すべての年代 小学生の頃にした遊びの思い出

1970年生まれ

団地で友達とラグビーゲームをしていたらケンカ

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 小学校のとき、1つ年上のあきら君と一緒によく団地の中の公園で遊んでいたことを覚えています。当時わんぱくであって当たり前の時代で、ケンカして負けて帰ってきたら怒られるような風潮でした。 私はあきら君とラグビーに近い遊びをしていました。その遊びはボールを力ずくで奪い合って自分の陣地にボールを入れる遊びです。ボールを奪うには何をしてもかまわないルールだったと思います。 私よりも一回り大きいあきら君に勝つには、力ずくでは難しいと考えて、ボールを遠くに投げ、それをとって陣地に入れることで私は点数を稼いでいました。一方あきら君は力ずく(タックル)でボールを確実に自分の陣地に入れていきます。 あたりも暗くなり、だんだんボールが見えなくなってきたなか、あきら君が私の投げようとしたボールに向かって、もともとあったプラスチックバットを振りかぶってきました。 そのプラスチックバットが思いっきり私にあたりました。私はわざと私をバットで殴ったと判断して、取っ組み合いのケンカになりました。 あきら君も負けず嫌いなタイプだったのでケンカは大きく発展してしまい。私は殴られ...つづき
1975年生まれ

ばぁちゃんお手製お手玉の思い出

まかろんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 小学生の頃、同じマンションに住んでる同級生の家に集まっては、人形遊びや、あやとりをしていましたが、お手玉もやりました。 お手玉は各々手作り感溢れるものが多く、私はばぁちゃんが作ってくれたお手玉を持参して遊びました。和柄の生地で作られたお手玉は、着物の端切れで作ってくれたもので、手触りもよく、程よい小豆の量と重さが良かったです。 いつも集まっている子の中には強者もいて、片手で2個3個とポイポイ器用にやる子がいて、私もできるようになりたいと家でもよく練習していました。 しかし、なかなか片手では難しく、2個であればなんとか3回くらいは落とさずできても、3個はできませんでした。 できる子のやり方を見ていると、器用に一定間隔である程度の高さまで1個1個が宙を舞い、色々な柄が施されたお手玉がとても綺麗に見えました。 大きさや重さなども関係しているのかもしれないと思いましたが、はばぁちゃんは「手首に力を入れ過ぎたら駄目だよ」と教えてくれて、ばぁちゃんと一緒に練習した事もありました。
1984年生まれ

学童保育で覚えた お手玉の思い出

おかずさん 岡山県生まれ 1984 男性 私は小学生の時に学童保育に通っており、そこでよくお手玉をして遊んでいました。 お手玉自体も、布切れと小豆で、糸と針で縫って作りました。2つを両手で上に投げながら回していくのは簡単ですが、3つは少し難しかったです。ただ、何度も練習をしていくうちに出来るようになりました。 時計回り、反時計回り、両方で出来ます。一般的には、前でお手玉を入れ替えていきますが、後ろでの入れ替えも頑張って練習し、できるようになりました。 学童の先生はお手玉がとても上手であり、私ができるようになったのは、学童の先生のおかげです。 4つも頑張ってみましたが、結局一度も出来ませんでした。 お手玉はお手製であるため、何度も使っていると布が破け、小豆がバラバラになってしまうこともたまにありました。故意に破いてしまう友達もいました。 飽きてくると、友達と投げ合い、野球のキャッチボールや、ドッジボールのようになってしまいました。今になってやってみましたが、全く出来ませんでした。
1978年生まれ

周りでやっている子がいなかったお手玉遊び

ういんAさん 東京都1978年生まれ 女性 幼いころに母からお手玉を教わっていました。 周囲にお手玉やおはじきを持っている子が全くおらず。いとこなども年上ばかりでマンガやゲームの話題が多く。幼稚園でも習ったことはなかったので、お手玉は専ら自分一人で手持ち無沙汰の時などにやっていました。 家になぜお手玉があったのか分かりませんが、しゃこしゃこと鳴って、手触りが好きで、よく触っていました。 座布団のような布地を使っているんだなあと思っていましたが、中身が小豆だと知ったときは幼心に大変驚いたものです。 教わったのは両手で二つのお手玉を回す、三つ回す、片手で二つのお手玉を回す、三つ回す、寄せ玉遊び(おさらい)です。 幼稚園児くらいだと両手で二つのお手玉を回すのすら大変で、出来たときは自然に顔が綻ぶのが分かりました。 幼かったので寄せ玉遊びは途中までしか出来ませんでした。曲も全ては覚えていませんが、何だかリズミカルな音が心地よく。たまにふと頭の中に流れることがあります。
1975年生まれ

♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら

きょうさん 大阪府 1975年生まれ 女性 小さいころ、お母さんがよくつぎはぎの布にあずきを入れてお手玉を何個か作ってくれました。親が簡単そうに歌を歌いながら、高く投げ上げたお手玉を、残りのお手玉で拾い上げる。 ♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら 私は大人になっても、二つのお手玉を両手で投げることが精いっぱい。 母や兄はよく、片手でお出球を投げていました。 私がやるとどうも右に、左に飛んで行ってしまって、バランスよくお手玉を投げ上げることができません。 それで落ちたお手玉は、つまんで拾い上げてまたチャレンジ。 今は、完成したお手玉を和雑貨などのお店で見ることができます。何個か購入して、動画でも見ながら歌ってお手玉をほおり投げてみたいです。
1983年生まれ

オリジナルのお手玉遊び

ソロリソロリさん 広島県 1983年生まれ 女性 私は不器用でなかなかお手玉が上達しませんでした。対して友達はすぐに2つ、さらに3つもマスター。どんどんスピードがあがります。リズムよく歌いながらお手玉を回す姿は羨ましく、目で追うだけでもクラクラするほど。 仕方なく私は早々に諦め、オリジナルお手玉遊びの開発に着手しました。ボールのように跳ねないという、お手玉のポテンシャルを活かした遊びです。 小さく切った紙に10点、中くらいの紙に5点、大きい紙に1点と描いて床に置きます。離れたところから投げて紙の上からはみ出さず乗せられたら加点。紙の他にドアノブに乗せられたら12点、トイレットペーパーの芯の上に乗ったら20点等々。あらゆるところに点数をつけ合計を競うという遊びです。 これが結構熱くなってしまい、みんな必死で点数が高いところに投げます。そしてどんどんコツを掴み、上達していきました。お手玉本来の遊びではないこの遊びはヒットし、しばらく私達のブームになったのでした。
1984年生まれ

