性別

1984年生まれ

「ゴムとび」と「ゴムダン」のルール

おかずさん岡山県 1984年生まれ 男性【ゴムとび】ゴムとびは、10人くらいでやっていました。100均で売っているような、パンツ用のゴムです。2人は両側で腰の高さくらいで持っていて、残り8人で順番に跳んでいきます。男とびと女とびがあります。男とびは、ゴムに対して平行に跳び、右足をあげてゴムを越え、その後左足もゴムを越えます。ゴムにあたっても、飛び越えられたらクリアです。女とびは、ゴムに対して垂直に跳び、右足、特に足首の部分を引っ掛けるようにして跳び、その後左足も同様にゴムを越えます。だんだん高くしていき、越えられなかったら脱落、最後の1人になるまで競います。走り高跳びのように助走をつけて跳ぶのではなく、ゴムの目の前に立って跳びます。【ゴムダン遊び】ゴムダン遊びも10人くらいでやっていました。2人は両側でかかとに引っ掛けて輪にしており、残り8人は輪の中にいます。グーで輪の中に足を入れ、パーで輪の外に足を出します。だんだんペースを速くして行き、間に合わなかったら脱落。最後の1人が優勝です。
1998年生まれ

ゴム紐を跳ぶ娘にヒヤッとした思い出

ゆんさん熊本県 1988年生まれ 女性娘が小学校低学年の頃、近所のお友達、妹、弟五人でゴム跳びをしました。始めはゴムの上を跳んでいく、とルールを決めて運動能力の高い子供たちの集まりだったようで私(163センチ)の胸下の高さまでなんなくクリアしていく子供たち。ゴムにひっかかっても笑顔あふれる時間でしたが私の肩の高さまできたゴムを跳ぼうとしたわが子。笑顔で引っ掛かりにくるものだと思っていたら、本気で跳ぼうと全力で向かってきた娘。ゴムに引っ掛かかる予定でしたが、ゴムがぷつりと切れ、目の前には近所のお友達の車が…。ボンネットの上まで飛んでしまいました。娘に怪我はなく、お友達の車にも傷はなく、なんとか無事に終わることが出来ましたがあの勢いで跳ぶ娘を目の当たりにした私や子供たち、そして娘自身もう二度とゴム跳びはしない。と誓うこととなりました。今では息子が小学校の体育の時間にゴム跳びがあるそうで楽しいと話をしてきますが、私と娘はいつも苦笑しながら聞いています。少しだけ苦い思い出のゴム跳びでした。
1981年生まれ

「グーパーグー踏みグーパーネジってぴょん」ゴムダンの思い出

グーさん神奈川県 1981年生まれ 女性ゴムダンは、小学校3〜4年の頃に流行ったと思います。ゴムダンが上手な子は、運動が得意な子が多かったイメージです。小学生の頃は負けず嫌いだったので、失敗しても何度も挑戦していたなと思います。ゴムなので失敗しても痛く無い点が良かったですね!私には姉が居たので、姉の友達とも遊ぶことが多く、ゴムダンなら、追いかけっことは違い、無理なく一緒に遊ぶことも出来ました。ゴムダンをクリアするごとに、だんだん高さが高くなるというレベルアップがありました。一段、二段という風にレベルが上がっていくのです。レベル=高さだったので、高くなると、小指⁉︎を使えるというルールもあったと思います。ジャンプしてゴムの中に入ったり、踏んだりするので、ゴムに引っかからない様に小指を指定された個所で使えたと思います。昔過ぎて、すぐには思い出せませんが(笑)。私の地域では、「グーパーグー踏みグーパーネジってぴょん」というフレーズがあったのですが(歌いながらやります)、この「ネジって」がポイントで、コツがいりました!ねじった後に、ゴムを絡まず踏まずに、元の場所に着地しなくてはいけないんです。...つづき
1964年生まれ

輪ゴムを繋いで作ったカラフルな輪ゴム紐の思い出

きょんさん鹿児島県 1964年生まれ 女性小学校の5、6年生の時に夢中になって遊んだのが「ゴム跳び」です。よく、テレビのバラエティー番組などで、タレントが小さい頃の遊びを語る時に、「ゴム段、ゴム段」と言うので、ゴム跳びと呼ぶのは鹿児島県ぐらいかと思っていましたが、ゴム跳びとも言うんだなあと少し安心しました。ゴム跳びをするにはまず、長ーいゴム跳び用のゴムを作らなくてはなりません。普通の輪ゴムを繋げて大体2メートルぐらいの長さに作ったと思います。誰か一人で作ったのか、みんなで手分けして作ったのか、そこら辺の記憶がなぜかありません。その繋がったゴムの色は赤、黄、緑、オレンジとやたらカラフルだったと記憶しています。いつも放課後に校庭の決まった場所で、大体同じ仲良しのメンバーで、長い時間飽きもせずに遊んだものです。小学生なので短い丈のスカートを着てますが、裾をパンツの中に入れてゴムを跳びます。遊び方ですが「丸跳び」という跳び方だったと思います。なぜか跳ぶ時、一回ジャンプしてからゴムに向かっていったと記憶しています。弾みをつけるためでしょうか。ゴムのことろまで来たら、思いっきり右足を伸ばしてゴムに...つづき
1984年生まれ

「イチニノサンのシノニノゴ」の歌に合わせて跳んだゴム跳び

もっちさん東京都 1984年生まれ 女性小学校高学年の頃、学校から帰ってランドセルと水分を摂って友達のお家に集まるのが日課。寒い日は家でゲームや歌を歌って過ごすが、天気のいい日はゴム跳びが大盛り上がりしたのを覚えています。2人は足でゴムを持つ係、あとは順番待ちで歌う人、1人だけ、ゴムを絡ませながら踊ります。われ先にとやりたがりましたが女の子同士なので、上手く順番を守りました。イチニノサンのシノニノゴ、サンイチシノニノシノニノゴ。と歌って合わせて踊りました。兄弟で遊びにきて飛べない子がいたら電車ごっこや、くぐったりしてもらっていました。人が少ない日は棒に絡ませて、1人で持ち、高さを調節しながら飛びました。飛び方もたくさんの技があり、回転したり、わざと踏みつけたりと、カッコよく飛べるのを競い、いろんな知恵を出し合いました。ゴム1つでこんなにもいろんな遊びができて、楽しく過ごせた記憶が今でも残っています。
1990年生まれ

