神奈川

1986年生まれ

塾にあったマットでの相撲遊びやプロレス遊び

前頭三枚目さん神奈川県 1986年生まれ 男性私が小学校高学年から中学校卒業までにかけて通っていた学習塾での思い出です。その塾は今でこそ中堅有名進学塾の一角を担うような大きな進学塾ですが、当時はまだ新興の学習塾だったと思います。塾での活動は受験向けの授業を受けるというもので、他の塾と大差ないものだったとは思いますが、その塾には相撲ができるようなマットが置いてありました。授業と授業の合間に講師と生徒が相撲やプロレスができるものでした。私や私の塾友達は休み時間になるとその上で講師と取っ組み合いのじゃれあいをして楽しんでいました。ある日の休み時間も一人の講師と複数人の生徒がじゃれあいをしていましたが、この頃合いの子供というのは手加減というのを知りませんし、エネルギーに満ち溢れています。じゃれあってるうちに、相手になっていた講師のシャツがビリビリに破けてしまいました。講師は怒ったりせずに、ただただ息を切らして呆然としながら次の授業のチャイムと同時に教室に入ってきてボロボロのシャツのまま授業を開始したのを覚えています。そのときはその様がおかしくて笑うのを我慢していましたが、今になって思うととんで...つづき
1978年生まれ

「いつもの病院の中庭で」

ピョンチャンさん神奈川県 1978年生まれ 男性私たちは学校が終わると、遊ぶ約束もせずにいつもの場所で、いつものメンバーが集まり、何をして遊ぶのかをその場で決めていました。学校から徒歩で10分くらいの場所にある、国立の病院は、当時は知らなかったのですが、結核病棟があり、多くの入院患者がいたようです。晴れている日には緑の草が私たちのふくらはぎをくすぐる中庭で、大きな声を出して笑ったり、ふざけ合って走り回ったり、賑やかに遊んでいました。雨が降るとコンクリートの壁が鳴いているように、暗く濡れていました。そこに集まるメンバーは各々に遊ぶ道具を持ってきていて、さまざまな遊びをしましたが、一番気に入った遊びはゴムボールの草野球でした。プラスチックのカラーバットにビニールテープをグルグル巻きにして重くすると、ゴムボールを弾いた時の飛距離が違いました。そうして大きな声を出して遊んでいた子供たちの歓声は、その病院の入院患者たちにとって、騒がしくも好ましい声だったに違いありません。
1974年生まれ

苦い思い出もあった小学校の砂場

ユメカサゴさん神奈川県 1974年生まれ 男性私の通った小学校の校庭は他校よりも広く。体育、遊びの両方に使える大きなな砂場がありました。自宅が学校から近かった事もあり、低学年までは休み時間や休日に出掛け、幅跳び、相撲、大きな砂山作りなど、様々な遊びを楽しんでいました。ひとたび大きな構造物を作るとなると、周囲の事を一切忘れ夢中になってしまいます。そんな風にして苦労し作り上げたトンネル数本付きの砂山も、後の雨や授業により無残に崩されてしまうのが残念で仕方ありませんでした。楽しい思い出がある一方、嫌な事が無かった訳ではありません。校庭が大変広い上に私が通っていた頃は夕方や休日に誰もが学校へ自由に入れた為、近所から愛犬を連れ散歩に来る人がたくさんいました。それだけならどうという事は無いのですが、中には砂場の中に糞をさせて砂に埋め、そのまま放置し帰ってしまう人もいます。何も知らないまま遊ぶとそれが手に触れてしまい、言いようのない不快感と共に楽しい時間が台無しになってしまう事もありました。
1982年生まれ