お手玉と母親の思い出

キラキラさん 東京都 1984年生まれ 女性 小学生の頃に、自宅には母が手作りしたお手玉がいくつもありました。そのため、うちには丸いボールみたいなおもちゃが沢山あるな、とよく思っていました。 ある日、母がお手玉で遊ぼうと私を誘ってきました。私は、この丸いボールで何をして遊ぶんだろうと不思議に思いました。すると、目の前で母が2つのお手玉をくるくると手で投げて回し始めました。 私はくるくる回るお手玉の姿と、シャカシャカとした音に魅了されました。さらに母は、もう一つのお手玉を回っている2つの中に投げ入れて回し始めたのです。まるで手品を見ているかのような、とても面白いものでした。 何よりも、こんな不思議な事ができるお母さんてすごい!と、いつもと違う手品師のような母にびっくりした事を今でも覚えています。巧みな技を披露する母がとてもかっこよく見えました。 それから、何度も何度も母にお手玉のやり方を教わったのですが、私は2個を回す事が限界でした。やっぱりうちのお母さんてすごい!と、母を誇りに思った思い出です。
1983年生まれ

伝承されるお手玉遊び

砂子さん 長崎県 1983年生まれ 女性 お手玉は母や祖母など年齢が上の人ほどびっくりするぐらい上手で、一種の大道芸のような、芸の域になります。 幼少の頃私は、 2つのお手玉を回すのが限界でした。しかし、母や祖母は2個どころか、3個、4個、5個、さらなる個数まで、かなり高さをだしながらどんどん個数を増やして、なおかつとても早いスピード回していくことができました。 その様はとても、華麗で、慣れた手つきがとても格好良く思えたものです。 いつも教えてもらい、1つから練習し、2つに増やし、多く回すための手つきや投げ方を毎日練習していました。いつか祖母のようになれるといいな、と思いながらやっておりましたが、私の限界は3個までで、それが最高記録でした。母や祖母を心から尊敬したものです。 お手玉は手作りのものを使っておりました。母が作ってくれたものを使用しておりましたが、そのうち作り方も習い、自作するようになり、それがまた楽しかったです。 気に入った可愛い柄の布を購入してもらい、中に大豆やあずきを入れて、糸をつかって止めていました。それを使用して、またさらに使用しやすいお手玉の大きさや重さに変えてい...つづき
1968年生まれ

お手玉と祖母の思い出

harukiさん 宮城県 1968年生まれ 女性 お手玉と言って思い出すのは祖母です。私の祖母は厳しい人でした。 いつも正座しなさいとか、雑巾の絞り方があまいとか、家でも敬語を使いなさいとか細かいことを日頃から注意されていました。小さい時には従っていたけれど、小学生の頃には時に反発していました。 祖母は縫物がとても上手な人でした。お人形の着物を縫ってくれたりしました。お手玉も綺麗なちりめんの布で縫ってくれ。中身は小豆だった思います。 私はお手玉ができませんでした。お手玉でうまく遊べなくてたちまち不機嫌になりました。そんな様子を見て祖母はお手玉のお手本を見せてくれました。見たからと言って、すぐにできるものでもありません。 苦労してやっとコツをつかみ、2つは使えるようになりました。すると祖母は3つでうまく遊んでみせました。私は何度チャレンジしても3つでは遊べず。あらぬ方向へ飛ばす始末。それを祖母は笑って見ていました。 祖母と遊んだ記憶はそれしかありません。好きでも嫌いでもなかった祖母。あまり思い出らしい事がなかった中でお手玉は数少ない良い思い出かも知れません。
2000年生まれ

難しかったお手玉の思い出

うっぴさん 保育園 2000年生まれ 無回答 お手玉の思い出は、保育園のときです。若い先生が多い中、おばあちゃん世代の先生が手作りのお手玉を持ってきてくれて、遊んでくれた思い出があります。 保育園児の自分には、とても難しかった記憶があります。おばあちゃん先生は、難しそうに楽しんでいる園児たちをみて、ニコニコ笑って見守ってくれていたのを思い出します。 おばあちゃん先生のお手本は、上手にお手玉をポンポンとしていて、すごいな〜とキラキラ目を輝かせて、お友達と話していたように思います。 そして、その日にお手玉が上手に出来なかったのが悔しくて、自分のおばあちゃんに保育園での話をして一緒にお手玉をして遊んだのを思い出します。 自分のおばあちゃんは、すぐ身近にある靴下をくるっとまるめて、お手玉がわりにして遊んでくれました。 それも、簡単には上手に出来なかったけど、靴下を投げて遊んでいるのがおかしくてゲラゲラ笑いながら楽しんだ思い出があります。 それ以来、お手玉をする機会はありませんが、楽しかった記憶が残っています。
1983年生まれ

滑り台で思い出す女の子

まめ太郎さん 広島県 1983年生まれ 女性 滑り台で遊ぶときはなぜか逆走という迷惑行為をする子が必ずいるものです。滑りたいのに滑れないということになり大渋滞を引き起こします。 「どいて」と言うとジャンケンで勝ったらねと意味不明なことを言われ、私はプンスカ怒って無理やり股をくぐって滑るという強硬手段に出ました(どちらも危ないので絶対にやってはいけません)。 そしてまたその子は次に滑ろうとする子に同じことをするのです。逆走の子は男の子。滑ろうとする子達はみんな女の子でした。 そんな時、ずっと逆走をやめない男の子を一人の女の子が突然引きずり下ろしたのです。そして小さい声で「やめろって言ってるよね?」と。 一部始終を見ていた私は、その知らない女の子を「かっこいいー!」と思いました。 敢えて小さい声で注意するという私には発想のなかった方法。男の子は一瞬怯んだ様子で、怖くなったのかそのまま自転車に乗って去っていきました。 平和が戻った滑り台で安心して遊ぶことができました。
1994年生まれ