ゴム跳びと友達の思い出

ことさん岡山県 1990年生まれ 女性ゴム飛びは小学校の時になぜか一時期クラスのブームになりました。なぜなのかは思い出せないのですがクラスの女の子と一緒にゴム飛びを楽しんでいた事をよく覚えています。色んな曲で遊んでいたので、童謡のような曲やその時流行っていたKinKi Kidsの曲などをみんなで歌いながら遊んでいました。色んな技があったのですが私はあんまり上手くありませんでした。友達の上手な女の子は大変複雑な技を披露してくれてみんなの尊敬を集めていた事を覚えています。冬に運動場で転けるとかなり痛いので、転けないように必死にゴムを見ながら運動していました。一緒に遊んでいて転けてしまった友達が、泣きながら保健室に行ったら足の骨が折れていました。当時はとんでもない事をしてしまった、と思い非常に焦った事を今でも覚えています。小学校の頃の楽しい思い出の遊びなのでとても懐かしくなり、また体が動くならやってみたいなと思いました。
1987年生まれ

ゴム飛びを遊んでいたあの頃の年齢になった息子

かかのんさん静岡県 家の近所の駐車場 1987年生まれ 女性私がゴム飛びと聞いて思い出すのは、近所の友達と遊んだ記憶です。「3年生までは子供だけで自転車に乗ってはいけない」という学校の決まりがあったので、近所の友達と遊ぶことが多かったのです。さらに学区の端に家があったため、帰宅後にまた学校で待ち合わせをして遊ぶのは、子供ながらに大変だとの思いもありました。男の子の友達と遊ぶときは鬼ごっこや野球など、体を思いっきり動かす遊びが多かったけれど、女の子と遊ぶ時は「縄跳びの縄をゴム代わり」にしてよく遊びました。近所の女の子といつも2人で遊んでいました。2人でも頭を使えばゴム跳びはできます。縄跳びの縄を柱に結んで固定し、一人が縄を動かし、一人が跳ぶ。それに飽きると、縄に当たらないようにくぐり抜けるリンボーダンスのような遊びをするのが私たちの鉄板でした。縄跳びの縄が2本あれば、暗くなるまで2人で遊んでいられたあの頃。縄に当たりにくくするためなら真冬でも上着を脱いで、寒さもなんのそので遊んでいられたあの頃。今は、小学校から帰ってくると、「遊びに行ってくる!」と、元気よく出かける息子の後姿を見送る立場...つづき
1980年生まれ

フラフープのほろ苦い思い出

なみさん京都府 1980年生まれ 女性私が小学生の頃、フラフープ遊びが流行していました。友達同士で投げたフラフープをお互いでキャッチしたり、手首のスナップをきかせて投げたフラフープが自分の手元に返ってくる遊び、どちらが長い間フラフープを回していられるかを競ったり、身体の色々な所でフラフープを回す遊びをしていました。ある日、いつものように遊んでいると弟が頭で器用にフラフープをクルクルと回せるようになりました。私も「負けたくない!」と思って、頭で回そうとしましたが失敗…。意地になって次は思いっきりフラフープを頭にめがけて勢いを付けて投げました。すると、私の首にフラフープがグルグルと巻き付きました。「ゲッホ、ゲッホ。」と咳がでて首を思いっきり押されたような痛みを感じました。けれど、弟に見られていたのが恥ずかしかったのか、私は何事も無かったかのように足元に落ちたフラフープを拾い遊びの続きをしました。その時の首の痛みは残り2、3日の間は続いていたように思います。その後、他の人が首回しに挑戦しても私は挑戦しませんでした。楽しい思い出の中のほろ苦い思い出です。
1989年生まれ

練習の賜物 フラフープを誰が一番回せるか競争

みさん兵庫県 1989年生まれ 女性フラフープの思い出で一番印象に残っているのは近所の友達です。我が家にはフラフープがなかったので、友達の家で遊ぶ時によく貸してもらってやっていました。友達には2つ上のお姉さんがいたので家に2つフラフープを持っていて、遊ぶときはみんな交代で使っていました。私は友達の家に行った時しかフラフープができなかったのであまり長く回せませんでしたが、友達はお姉さんに負けるのが悔しかったみたいでかなりの時間練習したそうです。お腹だけでなく胸や首で回したり、回しながら歩いたり、練習の甲斐あってずっと回し続けることができました。ある日学校でフラフープをやる機会があって、みんなで誰が一番回せるか競い合いました。他の子がどんどんフラフープを落としていく中、友達はいつまでも回し続けていたので、先生からのストップがかかるほどでした私たちの世代では敵なしのフラフープの達人として、先生に褒められて嬉しそう。何事も継続することが大切だと子供ながらに感じました。
1983年生まれ

フラフープ争奪戦

時短モンスターさん広島県 1983年 女性フラフープは小学校中学年の時に流行りました。休憩になると争奪戦。10本くらいしかないのでチャイムが鳴るやいなや女子はみんなピューッと教室からいなくなります。小学校時代の女子は年齢で流行るものが結構決まっていて面白いものです。フラフープはクルクル回し跳びながら鬼を追いかけ回したり、腰で回して誰が一番長くできるかを競ったりしました。青と赤のフラフープを地面に1つずつ置いて、それぞれひとりずつ入っていき、どちらのフラフープに多く人が入れるかという遊びもしました。おしくらまんじゅう状態で誰かの足が出た時点でその色チームの負けです。この逆の発想で、人が立っていてフラフープを投げ、立っている人がフラフープに入ったら得点が入るという投げ輪ならぬ投げフラフープなど、子供時代はこのように即席で遊びやルールをどんどん作って遊んでいました。相手に得点を入れたくないが為に立っている人がちょっと動いてズルしたりして、あーだこーだと盛り上がり楽しい日々でした。
1985年生まれ

ちょっと違うフラフープの使い道

わんこさん奈良県 1985年生まれ 女性フラフープは、体の動きでフラフープを動かしていく運動ですが、それができない子達にとっての遊び方がありました。フラフープのサイズにも大中小とあります。身体の比較的小さな子供は小サイズのフラフープを使ってケンケンバーや電車ごっこをしていました。とても子供じみた遊びですが、フラフープのアイテムに魅せられた子供にとっては、フラフープの道具を使うというだけでもウキウキする遊びでした。その理由はフラフープの輪っかというデザイン性にあると思います。丸くて綺麗なフラフープは見ているだけでも癒しでした。こうした遊び方にはまる子は運動が苦手だったり、大人しい子だったりします。当時は、活発な子供が多くみんな同じことができて当たり前という価値観での教育方針。子供なりにできない運動を諦めて自ら遊びを考案していました。本来であれば先生が手引きする事も当時は放任状態。子供だけで新しい遊びを楽しんでいたのです。
1975年生まれ

