女性

1983年生まれ

校庭で宝探しの思い出

あるぷすさん広島県 1983年生まれ 女性今思うと、小学生時代って変わった遊びを好んでしていたなぁと思います。2年生の時、校庭にビー玉を埋めて”宝探し”として遊んでいました。代わりわりばんこに「この辺に埋めたよー」と言って、友達に掘り出してもらいます。この時、3回に1回くらいはどうしても宝(ビー玉)が出てこない事があり、2人で首を傾げることもしばしば。その時は「ワープしちゃったんだ!!」と騒ぎ、違うビー玉でやり直し。そんな遊びでした。ある昼休憩、いつものように遊んでいると「今日は学校が終わったら校庭に集合ね」と友達が言いました。行ってみると、もう友達は先に来ていて、鉄棒で遊ぼうという事になりました。するとここに宝があるから探してほしいと言うのです。友達の中で昼休憩の宝探しはまだ続いていたようです。そして鉄棒の近くの地面の色が違うところを発見し、掘ってみると、宝と手紙が出てきました。「おとなになってもあそぼうね」と書いてありました。その友達は中学卒業後引っ越してしまいましたが、とてもほっこりする思い出です。
1997年生まれ

ビー玉キラキラ

からさん北海道 1997年生まれ 女性夏になるとお祭りなどでビー玉すくいが開催されます。小学校低学年の時に必ず友達4人と一緒に、限られたお金の中でビー玉すくいをしました。一回に6個くらい手に入ったはずです。それをお祭りが開催される時期に自転車で行ける範囲の場所であれば向かい。とにかくビー玉すくいをしました。全てのお祭りに参加したら30個くらいそれぞれ手に入ったかと思います。後日、その4人のうちの誰かの家にお邪魔し、友達のお部屋でビー玉を広げて交換会をします。事前に持っているビー玉を何個で交換するか紙に書いて、それぞれ好きな色や可愛いデザインは交換個数が3個。シンプルなものなどは1個など決めて交換しました。集めたビー玉は、水槽のようなものに水を入れてその中に入れて飾ったり、それぞれ思うままにデザインしてたと思います。それぞれのお家にお邪魔し、みんなの水槽のビー玉を眺めるのが日課でした!
1964年生まれ

平たく丸くしたものをビー玉と呼んでいました

よっちさん鹿児島県 1964年生まれ 女性ビー玉とは、一般的に球状のものを指すと思いますが、私、及び私の周りではビー玉を潰して平たく丸くしたものをビー玉と呼んでいました、確か。では、球状の丸いものはなんと呼んでいたかは記憶にありません、なぜか。小学校の3-4年生ぐらいまでそれで遊んだ記憶があります。相手は専ら、隣に住むひとつ上のいとこです。遊び方ですが、30個ぐらいのビー玉を手に持ち、一気に畳の上にサイドスローして、ランダムに散らばったビー玉の、とあるひとつを手ではじいて他のビー玉にぶつけます。ぶつけたビー玉とぶつけられたビー玉の間に他の(第三の)ビー玉をはじいて、うまく通すことができたら成功というごくごく単純なルールです。通したそのビー玉は自分のものです。そうやってビー玉が残り2個になるまでやって、最後多くのビー玉を持っていた方が勝ち、というゲームです。ごくごく単純な遊びですが、暇さえあれば隣のいとこと、この遊びをしていた記憶があります。
1983年生まれ

兄弟で競った ビー玉の箱迷路ブーム

fine weatherさん広島県 1983年 女性子どもの頃、箱迷路がマイブームになりました。事の始まりは、兄弟がお歳暮の空箱を利用して迷路を作ったものに私が目を付け、ビー玉を入れて箱を上下左右に動かしスタートからゴールまで何秒でいけるかという遊びをし始めたのがきっかけです。あっという間に兄弟間で取り合いになり、誰が一番早いタイムを出せるかという競争に発展。末っ子の私はどうしても勝てず「私が思いついた遊びなのに~!」とプンプンと怒ったりしながらも、だんだんとコツを掴み。「このカーブでこうしてぇ…こっちは手前でスピード落としてからぁ~ドン!よしよし、いいぞぅー」と大き目なひとり言を言いながら熱中しました。ようやく一番になれると自信が付いた頃には、もうみんなは飽きてしまい、私しか熱中していませんでした。う。子どもの飽きっぽさはすごく早い。誰とも対戦できないと分かると急に寂しく感じ、やる気が失せる私。いつの間にか箱迷路ブームは終わってしまったのでした。
1995年生まれ

ビー玉を水晶だと思っていたあの頃

紫苑さん北海道 1995年生まれ 女性よくあるビー玉の中には、他のビー玉に比べて「大きなビー玉」が入っていたりしていませんでしたか?私はビー玉の中でも模様のない500円玉サイズのビー玉を、大事に専用の袋に入れて持ち歩いていました。砂場で遊ぶ時は、砂で小さな山を作った上にちょこんと載せて飾りのようにしてみたり、おはじきとビー玉で遊んだ時にはボーナスボールと呼んで遊んでいました。シルバニアファミリーで水晶玉の代わりに使って、占い師ごっこをして遊んだりもました。模様のない大きなビー玉を水晶と思いながら持ち歩いていたあの頃、家の中で失くしただけでも大騒ぎ。妹が勝手に触っただけでも大激怒するほど、そのビー玉を大事にしていました。今考えると模様のない、ただ他と比べて大きいビー玉にそこまで執着していたのかはわかりません。最終的には大事にしまっていた巾着を入れた箱ごと失くしてしまったのですが、当時の私はそのビー玉が大好きでした。
1995年生まれ

ベイブレードで知ったベーゴマ

鳩サブ子大阪府 1995年生まれ 女性私は3人兄弟の末っ子で兄とは7歳差、姉とは5歳差でした。2000年ごろに「ベイブレード」というアニメが流行っており、兄は当時12歳ごろだったのでちょうど大流行していた時期だと思います。その頃私はまだ5歳でさほどベーゴマの記憶はほとんど残っていません。しかし、兄がハマっていて一緒に遊んだという話を母から聞きました。私が10歳ぐらいになった頃、兄のお下がりの勉強机にはベイブレードのシールがたくさん貼ってあり、ベーゴマもいくつか残っていました。小学校の授業で「日本の昔からの遊びで遊んでみよう」という内容のものがあったのですが、けん玉や羽つき、お手玉の中にベーゴマがあったことを記憶しています。ベイブレードでベーゴマの存在を知っていた私はすぐにベーゴマに関心が向きました。そのとき見た昔のベーゴマは、ベイブレードのベーゴマと違って鉄でできており、肌触りのいい質感で重厚感。当時の私の小さい手にしっかりフィットしました。紐で何重にもぐるぐる巻きにして投げてスッと紐を引き抜くタイミングが難しかったと思います。悔しくて何回もトライしてるうちにベーゴマがうまく回るように...つづき
1983年生まれ