ローラー滑り台の恐怖

うなぎさん 三重県 1994年生まれ 女性 小学生の頃、従兄弟と一緒に地元近くにある長いローラー滑り台がある公園に遊びに行きました。 いつもの公園の滑り台よりもとっても長くて、たくさんの子供が滑り台を順番待ちして並んでいました。自分の番が来るまで、とてもドキドキワクワクしていたのを覚えています。 そしていざ、自分の番!従兄弟が先に滑り、その後しばらくして自分も滑り始めました。序盤は景色を見ながら長い滑り台に大興奮!だったのですが、徐々にお尻が痛くなり始め、摩擦で熱さを感じるようになりました。 「だから周りの子たちは段ボールをお尻の下に敷いてたのか」と思っても後の祭り。滑り台は残り半分というところで、お尻が痛すぎて涙が出そうになったので、子供ながらに機転を効かして、足を立ててお尻を浮かし、しゃがんで触って滑ることに。 「よし、これでお尻は痛くないぞ!」と思ったのですが、しゃがんで座る姿勢はよりスピードが上がって、今度は違う意味で恐怖心を抱き、結局滑り終わる頃には「もう2度とやるもんか!」という気持ちになっていました。
1975年生まれ

長い長い滑り台

mugikoさん 兵庫県 1975年生まれ 女性 私が通っていた小学校の運動場は遊具が少なく。ブランコに古びた滑り台、ジャングルジムに鉄棒ぐらいだったと思います。 私が小学4年生の時に古い滑り台を取り壊して、長い長い滑り台を設置したのでした。生徒たちは大喜びで滑り台を遊んでいました。 長い長い滑り台だったので、滑っていると途中で止まります。生徒たちは、そこから立ち上がり下まで走り抜けている子供もいました。 出来たばかりの長い滑り台はなかなか順番が回って来ません。下校時間ギリギリになると、ようやくすべる事が出来るほどの人気の滑り台でした。 滑り台で遊びたい生徒は朝早く学校に行ったり、下校時間まで粘っている子供がいました。まぁ一ヶ月も経てば人気もなくなり、私もようやく長い滑り台を遊べるようになりました。 そこで友達と3人セットで滑ったり、後ろ向きになって滑ったり色々とふざけた遊びをしていたのですが、今まで遊んでいた短い距離の滑り台と違い。長い長い滑り台だったので途中でスピードが出なくなります。 そうすると、友達が後から押してくれました。私はいきなり後ろから押されたので体勢を崩して、滑り台か...つづき
1983年生まれ

ロング滑り台

ロックンロールさん 広島県 1983年生まれ 女性 友達家族と私の家族とで広くて大きな公園へ遊びに行ったときのことです。そこには長い長い滑り台があり、滑る部分はローラーになっていました。 子どもからすると面白そうな夢のような遊具。すぐさま私と友達は飛びつきます。階段を登り切り、いざ滑ろうとすると思いのほか高い…。ちょっと怖くなりました。 それでも滑ってみたい要望が抑えきれずとりあえず座ってみます。はるか下に見える親たち。振り返ると友達も心なしか顔が引きつっているように見えます。話し合いの結果、一緒に滑ることに。 前後に座りいざ出陣!ズンズンスピードが出てローラーは勢いよく音を立てて回り私達はあっという間にゴールする…はずでした。出陣しても一向にスピードは出ず、ローラーからは軋む音しかしません。滑り台らしからぬ遅さです。 手足を使ってスピードをあげるしかありません。頑張っても公園の滑り台の半分以下のスピードでぬるっと着地。しかしこれはこれで子供の心を掴み、私達は大爆笑。このあと10回以上滑りました。
2002年生まれ

鬼ごっこと鼻血と滑り台

Narutoさん 沖縄県 2002年 男性 小さいころ、特に幼稚園にいたとき、園内の滑り台でよく遊んでいました。しかし今思うと、滑り台単体をみんな楽しんでいたわけではなかったように思えます。 私を含めて全員、鬼ごっこ等をするときに逃げ道の一つとして滑り台を使って、滑ることもあれば、滑り台を下から登って階段から下っていくという「逆滑り台」状態が多々起こっていたことを今でも覚えています。 今ではそんな危ないこともしなくなりましたが、あの頃はそういったことが心の底から楽しく思えました。 もう一つ滑り台で覚えているのが、友人がよそ見をしていたせいで滑り台に自分の顔をぶつけてしまい、それが原因で鼻血が出ていたことです。
1970年生まれ

滑り台で遊びつくした子供時代の思い出

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 子供の頃は公園でいろいろ工夫して遊ぶのが楽しかったことを思い出します。 特に滑り台は工夫して滑るのが楽しい遊具の一つでした。今では危ないといって辞めさせられてしまうようなことを平気で行っていました。 ・頭から滑り降りたり、 ・胸から滑り降りたり、 ・砂をかけながら摩擦を減らして滑り降り、 ・どこまで遠くへ着地できるか、 ・また滑り台を走って降りて同様にどこまで遠くまで着地できるか、 など、暗くなるまで友達と競い合ったことを思い出します。 滑り台としての使い方以外にも、缶蹴りの隠れ場所だったり、鬼ごっこの隠れ場所など使い方は豊富でさんざん遊びつくしました。 当時は滑り台のない公園はなかったので、遊びつくしたら他の公園の滑り台を使ってまた新たな遊び方を考えました。子供時代の仲間たちは遊びの天才でした。 いい仲間がいたおかげでケガも耐えませんでしたが、充実した子供時代を過ごせたと思っています。
1992年生まれ

初めて滑ったローラー滑り台

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 小さい頃、私がよく行く近所の公園にあったのは金属の板で出来た、普通のまっすぐの滑り台でした。その頃の私にとって滑り台とはそういう物で、幼稚園の頃ならともかく小学生にもなるとそれほど面白い遊具ではなくなっていました。 それがある時、家族で出かけた少し遠くの大きな公園で初めてローラーがついた滑り台を見たのです。近所の公園の滑り台とは全くサイズが違い、丘の上から始まっていて長くてカーブもあり、とても豪華に思えました。 そして、滑る面がローラーである事に気づいた時の最初の印象は「肉が巻き込まれて挟まりそうで怖い」という感じだったのを覚えています。 しかし初めて見る遊具は遊んでみたいのが子供の性、意を決して滑ってみました。 すると、今まで滑ってきた滑り台では全く感じた事がなかったガタガタという振動、ローラーの回転によるスピード感、初めての経験に衝撃を受けました。 すっかりその滑り台にハマった私は、その日は足が痛くなるまで何度も丘を登ってその滑り台を滑っていました。
1992年生まれ