知らないおじさんから守ってくれた「げんこつたかちゃんの思い出」

たきあまーちさん神奈川県 1982年生まれ 女性私の小学校の時の思い出です。私の小学校の裏にはおじいさんがやっている駄菓子屋がありました。みんなそこで駄菓子を買って公園で遊ぶというのが毎日のルーティンでした。そこの駄菓子屋の孫のたかし君は、まさにガキ大将でした。たかし君は「たかちゃん」と呼ばれており、駄菓子を買う子にこれはダメだ。こっちを買え。等、店に居ては少し困ったところもあり、威張っているところを見つかると、よくおじいさんにげんこつをもらっていました。ある日、公園でいつものように遊んでいると、知らないおじさんが話しかけてきて「学校でお母さんが困っている。一緒に来てほしい。」と言うのです。お母さんは家に居るはずだしどうしようと私が困っていると、たかちゃんが来て、「こいつの家は近くだから俺が家に一緒に行ってくる。」と言ってくれたのです。すると、おじさんはすぐにどこかに行ってしまいました。たかちゃんは、本当に家に行ってくれました。家には母が居て、一緒に行っていたらと思うと怖かったなと思いました。普段は威張っているところもあるガキ大将だけど、いざというときには頼りになるガキ大将でした。
1973年生まれ

鬼が消えてしまった「夕暮れの缶蹴りの思い出」

ヨッシーさん神奈川県 1973年生まれ 男性小学生だったある日、近所の友達6人で学校が終わってから、缶蹴りをして遊びました。当時は缶蹴りが友達の間で流行っており、毎日のようにやっていました。その日もいつも通り、いつもの場所で遊んでいましたが、友達の1人が鬼になってから何度も缶を蹴られ。なかなか鬼から解放されずにいました。そのうち辺りもだんだん薄暗くなってきました。それでも構わず隠れていました。鬼の声が聞こえてこないなと思っていたら、他の友達が来て、「あいつ(鬼の友達)がいないぞ」と言ったのです。みんなで出て行ってみると確かにいませんでした。名前を呼びながら周りを探しましたが見つかりません。とりあえず、その友達の家に様子を見に行ってみたら、普通に家から出てきました。その友達曰く、「もう暗くなってきたし、お腹も空いたから」とのこと。それを聞いてみんなも「それじゃ、しょうがないか」となり、そのまま解散しました。
1982年生まれ

「また明日ね」缶蹴り遊びの思い出

たきあまーちさん神奈川県 1982年生まれ 女性小学校三年生の頃、放課後になると近所の公園で集まって毎日遊んでました。特に約束したわけではなく、その日に集まった子で缶蹴りなどをしていました。私の地域の缶蹴りは、じゃんけんで鬼を決め、鬼が百を数えるうちに隠れて、鬼に見つからないように缶を蹴れば勝ち。というルールです。途中で見つかってしまえば鬼に捕まります。鬼に捕まった子は、仲間が缶を蹴ってくれれば、鬼から逃げることが出きます。それぞれに自然に隠れる場所というのができてきます。私の隠れ場所は、アスレチックの城の影でした。ここだと、自分からは鬼の動きが分かるし周りの仲間の隠れ場所も分かるというメリットがありました。ただ、人気の隠れ場所であり、日によっては隠れる人が多いというデメリットがありました。その日も、いつもの場所に隠れていました。あまり話したことのない友達と隠れていました。隠れている間に、学校のことや家のこと、色々なことを話しました。いつの間にか、仲良くなっていました。また、明日も遊ぼうね。と何日も何日も当たり前のように遊ぶ毎日でした。ある日いつもの隠れ場所で、今度引越しをするんだと悲...つづき
1969年生まれ

