぐるみごっこ 四つ葉さん 広島県 1983年生まれ 女性 同じクラスの友達とぬいぐるみごっこをして遊んでいました。家にある大量のぬいぐるみでそれぞれ家族を作り好きな役を演じます。 私は3人家族の中の長女役で、友達は5人家族の中の3女役。ちなみに長女と3女は同級生です。 ぬいぐるみにも配役をして声色を変えながら、それぞれアテレコをするので忙しい遊びです。 このぬいぐるみごっこは部屋の中でせずに、玄関先にピクニックシートを2枚敷いて家に見立てて遊ぶのがお決まりでした。 母親役のぬいぐるみに「あら、奥さんこんにちは。明日は参観日ね。着る服なくてやになっちゃう」 「いーのよ、適当で。私なんかいつもの服よぉ。そういえば明日雨らしいわよ。傘を差して行くの面倒くさいわねぇ」と けっこうリアルな切り口から始まり、ある時には兄妹、ある時は父親、必要に応じて祖父母も登場してシビアな展開にもなります。 でも面白いのはすべてその場で喋るのですが、最後には必ずハッピーエンドで終わること。今考えると子どもながらに笑って終わりたいという希望があったのかなと思います。 1983年生まれ女性
1983年生まれ アドリブ多めのお母さんごっこ ぽてぃとさん 広島県 1983年生まれ 女性 ごっこ遊びと言えばある程度台本が決まっている”お母さんごっこ”です。主役はお母さんで次に子ども、その次にペットの役が人気でした。 不思議なのは、なぜかお父さん役は人気がないこと。男子が混ざってやる時も同様にお父さん役になりたがる人はいませんでした。 この理由として、”お父さん”というと仕事で家にいない事が多い為、お母さんごっこでは出番が極端に少ないということ。それはごっこ遊びではなく現実世界でも同じです。 近年、ようやく父親が育休を取れる環境が整いつつありますが、普及率はまだまだです。そんな感じなので私が小学生低学年の時代は、父親と触れ合った思い出がある子どもは少なかったはず。 こうしてお父さん役は人気がなく、ジャンケンで負けた人がお父さん役となります。 それでも子どもの想像力は凄くて、アドリブ力が強いお父さんや、喋りまくるお父さんを演じる子もいて、台本通りに進まないのが面白くて、よくその男の子に「お父さん役やらない?」声を掛けていたことを覚えています。 1983年生まれ女性
1990年生まれ お互いいじっぱりの思い出 探検ごっこ ぼくのふゆやすみさん 山口県 1990年生まれ 男性 小学4年生の時、水曜日は学校が早く終わるので、友達の石田くんと森を探検して遊ぶのが定例でした。ただおしゃべりをしながら木の棒をもって森の中を歩いてたまに珍しい虫を見つけては捕まえたりしていました。 ある日教育テレビでよくやってた「あいうえお」という歌の「いしころいっこころころっ」という歌詞が頭に浮かんで離れなくなり、何度も口ずさんでしまっていました。 すると石田くんが怖い顔でこちらを見ていたので、何か発見したのかなと、近寄ってみると、軽くぶたれました。 石田くんは、「いしころいっこころころっ」という歌詞で自分が馬鹿にされていると思ったのでしょうね。 そこで殴り合いの喧嘩になり、その日は石田くんが走って帰ってしまいました。 次の日も学校で目も合わせてくれません。こちらも意地を張ってしまい謝りもせずそのまま日々が流れました。定例の森の探検も無くなりました。 そして小学校卒業の日になってしまい、卒業式の前にトイレでかち合いました。 自然と「あの時はごめん」といえました。すると石田くんも「ぼくもごめん。」といって仲直りすることが出来ました。...つづき 1990年生まれ男性
1984年生まれ 学童保育で覚えた お手玉の思い出 おかずさん 岡山県生まれ 1984 男性 私は小学生の時に学童保育に通っており、そこでよくお手玉をして遊んでいました。 お手玉自体も、布切れと小豆で、糸と針で縫って作りました。2つを両手で上に投げながら回していくのは簡単ですが、3つは少し難しかったです。ただ、何度も練習をしていくうちに出来るようになりました。 時計回り、反時計回り、両方で出来ます。一般的には、前でお手玉を入れ替えていきますが、後ろでの入れ替えも頑張って練習し、できるようになりました。 学童の先生はお手玉がとても上手であり、私ができるようになったのは、学童の先生のおかげです。 4つも頑張ってみましたが、結局一度も出来ませんでした。 お手玉はお手製であるため、何度も使っていると布が破け、小豆がバラバラになってしまうこともたまにありました。故意に破いてしまう友達もいました。 飽きてくると、友達と投げ合い、野球のキャッチボールや、ドッジボールのようになってしまいました。今になってやってみましたが、全く出来ませんでした。 1984年生まれ男性