タイヤブランコでグルグル

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 ちょっと遠くの大きめの公園にタイヤを3本のロープで吊るしたようなブランコがありました。 普通のブランコと違って前後だけでなく全方向に揺らす事ができる。それだけでも楽しかったのですが、他に大きな特徴としてクルクルと回転するようになっていて、そこが私の一番のお気に入りポイントでした。 内側を向いて座ったり、外側を向いて座ったり、またがるように座ったり、立ったり、いろんな乗り方をしてはブランコをぐるぐる回して遊んでいました。 ただ回っているだけなのですが、周りの景色がヒュンヒュン動いて見えたり、目が回ってきてブランコから降りるとまっすぐ歩けずフラフラになったり、子供の頃はそれがとても面白かった。 しかし、子供の頃は楽しいと思ってしまうとどうしても歯止めが効かなくなってしまう事ってありますよね。 私もタイヤブランコの回転にハマりすぎて、ついつい気持ち悪くなって吐くまで回ってしまうことがありました。
1980年生まれ

誰よりも遠くに飛ぶ ブランコ遊びの思い出

又兵衛さん 埼玉県 1980年生まれ 男性 私の通っていた保育園には鉄棒やブランコ、シーソー等の遊具がありましたが、遊具の人気ナンバー1はブランコでした。 現在の保育園敷地内は部外者進入禁止になっているようですが、私が小学生の頃は誰でも入ることができていて、近所の小学生は放課後集まって保育園の敷地で遊んでいました。 当時は遊園地など行ったことが無く、小学生時代の私にとってブランコが最も興奮させてくれるアトラクションで、ブランコの推進力によるスピード感に夢中になりました。 高い位置から振り下ろされるブランコによる風を切る音や、高い位置に上がりきったところから後ろ向きで降りる際の浮遊感は心地良いものでした。ブランコを使うことによって視線が高くなり、高い位置から保育園の全貌が見えることが気持ち良かったことを記憶しています。 ブランコは4台あり、同時に漕いで誰が一番遠くに飛べるかを競うことに熱中していました。ブランコを漕いで一番高い位置から飛んでも飛距離は伸ばせず、ブランコの推進力を活かして地面スレスレを狙って飛ぶことで、飛距離を伸ばしていました。 徐々にコツを掴んで飛距離を伸ばせていたのです...つづき
1989年生まれ

今も昔もブランコは人気遊具

たまねえさん 北海道 1989年生まれ 女性 実家の近所にある公園で、必ず遊んだのがブランコです。いつも人気で、上級生が遊んでいるといつまでも待たされてしまい、乗れないまま夕方になってしょんぼりしながら帰宅したこともありました。 遊べたときは友達とどこまで高く漕げるかを競ったり、ブランコの二人乗りをしたり、ブランコに乗りながら靴を飛ばして遊んでいました。 危なかしい遊び方もしたと思いますが、当時はブランコで遊べるだけでとてもテンションが上がり、楽しかったです。 そこから5〜6年経って、高校生や専門学生になったころ、久しぶりによく遊んだ公園へ行くと、ブランコがとても小さく感じました。座ってみると、お尻がピチピチ状態でだいぶきつくなっており…ある意味での成長を実感させられました(笑)。 現在は子どもも生まれ、よく公園に遊びに行くのですが、やはりブランコは人気者。子どもたちが列をなしています。 いつの時代も人気遊具として鎮座し続けるブランコってすごいなあと思います。
1956年生まれ

怖いもの知らずのブランコ遊び

yuumin0108さん 福井県 1956年生まれ 男性 場所は校門近くの桜の木に囲まれたブランコ。小学校の5,6年の頃だと記憶しています。雨さえ降らなければ毎日のように5,6人の友達とブランコ遊びをしていまいた。 やんちゃな頃ですから,大きく振れば振るほど友達の称賛を得ます。最初は大きく振ったブランコから前方に飛び降りて飛距離を競いました。 着地した足が滑って頭を打ったことを覚えています。それでも涙も流さず何度もトライしました。今の時代であれば即禁止でしょうか! そのうちに前方ではなく後方への飛距離を競うようになりました。その時も着地の足が滑って,両手の掌を擦りむき顎を打った覚えがあります。しばらく耳の奥が痛く,笑うことも給食を食べることも苦労しました。 しかしながら子どもの遊び方は無限大です。友達の一人がブランコを大きく振って前方にある桜の木の小枝に足タッチし始めました。 更に,静止したブランコに座った状態から,全身で揺すって大きく漕ぎ出して桜の小枝にタッチする。更にはタッチ後に前方に飛び降りて飛距離を競う。 また,個人競技ではなくリレーの団体競技にもトライした覚えがあります。今思...つづき
1970年生まれ

ブランコの乗り方 3種類

ぽんたさん 熊本県 1970年生まれ 女性 【その1】 ブランコといえば一人で乗ったり、友達が背後から背中を押したりするのが普通だと思います。 私の小学校では一人がブランコに普通に腰掛け、もう一人が向かい合った状態で腰掛けてる子の両端に足を置き立ち漕ぎする二人乗りが主流でした。一人で漕ぐよりも、地面と平行になるくらいに高い位置に! ちょうど腰掛けている子の顔の前に、立ち漕ぎする子の股間がある。今思えば、なんとも気まずい体勢だったな⋯。当時は女の子同士だから恥ずかしさはありませんでしたが⋯。 男の子は一人で立ち漕ぎしている子ばかりでしたね。やっぱり男の子のほうが恥ずかしがり屋でデリケートなんでしょうね。 【その2】 ブランコ改造系だと、ブランコの鎖を乗る部分に巻き付けて、鎖を短くして乗るのも流行っていたかな~。これって鎖を巻きつけるときに気をつけないと、良く指を挟んで指が紫色になってたり。 【その3】 体を下向きで乗る部分にお腹を乗せて、その場でクルクル回って鎖を縄状にして地面から足を離す。反対回転のクルクルを楽しむだけの遊びとかもやったな。 伝わったかな?
1994年生まれ

