1980 年代に生まれた人が子どもの頃にした遊びの思い出

1989年生まれ

パチンコ台づくりの思い出

harukazuさん 岐阜県 1989年生まれ 無回答 小学校の時、夏休みの工作で何を作ろうかと悩んでいた時、友達と一緒に「パチンコ台」を作ろうという話になりました。 一緒に材料を買いに行く中でビー玉をたくさん買い、玉の1つ1つの模様が違い、キレイに輝いていたことを覚えています。 いつしかパチンコ台を作ることよりもビー玉を転がして遊ぶことに夢中になりました。友達と指ではじいて当たったビー玉を自分のものにできるというゲームを始め。何度も繰り返しながら自分の好きな色、模様の玉を集めるのが楽しかったです。 不思議なものでお気に入りのビー玉は大切にしまっていたつもりなのに、いつの間にか無くなることがありました。 どこかで落としたのか、転がって隙間に入ってしまったのか分かりませんが、1つでも無くなったことに落ち込み。泣いてしまいました。
1989年生まれ

回る独楽の絵柄を虹色に出来なくて

あきびよりさん 長野県 1989年生まれ 女性 20年以上前のこと、我が家にはビデオテープに録画された「一休さん」のアニメに独楽に関するお話がありました。 「とある貴族の娘がもうすぐ誕生日。その娘は独楽が好きなので、みんなで自慢の独楽を持ちよりお披露目兼プレゼントすることに。その娘にプレゼントする独楽を作って欲しいと頼まれた一休さんは試行錯誤を重ね。ある独楽を完成させた。 誕生日当日、様々な独楽が貴族の娘の前で披露され、その後回してみせた。しかし止まっているときは素敵な柄だと思った独楽でも、回っている間はその柄が見ることは出来ない。 つまらない…そう貴族の娘が思っているところに一休さんの独楽が披露された。特に着色もされていない独楽に、上の平らな面に黒の数本の線が描かれているだけ。なんだあの独楽は!とその場がざわつく中、一休さんが言った。 この独楽は回すと不思議なことが起こります。それ!!と独楽を回し始めた一休さん。 その場の誰もが回る独楽を見守ると、突然独楽が虹色に色づいたのです。 独楽が止まるとやはり黒の数本の線があるだけ。なんとも不思議な現象に貴族の娘は大喜び!!それからその娘は、...つづき
1985年生まれ

コマ名人になった思い出

チャーリーさん 北海道1985年生まれ 男性 昔の事なので記憶が曖昧なところもありますが、小学生の時によくコマで遊んでいた記憶があります。 当時登校していた小学校には昔の遊び道具がたくさん置いてあり、休み時間になるとみんなでいろいろな遊びをしていました。その中でも自分が特にはまったのがコマでした。 誰から遊び方を教えてもらったかはわかりませんが、紐を巻いてコマを回してそのコマを紐で飛ばして手の上に乗っけたり。回すときに地面ではなくそのまま自分の手に乗るように回してコマで遊んでいました。 他の友達はめんこをやったり、卓球をやったり、竹馬で遊んだりしていましたが、自分はコマばかりで遊んでいたので周りの友達よりもうまくなっていて「コマ名人」と呼ばれていました。 学校に置いてあるコマは決まった形しかありませんでしたが、誕生日に親に連れて行ってもらったおもちゃ屋さんで、軸の部分が金属になっているコマを見つけ、すぐにそれを買ってもらいました。 うれしくて家や学校でとにかくコマばかりやっていた思い出があります。
1983年生まれ

大縄跳びの記録と自分のせいで記録を止められないという思い

梨の子さん 長崎県 1983年生まれ 女性 一時期クラスの女子全員で大縄跳びを昼休みに行うのがブームになりました。給食を食べた後、体育館の前の中庭に集合し、縄を回してくれるのは担任の先生と、身体が大きめのクラスメートでした。 最初は数回しか続かず、10回くらい続いては引っかかるを繰り返しておりました。そのうち掛け声を全員で言って盛り上がるようになり、どんどん跳ぶ回数が増えていきました。 とうとう、ある日100回の大台に乗りそうになりました。50.60.70と続き、100になる直前のとんでもない緊張感と集中力。自分のせいで記録を止められないという思い。その時の全力な気持ちを今でも鮮明に思い出します。 100にのったときの、ひゃーーーくという大きな掛け声とともに、おそらくそのあと200近くまで跳んだのですが、私の前の前の女子でとうとう引っかかってしまいました。 内心自分がひっかからなかったことへの変な安堵感と、その子がかなり罪悪感で落ち込んでしまったのをみんなで慰めて、なおかつ記録に喜んだのを覚えています。 そうやってこつこつ忍耐して練習したり、チームワークを大切に一体感を出していくことの...つづき
1984年生まれ

二重跳びの思い出

おかずさん 岡山県 1984年生まれ 男性 小学五年生の時、縄跳びがとても流行っていました。五年生の教室は屋上のスペースの向かいにあり、縄跳びには絶好の場所だったためです。 二重とび、後ろ二重とびはもちろん、後ろ駆け足二重あや(片足ずつ後ろ二重にし、両手をクロスさせてまた戻す)、後ろ交差二重あや(両手をクロスさせたまま、後ろ二重をする)など、様々なバリエーションがありました。 二重とびが得意で、120回連続で飛べました。本当はもっと多い回数跳べていたと思いますが、気を失って、目が覚めたら保健室でした。 体育の時間に、全員同時にスタートして、引っ掛かったら脱落していき、三人くらい残って、負けたくない一心でやっていたためです。 三重とびは10回くらい、後ろ三重跳びも5回くらいできたと思います。 最近になって、姪が縄跳びをしているのを見て、私も久しぶりに跳んでみたところ、姪は軽々と跳べる一方、私は全然跳べずショックでした。25年前の過去の栄光にすがるのは辞めます。
1987年生まれ

