広島県に住んでいた人が小学生の頃にした遊びの思い出

1988年生まれ

じゃんけん大会の思い出

tomjさん 広島県 1988年生まれ 男性 私の思い出は学校でのじゃんけん大会です。遊び方は簡単で、じゃんけんの勝ち抜き戦をして優勝者を決めるものでした。 私の小学校では、じゃんけん大会が毎年行われ、優勝者には賞状が贈られます。私は小学2年生の頃、この大会で優勝しました。 低学年が高学年に何かの競技で勝つことはほとんどないので、その時はとても嬉しかったです。 それから、毎年大会が行われるたびに参加し、友達と一緒に競い合っていました。
1983年生まれ

下校中に遊んだ思い出

今日は明日さん 広島県 1983年生まれ 女性 下校は学校から放たれた開放感たっぷりの時間。 一人の時は寄り道はしませんでしたが、友達と帰るときはおたまじゃくしやホネホネロックを探したり、ザリガニ釣りをしたり、蓮華の蜜を吸ってみたり、シロツメクサで花冠を作ったりといろんな思い出があります。 子犬が産まれた家があれば見ず知らずの家であっても“ピンポーン“とチャイムを押し、「子犬と遊ばせてくださーいっ!」と飼い主にお願いしていました。 ランドセルを放って夢中で遊んでいると、あっという間に日が傾き始めます。そろそろ帰ろうと言って子犬とお別れの挨拶をし、ようやく帰宅するのです。 そして一人の時の土曜の下校中は、密かに“この家のお昼ごはんはなんだろなゲーム”をしていました。土曜は3時間目までしかないのでお昼で授業が終わります。 帰りに歩いていると、人の家から焼きそばの香ばしい香りがしてきます。「ここは焼きそばか、ソースはオタフクだな。」 さらに進んでいくと今度はカレーライスのスパイシーな香りがたまりません。「今作った匂いじゃないな、昨日の残りかな?」 このように人の家のお昼メニューを心の中で言い...つづき
1983年生まれ

オリジナル指相撲

すのーぼーるさん 広島県 1983年生まれ 女性 私は小学生低学年のころからなぜか指相撲が強く、男の子相手でも勝っていました。手が小さいのになぜ勝てるのか自分でも分かりませんが、気合と親指を俊敏に動かせるところが勝因なのかもしれません。 そうして指相撲試合を重ねるうちに、オリジナルルールが採用されました。“ピンチになったら人差し指使ってもいい“というルールです。このルールができたことで私は急にボロ負けしました。 指の長さが違うため人差し指が相手の親指に届かないのです。悔しい気持ちを胸にしまい、これではいけないと新たなルールを私も発案。 それは“3秒勝ち“というもので、今までは10秒間親指を捕まえたら勝ちでしたが、それを3秒に短縮。そうです、自分に有利なように設定したルールです。これは即座に「10秒親指つかめないからだろ!」と一瞬で却下されました。 仕方ないので実力で勝つために指の筋肉を強くしようと、親指と人差し指に重りをつけて上下を動かすという地味な運動を頑張りました。 結果、やりすぎて痛みが走り、しばらく対戦はお預けになったという切ない思い出です。
1983年生まれ

古典的なやり方でボールを取る先生たち

ブックさん 広島県 1983年生まれ 女性 どこの学校の天井にも挟まったボールは存在するのではないでしょうか。わたしの小学校はバレーボールが盛んで、とても強い学校でした。バレーボールが体育館の天井に挟まっているのは日常茶飯事でした。 でも体育の授業で見たボールは次の体育の時にはなくなっています。内心あんな高いところに挟まっているボールを誰がどうやって取っているのか不思議でした。 しかし、夏休みに入る前日、体育館のドアが開けられ先生たちが掃除をしていました。その時に先生方が一生懸命天井のバレーボールを箒の柄(ほおきのえ)でつついて落としていたのです。思っているより古典的なやり方でちょっと衝撃でした。 そして体育館の真ん中らへんに挟まっているバレーボールは箒の柄では届かないのでテニスボールを投げつけて取っていました。こちらもボールを落とすためにボールを使うというなかなかのやり方。 それにしても私たちが知らない間に先生たちはこうしていろんな細かいところまでしてくれているんだなと思い、感謝でした。
1983年生まれ

回転する遊具「オーシャンの思い出」

マスクマンさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生時代に、オーシャンという遊具がありました。中心に柱があり、その周りに大きな輪っかが取り付けてある回転する遊具です。 子どもたちはみんな輪っか部分を持ち、一人がその輪っかを持って走ることでビュンビュン高速回転するのです。このスリルがたまらなくて怖いのにやってしまうという中毒性があります。 このような遊具なのでケガは当たり前でした。なんせ自分の力では止める事ができないので、手の力が限界になれば振り落とされるだけです。気付けば隣の子がいなくなっていたなんて事が毎回起きます。 いつも顔から落ちたり膝を擦りむいたりしていました。それでも季節関係なく、休憩時間に行列に並んででもビュンビュン回されていました。現代では考えられないくらい危ない遊具です。 回されるとずっと大笑いしている子と「止ーめーて!!!」と叫ぶ子に分かれます。私は後者。それならどうしてこの遊具で遊ぶのかと言われそうですが、なぜかやめられないのです。 体が浮く浮遊感とか自分の握力の限界を知る瞬間とか、小学生なりにいろんな感覚を楽しんでいました。
1983年生まれ