公園のブランコで立ち漕ぎ乗り

野球少年さん 千葉県八千代市まどか公園 1994年生まれ 男性 小学生の頃、放課後によく友達数名と地元のまどか公園という公園で遊んでいました。ブランコが4つある公園でそのブランコの前には大きな芝生が広がっていました。 小学生だった僕は、友達と一斉にブランコを立ち漕ぎをしてその勢いを利用して靴を芝生の方向に蹴り飛ばしその飛距離を争うという「靴飛ばしゲーム」に熱中していました。 当時野球のクラブチームに所属していたので周りより運動神経も良く。芝生を超えた先の木に直撃することもありました。距離で言うと30メートルくらいはあったかもしれません。 天気の良い日は良いのですが、雨あがりの次の日に靴飛ばしをした時は靴がグチュグチュになり、家に帰宅すると親に怒られた記憶があります。 ブランコでは二人乗りという遊びもしたことがあります。 一人が通常通りで座って、もう一人が立ち漕ぎを向き合う形で一つのブランコで漕ぎ合います。 座ってる方は立ってる方のが漕ぐたびに、股間が顔面に直撃します。しかし小学生だったのでそんなの気にせず無我夢中で楽しくブランコで遊んでいました。
1963年生まれ

ブランコの「りんごいっこ!」

じゃすみんさん 大阪府 1963生まれ 女性 それは校庭や公園のブランコが二つや四つとあるところで、参加する人がブランコに乗って始まります。ギャラリーがいるときもいないときもありました。 「りんご一個」という掛け声と共にスタート。地面の土にりんごの絵を指で書き、それからそれぞれの人がブランコを漕ぎ始め、勢いをつけていかに早くいかに遠いところまで跳ぶことができるかが勝負。という遊びがありました。 「せーの」という掛け声でもいいのになぜ「りんご一個」なのかなぜ地面にりんごを描いたのか謎です。 もともと運動神経の弱い私でしたから、もちろん勝つことはまったくありませんでした。今から思うと「この人には勝てるから」という感じで誘われていたのかな。 でも誘ってもらえたことが嬉しくて、ついついその遊びのお誘いに応じてしまっていたのでした。 ただ、子供ながらに「ここで勝負にはならないんだ、違う遊びで勝負しなくちゃ」という気持ちが芽生えたのはよかったし、いい経験でした。
1984年生まれ

神社の公園にあった ぶらんこの思い出

ゆうさん 山形県 1984年生まれ 女性 小さい頃、祖母の家のすぐそばに、公園のある神社があって、よくそこで遊んでいました。 そこに行くまでに長い階段があり、妹や従妹と「グリコ」をしながら登り、公園につくと一目散に公園にある2個のぶらんこの取り合いをするのがお決まりでした。 最初は普通に漕ぎながらたわいもない話をしていたのですが、段々時間が経つと立ち漕ぎをしたり、勢いをつけてどこまで漕げるかを競い合ったりしました。 「〇〇ちゃんより私の方が漕げるもん」なんて言いあいをしたりもしました。 それにも飽きてくると、今度は靴飛ばしで競い合うのが恒例でした。どこまで飛んだか土の上に石で線を引いて、「〇〇ちゃんはここ!」「私はここ!」なんて言い合いながら、日が暮れるまで競い合うことが度々ありました。 そして、母に「そろそろ帰ってきなさい」と言われると、また長い階段を「グリコ」をしながら帰るのでした。 とても懐かしいですが、今思うと怖くて出来ない漕ぎ方をしていたなぁと思います。 本当に空に飛んでいきそうなくらい漕いでいた。その時に見た空は凄く綺麗だったことを、今でも覚えています。
1983年生まれ

たんこぶができた弟 ブランコの思い出

たら子さん 広島県 1983年 女性 ブランコというと私は友達の弟を思い出します。ある日、同じクラスの友達と小学校へ遊びに行きました。走って行くと一つ年上のお姉さんと歳の離れた弟がブランコで遊んでいるのが見えました。 私はそのお姉さんと知り合いだったので挨拶をし、3歳の弟を合わせて4人で各々ブランコを楽しんでいました。 しばらくするとすると弟は飽きてしまったのか、足を精一杯伸ばしてブランコから下りてトコトコと歩き出します。私たちはまだ思いっきり立ち漕ぎをしていて勢いがついている状態。 何だか怖いなと思った瞬間、弟がお姉さんの方へ走って向かって行ったので思わず「あぶないよ!」と言いました。 でも弟は、お姉さんの方へまっしぐら。思いっきりブランコとぶつかりズサーァッ!!!っと倒れました。それはもう大泣きです。おでこがみるみるうちに青黒くなり私達はゾッとしました。 幸いお姉さんの家は小学校の隣なのですぐに弟を連れて帰り、心配すぎて私達も一緒についていきました。家に着くと弟は泣き止み、たんこぶができていたのにも関わらず「もういっかい!」とブランコをせがむのです。 お母さんも「うん、行っておいで...つづき
1978年生まれ

凧上げに詰まった少年時代の思い出

コタツにみかんさん 東京都 1978年生まれ 男性 毎年お正月になると、父と弟の3人で近所の公園グラウンドに行き凧上げを楽しみました。当時は人気アニメが描かれた凧が流行っており、私の凧もドラゴンボールのキャラクターが描かれたものを父に買ってもらい。凧上げを楽しみました。 弟も専用の凧を持っており、2人でどちらが長く凧上げできるかを競走しました。ポイントはいかに上空で凧を浮揚させる時間を長く保つことができるかで、吹いている風の強さや質が勝負を分けます。 上空で凧が上手く浮揚状態に入れば、地上から凧糸を少し戻して微妙な力加減で保つように凧に集中します。途中で風が弱まることがあれば、自分自身を加速させて、新たな良い風が吹くまで走り続けます。 この動きを何度も繰り返す事で、凧を上げ続けられました。弟も負けじと頑張ったり、父がジュースを買ってきてくれて休憩で飲んだりと、今でも凧上げをする子供をお正月に見かけると、自分の少年時代のお正月の思い出が蘇り懐かしさを感じることができます。
1965年生まれ

自作の凧の思い出

tacky1920さん 愛知県 1965年生まれ 男性 自分達の世代が小学生の頃、「ゲイラカイト」という凧が流行りました。従来の竹と和紙の組み合わせで出来ている日本式の凧と違い、プラスチックの骨組みにビニールを張り付けた三角形の形状で、確かアメリカが発祥だったと思います。 とにかく大ブームになって、ある程度裕福な家庭の子供は斬新なデザインの「ゲイラカイト」を親に買ってもらって、自慢げに学校にも持ってきていました。 自分も含め、大多数の子供は買ってもらう事は出来なかったのですが、とにかく手軽に作れるのが特徴で、決っして器用では無かった当時の自分も、家にあるビニール袋と拾ってきた廃材のプラスチックの棒で手製の凧を作り友達と競って遊んでいました。 近くに市営の広い陸上競技場があり、日曜日になると大空の一面に色とりどりの凧が溢れ壮大な光景でした。 風の強い日には糸が切れて凧が飛んで行って行方不明になったり、友達の凧と絡まって落下してしまったりと失敗も沢山ありましたが、自分の手から遠く離れた大空をなびく自作の凧に、子供ながらにロマンを感じていました。
1968年生まれ

