小学生の頃の遊びの思い出

1985年生まれ

「危険な遊び」箱ブランコの立ち漕ぎ

つぼたさん 北海道 1985年生まれ 男性 小学生の頃、よく遊びに行く公園に箱ブランコがありました。普通のブランコや滑り台、ジャングルジムなどの遊具がありましたが、よく遊んでいたのが箱ブランコでした。 乗っている人が足を踏ん張るように漕いで遊んでいましたが、誰かが始めた骨組みのところに手をかけて外側から足で箱ブランコを押すという遊び方で遊んでいました。 足で押すと勢いよく揺れます。限界まで揺らすとブランコの骨組み同士が当たり「ガッタン」と音がして中に乗っている人は少し浮くぐらいの振動がきます。とてもスリルがあり、楽しく遊んでいた思い出があります。 当時の自分たちは箱ブランコのことを「ガッタン」と呼んでいました。 当時は楽しく遊んでいましたが危ないことも何度かあり、足で漕いでいる人が足を滑らせて落ちてしまったり、中に乗っている人が衝撃に耐えきれず外に飛び出してしまったりしました。今思い出すととても危険で、よくケガをしなかったなと思います。
1951年生まれ

雪合戦

katsuさん 兵庫県 1951年生まれ 男性 小学生の頃は雪が降って来ると急いて外に出ました。まず空を見上げ、口を開けて雪の味を確かめる事から始めます。冷たいだけでかき氷みたいに美味しくはありません。 そうこうしていると雪はどんどん降って来ます。体が雪で真っ白になります。寒くなってきたので家に入り、窓を開け見ていました。 翌朝は早く起きて外に出ました。あたり一面雪景色でした。学校に行って皆んなと雪合戦ができると思いました。 朝ご飯を食べ急いで学校に行きます。もう早い子が来てました。雪をかき集めて小山を作っていたので、僕も一緒に集めるのを手伝いました。 少し集まると今度は雪ダルマの作成です。そして雪ダルマの前を雪で囲いました。又違うグループも反対側に同じような雪ダルマの前に囲いが出来ていました。 さあ!これから両方に別れて雪合戦です。雪を丸めて弾を作り相手に投げつけました。 すると授業の始まる鐘の音がキンコンカンコンと鳴り、途中ですが教室に入らなからばなりません。残念! 次は休み時間にと思い教室に戻りました。しかし気になって窓から外ばかり見ていたら、先生に注意されてしたいました。終。
1989年生まれ

かまくらの思い出

ひえんさん 山形県 1989年生まれ 女性 私の住んでいる地域は豪雪地帯で、家の回りには背丈を越えるほどの雪が積もっていました。 小学生の頃、父の提案でかまくらを作ることに。作り方は簡単で、固めた雪に穴をあけるだけです。私と弟はさっそく雪山に登り、足で雪を踏み固めていきました。穴を掘るのは父の仕事。 今では考えられませんが、当時は雪がしっかり固まってさえいれば上に登って遊んでいても怒られなかったのです。 雪は柔らかい部分と固い部分があって、弟は時々柔らかい部分にはまって動けなくなってしまうので、ドキドキしながらの作業でした。 穴を掘るのも結構な重労働です。朝から始めて、完成したのは夕方だったように思います。父は凝り性で、ただ雪山に穴をあけるだけでなく、雪でテーブルと椅子、ランタンを置くための小さな棚まで作っていました。 「雪で作ったのだから寒いはず」と思っていたのに、かまくらの中は暖かくて驚いたことを覚えています。 その日の夕食はかまくらの中で焼肉。当然、その熱で雪が溶けて頭にポタポタと降ってくるのですが、それすらも家族の楽しい思い出になりました。
1983年生まれ

雪合戦で流血の思い出

しもやけさん 広島県 1983年生まれ 女性 雪が積もった日、校庭で急遽雪合戦をすることになりました、クラス半々に分かれてみんな必死な形相で雪玉を投げます。 雪玉はけっこう固く、イヤーマフをしたりニット帽をかぶっていい学校ではなかったので、頭や耳に当たると痛くてたまりませんでした。 でも一生懸命に雪玉を作る係に徹したり代わって投げに投げまくったりすると、寒さはどこかへ行ってしまいます。吐く息は白いのに背中は汗でびちゃびちゃという感じです。 一通り楽しんだ後、教室へ戻るように先生から指示があり下駄箱へ向かっていました。男子数人はまだ後ろの方で投げ合っています。 そして「あっ!!」という声が聞こえて振り向くと遊んでいた男子が投げた雪玉が私の顔にクリーンヒットしました。私の感覚では鼻に当たったと思って思わず鼻を手で覆いましたが、流血しているのは口からでした。 友達がトイレに連れて行ってくれ、鏡を見ると上唇と歯茎から血が出ていて前歯が真っ赤に染まっています。今でも傷跡が残っていて、楽しい思い出は痛い思い出と共に刻まれました。
1986年生まれ

一番乗りで積もった雪に足跡を付ける地味な遊び

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 あまり雪の降らない地域だったので、小学生の頃と言ったら少し雪が積もっただけでも大騒ぎな状態でした。 これは遊びのうちに分類されないかも知れませんが、真っ白な新雪に誰が最初に足跡を付けることができるのかという、謎の暗黙のルールのゲームみたいなものがありました。 まだ誰も足跡を付けていない場所に一番最初に足跡を付けるのは気持ちが良いものです。 登校中の道もそうですが、学校の敷地内でも同じです。休み時間などにまだ誰の足跡が付いていない所を狙っては、自分が足跡を付けるのは凄く快感です。 小学生の頃にやっていたことではありますが、実は大人になった今でもたまに雪が積もった時に、一番乗りで足跡を付けたいという気持ちが強くなります。一人で足跡を付けて喜んでしまっている自分がいます。 いい歳をしてちょっと恥ずかしいですが、子供の頃の地味だけど楽しい、雪が積もった時の遊びが忘れられないからだと思います。
1956年生まれ

スリル満点の雪遊び

yuumi0108 福井県 1956年生まれ 男性 片田舎の雪深い地域に生まれ育った私は,6年生にもなれば屋根の雪下ろしをしなければなりません。ある雪深い日に一人で屋根の雪下ろしをしていました。 雨と違って家の中が汚れたり濡れたりすることがありません。部屋から屋根に出るときも、終わって部屋に戻るときもウォークインスルーです。 ところがその日は天気も良く、降ろした雪が高く積もっていたので屋根から跳び下りることにしました。ちょっとした悪ガキの思い立った雪遊びです。 「えい!」と見事跳び下りることができました。膝辺りまで沈みました。子どもの考えることです。一つ成功すると、次はより高い屋根からと思います。思い立ったか吉日。直ぐにもう一つ高い屋根に上って跳び下りようとしました。 ところが予想していたよりも屋根が高く足がすくみました。なかなか跳び下りることができません。しかし、意を決してとうとう跳び下りました。降りてしまうとあの怖さは何のその。直ぐに有頂天になりました。 ところが事件です。高くなった分、胸の辺りまで沈み、体が抜けなくなってしまったのです。もがきにもがいて長靴を残したまま何とか脱出す...つづき
1968年生まれ