世代を超えたフラフープ

きょうさん大阪府 1975年 女性小学校の時、体育の授業の時にフラフープを使って遊んでいました。腰で回したり、腕で回したり、縄跳びみたいにして飛んでみたりして、楽しかったです。大学生の時、タイムボカンの歌で有名な山本正之さんの歌で「フラフープ」という短い歌があり。曲の中で「フラフープをぱりんと割ってしまう」というような内容がありました。家族に話したら、親の時代はフラフープがとっても流行っていたと言っていました。私の頃のフラフープは、プラスチックだったり、分解して、片づけるものも出ていたので不思議だと思いました。「ぱりんとわれるもの」という認識は私の中にはなかったと思います。そして数年前、スポーツクラブでZUMBAを習っているときに「HULA HOOP」という曲があり、フラフープを回しているような振りが全世界で踊られています。かつて親の時代に流行し、私たちの小学校時代や、子供の頃の遊びの中にも定着したフラフープが、今や世界でもよく知られる遊び道具の一つになっていることに驚かされました。それでも私にとってのフラフープは、やっぱり小学校の時の無邪気に遊んでいた頃のフラフープがしっくり来ていま...つづき
1980年生まれ

初めてのフラフープ

たろうさん群馬県 1980年生まれ 女性小学校3年生の時に初めてフラフープなるものをしました。それは学校の誰でも使って良いおもちゃ置き場にあり、丸くて大きくて、不思議でした。遊んだことのある友達に遊び方を教わって、いざ!!回そうとすると、ストンと落ちて回せないことを繰り返しました。一体、何が楽しいのか全くわからず、汗だくでその日は終わりました。出来る友達が輝いて見え、羨ましく、私も出来るようになりたいと思いました。色んな友達に、コツをきいて、練習しました。輪の端を両手で持って、勢いよくまわして、その反動で自分の腰もグルんと振るんだよ、というようなことだったと思います。当時の私は、手で輪を回すのと、腰を回すのが、どうしてもシンクロせず苦労しました。でもある時にコツをつかめたようで、本当に急に出来たんです。あれは自分でもびっくりした体験でした。何の前触れもなく、急に出来たので「あの練習は何だったんだろう」と思ったほどです。出来るようになってからは、何で今まで出来なかったのか分からない程に、体が覚えているというか、何も考えなくても出来るようになりました。今となっても不思議な思い出です。
1985年生まれ

フラフープを練習した思い出

にゃんこさん奈良県 1985年生まれ 女性私が子供時代にフラフープを使った運動が流行りました。当時フラフープは運動で使われる道具であり、遊具ではなかったようです。子供にはそんなことは区別がつかず、テレビで目にすると、面白そうだ、あんなことがしてみたい!と思うようになりました。そんなある日、学校の体育の授業でフラフープに触れるチャンスがやってきたのです。テレビでは上手に踊っている方が多くて、私もそうなりたい!と思いました。輪っかの中に入って腰を振りながら使いこなす。そんなふうになるはずでした。フラフープは子供の体には大きくて扱いも大変でした。サイズがあるようで、大きなフラフープは子供の体では一回で足元に落ちてしまいます。それでも一生懸命にフラフープを持ちながら、お気に入りとして練習していました。一旦体に入れてしまうと、とっても楽しいものだと感じるようになります。
1997年生まれ

フラフープ何個回せるかな?

からーさん北海道 1997年生まれ 女性小学生の頃「私の特技はフラフープです!」と言えるくらいにフラフープが大好きでした。フラフープを好きになったきっかけは体育の授業です。「自由に遊んでいい」ということになり、私はフラフープを回してみました。フラフープを簡単に回せた私は「何個かでも回せるのかな?」と思い。試しに3個を…それも回せました。じゃあ5個…できる。そしたら10個やってみよう!10個も出来ました。まるでバルーンスカートのように綺麗なフラフープでした。周りの子達もすごいと歓声を上げて、みんなは最大何個で回せるかとか、どれだけ綺麗に回せるかを競って遊んでました。多分、あの頃は15〜20個一気に回せた記憶があります。そのあと腰で回すだけでなく、首で回してみたり、手で回してみたりと、まるでサーカスの状態になっていました。あまりにも回すことが楽しい私は家でもやりたくなり、スポーツショップでフラフープを購入して遊んでいました。今もまだできるか試してみたいです。
1968年生まれ

近所の仲間と缶蹴りの思い出

ももさん東京都 1968年生まれ 女性子供の頃、東京の下町で暮らしていました。私には一才年上の兄がいて、いつも兄のお尻を追いかけてばかりいました。近所には同年代の子供達がたくさんいたのですが、それがどういうわけか全員男の子ばかり。必然的に私は男の子ばかりの中に一人混ざって遊ぶようになりました。その頃、近所の子供達は皆半ば兄弟みたいな関係でした。当時流行っていたのは缶蹴りです。必要なのは空き缶一つだけ。ゲームの始めは、じゃんけんで負けた子供が鬼です。他の子供達は隠れるのですが、隠れる前にできるだけ遠くに思い切り缶を蹴飛ばします。鬼はその缶を拾いに走り地面に立てたら足で踏むように押さえます。そして目を閉じ、決められた数を数えてから、隠れた仲間達を探します。この段階に微妙な駆け引きがあって、鬼は缶を見守りつつ必死に隠れた仲間を探します。隠れた子供は鬼に見つからないように缶に近づき、蹴飛ばして倒そうと狙います。缶を倒されたら鬼の負けにです。けれど隠れた子供を見つけ「×××見つけ!」と叫んだ後、缶を飛ばされないように足で押さえれば鬼の勝ちです。鬼の近くに隠れれば缶を倒しやすいのですが、その代わり...つづき
1985年生まれ