大縄跳びの記録と自分のせいで記録を止められないという思い

梨の子さん長崎県 1983年生まれ 女性一時期クラスの女子全員で大縄跳びを昼休みに行うのがブームになりました。給食を食べた後、体育館の前の中庭に集合し、縄を回してくれるのは担任の先生と、身体が大きめのクラスメートでした。最初は数回しか続かず、10回くらい続いては引っかかるを繰り返しておりました。そのうち掛け声を全員で言って盛り上がるようになり、どんどん跳ぶ回数が増えていきました。とうとう、ある日100回の大台に乗りそうになりました。50.60.70と続き、100になる直前のとんでもない緊張感と集中力。自分のせいで記録を止められないという思い。その時の全力な気持ちを今でも鮮明に思い出します。100にのったときの、ひゃーーーくという大きな掛け声とともに、おそらくそのあと200近くまで跳んだのですが、私の前の前の女子でとうとう引っかかってしまいました。内心自分がひっかからなかったことへの変な安堵感と、その子がかなり罪悪感で落ち込んでしまったのをみんなで慰めて、なおかつ記録に喜んだのを覚えています。そうやってこつこつ忍耐して練習したり、チームワークを大切に一体感を出していくことの楽しさを学んで...つづき
1987年生まれ

長縄跳びは遊びではなく緊張する競技

あさのさん栃木県 1987年生まれ 女性縄跳びというと各々で飛び、何回飛べたか、どれだけ難しい技ができたかを競うのが一般的だと思います。しかし私が小学5年生のころから縄跳びと言えば長縄跳び、それも8の字飛びが一番ホットな遊びでした。クラス対抗戦、腕力自慢2人が長い紐を持ち、一人一人が次々と飛び3分間で連続して何回飛べるか競うものです。大会も設定されていました。縄跳び大会に向けて各クラス練習を重ね熾烈な競いが小学校ながら勃発していました。大会の日までどのクラスが何回飛んだらしい、あるクラスが優勝候補だと噂が飛び交ったものです。私のいた小学校は地方の公立学校でしたから様々な生徒がいました。その中には必ず体育が苦手な生徒もいるものです。かくいう私がその一人で、おっとりしているために高速で回る縄についていけず、必ず縄がはけていくときに引っかかってしまうのです。私が飛ぶ順番に来るとクラスメイト一同に緊張が走るのを縄跳びの練習のたびに感じていました。縄跳び大会の日まで胃が痛い日が続いたものです。縄跳びが遊びの一種という認識かもしれませんが、そんなことありません。今でも縄跳びと言えば緊張が走る競技の...つづき
1985年生まれ

努力ではどうにもならなかった単身縄跳び

運動オンチ奈良県 1985年生まれ 女性私が育った地域では体育の授業で縄跳びを持ってくるように言われました。様々な飛び方を体育の授業で習うことにより、習得していくのです。普通とび、二重跳び、クロス跳び。多種多様な飛び方の内で、できる飛び方とできない飛び方があります。あらゆる飛び方をマスターしている人もいますが、運動神経に恵まれていない私にとって、普通跳びが精一杯でした。それでもひたすら練習させることが義務教育のやり方です。休み時間、帰宅後に自主練習をするように勧められるのです。ところが、自主練習でできること、できないことがあるということを当人が子供のために気がついていません。教育者側もできないことは努力によってするべきだ…という考え方を曲げません。そんなこんなの考えと教育により、無駄な努力をするようにと賢明に練習しますが、できませんでした。自宅練習で縄跳びばかりしていましたが、偶然に二重跳びができたとしても、なぜできたのか?分析できないのです。今思えば、才能的にできない事に努力をしていたという…苦い思い出です。
1983年生まれ

いつでも縄跳び

ホクホクさん広島県 1983年生まれ 女性体育の授業で縄跳びがあり、富士山のイラストが描かれた用紙が配られました。前跳びや後ろ跳び、交差跳び、二重跳びに挑戦し、練習してできるようになったら先生の前で披露します。合格できたら一マス色を塗っていき、富士山登頂!というわけです。それ以降遊びも、跳び方の種類によっては少し縄を短くしたほうが跳びやすかったり、持ち手も滑らないように工夫しながら毎日練習しました。午前休憩や昼休憩も猛特訓です。友達に見てもらい、「10回できてた?」「うーん最後の1回が怪しかったかな」など審査してもらっていました。このおかげで体育の授業が待ち遠しくなり早く富士山登頂するべく必死。いつもなら遊ぶ時間も縄跳び、眠るときもイメトレです。まさに寝ても冷めても縄跳び。大変でしたが楽しい授業でした。結果、私は登頂できず悔しい気持ちで終わりましたが、授業に関係なくしばらく縄跳びにハマっていました。おかげでいろんな跳び方ができるようになったのでした。
1997年生まれ

長縄跳びの苦い思い出

えぬこさん埼玉県 1997年生まれ 女性自分が小学生の時のことです。あまり当時のことは覚えていないのですが、その中でも鮮明に頭に残っている稀有なエピソードです。みんなで体育の授業中に縄跳びをしていた時のことです。いわゆる大縄跳びというもので、迫っていた運動会の競争のために練習していました。みんなで2列ほどになって一斉に跳び、その跳んだ回数を数えていました。跳んでいる最中、誰かが縄にひっかかったらまた最初からカウントをはじめる…といった風にして練習しました。私は縄を回す側ではなく、跳ぶ側として参加していました。みんなでほとんど休むことなく練習し、もうそろそろ授業が終わろうか、という時になって、私が縄に足をひっかけてしまいました。その時ちょうど、校舎の方から授業の終了を告げるチャイムが鳴りました。完全に偶然で、クスッと笑ってしまうようなタイミングなので面白く感じましたが、同時に、みんなで一生懸命に跳んでいたのに、自分がその足を引っ張ってしまって申し訳ないな、と感じたことを覚えています。
1989年生まれ

縄跳びで二重跳びができた思い出

佐和子さん福島県1989年生まれ 女性私が小学2年生の頃、二重跳びや三重跳びをするのが流行りました。教室の外のベランダで練習したり校庭で練習します。私はなかなか二重跳びができず悩んでいました。それで私は、二重跳びが上手い人を参考に練習していました。あまりの熱心さに自分の家でも練習して、下の階の方から苦情がきて怒られたこともあります。それからは自主的に練習するときはエントランスでするようにしたのですが、隣の家のおじちゃんが励ましてくれたことを思い出します。そうやっていくうちに二重跳びができるようになって、学校で何回跳べるか実施したこともあります。最終的には20回くらい跳べるようになって、家族からも褒められ嬉しかったです。特に祖父母が1番喜んでくれて、よく跳べるようになったなあなどと言われて嬉しかったです。1番跳べる子は1分間くらい跳んでましたが、私には真似できないなあと思いながら見てました。ときどき縄跳びの縄が頭にパチっと当たることがあって、それは痛かったです。
1998年生まれ

母と縄跳びの思いで

さくらさん福岡県 1988年生まれ 女性「お母さん見て!」と頬を赤くしながら必死に母を呼んでいた時が懐かしい。運動が大の苦手な私が唯一出来る運動が「縄跳び」でした。自宅に庭はなかったものの駐車場でいつも練習しては、室内で家事をしている母を呼ぶ。母は合間で出てきてくれて、「おぉ!すごい!」と声をかけてくれました。小学生になると毎年冬に縄跳び大会があり、前跳び、後ろ跳びが何回連続で出来るのかという記録をとっていました。全員一斉に跳び始め、縄に足が引っかかった人や疲れてもう無理・・という人はその場に座っていく。引っ込み思案で注目されるのが苦手だったけれど、いつも励ましてくれる母の顔を思い浮かべながら必死に跳びました。すると私は最後の一人になるまで残ることができたのです。それから30年以上が経ち自分が母になった今、子どもたちも縄跳びが大好きで「お母さん見ててね!」頬を赤くしながら跳んでいます。あや跳びや交差跳び、出来るようになっては何度も何度も。その姿を見るたびに私の幼少期がよみがえる、母と縄跳びの大切な思い出です。
1994年生まれ