1983年生まれ オリジナルのお手玉遊び ソロリソロリさん 広島県 1983年生まれ 女性 私は不器用でなかなかお手玉が上達しませんでした。対して友達はすぐに2つ、さらに3つもマスター。どんどんスピードがあがります。リズムよく歌いながらお手玉を回す姿は羨ましく、目で追うだけでもクラクラするほど。 仕方なく私は早々に諦め、オリジナルお手玉遊びの開発に着手しました。ボールのように跳ねないという、お手玉のポテンシャルを活かした遊びです。 小さく切った紙に10点、中くらいの紙に5点、大きい紙に1点と描いて床に置きます。離れたところから投げて紙の上からはみ出さず乗せられたら加点。紙の他にドアノブに乗せられたら12点、トイレットペーパーの芯の上に乗ったら20点等々。あらゆるところに点数をつけ合計を競うという遊びです。 これが結構熱くなってしまい、みんな必死で点数が高いところに投げます。そしてどんどんコツを掴み、上達していきました。お手玉本来の遊びではないこの遊びはヒットし、しばらく私達のブームになったのでした。 1983年生まれ女性
1983年生まれ 滑り台で思い出す女の子 まめ太郎さん 広島県 1983年生まれ 女性 滑り台で遊ぶときはなぜか逆走という迷惑行為をする子が必ずいるものです。滑りたいのに滑れないということになり大渋滞を引き起こします。 「どいて」と言うとジャンケンで勝ったらねと意味不明なことを言われ、私はプンスカ怒って無理やり股をくぐって滑るという強硬手段に出ました(どちらも危ないので絶対にやってはいけません)。 そしてまたその子は次に滑ろうとする子に同じことをするのです。逆走の子は男の子。滑ろうとする子達はみんな女の子でした。 そんな時、ずっと逆走をやめない男の子を一人の女の子が突然引きずり下ろしたのです。そして小さい声で「やめろって言ってるよね?」と。 一部始終を見ていた私は、その知らない女の子を「かっこいいー!」と思いました。 敢えて小さい声で注意するという私には発想のなかった方法。男の子は一瞬怯んだ様子で、怖くなったのかそのまま自転車に乗って去っていきました。 平和が戻った滑り台で安心して遊ぶことができました。 1983年生まれ女性
1983年生まれ ロング滑り台 ロックンロールさん 広島県 1983年生まれ 女性 友達家族と私の家族とで広くて大きな公園へ遊びに行ったときのことです。そこには長い長い滑り台があり、滑る部分はローラーになっていました。 子どもからすると面白そうな夢のような遊具。すぐさま私と友達は飛びつきます。階段を登り切り、いざ滑ろうとすると思いのほか高い…。ちょっと怖くなりました。 それでも滑ってみたい要望が抑えきれずとりあえず座ってみます。はるか下に見える親たち。振り返ると友達も心なしか顔が引きつっているように見えます。話し合いの結果、一緒に滑ることに。 前後に座りいざ出陣!ズンズンスピードが出てローラーは勢いよく音を立てて回り私達はあっという間にゴールする…はずでした。出陣しても一向にスピードは出ず、ローラーからは軋む音しかしません。滑り台らしからぬ遅さです。 手足を使ってスピードをあげるしかありません。頑張っても公園の滑り台の半分以下のスピードでぬるっと着地。しかしこれはこれで子供の心を掴み、私達は大爆笑。このあと10回以上滑りました。 1983年生まれ女性