長縄跳びは遊びではなく緊張する競技

あさのさん 栃木県 1987年生まれ 女性 縄跳びというと各々で飛び、何回飛べたか、どれだけ難しい技ができたかを競うのが一般的だと思います。 しかし私が小学5年生のころから縄跳びと言えば長縄跳び、それも8の字飛びが一番ホットな遊びでした。 クラス対抗戦、腕力自慢2人が長い紐を持ち、一人一人が次々と飛び3分間で連続して何回飛べるか競うものです。大会も設定されていました。 縄跳び大会に向けて各クラス練習を重ね熾烈な競いが小学校ながら勃発していました。大会の日までどのクラスが何回飛んだらしい、あるクラスが優勝候補だと噂が飛び交ったものです。 私のいた小学校は地方の公立学校でしたから様々な生徒がいました。その中には必ず体育が苦手な生徒もいるものです。 かくいう私がその一人で、おっとりしているために高速で回る縄についていけず、必ず縄がはけていくときに引っかかってしまうのです。 私が飛ぶ順番に来るとクラスメイト一同に緊張が走るのを縄跳びの練習のたびに感じていました。縄跳び大会の日まで胃が痛い日が続いたものです。 縄跳びが遊びの一種という認識かもしれませんが、そんなことありません。今でも縄跳びと言え...つづき
1985年生まれ

努力ではどうにもならなかった単身縄跳び

運動オンチ 奈良県 1985年生まれ 女性 私が育った地域では体育の授業で縄跳びを持ってくるように言われました。様々な飛び方を体育の授業で習うことにより、習得していくのです。 普通とび、二重跳び、クロス跳び。多種多様な飛び方の内で、できる飛び方とできない飛び方があります。 あらゆる飛び方をマスターしている人もいますが、運動神経に恵まれていない私にとって、普通跳びが精一杯でした。それでもひたすら練習させることが義務教育のやり方です。 休み時間、帰宅後に自主練習をするように勧められるのです。ところが、自主練習でできること、できないことがあるということを当人が子供のために気がついていません。 教育者側もできないことは努力によってするべきだ…という考え方を曲げません。そんなこんなの考えと教育により、無駄な努力をするようにと賢明に練習しますが、できませんでした。 自宅練習で縄跳びばかりしていましたが、偶然に二重跳びができたとしても、なぜできたのか?分析できないのです。 今思えば、才能的にできない事に努力をしていたという…苦い思い出です。
1983年生まれ

いつでも縄跳び

ホクホクさん 広島県 1983年生まれ 女性 体育の授業で縄跳びがあり、富士山のイラストが描かれた用紙が配られました。 前跳びや後ろ跳び、交差跳び、二重跳びに挑戦し、練習してできるようになったら先生の前で披露します。合格できたら一マス色を塗っていき、富士山登頂!というわけです。 それ以降遊びも、跳び方の種類によっては少し縄を短くしたほうが跳びやすかったり、持ち手も滑らないように工夫しながら毎日練習しました。午前休憩や昼休憩も猛特訓です。 友達に見てもらい、「10回できてた?」「うーん最後の1回が怪しかったかな」など審査してもらっていました。このおかげで体育の授業が待ち遠しくなり早く富士山登頂するべく必死。 いつもなら遊ぶ時間も縄跳び、眠るときもイメトレです。まさに寝ても冷めても縄跳び。大変でしたが楽しい授業でした。 結果、私は登頂できず悔しい気持ちで終わりましたが、授業に関係なくしばらく縄跳びにハマっていました。おかげでいろんな跳び方ができるようになったのでした。
1988年生まれ

冬の縄跳びの痛い思い出

とび兎さん 兵庫県 1988年生まれ 男性 小学生の頃、私の通っていた小学校では、冬の体育の時間に縄跳びをする事が多い学校でした。 服装に関して上は長袖の着用は許されていたのだが、なぜか下は半ズボンじゃないといけないルール。寒い中の縄跳びは冷えた体に縄が当たる恐怖があるのに、さらに下が半ズボン。今思えばどういう拷問なのかと思います。 普通に飛ぶだけではなく、1つ1つの技をクリアしていき自分のチェックリストを埋めていくような形でした。 後ろ跳びやクロス跳びとかはゆっくり出来るので、当たってもそこまでの痛さは無かったんですが、二重跳びは勢いも必要で普通にするのも当時は難しく、さらに当たると痛いという怖さもあり、なかなか出にずに苦労しました。 勇気を出してやった時に思いっきり素足に当たり、激痛と共に鞭を撃たれたようなミミズ腫れになりました。その後の体育の縄跳びは全て休んでしまおうかと思ったくらい嫌になったのが思い出です。
1989年生まれ

縄跳びで二重跳びができた思い出

佐和子さん 福島県1989年生まれ 女性 私が小学2年生の頃、二重跳びや三重跳びをするのが流行りました。教室の外のベランダで練習したり校庭で練習します。私はなかなか二重跳びができず悩んでいました。 それで私は、二重跳びが上手い人を参考に練習していました。あまりの熱心さに自分の家でも練習して、下の階の方から苦情がきて怒られたこともあります。 それからは自主的に練習するときはエントランスでするようにしたのですが、隣の家のおじちゃんが励ましてくれたことを思い出します。 そうやっていくうちに二重跳びができるようになって、学校で何回跳べるか実施したこともあります。最終的には20回くらい跳べるようになって、家族からも褒められ嬉しかったです。 特に祖父母が1番喜んでくれて、よく跳べるようになったなあなどと言われて嬉しかったです。 1番跳べる子は1分間くらい跳んでましたが、私には真似できないなあと思いながら見てました。ときどき縄跳びの縄が頭にパチっと当たることがあって、それは痛かったです。
1983年生まれ

縄跳びの練習の甲斐があった思い出

maruさん 青森県 1983年生まれ 女性 縄跳びと言えば、小学校時代を思い出します。小学校の時縄跳びが体育の時間でしてから、みんなの中で縄跳びブームがありました。行間休みや、昼休み、みんなでレベルアップする為にたくさんの時間を使って練習してた思い出があります。 最初は普通の飛び方、その後は後ろ飛び、あや飛び、その後は後ろあや飛び、二重跳び、三重跳びと色々な飛び方を全制覇できるよう毎日練習してました。 みんなよりも早く飛んびたい、と思いが強くなり、学校から帰った自宅前でも練習に励んでた事を覚えています。 そして、小学校へ行くとみんなのこれできるようになったよ!の披露会。毎日、毎日、練習して、できるようになるととても嬉しかった事を覚えています。体育の時間は先生にも披露して、褒めてもらうのがとても嬉しかったです。 みんながほとんどできるようになると、大縄跳びをしたのが楽しかったです。1つの事をクラスのみんなで頑張って何回飛ぼう!とみんなで作った目標が達成できた時は本当に嬉しく、楽しい時間でした。縄跳びはそんな思い出があります。
1986年生まれ