いいところを見せたい「女子との缶蹴りの思い出」

みやぎさん神奈川県 1969年生まれ 男性40年以上前の川崎。繁華街、風俗街も近く、お世辞にも柄が良いとは言えない街。市街地の広いとは言えない公園。ときには、浮浪者、野良犬も立ち寄る公園での缶蹴り。缶蹴りは、当時の小学生たちの間では、あまりメジャーな遊びではなかったが、それでも始めれば日が暮れるまで盛り上がる。いま思えば、放課後のあの時間に、よくもあれだけフリーで遊べる時間を持つ小学生がいたもんだなと思う。そして、空き缶一つで良くもまぁ、あれだけ盛り上がれたもんだなぁと思う。ごくまれに男子だけの缶蹴りに女子が混ざることがある。一人だけ女子ということはなく、3~4人のグループで混ざる。3~4人の女子がいれば、男子各々にも、それぞれ気になる娘がいたりする。いつもは、ひたすら「楽しい」缶蹴りが、なんだか「試される場」に変わる。しかしながら、小学生時代の女子は、男子より体力があったりする。男子より缶を遠くに蹴ったりする。始まる前は楽しい。しかし、終わってみると、小学生ながらに何か無力感のようなものを感じたものだ。大人になってからの合コンのように。ところで、今の時代のアルミ缶は飛ぶのだろうか?久...つづき
1974年生まれ

ヒーロー気分を味わえた休み時間の思い出 ドロジュン

ぼんじりさん神奈川県 1974年生まれ 男性小学校時代、雨天以外の休み時間は大抵クラスメートと共に校庭へ出ます。10名ずつチームを組みドロジュンをして遊びました。校内は市内でも決して広いとは言えませんでしたが、それでも休み時間は大勢の生徒が外に出て遊びます。建物の周辺はかなり入り組んでおり、ドロ側に回っても隠れる場所を見付けるのに大して困らず。決して不利ではありませんでした。ドロ側で自分以外の友人が全て捕まってしまった時は、ちょっとしたヒーロー気分を味わえます。警側の厳しい警戒を巧みに潜り抜けて本拠地に突入し、仲間全員を救い出した時の気分は堪りません。普段は大人しくクラスでも目立たない存在でしたが、この時ばかりは仲間全員から感謝され、自分の存在感が大変大きくなったのを覚えています。一方夢中になり過ぎて、休み時間が過ぎた事も気付かず隠れ続けてしまい。教室に戻るのが遅れ、担任教師に叱られてしまった経験も何度かあります。中学以降は休み時間に思い切って校庭に出る機会も無くなり、今となっては良い思い出です。
1978年生まれ

「一人シーソー」と「大人数シーソー」

banaさん神奈川県 1978年生まれ 男性シーソーは遊び方次第で危険な遊具にもなります。今の子供たちには決して真似してほしくないシーソーの遊び方です。基本的なシーソーの遊び方は?ニ人もしくは、四人でバランスをとって交互に跳ねて遊びます。一人で遊ぶシーソーの遊び方とは?難易度は高いですが実はジャンプをすることで、一人シーソーは可能なのです。ただし、己のお尻にダメージを与えてしまいます。ジャンプする。浮いて落下する着地と同時にお尻を強打する。あまり楽しかったという記憶はありません。多人数で遊ぶシーソーの遊び方とは?単純にシーソーに乗れるだけ子供たちが乗りこむだけ。ただし、みんな遊びの顔はしていません。どれだけ体重がある子を乗せられるかという闘いなのであります。皆で勢いよくジャンプする。相手チームも負けじと勢いよくジャンプする。勝負にならないときが多いですが、相手チームにお尻を強打させた方が勝ちとなります。
1974年生まれ