「平常心ではいられない」校庭に迷い犬の思い出

Neutralさん 広島県 1983年生まれ 女性 6年通っていて一度だけ野良犬が校庭に迷い込んだことがあります。茶色い雑種の犬でした。 ある日隣の教室がやけにザワザワしているのが聞こえて窓側から「犬がいる!」と大きな声が聞こえました。 私達のクラスもみんな窓から校庭を見てみると、犬がブランコの方へヒョコヒョコ歩いていきクンクンと辺りを嗅いでいる様子が見えました。 次は鉄棒の方へ。担任の先生も一緒に見ていましたが、「はい、授業に戻るよー」と言って授業の続きが始まりました。 しかしこのような事態で平常心を保てるわけがありません。校庭に犬がいる非日常感がワクワクします。早く学校が終わって触りに行きたいという気持ちでみんなザワザワします。 比較的窓側の席だった私はそれからも目で追っていたのですが、先生らしき人が出てきて犬を校門まで連れていき出してしまいました。ガックリです。 その後授業が終わり帰りの会を済ませ、靴箱で履き替えていると外に人だかりが。まだあの犬がいたのです。 みんな撫でて可愛がっています。私も頭をヨシヨシして触れました。近くで見ると結構大きくて首輪もしていました。結局、近所の飼...つづき
1983年生まれ

陣取り紙相撲

霞さん 広島県 1983年生まれ 女性 昭和世代に育った人は紙相撲の経験があるのではないでしょうか。 紙相撲は紙で作った力士を台にのせて、指で台をトントン振動させて前へ動かしていきます。力士が倒れたり枠から出たら負け。 雨の日に家の中でしていた思い出があります。私たちはこのルールを徐々に変えていき、力士を6人に増やし相手の土俵まで攻め陣取るゲームを考えてやっていました。 10秒だけの対戦でどれだけ自分の力士が相手の土俵を陣取れているのかというゲームです。 力士の形に少し変化をつけてみたりして、どうすれば前に進みやすいよう考えて作っていました。 力士の名前は〇〇山、〇〇丸、そして外国人仕様の力士も作り”ステファニー”と女性の名前を付けていました。 友達もみんな”キャサリン”とか”ボブ”と、小学生なりに聞いたことのある精一杯の外国人の名前を付けていました。 ボブは非常に強く、前へ前へ進んでくる速さが凄まじいので陣取りに一番貢献した力士です。 次に紙相撲をする時はこのボブの取り合いになりました。
1983年生まれ

「どこでもできる陣取り」じゅうたんの絵柄を使ったジャンケン陣取り

マヨさん 広島県 1983年生まれ 女性 友達の家に遊びに行った際、子供部屋のじゅうたんに電車の線路が描かれてあるおもしろいデザインでした。そこで陣取りゲームを思い付きました。 線路の端と端に別れてよーいドンでスタートを切り、駆け足で線路上に沿って進むと友達と会います。 ジャンケンして勝った方は進み、負けた方はスタート地点から再スタート。どんどん相手の陣地を取って行きます。 盛り上がるのはゴールにあと一歩で到達するという時です。 何度ジャンケンに負けてもすぐに踵を返しまたジャンケンになるのでやっている方も見ている方も大笑いしてしまいます。 ここでジャンケンに勝ったなら、さらにこの盛り上がりは加速し、あと一歩でゴールだった人がスタート地点から再スタートするというまるで人生ドラマのような光景が繰り広げられます。 この陣取りゲームは校庭の地面に描いて休憩時間にするほどみんなでハマりました。一人ずつではなく列を成してやる時もあり、ジャンケンしまくりで全然前に進めないなんてこともあり、楽しいゲームでした。
1988年生まれ

陣取りゲームの大会と戦略

tomjさん 広島県 1988年生まれ 男性 陣取りゲームは、子供時代に特に好きな遊びでした。私が育った地域では、公園や学校の校庭などでよく陣取り遊びをしていました。 陣取りゲームのルールは2つのチームに分かれて、それぞれの陣地を守りながら四隅の陣地をケンケンしながら奪い合うというものでした。激しい運動量と戦略的な要素が組み合わさっていて好きでした。 小学3年生の頃、学校で陣取りゲームの大会が開かれました。 私たちのチームは最初の試合では負けましたが、次の試合では2対1の構図を作り、相手チームの攻撃を見事に防ぎ、勝利を手にしました。自分たちで戦略を立てて勝ち取ったこの一勝は大きな自信になりました。 陣取りゲームは、ただ走り回って遊ぶだけではなく、相手チームの陣形や戦術を観察して、自分たちの戦略を立てます。遊びを通じて、チームワークや戦略的思考を学びました。
1983年生まれ