1983年生まれ たんこぶができた弟 ブランコの思い出 たら子さん 広島県 1983年 女性 ブランコというと私は友達の弟を思い出します。ある日、同じクラスの友達と小学校へ遊びに行きました。走って行くと一つ年上のお姉さんと歳の離れた弟がブランコで遊んでいるのが見えました。 私はそのお姉さんと知り合いだったので挨拶をし、3歳の弟を合わせて4人で各々ブランコを楽しんでいました。 しばらくするとすると弟は飽きてしまったのか、足を精一杯伸ばしてブランコから下りてトコトコと歩き出します。私たちはまだ思いっきり立ち漕ぎをしていて勢いがついている状態。 何だか怖いなと思った瞬間、弟がお姉さんの方へ走って向かって行ったので思わず「あぶないよ!」と言いました。 でも弟は、お姉さんの方へまっしぐら。思いっきりブランコとぶつかりズサーァッ!!!っと倒れました。それはもう大泣きです。おでこがみるみるうちに青黒くなり私達はゾッとしました。 幸いお姉さんの家は小学校の隣なのですぐに弟を連れて帰り、心配すぎて私達も一緒についていきました。家に着くと弟は泣き止み、たんこぶができていたのにも関わらず「もういっかい!」とブランコをせがむのです。 お母さんも「うん、行っておいで...つづき 1983年生まれ女性
1987年生まれ 親との凧上げの思い出 パンさん 岡山県 1987年生まれ 女性 小学生の頃、お正月になると近くの公園で凧上げをしていました。公園は、遊具よりも広場の面積の方が広かったので、凧上げをするにはちょうどいい広さがありました。 空を飛ぶことに強い憧れがあった小学生時代、自分が飛ばすより、飛んでいる凧を見る方が好きだった記憶があります。親が上手く飛ばしてくれるのを追いかけながら見ているのがとても楽しかったです。 風が強い日は上手く飛ばせなかったり、上手くコントロールができなくて地面に激突させて壊したことがあります。その時は親に怒られるとビクビクしたことも、今では良い思い出です。怒られることはなかったですが、壊れてしまったので冬休み期間中に凧上げができなくなった寂しさもよく覚えています。 友達同士で上げる時には、近づきすぎて紐の部分が引っかかり解いていたら遊ぶ時間が終わってしまうこともありました。 それでも、順番に上げることだったり、離れて飛ばしたりと、今思えば子どもなりに失敗から学んで、ちゃんと考えて飛ばしていたんだなと感じたことでした。 1987年生まれ女性
1983年生まれ 凧上げヒーロー たまこさん 広島県 1983年生まれ 女性 日本のお正月らしく、冬休みに凧上げの宿題が出たことがあります。手が器用な父とビニールを使って作ったあと、川土手まで行って上げてみます。 しかし、風に上手く乗らず失敗。もう一度走り出しましたが、凧がクルンクルンと回ってあっという間に糸が絡んてしまいました。こうなるとなかなか解けません。 悪戦苦闘する私達に川土手にいたおじさんも加わり、なんとか解いてくれました。また走り凧を上げます。でも上手く風に乗りません。 疲れてしまった時、タコ紐を解くのを手伝ってくれたおじさんが再び登場。コツを教えてくれました。ビニール凧なのでフニャフニャしていて上げづらいですが、凧を持って私の走るスピードに合わせてくれました。 2.3回挑戦してみると遂に凧が空高く上がりました。おじさんありがとうと思い、見ると既に遠くに歩いて行っていました。 なんてかっこいいヒーローなんだと思いながら、その後も父と何度も何度も走り、ようやく上手く上げることができました。 1983年生まれ女性
1983年生まれ 必死のおはじき遊び きな粉さん 広島県 1983年生まれ 女性 小学校時代におはじきで遊んだ思い出と言えば友達のおばあちゃんを思い出します。昔の遊びを教えてくれた優しいおばあちゃんでした。 今はあまり見かけなくなったコタツにみかんスタイルの和室で、友達3人と一緒におばあちゃんにおはじきを教えてもらったのです。 最初におはじきを見た時は遊ぶものと言うよりかは「綺麗だなー」とか「メダカや金魚の水槽に入っている石だなー」という事。 おばあちゃんは菓子箱の蓋を使って、「相手のおはじきをはじいて、ここから出たら負けよ」と言って早速友達のおはじきをはじいて見事に蓋の外へ。相手が小学生でも容赦しません。 そんなおばあちゃんだからこそ、私たちも負けじとおばあちゃんのおはじきめがけて順番にはじいていきます。しかしコントロールが難しく、狙った方向へ跳んで行かないのです。 みんなほっぺが赤くなり、いつの間にかコタツから全員出ていました。おばあちゃんも必死です。あっちへ跳びこっちへ跳び、おはじきも忙しそう。夕方5時の曲が流れ、決着がつかない日もありました。 おばあちゃんのおかげで、私たちはとても楽しい時間を過ごさせてもらいました...つづき 1983年生まれ女性