幼馴染の男の子と二人きりで箱ブランコ

水色メランコリーさん神奈川県 1974年生まれ 女性小学生の当時、私はいわゆるマンモス団地に住んでいました。マンモス団地内の至る所にある公園には、ほぼ箱ブランコがある状態でした。物心ついた頃から箱ブランコは馴染み深いものであり。小学校低学年くらいまで大好きだった幼馴染の男の子と二人きりで、箱ブランコに乗って遊んでおりました。幼馴染の男の子と、箱ブランコに向かい合って座ったり、時には二人で横並び状態で座ってみたり…。ちなみに、二人で並んで座っていると当然の事ながら座っている方側に箱ブランコは傾いてしまいます。そのアンバランスな傾き加減さえも、子供ながらには何故か楽しく、はしゃいでしまいました。勿論、座るだけではなく、”立ち漕ぎ”と表現すればいいのでしょうか?二人で向かい合った状態で、箱ブランコの椅子の上に立って、お互いの体重を利用して箱ブランコを漕ぐ。箱ブランコをゆらゆら揺らして楽しんだりもしていました。大好きだった幼馴染の男の子との箱ブランコ遊びは、小学校低学年までで、いつの間にか遊ばなくなっちゃったなぁ…といった感じ。今思い出すとちょっぴりノスタルジックというか甘酸っぱいような気持ち...つづき
1982年生まれ

箱ブランコはみんなでおやつを食べる場所

たきあまーちさん神奈川県 1982年生まれ 女性私が小学生の時、放課後は近所の公園に集まるのが日常でした。約束などはなくその日に集まった友達と遊ぶのです。まずは、それぞれ持ち寄ったおやつをぽっけの中から取り出し交換会です。場所は、箱ブランコに乗りながらです。くだらない話をしながら、その日のテストや好きな人の話、先生へのちょっとした悪口など、箱ブランコの中でたくさんの時間をすごしてきました。ある日、隣のクラスのエリちゃんが箱ブランコに乗って泣いてしまいました。いつものようにおやつを出し、話を聞きながら一緒に食べました。もう少ししたら引越しをすることになった。行きたくないよ。と涙をポロポロと流しながら箱ブランコをこいでいました。私も反対側に座り、行ってほしくないよ。と一緒にこぎました。二人でこいだので箱ブランコは右へ左へ行ったりきたり、風をきって楽しくなってきました。悲しい顔をしていたエリちゃんもいつの間にか笑顔になっていました。また、遊ぼうね。と約束して、別れたエリちゃんとの再会はありませんでしたが、私のなかでは大切な思い出です。
1992年生まれ

かまくらの思い出

ぽんさん神奈川県 1992年生まれ 女性私が小学校低学年の頃、関東で積雪するほどの雪がふり、翌日には一面雪景色となった年がありました。私は集合住宅に住んでおり、家の前や駐輪場、駐車場の前に雪が積もっていてワクワクしたのを覚えています。雪用の手袋と上着を装備して、住宅の前に出てみると、同じ年ぐらいの姉弟が既に遊んでいました。いま、かまくらをつくっているの!とその子達の父親と一緒にレンガのようなブロックを積み上げてかまくらの土台を作っていました。私と姉は一緒に作っていい?とすぐに混ざり、一緒にかまくらブロック作りを始めました。そのうちに違う姉弟もやってきて 6、7人でかまくらを作り始めました。段々と子どもたちが飽きてきた頃になると父親たちが一生懸命完成まで作ってくれたのを覚えています。その日から雪が溶けるまで、住宅内に作ったかまくらに入ってみんなで遊びました。中々雪が積もらない関東での出来事なので思い出に残っている事のひとつです。
1970年生まれ

小学校からの帰り道に「何かを探しながら帰る」遊び

みふぁさん神奈川県 1970年生まれ 女性小学校までは子どもの足でも歩きで10分程の、今考えればさほど遠くない距離でしたが、帰り道では住まいが近所のお友達と、即席の遊びをしながら帰りました。その中でも、すぐできて競争の要素があり、ワクワクしながら遊んでいたのが、「何かを探しながら帰る」ことです。今では探せないものとしては、道に落ちている缶飲料のプルタブです。昔は缶ジュースなどを開けるとプルタブは、缶からはずれるものが主流でしたから、道端にポイ捨てされてることが多々ありました。それを帰り道でたくさん見つけた方が勝ちという、いたってシンプルな遊びをやっていました。ゴミ拾いのつもりではやっていませんでしたが、今思えば公道の掃除にもなっていました。あの頃は目をさらのようにして、落ちているプルタブを探し、お友達とほぼ同時に見つけると、ワー!と歓声を上げながら拾いに走ったりしていました。探すものはプルタブでないこともあり、何という名称かわかりませんが、道路の端に埋められている、ボルトのようなもので、上部に安全のためにゴム製か何かの丸いカバーがかけられているものがありました。このカバー部分が青や黄の...つづき
1976年生まれ