いろんな鬼ごっこの思い出

りかこさん大阪府家のマンションの廊下 1985年生まれ 女性小学校低学年の頃は放課後や休日によく同じマンションの近所のお友達5〜10人くらいで鬼ごっこをしていました。定番の鬼ごっこでは人数が多く集まった時は鬼を2人にして遊びました。私はいつも逃げている思い出しかないので、あまり鬼にならなかったのだと思います。初めは普通の鬼ごっこをしていたのですが、学年が上がるにつれて色んな種類の鬼ごっこを楽しみました。「色鬼」は難しかったです。なんせマンションの踊り場でしていたので色がなく、みんなの遊び道具や自転車を持ってきて遊んでいました。「高鬼」は遊びながら、この遊びは卑怯だなと思っていました。高いところに登ればタッチをされないので、ずっと高い場所にいれば安全だからです。なので、高いところに居れる時間を20秒にしたりしましたが、鬼に待ち伏せされたら終わりでした。一番流行った鬼ごっこは「氷鬼」でした。タッチされた時の格好で固まるのも面白かったですし、タッチされても仲間に助けてもらえるところも良かったのだと思います。
1968年生まれ

「鬼ごっこ」で味わえるもの

Tenさん福井県の学校の校庭 1968年生まれ 男性テレパシーで示し合わしたかのように、放課後の校庭で「鬼ごっこ」がはじまります。鬼決めしたあと、逃げる子たち(以下、逃げ子)は広大な校庭の端々にある遊具をうまく逃げるツールとして使いながら鬼との距離を保とうと必死です。鬼に追い詰められタッチされた子は鬼になり、おおよそ3人単位で手をつないだまま、次のターゲットを追い込んでいきます。鬼グループは少しずつ多くなっていきます。この時逃げている自分は、高所恐怖症のような下半身がゾクゾクするようななんとも言えない恐怖心にかられますが、最後まで逃げ切る雄姿を頭に描きながら奮闘します。3人が手をつなぎ構成する単位は絶妙な大きさで、両端の2人が別の方向へ追いかけようとするとターゲットを逃してしまいます。何せ校庭は広く1グループだけで攻めるには限界があり、複数のグループが同じターゲットを攻めないと追い込めません。時には鬼がのばした手の指の風圧を袖に感じながらすり抜けた達成感は「逃げ子」でなければ感じることができません。追い詰めている途中よりも、いよいよ最後の「逃げ子」が捕まった瞬間が、この「鬼ごっこ」の全...つづき
1997年生まれ

楽しかったバナナ鬼の思い出

なー!さん北海道 1997年生まれ 女性鬼ごっこは広い場所と人がいれば成り立つので、小学生の頃によくやっていました。昼休みになれば、グランドでサッカーをする人たちをのぞいて、みんなで走り回ったり、体育館からスタートして鬼ごっこができるところまで逃げあったりしました。通常の鬼ごっこをすることが多かったと思いますが、氷鬼をやったこともありますし、バナナ鬼というものも遊びました。ケイドロ、ドロケイが流行ったのも覚えています。 私はバナナ鬼が好きです。バナナ鬼のルールは、鬼が15秒くらい数えたらスタートをして、みんなを探します。逃げている人が鬼にタッチされた場合、その人はバナナの真似をしてその場に止まり、助けを求めます。逃げている人が捕まった人を助ける時に、バナナになっている人の皮をむいてあげるような形です。捕まった人は皮をむいてもらったら自由に逃げられます。ただ、タッチだけではなく一工夫されていて楽しかった記憶があります。
1978年生まれ

高尾山で遊んだ鬼ごっこ

少年の心を持った中年親父さん東京都 1978年生まれ 男性 幼稚園と小学生時代に鬼ごっこにハマりました。特に小学校の昼休憩では、必ず友達と校庭に出て、毎日鬼ごっこを楽しんだ記憶があります。20人くらいで鬼ごっこする時は、鬼1人では大変なので、「鬼チーム」と「逃げるチーム」に、じゃんけんで分かれるルールを作り遊んでいました。小学校高学年になると学校の校庭などではエリアが狭く感じるようになり、遠足で高尾山登山が予定されていたことから、担任に登山後に1時間鬼ごっこを高尾山で行いたい旨を遊び友達全員で提案し、30分の時間制限での実施が了承されました。高尾山に行くのは初めてだったので、事前にと友達の家に集合し高尾山について調べました。そこで、鬼ごっこができそうなエリアも目星をつけ、遠足当日を迎えました。高尾山に着いて、まずは登山でしたので無我夢中で登り切り、スタート地点に下山しました。鬼ごっこ遊びをする友達全員の下山を待ち、揃ったところで事前に調べたエリアに移動し、高尾山鬼ごっこを行いました。学校の校庭と違い広いことこの上なしでした。また、山ならではの開放感も遊び心が刺激され、いつもの何十倍も鬼...つづき
1975年生まれ

鬼ごっこで見捨てられた私

こむぎさん兵庫県1975年生まれ 女性 私が住んでいた地域は田舎で山が多い場所です。山は子供の遊び場でした。私は子供の頃から方向音痴でした。山の中は似たような場所が多く、私はいつも迷子になってました。山の中は広く、迷子になってばかりの私を友達に探してもらって家に帰っていました。だから山の中では遊びたくなかったのですが、田舎なので山しかありません。他の友達は迷わなかったのに、なぜ私だけ迷うのか謎でした。私が小学生低学年の頃によく、友達と鬼ごっこをして遊んでいました。鬼ごっこは大体、校庭や公園で遊んでいました。校庭や公園などでは隠れる場所があまりないので、鬼ごっこをしてもすぐに見つかってしまう退屈な遊びでした。しかし、山の中はそうもいきません。山の中で鬼ごっこをすると私の場合は悲惨でした。隠れる場所は、たくさんあるので鬼になった場合は本当に大変です。誰も見つける事が出来ない時もありました。そういう場合、友達は退屈になって勝手に私を見捨てて自宅へ帰っていきました。私は友達に見捨てられた事にも気づかずに、ずーっと探していました。今、思い出すと子供って本当に残酷よねと思う悲しい想い出です。
1978年生まれ