ミニスキーの思い出

バームクーヘンさん 北海道 1968年生まれ 女性 小学校2年生の夏に北海道の両親の故郷に引っ越しをすることになりました。横浜生まれの私にとっては、この北海道の小さな町で過ごした半年間は、かけがえのない思い出です。 特に冬になると、今までに見たことのないような雪が毎日降り続けました。母が、ミニスキーというものを買ってくれました。それは、長靴に装着するプラスチック製の短い板です。 スキーと違って、ストックなどは必要ありません。道の両側には、除雪車によって大きな雪の山が出来ていました。私は、ミニスキーを長靴に付けると、その山を登って何度も滑りました。雪の山を滑る楽しさに、私は虜になってしましました。 学校から帰ると毎日、毎日ミニスキーで遊びました。私が住んでいた家は、日本海に面していたので、強風と恐ろしいほどの波を見ながらミニスキーで遊び続けました。 ある時、子供の私は何を思ったのか、家の屋根からミニスキーを滑ってみたくなり、自分でも登れる場所を見つけて滑りました。 するとその家を借りていた大家のおばさんが慌てて、外に飛び出してきて、こっぴどく怒られてしましました。普段は優しいおばさんが、...つづき
1986年生まれ

珍しく雪が積もった日に 祖父が作った小さいかまくら

桜と雪さん 福島県 1986年生まれ 女性 私の住んでいる地域は福島県ですが雪があまり降らない地域でした。私は寒いのが苦手だったのですが、雪が降るとちょっと嬉しいという気持ちもありました。 珍しく雪が積もったその日は休みでした。祖父の家に遊びに行き、祖父が小さめではありますがかまくらを作ってくれました。 私と妹がやっとギリギリ入ることのできるくらいの小さいサイズのかまくら。テレビでかまくらを見て、凄く憧れていたので、実際に入ることができたことが嬉しかったです。 かまくらが作れるくらい雪が積もったのはあの日くらい。一度切りではありましたがいい思い出になりました。探せばその時の写真がどこかにあるかも知れません。
1973年生まれ

初めて作った かまくらの思い出

ぱぴこさん 徳島県 1973年生まれ 女性 私が子供のころは雪が数cm積もることがよくありました。学校のある日は雪道を友達と雪で遊びながら集団登校したり、休み時間は校庭で雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりしました。 ある時とてもたくさんの雪が積もりました。その日は学校が休みだったので姉と自宅の庭で雪だるまを作っていると「かまくらを作ってみよう」と姉が言い出しました。 かまくらなんてテレビで見たことがあるだけで、作り方もわかりません。父に教えてもらいながら、雪をかき集め半日以上かかって何とか小さいながらも完成しました。 小さいので1人ずつしか入れない大きさでしたが、初めて入るかまくらの中は雪の中なのに暖かく、不思議な感じがしたのを覚えています。手袋が冷たくなっていることも忘れて、その日は姉とかまくらでたくさん遊びました。 人生の中でかまくらを作ったのはこの1回だけでしたが忘れられない楽しかった思い出として残っています。
1967年生まれ

滅多に降らない雪で遊ぶのは最高の喜び

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 大阪に住んでいますから、降る雪を見ることはなかなかできません。雪が降ったとしても、積もることは滅多にないです。 ある日のこと、朝起きると母親がこう言いました。「庭を見てごらん、雪が積もってるよ」。 「えっ」と言い私は庭の方へ行き、戸を開けました。すると雪が積もっていて、「雪だるまが作れる」とその瞬間に思いました。外に出て、兄弟とともに雪だるまを作り始めました。 雪だるまは雪の量が多くないと、大きな雪だるまは作れません。道路にある雪は泥で汚く、きれいな白いままの雪だるまはとても難しい状況です。きれいな雪をかき集め、夢中で作り上げました。 目とか口はないものの雪だるまが完成しました。それが終わると兄弟で雪合戦です。道路の雪を丸めて兄や弟にぶつけるのです。この遊びは面白く、きゃきゃーと大きな声で雪をぶつけ合いました。 走り回りながら雪を手で丸めて投げる。投げては逃げ、また雪の球を作り投げ合いました。みんな息がハアハアを大きな呼吸をして、顔は喜びで満ち溢れ愉快な一日でした。
1989年生まれ

裏庭でソリ遊び

りんさん 山梨県 1989年生まれ 女性 私は小学生のころ、都市部から山梨県へ引っ越しました。それまでは、せいぜい雪が降っても少ない雪をかき集めて小さい雪だるまを作るくらいでした。 しかし引越し先は雪も積もるし庭もある!ということで簡単なソリを買ってもらい、妹と積もった雪に傾斜をつけて滑って遊んでいました。 最初は長靴を履いているのですが、そのうち中に雪が入ってびしょびしょになると、最終的には裸足にサンダルです。当然寒いので、しっかりスキーウェアは着ています。 さすが子供というのか、足の冷たさよりも楽しさの方が上回っていたのだと思います。当時の写真をたまに家族で見るたびに、格好は重装備なのに裸足というギャップに笑われます。 積もった雪にみかんを埋めて、冷凍みかんも作りました。しかしいくつ埋めたのか忘れてしまい。雪が溶けた頃にブヨブヨになったみかんが出てきて思い出す。なんていうこともありました。 一度大雪が降ると通学は大変で苦労しましたが、今ではできない体験もしていたなと思います。
1989年生まれ

おばあちゃんの家での雪遊び

mqqsさん 山形県 1989年生まれ 女性 私は東北の出身で、祖母の家は山形にありました。長期休みは母の運転する車に乗り、よく遊びに行っていました。 冬になると膝までかかるくらいの雪が毎年積もり、私を含め兄弟は祖母の家で遊ぶことが何よりの楽しみでした。柔らかくしっかりした雪は雪だるまやかまくらを作るのに最適です。 雪国には大きなシャベルやスコップは常備されているので土台は簡単に作れます。家の周りや庭の雪をかき集め、兄弟と完成させました。 雪だるまには庭の赤い木の実を目にして、駐車場の石を口にしました。 かまくらは穴をあけるのが難しいので祖母にお願いし、子ども一人入れるくらいのものを作るのがやっとでした。 東北ではなかなか雪が溶けないので、作った雪だるまやかまくらは数日残ります。 誰が一番大きなつららを取れるか、大きな雪玉を作った人の勝ち、など遊びは尽きませんでした。 とにかく楽しくてあっという間に時間が過ぎましたそ、疲れも感じませんでした。東北ならではの雪の楽しみ方だと思います。
1978年生まれ