スケボーで大惨事の思い出

森のパンさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、家の前に広い空き地があり、兄とよくスケボーをしていました。 普通に乗るのでは飽き足らず、ちょこんと体育すわりをして後ろから勢いよく押してもらって、どこまで進むかという遊びをしていました。 空き地内のでこぼこした地面や坂道を通ったり、いろんな乗り方をして遊んでいたのですが、ある日兄がお腹でスケボーに乗りスーパーマンのように飛ぶ格好をして「スケボーを押してー」と言って来ました。 言われた通りに押すと、スーパーマンのようにスーッと進んでいるのがおかしくて何度も何度も押し、この”スーパーマン乗り”は流行り、繰り返ししていたのですがある時、急に兄が「痛ーい!!」と叫んだのです。 この時兄はスーパーマンの態勢でしたがいつものように手をグーにして左手を腰に右手を伸ばしておらず、手のひらを地面につけていたそうで、それに気づかず私がスケボーを思いっきり押したのです。 その結果、右の中指の爪が全部めくれるという大惨事になってしまい、両親が青ざめ病院を探して車で行ったのを覚えています。 病院内で爪を取り除く手術がされ兄の泣き声が院内に響き渡りました。...つづき
1983年生まれ

「女性ドラえもんのマネで大騒ぎ」お家かくれんぼの思い出

ちぃ子さん 広島県 1983年生まれ 女性 友達が家に遊びに来て5人ほどで遊んでいました。 最初はおままごとをして遊び、次はリカちゃんで遊び、その後はかくれんぼという流れがいつもの遊び方。 ジャンケンをして鬼が50秒数え、みんなが隠れます。と言っても家の中なので隠れる場所は限られているので見つけやすいです。 この時、私はドラえもんが押入れで寝ているのを真似しようと思い付き、押入れの中にそーっと隠れました。 「もーいいかーい!」と言う声が聞こえます。いろんなところからかすかに「もーいいよー」と返事があります。 襖を少しだけ開けて見てみると鬼はキョロキョロ。そしてどんどん見つけていきます。 すると私は押入れの布団の中でだんだんと眠くなってしまいうとうと…。そして寝てしまいました。 外がザワザワしている声で目が冷め、襖を勢いよく開けると一斉に母と友達が目を丸くしてこちらを見ています。 鬼が私だけ見つけられず母にいないと言って騒ぎになっていたのです。その後こっぴどく叱られた私でした。
1983年生まれ

「ジャングルジム鬼ごっこ」ルールと遊び方

東西さん 広島県 1983年生まれ 女性 ジャングルジムで遊ぶとなると、誰が一番高いところに登るのが早いかで競争するのがお決まりでした。グイグイ登って行って登頂を目指します。登頂部に座ると勝ちというわけです。 その後、みんなでジャングルジム鬼ごっこという謎の遊びを考えました。鬼は2人で一段目しかグルグル回れないルール。 逃げる人は登頂部分以外をグルグル逃げなければいけません。とにかく右に左にと鬼が迫ってくるので盛り上がります。ちなみに鬼も逃げる人も地面に足が付いたら反則です。 手を伸ばしてタッチされそうになると急いで移動しジャングルジムの中に入って身を守ります。 でも中にいられるのは30秒だけなのでまた逃げまどうのです。 私はいざ鬼になるとなかなかタッチできませんでしたが、腕のリーチが長い友達は早々とタッチして鬼から卒業していました。 うらやましく思いながらも追いかけますが手の力が限界を迎えとうとう地面に背中からゴロンと落ちたことがあります。 「あっ!落ちた!」と言われ、誰からも心配されず反則の罰で5分牢屋に入れられるという重すぎる刑を処されたのでした。
1983年生まれ

雪合戦で流血の思い出

しもやけさん 広島県 1983年生まれ 女性 雪が積もった日、校庭で急遽雪合戦をすることになりました、クラス半々に分かれてみんな必死な形相で雪玉を投げます。 雪玉はけっこう固く、イヤーマフをしたりニット帽をかぶっていい学校ではなかったので、頭や耳に当たると痛くてたまりませんでした。 でも一生懸命に雪玉を作る係に徹したり代わって投げに投げまくったりすると、寒さはどこかへ行ってしまいます。吐く息は白いのに背中は汗でびちゃびちゃという感じです。 一通り楽しんだ後、教室へ戻るように先生から指示があり下駄箱へ向かっていました。男子数人はまだ後ろの方で投げ合っています。 そして「あっ!!」という声が聞こえて振り向くと遊んでいた男子が投げた雪玉が私の顔にクリーンヒットしました。私の感覚では鼻に当たったと思って思わず鼻を手で覆いましたが、流血しているのは口からでした。 友達がトイレに連れて行ってくれ、鏡を見ると上唇と歯茎から血が出ていて前歯が真っ赤に染まっています。今でも傷跡が残っていて、楽しい思い出は痛い思い出と共に刻まれました。
1983年生まれ