大掃除のときに出てきたベーゴマの思い出

sizukuさん 茨城県 1986年生まれ 女性 小学生の頃に家族で家の大掃除をしていたら、昔親が遊んでいたというベーゴマが出てきました。コマの遊び方は知っていたのですが、ひもを使って回すベーゴマは初めてでした。 親は「懐かしいなぁ!これどうやって遊ぶか知ってるか?」と聞くので「知らない」と答えると、自慢気にこうやるんだよとコマにひもをぐるぐると巻き始め、さっと引き投げて回してみせました。 ベーゴマが素早く回転して勢いよく回ります。その様がなんだか特別なことができる人みたいに見えてすごい!と思いました。 やり方を教わって自分でもやってみるのですが、なかなか上手くできずコマが回りません。見かねた親が「これはコツがあるんだよ。ほとんどこれでよく回るかが決まるんだよ。」と教えてくれました。 ひもを巻くときに、とにかく丁寧にきれいに巻くのがコツみたいです。私と兄も一緒にやってみると、なんとか成功しました。 平らなテーブルの上で回していたのですが、勢いがつくとコマ同士がバチバチと当たり合い弾くのが楽しくて、その後もしばらくは兄と競い合って遊んでいました。 少しのコツでコマの回る強度がつくようにな...つづき
1983年生まれ

何やってんの!!ベーゴマで怒られた思い出

かずきさん 福島県1983生まれ 男性 多分お正月とかだったと思います。小さい頃に親戚一同が我が家に集まりました。親戚のおじさんが、竹トンボやベーゴマ、福笑いなどを持ってきてくれて、「たまにはみんなでこういうので遊ぼう!!」となりました。 子供達で一斉に玩具をとって遊びだしました。親戚のお兄ちゃんがベーゴマを手に取り、紐をコマに巻いていきました。 僕はお兄ちゃんの紐を巻いてる所をジッと見て、自分も見おう見まねでコマに紐を巻いていきました。お兄ちゃんは水切りのフォームで綺麗にコマを回しました。 それを見て僕は「野球投げじゃなくて、水切りの感じで投げれば良いんだな。よし!お兄ちゃんのコマなんか弾き飛ばしてやる!!」そう思った僕は1メートルくらい後ろに下がり、助走をつけ、お兄ちゃんのコマめがけて勢いつけて投げました。 水切りというか、ドッチボールの横投げのフォームで。物凄いスピードで飛んで行ったコマは、案の定ガラスにガチャーン!「何やってんの!!」母親から雷が落ちました。今となっては良い思い出です。
1988年生まれ

児童館のベーゴマ遊び

るんるんさん 兵庫県 神戸市西区 1988年生まれ 男性 私は小学生の頃、学校終わりに児童館に毎日行っていました。みんなとよくベーゴマで競い合って遊んでいました。 その通っていた児童館には、技のやり方を書いた紙があり、初級は普通に回すことから始まり、紐を使って綱渡りをしたり、回っているベーゴマに紐を絡めて宙に飛ばして手の平に乗せて回すなど、色々なレベルの技に挑戦していきました。 自分が今どれぐらい出来るようになったのかチェックを付けます。児童館にいる先生に検定試験的なものをやってもらい合格することができれば、その児童館の中で表彰を飾ってもらえるというものでした。 それをもらうことが出来ると周りに自慢する事もでき、目立つことが出来るのでみんな必死に取り組んで遊んでいました。 ただ、ベーゴマの数もそれほど多くあったわけではなく、早く来た人から順にできるので、取り合いになって喧嘩したり、順番が回ってこなくて先生から怒られたり、いろんなトラブルがありました。
1989年生まれ

戦わずして遊ぶベーゴマ

harukazuさん 岐阜県 1989年生まれ 男性 小学校6年制の時、クラスの中でベーゴマが流行りました。私ははじめ、ベーゴマの存在も知らず遊び方もよく分かっていませんでした。 仲の良かった子がやっていたこともあり、コマを購入し戦っていくうちにベーゴマの魅力にとりつかれました。 相手のコマを飛ばして勝った時の快感は今でも忘れられないです。みんなで集まってワイワイ騒ぐこともとっても楽しかった。 ある時一人の子がどこから入手してきた情報なのか分かりませんが、「コマを削るときれいだし角がとがって強くなる」と言って自分のコマを削ってきました。 そのコマを見た時、キラキラと銀に光ったコマが本当にかっこよく、強そうに見えました。自分も真似してみたいと思い、やり方を聞きコマを削ってみました。 削られたところがきれいに光るのが嬉しく、オリジナルのものを作っている感覚がまた面白さを増し、みんなどんどんとこだわるようになっていきました。 いつしかコマを回して戦うよりも、いかにきれいなコマを作るかが主になっていきました。今はどこにいってしまったか分からないコマですが、思い出としてはずっと大切なものです。
1986年生まれ

最強のめんこ

sizukuさん 茨城県 1986年生まれ 女性 めんこ遊びは私の親世代がよく遊んでいたものですが、わたしが小学生の頃にもまだめんこ自体はありました。とはいえ遊び方がよく分かっていなかったので、始め親に遊び方を教わってそうやるのか!と遊び始めました。 ルールはとても単純で、めんこを地面にたたきつけて周りにあるめんこが裏返れば、持ち札が増えていくというもの。 よく分からないけどなぜか「強いめんこ」というものがあって、それをうまく使うとけっこうな確率で他のめんこを取れるのです。きれいな形で厚手のものだったような気がします。 そのめんこをわたしたちは勝手に「最強のめんこ」と呼んでいました。その最強のめんこが手元に来たら勝ったも同然。勝手に自分が強くなった気がしました(笑)。 最強のめんこを兄が手にした時、残りのめんこは5~6枚でした。私はとれても数枚だろうと見ていました。その時点で勝負は互角。まだチャンスはあると。 兄が全力で最強のめんこを叩き付けると、その瞬間に残りのめんこがすべてひっくり返ったのです!思わず声をあげました。 そんなにひっくり返せたのは初めてだったので小学生のわたしには衝撃...つづき
1989年生まれ