雪の風雲たけし城遊びの思い出

らむらむさん 東京都 1978年生まれ 男性 子供の頃にテレビ放映されていた「風雲たけし城」が学校でも大人気。よく友達と公園で遊んでいました。 ある冬に何十年ぶりかの大雪が降り、普段の景色とは全く違う一面の雪景色になりました。私も含めて全員で喜び、学校の休み時間には雪合戦などをして楽しみました。 その時、友達の1人が「この雪を使って風雲たけし城しようぜ!」と発言し、放課後にいつもの公園で遊ぶことになりました。 普段は障害物などはボールや縄跳びを使って挑戦者がゴールに到着しないよう障害物を設けていましたが、この日は全て雪を使って整えることができました。 雪のボールをたくさん作ったり、雪山を全員で3つほど作り上げるなど、いつもと違う準備に気持ちはワクワクしました。 そして風雲たけし城遊びをスタートしました。挑戦者に向けて、私を含め城を守る側は雪ボールを投げつけたりします。雪山に登る挑戦者には、登り切らないよう雪山を崩したりして阻止します。 こんな感じで全員雪まみれになり、靴下なども濡れてしまいましたが、普段は体験できない遊びに全員が笑顔だったことを今でも記憶しております。
1983年生まれ

雪ウサギの思い出

かつおぶしさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、珍しく雪が積もった日がありました。こういう日はなぜか早く目が覚めてしまいます。 家の前に積もった雪で早速雪だるまを作り、枝を手に見立ててミカンを目にしました。ニット帽をかぶせてできあがり。すると妙に愛情が湧いてくるので不思議です。こんな雪だるまを作り続けた結果、家の前の綺麗な雪がなくなってしまいました。 少ない雪で他に何か作れないかと思っていると母が「雪ウサギが作れるよ」と教えてくれました。雪ウサギは南天の赤い実を目にして葉を耳に見立てます。雪だるま以外のものを作ったのは初めてで、想像以上にかわいく作れたので嬉しくなってしまいました。 学校へ行き、友達にこの事を話すとやってみたいと言ってくれ、放課後作ることに。しかし南天の実がありません。小石や葉をちぎって目にしてみましたがあまり可愛くならず。私は一旦帰って庭の南天の実を取りまた学校へ走りました。 行き帰りで30分全速力。日頃、何かに熱中することはありませんがこういう情熱は持っているのです。無事に可愛い雪ウサギが作れて満足した私たちでした。
1992年生まれ

かまくらの思い出

ぽんさん 神奈川県 1992年生まれ 女性 私が小学校低学年の頃、関東で積雪するほどの雪がふり、翌日には一面雪景色となった年がありました。私は集合住宅に住んでおり、家の前や駐輪場、駐車場の前に雪が積もっていてワクワクしたのを覚えています。 雪用の手袋と上着を装備して、住宅の前に出てみると、同じ年ぐらいの姉弟が既に遊んでいました。いま、かまくらをつくっているの!とその子達の父親と一緒にレンガのようなブロックを積み上げてかまくらの土台を作っていました。 私と姉は一緒に作っていい?とすぐに混ざり、一緒にかまくらブロック作りを始めました。そのうちに違う姉弟もやってきて 6、7人でかまくらを作り始めました。段々と子どもたちが飽きてきた頃になると父親たちが一生懸命完成まで作ってくれたのを覚えています。 その日から雪が溶けるまで、住宅内に作ったかまくらに入ってみんなで遊びました。中々雪が積もらない関東での出来事なので思い出に残っている事のひとつです。
1978年生まれ

「貴重な雪」での雪遊びの思い出

もももさん 大阪府 1978年生まれ 女性 私の住んでいた大阪は、雪がほとんど積もりません。最近は全くと言ってよいほど積もることはありませんが、それでも幼少期は年に1、2度うっすら積もることもありました。 たまに積もった雪は、子どもたちのテンションを高くします。溶けにくい車のボンネットなどに薄くつもった雪を手寧にかき集めて、小さな雪だるまを作るのがお決まりです。 子どもの手のひらで握っても小さいと感じるくらいの小さい雪だるまが出来ます。同じようなことをして、玄関前に小さな小さな雪だるまを飾っている家を見ると自分の作品と比べてみたりしたものです。 雪合戦などの経験はほとんどありません。テレビで雪合戦やかまくら等の映像を見るとあこがれたものです。 男の子たちは、雪らチラつき始めると、口を開けて上を向いて走っていました。よくわからない遊びでしたが、雪の冷たさを口の中で感じながら、あれはあれで楽しそうでした。 運動場にうっすら積もった白い雪を一番に踏みたくて、休み時間になると我先に・・・と外へ走って出たことも懐かしい思い出です。
1987年生まれ

初めての雪遊びの思い出

しゅりさん 愛知県 1987年生まれ 女性 幼稚園の頃に初めて雪遊びをしました。私が住んでいる地域は、冬でも殆ど雪が降らず。振っても少し舞う程度でしたが、その年は数センチ積もりました。 地面で雪が真っ白になったのを見たのは初めて。寒さも忘れてずっと外で足跡をつけて遊んだり、雪だるまを作ったりしました。 親に霜柱の存在も教えてもらい。踏むとサクサクと音がして、子供心にすごく不思議でワクワクしてずっと踏み続けていました。今は、アスファルトの場所がほとんどなので霜柱を見る機会もほとんどなくなってしまったので、とても貴重な思い出になっています。 近所の友達と集まって雪合戦もしました。雪合戦をしたのも初めてで、親が呼びに来るまで夢中になって遊んでいました。 もともと雪が少ない地域で、思いっきり遊ぶ場所も少なくなっているので、雪遊びをした思い出は私にとって本当に大切なものです。この先もずっと忘れずに心にしまっておきたいと思います。
1981年生まれ

思う存分楽しんだ雪遊び 3種類

つららさん 長野県 1981年生まれ 女性 私の故郷は日本で有数の豪雪地帯でした。小さい頃はまだ融雪や除雪の設備が整っていなかったので、街中、自分の背丈よりはるかに高く雪が積もっていました。2階から家の中に入った記憶もあります。 幼少期にした雪遊びの思い出は何点かあります。 1つ目は学校帰りに自分の基地を作ったことです。空き地に積もった雪へ後ろ向きにバタンと倒れます。手で穴を掘ります。友達数人と自分のオリジナルの穴を作って基地にします。家に帰ってはまた戻り、そこでおやつを食べるのが楽しみでした。みかんを凍らして食べたのが美味しかったです。 2つ目は屋根からの雪を利用した滑り台。自然と落雪で雪が積もるので、そこを滑り台のようにしてソリで滑ります。工場などの屋根の下は多くの雪が積もるので長い滑り台ができます。 3つ目は、屋根に長いつららができていたので、氷柱に雪玉を当てると言うゲームです。みんなでやっていました。 寒かったはずですが寒さは覚えてないのが不思議です。
1975年生まれ

めったにできない雪合戦の思い出

さよりさん 小学校の校庭 1975年生まれ 女性 私の実家は南国というイメージのあるところなので、めったに雪は降りません。しかし私が小学校1年生のある朝、今日はやけに空気が冷たいなあと思いカーテンをあけると庭一面の銀世界! 今まで見たことがないくらい雪が積もっていて、朝から姉と二人で外に出て雪だるまを作りました。 学校に行かなくてはいけないギリギリまで遊び登校。天気予報では午後から日差しが出るので、家に帰るころにはこの雪もなくなってしまうんだな、さみしいな、と思いながら登校しました。 そして学校に着いて1時間目の授業が始まるときに先生が「今日はめずらしく雪が積もっているので校庭で雪合戦をしましょう!」と提案がありました。 クラスのみんなはうれしくてうれしくて大喝采。もちろん私もクラスメイトと雪合戦ができることにワクワクしました。 2チームにわかれて生まれて初めての本格的な雪合戦。指先がじんじんしながらふわふわの雪を固める感触や、頬に冷たい風と氷の粒が当たり背筋がぶるぶるっとなる感覚。 そしてキラキラしたクラスメイトの笑顔と歓声。今でもしっかり私の心の中に存在しています。
1980年生まれ