たこ〜 たこ〜 天まで上がれ〜

昭和原人さん 宮崎県 1968年生まれ 男性 凧あげについては、失敗例と成功例が1つずつあります。 まず、うまくいかなかった思い出は、小学校の図画工作の授業でつくった立体凧です。長い割りばしのような木材にビニール生地を貼り付けて、細長い直方体の立体凧を作りました。 クラス中のみんながそれなりの格好に出来上がったので、運動場で飛ばす段取りになりました。みんなが全力で走り回りながら、凧を飛ばそうとしましたが、風がないせいか、重心がとれてないせいか、誰一人高く飛ばせませんでした。 先生も困った顔をしてました。それほどに、凧を高く飛ばすのはむずかしいのだなと感じました。 そのリベンジではありませんが、駄菓子屋で当時ゲイラカイトのパチモンを見つけて、再チャレンジしてみようとしました。パチモンだから、飛ぶかな~と心配でもありました。 その日は、風も強く、一旦飛び出したら、グングン高いところまで一気に登っていきました。糸を引っ張る風の力をリアルに感じ、すごい力なんだなと思いました。 タコ糸が終わりかけになるぐらい高く飛んだので、もう一組のタコ糸に結び付けて、さらに高くとばして、ゲイラカイトのパチモン...つづき
1965年生まれ

凧上げと父の思い出

てつうさん 埼玉県 1965年生まれ 男性 凧上げは、埼玉県にある父の社宅横の広いグラウンドで遊びました。正月以外にもよく兄や近所の友達らとも楽しみました。 当時約50年前位は、普通の軽い木に紙をはっただけのシンプルなものがほとんどでした。勢いよく、空高くあがると非常に嬉しく興奮しました。たまに友達の凧と糸がからまって墜落することもありましたが、良い思い出です。 当時は父も若く、先ほど写真で見ると今の私の顔に似ています。ホント、父母から生まれたんだな、と再実感します。父は2年前に突然、心臓突然死で他界しました。仕事で最後の言葉を聞くことが出来ず、残念でした。 凧上げは、父からコツを教わり、よく遊びました。自転車に補助輪を無しで乗れたときの喜びを皆さんは、覚えていらっしゃいますか?それと同様に世界が突然と広くなった感じが、凧上げの上達でも感じました。 当時は雪もよく降り、今と違いよく積もったので、雪遊びと凧上げを同時に楽しんだ記憶もあります。 無邪気にシンプルに楽しんだあの頃は本当に楽しかったものです。
1987年生まれ

親との凧上げの思い出

パンさん 岡山県 1987年生まれ 女性 小学生の頃、お正月になると近くの公園で凧上げをしていました。公園は、遊具よりも広場の面積の方が広かったので、凧上げをするにはちょうどいい広さがありました。 空を飛ぶことに強い憧れがあった小学生時代、自分が飛ばすより、飛んでいる凧を見る方が好きだった記憶があります。親が上手く飛ばしてくれるのを追いかけながら見ているのがとても楽しかったです。 風が強い日は上手く飛ばせなかったり、上手くコントロールができなくて地面に激突させて壊したことがあります。その時は親に怒られるとビクビクしたことも、今では良い思い出です。怒られることはなかったですが、壊れてしまったので冬休み期間中に凧上げができなくなった寂しさもよく覚えています。 友達同士で上げる時には、近づきすぎて紐の部分が引っかかり解いていたら遊ぶ時間が終わってしまうこともありました。 それでも、順番に上げることだったり、離れて飛ばしたりと、今思えば子どもなりに失敗から学んで、ちゃんと考えて飛ばしていたんだなと感じたことでした。
1983年生まれ

凧上げヒーロー

たまこさん 広島県 1983年生まれ 女性 日本のお正月らしく、冬休みに凧上げの宿題が出たことがあります。手が器用な父とビニールを使って作ったあと、川土手まで行って上げてみます。 しかし、風に上手く乗らず失敗。もう一度走り出しましたが、凧がクルンクルンと回ってあっという間に糸が絡んてしまいました。こうなるとなかなか解けません。 悪戦苦闘する私達に川土手にいたおじさんも加わり、なんとか解いてくれました。また走り凧を上げます。でも上手く風に乗りません。 疲れてしまった時、タコ紐を解くのを手伝ってくれたおじさんが再び登場。コツを教えてくれました。ビニール凧なのでフニャフニャしていて上げづらいですが、凧を持って私の走るスピードに合わせてくれました。 2.3回挑戦してみると遂に凧が空高く上がりました。おじさんありがとうと思い、見ると既に遠くに歩いて行っていました。 なんてかっこいいヒーローなんだと思いながら、その後も父と何度も何度も走り、ようやく上手く上げることができました。
1967年生まれ

凧あげは奥が深い 釣り用のリールで糸を巻いてみる

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 小学生の時、凧あげに夢中になりました。どこまで高く上がるかそればかり考えていました。風が全くない時でも上空にとにかく上げれば上がるときがあります。 自宅の近くの田んぼで、いつも揚げていました。タコの糸が稲の根っこに絡んだり、根っこに躓いたり、楽しく遊びました。 あまり高く上げ過ぎると、糸を巻くのに時間がかかります。時間どころか、下手すると糸がからみ、もつれた糸を元通りにするのに泣きたくなることがあります。 その時、たまたま兄貴の彼女が来てたので、兄貴が彼女に「得意だからやってもらったら・・・」。付き合いだしたばかりの彼女は真剣に糸の絡みをほどいてくれました。私は「良いひとだなあ」と思いました。 糸を巻くのに時間がかかるので、釣のリールを持ち出してそれにタコ糸を巻き、楽な凧あげを考えました。 そんなことをしている人は私だけで得意げにリールを見せびらかしたりしました。 子供の時の凧あげは大人になっても、誰かが公園で凧あげをしいているのを見ると、「懐かしいなあ」と空を見上げます。
1997年生まれ