女性縄跳び検定

ayoさん大阪府 1994年生まれ 女性私の小学校には縄跳び検定というものがありました。級毎にカセットテープが用意されており、冬の体育の時間にみんなで挑戦していくというもので、男女共に積極的に取り組んでいました。音楽に合わせて飛んでいくのですが、10級は前飛びのみ、9級は後ろ飛びのみなど簡単なものです。5級を越えてくると、複合技や2重飛び、更に聞いたこともないような技を要求され大変難しいものになっていました。そこで、私の友達と一緒に1級を目指して取り組んでいくようになりました。体育の授業だけではなく、休憩時間に職員室の前でラジカセを借りて遊ぶこともできた為、一日中縄跳びに取り組んでいました。それに取り組んでいた毎日でしたが、その友達の一人は急に転校することになってしまいました。学校の先生に縄跳び検定のカセットをダビングしてもらい、離れても1級成功を目指そうねと誓いお別れをしました。私は1級まで成功することはできませんでしたが、友達はできたのかなと久しぶりに思い出しました。
1983年生まれ

縄跳びの練習の甲斐があった思い出

maruさん青森県 1983年生まれ 女性縄跳びと言えば、小学校時代を思い出します。小学校の時縄跳びが体育の時間でしてから、みんなの中で縄跳びブームがありました。行間休みや、昼休み、みんなでレベルアップする為にたくさんの時間を使って練習してた思い出があります。最初は普通の飛び方、その後は後ろ飛び、あや飛び、その後は後ろあや飛び、二重跳び、三重跳びと色々な飛び方を全制覇できるよう毎日練習してました。みんなよりも早く飛んびたい、と思いが強くなり、学校から帰った自宅前でも練習に励んでた事を覚えています。そして、小学校へ行くとみんなのこれできるようになったよ!の披露会。毎日、毎日、練習して、できるようになるととても嬉しかった事を覚えています。体育の時間は先生にも披露して、褒めてもらうのがとても嬉しかったです。みんながほとんどできるようになると、大縄跳びをしたのが楽しかったです。1つの事をクラスのみんなで頑張って何回飛ぼう!とみんなで作った目標が達成できた時は本当に嬉しく、楽しい時間でした。縄跳びはそんな思い出があります。
2000年生まれ

嫌いな縄跳びが少しだけ好きになった思い出

hyontyeさん東京都 2000年生まれ 女性私は心底縄跳びが嫌いでした。なぜなら、縄跳びの技ができるようになったり、一定数飛べたら、ハンコが押されるノルマカードに、ハンコを押されることが一向に出来なかったからです。以来、小学生時代からずっと嫌いで飛びませんでした。女子校に進学し縄跳びがありました。しかも、ノルマが加速し、1ハンコにつき技と回数両方ともに設けられてしまいました。加えて、縄跳びクリアのボーダー基準をこなせなければ補習時に呼び出されるとの事でした。補習は夏休みにあり、貴重な夏休みを縄跳びに侵食されたくない一心で早朝と帰宅時に練習しました。高校生が縄跳びをすると目立ちます。気恥しさで、いっそう嫌いになりました。好きで練習している訳でなく、本当は練習したくない気持ちと葛藤しながら日々練習しました。授業時にテストをされますが、時間内にクリア出来ず補習になりました。で、渋々夏休みにやりましたが、私以外にも補習の人がいました。その補習の人の中では、1番最初にどうにか半日でクリアしました。ゆっくり飛んだり反則スレスレの行為をしましたが、練習の成果は出ていたと思います。少しは好きになれ...つづき
1986年生まれ

大掃除のときに出てきたベーゴマの思い出

sizukuさん茨城県 1986年生まれ 女性小学生の頃に家族で家の大掃除をしていたら、昔親が遊んでいたというベーゴマが出てきました。コマの遊び方は知っていたのですが、ひもを使って回すベーゴマは初めてでした。親は「懐かしいなぁ!これどうやって遊ぶか知ってるか?」と聞くので「知らない」と答えると、自慢気にこうやるんだよとコマにひもをぐるぐると巻き始め、さっと引き投げて回してみせました。ベーゴマが素早く回転して勢いよく回ります。その様がなんだか特別なことができる人みたいに見えてすごい!と思いました。やり方を教わって自分でもやってみるのですが、なかなか上手くできずコマが回りません。見かねた親が「これはコツがあるんだよ。ほとんどこれでよく回るかが決まるんだよ。」と教えてくれました。ひもを巻くときに、とにかく丁寧にきれいに巻くのがコツみたいです。私と兄も一緒にやってみると、なんとか成功しました。平らなテーブルの上で回していたのですが、勢いがつくとコマ同士がバチバチと当たり合い弾くのが楽しくて、その後もしばらくは兄と競い合って遊んでいました。少しのコツでコマの回る強度がつくようになったりと、自分で...つづき
1977年生まれ

兄と一緒に公園で遊んだメンコ遊びの思い出

ヤクルトさん北海道 1977年生まれ 女性私は末っ子で、兄が二人います。子供のころはキン肉マンが流行していて、どこから入手したのか、メンコがたくさんありました。兄にくっついて公園へ行くと、必ず何人も同じ年代の子供がいたので、みんな顔見知りでした。その頃はメンコ遊びが流行していたようで、公園に行くときは兄もその友達も、メンコ持参でした。大きいものから小さいものまでたくさん種類があって、大きいものは主役級のキャラクターが描かれていました。公園にある台が会場で、相手のメンコを台から飛ばして落としたり、裏返したりしたら相手のメンコももらえます。兄と友達がひとしきり遊んで満足したら、私にもやらせてくれます。思いっきり台に叩きつけても、なかなか裏返らないし、台から飛んでいかないし、びくともしなかった記憶があります。それでもメンコ遊びをやっていることが楽しくて、腕が痛くなるまで飽きずに遊んでいました。私はまだ幼くて、公園へ行っても体を使う遊びにはついていけなかったので、一緒に遊べる数少ないジャンルでした。
1986年生まれ

最強のめんこ

sizukuさん茨城県 1986年生まれ 女性めんこ遊びは私の親世代がよく遊んでいたものですが、わたしが小学生の頃にもまだめんこ自体はありました。とはいえ遊び方がよく分かっていなかったので、始め親に遊び方を教わってそうやるのか!と遊び始めました。ルールはとても単純で、めんこを地面にたたきつけて周りにあるめんこが裏返れば、持ち札が増えていくというもの。よく分からないけどなぜか「強いめんこ」というものがあって、それをうまく使うとけっこうな確率で他のめんこを取れるのです。きれいな形で厚手のものだったような気がします。そのめんこをわたしたちは勝手に「最強のめんこ」と呼んでいました。その最強のめんこが手元に来たら勝ったも同然。勝手に自分が強くなった気がしました(笑)。最強のめんこを兄が手にした時、残りのめんこは5~6枚でした。私はとれても数枚だろうと見ていました。その時点で勝負は互角。まだチャンスはあると。兄が全力で最強のめんこを叩き付けると、その瞬間に残りのめんこがすべてひっくり返ったのです!思わず声をあげました。そんなにひっくり返せたのは初めてだったので小学生のわたしには衝撃でした。負けたけ...つづき
1989年生まれ