変則ルールの雪合戦

カメットさん 山形県 1980年生まれ 男性 雪遊びの定番といえば雪合戦。皆でワイワイと楽しんだ人もいるでしょう。私が小学生の頃、変な雪合戦が流行り、ちょっとした恐怖とスリルを味わいました。 その内容はシンプル。雪玉十個の内の一個に氷の欠片などを入れる、と言うもの(良い子は真似しないでね)。ただの雪玉よりよく飛び、何より当たった人は「痛え!氷入りだ!」などと騒ぐと皆それだけで笑い転げたものでした。 しかし、皆段々とエスカレートして「十個に一個」というルールが破られ、殆どが氷入りの雪玉になり、時には氷をそのまま投げる者まで現れました。流石に不味いと思った者もいて、学校の先生に相談したようです。 全校集会の最後に校長先生が「雪合戦の雪玉に氷を使わない様に」と付け加えました。このスピーチは仲間の間で長く語り継がれる事となりました。
1970年生まれ

小学校からの帰り道に「何かを探しながら帰る」遊び

みふぁさん 神奈川県 1970年生まれ 女性 小学校までは子どもの足でも歩きで10分程の、今考えればさほど遠くない距離でしたが、帰り道では住まいが近所のお友達と、即席の遊びをしながら帰りました。 その中でも、すぐできて競争の要素があり、ワクワクしながら遊んでいたのが、「何かを探しながら帰る」ことです。 今では探せないものとしては、道に落ちている缶飲料のプルタブです。昔は缶ジュースなどを開けるとプルタブは、缶からはずれるものが主流でしたから、道端にポイ捨てされてることが多々ありました。 それを帰り道でたくさん見つけた方が勝ちという、いたってシンプルな遊びをやっていました。ゴミ拾いのつもりではやっていませんでしたが、今思えば公道の掃除にもなっていました。 あの頃は目をさらのようにして、落ちているプルタブを探し、お友達とほぼ同時に見つけると、ワー!と歓声を上げながら拾いに走ったりしていました。 探すものはプルタブでないこともあり、何という名称かわかりませんが、道路の端に埋められている、ボルトのようなもので、上部に安全のためにゴム製か何かの丸いカバーがかけられているものがありました。 このカバ...つづき
1990年生まれ

スリリングな登下校通学路 ランドセルへのイタズラ遊び

レノレノさん 広島県 1990年生まれ 女性 一緒に帰っている同級生の背後へこっそり忍び寄り、ランドセルの底面へそっと手を伸ばす。気付かれないようにかぶせの留め具を回し、ランドセルの中身が見える位置までかぶせを上へ跳ね上げさせることができれば、成功。 いかに相手に悟られずににランドセルを開けることができるか。そのスリルが癖になり、小学校の登下校時は仲間内で駆け引きを楽しんでいました。 この遊びを考案したのは私。当時見ていたアニメやゲームの影響で、スパイや裏組織のような存在に憧れを持っていました。 表立った活動はせず、気配を消して活躍するような存在。自分もそういう人間になりたいと思い、足音を消して歩く練習をしていたこともあります。 その延長で友人のランドセルの留め具を狙い始め、すっかりハマってしまったという訳です。 しばらく経つと、いつの間にか私達以外のグループにもこの遊びは広まっていきました。ランドセルを開けられないようにみんなが後ろ手に留め具を抑えながら歩く、何とも奇妙な通学路の光景。少なからず考案者として責任を感じたものです。 今ではランドセルも進化や多様化が進んで留め具の位置が違...つづき
1994年生まれ

お人形の家作り遊びの思い出

瑠璃さん 北海道 1994年生まれ 女性 その遊びを始めたのは小学生時代です。私は学校の成績は悪くない上にしっかりと宿題も提出する児童でした。 今となっては恥ずべきことでもないのですがゲームが好きで、しょっちゅう親との約束の時間を破ってゲームをし続ける悪癖がありました。 そして親によってゲーム禁止を言い渡され携帯ゲーム機は隠されました。当然親に怒りと憎悪を抱き、ゲームが出来ない悲しみと辛さを味わいました。 そんなある日、私の目に小学校に入学する前から集めていたミニチュア家具や、友人の母が作ったカラフルに彩られた小さな箱が目に入りました。私は何の気無しにそれらを使って、組み立てて、小さな家のようなものを作りました。 それから私はもっと大きな家を作ろうと、他にも使えそうな物はないかと探してみたり、友達が遊びに来た時に説明して、もっと大きな家を作る知恵を集めて大きな家を作ることに成功しました。 ゲームが手元に戻り、禁止が解除されてからも、私はゲーム禁止中に出会った家作り遊びを気に入ってしまい。やがて母にすごいと褒められるようになりました。 今でもその記憶は残っています。何処に何を置くかを考え...つづき
1964年生まれ

名前から節をつけて歌を作る 言葉遊び

よっちさん 鹿児島県 1964年生まれ 女性 あれはいくつの時だろう。小学校の高学年ぐらいだったでしょうか。ひとつの言葉遊びなんですが、 友達の名前の頭をとって、例えば山田さんなら、「山田さん、やがつく、やんやのやんすけ。焼いて焼かれて焼き殺された」というふうに節をつけて歌うんです。 このように意味が通じれば「やったー。意味が通じたー」と喜ぶ、というなんともいえない遊びをしてました。 そこに全く悪意はありません。山田さんも意味が成立して喜んでいます。やったー。てなもんです。ちゃんと成立させるのは難しいんです。山田さんは残酷だけど成功(!)。 あと、樋口さんも「轢いてひかれてひき殺された」で成功です。樋口さんもご満悦です。 私は「よ」で始まる苗字なので「よいてよかれてよき殺された」で不成立です。残念でした。 佐々木さんは「裂いて裂かれて裂き殺された」で大成功。 そうやって同級生の名前を片っ端から試して一喜一憂していました。残酷な殺され方をしても本人はご満悦、というだいぶ変わった遊びでした。言葉に興味をもつ年頃だったのでしょうか。
2004年生まれ

昔の思い出 ブランコのボール当て

くうきさん 山形県 2004年生まれ 男性 私が小学生の頃ブランコに乗る人と、ボールを投げる人に分かれて、ボールを当てられたら投げ手と交代する遊びをやっていました。 これをやり始めたのは小学4年生のころ、友達がいきなり「なぁなぁ、新しい遊び思い浮かんだけどみんなでやろうぜ!」と言い始めたことから始まりました。 最初にやった時は足でサッカーボールを蹴ってやる遊びでした。 しかし、蹴ったボールをうまくコントロールができず変なところに行ったり、怪我をしかけたりする人が出たことから、近所の人に学校へ報告されてみんなで怒られました。 結果、先ほども言った通り「手で投げて体のどこかに当てれば交代」みたいなルールになり、危険な要素が少し薄れながら面白い遊びが生まれました。 手投げのボールを交わすためにブランコで回って回避する、派生型の遊びも生まれました。
1990年生まれ