1984年生まれ 「おはじき当て」と「おはじき止め」の遊び方 おかずさん 岡山県 1984男性 私は小学生の時、学童保育に行っていました。そこで友達とおはじきをしてよく遊んでいました。 【おはじき当てのルール】 おはじきを散らばせて、自分と相手のおはじきを一つずつ選びます。そして、散らばっているおはじきのうちの一つを宣言して、これに選んだおはじき(ビリヤードの白い球のように)をぶつけて当てます。 当たったらそのおはじきがもらえ、当てられなかったら1回休みです。これを2人交互に行なって、得られたおはじきが多い方が勝ちです。 綺麗なおはじき、大きいおはじきは人気であり、それを狙う友達も多く、私も狙っていました。 【おはじき止めのルール】 机の一方の端におはじきを置いて、他方の端目掛けて、2人同時に、手で押して飛ばします。端により近くおはじきを止めた方が勝ちですが、机の端から落ちてしまったら負けです。勝てば自分と相手のおはじきがもらえます。 一般的には消しゴムでやるのだと思いますが、その学童保育では、おはじきでやっていました。 1984年生まれ男性
1983年生まれ 校庭で宝探しの思い出 あるぷすさん 広島県 1983年生まれ 女性 今思うと、小学生時代って変わった遊びを好んでしていたなぁと思います。2年生の時、校庭にビー玉を埋めて”宝探し”として遊んでいました。代わりわりばんこに「この辺に埋めたよー」と言って、友達に掘り出してもらいます。 この時、3回に1回くらいはどうしても宝(ビー玉)が出てこない事があり、2人で首を傾げることもしばしば。その時は「ワープしちゃったんだ!!」と騒ぎ、違うビー玉でやり直し。そんな遊びでした。 ある昼休憩、いつものように遊んでいると「今日は学校が終わったら校庭に集合ね」と友達が言いました。行ってみると、もう友達は先に来ていて、鉄棒で遊ぼうという事になりました。 するとここに宝があるから探してほしいと言うのです。友達の中で昼休憩の宝探しはまだ続いていたようです。 そして鉄棒の近くの地面の色が違うところを発見し、掘ってみると、宝と手紙が出てきました。「おとなになってもあそぼうね」と書いてありました。 その友達は中学卒業後引っ越してしまいましたが、とてもほっこりする思い出です。 1983年生まれ女性
1983年生まれ 兄弟で競った ビー玉の箱迷路ブーム fine weatherさん 広島県 1983年 女性 子どもの頃、箱迷路がマイブームになりました。 事の始まりは、兄弟がお歳暮の空箱を利用して迷路を作ったものに私が目を付け、ビー玉を入れて箱を上下左右に動かしスタートからゴールまで何秒でいけるかという遊びをし始めたのがきっかけです。 あっという間に兄弟間で取り合いになり、誰が一番早いタイムを出せるかという競争に発展。 末っ子の私はどうしても勝てず「私が思いついた遊びなのに~!」とプンプンと怒ったりしながらも、だんだんとコツを掴み。 「このカーブでこうしてぇ…こっちは手前でスピード落としてからぁ~ドン!よしよし、いいぞぅー」と大き目なひとり言を言いながら熱中しました。 ようやく一番になれると自信が付いた頃には、もうみんなは飽きてしまい、私しか熱中していませんでした。う。 子どもの飽きっぽさはすごく早い。誰とも対戦できないと分かると急に寂しく感じ、やる気が失せる私。いつの間にか箱迷路ブームは終わってしまったのでした。 1983年生まれ女性
1984年生まれ 祖母に教えてもらった「ビー玉当て」の思い出 きたぎつねさん 愛媛県1984年生まれ 男性 私は、4歳から6歳まで祖父母宅で育てられました。ゲームやマンガなどの遊ぶものがなく。夜ご飯まで何をして過ごそうか悩んでいました。 そんな時、祖母がビー玉を買ってくれました。一人遊びにちょうど良いと考えたのか、遊び方を教えてくれました。後にそれが「ビー玉当て」だと分かったのは、私が4年生になった時でした。 祖母はビー玉を1m~2mぐらいに乱雑に置きました。一つを私に渡して置かれたビー玉を狙いなさいと言いました。言われた通りに投げてみるが当たらない…。すると祖母はニンマリ顔で「かしてみ」と言いました。 私は一個も当たらなかったのに祖母は次々と当てていく。 当たったビー玉を祖母が拾っていきます…。ルールがよく分からないままスタートしたゲームでしたが、祖母がニンマリして拾っていく様を見てルールを理解しました。 さらに祖母は「本当だったらこれは、ばーちゃんの物とだけど、初めてだから返してあげるから練習してみな」と言いました。 それからは悔しくて、一心不乱に練習したのを覚えています。それから一週間に一度ほど対決を行い。取った取られたで楽しく過ごせたのが...つづき 1984年生まれ男性