「牛乳瓶の蓋で!」メンコの思い出

みさん兵庫県西脇市 1989年生まれ 女性私が幼稚園に通っていた頃、よくメンコ遊びをしていました。当時はまだ瓶の牛乳とパックの牛乳、半々だったので瓶の時に蓋を取っておいて洗って乾かして使っていました。マジックなどで自分の好きな色を塗ったり、絵を描いたりしてオリジナルのメンコを作るのが流行りでした。メンコ遊びもみんなやっていましたが、女子は絵を描いたり、オリジナルメンコを集める方が多かった気がします。お道具箱に集めて喜んでいました。メンコ遊びの方はいたって普通のルールで、裏返した方が勝ちです。男子は勝った方がもらえるルールを使っていた様に思いますが、女子は平和に勝ち負けだけのルールでした。自由時間に女子は女子、男子は男子で楽しんでいましたが、先生がたまには男女混合でやろうと提案してくれて普段遊ばない子とコミュニケーションが取れる遊びになっていました。駄菓子屋で買うこともありましたが、幼稚園に持っていけなかったので、牛乳瓶の蓋のメンコの方が思い出に残っています。
1985年生まれ

マンション内の公園で毎日遊んだゴムダン「コーヒー牛乳」の歌

らんらんさん埼玉県 1985年生まれ 女性私が子供の頃に住んでいたマンションには、少し広い公園がありました。マンションには同世代の女の子が何人か住んでいて、学校帰りや休みの日はいつも公園に集まってゴムダンをしていました。ゴムダンは最低3人いないと出来ないのですが、人数が集まらない時には公園内の大きなゴミ箱にゴムをひっかけてもう片方に人が立ち2人でやっていました。よくやった歌は「せんろは続くよどこまでも」「アルプス一万尺」で、これらは初心者向けでした。難易度の高い「コーヒー牛乳」をクリアすべく私は日々練習を繰り返したものです。そのうちに「コーヒー牛乳」も上手く跳べるようになると、スピードを上げて「先に引っ掛かった方が負け」の競争を友達としたりもしました。コーヒー牛乳の難しい所は、手前のゴムに片足をかけてクロスする通常の技だけでなく、リズムに合わせて反対側へ移動して両足をクロスさせる点です。大体移動する時にひっかかってしまいます。これが上手くできると喝采を浴びてヒーローになれました。
1974年生まれ

熱中した!「ノータイム」と呼ばれたゴム跳び遊び

あぼちゃん大阪府 1974年生まれ 女性小学校の頃はまだ、外で遊んでいた子どもたちがたくさんいました。テレビゲームもそこまで浸透していませんでした。私が住んでいた家のそばには、同年齢の子たちがいたこともあって、いろいろと外遊びを楽しんだ思い出があります。ドッジボール、鬼ごっこ、ケンケンパ、コマ回し…。普通のゴム跳びもやりましたが当時現地で「ノータイム」と呼ばれたゴム遊びがとても流行った時期がありました。ゴム跳びのゴムを大きな輪っかにして、両端に人が入ります(2人でやる時は一方を柱などに引っ掛けました)。2本のゴムの川を足で引っ掛けながらステップを踏んで楽しむ遊びでした。高さは膝丈・ヒップ・腰の3段階。ステップの種類は6種類(1番2番…などど呼んだ)。膝丈はステップを3回、ヒップは2回、腰は1回という決まり。1番の膝丈・ヒップ・腰…2番の膝丈・ヒップ・腰…という順だったか…?引っかかってしまったら交代だったか…?もう記憶が曖昧です。ステップは番号が上がるに連れて複雑になりました。最初はゲームを楽しむというより、そのステップを踏めるようになるのが課題。暗くなるまで練習しました。よく頑張った...つづき
1983年生まれ

おばあちゃんが教えてくれた 女子たちのゴム跳び遊び

シロクロさん広島県 1983年生まれ 女性遊ぶ時は同じクラスの仲良し4人で、毎回集まるのはEちゃんの家でした。4人の家のほぼ真ん中に位置していて、さらに隣に広場がある事がみんな集まる理由でした。この広場であらゆる遊びをしましたが、ゴム跳びもその中の一つ。少しずつゴムを上げて一番高く跳べた人が勝ちです。この時、足にゴムが触れると脱落なのですが“触れた、触れていない“でEちゃんと他の子がケンカに発展することがしばしば。ケンカ慣れしていない私はオロオロするばかり。こういう時は残りの一人の友達と気配を消し、そっと他の遊びを始めるのです。そして一通りケンカが終わると元のゴム跳びに戻ります。このゴム跳びは私の周りにはやっているの子供はいませんでした。というのも、Eちゃんのおばあちゃんが教えてくれたからです。優しいおばあちゃんは昔の遊びをよく教えてくれました。ゴム跳び以外にメンコ、お手玉、おはじき。昭和の遊びです。これらの中からゴム跳びは私達にヒットしたのです。おばあちゃんありがとうと言いたいです。
1998年生まれ

ゴム紐を跳ぶ娘にヒヤッとした思い出

ゆんさん熊本県 1988年生まれ 女性娘が小学校低学年の頃、近所のお友達、妹、弟五人でゴム跳びをしました。始めはゴムの上を跳んでいく、とルールを決めて運動能力の高い子供たちの集まりだったようで私(163センチ)の胸下の高さまでなんなくクリアしていく子供たち。ゴムにひっかかっても笑顔あふれる時間でしたが私の肩の高さまできたゴムを跳ぼうとしたわが子。笑顔で引っ掛かりにくるものだと思っていたら、本気で跳ぼうと全力で向かってきた娘。ゴムに引っ掛かかる予定でしたが、ゴムがぷつりと切れ、目の前には近所のお友達の車が…。ボンネットの上まで飛んでしまいました。娘に怪我はなく、お友達の車にも傷はなく、なんとか無事に終わることが出来ましたがあの勢いで跳ぶ娘を目の当たりにした私や子供たち、そして娘自身もう二度とゴム跳びはしない。と誓うこととなりました。今では息子が小学校の体育の時間にゴム跳びがあるそうで楽しいと話をしてきますが、私と娘はいつも苦笑しながら聞いています。少しだけ苦い思い出のゴム跳びでした。
1981年生まれ

「グーパーグー踏みグーパーネジってぴょん」ゴムダンの思い出

グーさん神奈川県 1981年生まれ 女性ゴムダンは、小学校3〜4年の頃に流行ったと思います。ゴムダンが上手な子は、運動が得意な子が多かったイメージです。小学生の頃は負けず嫌いだったので、失敗しても何度も挑戦していたなと思います。ゴムなので失敗しても痛く無い点が良かったですね!私には姉が居たので、姉の友達とも遊ぶことが多く、ゴムダンなら、追いかけっことは違い、無理なく一緒に遊ぶことも出来ました。ゴムダンをクリアするごとに、だんだん高さが高くなるというレベルアップがありました。一段、二段という風にレベルが上がっていくのです。レベル=高さだったので、高くなると、小指⁉︎を使えるというルールもあったと思います。ジャンプしてゴムの中に入ったり、踏んだりするので、ゴムに引っかからない様に小指を指定された個所で使えたと思います。昔過ぎて、すぐには思い出せませんが(笑)。私の地域では、「グーパーグー踏みグーパーネジってぴょん」というフレーズがあったのですが(歌いながらやります)、この「ネジって」がポイントで、コツがいりました!ねじった後に、ゴムを絡まず踏まずに、元の場所に着地しなくてはいけないんです。...つづき
1964年生まれ