オリジナルカセットテープづくりの思い出

エスジーさん 埼玉県 1990年生まれ 男性 私が小学生の時は音楽を録音するものはまだカセットテープが使われていた時代でした。MDはすでに存在していましたが、MDコンポが必要で、カセットの方が身近だったと思います。 友達とカセットテープの録音にハマり、レンタルしたCDや買ってもらった音楽を入れて交換したりしていました。 カセットはスイッチ1個で録音できるのも特徴で、まるでDJのように何度も歌のフレーズを繰り返して録音したり、曲と曲の間を強引につなげたりと遊んでいました。 それとよく覚えてはいませんが、マイクを利用して自分の声を入れたりもしていました。 カセットは録音中に振動を受けると、微妙に音飛びしてしまいましたが、子どもだった私たちはむしろその変化を楽しんで、わざと入れていた気がします。 そうして1つのカセットテープでお互いに録音しあい、オリジナルのカセットテープを作りました。何度も重ねて録音したので状態も悪かったのですが、自分たちで作った満足感がすごかったです。 編集したり、構成を考えたり、小学生のレベルではありながらも、大きな経験になった遊びだと思います。
1983年生まれ

石を積み上げるゲームで人生の厳しさを知った

モモンガさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、川沿いに行って意味もなく石を重ねる遊びをしていました。30秒で積めるだけ積んで高い方が勝ちというものです。 なるべく平たく面積がある石が好ましいので、探すのにけっこう時間がかかります。 考えなく積むと結局バラバラと崩れてしまうのでタイムオーバーになり負けます。時間をかけてでも積みやすくバランスがとれる石を探し求めウロウロするのです。 ある日この遊びをしていたところ、運よくちょうど良さそうな石がたくさん見つかりました。せっせと積み上げ、もうこのくらいで勝てるだろうという高さまで積み上げる事ができました。 対戦の友達はまだ石を探しています。その様子を見て勝ちを確信した私は30秒経つのを静かに待っていました。するとバランスが崩れたのか、一番上の石がコロンと落ちました。そこでタイムアップ。 そしてさっきまで石を探していた友達が、土壇場で石を上手く積み上げていて勝ちました。この時、何事も最後まで気を抜いてはいけないのだという事を学んだ私でした。
1983年生まれ

マイクはネギ坊主

しーさーさん 広島県 1983年生まれ 女性 名前のない遊びとして、ネギ坊主をマイク代わりにしてカラオケ大会をする遊びをしていました。ネギ坊主とはネギの先端がフサフサしているところです。 家の周りの畑でネギを育てているおばさんがひょいっとネギ坊主をくれたのがきっかけで、マイク代わりに歌うようになったのです。 近所の子と3人で家の花壇に立って歌うのがお決まりでした。 即興でその時の気持ちを謳うのが面白く、「きょうの~ばんごはん~ステーキだったのらぁいいのにぃ~」という個人的希望を歌にしたり「さんすうー、りかしゃかいー全部きらいー」という今後の成長が心配されるような歌などを大声で歌っていました。 友達が笑ってくれるので、だんだんと気持ちよくなって、みんなでハモリにも挑戦。テレビの音楽番組で見たハモリでしたが上手くできず、そのできないことをまた歌うのです。 日に日にネギ坊主はしおれていきますが、それでもカラオケ大会は続けられました。大人になった今でもネギ坊主を見るとあの頃を思い出します。
1957年生まれ

牛乳ビンと一升瓶のフタのメンコ遊び

サンダーバード2号さん 東京都 1957年生まれ 男性 今では恐らく想像もつかない遊びだと思います。牛乳ビンと言っても、もう、あまりピンと来ないかもしれません。 当時、殆どの家で新聞などと同様に毎朝牛乳を家に配達してもらっていました。今のような紙パックではなくガラス製の牛乳ビンでの配達でした。その牛乳ビンのフタを使っての遊びに夢中になっていました。 正確なルールは忘れましたが、手のひらを使ってメンコのようにひっくり返すことで取ったり取られたりを競うもので、珍しい柄のフタだと争って奪いあうといったことで勝負遊びをしていました。 それは後に、日本酒の一升瓶のフタにとって代わって、やはり、取ったり取られたりの勝負遊びに変化していきました。 これもまた、珍しくあまり見た事のない種類のフタを集めることに躍起になっていました。 良く考えると、人間の本来持っているであろう本能のような収集癖と賭け事への執着が、子供の世界にもそれなりにあって、そこで、大袈裟な言い方をすれば、知らず知らずのうちに小さな人生経験を積んでいる、貴重な時期であったと思います。
1973年生まれ

花の遊びの思い出

きょうこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 公園で咲いている花を使って遊んでいました。 白い花がたくさん咲いていて、1つずつ千切って繋げていきます。茎の部分を絡ませて繋げます。そうして長めに花を繋げたら輪っかにします。花の輪を頭に乗っけて出来上がり。とてもかわいく仕上がります。 白い小さなボンボリみたいな花が輪になり、花を繋げるのに時間がかかるので、出来上がったときは喜びが増します。 近所の子供とよく花輪を作って遊んでいました。器用でないと出来ませんが、1回できるとかわいいので再び作ろうと思います。 この遊びは結構したことがあると思う遊びです。今でも花を見ると花輪のことを時々思い出すくらいかわいい花輪でした。
1983年生まれ

出演者多めのぬいぐるみごっこ

四つ葉さん 広島県 1983年生まれ 女性 同じクラスの友達とぬいぐるみごっこをして遊んでいました。家にある大量のぬいぐるみでそれぞれ家族を作り好きな役を演じます。 私は3人家族の中の長女役で、友達は5人家族の中の3女役。ちなみに長女と3女は同級生です。 ぬいぐるみにも配役をして声色を変えながら、それぞれアテレコをするので忙しい遊びです。 このぬいぐるみごっこは部屋の中でせずに、玄関先にピクニックシートを2枚敷いて家に見立てて遊ぶのがお決まりでした。 母親役のぬいぐるみに「あら、奥さんこんにちは。明日は参観日ね。着る服なくてやになっちゃう」 「いーのよ、適当で。私なんかいつもの服よぉ。そういえば明日雨らしいわよ。傘を差して行くの面倒くさいわねぇ」と けっこうリアルな切り口から始まり、ある時には兄妹、ある時は父親、必要に応じて祖父母も登場してシビアな展開にもなります。 でも面白いのはすべてその場で喋るのですが、最後には必ずハッピーエンドで終わること。今考えると子どもながらに笑って終わりたいという希望があったのかなと思います。
2003年生まれ