1984年生まれ 二重跳びの思い出 おかずさん 岡山県 1984年生まれ 男性 小学五年生の時、縄跳びがとても流行っていました。五年生の教室は屋上のスペースの向かいにあり、縄跳びには絶好の場所だったためです。 二重とび、後ろ二重とびはもちろん、後ろ駆け足二重あや(片足ずつ後ろ二重にし、両手をクロスさせてまた戻す)、後ろ交差二重あや(両手をクロスさせたまま、後ろ二重をする)など、様々なバリエーションがありました。 二重とびが得意で、120回連続で飛べました。本当はもっと多い回数跳べていたと思いますが、気を失って、目が覚めたら保健室でした。 体育の時間に、全員同時にスタートして、引っ掛かったら脱落していき、三人くらい残って、負けたくない一心でやっていたためです。 三重とびは10回くらい、後ろ三重跳びも5回くらいできたと思います。 最近になって、姪が縄跳びをしているのを見て、私も久しぶりに跳んでみたところ、姪は軽々と跳べる一方、私は全然跳べずショックでした。25年前の過去の栄光にすがるのは辞めます。 1984年生まれ男性
1983年生まれ いつでも縄跳び ホクホクさん 広島県 1983年生まれ 女性 体育の授業で縄跳びがあり、富士山のイラストが描かれた用紙が配られました。 前跳びや後ろ跳び、交差跳び、二重跳びに挑戦し、練習してできるようになったら先生の前で披露します。合格できたら一マス色を塗っていき、富士山登頂!というわけです。 それ以降遊びも、跳び方の種類によっては少し縄を短くしたほうが跳びやすかったり、持ち手も滑らないように工夫しながら毎日練習しました。午前休憩や昼休憩も猛特訓です。 友達に見てもらい、「10回できてた?」「うーん最後の1回が怪しかったかな」など審査してもらっていました。このおかげで体育の授業が待ち遠しくなり早く富士山登頂するべく必死。 いつもなら遊ぶ時間も縄跳び、眠るときもイメトレです。まさに寝ても冷めても縄跳び。大変でしたが楽しい授業でした。 結果、私は登頂できず悔しい気持ちで終わりましたが、授業に関係なくしばらく縄跳びにハマっていました。おかげでいろんな跳び方ができるようになったのでした。 1983年生まれ女性
1979年生まれ 駄菓子屋のベーゴマ おむすびさん 香川県 1979年生まれ 男性 小学校の頃でした。近所におばちゃんが営んでいた駄菓子屋さんにベーゴマがありました。その頃はガンダムのプラモとかエアガンが人気で、ベーゴマはすでに昔のおもちゃ枠になっていたので、見向きをすることもなく素通りをしていました。 私は小学校のクラブ活動で工作クラブに入っていました。私が工作クラブに入ったのは、好きなプラモデルを月に一回学校に持って来て作る名目で、親にプラモを買ってもらうためでした。 工作クラブでは上級生の子たちがベーゴマ対決をしていました。上級生の子たちはある程度プラモ作りも終えて、違う遊びを色々やってみたかったんだと思います。 大掃除に使うワックスが入っていた筒形のカンカンに布を張り、その上にお互いベーゴマを落として先に止まるか、はじかれて落ちた方が負けという「喧嘩ゴマ」のルールでした。 私もお小遣いを握りしめ、駄菓子屋でベーゴマを買って練習をしたのを覚えています。上手く回すのに苦労しましたし、カンカンの上にコマを落とすのにも苦労しました。今となっては良い思い出です。 100均にあったベーゴマを買って、子供に回し方を教えたりしてい...つづき 1979年生まれ男性