今思いだすと恥ずかしい ”貧乏ごっこ”

いちごフェアさん神奈川県 1976年生まれ 女性小学生のころ、小公女セーラやマッチ売りの少女、フランダースの犬、など苦労しているけれど健気に生きている物語が大好きでした。自分もその世界にどっぷりつかりたくて、一人でおままごとをする時には”貧乏ごっこ”をして遊んでいました。押入れの中が家という設定で、薄暗い中お人形を相手に「こんな物しかなくてごめんね」「今日もおかゆだけだよ」「お母さん、寒いよ」など生活に苦しむ母子の会話を脳内再生し楽しんでいました。いわゆる普通の家庭をモチーフにしたおままごとではない、背徳感のある遊びだと小学生ながらに感じていたので、貧乏ごっこは基本一人で遊ぶ時の特別な設定です。一度だけ仲の良い友人と遊んだことがありましたが、その事などすっかり忘れ。大人になってからその友人と再会した時に、当時の貧乏ごっこをやった時の事を話してくれて、あの時は若干引いていた、と聞いたときには顔が熱くなるくらい恥ずかしくなりました。貧乏ごっこのおかげか、現在は節約が大好きな主婦になっています。
1995年生まれ

学童保育のベーゴマ遊び

ゆいぽんさん神奈川県 1995年生まれ 無回答普通の独楽とは違い、ベーゴマはテクニックが必要です。小学生の私にはなかなか回せず、上級生の友達と遊べず悔しい思いをしたこともあります。何回も練習してついに回せたときの達成感や喜びは忘れられない程の思い出になっています。私は、学童保育でよく遊んでいたのですが、一人一個自分のベーゴマがありました。回せるようになった人は、ちょっとした学童内での大会に参加することができ、そこで勝った人は、商品と勝った相手とのベーゴマ交換の権利がありました。どのベーゴマもデザインは似通っていて、今にして思えば、なんでそんなにほかの人のベーゴマが欲しかったのか不思議でなりません。それでも自分が欲しいと思ったベーゴマを勝ち取った時には子供ながらも誇らしく思ったものでした。今でも、子供と関わる機会は多くありますが、どの子供も今はベーゴマをやっていないようで、時代を感じ悲しくなることもあります。
1981年生まれ

「グーパーグー踏みグーパーネジってぴょん」ゴムダンの思い出

グーさん神奈川県 1981年生まれ 女性ゴムダンは、小学校3〜4年の頃に流行ったと思います。ゴムダンが上手な子は、運動が得意な子が多かったイメージです。小学生の頃は負けず嫌いだったので、失敗しても何度も挑戦していたなと思います。ゴムなので失敗しても痛く無い点が良かったですね!私には姉が居たので、姉の友達とも遊ぶことが多く、ゴムダンなら、追いかけっことは違い、無理なく一緒に遊ぶことも出来ました。ゴムダンをクリアするごとに、だんだん高さが高くなるというレベルアップがありました。一段、二段という風にレベルが上がっていくのです。レベル=高さだったので、高くなると、小指⁉︎を使えるというルールもあったと思います。ジャンプしてゴムの中に入ったり、踏んだりするので、ゴムに引っかからない様に小指を指定された個所で使えたと思います。昔過ぎて、すぐには思い出せませんが(笑)。私の地域では、「グーパーグー踏みグーパーネジってぴょん」というフレーズがあったのですが(歌いながらやります)、この「ネジって」がポイントで、コツがいりました!ねじった後に、ゴムを絡まず踏まずに、元の場所に着地しなくてはいけないんです。...つづき