友達のおうちで 男装女装ごっこ

あおさん オーストラリア 2003年生まれ 女性 小学4年生の頃友達のおうちでよく遊んでいました。その日は女の子は男装して、男の子は女装してファッションショーのようなものをする男装女装ごっこをしていました。 今思うとこれだけでもとても謎です。 女の子のおうちだったので男の子はその子の服を借りていました。私はその子のお家にある男の子っぽい服装をしました。 もう1人の女の子はカウボーイの格好をしていました。その子が最初に登場して格好いいって言う歓声が上がりました。 私は普段から男の子っぽい格好を良くしていたので特に変化はなく、いつも通りじゃんと言われた記憶があります。せっかくならもっと変化のある格好がしたかったと思いました。 男の子達はスカートとかワンピースとかを着て、ランウェイという名の廊下を歩くときも、女の子らしくちょっと恥ずかしがりながら歩いていてとても面白かったです。 1人の男の子は細身で着こなせていましたが、もう1人の男の子はスポーツをやっていてガタイが良くてパツパツになっていました。
1987年生まれ

王子様ごっこ

だいじろうさん 京都府 1987年生まれ 女性 小学校1年生のころ、「王子様ごっこ」が私のクラスの女子の中で一時期ブームになった。男子1名を王子様と勝手に設定し、その子のことを1日中「〇〇様」と呼ぶ。 もちろんその他の話し方だったり対応も、本物の王子様を扱うように行う。 何故か標的になった男子は逃げる(今思えば当たり前ですが)ので、休み時間は女子全員で王子役の子を追い掛け回す。 それが異様な光景だったのか、男子からクレームが多かったのか、親御さんから相談があったのかは分からないが、ある日終わりの会で先生が禁止令を出した。 〇〇様と呼ばない、追い掛け回さないという事を約束させられたが、子供なので急に終わることが出来ない。なので、一番人気だった1人の子だけに的を絞り、その子を完全なる王子様とした。 彼はシャイな子で、いつも恥ずかしそうにしていたが、マセた女子からしたらそれが可愛くて仕方がなかった。 しかし現実が見えてきたのか、2年生に上がる頃にはアイドルにハマる子が多く、誰も王子様ごっこをしている女の子はいなかった。 現実とは悲しいもんだなと、たまに思い出しては皆元気かなと思い出に浸ってい...つづき
1973年生まれ

看護師さんごっこの思い出

みぃこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 子供の頃、近所の子供と「看護師さんごっこ」をして遊んでいました。風邪を引いた設定。私が看護師さん役で、近所の子供が患者役です。 注射器のおもちゃを持っていたので注射をしていきます。 風邪を引いているので、注射をしましょうと言って少しづつ押しながら注射をうっていきます。これを繰り返します。少し時間が経ったり、場所を変えて公園や近所で注射をうっていきます。 患者は絶えず風邪を引いています。なかなか直らず、ずっとおもちゃの注射器で注射をする遊びをしていました。 近所の子供はいつも鼻水が出ていたので、余計に注射が必要だと思っていました。子供ながらにはやく直してあげたいと思ってした遊びです。
1973年生まれ

ドラマごっこの思い出

ゆーこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 小学生の頃に近所の子供と流行っていた遊びが「ドラマごっこ」です。その頃に流行っていたドラマで、飛行機の教官とスチュワーデスの物語で、その2人を真似して台詞を言って遊んでいました。 「お前はなんてノロマな亀なんだ」と教官が言い、スチュワーデスが「教官」と言って泣きつくシーンなどです。とてもおもしろく1日に何回も繰り返して遊んでいました。 そのドラマは毎週見ていて、子供でもわかる、わかりやすい物語でした。主人公の方も大げさに演技していたのが伝わりやすく印象が強かったので、真似をして遊んでいました。 少し独特な遊びですが、他のドラマで手袋を口で取るシーンも真似していました。主人公の手が動かない手だけマネキンのような感じで手袋をしていて、取る時に口で取るのが流行っていました。 毎週このシーンが流れるので印象に残ったので真似していました。ドラマの主人公になりきって遊んで、やりきると笑いあい、とても楽しい遊びでした。
1984年生まれ

家族ごっこで毎回立候補していた犬役の思い出

キラキラさん 東京都 1984年生まれ 女性 女の子という事もあり、小学生の頃はおままごと遊びのような「家族ごっこ」を頻繁にしていました。友達3、4人でひとつの家族を作り、お父さん役・お母さん役・子供役を決めて、一緒にご飯を食べるなどのごっこ遊びをしていました。 家族の配役を決めるにあたり、私が毎回立候補していたのが「ペットの犬役」でした。 ペット役と聞くと、喋ることも出来ないし、あまり面白味を感じない気もするのですが、当時の私は、「ワンワン」という簡単なセリフだけで他の家族役の友達から可愛がってもらえる、ペットの犬役が大好きでした。 時に、お腹が空いた・散歩に行きたいと、激しくワンワンと吠える事もありましたが、ペットという事で家族のみんなに嫌な顔もされずかまってもらる事が嬉しくて、本当にペットになったような気分を味わっていました。 お世話がしたい子はお母さん役、どしっと偉そうにしていたい子がお父さん役、駄々をこねたり兄弟げんかをしたい子が子供役などと、子供ながらに自分に合った配役についていた事が、今では可愛らしく感じます。懐かしい思い出です。
1976年生まれ

今思いだすと恥ずかしい ”貧乏ごっこ”

いちごフェアさん 神奈川県 1976年生まれ 女性 小学生のころ、小公女セーラやマッチ売りの少女、フランダースの犬、など苦労しているけれど健気に生きている物語が大好きでした。 自分もその世界にどっぷりつかりたくて、一人でおままごとをする時には”貧乏ごっこ”をして遊んでいました。 押入れの中が家という設定で、薄暗い中お人形を相手に「こんな物しかなくてごめんね」「今日もおかゆだけだよ」「お母さん、寒いよ」など生活に苦しむ母子の会話を脳内再生し楽しんでいました。 いわゆる普通の家庭をモチーフにしたおままごとではない、背徳感のある遊びだと小学生ながらに感じていたので、貧乏ごっこは基本一人で遊ぶ時の特別な設定です。 一度だけ仲の良い友人と遊んだことがありましたが、その事などすっかり忘れ。大人になってからその友人と再会した時に、当時の貧乏ごっこをやった時の事を話してくれて、あの時は若干引いていた、と聞いたときには顔が熱くなるくらい恥ずかしくなりました。 貧乏ごっこのおかげか、現在は節約が大好きな主婦になっています。
1983年生まれ

アドリブ多めのお母さんごっこ

ぽてぃとさん 広島県 1983年生まれ 女性 ごっこ遊びと言えばある程度台本が決まっている”お母さんごっこ”です。主役はお母さんで次に子ども、その次にペットの役が人気でした。 不思議なのは、なぜかお父さん役は人気がないこと。男子が混ざってやる時も同様にお父さん役になりたがる人はいませんでした。 この理由として、”お父さん”というと仕事で家にいない事が多い為、お母さんごっこでは出番が極端に少ないということ。それはごっこ遊びではなく現実世界でも同じです。 近年、ようやく父親が育休を取れる環境が整いつつありますが、普及率はまだまだです。そんな感じなので私が小学生低学年の時代は、父親と触れ合った思い出がある子どもは少なかったはず。 こうしてお父さん役は人気がなく、ジャンケンで負けた人がお父さん役となります。 それでも子どもの想像力は凄くて、アドリブ力が強いお父さんや、喋りまくるお父さんを演じる子もいて、台本通りに進まないのが面白くて、よくその男の子に「お父さん役やらない?」声を掛けていたことを覚えています。
1990年生まれ