「牛乳瓶の蓋で!」メンコの思い出

みさん 兵庫県西脇市 1989年生まれ 女性 私が幼稚園に通っていた頃、よくメンコ遊びをしていました。当時はまだ瓶の牛乳とパックの牛乳、半々だったので瓶の時に蓋を取っておいて洗って乾かして使っていました。 マジックなどで自分の好きな色を塗ったり、絵を描いたりしてオリジナルのメンコを作るのが流行りでした。 メンコ遊びもみんなやっていましたが、女子は絵を描いたり、オリジナルメンコを集める方が多かった気がします。お道具箱に集めて喜んでいました。 メンコ遊びの方はいたって普通のルールで、裏返した方が勝ちです。男子は勝った方がもらえるルールを使っていた様に思いますが、女子は平和に勝ち負けだけのルールでした。 自由時間に女子は女子、男子は男子で楽しんでいましたが、先生がたまには男女混合でやろうと提案してくれて普段遊ばない子とコミュニケーションが取れる遊びになっていました。 駄菓子屋で買うこともありましたが、幼稚園に持っていけなかったので、牛乳瓶の蓋のメンコの方が思い出に残っています。
1986年生まれ

お菓子のおまけのメンコと 牛乳のフタのメンコ

倉田さん 福岡県 1986年生まれ 男性 小学校時代にメンコ遊びが流行っていました。僕の世代ではアニメのお菓子におまけとして付いている丸型のメンコでした。みんな小学校の近所にあるお菓子屋でお菓子を買い、中に入っているメンコを使って遊んでいました。 最初はひっくり返したら相手のメンコが貰えるというルールで遊んでいました。自分のメンコが取られたくない人が増えて、おまけのメンコは収集目的のトレーディングカード的なものになりました。 牛乳瓶の蓋を平らにして乾かし、お互いメンコのやり取りなしというルールで遊んだりもしました。 牛乳のフタを何枚も重ねてテープで貼って分厚くして、分厚くしたフタをひっくり返せるか?と遊んだり、牛乳のフタを横につなげて広く平たいものを普通のメンコでひっくり返せるか?など色々なバリエーションの遊び方をしていました。
1985年生まれ

マンション内の公園で毎日遊んだゴムダン「コーヒー牛乳」の歌

らんらんさん 埼玉県 1985年生まれ 女性 私が子供の頃に住んでいたマンションには、少し広い公園がありました。マンションには同世代の女の子が何人か住んでいて、学校帰りや休みの日はいつも公園に集まってゴムダンをしていました。 ゴムダンは最低3人いないと出来ないのですが、人数が集まらない時には公園内の大きなゴミ箱にゴムをひっかけてもう片方に人が立ち2人でやっていました。 よくやった歌は「せんろは続くよどこまでも」「アルプス一万尺」で、これらは初心者向けでした。 難易度の高い「コーヒー牛乳」をクリアすべく私は日々練習を繰り返したものです。そのうちに「コーヒー牛乳」も上手く跳べるようになると、スピードを上げて「先に引っ掛かった方が負け」の競争を友達としたりもしました。 コーヒー牛乳の難しい所は、手前のゴムに片足をかけてクロスする通常の技だけでなく、リズムに合わせて反対側へ移動して両足をクロスさせる点です。 大体移動する時にひっかかってしまいます。これが上手くできると喝采を浴びてヒーローになれました。
1983年生まれ

おばあちゃんが教えてくれた 女子たちのゴム跳び遊び

シロクロさん 広島県 1983年生まれ 女性 遊ぶ時は同じクラスの仲良し4人で、毎回集まるのはEちゃんの家でした。4人の家のほぼ真ん中に位置していて、さらに隣に広場がある事がみんな集まる理由でした。 この広場であらゆる遊びをしましたが、ゴム跳びもその中の一つ。少しずつゴムを上げて一番高く跳べた人が勝ちです。 この時、足にゴムが触れると脱落なのですが“触れた、触れていない“でEちゃんと他の子がケンカに発展することがしばしば。ケンカ慣れしていない私はオロオロするばかり。 こういう時は残りの一人の友達と気配を消し、そっと他の遊びを始めるのです。そして一通りケンカが終わると元のゴム跳びに戻ります。 このゴム跳びは私の周りにはやっているの子供はいませんでした。というのも、Eちゃんのおばあちゃんが教えてくれたからです。 優しいおばあちゃんは昔の遊びをよく教えてくれました。ゴム跳び以外にメンコ、お手玉、おはじき。昭和の遊びです。これらの中からゴム跳びは私達にヒットしたのです。 おばあちゃんありがとうと言いたいです。
1984年生まれ

「ゴムとび」と「ゴムダン」のルール

おかずさん 岡山県 1984年生まれ 男性 【ゴムとび】 ゴムとびは、10人くらいでやっていました。100均で売っているような、パンツ用のゴムです。2人は両側で腰の高さくらいで持っていて、残り8人で順番に跳んでいきます。男とびと女とびがあります。 男とびは、ゴムに対して平行に跳び、右足をあげてゴムを越え、その後左足もゴムを越えます。ゴムにあたっても、飛び越えられたらクリアです。 女とびは、ゴムに対して垂直に跳び、右足、特に足首の部分を引っ掛けるようにして跳び、その後左足も同様にゴムを越えます。 だんだん高くしていき、越えられなかったら脱落、最後の1人になるまで競います。走り高跳びのように助走をつけて跳ぶのではなく、ゴムの目の前に立って跳びます。 【ゴムダン遊び】 ゴムダン遊びも10人くらいでやっていました。 2人は両側でかかとに引っ掛けて輪にしており、残り8人は輪の中にいます。 グーで輪の中に足を入れ、パーで輪の外に足を出します。 だんだんペースを速くして行き、間に合わなかったら脱落。最後の1人が優勝です。
1981年生まれ