輪ゴムを繋いで作ったカラフルな輪ゴム紐の思い出

きょんさん鹿児島県 1964年生まれ 女性小学校の5、6年生の時に夢中になって遊んだのが「ゴム跳び」です。よく、テレビのバラエティー番組などで、タレントが小さい頃の遊びを語る時に、「ゴム段、ゴム段」と言うので、ゴム跳びと呼ぶのは鹿児島県ぐらいかと思っていましたが、ゴム跳びとも言うんだなあと少し安心しました。ゴム跳びをするにはまず、長ーいゴム跳び用のゴムを作らなくてはなりません。普通の輪ゴムを繋げて大体2メートルぐらいの長さに作ったと思います。誰か一人で作ったのか、みんなで手分けして作ったのか、そこら辺の記憶がなぜかありません。その繋がったゴムの色は赤、黄、緑、オレンジとやたらカラフルだったと記憶しています。いつも放課後に校庭の決まった場所で、大体同じ仲良しのメンバーで、長い時間飽きもせずに遊んだものです。小学生なので短い丈のスカートを着てますが、裾をパンツの中に入れてゴムを跳びます。遊び方ですが「丸跳び」という跳び方だったと思います。なぜか跳ぶ時、一回ジャンプしてからゴムに向かっていったと記憶しています。弾みをつけるためでしょうか。ゴムのことろまで来たら、思いっきり右足を伸ばしてゴムに...つづき
1984年生まれ

「イチニノサンのシノニノゴ」の歌に合わせて跳んだゴム跳び

もっちさん東京都 1984年生まれ 女性小学校高学年の頃、学校から帰ってランドセルと水分を摂って友達のお家に集まるのが日課。寒い日は家でゲームや歌を歌って過ごすが、天気のいい日はゴム跳びが大盛り上がりしたのを覚えています。2人は足でゴムを持つ係、あとは順番待ちで歌う人、1人だけ、ゴムを絡ませながら踊ります。われ先にとやりたがりましたが女の子同士なので、上手く順番を守りました。イチニノサンのシノニノゴ、サンイチシノニノシノニノゴ。と歌って合わせて踊りました。兄弟で遊びにきて飛べない子がいたら電車ごっこや、くぐったりしてもらっていました。人が少ない日は棒に絡ませて、1人で持ち、高さを調節しながら飛びました。飛び方もたくさんの技があり、回転したり、わざと踏みつけたりと、カッコよく飛べるのを競い、いろんな知恵を出し合いました。ゴム1つでこんなにもいろんな遊びができて、楽しく過ごせた記憶が今でも残っています。
1990年生まれ

ゴム跳びと友達の思い出

ことさん岡山県 1990年生まれ 女性ゴム飛びは小学校の時になぜか一時期クラスのブームになりました。なぜなのかは思い出せないのですがクラスの女の子と一緒にゴム飛びを楽しんでいた事をよく覚えています。色んな曲で遊んでいたので、童謡のような曲やその時流行っていたKinKi Kidsの曲などをみんなで歌いながら遊んでいました。色んな技があったのですが私はあんまり上手くありませんでした。友達の上手な女の子は大変複雑な技を披露してくれてみんなの尊敬を集めていた事を覚えています。冬に運動場で転けるとかなり痛いので、転けないように必死にゴムを見ながら運動していました。一緒に遊んでいて転けてしまった友達が、泣きながら保健室に行ったら足の骨が折れていました。当時はとんでもない事をしてしまった、と思い非常に焦った事を今でも覚えています。小学校の頃の楽しい思い出の遊びなのでとても懐かしくなり、また体が動くならやってみたいなと思いました。
1987年生まれ

ゴム飛びを遊んでいたあの頃の年齢になった息子

かかのんさん静岡県 家の近所の駐車場 1987年生まれ 女性私がゴム飛びと聞いて思い出すのは、近所の友達と遊んだ記憶です。「3年生までは子供だけで自転車に乗ってはいけない」という学校の決まりがあったので、近所の友達と遊ぶことが多かったのです。さらに学区の端に家があったため、帰宅後にまた学校で待ち合わせをして遊ぶのは、子供ながらに大変だとの思いもありました。男の子の友達と遊ぶときは鬼ごっこや野球など、体を思いっきり動かす遊びが多かったけれど、女の子と遊ぶ時は「縄跳びの縄をゴム代わり」にしてよく遊びました。近所の女の子といつも2人で遊んでいました。2人でも頭を使えばゴム跳びはできます。縄跳びの縄を柱に結んで固定し、一人が縄を動かし、一人が跳ぶ。それに飽きると、縄に当たらないようにくぐり抜けるリンボーダンスのような遊びをするのが私たちの鉄板でした。縄跳びの縄が2本あれば、暗くなるまで2人で遊んでいられたあの頃。縄に当たりにくくするためなら真冬でも上着を脱いで、寒さもなんのそので遊んでいられたあの頃。今は、小学校から帰ってくると、「遊びに行ってくる!」と、元気よく出かける息子の後姿を見送る立場...つづき
1980年生まれ

フラフープのほろ苦い思い出

なみさん京都府 1980年生まれ 女性私が小学生の頃、フラフープ遊びが流行していました。友達同士で投げたフラフープをお互いでキャッチしたり、手首のスナップをきかせて投げたフラフープが自分の手元に返ってくる遊び、どちらが長い間フラフープを回していられるかを競ったり、身体の色々な所でフラフープを回す遊びをしていました。ある日、いつものように遊んでいると弟が頭で器用にフラフープをクルクルと回せるようになりました。私も「負けたくない!」と思って、頭で回そうとしましたが失敗…。意地になって次は思いっきりフラフープを頭にめがけて勢いを付けて投げました。すると、私の首にフラフープがグルグルと巻き付きました。「ゲッホ、ゲッホ。」と咳がでて首を思いっきり押されたような痛みを感じました。けれど、弟に見られていたのが恥ずかしかったのか、私は何事も無かったかのように足元に落ちたフラフープを拾い遊びの続きをしました。その時の首の痛みは残り2、3日の間は続いていたように思います。その後、他の人が首回しに挑戦しても私は挑戦しませんでした。楽しい思い出の中のほろ苦い思い出です。
1989年生まれ

練習の賜物 フラフープを誰が一番回せるか競争

みさん兵庫県 1989年生まれ 女性フラフープの思い出で一番印象に残っているのは近所の友達です。我が家にはフラフープがなかったので、友達の家で遊ぶ時によく貸してもらってやっていました。友達には2つ上のお姉さんがいたので家に2つフラフープを持っていて、遊ぶときはみんな交代で使っていました。私は友達の家に行った時しかフラフープができなかったのであまり長く回せませんでしたが、友達はお姉さんに負けるのが悔しかったみたいでかなりの時間練習したそうです。お腹だけでなく胸や首で回したり、回しながら歩いたり、練習の甲斐あってずっと回し続けることができました。ある日学校でフラフープをやる機会があって、みんなで誰が一番回せるか競い合いました。他の子がどんどんフラフープを落としていく中、友達はいつまでも回し続けていたので、先生からのストップがかかるほどでした私たちの世代では敵なしのフラフープの達人として、先生に褒められて嬉しそう。何事も継続することが大切だと子供ながらに感じました。
1983年生まれ