ポケモンごっこの思い出

りすこさん 群馬県 1990年生まれ 女性 小学校2年生か3年生の頃まで続いていたごっこ遊びは、「ポケモンごっこ」でした。 女の子たちはまだ「お母さんごっこ」と呼ばれている、おままごとを続けていましたが、ゲーム好きな男の子を中心に、さまざまな設定をしたポケモンごっこが流行っていました。 外で暴れられる時はポケモンバトルでした。トレーナー役とポケモン役に分かれて、ポケモン役が戦う(じゃれあう)というシンプルなものです。 放課後に我が家の大きな犬も、ガーディ役でポケモンバトルに参加して大喜びしていました。 私はいきもの係だったので、むしとり少年か博士の役です。教室の虫籠の芋虫を3匹並べて選んでもらったり。絵の上手い子に頼んで、自由帳にキャラクターの絵を描いてもらって、ポケモン図鑑を作ったりしていました。 主役の「お母さん」が取り合いになるおままごとや、「セーラームーン」が取り合いになるセーラームーンごっこと比べて、ポケモンごっこは、なりたいキャラクターがみんな違います。 勝ち負けや場面の変わるポケモンごっこは、私たちにとって長引く喧嘩が起きず、運動が苦手な子が入っても楽しめる画期的な遊びで...つづき
1990年生まれ

年下の子をみんなで守った思い出 色鬼

MAさん 東京都 1990年生まれ 女性 同学年のお友達とその妹と数人で色鬼ごっこをしていました。 鬼が指定した色のものを触るというシンプルな遊びです。通常の走り回る鬼ごっこよりも年下の子がいても遊びやすいという事でみんなで決めました。 ある子が、小さな妹さんの背が届きにくい場所や、走って行かないとたどり着けないような場所の色を指定したりと、わかりやすくその子を捕まえられるようにしていました。 あまりにも続くため、みんなで「妹を守ろう!」と団結しました。 高い部分はみんなで逃げながら妹を抱き上げ、触らせたりと可能な限りかばいながら逃げていました。 なかなか狙いの妹を捕まえることが出来ないので、鬼がずっと変わらないままです。ついに、鬼が怒り始めました。 しかし、こちらからすると弱い者いじめのように、不利な状況の子を狙っているその子の方が悪い!と完全にその場で言い合いに発展しました。 大人になった今では、私たちも謎の団結をする前に、その子に一言言えばよかったのにと思います。当時は仕返しのような事をする事が一番の正義と思っていたようです。 その場で色鬼ごっこは中断、解散となりました。 子供の...つづき
1975年生まれ

先生ごっこの思い出

さらぴさん 静岡県 1975年生まれ 女性 子どもの頃から「ごっこ遊び」が好きで、子どもなりにこだわりを持って遊んでいました。なので、真剣にロールプレイをしてくれないお友達とは、ときどき本気のケンカに発展することもありました。 あるとき先生ごっこ遊びをしていて、1人のお友達が「私が先生やりたい!」と立候補したのです。その子が普段からあまり頭のいいキャラではなかったこともあって私は反対しました。 「○○ちゃんに先生役できるの?」と今思うとあまりにも失礼なことを言ったのですが、その子は意に介せず「いいのいいの、私が先生やりたいから」と勝手に確定してしまいました。 勝手に決められたことに対して私が憤慨し、他の子たちもポカンとしてその日の遊びはお流れになってしまいました。 私は遊びも真剣にやりたい子どもだったので、いわゆる「ニワカ」な子が入ってきて台無しにされたことが許せなかったのです。 相手の子は私がなぜ怒っているかもわからなかったようで、その後普通に話しかけてきて、その日のいざこざは無かったことになりました。
1990年生まれ

お互いいじっぱりの思い出 探検ごっこ

ぼくのふゆやすみさん 山口県 1990年生まれ 男性 小学4年生の時、水曜日は学校が早く終わるので、友達の石田くんと森を探検して遊ぶのが定例でした。ただおしゃべりをしながら木の棒をもって森の中を歩いてたまに珍しい虫を見つけては捕まえたりしていました。 ある日教育テレビでよくやってた「あいうえお」という歌の「いしころいっこころころっ」という歌詞が頭に浮かんで離れなくなり、何度も口ずさんでしまっていました。 すると石田くんが怖い顔でこちらを見ていたので、何か発見したのかなと、近寄ってみると、軽くぶたれました。 石田くんは、「いしころいっこころころっ」という歌詞で自分が馬鹿にされていると思ったのでしょうね。 そこで殴り合いの喧嘩になり、その日は石田くんが走って帰ってしまいました。 次の日も学校で目も合わせてくれません。こちらも意地を張ってしまい謝りもせずそのまま日々が流れました。定例の森の探検も無くなりました。 そして小学校卒業の日になってしまい、卒業式の前にトイレでかち合いました。 自然と「あの時はごめん」といえました。すると石田くんも「ぼくもごめん。」といって仲直りすることが出来ました。...つづき
1987年生まれ

色鬼ごっこをしていた時に…

ハリーさん 静岡県 1987年生まれ 女性 確か小学校低学年以下だったと思います。当時、色鬼が流行っていて、その日も色鬼をして遊んでいました。 私はあまり鬼をしたくなかったので、一生懸命色を探して逃げ回っていました。ただ、その日、鬼になった友達の狙いは私に絞られており、執拗に狙われていました。 がんばって逃げていたのですが、あと一歩というところでタッチされてしまい、私は鬼になってしまったのです。 その時、私としてはすでに指定された色のものに触れていたつもりでした。それなのに、鬼にタッチされてしまい。次の鬼だよと言われ。悔しさでいっぱいになってしまいました。 タッチされて声を掛けられた時にそれまでずっと狙われていたことや悔しさなどから、つい私は泣いてしまったのです。 突然泣き出した私に鬼だった友達は戸惑います。 私が泣きながら怒るので、友達も怒り、喧嘩に発展。その内に他の友人たちも集まり、更には先生まで駆け寄ってきました。 興奮状態の私はもうこの時には支離滅裂な言葉を話していたように思います。 先生に宥められ、少しずつ落ち着きを取り戻して行きました。鬼だった友達も落ち着いて、最後には私に...つづき
1970年生まれ