「グーパーグー踏みグーパーネジってぴょん」ゴムダンの思い出

グーさん 神奈川県 1981年生まれ 女性 ゴムダンは、小学校3〜4年の頃に流行ったと思います。 ゴムダンが上手な子は、運動が得意な子が多かったイメージです。小学生の頃は負けず嫌いだったので、失敗しても何度も挑戦していたなと思います。ゴムなので失敗しても痛く無い点が良かったですね! 私には姉が居たので、姉の友達とも遊ぶことが多く、ゴムダンなら、追いかけっことは違い、無理なく一緒に遊ぶことも出来ました。 ゴムダンをクリアするごとに、だんだん高さが高くなるというレベルアップがありました。一段、二段という風にレベルが上がっていくのです。レベル=高さだったので、高くなると、小指⁉︎を使えるというルールもあったと思います。 ジャンプしてゴムの中に入ったり、踏んだりするので、ゴムに引っかからない様に小指を指定された個所で使えたと思います。昔過ぎて、すぐには思い出せませんが(笑)。 私の地域では、「グーパーグー踏みグーパーネジってぴょん」というフレーズがあったのですが(歌いながらやります)、この「ネジって」がポイントで、コツがいりました!ねじった後に、ゴムを絡まず踏まずに、元の場所に着地しなくてはい...つづき
1984年生まれ

「イチニノサンのシノニノゴ」の歌に合わせて跳んだゴム跳び

もっちさん 東京都 1984年生まれ 女性 小学校高学年の頃、学校から帰ってランドセルと水分を摂って友達のお家に集まるのが日課。寒い日は家でゲームや歌を歌って過ごすが、天気のいい日はゴム跳びが大盛り上がりしたのを覚えています。 2人は足でゴムを持つ係、あとは順番待ちで歌う人、1人だけ、ゴムを絡ませながら踊ります。われ先にとやりたがりましたが女の子同士なので、上手く順番を守りました。 イチニノサンのシノニノゴ、サンイチシノニノシノニノゴ。と歌って合わせて踊りました。 兄弟で遊びにきて飛べない子がいたら電車ごっこや、くぐったりしてもらっていました。人が少ない日は棒に絡ませて、1人で持ち、高さを調節しながら飛びました。 飛び方もたくさんの技があり、回転したり、わざと踏みつけたりと、カッコよく飛べるのを競い、いろんな知恵を出し合いました。ゴム1つでこんなにもいろんな遊びができて、楽しく過ごせた記憶が今でも残っています。
1987年生まれ

ゴム飛びを遊んでいたあの頃の年齢になった息子

かかのんさん 静岡県 家の近所の駐車場 1987年生まれ 女性 私がゴム飛びと聞いて思い出すのは、近所の友達と遊んだ記憶です。「3年生までは子供だけで自転車に乗ってはいけない」という学校の決まりがあったので、近所の友達と遊ぶことが多かったのです。 さらに学区の端に家があったため、帰宅後にまた学校で待ち合わせをして遊ぶのは、子供ながらに大変だとの思いもありました。 男の子の友達と遊ぶときは鬼ごっこや野球など、体を思いっきり動かす遊びが多かったけれど、女の子と遊ぶ時は「縄跳びの縄をゴム代わり」にしてよく遊びました。 近所の女の子といつも2人で遊んでいました。2人でも頭を使えばゴム跳びはできます。縄跳びの縄を柱に結んで固定し、一人が縄を動かし、一人が跳ぶ。それに飽きると、縄に当たらないようにくぐり抜けるリンボーダンスのような遊びをするのが私たちの鉄板でした。 縄跳びの縄が2本あれば、暗くなるまで2人で遊んでいられたあの頃。縄に当たりにくくするためなら真冬でも上着を脱いで、寒さもなんのそので遊んでいられたあの頃。 今は、小学校から帰ってくると、「遊びに行ってくる!」と、元気よく出かける息子の後...つづき
1980年生まれ

フラフープのほろ苦い思い出

なみさん 京都府 1980年生まれ 女性 私が小学生の頃、フラフープ遊びが流行していました。 友達同士で投げたフラフープをお互いでキャッチしたり、手首のスナップをきかせて投げたフラフープが自分の手元に返ってくる遊び、どちらが長い間フラフープを回していられるかを競ったり、身体の色々な所でフラフープを回す遊びをしていました。 ある日、いつものように遊んでいると弟が頭で器用にフラフープをクルクルと回せるようになりました。 私も「負けたくない!」と思って、頭で回そうとしましたが失敗…。意地になって次は思いっきりフラフープを頭にめがけて勢いを付けて投げました。 すると、私の首にフラフープがグルグルと巻き付きました。「ゲッホ、ゲッホ。」と咳がでて首を思いっきり押されたような痛みを感じました。 けれど、弟に見られていたのが恥ずかしかったのか、私は何事も無かったかのように足元に落ちたフラフープを拾い遊びの続きをしました。 その時の首の痛みは残り2、3日の間は続いていたように思います。その後、他の人が首回しに挑戦しても私は挑戦しませんでした。 楽しい思い出の中のほろ苦い思い出です。
1989年生まれ

練習の賜物 フラフープを誰が一番回せるか競争

みさん 兵庫県 1989年生まれ 女性 フラフープの思い出で一番印象に残っているのは近所の友達です。 我が家にはフラフープがなかったので、友達の家で遊ぶ時によく貸してもらってやっていました。友達には2つ上のお姉さんがいたので家に2つフラフープを持っていて、遊ぶときはみんな交代で使っていました。 私は友達の家に行った時しかフラフープができなかったのであまり長く回せませんでしたが、友達はお姉さんに負けるのが悔しかったみたいでかなりの時間練習したそうです。 お腹だけでなく胸や首で回したり、回しながら歩いたり、練習の甲斐あってずっと回し続けることができました。 ある日学校でフラフープをやる機会があって、みんなで誰が一番回せるか競い合いました。他の子がどんどんフラフープを落としていく中、友達はいつまでも回し続けていたので、先生からのストップがかかるほどでした 私たちの世代では敵なしのフラフープの達人として、先生に褒められて嬉しそう。何事も継続することが大切だと子供ながらに感じました。
1983年生まれ