色鬼の思い出

おむすびさん香川県 1978年生まれ 男性5歳の頃、幼稚園の運動場で友達と鬼ごっこをしていました。運動場にはグラウンドのほかに滑り台やブランコ、ターザンロープやテントウ虫型の穴の開いた遊具で、中に入れるものなどがありました。初めはグラウンドの方で走り回ってただ追いかけるだけの鬼ごっこでしたが、お兄ちゃんお姉ちゃんがいる友達は色々な遊びを知っていて「色鬼をしよう」と言ってきました。私は色鬼が何のことだかさっぱりわからず、掴まらないように走って逃げるだけの「鬼ごっこのルール」で参加していました。遊んでいるうちに、色鬼のルールは①鬼が指定した色の所に登って逃げる。②10秒間だけいられる。③10秒で離れないといけない。というものだと分かりました。鬼は大変でした。色を指定して、そのたびに10秒数えないといけない。考えながら動かないといけない。賢い子は、色を指定してその色に逃げた子の一人をロックオンし、10秒待って降りたところを捕まえる技を編み出していました。何もなかったけど、知恵と工夫の楽しさがありました。
1980年生まれ

タッチ鬼の思い出

KHさん佐賀県1980年生まれ 無回答 「タッチ鬼」は鬼にタッチされたら自分も鬼になってしまう、という遊びでした。最初に鬼を決めて10秒の間になるべく遠くに逃げます。鬼が来たらもちろん逃げるのですが、遊び始める前に「バリアルール」を決めておきそのバリアルールの中ではタッチされても鬼にならないというものでした。バリアの例としては、・石の上に乗っていたらタッチされても鬼にならない。・滑り台の上はタッチされても鬼にならない。・けんけんしていたらタッチされても鬼にならない。というものでした。私には3歳下に妹がいましたが、妹がもしタッチされそうになっても「鬼じゃない子が手を繋いでいたときは鬼にならない」というハンデをつけて一緒に遊んでいました。バリアルールで必死で逃げるのですが、バリアエリアに鬼がいて近づけなくなったりして、結局最後はみんな鬼になって終わるというものでした。「タッチされた、されてない」とか「バリアだからなし」とか「バリアが間に合わなかった」とかで盛り上がり、夕方暗くなるまであの頃は走り回っていたなぁという思い出があります。
1985年生まれ

いろいろな種類の鬼ごっこ 氷鬼 増え鬼 色鬼 けーどろ

かずみつこさん山口県 1985年生まれ 女性ありふれた、それでいて特別な遊び。鬼ごっこは秀逸な遊びだと実感しています。道具を必要とせず、人数が集まればそれだけで始められ。バリエーションが豊富なのも魅力。氷鬼、増え鬼、色鬼、けーどろ(どろけー?)は、鬼ごっこの発展系ではないでしょうか。走ることが苦手な子も楽しめる要素を備えています。鬼が目前に迫ったときには手をクロスに構え、「バリア!!」と叫び、いつの間にか「バリア破り」なるものが発生していました。ちょっと待ってを表す「タンマ!!」は、今思えばタイムの派生形だったのかな??小学校に入学した1年生のころ、クラスの半分が初めてのお友達状態。みんなが仲良くなったきっかけに鬼ごっこがありました。学校の遠足では、お弁当を終えた後に鬼ごっこをすることもありました。このときは普段集まらないような人数で遊ぶことができました。6年生の3学期になると卒業を意識してかしらずか、クラスのみんなで毎日鬼ごっこをしました。ときにはクラスも超えて鬼ごっこをした記憶が残っています。私にとっては鬼ごっこは今でも身近な遊びです。公園で私の子供3人と一緒に遊ぶこともあるし。友...つづき
1989年生まれ

懐かしいザリガニ釣り

みぃさん大阪府 1989年生まれ 女性私は大阪府の中でもほんの少し田舎の小学校に通っていました。山がとても近い場所だったため、小さな池や用水路が結構ありそこにザリガニが住みついていました。初めてザリガニ釣りを見たのは、小学校4年生の頃です。忘れもしません、男の子の友達が「ザリガニおるんやで!」と用水路を指さし教えてくれました。当時、図鑑でしか見たことがなく、田舎と言えどこんな大阪にザリガニなんているの?と半信半疑でした。そんな気持ちで用水路を覗き込むと思った以上にいたザリガニにビックリ。ザリガニもびっくりしたのか大きなハサミで威嚇してくるんです。「見ときや」と男の子はタコ糸に割り箸を付けたものをポケットから取りだしザリガニを釣り始めました。また、私はびっくりしました。餌がついてなかったからです。こんなもので釣れるの?と疑いとワクワクでその様子を見てたのを今でも覚えてます。初めはザリガニが怖くて見ていただけでしたが、数日後、スルメイカを持ってきた友達に教えてもらい初ザリガニ釣りをしました。今となってはとても楽しい思い出です。
1992年生まれ

田んぼの側溝でザリガニ釣り

mntyさん埼玉県 1992年生まれ 男性今はもう埋め立てられて住宅になってしまいましたが、私が子供の頃は家の近くに田んぼがあり、その側溝でよくザリガニを釣っていました。ネットでザリガニ釣りについて調べるとさきイカなどを餌にするとよく釣れるといった情報を見かけますが、当時の私は特に餌とか糸だとかザリガニ釣りのために道具を用意するような事はしていませんでした。そこら辺で拾った細い枝や長くて丈夫な草なんかでつついたりするとハサミでそれを挟んでくる事があるので、そのタイミングで引っ張り上げて釣っていたと思います。釣った後はなかなかハサミを離さないのを面白がって枝や草ごと振り回したり、近くの公園の水道を全開にして水を浴びせてみたり結構ひどい遊びをしていました。ただザリガニを釣るのは好きでも触るのは苦手なタイプだったので、ハサミをちぎるとか解体して楽しむような残酷な遊びはやらないしできなかったですね。飽きたら側溝に帰すわけでもなくそこら辺にほったらかしにしていたような気がするので結局死なせてはいたと思いますが。
1997年生まれ

お兄ちゃんとザリガニ

むーさん北海道 1997年生まれ 女性私たちは毎年夏、家族でキャンプに行ってました。キャンプは山の時と海の時もありました。小学3年生くらいの時に海のキャンプに行き、テントを立て、水着に着替えて海辺へ。お兄ちゃんとどっちが先にザリガニを釣れるか勝負しようとしました。海辺で15分葛藤して、ほとんど同じ時間でザリガニをゲットできました。しっかりザリガニを家で育てられるように水槽を用意しました。次の日の昼間、家に帰宅し、早速家の大きな水槽へ。2匹ゲットしたのでどっちがどっちか分かりませんが、私はマーチ、お兄ちゃんはヨーチとザリガニに名前をつけました。ちょうど、オスとメスだったみたいで、子供が産まれました。ものすごく小さなザリガニの赤ちゃんがたっぷり水の中にいて、すごく不思議な気持ちだったのを覚えてます。そこから赤ちゃんも数匹育ち、友達にも飼ってもらうようにしました。それから、育てていくと、海で取った子たちも天国へ。家の裏庭に埋めたのを覚えてます。ありがとうザリガニさん。しんごパパ追記 ザリガニは淡水にしかいないと思うので、もしかしたらショウグンエビのことなのかも知れない。
1972年生まれ