1961年生まれ 今から50年ぐらい前の話 パッチンの遊び方 たくしゅんさん 広島県 1961年生まれ 男性 小学生の時の遊びなので、今から50年ぐらい前の話になります。「めんこ」という言い方が一般的に全国区のようですが、私の地域では「パッチン」と言っていましたので、「めんこ」と言うと何となくピンときません。 「パッチン」で遊ぶには、自身が持つパッチンがもちろん必要ですが、もう一つ必要なものがあります。それは「覚悟」です。パッチンでの勝負による結果によって、そのパッチンの所有権が移動するからです。 すなわち、勝負に負けるとそのパッチンは相手に取られるのです。よって、遊びの醍醐味は勝つことそのものではなく、相手から奪い取った戦勝品の数の多さを競うことになります。 私の地域では、スタンダードな遊び方である、地面に置いた相手のパッチンを自分のパッチンで叩いて裏返すという遊び方もしていました。 こちらで流行っていたのは、名前は忘れましたが、道路上適度に設置してあったゴミ入れ(石製)の上部にパッチンを置いて、草履やツッカケ、サンダルなどを使ってパッチンを横から叩き、前方に飛ばす遊びです。 ルールは簡単で、一番よく飛んだパッチンが勝ちとなります。勝負のカギは...つづき 1961年生まれ男性
1983年生まれ おばあちゃんが教えてくれた 女子たちのゴム跳び遊び シロクロさん 広島県 1983年生まれ 女性 遊ぶ時は同じクラスの仲良し4人で、毎回集まるのはEちゃんの家でした。4人の家のほぼ真ん中に位置していて、さらに隣に広場がある事がみんな集まる理由でした。 この広場であらゆる遊びをしましたが、ゴム跳びもその中の一つ。少しずつゴムを上げて一番高く跳べた人が勝ちです。 この時、足にゴムが触れると脱落なのですが“触れた、触れていない“でEちゃんと他の子がケンカに発展することがしばしば。ケンカ慣れしていない私はオロオロするばかり。 こういう時は残りの一人の友達と気配を消し、そっと他の遊びを始めるのです。そして一通りケンカが終わると元のゴム跳びに戻ります。 このゴム跳びは私の周りにはやっているの子供はいませんでした。というのも、Eちゃんのおばあちゃんが教えてくれたからです。 優しいおばあちゃんは昔の遊びをよく教えてくれました。ゴム跳び以外にメンコ、お手玉、おはじき。昭和の遊びです。これらの中からゴム跳びは私達にヒットしたのです。 おばあちゃんありがとうと言いたいです。 1983年生まれ女性
1984年生まれ 「ゴムとび」と「ゴムダン」のルール おかずさん 岡山県 1984年生まれ 男性 【ゴムとび】 ゴムとびは、10人くらいでやっていました。100均で売っているような、パンツ用のゴムです。2人は両側で腰の高さくらいで持っていて、残り8人で順番に跳んでいきます。男とびと女とびがあります。 男とびは、ゴムに対して平行に跳び、右足をあげてゴムを越え、その後左足もゴムを越えます。ゴムにあたっても、飛び越えられたらクリアです。 女とびは、ゴムに対して垂直に跳び、右足、特に足首の部分を引っ掛けるようにして跳び、その後左足も同様にゴムを越えます。 だんだん高くしていき、越えられなかったら脱落、最後の1人になるまで競います。走り高跳びのように助走をつけて跳ぶのではなく、ゴムの目の前に立って跳びます。 【ゴムダン遊び】 ゴムダン遊びも10人くらいでやっていました。 2人は両側でかかとに引っ掛けて輪にしており、残り8人は輪の中にいます。 グーで輪の中に足を入れ、パーで輪の外に足を出します。 だんだんペースを速くして行き、間に合わなかったら脱落。最後の1人が優勝です。 1984年生まれ男性
1990年生まれ ゴム跳びと友達の思い出 ことさん 岡山県 1990年生まれ 女性 ゴム飛びは小学校の時になぜか一時期クラスのブームになりました。なぜなのかは思い出せないのですがクラスの女の子と一緒にゴム飛びを楽しんでいた事をよく覚えています。 色んな曲で遊んでいたので、童謡のような曲やその時流行っていたKinKi Kidsの曲などをみんなで歌いながら遊んでいました。 色んな技があったのですが私はあんまり上手くありませんでした。友達の上手な女の子は大変複雑な技を披露してくれてみんなの尊敬を集めていた事を覚えています。 冬に運動場で転けるとかなり痛いので、転けないように必死にゴムを見ながら運動していました。 一緒に遊んでいて転けてしまった友達が、泣きながら保健室に行ったら足の骨が折れていました。当時はとんでもない事をしてしまった、と思い非常に焦った事を今でも覚えています。 小学校の頃の楽しい思い出の遊びなのでとても懐かしくなり、また体が動くならやってみたいなと思いました。 1990年生まれ女性