雪ウサギの思い出

かつおぶしさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、珍しく雪が積もった日がありました。こういう日はなぜか早く目が覚めてしまいます。 家の前に積もった雪で早速雪だるまを作り、枝を手に見立ててミカンを目にしました。ニット帽をかぶせてできあがり。すると妙に愛情が湧いてくるので不思議です。こんな雪だるまを作り続けた結果、家の前の綺麗な雪がなくなってしまいました。 少ない雪で他に何か作れないかと思っていると母が「雪ウサギが作れるよ」と教えてくれました。雪ウサギは南天の赤い実を目にして葉を耳に見立てます。雪だるま以外のものを作ったのは初めてで、想像以上にかわいく作れたので嬉しくなってしまいました。 学校へ行き、友達にこの事を話すとやってみたいと言ってくれ、放課後作ることに。しかし南天の実がありません。小石や葉をちぎって目にしてみましたがあまり可愛くならず。私は一旦帰って庭の南天の実を取りまた学校へ走りました。 行き帰りで30分全速力。日頃、何かに熱中することはありませんがこういう情熱は持っているのです。無事に可愛い雪ウサギが作れて満足した私たちでした。
1990年生まれ

スリリングな登下校通学路 ランドセルへのイタズラ遊び

レノレノさん 広島県 1990年生まれ 女性 一緒に帰っている同級生の背後へこっそり忍び寄り、ランドセルの底面へそっと手を伸ばす。気付かれないようにかぶせの留め具を回し、ランドセルの中身が見える位置までかぶせを上へ跳ね上げさせることができれば、成功。 いかに相手に悟られずににランドセルを開けることができるか。そのスリルが癖になり、小学校の登下校時は仲間内で駆け引きを楽しんでいました。 この遊びを考案したのは私。当時見ていたアニメやゲームの影響で、スパイや裏組織のような存在に憧れを持っていました。 表立った活動はせず、気配を消して活躍するような存在。自分もそういう人間になりたいと思い、足音を消して歩く練習をしていたこともあります。 その延長で友人のランドセルの留め具を狙い始め、すっかりハマってしまったという訳です。 しばらく経つと、いつの間にか私達以外のグループにもこの遊びは広まっていきました。ランドセルを開けられないようにみんなが後ろ手に留め具を抑えながら歩く、何とも奇妙な通学路の光景。少なからず考案者として責任を感じたものです。 今ではランドセルも進化や多様化が進んで留め具の位置が違...つづき
1983年生まれ

石を積み上げるゲームで人生の厳しさを知った

モモンガさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、川沿いに行って意味もなく石を重ねる遊びをしていました。30秒で積めるだけ積んで高い方が勝ちというものです。 なるべく平たく面積がある石が好ましいので、探すのにけっこう時間がかかります。 考えなく積むと結局バラバラと崩れてしまうのでタイムオーバーになり負けます。時間をかけてでも積みやすくバランスがとれる石を探し求めウロウロするのです。 ある日この遊びをしていたところ、運よくちょうど良さそうな石がたくさん見つかりました。せっせと積み上げ、もうこのくらいで勝てるだろうという高さまで積み上げる事ができました。 対戦の友達はまだ石を探しています。その様子を見て勝ちを確信した私は30秒経つのを静かに待っていました。するとバランスが崩れたのか、一番上の石がコロンと落ちました。そこでタイムアップ。 そしてさっきまで石を探していた友達が、土壇場で石を上手く積み上げていて勝ちました。この時、何事も最後まで気を抜いてはいけないのだという事を学んだ私でした。
1983年生まれ

マイクはネギ坊主

しーさーさん 広島県 1983年生まれ 女性 名前のない遊びとして、ネギ坊主をマイク代わりにしてカラオケ大会をする遊びをしていました。ネギ坊主とはネギの先端がフサフサしているところです。 家の周りの畑でネギを育てているおばさんがひょいっとネギ坊主をくれたのがきっかけで、マイク代わりに歌うようになったのです。 近所の子と3人で家の花壇に立って歌うのがお決まりでした。 即興でその時の気持ちを謳うのが面白く、「きょうの~ばんごはん~ステーキだったのらぁいいのにぃ~」という個人的希望を歌にしたり「さんすうー、りかしゃかいー全部きらいー」という今後の成長が心配されるような歌などを大声で歌っていました。 友達が笑ってくれるので、だんだんと気持ちよくなって、みんなでハモリにも挑戦。テレビの音楽番組で見たハモリでしたが上手くできず、そのできないことをまた歌うのです。 日に日にネギ坊主はしおれていきますが、それでもカラオケ大会は続けられました。大人になった今でもネギ坊主を見るとあの頃を思い出します。
1983年生まれ