小学生の頃のザリガニ釣りの思い出

ごまさん和歌山県 1972年生まれ 女性私が小学生の頃すんでいた家の周辺は海もあり、山も近くとてものどかなところでした。まだ宅地開発の途中で学校までの道のりには田畑やため池が多数ありました。登下校の途中で友達と一緒に田んぼやため池のカブトエビ、カエル、ザリガニなど見たり採ったり、道端の草を採ったりするのがとても楽しかったのを覚えています。学校から帰ると冷蔵庫にあったちくわをこっそり持ち出してよく兄弟でザリガニ釣りに行きました。弟に教えてもらった釣り方は小さく切ったちくわにタコ糸を結んで池に垂らし、ザリガニがハサミで挟むのを待つという釣りをしていました。ザリガニが釣れることもあれば亀が釣れることもよくありましたね。網も持って行っていたので網で池の端の草が茂っているところをすくってみたりもしました。網ではザリガニを取ることは難しく沼エビや小さい魚がよく採れました。採れた獲物は持ち帰り、すべてプラスチックの水槽に一緒にいれてました。エビとザリガニと亀を一緒にするとエビが食べられてしまっていなくなってることはよくありましたね。今思うと可哀そうなことしたなと思います。
1984年生まれ

ザリガニ釣りの思い出

アゴパンダさん秋田県 1984年生まれ 男性ザリガニ釣りという遊びがあることは知っていましたが、自分が子供の頃ザリガニ釣りをして遊ぶという習慣はありませんでした。一気に年をまたいだ話になりますが、自分に子供が出来て一緒にザリガニ釣りをする機会がありました。場所はとある娯楽施設でその建物の一角でザリガニ釣りコーナーがあり、そこでのザリガニ釣りが、自分と自分の子供たちの初めてのザリガニ釣りになりました。子供たちの楽しそうな顔を見ていて、初めは傍観していた自分もザリガニ釣りをしたくなり、子供たちと一緒に楽しみました。それからしばらくして、とある公園でザリガニ釣りができるところがあると知り、子供たちと共に向かいました。そこではたくさんの親子連れがザリガニ釣りを楽しんでいました。子供は以前の経験を活かして他のどのグループよりもかなりの量のザリガニをつっていました。その近くでなかなか釣れずに、寂しそうな顔押して、あまり楽しめていない子供がいた事に気づいた我が子が、その子の近くに自分が釣ったザリガニをリリースしているのを見て、とても心が和みました。
1968年生まれ

アメリカザリガニの思い出

昭和原人さん宮崎県 1968年生まれ 男性小学校時代、田んぼの用水路の流れがよどんでいるところでアメリカザリガニをよく釣っていました。長い棒の先にタコ糸をむすびつけ、その糸の先にさきイカの切れ端を結び付けて準備オッケーです。ザリガニが潜んでいそうな水草あたりにゆっくり下ろしていってじっくり待ちます。ザリガニがさきイカに気づくと、しっかりとハサミでつまんだ状態で引き上げることができます。ザリガニがいそうなポイントを下調べして知り尽くしていることが大切です。友達と二人で競争したときは、二人でバケツからあふれるぐらい釣った思い出があります。夢中になっていて時間があっというまに過ぎていました。一人で、釣っている時に用水路にすべり落ちて全身水まみれ泥だらけになったことがありました。今考えると命に関わっていたかもしれません。安全にザリガニ釣りをするのは難しい気がします。さすがにザリガニを食べようとしたことはありませんが、大人になった今、食べてみたらどんな味がするのか、興味はあります。ロブスターっぽい味がするのでしょうか?
1980年生まれ

ザリガニ釣りの思い出

たすくさん栃木県 1980年生まれ 女性人生初の釣り体験がザリガニ釣りでした。小学生の頃まで住んでいた場所から自転車で10分くらいのところに運動公園がありました。その運動公園にはアスレチックやテニスコート、大きな池や芝生の広場もあり小学生の自分にとって大好きな遊び場でした。いつも両親と行っていた時はアスレチックで遊んでいました。ある日、普段離れて暮らしていた祖父が遊びにきていた時に、一緒に運動公園へ行きました。祖父は運動公園内の池を見て「なんかいるかもなー…」と言い、一旦帰宅。家に帰って長い棒とタコ糸を探し、それらを持ち、スーパーでアタリメを買って、再度運動公園へ行きました。池の前で「釣りするぞ」と言い長い棒にタコ糸を結びつけ釣り竿を作成、タコ糸の先にアタリメをくくって池に向かって投げ入れました。するとすぐに反応し、祖父が釣り竿をひくとアタリメを挟んだザリガニが現れました。祖父は私に竿を渡し、私は初めて釣りをしました。キャッチアンドリリースで何回も釣りました。それからも祖父が遊びにきた時には何度かザリガニ釣りをしました。今の感覚だと運動公園でザリガニ釣りなんて常識はずれなことですが、昭...つづき
1983年生まれ

手作り竿でザリガニ釣り

ようかんさん広島県 1983年生まれ 女性小学校の帰り道に細い水路があり蓋がされていませんでした。友達と水路の上をピョンピョンとびながら遊んでいるとアメリカザリガニを発見。すぐさま捕まえようとしましたが、大きなハサミを振り上げ抵抗してきました。私たちは驚いて顔を見合わせると同時に”捕まえたい"欲求が強くなりました。その辺にある小枝を持ってきて家庭科で使う糸を繋いで即席の釣り竿を作りました。釣り針がないので糸の先を輪っかにして引っ掛ける作戦です。しかしその間にザリガニは逃げてしまったようで見つかりません。ランドセルを一旦道端に置いて夢中で捜索し、やっと見つけました。即席釣り竿を垂らし輪っかにハサミを通そうとしましたが、なかなかうまくいきません。しばらくしてもう諦めようかとした時、ハサミのギザギザにうまく引っ掛かり釣り上げる事に成功。よく頑張ったとお互いを讃え合い、ふと思いました。「で、このザリガニどうする?」と。子どもの頃は先の事を考えないので、こういった「ふと気が付く」場面によく遭遇します。家に持って帰っても戻しておいで言われるのは目に見えています。教室で飼えるかとも思いましたが、生物...つづき
1992年生まれ