フラフープ争奪戦

時短モンスターさん 広島県 1983年 女性 フラフープは小学校中学年の時に流行りました。 休憩になると争奪戦。10本くらいしかないのでチャイムが鳴るやいなや女子はみんなピューッと教室からいなくなります。 小学校時代の女子は年齢で流行るものが結構決まっていて面白いものです。 フラフープはクルクル回し跳びながら鬼を追いかけ回したり、腰で回して誰が一番長くできるかを競ったりしました。 青と赤のフラフープを地面に1つずつ置いて、それぞれひとりずつ入っていき、どちらのフラフープに多く人が入れるかという遊びもしました。おしくらまんじゅう状態で誰かの足が出た時点でその色チームの負けです。 この逆の発想で、人が立っていてフラフープを投げ、立っている人がフラフープに入ったら得点が入るという投げ輪ならぬ投げフラフープなど、子供時代はこのように即席で遊びやルールをどんどん作って遊んでいました。 相手に得点を入れたくないが為に立っている人がちょっと動いてズルしたりして、あーだこーだと盛り上がり楽しい日々でした。
1985年生まれ

ちょっと違うフラフープの使い道

わんこさん 奈良県 1985年生まれ 女性 フラフープは、体の動きでフラフープを動かしていく運動ですが、それができない子達にとっての遊び方がありました。 フラフープのサイズにも大中小とあります。身体の比較的小さな子供は小サイズのフラフープを使ってケンケンバーや電車ごっこをしていました。 とても子供じみた遊びですが、フラフープのアイテムに魅せられた子供にとっては、フラフープの道具を使うというだけでもウキウキする遊びでした。 その理由はフラフープの輪っかというデザイン性にあると思います。丸くて綺麗なフラフープは見ているだけでも癒しでした。 こうした遊び方にはまる子は運動が苦手だったり、大人しい子だったりします。当時は、活発な子供が多くみんな同じことができて当たり前という価値観での教育方針。子供なりにできない運動を諦めて自ら遊びを考案していました。 本来であれば先生が手引きする事も当時は放任状態。子供だけで新しい遊びを楽しんでいたのです。
1980年生まれ

初めてのフラフープ

たろうさん 群馬県 1980年生まれ 女性 小学校3年生の時に初めてフラフープなるものをしました。それは学校の誰でも使って良いおもちゃ置き場にあり、丸くて大きくて、不思議でした。 遊んだことのある友達に遊び方を教わって、いざ!!回そうとすると、ストンと落ちて回せないことを繰り返しました。一体、何が楽しいのか全くわからず、汗だくでその日は終わりました。 出来る友達が輝いて見え、羨ましく、私も出来るようになりたいと思いました。色んな友達に、コツをきいて、練習しました。 輪の端を両手で持って、勢いよくまわして、その反動で自分の腰もグルんと振るんだよ、というようなことだったと思います。当時の私は、手で輪を回すのと、腰を回すのが、どうしてもシンクロせず苦労しました。 でもある時にコツをつかめたようで、本当に急に出来たんです。あれは自分でもびっくりした体験でした。何の前触れもなく、急に出来たので「あの練習は何だったんだろう」と思ったほどです。 出来るようになってからは、何で今まで出来なかったのか分からない程に、体が覚えているというか、何も考えなくても出来るようになりました。 今となっても不思議な思...つづき
1985年生まれ

フラフープを練習した思い出

にゃんこさん 奈良県 1985年生まれ 女性 私が子供時代にフラフープを使った運動が流行りました。 当時フラフープは運動で使われる道具であり、遊具ではなかったようです。子供にはそんなことは区別がつかず、テレビで目にすると、面白そうだ、あんなことがしてみたい!と思うようになりました。 そんなある日、学校の体育の授業でフラフープに触れるチャンスがやってきたのです。 テレビでは上手に踊っている方が多くて、私もそうなりたい!と思いました。輪っかの中に入って腰を振りながら使いこなす。そんなふうになるはずでした。 フラフープは子供の体には大きくて扱いも大変でした。サイズがあるようで、大きなフラフープは子供の体では一回で足元に落ちてしまいます。 それでも一生懸命にフラフープを持ちながら、お気に入りとして練習していました。一旦体に入れてしまうと、とっても楽しいものだと感じるようになります。
1985年生まれ

いろんな鬼ごっこの思い出

りかこさん 大阪府家のマンションの廊下 1985年生まれ 女性 小学校低学年の頃は放課後や休日によく同じマンションの近所のお友達5〜10人くらいで鬼ごっこをしていました。 定番の鬼ごっこでは人数が多く集まった時は鬼を2人にして遊びました。 私はいつも逃げている思い出しかないので、あまり鬼にならなかったのだと思います。 初めは普通の鬼ごっこをしていたのですが、学年が上がるにつれて色んな種類の鬼ごっこを楽しみました。 「色鬼」は難しかったです。 なんせマンションの踊り場でしていたので色がなく、みんなの遊び道具や自転車を持ってきて遊んでいました。 「高鬼」は遊びながら、この遊びは卑怯だなと思っていました。 高いところに登ればタッチをされないので、ずっと高い場所にいれば安全だからです。 なので、高いところに居れる時間を20秒にしたりしましたが、鬼に待ち伏せされたら終わりでした。 一番流行った鬼ごっこは「氷鬼」でした。 タッチされた時の格好で固まるのも面白かったですし、タッチされても仲間に助けてもらえるところも良かったのだと思います。
1985年生まれ

色んな鬼ごっこをして遊んだ思い出

らんりんさん 埼玉県 1985年生まれ 女性 小学校低学年の頃は、とにかく外遊びといえば鬼ごっこでした。 昼休みは20分あって、ほとんどのクラスメイトが一緒に鬼ごっこをしました。 人数が多いので鬼を2人にしたり。 そのうちに捕まった人も鬼になる「増え鬼」。 鬼に言われた色をタッチする「色鬼」。 高いところに登れば捕まらない「高鬼」。 氷のバリア中は捕まらない「氷鬼」。 など、鬼ごっこの種類はどんどん増えていきました。 鬼ごっこで思い出すのは淡い恋の思い出です。 小学2年生だった私はクラスに好きな男の子がいて、一緒に鬼ごっこをするのが楽しみでした。 ある時たまたま同じ場所へ逃げた私とその子は、鬼に見つからないように2人でしげみに隠れました。 狭い場所だったので肩がぶつかり、シーンと静まり返った2人だけの空間に私はドキドキしました。 他愛もない話をしているうちに鬼に見つかってしまいあっけなく捕まりましたが、好きな男の子と一緒に隠れることができるのも鬼ごっこのいいところです。
1980年生まれ