出演者多めのぬいぐるみごっこ

四つ葉さん 広島県 1983年生まれ 女性 同じクラスの友達とぬいぐるみごっこをして遊んでいました。家にある大量のぬいぐるみでそれぞれ家族を作り好きな役を演じます。 私は3人家族の中の長女役で、友達は5人家族の中の3女役。ちなみに長女と3女は同級生です。 ぬいぐるみにも配役をして声色を変えながら、それぞれアテレコをするので忙しい遊びです。 このぬいぐるみごっこは部屋の中でせずに、玄関先にピクニックシートを2枚敷いて家に見立てて遊ぶのがお決まりでした。 母親役のぬいぐるみに「あら、奥さんこんにちは。明日は参観日ね。着る服なくてやになっちゃう」 「いーのよ、適当で。私なんかいつもの服よぉ。そういえば明日雨らしいわよ。傘を差して行くの面倒くさいわねぇ」と けっこうリアルな切り口から始まり、ある時には兄妹、ある時は父親、必要に応じて祖父母も登場してシビアな展開にもなります。 でも面白いのはすべてその場で喋るのですが、最後には必ずハッピーエンドで終わること。今考えると子どもながらに笑って終わりたいという希望があったのかなと思います。
1983年生まれ

アドリブ多めのお母さんごっこ

ぽてぃとさん 広島県 1983年生まれ 女性 ごっこ遊びと言えばある程度台本が決まっている”お母さんごっこ”です。主役はお母さんで次に子ども、その次にペットの役が人気でした。 不思議なのは、なぜかお父さん役は人気がないこと。男子が混ざってやる時も同様にお父さん役になりたがる人はいませんでした。 この理由として、”お父さん”というと仕事で家にいない事が多い為、お母さんごっこでは出番が極端に少ないということ。それはごっこ遊びではなく現実世界でも同じです。 近年、ようやく父親が育休を取れる環境が整いつつありますが、普及率はまだまだです。そんな感じなので私が小学生低学年の時代は、父親と触れ合った思い出がある子どもは少なかったはず。 こうしてお父さん役は人気がなく、ジャンケンで負けた人がお父さん役となります。 それでも子どもの想像力は凄くて、アドリブ力が強いお父さんや、喋りまくるお父さんを演じる子もいて、台本通りに進まないのが面白くて、よくその男の子に「お父さん役やらない?」声を掛けていたことを覚えています。
1983年生まれ

オリジナルのお手玉遊び

ソロリソロリさん 広島県 1983年生まれ 女性 私は不器用でなかなかお手玉が上達しませんでした。対して友達はすぐに2つ、さらに3つもマスター。どんどんスピードがあがります。リズムよく歌いながらお手玉を回す姿は羨ましく、目で追うだけでもクラクラするほど。 仕方なく私は早々に諦め、オリジナルお手玉遊びの開発に着手しました。ボールのように跳ねないという、お手玉のポテンシャルを活かした遊びです。 小さく切った紙に10点、中くらいの紙に5点、大きい紙に1点と描いて床に置きます。離れたところから投げて紙の上からはみ出さず乗せられたら加点。紙の他にドアノブに乗せられたら12点、トイレットペーパーの芯の上に乗ったら20点等々。あらゆるところに点数をつけ合計を競うという遊びです。 これが結構熱くなってしまい、みんな必死で点数が高いところに投げます。そしてどんどんコツを掴み、上達していきました。お手玉本来の遊びではないこの遊びはヒットし、しばらく私達のブームになったのでした。
1983年生まれ

滑り台で思い出す女の子

まめ太郎さん 広島県 1983年生まれ 女性 滑り台で遊ぶときはなぜか逆走という迷惑行為をする子が必ずいるものです。滑りたいのに滑れないということになり大渋滞を引き起こします。 「どいて」と言うとジャンケンで勝ったらねと意味不明なことを言われ、私はプンスカ怒って無理やり股をくぐって滑るという強硬手段に出ました(どちらも危ないので絶対にやってはいけません)。 そしてまたその子は次に滑ろうとする子に同じことをするのです。逆走の子は男の子。滑ろうとする子達はみんな女の子でした。 そんな時、ずっと逆走をやめない男の子を一人の女の子が突然引きずり下ろしたのです。そして小さい声で「やめろって言ってるよね?」と。 一部始終を見ていた私は、その知らない女の子を「かっこいいー!」と思いました。 敢えて小さい声で注意するという私には発想のなかった方法。男の子は一瞬怯んだ様子で、怖くなったのかそのまま自転車に乗って去っていきました。 平和が戻った滑り台で安心して遊ぶことができました。
1983年生まれ