ザリガニ釣りのおもいで

こめさん宮城県 1992年生まれ 女性今から25年ほど前、母方の祖父母の家の近くには水が流れる大きな側溝がありました。末孫だった私は年の離れた従兄弟の遊びに一生懸命着いて行ったのを覚えています。その頃流行っていた遊びが、その側溝でのザリガニ釣りでした。今となってはザリガニは怖くて触ることなど出来ないのですが、幼い頃の私は怖いもの知らずで、尚且つ従兄弟たちに追いつこうと必死でその遊びに参加していました。祖父は釣りが趣味だったこともあり、ザリガニ釣りの釣竿はたくさん祖父母の家にあったのです。誰が1番早く釣れるか、誰が1番多く釣れるか、時間を忘れてみんなで競い合って遊んでいました。みんなで大量に捕まえたザリガニを家に持ち帰った時、母親たちの悲鳴が響いたのが忘れられません。捕まえたザリガニをまた同じ場所に戻しに行って、またみんなで勝負しようね!と約束するのがお決まりの流れでした。今は危険な場所なので封鎖されてしまったのですが、そこの前を通ると幼い頃の無邪気な思い出がふと思い出されます。
1991年生まれ

鉄棒が嫌だった

こむももみじさん 静岡県 1991生まれ 女性小学生の時鉄棒の授業鉄棒で思い出すことは体育の鉄棒のテスト。出席番号順にテストしていくので「あ行の苗字」だった私は、いつも一番で(鉄棒にかぎらず・・・)した。ホントに嫌だったな。自分は運動が得意ではないので、尚更一番にやることが嫌でした。鉄棒にまたがるとき女子でもそこそこ痛いです(どこがとは言えませんが)。コウモリという両足のみででぶら下がり逆さまになるやつを低い鉄棒でやって頭を擦ったりもしました。鉄棒で遊ぼうとする日に限ってスカートだったりします。でも気にせずやってたら男子に見られたりしました。自分たちの世代から逆上がりの補助をしてくれる「沿っている台」みたいなものが設置されました。当時はもう高学年になっていたため、早くこういうものが欲しかったなという思い出があります。小学校3年の娘も鉄棒が苦手で、逆上がり練習中に背中から落ちてトラウマになってました。自分も当時は逆上がりの練習は大嫌いでしたが、たくさん練習したり、タオルを腰に巻くといいとか、いろんな方法で逆上がりの練習をしたことで自分なりにコツがつかみました。出来たときの達成感は本当にう...つづき
1983年生まれ

秘密基地の思い出

DORODANGOさん広島県 1983年生まれ 女性小学生の頃、学校が終わると自分の兄とその友達とで虫取りをしたり探検したり釣りをして遊んでいました。相手が年上の男の子なので体力や経験が追いつかないことも多かったのですが、それでもおいて行かれないように一生懸命に後ろからついて行ったのを覚えています。兄とその友達との遊びの中でも一番思い出に残っているのは”秘密基地”(…といっても枝や葉っぱで木陰を作った程度でしたが)です。川土手の鬱蒼とした木々をものともせずグングン奥へ入ります。トゲのある植物や鋭い葉っぱで足や手を切ってしまう事などしょっちゅうでした。特に私は大きな穴ぼこを飛び越えられずすっ転んだり、段差を越えられず石だらけの地面に顔からダイブしたりと毎回血まみれでしたが、特に気にしていませんでした。自分たちで作った秘密基地に酔いしれて、中で飲むジュースはもうこの世の甘さを凝縮したかのような心地いい味です。そんなある日、高学年の男子たちに私だけ呼ばれ「あの基地を潰してやる」と宣言されたことがありました。どうも同じ場所にその男子たちも基地を作りたかったようです。私はすぐに兄と友達に報告。翌...つづき
1997年生まれ

鉄棒でブランコ遊び

らんさん北海道 1997年生まれ 女性この遊びは幼稚園に通っていた頃の話です。遊んでいい時間になるとみんな遊具のあるところへ急ぎます。1番人気なのはブランコでした。ブランコはたった二つしかありません。幼稚園児なので譲るという概念はあまりみんなないので、早い者勝ちでした。たまにブランコは使えるものの、なかなか使えるタイミングがありません。そこで、私たちは鉄棒を使ってブランコを思いつきました。どのように?と思うかもしれませんが、ブランコする人は鉄棒にただぶら下がる、そして、ブランコとして遊ぶためにもう1人がその人の背中を押すといった形です。子供なので低めの鉄棒でもブランコとして利用可能なのと鉄棒の幅もあるので一つの鉄棒で2人は入れました。そこから鉄棒ブランコのブームも来ていたと思います!ですが、ある日私が鉄棒ブランコをする側で押してもらってたとき、あまりに勢いが凄かったので「もう押さなくていいよ!」と友達に伝えたものの止まらず、手が限界で落ちて、手を骨折しました笑。そこからその遊びはかなり減ったと思います。
1984年生まれ

祖父が作ってくれた鉄棒

リオさん山形県 1984年生まれ 女性小学生の頃、一緒に住んでいた祖父が庭に鉄棒を作ってくれました。どうやって作ったのかは当時の私にはよくわかりませんでしたが、祖父は土木の仕事をしていたので、その経験を活かして作ってくれたのだと思います。本当に鉄の棒で作ってくれて、かなり頑丈な仕上がりでした。近所の友達もよく家に来ては、その鉄棒で一緒に遊んでいました。残念ながら私は鉄棒があまり得意ではなく、普通の前回りや逆上がりができる程度でした。友達は得意だったので、鉄棒に乗った状態から足でつけた勢いで逆上がりをする『空中逆上がり』を連続で10回ほど回っていました。私はクルクルと回っている友達を、すごいなぁと感心して見ていました。今思えば、鉄棒を手作りしてくれた祖父のためにも、私も空中逆上がりを連続でできるようになるまで練習すれば良かったなぁと反省しています。今はその鉄棒をすでに取り壊してしまって無いのですが、優しい祖父が私のために鉄棒を作ってくれたという思い出は今も私の心を温かくしてくれます。
1982年生まれ