タッチ鬼の思い出

KHさん 佐賀県1980年生まれ 無回答 「タッチ鬼」は鬼にタッチされたら自分も鬼になってしまう、という遊びでした。 最初に鬼を決めて10秒の間になるべく遠くに逃げます。 鬼が来たらもちろん逃げるのですが、遊び始める前に「バリアルール」を決めておきそのバリアルールの中ではタッチされても鬼にならないというものでした。 バリアの例としては、 ・石の上に乗っていたらタッチされても鬼にならない。 ・滑り台の上はタッチされても鬼にならない。 ・けんけんしていたらタッチされても鬼にならない。 というものでした。 私には3歳下に妹がいましたが、妹がもしタッチされそうになっても「鬼じゃない子が手を繋いでいたときは鬼にならない」というハンデをつけて一緒に遊んでいました。 バリアルールで必死で逃げるのですが、バリアエリアに鬼がいて近づけなくなったりして、結局最後はみんな鬼になって終わるというものでした。 「タッチされた、されてない」とか「バリアだからなし」とか「バリアが間に合わなかった」とかで盛り上がり、夕方暗くなるまであの頃は走り回っていたなぁという思い出があります。
1985年生まれ

いろいろな種類の鬼ごっこ 氷鬼 増え鬼 色鬼 けーどろ

かずみつこさん 山口県 1985年生まれ 女性 ありふれた、それでいて特別な遊び。 鬼ごっこは秀逸な遊びだと実感しています。 道具を必要とせず、人数が集まればそれだけで始められ。 バリエーションが豊富なのも魅力。 氷鬼、増え鬼、色鬼、けーどろ(どろけー?)は、鬼ごっこの発展系ではないでしょうか。 走ることが苦手な子も楽しめる要素を備えています。 鬼が目前に迫ったときには手をクロスに構え、「バリア!!」と叫び、 いつの間にか「バリア破り」なるものが発生していました。 ちょっと待ってを表す「タンマ!!」は、今思えばタイムの派生形だったのかな?? 小学校に入学した1年生のころ、クラスの半分が初めてのお友達状態。 みんなが仲良くなったきっかけに鬼ごっこがありました。 学校の遠足では、お弁当を終えた後に鬼ごっこをすることもありました。 このときは普段集まらないような人数で遊ぶことができました。 6年生の3学期になると卒業を意識してかしらずか、クラスのみんなで毎日鬼ごっこをしました。 ときにはクラスも超えて鬼ごっこをした記憶が残っています。 私にとっては鬼ごっこは今でも身近な遊びです。 公園で私の...つづき
1989年生まれ

懐かしいザリガニ釣り

みぃさん 大阪府 1989年生まれ 女性私は大阪府の中でもほんの少し田舎の小学校に通っていました。 山がとても近い場所だったため、小さな池や用水路が結構ありそこにザリガニが住みついていました。 初めてザリガニ釣りを見たのは、小学校4年生の頃です。 忘れもしません、男の子の友達が「ザリガニおるんやで!」と用水路を指さし教えてくれました。 当時、図鑑でしか見たことがなく、田舎と言えどこんな大阪にザリガニなんているの?と半信半疑でした。 そんな気持ちで用水路を覗き込むと思った以上にいたザリガニにビックリ。 ザリガニもびっくりしたのか大きなハサミで威嚇してくるんです。 「見ときや」と男の子はタコ糸に割り箸を付けたものをポケットから取りだしザリガニを釣り始めました。 また、私はびっくりしました。餌がついてなかったからです。 こんなもので釣れるの?と疑いとワクワクでその様子を見てたのを今でも覚えてます。 初めはザリガニが怖くて見ていただけでしたが、数日後、スルメイカを持ってきた友達に教えてもらい初ザリガニ釣りをしました。 今となってはとても楽しい思い出です。
1984年生まれ

ザリガニ釣りの思い出

アゴパンダさん 秋田県 1984年生まれ 男性 ザリガニ釣りという遊びがあることは知っていましたが、自分が子供の頃ザリガニ釣りをして遊ぶという習慣はありませんでした。 一気に年をまたいだ話になりますが、自分に子供が出来て一緒にザリガニ釣りをする機会がありました。 場所はとある娯楽施設でその建物の一角でザリガニ釣りコーナーがあり、そこでのザリガニ釣りが、自分と自分の子供たちの初めてのザリガニ釣りになりました。 子供たちの楽しそうな顔を見ていて、初めは傍観していた自分もザリガニ釣りをしたくなり、子供たちと一緒に楽しみました。 それからしばらくして、とある公園でザリガニ釣りができるところがあると知り、子供たちと共に向かいました。 そこではたくさんの親子連れがザリガニ釣りを楽しんでいました。 子供は以前の経験を活かして他のどのグループよりもかなりの量のザリガニをつっていました。 その近くでなかなか釣れずに、寂しそうな顔押して、あまり楽しめていない子供がいた事に気づいた我が子が、その子の近くに自分が釣ったザリガニをリリースしているのを見て、とても心が和みました。
1980年生まれ

ザリガニ釣りの思い出

たすくさん 栃木県 1980年生まれ 女性 人生初の釣り体験がザリガニ釣りでした。 小学生の頃まで住んでいた場所から自転車で10分くらいのところに運動公園がありました。 その運動公園にはアスレチックやテニスコート、大きな池や芝生の広場もあり小学生の自分にとって大好きな遊び場でした。 いつも両親と行っていた時はアスレチックで遊んでいました。 ある日、普段離れて暮らしていた祖父が遊びにきていた時に、一緒に運動公園へ行きました。 祖父は運動公園内の池を見て「なんかいるかもなー…」と言い、一旦帰宅。 家に帰って長い棒とタコ糸を探し、それらを持ち、スーパーでアタリメを買って、再度運動公園へ行きました。 池の前で「釣りするぞ」と言い長い棒にタコ糸を結びつけ釣り竿を作成、タコ糸の先にアタリメをくくって池に向かって投げ入れました。 するとすぐに反応し、祖父が釣り竿をひくとアタリメを挟んだザリガニが現れました。 祖父は私に竿を渡し、私は初めて釣りをしました。 キャッチアンドリリースで何回も釣りました。 それからも祖父が遊びにきた時には何度かザリガニ釣りをしました。 今の感覚だと運動公園でザリガニ釣りなん...つづき
1983年生まれ