ロング滑り台

ロックンロールさん 広島県 1983年生まれ 女性 友達家族と私の家族とで広くて大きな公園へ遊びに行ったときのことです。そこには長い長い滑り台があり、滑る部分はローラーになっていました。 子どもからすると面白そうな夢のような遊具。すぐさま私と友達は飛びつきます。階段を登り切り、いざ滑ろうとすると思いのほか高い…。ちょっと怖くなりました。 それでも滑ってみたい要望が抑えきれずとりあえず座ってみます。はるか下に見える親たち。振り返ると友達も心なしか顔が引きつっているように見えます。話し合いの結果、一緒に滑ることに。 前後に座りいざ出陣!ズンズンスピードが出てローラーは勢いよく音を立てて回り私達はあっという間にゴールする…はずでした。出陣しても一向にスピードは出ず、ローラーからは軋む音しかしません。滑り台らしからぬ遅さです。 手足を使ってスピードをあげるしかありません。頑張っても公園の滑り台の半分以下のスピードでぬるっと着地。しかしこれはこれで子供の心を掴み、私達は大爆笑。このあと10回以上滑りました。
1983年生まれ

たんこぶができた弟 ブランコの思い出

たら子さん 広島県 1983年 女性 ブランコというと私は友達の弟を思い出します。ある日、同じクラスの友達と小学校へ遊びに行きました。走って行くと一つ年上のお姉さんと歳の離れた弟がブランコで遊んでいるのが見えました。 私はそのお姉さんと知り合いだったので挨拶をし、3歳の弟を合わせて4人で各々ブランコを楽しんでいました。 しばらくするとすると弟は飽きてしまったのか、足を精一杯伸ばしてブランコから下りてトコトコと歩き出します。私たちはまだ思いっきり立ち漕ぎをしていて勢いがついている状態。 何だか怖いなと思った瞬間、弟がお姉さんの方へ走って向かって行ったので思わず「あぶないよ!」と言いました。 でも弟は、お姉さんの方へまっしぐら。思いっきりブランコとぶつかりズサーァッ!!!っと倒れました。それはもう大泣きです。おでこがみるみるうちに青黒くなり私達はゾッとしました。 幸いお姉さんの家は小学校の隣なのですぐに弟を連れて帰り、心配すぎて私達も一緒についていきました。家に着くと弟は泣き止み、たんこぶができていたのにも関わらず「もういっかい!」とブランコをせがむのです。 お母さんも「うん、行っておいで...つづき
1983年生まれ

凧上げヒーロー

たまこさん 広島県 1983年生まれ 女性 日本のお正月らしく、冬休みに凧上げの宿題が出たことがあります。手が器用な父とビニールを使って作ったあと、川土手まで行って上げてみます。 しかし、風に上手く乗らず失敗。もう一度走り出しましたが、凧がクルンクルンと回ってあっという間に糸が絡んてしまいました。こうなるとなかなか解けません。 悪戦苦闘する私達に川土手にいたおじさんも加わり、なんとか解いてくれました。また走り凧を上げます。でも上手く風に乗りません。 疲れてしまった時、タコ紐を解くのを手伝ってくれたおじさんが再び登場。コツを教えてくれました。ビニール凧なのでフニャフニャしていて上げづらいですが、凧を持って私の走るスピードに合わせてくれました。 2.3回挑戦してみると遂に凧が空高く上がりました。おじさんありがとうと思い、見ると既に遠くに歩いて行っていました。 なんてかっこいいヒーローなんだと思いながら、その後も父と何度も何度も走り、ようやく上手く上げることができました。
1983年生まれ

必死のおはじき遊び

きな粉さん 広島県 1983年生まれ 女性 小学校時代におはじきで遊んだ思い出と言えば友達のおばあちゃんを思い出します。昔の遊びを教えてくれた優しいおばあちゃんでした。 今はあまり見かけなくなったコタツにみかんスタイルの和室で、友達3人と一緒におばあちゃんにおはじきを教えてもらったのです。 最初におはじきを見た時は遊ぶものと言うよりかは「綺麗だなー」とか「メダカや金魚の水槽に入っている石だなー」という事。 おばあちゃんは菓子箱の蓋を使って、「相手のおはじきをはじいて、ここから出たら負けよ」と言って早速友達のおはじきをはじいて見事に蓋の外へ。相手が小学生でも容赦しません。 そんなおばあちゃんだからこそ、私たちも負けじとおばあちゃんのおはじきめがけて順番にはじいていきます。しかしコントロールが難しく、狙った方向へ跳んで行かないのです。 みんなほっぺが赤くなり、いつの間にかコタツから全員出ていました。おばあちゃんも必死です。あっちへ跳びこっちへ跳び、おはじきも忙しそう。夕方5時の曲が流れ、決着がつかない日もありました。 おばあちゃんのおかげで、私たちはとても楽しい時間を過ごさせてもらいました...つづき
1983年生まれ