鉄棒で逆上がりを練習した思い出

ニカさん兵庫県 1982年 女性小学校2、3年生位の頃でしょうか。体育の授業で逆上がりのテストがあるというので、出来なかった私はよく練習していたのを思い出します。小学校の鉄棒の前には、逆上がりが上手く出来るよう、練習用の踏み板が置いてあって、それがとてもカラフルに塗られていたのでよく覚えています。休み時間や放課後は学校で練習し、休日は親に電車で運動公園まで連れて行ってもらって練習をしました。私には妹がいるのですが、どういう訳か妹は鉄棒が得意。 前回り逆上がりと、練習する私の隣でぐるぐるぐるぐる回っていました。今思えば、初めての「妹に出来て私に出来ない事」だったような気がします。なので悔しくて、妹がどうやって逆上がりをしているのか盗み見ていました。研究の結果、どうやら腕の力で身体を鉄棒に引き寄せているようでした。小学校に置いてあった逆上がり練習用の踏み板は、ジェットコースターの出だしのレーンのような形をしていて、足で可能な限り高く駆け上がって逆上がりを助けるような構造になっていましたが、腕の力によるのであれば、あれは無駄かもしれないと学習しました。その後運動公園で初めて逆上がりが成功し、...つづき
1992年生まれ

耐久鬼ごっこ

サカイさん京都府 1992年生まれ 女性当時私は小学校低学年で、休み時間に「高鬼」が流行っていました。ルールはほぼ鬼ごっこと同じで、鬼にタッチをされたらその人がオニオ交代するというものなのですが、「高鬼」は、鬼より高い場所にいる人は捕まえられないというものでした。ただし10秒以上同じ高い場所に留まることはできないので、走って逃げることと高い場所で休息を挟むことをうまく組み合わせて逃げる必要があるゲームです。私たちがよく遊んでいた公園には、よくある高さの鉄棒と、ぶら下がることのできる大きな鉄棒がありました。鬼以外のメンバーはしばしば鉄棒に座ったりぶら下がったりして鬼から逃れていたのですが、ある日の高鬼でヒートアップした鬼役の私とお友達のAちゃんは大きな鉄棒のところで睨み合いをすることになりました。10秒数えているのにAちゃんが鉄棒にぶら下がって降りてこないのです。捕まりたくないAちゃんと、ズルだと大騒ぎする私。最後には体力の限界がきたAちゃんが尻もちをついて軽い怪我をしてしまい、私は母に叱られてしまった思い出があります。
1976年生まれ

ぶらさがりの思い出

ぷくり子さん沖縄県 1976年生まれ 女性縁あって、私が通っていた小学校に娘も通うことになりました。娘を見送りながら、久しぶりに校舎や校庭をながめると、小学生の頃に友達といろんな遊びをした事を思い出し、懐かしさでホッコリ。変わらない物もあれば、変わった物もありました。そんな中、校庭の片隅に苦手だった鉄棒が変わらず並んでいました。体育の授業で鉄棒がうまく回れず、ぶら下がりも握力が弱かったのでダメダメでした。 そんなある時、鉄棒の上手な女の子と放課後遊ぶことになりました。その子は、鉄棒が本当に好きなようで、体操選手かというくらいクルクル回っていました。私もマネしてみようと鉄棒をつかみましたが、できないイメージが大きくて、ぶら下がって揺れているだけでした。その姿を見てたのか、その友達が背中と背中を合わせて、後ろから押してくれ、まわる練習をに付き合ってくれました。根気よく練習に付き合ってくれたこともあり、少しずつまわることが出来ました。 だんだんと上手くなってきたのをいいことに、調子にのちゃって鉄棒から落ちてしまって尻もち。痛い思い出も浮かびますが、それ以上に一つのことを成し遂げた事が嬉しくて...つづき
2002年生まれ

「DS鬼ゴッコ」のルールと遊び方

しんごパパ埼玉県 1973年生まれ 男性私は2002年生まれではないのですがこの遊びを紹介します。2002年頃に生まれた子どもが小学生になる2008年頃、子供達の間では「DS鬼ゴッコ」なる新しい遊びが、流行しました。デジタルのおもちゃを使った次世代鬼ごっこです。ニンテンドーDSには、「ピクチャット」とう通信機能があり、画面にペンで書いた文字や絵を情報交換をしながら鬼ゴッコするもの。【DS鬼ゴッコのルールと遊び方】1、基本的なルールは鬼ゴッコと同じで、子は鬼から逃げる。鬼が子にタッチしたら鬼を交代の繰り返し。2、子は、隠れながら「鬼がここにいる」「鬼が○○くんに変わった」などの情報を交換する。3、鬼は、仲間のふりをして偽情報を流して仲間に近づき、いきなりタッチをしたりもできる。4、チャット通信ができる範囲は30メートル程です。5、同じようにピクチャットを使ってケイドロや、かくれんぼも出来ますね。時代が変わっても、遊ぶ場所が少なくなっても創意工夫して、新しい遊び方を発想するんですね。外遊びをするきっけかに子供さんに教えてみたらどうでしょう。子どもたちに携帯電話やスマートフォンが普及すると、...つづき
1973年生まれ

爆竹を使った遊び①「う○こ爆弾」の思い出

しんごパパ埼玉県 1973年生まれしんごが子どもの頃に友達としていた爆竹を使った遊びの思い出です。しんごが子どもだった頃は、近所に駄菓子屋さんやタバコ屋さんがあって、子どもが「爆竹」を簡単に買うことが出来ました。爆竹は火薬の詰まった花火の一種で導火線に火を付けると「パン!」という大きな音で破裂します。しんごもしんごの友達も爆竹を使った遊びが好きで「小さな爆弾」を手に入れた気分でわくわくしました。いろいろなものを爆竹で吹き飛ばして遊びました。あるとき友達と一緒に「うんこ爆弾」という遊びを開発しました。うんこ爆弾の遊び方は、1、束になっている爆竹をばらして、一本の爆竹にします。2、導火線を長めにした一本の爆竹を、犬のうんこに挿します。3、みんなで、そのうんこの回りに集まってひとりが導火線に火を付けます。4、各自爆竹が爆発する寸前に素早く逃げる。というスリル満点の遊びです。度胸試し的な遊びです。爆発ギリギリで逃げた子は、みんなから「凄い!」と言われ。最初に逃げた子は「弱虫」とからかわれます。あるときこの遊びをしていたら、友達は火を付けてから後退りで逃げたため、足をダブに踏み外して落ちてしまい...つづき