フラフープ争奪戦

時短モンスターさん広島県 1983年 女性フラフープは小学校中学年の時に流行りました。休憩になると争奪戦。10本くらいしかないのでチャイムが鳴るやいなや女子はみんなピューッと教室からいなくなります。小学校時代の女子は年齢で流行るものが結構決まっていて面白いものです。フラフープはクルクル回し跳びながら鬼を追いかけ回したり、腰で回して誰が一番長くできるかを競ったりしました。青と赤のフラフープを地面に1つずつ置いて、それぞれひとりずつ入っていき、どちらのフラフープに多く人が入れるかという遊びもしました。おしくらまんじゅう状態で誰かの足が出た時点でその色チームの負けです。この逆の発想で、人が立っていてフラフープを投げ、立っている人がフラフープに入ったら得点が入るという投げ輪ならぬ投げフラフープなど、子供時代はこのように即席で遊びやルールをどんどん作って遊んでいました。相手に得点を入れたくないが為に立っている人がちょっと動いてズルしたりして、あーだこーだと盛り上がり楽しい日々でした。
1985年生まれ

ちょっと違うフラフープの使い道

わんこさん奈良県 1985年生まれ 女性フラフープは、体の動きでフラフープを動かしていく運動ですが、それができない子達にとっての遊び方がありました。フラフープのサイズにも大中小とあります。身体の比較的小さな子供は小サイズのフラフープを使ってケンケンバーや電車ごっこをしていました。とても子供じみた遊びですが、フラフープのアイテムに魅せられた子供にとっては、フラフープの道具を使うというだけでもウキウキする遊びでした。その理由はフラフープの輪っかというデザイン性にあると思います。丸くて綺麗なフラフープは見ているだけでも癒しでした。こうした遊び方にはまる子は運動が苦手だったり、大人しい子だったりします。当時は、活発な子供が多くみんな同じことができて当たり前という価値観での教育方針。子供なりにできない運動を諦めて自ら遊びを考案していました。本来であれば先生が手引きする事も当時は放任状態。子供だけで新しい遊びを楽しんでいたのです。
1975年生まれ

世代を超えたフラフープ

きょうさん大阪府 1975年 女性小学校の時、体育の授業の時にフラフープを使って遊んでいました。腰で回したり、腕で回したり、縄跳びみたいにして飛んでみたりして、楽しかったです。大学生の時、タイムボカンの歌で有名な山本正之さんの歌で「フラフープ」という短い歌があり。曲の中で「フラフープをぱりんと割ってしまう」というような内容がありました。家族に話したら、親の時代はフラフープがとっても流行っていたと言っていました。私の頃のフラフープは、プラスチックだったり、分解して、片づけるものも出ていたので不思議だと思いました。「ぱりんとわれるもの」という認識は私の中にはなかったと思います。そして数年前、スポーツクラブでZUMBAを習っているときに「HULA HOOP」という曲があり、フラフープを回しているような振りが全世界で踊られています。かつて親の時代に流行し、私たちの小学校時代や、子供の頃の遊びの中にも定着したフラフープが、今や世界でもよく知られる遊び道具の一つになっていることに驚かされました。それでも私にとってのフラフープは、やっぱり小学校の時の無邪気に遊んでいた頃のフラフープがしっくり来ていま...つづき
1980年生まれ

初めてのフラフープ

たろうさん群馬県 1980年生まれ 女性小学校3年生の時に初めてフラフープなるものをしました。それは学校の誰でも使って良いおもちゃ置き場にあり、丸くて大きくて、不思議でした。遊んだことのある友達に遊び方を教わって、いざ!!回そうとすると、ストンと落ちて回せないことを繰り返しました。一体、何が楽しいのか全くわからず、汗だくでその日は終わりました。出来る友達が輝いて見え、羨ましく、私も出来るようになりたいと思いました。色んな友達に、コツをきいて、練習しました。輪の端を両手で持って、勢いよくまわして、その反動で自分の腰もグルんと振るんだよ、というようなことだったと思います。当時の私は、手で輪を回すのと、腰を回すのが、どうしてもシンクロせず苦労しました。でもある時にコツをつかめたようで、本当に急に出来たんです。あれは自分でもびっくりした体験でした。何の前触れもなく、急に出来たので「あの練習は何だったんだろう」と思ったほどです。出来るようになってからは、何で今まで出来なかったのか分からない程に、体が覚えているというか、何も考えなくても出来るようになりました。今となっても不思議な思い出です。
1985年生まれ

フラフープを練習した思い出

にゃんこさん奈良県 1985年生まれ 女性私が子供時代にフラフープを使った運動が流行りました。当時フラフープは運動で使われる道具であり、遊具ではなかったようです。子供にはそんなことは区別がつかず、テレビで目にすると、面白そうだ、あんなことがしてみたい!と思うようになりました。そんなある日、学校の体育の授業でフラフープに触れるチャンスがやってきたのです。テレビでは上手に踊っている方が多くて、私もそうなりたい!と思いました。輪っかの中に入って腰を振りながら使いこなす。そんなふうになるはずでした。フラフープは子供の体には大きくて扱いも大変でした。サイズがあるようで、大きなフラフープは子供の体では一回で足元に落ちてしまいます。それでも一生懸命にフラフープを持ちながら、お気に入りとして練習していました。一旦体に入れてしまうと、とっても楽しいものだと感じるようになります。
1997年生まれ

フラフープ何個回せるかな?

からーさん北海道 1997年生まれ 女性小学生の頃「私の特技はフラフープです!」と言えるくらいにフラフープが大好きでした。フラフープを好きになったきっかけは体育の授業です。「自由に遊んでいい」ということになり、私はフラフープを回してみました。フラフープを簡単に回せた私は「何個かでも回せるのかな?」と思い。試しに3個を…それも回せました。じゃあ5個…できる。そしたら10個やってみよう!10個も出来ました。まるでバルーンスカートのように綺麗なフラフープでした。周りの子達もすごいと歓声を上げて、みんなは最大何個で回せるかとか、どれだけ綺麗に回せるかを競って遊んでました。多分、あの頃は15〜20個一気に回せた記憶があります。そのあと腰で回すだけでなく、首で回してみたり、手で回してみたりと、まるでサーカスの状態になっていました。あまりにも回すことが楽しい私は家でもやりたくなり、スポーツショップでフラフープを購入して遊んでいました。今もまだできるか試してみたいです。
1968年生まれ

近所の仲間と缶蹴りの思い出

ももさん東京都 1968年生まれ 女性子供の頃、東京の下町で暮らしていました。私には一才年上の兄がいて、いつも兄のお尻を追いかけてばかりいました。近所には同年代の子供達がたくさんいたのですが、それがどういうわけか全員男の子ばかり。必然的に私は男の子ばかりの中に一人混ざって遊ぶようになりました。その頃、近所の子供達は皆半ば兄弟みたいな関係でした。当時流行っていたのは缶蹴りです。必要なのは空き缶一つだけ。ゲームの始めは、じゃんけんで負けた子供が鬼です。他の子供達は隠れるのですが、隠れる前にできるだけ遠くに思い切り缶を蹴飛ばします。鬼はその缶を拾いに走り地面に立てたら足で踏むように押さえます。そして目を閉じ、決められた数を数えてから、隠れた仲間達を探します。この段階に微妙な駆け引きがあって、鬼は缶を見守りつつ必死に隠れた仲間を探します。隠れた子供は鬼に見つからないように缶に近づき、蹴飛ばして倒そうと狙います。缶を倒されたら鬼の負けにです。けれど隠れた子供を見つけ「×××見つけ!」と叫んだ後、缶を飛ばされないように足で押さえれば鬼の勝ちです。鬼の近くに隠れれば缶を倒しやすいのですが、その代わり...つづき
1985年生まれ