校庭で宝探しの思い出

あるぷすさん 広島県 1983年生まれ 女性 今思うと、小学生時代って変わった遊びを好んでしていたなぁと思います。2年生の時、校庭にビー玉を埋めて”宝探し”として遊んでいました。代わりわりばんこに「この辺に埋めたよー」と言って、友達に掘り出してもらいます。 この時、3回に1回くらいはどうしても宝(ビー玉)が出てこない事があり、2人で首を傾げることもしばしば。その時は「ワープしちゃったんだ!!」と騒ぎ、違うビー玉でやり直し。そんな遊びでした。 ある昼休憩、いつものように遊んでいると「今日は学校が終わったら校庭に集合ね」と友達が言いました。行ってみると、もう友達は先に来ていて、鉄棒で遊ぼうという事になりました。 するとここに宝があるから探してほしいと言うのです。友達の中で昼休憩の宝探しはまだ続いていたようです。 そして鉄棒の近くの地面の色が違うところを発見し、掘ってみると、宝と手紙が出てきました。「おとなになってもあそぼうね」と書いてありました。 その友達は中学卒業後引っ越してしまいましたが、とてもほっこりする思い出です。
1983年生まれ

兄弟で競った ビー玉の箱迷路ブーム

fine weatherさん 広島県 1983年 女性 子どもの頃、箱迷路がマイブームになりました。 事の始まりは、兄弟がお歳暮の空箱を利用して迷路を作ったものに私が目を付け、ビー玉を入れて箱を上下左右に動かしスタートからゴールまで何秒でいけるかという遊びをし始めたのがきっかけです。 あっという間に兄弟間で取り合いになり、誰が一番早いタイムを出せるかという競争に発展。 末っ子の私はどうしても勝てず「私が思いついた遊びなのに~!」とプンプンと怒ったりしながらも、だんだんとコツを掴み。 「このカーブでこうしてぇ…こっちは手前でスピード落としてからぁ~ドン!よしよし、いいぞぅー」と大き目なひとり言を言いながら熱中しました。 ようやく一番になれると自信が付いた頃には、もうみんなは飽きてしまい、私しか熱中していませんでした。う。 子どもの飽きっぽさはすごく早い。誰とも対戦できないと分かると急に寂しく感じ、やる気が失せる私。いつの間にか箱迷路ブームは終わってしまったのでした。
1983年生まれ

いつでも縄跳び

ホクホクさん 広島県 1983年生まれ 女性 体育の授業で縄跳びがあり、富士山のイラストが描かれた用紙が配られました。 前跳びや後ろ跳び、交差跳び、二重跳びに挑戦し、練習してできるようになったら先生の前で披露します。合格できたら一マス色を塗っていき、富士山登頂!というわけです。 それ以降遊びも、跳び方の種類によっては少し縄を短くしたほうが跳びやすかったり、持ち手も滑らないように工夫しながら毎日練習しました。午前休憩や昼休憩も猛特訓です。 友達に見てもらい、「10回できてた?」「うーん最後の1回が怪しかったかな」など審査してもらっていました。このおかげで体育の授業が待ち遠しくなり早く富士山登頂するべく必死。 いつもなら遊ぶ時間も縄跳び、眠るときもイメトレです。まさに寝ても冷めても縄跳び。大変でしたが楽しい授業でした。 結果、私は登頂できず悔しい気持ちで終わりましたが、授業に関係なくしばらく縄跳びにハマっていました。おかげでいろんな跳び方ができるようになったのでした。
1961年生まれ

今から50年ぐらい前の話 パッチンの遊び方

たくしゅんさん 広島県 1961年生まれ 男性 小学生の時の遊びなので、今から50年ぐらい前の話になります。「めんこ」という言い方が一般的に全国区のようですが、私の地域では「パッチン」と言っていましたので、「めんこ」と言うと何となくピンときません。 「パッチン」で遊ぶには、自身が持つパッチンがもちろん必要ですが、もう一つ必要なものがあります。それは「覚悟」です。パッチンでの勝負による結果によって、そのパッチンの所有権が移動するからです。 すなわち、勝負に負けるとそのパッチンは相手に取られるのです。よって、遊びの醍醐味は勝つことそのものではなく、相手から奪い取った戦勝品の数の多さを競うことになります。 私の地域では、スタンダードな遊び方である、地面に置いた相手のパッチンを自分のパッチンで叩いて裏返すという遊び方もしていました。 こちらで流行っていたのは、名前は忘れましたが、道路上適度に設置してあったゴミ入れ(石製)の上部にパッチンを置いて、草履やツッカケ、サンダルなどを使ってパッチンを横から叩き、前方に飛ばす遊びです。 ルールは簡単で、一番よく飛んだパッチンが勝ちとなります。勝負のカギは...つづき
1983年生まれ