手作り竿でザリガニ釣り

ようかんさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学校の帰り道に細い水路があり蓋がされていませんでした。 友達と水路の上をピョンピョンとびながら遊んでいるとアメリカザリガニを発見。すぐさま捕まえようとしましたが、大きなハサミを振り上げ抵抗してきました。 私たちは驚いて顔を見合わせると同時に”捕まえたい"欲求が強くなりました。 その辺にある小枝を持ってきて家庭科で使う糸を繋いで即席の釣り竿を作りました。釣り針がないので糸の先を輪っかにして引っ掛ける作戦です。 しかしその間にザリガニは逃げてしまったようで見つかりません。 ランドセルを一旦道端に置いて夢中で捜索し、やっと見つけました。 即席釣り竿を垂らし輪っかにハサミを通そうとしましたが、なかなかうまくいきません。 しばらくしてもう諦めようかとした時、ハサミのギザギザにうまく引っ掛かり釣り上げる事に成功。 よく頑張ったとお互いを讃え合い、ふと思いました。 「で、このザリガニどうする?」と。子どもの頃は先の事を考えないので、こういった「ふと気が付く」場面によく遭遇します。 家に持って帰っても戻しておいで言われるのは目に見えています。 教室で飼え...つづき
1988年生まれ

みんなで鉄棒遊びの思い出

もんちゃん 群馬県 1988年生まれ 女性 小さい頃から鉄棒遊びが大好きで得意だった私は、小学生に上がる前には、前回りと逆上がりはできていました。 周りのお友達はまだ逆上がりはできない子が多く、できる私は、得意気にお友達に逆上がりのやり方を教えていました。 ですが、少し調子にのっていたかもしれません。 逆上がりができるようになってから失敗したことがなかった私は、余裕ぶって逆上がりをして、お友達に「すごいでしょ〜?」と見せびらかせていたら…。 手が滑って地面に落ちてしまいました…。 とっても恥ずかしくなった記憶があります。 一回失敗すると、自信がなくなるのか、前回りでも失敗して落ちてしまったこともあります…。 でもお友達は笑ったりせず、「大丈夫?」と心配してくれました! 小学生の私でさえ、心配してくれたお友達の気遣いで、少しうるうるした記憶があります。 それからは、気をつけて遊ぶようになり失敗はないです。 そしてその失敗を機に、その時は逆上がりができないお友達を、少し見下していたかもしれないことに気づいたので「できなくても大丈夫だよ」っと優しい心でいられるようになりました。
1983年生まれ

秘密基地の思い出

DORODANGOさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、学校が終わると自分の兄とその友達とで虫取りをしたり探検したり釣りをして遊んでいました。 相手が年上の男の子なので体力や経験が追いつかないことも多かったのですが、それでもおいて行かれないように一生懸命に後ろからついて行ったのを覚えています。 兄とその友達との遊びの中でも一番思い出に残っているのは”秘密基地”(…といっても枝や葉っぱで木陰を作った程度でしたが)です。 川土手の鬱蒼とした木々をものともせずグングン奥へ入ります。 トゲのある植物や鋭い葉っぱで足や手を切ってしまう事などしょっちゅうでした。 特に私は大きな穴ぼこを飛び越えられずすっ転んだり、段差を越えられず石だらけの地面に顔からダイブしたりと毎回血まみれでしたが、特に気にしていませんでした。 自分たちで作った秘密基地に酔いしれて、中で飲むジュースはもうこの世の甘さを凝縮したかのような心地いい味です。 そんなある日、高学年の男子たちに私だけ呼ばれ「あの基地を潰してやる」と宣言されたことがありました。 どうも同じ場所にその男子たちも基地を作りたかったようです。 私はす...つづき
1984年生まれ

祖父が作ってくれた鉄棒

リオさん 山形県 1984年生まれ 女性 小学生の頃、一緒に住んでいた祖父が庭に鉄棒を作ってくれました。 どうやって作ったのかは当時の私にはよくわかりませんでしたが、祖父は土木の仕事をしていたので、その経験を活かして作ってくれたのだと思います。 本当に鉄の棒で作ってくれて、かなり頑丈な仕上がりでした。 近所の友達もよく家に来ては、その鉄棒で一緒に遊んでいました。 残念ながら私は鉄棒があまり得意ではなく、普通の前回りや逆上がりができる程度でした。 友達は得意だったので、鉄棒に乗った状態から足でつけた勢いで逆上がりをする『空中逆上がり』を連続で10回ほど回っていました。 私はクルクルと回っている友達を、すごいなぁと感心して見ていました。 今思えば、鉄棒を手作りしてくれた祖父のためにも、私も空中逆上がりを連続でできるようになるまで練習すれば良かったなぁと反省しています。 今はその鉄棒をすでに取り壊してしまって無いのですが、優しい祖父が私のために鉄棒を作ってくれたという思い出は今も私の心を温かくしてくれます。
1982年生まれ

鉄棒で逆上がりを練習した思い出

ニカさん 兵庫県 1982年 女性 小学校2、3年生位の頃でしょうか。体育の授業で逆上がりのテストがあるというので、出来なかった私はよく練習していたのを思い出します。 小学校の鉄棒の前には、逆上がりが上手く出来るよう、練習用の踏み板が置いてあって、それがとてもカラフルに塗られていたのでよく覚えています。 休み時間や放課後は学校で練習し、休日は親に電車で運動公園まで連れて行ってもらって練習をしました。 私には妹がいるのですが、どういう訳か妹は鉄棒が得意。 前回り逆上がりと、練習する私の隣でぐるぐるぐるぐる回っていました。 今思えば、初めての「妹に出来て私に出来ない事」だったような気がします。なので悔しくて、妹がどうやって逆上がりをしているのか盗み見ていました。 研究の結果、どうやら腕の力で身体を鉄棒に引き寄せているようでした。 小学校に置いてあった逆上がり練習用の踏み板は、ジェットコースターの出だしのレーンのような形をしていて、足で可能な限り高く駆け上がって逆上がりを助けるような構造になっていましたが、腕の力によるのであれば、あれは無駄かもしれないと学習しました。 その後運動公園で初めて...つづき