いろんな鬼ごっこの思い出

りかこさん大阪府家のマンションの廊下 1985年生まれ 女性小学校低学年の頃は放課後や休日によく同じマンションの近所のお友達5〜10人くらいで鬼ごっこをしていました。定番の鬼ごっこでは人数が多く集まった時は鬼を2人にして遊びました。私はいつも逃げている思い出しかないので、あまり鬼にならなかったのだと思います。初めは普通の鬼ごっこをしていたのですが、学年が上がるにつれて色んな種類の鬼ごっこを楽しみました。「色鬼」は難しかったです。なんせマンションの踊り場でしていたので色がなく、みんなの遊び道具や自転車を持ってきて遊んでいました。「高鬼」は遊びながら、この遊びは卑怯だなと思っていました。高いところに登ればタッチをされないので、ずっと高い場所にいれば安全だからです。なので、高いところに居れる時間を20秒にしたりしましたが、鬼に待ち伏せされたら終わりでした。一番流行った鬼ごっこは「氷鬼」でした。タッチされた時の格好で固まるのも面白かったですし、タッチされても仲間に助けてもらえるところも良かったのだと思います。
1997年生まれ

楽しかったバナナ鬼の思い出

なー!さん北海道 1997年生まれ 女性鬼ごっこは広い場所と人がいれば成り立つので、小学生の頃によくやっていました。昼休みになれば、グランドでサッカーをする人たちをのぞいて、みんなで走り回ったり、体育館からスタートして鬼ごっこができるところまで逃げあったりしました。通常の鬼ごっこをすることが多かったと思いますが、氷鬼をやったこともありますし、バナナ鬼というものも遊びました。ケイドロ、ドロケイが流行ったのも覚えています。 私はバナナ鬼が好きです。バナナ鬼のルールは、鬼が15秒くらい数えたらスタートをして、みんなを探します。逃げている人が鬼にタッチされた場合、その人はバナナの真似をしてその場に止まり、助けを求めます。逃げている人が捕まった人を助ける時に、バナナになっている人の皮をむいてあげるような形です。捕まった人は皮をむいてもらったら自由に逃げられます。ただ、タッチだけではなく一工夫されていて楽しかった記憶があります。
1975年生まれ

鬼ごっこで見捨てられた私

こむぎさん兵庫県1975年生まれ 女性 私が住んでいた地域は田舎で山が多い場所です。山は子供の遊び場でした。私は子供の頃から方向音痴でした。山の中は似たような場所が多く、私はいつも迷子になってました。山の中は広く、迷子になってばかりの私を友達に探してもらって家に帰っていました。だから山の中では遊びたくなかったのですが、田舎なので山しかありません。他の友達は迷わなかったのに、なぜ私だけ迷うのか謎でした。私が小学生低学年の頃によく、友達と鬼ごっこをして遊んでいました。鬼ごっこは大体、校庭や公園で遊んでいました。校庭や公園などでは隠れる場所があまりないので、鬼ごっこをしてもすぐに見つかってしまう退屈な遊びでした。しかし、山の中はそうもいきません。山の中で鬼ごっこをすると私の場合は悲惨でした。隠れる場所は、たくさんあるので鬼になった場合は本当に大変です。誰も見つける事が出来ない時もありました。そういう場合、友達は退屈になって勝手に私を見捨てて自宅へ帰っていきました。私は友達に見捨てられた事にも気づかずに、ずーっと探していました。今、思い出すと子供って本当に残酷よねと思う悲しい想い出です。
1985年生まれ

いろいろな種類の鬼ごっこ 氷鬼 増え鬼 色鬼 けーどろ

かずみつこさん山口県 1985年生まれ 女性ありふれた、それでいて特別な遊び。鬼ごっこは秀逸な遊びだと実感しています。道具を必要とせず、人数が集まればそれだけで始められ。バリエーションが豊富なのも魅力。氷鬼、増え鬼、色鬼、けーどろ(どろけー?)は、鬼ごっこの発展系ではないでしょうか。走ることが苦手な子も楽しめる要素を備えています。鬼が目前に迫ったときには手をクロスに構え、「バリア!!」と叫び、いつの間にか「バリア破り」なるものが発生していました。ちょっと待ってを表す「タンマ!!」は、今思えばタイムの派生形だったのかな??小学校に入学した1年生のころ、クラスの半分が初めてのお友達状態。みんなが仲良くなったきっかけに鬼ごっこがありました。学校の遠足では、お弁当を終えた後に鬼ごっこをすることもありました。このときは普段集まらないような人数で遊ぶことができました。6年生の3学期になると卒業を意識してかしらずか、クラスのみんなで毎日鬼ごっこをしました。ときにはクラスも超えて鬼ごっこをした記憶が残っています。私にとっては鬼ごっこは今でも身近な遊びです。公園で私の子供3人と一緒に遊ぶこともあるし。友...つづき
1989年生まれ

懐かしいザリガニ釣り

みぃさん大阪府 1989年生まれ 女性私は大阪府の中でもほんの少し田舎の小学校に通っていました。山がとても近い場所だったため、小さな池や用水路が結構ありそこにザリガニが住みついていました。初めてザリガニ釣りを見たのは、小学校4年生の頃です。忘れもしません、男の子の友達が「ザリガニおるんやで!」と用水路を指さし教えてくれました。当時、図鑑でしか見たことがなく、田舎と言えどこんな大阪にザリガニなんているの?と半信半疑でした。そんな気持ちで用水路を覗き込むと思った以上にいたザリガニにビックリ。ザリガニもびっくりしたのか大きなハサミで威嚇してくるんです。「見ときや」と男の子はタコ糸に割り箸を付けたものをポケットから取りだしザリガニを釣り始めました。また、私はびっくりしました。餌がついてなかったからです。こんなもので釣れるの?と疑いとワクワクでその様子を見てたのを今でも覚えてます。初めはザリガニが怖くて見ていただけでしたが、数日後、スルメイカを持ってきた友達に教えてもらい初ザリガニ釣りをしました。今となってはとても楽しい思い出です。
1997年生まれ

お兄ちゃんとザリガニ

むーさん北海道 1997年生まれ 女性私たちは毎年夏、家族でキャンプに行ってました。キャンプは山の時と海の時もありました。小学3年生くらいの時に海のキャンプに行き、テントを立て、水着に着替えて海辺へ。お兄ちゃんとどっちが先にザリガニを釣れるか勝負しようとしました。海辺で15分葛藤して、ほとんど同じ時間でザリガニをゲットできました。しっかりザリガニを家で育てられるように水槽を用意しました。次の日の昼間、家に帰宅し、早速家の大きな水槽へ。2匹ゲットしたのでどっちがどっちか分かりませんが、私はマーチ、お兄ちゃんはヨーチとザリガニに名前をつけました。ちょうど、オスとメスだったみたいで、子供が産まれました。ものすごく小さなザリガニの赤ちゃんがたっぷり水の中にいて、すごく不思議な気持ちだったのを覚えてます。そこから赤ちゃんも数匹育ち、友達にも飼ってもらうようにしました。それから、育てていくと、海で取った子たちも天国へ。家の裏庭に埋めたのを覚えてます。ありがとうザリガニさん。しんごパパ追記 ザリガニは淡水にしかいないと思うので、もしかしたらショウグンエビのことなのかも知れない。
1972年生まれ