おばあちゃんが教えてくれた 女子たちのゴム跳び遊び

シロクロさん 広島県 1983年生まれ 女性 遊ぶ時は同じクラスの仲良し4人で、毎回集まるのはEちゃんの家でした。4人の家のほぼ真ん中に位置していて、さらに隣に広場がある事がみんな集まる理由でした。 この広場であらゆる遊びをしましたが、ゴム跳びもその中の一つ。少しずつゴムを上げて一番高く跳べた人が勝ちです。 この時、足にゴムが触れると脱落なのですが“触れた、触れていない“でEちゃんと他の子がケンカに発展することがしばしば。ケンカ慣れしていない私はオロオロするばかり。 こういう時は残りの一人の友達と気配を消し、そっと他の遊びを始めるのです。そして一通りケンカが終わると元のゴム跳びに戻ります。 このゴム跳びは私の周りにはやっているの子供はいませんでした。というのも、Eちゃんのおばあちゃんが教えてくれたからです。 優しいおばあちゃんは昔の遊びをよく教えてくれました。ゴム跳び以外にメンコ、お手玉、おはじき。昭和の遊びです。これらの中からゴム跳びは私達にヒットしたのです。 おばあちゃんありがとうと言いたいです。
1983年生まれ

フラフープ争奪戦

時短モンスターさん 広島県 1983年 女性 フラフープは小学校中学年の時に流行りました。 休憩になると争奪戦。10本くらいしかないのでチャイムが鳴るやいなや女子はみんなピューッと教室からいなくなります。 小学校時代の女子は年齢で流行るものが結構決まっていて面白いものです。 フラフープはクルクル回し跳びながら鬼を追いかけ回したり、腰で回して誰が一番長くできるかを競ったりしました。 青と赤のフラフープを地面に1つずつ置いて、それぞれひとりずつ入っていき、どちらのフラフープに多く人が入れるかという遊びもしました。おしくらまんじゅう状態で誰かの足が出た時点でその色チームの負けです。 この逆の発想で、人が立っていてフラフープを投げ、立っている人がフラフープに入ったら得点が入るという投げ輪ならぬ投げフラフープなど、子供時代はこのように即席で遊びやルールをどんどん作って遊んでいました。 相手に得点を入れたくないが為に立っている人がちょっと動いてズルしたりして、あーだこーだと盛り上がり楽しい日々でした。
1983年生まれ

手作り竿でザリガニ釣り

ようかんさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学校の帰り道に細い水路があり蓋がされていませんでした。 友達と水路の上をピョンピョンとびながら遊んでいるとアメリカザリガニを発見。すぐさま捕まえようとしましたが、大きなハサミを振り上げ抵抗してきました。 私たちは驚いて顔を見合わせると同時に”捕まえたい"欲求が強くなりました。 その辺にある小枝を持ってきて家庭科で使う糸を繋いで即席の釣り竿を作りました。釣り針がないので糸の先を輪っかにして引っ掛ける作戦です。 しかしその間にザリガニは逃げてしまったようで見つかりません。 ランドセルを一旦道端に置いて夢中で捜索し、やっと見つけました。 即席釣り竿を垂らし輪っかにハサミを通そうとしましたが、なかなかうまくいきません。 しばらくしてもう諦めようかとした時、ハサミのギザギザにうまく引っ掛かり釣り上げる事に成功。 よく頑張ったとお互いを讃え合い、ふと思いました。 「で、このザリガニどうする?」と。子どもの頃は先の事を考えないので、こういった「ふと気が付く」場面によく遭遇します。 家に持って帰っても戻しておいで言われるのは目に見えています。 教室で飼え...つづき
1983年生まれ

秘密基地の思い出

DORODANGOさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、学校が終わると自分の兄とその友達とで虫取りをしたり探検したり釣りをして遊んでいました。 相手が年上の男の子なので体力や経験が追いつかないことも多かったのですが、それでもおいて行かれないように一生懸命に後ろからついて行ったのを覚えています。 兄とその友達との遊びの中でも一番思い出に残っているのは”秘密基地”(…といっても枝や葉っぱで木陰を作った程度でしたが)です。 川土手の鬱蒼とした木々をものともせずグングン奥へ入ります。 トゲのある植物や鋭い葉っぱで足や手を切ってしまう事などしょっちゅうでした。 特に私は大きな穴ぼこを飛び越えられずすっ転んだり、段差を越えられず石だらけの地面に顔からダイブしたりと毎回血まみれでしたが、特に気にしていませんでした。 自分たちで作った秘密基地に酔いしれて、中で飲むジュースはもうこの世の甘さを凝縮したかのような心地いい味です。 そんなある日、高学年の男子たちに私だけ呼ばれ「あの基地を潰してやる」と宣言されたことがありました。 どうも同じ場所にその男子たちも基地を作りたかったようです。 私はす...つづき