初めての凧揚げ体験

貴ちゃん 大阪府吹田市 1997年生まれ 男性 私が初めて体験した凧揚げ体験は寒くて操るのが大変でした。 学校のグランドや公園などに行き、始めは自分では飛ばせなかったので、親や先生などに飛ばしてもらい、安定したら自分で操っていました。風を読むのにタイミングが分からなく、人の掛け声に頼って飛ばしていました。 高く上がった凧は空を舞っていますが、複数の凧が上がると凧同士がぶつかって上手く操作が出来なかったり、喧嘩したりするハプニング。糸が他の糸と絡まって、ほどくのに時間がかかるので大変でした。 自分で創った凧の絵は遠くに飛ばすほど、描いてある絵が分からなくなり、目を細くしながら見ていました。 小さい時には、お正月に自分で創った凧を持って来て、遊んでいたのを覚えています。
1992年生まれ

お祭りで凧揚げ

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 私の地元で毎年ゴールデンウィーク中に巨大な凧を揚げるお祭りが河川敷で開かれていました。しかし、そのお祭りの目玉である巨大凧の凧揚げはただ遠くから見ているだけであり、失敗する年も多かったので正直あまり興味がありませんでした。 お祭りの中では個人で自由に凧を上げられる時間とスペースが設けられていて、それが個人的にはお祭りのメインの楽しみでした。お祭りに出ているお店で買ったり、図工の授業で作ったりした凧を揚げて遊んでいました。 風が強い時には簡単に凧が空に揚がって楽しめるのですが、普段は近所の公園では近くに電線があるので、凧揚げをする機会がほとんどありません。凧揚げに不慣れということもあり、あまり風がない時は凧を揚げるだけでも一苦労でした。 凧をぶら下げなら走り回り「今なら揚がりそう」と思って手を離しても、凧は虚しく地面に落ちてしまうばかり。そんな失敗を繰り返しやっと凧が揚がった時は嬉しかったのを覚えています。
1986年生まれ

日本文化との出会い アメリカでのおはじき遊びの思い出

じょうさん アメリカNJ州 1986年生まれ 女性 父の仕事の関係で小さい頃アメリカに住んでいました。日本から親戚が遊びに来た時に、おはじき、お手玉、折り紙等の、日本の昔ながらのおもちゃをいくつかお土産に持ってきてくれました。 私を含め、兄弟は皆アメリカ文化にすっかり馴染んでいたので、初めて見た日本のおもちゃに大はしゃぎ。 特にカラフルな、透き通った飴のようなおはじきに夢中になり、最初は色ごとに兄弟で分け、次第に他の色も欲しくなって交換をはじめ、いつしかおはじきの奪い合いにまで発展しました。 それ以降、日本の親戚が遊びに来る時には、新しいおはじきを買ってきてくれるようになりました。 日本ではどのように遊ばれているのか知りませんでしたが、私たち兄弟は、最初は眺めたり集めたり並べたりして遊んでおり、しばらくしてからはお店屋さんごっこをする時のお金として使うことが定番となりました。 緑色は1ドル、黄色は5ドル、赤色は10ドルという具合です。 アメリカ人の友達が家に遊びに来る時も、同じようにして遊んでいたので、もしかしたら友人は日本のお金は綺麗だなと勘違いしていたかもしれません。今では良い思い...つづき
1983年生まれ

必死のおはじき遊び

きな粉さん 広島県 1983年生まれ 女性 小学校時代におはじきで遊んだ思い出と言えば友達のおばあちゃんを思い出します。昔の遊びを教えてくれた優しいおばあちゃんでした。 今はあまり見かけなくなったコタツにみかんスタイルの和室で、友達3人と一緒におばあちゃんにおはじきを教えてもらったのです。 最初におはじきを見た時は遊ぶものと言うよりかは「綺麗だなー」とか「メダカや金魚の水槽に入っている石だなー」という事。 おばあちゃんは菓子箱の蓋を使って、「相手のおはじきをはじいて、ここから出たら負けよ」と言って早速友達のおはじきをはじいて見事に蓋の外へ。相手が小学生でも容赦しません。 そんなおばあちゃんだからこそ、私たちも負けじとおばあちゃんのおはじきめがけて順番にはじいていきます。しかしコントロールが難しく、狙った方向へ跳んで行かないのです。 みんなほっぺが赤くなり、いつの間にかコタツから全員出ていました。おばあちゃんも必死です。あっちへ跳びこっちへ跳び、おはじきも忙しそう。夕方5時の曲が流れ、決着がつかない日もありました。 おばあちゃんのおかげで、私たちはとても楽しい時間を過ごさせてもらいました...つづき
1986年生まれ

小学校の昔遊びの会で おばあちゃんの活躍

sizukuさん 茨城県 1986年生まれ 女性 ある日わたしの小学校で「おばあちゃん達に昔の遊びを教わろう」というイベントが開かれました。地域のおばあちゃんが招かれたのですが、その中にわたしのおばあちゃんも参加していました。 昔のめんこ遊びやおてだま、おはじきなどの遊び方を教えてくれて、来てくれたおばあちゃん達と一緒に遊んでいました。その時わたしのおばあちゃんが教えてくれたのが、おはじきでした。 おはじきは家にもあったのですが、きれいなビー玉のようなものだったのでわたしは眺めて楽しむものだと思っていたのです。遊び方があるというのをそこで初めて知ってびっくりしました。 おばあちゃんがみんなの前で、遊び方を教えながらやって見せます。みんなも知らなかったようで、興味を持って聞いていました。中にはおはじきを初めて見たという子もいました。 わたしのおばあちゃんはそういった場で話したり教えたりするのが上手な人なので、とても説明が分かりやすく穏やかに話していて、なんだかわたしはどこか誇らしげな気分になったのでした。
1977年生まれ

母とのおはじき遊びの思い出

ヤクルトさん 自宅 1977年生まれ 女性 小学校低学年のころ、母はよく遊び相手になってくれていました。おはじきのルールのある遊び方は母に教えてもらいました。 おはじきをばらまいて、2つのおはじきの間をぶつからずに通り抜けたらゲットできる。それを交互にやって、手持ちのおはじきが多いほうが勝ち。という単純なルールです。 簡単そうに見えますが、小学生の不器用な私には少し難しく。間を抜けずにぶつかってしまったり、通過せずに手前で止まってしまったりしました。 その点、母は上手で、母の順番が来るたびにどんどん自分のおはじきを増やしていきます。私は負けず嫌いでわがままなので、とにかく負けることが悔しくて面白くない。 すぐにそれが顔に出てしまい、母に怒られてまたふてくされる。それでも何度か相手をしてくれました。結局一度も勝つことが出来なかった気がします。 母の幼少期には、よく遊んだらしく、とても上手で、どこか母も得意げでした。私も母になり、何度か子供たちと同じルールで遊んだことがありますが、大人になってからのほうが力加減をうまくコントロールできるみたいです。 子供たちは負けてふてくされ、結局数えるほ...つづき
1990年生まれ