団地で友達とラグビーゲームをしていたらケンカ

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 小学校のとき、1つ年上のあきら君と一緒によく団地の中の公園で遊んでいたことを覚えています。当時わんぱくであって当たり前の時代で、ケンカして負けて帰ってきたら怒られるような風潮でした。 私はあきら君とラグビーに近い遊びをしていました。その遊びはボールを力ずくで奪い合って自分の陣地にボールを入れる遊びです。ボールを奪うには何をしてもかまわないルールだったと思います。 私よりも一回り大きいあきら君に勝つには、力ずくでは難しいと考えて、ボールを遠くに投げ、それをとって陣地に入れることで私は点数を稼いでいました。一方あきら君は力ずく(タックル)でボールを確実に自分の陣地に入れていきます。 あたりも暗くなり、だんだんボールが見えなくなってきたなか、あきら君が私の投げようとしたボールに向かって、もともとあったプラスチックバットを振りかぶってきました。 そのプラスチックバットが思いっきり私にあたりました。私はわざと私をバットで殴ったと判断して、取っ組み合いのケンカになりました。 あきら君も負けず嫌いなタイプだったのでケンカは大きく発展してしまい。私は殴られ...つづき
1975年生まれ

ばぁちゃんお手製お手玉の思い出

まかろんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 小学生の頃、同じマンションに住んでる同級生の家に集まっては、人形遊びや、あやとりをしていましたが、お手玉もやりました。 お手玉は各々手作り感溢れるものが多く、私はばぁちゃんが作ってくれたお手玉を持参して遊びました。和柄の生地で作られたお手玉は、着物の端切れで作ってくれたもので、手触りもよく、程よい小豆の量と重さが良かったです。 いつも集まっている子の中には強者もいて、片手で2個3個とポイポイ器用にやる子がいて、私もできるようになりたいと家でもよく練習していました。 しかし、なかなか片手では難しく、2個であればなんとか3回くらいは落とさずできても、3個はできませんでした。 できる子のやり方を見ていると、器用に一定間隔である程度の高さまで1個1個が宙を舞い、色々な柄が施されたお手玉がとても綺麗に見えました。 大きさや重さなども関係しているのかもしれないと思いましたが、はばぁちゃんは「手首に力を入れ過ぎたら駄目だよ」と教えてくれて、ばぁちゃんと一緒に練習した事もありました。
1984年生まれ

学童保育で覚えた お手玉の思い出

おかずさん 岡山県生まれ 1984 男性 私は小学生の時に学童保育に通っており、そこでよくお手玉をして遊んでいました。 お手玉自体も、布切れと小豆で、糸と針で縫って作りました。2つを両手で上に投げながら回していくのは簡単ですが、3つは少し難しかったです。ただ、何度も練習をしていくうちに出来るようになりました。 時計回り、反時計回り、両方で出来ます。一般的には、前でお手玉を入れ替えていきますが、後ろでの入れ替えも頑張って練習し、できるようになりました。 学童の先生はお手玉がとても上手であり、私ができるようになったのは、学童の先生のおかげです。 4つも頑張ってみましたが、結局一度も出来ませんでした。 お手玉はお手製であるため、何度も使っていると布が破け、小豆がバラバラになってしまうこともたまにありました。故意に破いてしまう友達もいました。 飽きてくると、友達と投げ合い、野球のキャッチボールや、ドッジボールのようになってしまいました。今になってやってみましたが、全く出来ませんでした。
1978年生まれ

周りでやっている子がいなかったお手玉遊び

ういんAさん 東京都1978年生まれ 女性 幼いころに母からお手玉を教わっていました。 周囲にお手玉やおはじきを持っている子が全くおらず。いとこなども年上ばかりでマンガやゲームの話題が多く。幼稚園でも習ったことはなかったので、お手玉は専ら自分一人で手持ち無沙汰の時などにやっていました。 家になぜお手玉があったのか分かりませんが、しゃこしゃこと鳴って、手触りが好きで、よく触っていました。 座布団のような布地を使っているんだなあと思っていましたが、中身が小豆だと知ったときは幼心に大変驚いたものです。 教わったのは両手で二つのお手玉を回す、三つ回す、片手で二つのお手玉を回す、三つ回す、寄せ玉遊び(おさらい)です。 幼稚園児くらいだと両手で二つのお手玉を回すのすら大変で、出来たときは自然に顔が綻ぶのが分かりました。 幼かったので寄せ玉遊びは途中までしか出来ませんでした。曲も全ては覚えていませんが、何だかリズミカルな音が心地よく。たまにふと頭の中に流れることがあります。
1975年生まれ

♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら

きょうさん 大阪府 1975年生まれ 女性 小さいころ、お母さんがよくつぎはぎの布にあずきを入れてお手玉を何個か作ってくれました。親が簡単そうに歌を歌いながら、高く投げ上げたお手玉を、残りのお手玉で拾い上げる。 ♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら 私は大人になっても、二つのお手玉を両手で投げることが精いっぱい。 母や兄はよく、片手でお出球を投げていました。 私がやるとどうも右に、左に飛んで行ってしまって、バランスよくお手玉を投げ上げることができません。 それで落ちたお手玉は、つまんで拾い上げてまたチャレンジ。 今は、完成したお手玉を和雑貨などのお店で見ることができます。何個か購入して、動画でも見ながら歌ってお手玉をほおり投げてみたいです。
1983年生まれ

オリジナルのお手玉遊び

ソロリソロリさん 広島県 1983年生まれ 女性 私は不器用でなかなかお手玉が上達しませんでした。対して友達はすぐに2つ、さらに3つもマスター。どんどんスピードがあがります。リズムよく歌いながらお手玉を回す姿は羨ましく、目で追うだけでもクラクラするほど。 仕方なく私は早々に諦め、オリジナルお手玉遊びの開発に着手しました。ボールのように跳ねないという、お手玉のポテンシャルを活かした遊びです。 小さく切った紙に10点、中くらいの紙に5点、大きい紙に1点と描いて床に置きます。離れたところから投げて紙の上からはみ出さず乗せられたら加点。紙の他にドアノブに乗せられたら12点、トイレットペーパーの芯の上に乗ったら20点等々。あらゆるところに点数をつけ合計を競うという遊びです。 これが結構熱くなってしまい、みんな必死で点数が高いところに投げます。そしてどんどんコツを掴み、上達していきました。お手玉本来の遊びではないこの遊びはヒットし、しばらく私達のブームになったのでした。
1984年生まれ

お手玉と母親の思い出

キラキラさん 東京都 1984年生まれ 女性 小学生の頃に、自宅には母が手作りしたお手玉がいくつもありました。そのため、うちには丸いボールみたいなおもちゃが沢山あるな、とよく思っていました。 ある日、母がお手玉で遊ぼうと私を誘ってきました。私は、この丸いボールで何をして遊ぶんだろうと不思議に思いました。すると、目の前で母が2つのお手玉をくるくると手で投げて回し始めました。 私はくるくる回るお手玉の姿と、シャカシャカとした音に魅了されました。さらに母は、もう一つのお手玉を回っている2つの中に投げ入れて回し始めたのです。まるで手品を見ているかのような、とても面白いものでした。 何よりも、こんな不思議な事ができるお母さんてすごい!と、いつもと違う手品師のような母にびっくりした事を今でも覚えています。巧みな技を披露する母がとてもかっこよく見えました。 それから、何度も何度も母にお手玉のやり方を教わったのですが、私は2個を回す事が限界でした。やっぱりうちのお母さんてすごい!と、母を誇りに思った思い出です。