小学生の頃のザリガニ釣りの思い出

ごまさん和歌山県 1972年生まれ 女性私が小学生の頃すんでいた家の周辺は海もあり、山も近くとてものどかなところでした。まだ宅地開発の途中で学校までの道のりには田畑やため池が多数ありました。登下校の途中で友達と一緒に田んぼやため池のカブトエビ、カエル、ザリガニなど見たり採ったり、道端の草を採ったりするのがとても楽しかったのを覚えています。学校から帰ると冷蔵庫にあったちくわをこっそり持ち出してよく兄弟でザリガニ釣りに行きました。弟に教えてもらった釣り方は小さく切ったちくわにタコ糸を結んで池に垂らし、ザリガニがハサミで挟むのを待つという釣りをしていました。ザリガニが釣れることもあれば亀が釣れることもよくありましたね。網も持って行っていたので網で池の端の草が茂っているところをすくってみたりもしました。網ではザリガニを取ることは難しく沼エビや小さい魚がよく採れました。採れた獲物は持ち帰り、すべてプラスチックの水槽に一緒にいれてました。エビとザリガニと亀を一緒にするとエビが食べられてしまっていなくなってることはよくありましたね。今思うと可哀そうなことしたなと思います。
1980年生まれ

ザリガニ釣りの思い出

たすくさん栃木県 1980年生まれ 女性人生初の釣り体験がザリガニ釣りでした。小学生の頃まで住んでいた場所から自転車で10分くらいのところに運動公園がありました。その運動公園にはアスレチックやテニスコート、大きな池や芝生の広場もあり小学生の自分にとって大好きな遊び場でした。いつも両親と行っていた時はアスレチックで遊んでいました。ある日、普段離れて暮らしていた祖父が遊びにきていた時に、一緒に運動公園へ行きました。祖父は運動公園内の池を見て「なんかいるかもなー…」と言い、一旦帰宅。家に帰って長い棒とタコ糸を探し、それらを持ち、スーパーでアタリメを買って、再度運動公園へ行きました。池の前で「釣りするぞ」と言い長い棒にタコ糸を結びつけ釣り竿を作成、タコ糸の先にアタリメをくくって池に向かって投げ入れました。するとすぐに反応し、祖父が釣り竿をひくとアタリメを挟んだザリガニが現れました。祖父は私に竿を渡し、私は初めて釣りをしました。キャッチアンドリリースで何回も釣りました。それからも祖父が遊びにきた時には何度かザリガニ釣りをしました。今の感覚だと運動公園でザリガニ釣りなんて常識はずれなことですが、昭...つづき
1983年生まれ

手作り竿でザリガニ釣り

ようかんさん広島県 1983年生まれ 女性小学校の帰り道に細い水路があり蓋がされていませんでした。友達と水路の上をピョンピョンとびながら遊んでいるとアメリカザリガニを発見。すぐさま捕まえようとしましたが、大きなハサミを振り上げ抵抗してきました。私たちは驚いて顔を見合わせると同時に”捕まえたい"欲求が強くなりました。その辺にある小枝を持ってきて家庭科で使う糸を繋いで即席の釣り竿を作りました。釣り針がないので糸の先を輪っかにして引っ掛ける作戦です。しかしその間にザリガニは逃げてしまったようで見つかりません。ランドセルを一旦道端に置いて夢中で捜索し、やっと見つけました。即席釣り竿を垂らし輪っかにハサミを通そうとしましたが、なかなかうまくいきません。しばらくしてもう諦めようかとした時、ハサミのギザギザにうまく引っ掛かり釣り上げる事に成功。よく頑張ったとお互いを讃え合い、ふと思いました。「で、このザリガニどうする?」と。子どもの頃は先の事を考えないので、こういった「ふと気が付く」場面によく遭遇します。家に持って帰っても戻しておいで言われるのは目に見えています。教室で飼えるかとも思いましたが、生物...つづき
1992年生まれ

ザリガニ釣りのおもいで

こめさん宮城県 1992年生まれ 女性今から25年ほど前、母方の祖父母の家の近くには水が流れる大きな側溝がありました。末孫だった私は年の離れた従兄弟の遊びに一生懸命着いて行ったのを覚えています。その頃流行っていた遊びが、その側溝でのザリガニ釣りでした。今となってはザリガニは怖くて触ることなど出来ないのですが、幼い頃の私は怖いもの知らずで、尚且つ従兄弟たちに追いつこうと必死でその遊びに参加していました。祖父は釣りが趣味だったこともあり、ザリガニ釣りの釣竿はたくさん祖父母の家にあったのです。誰が1番早く釣れるか、誰が1番多く釣れるか、時間を忘れてみんなで競い合って遊んでいました。みんなで大量に捕まえたザリガニを家に持ち帰った時、母親たちの悲鳴が響いたのが忘れられません。捕まえたザリガニをまた同じ場所に戻しに行って、またみんなで勝負しようね!と約束するのがお決まりの流れでした。今は危険な場所なので封鎖されてしまったのですが、そこの前を通ると幼い頃の無邪気な思い出がふと思い出されます。
1991年生まれ

鉄棒が嫌だった

こむももみじさん 静岡県 1991生まれ 女性小学生の時鉄棒の授業鉄棒で思い出すことは体育の鉄棒のテスト。出席番号順にテストしていくので「あ行の苗字」だった私は、いつも一番で(鉄棒にかぎらず・・・)した。ホントに嫌だったな。自分は運動が得意ではないので、尚更一番にやることが嫌でした。鉄棒にまたがるとき女子でもそこそこ痛いです(どこがとは言えませんが)。コウモリという両足のみででぶら下がり逆さまになるやつを低い鉄棒でやって頭を擦ったりもしました。鉄棒で遊ぼうとする日に限ってスカートだったりします。でも気にせずやってたら男子に見られたりしました。自分たちの世代から逆上がりの補助をしてくれる「沿っている台」みたいなものが設置されました。当時はもう高学年になっていたため、早くこういうものが欲しかったなという思い出があります。小学校3年の娘も鉄棒が苦手で、逆上がり練習中に背中から落ちてトラウマになってました。自分も当時は逆上がりの練習は大嫌いでしたが、たくさん練習したり、タオルを腰に巻くといいとか、いろんな方法で逆上がりの練習をしたことで自分なりにコツがつかみました。出来たときの達成感は本当にう...つづき
1983年生まれ

秘密基地の思い出

DORODANGOさん広島県 1983年生まれ 女性小学生の頃、学校が終わると自分の兄とその友達とで虫取りをしたり探検したり釣りをして遊んでいました。相手が年上の男の子なので体力や経験が追いつかないことも多かったのですが、それでもおいて行かれないように一生懸命に後ろからついて行ったのを覚えています。兄とその友達との遊びの中でも一番思い出に残っているのは”秘密基地”(…といっても枝や葉っぱで木陰を作った程度でしたが)です。川土手の鬱蒼とした木々をものともせずグングン奥へ入ります。トゲのある植物や鋭い葉っぱで足や手を切ってしまう事などしょっちゅうでした。特に私は大きな穴ぼこを飛び越えられずすっ転んだり、段差を越えられず石だらけの地面に顔からダイブしたりと毎回血まみれでしたが、特に気にしていませんでした。自分たちで作った秘密基地に酔いしれて、中で飲むジュースはもうこの世の甘さを凝縮したかのような心地いい味です。そんなある日、高学年の男子たちに私だけ呼ばれ「あの基地を潰してやる」と宣言されたことがありました。どうも同じ場所にその男子たちも基地を作りたかったようです。私はすぐに兄と友達に報告。翌...つづき