綺麗だったもの おはじきの思い出

ぺんぺんさん 青森県 1990年生まれ 女性 おはじきってヒラっぺったい透明なガラスの中かに色のついたガラスが混じり合った形の少し重たいやや楕円形のものじゃないですか。プラスチックだったかもしれません。小学生の時に遊んだのでよく覚えていません。 唯一、覚えているのはそのおはじきをおはじきにぶつけてテーブルの上に残ったおはじきは勝ち、みたいなことをして一人であそんでいました。 おはじき達をテーブルの上に並べて、まずは先に弾くおははじきを決めます。おはじきを決めると近くにあるおはじきをめがけて人差し指でそっと弾きます。間違えてテーブルから落とした場合は別のおはじきからスタートさせます。 弾き終えたらまたテーブル周りのおはじきを拾いまた繰り返します。そうやって時間がくるまで一人で永遠と遊んでいました。 おはじきは透明な部分がキラキラしていて、色がついてる部分は透けて、向こう側の世界が透けて見え、まるで別世界のようで何度眺めても飽きませんでした。 色んな色があり、色んな世界が見えて、私にとって異世界に迷い込んだかのようでした。
1989年生まれ

おはじきを飲み込んでしまった 苦い思い出

みさん 兵庫県西脇市 1989年生まれ 女性 私が子供の頃、ガラスでできたおはじきのキラキラが好きで集めていたので、祖母がよくおはじきを買ってきてくれました。 祖母がよく遊んでくれていたので、姉と一緒に祖母に戦いを挑んでいたのですが、熟練の技がすごすぎて戦いを挑んでは負け、また挑んでは負けを繰り返していました。何回やっても勝てないくらい祖母は強かったです。 ある日、一人で遊んでいた時に、なぜかおはじきを口に入れていました。しばらく部屋でゴロゴロしていたら、何かの拍子におはじきを飲み込んでしまい、びっくりして母に泣きつきました。 母は心配もしてくれましたが「何してるの!?なんで口に入れたの?」とかなり怒られました。 その時は特に病院にも行かず水をいっぱい飲んでいたら、数日後トイレの時に無事に排出されました。母にかなり怒られたので、それ以来あまりおはじき遊びはしなくなりました。 今でも実家に帰るとたまにその話を掘り返されます。恥ずかしい苦い思い出です。
1957年生まれ

その美しさに魅了されました おはじきの思い出

AKANEさん 東京都 1957年 男性 姉の影響もあって、男の子でしたが、女の子に混ざって「おはじき」で遊んでいました。 お決まりの指で弾き飛ばして別のおはじきに当てて、動かされたおはじきを取っていくのですが、なぜか、はじいたおはじきとはじかれたおはじきの間に、人差し指を通してその指におはじきが触れないことを確認しながら、つぎにはじくという、謎のルールがそこではいつものことでした。 また、別の遊び方では、歌を歌いながら、お手玉を放り投げてその間に、畳に散らばっているおはじきを一つ一つのお手玉をほおっている手で素早く拾い上げ、つまずくまでに何個おはじきを拾えるかを競うという、アクロバティックな遊び方もありました。 いずれにしても、「おはじき」はそもそも女の子の遊び道具と言う感覚は、当時の自分には全くなく、みんな一緒になって楽しく遊んでいました。 独特のギザギザした表面に中には色とりどりの模様が入っていて、大きさも様々あって、大きなものは本当に子供心に宝石みたいだなと感心したものでした。
1984年生まれ

「おはじき当て」と「おはじき止め」の遊び方

おかずさん 岡山県 1984男性 私は小学生の時、学童保育に行っていました。そこで友達とおはじきをしてよく遊んでいました。 【おはじき当てのルール】 おはじきを散らばせて、自分と相手のおはじきを一つずつ選びます。そして、散らばっているおはじきのうちの一つを宣言して、これに選んだおはじき(ビリヤードの白い球のように)をぶつけて当てます。 当たったらそのおはじきがもらえ、当てられなかったら1回休みです。これを2人交互に行なって、得られたおはじきが多い方が勝ちです。 綺麗なおはじき、大きいおはじきは人気であり、それを狙う友達も多く、私も狙っていました。 【おはじき止めのルール】 机の一方の端におはじきを置いて、他方の端目掛けて、2人同時に、手で押して飛ばします。端により近くおはじきを止めた方が勝ちですが、机の端から落ちてしまったら負けです。勝てば自分と相手のおはじきがもらえます。 一般的には消しゴムでやるのだと思いますが、その学童保育では、おはじきでやっていました。
1963年生まれ

小学校の昼休みに遊んだ おはじき遊びの思い出

ナオミさん 青森県 1963年生まれ 女性 おはじきと言えば、小学校の昼休み時間にクラスのみんなで遊んだ思い出があります。その頃は何故かおはじき遊びが大流行していて、みんな一人ひとり自分のおはじき入れを学校に持って来ていました。 遊び方はシンプル。何人かで机の上に自分のおはじきを数枚出し、ジャラジャラとランダムに混ぜたおはじきの中から、ひとつのおはじきをもうひとつのおはじきに人差し指か親指の爪ではじいて移動させます。 その移動させた二つのおはじきの間を、別のおはじきをまた弾き飛ばしてくぐらせたら、そのくぐらせたおはじきは自分のものにできるというものだったと思います。 学校の机の上は思ったよりもすべりが悪く、指先で弾いてもけっこう進んでいかなくて、途中で止まったりすることもありました。そうすると次の順番のひとに取られたりして、なかなかスリリングな遊びだったと記憶しています。 あまりにも流行って学校中で昼休み時間におはじきをする人が多く。おはじきのやり取りでトラブルが起きたりして、おはじき遊びは禁止になってしまいました。
1983年生まれ

校庭で宝探しの思い出

あるぷすさん 広島県 1983年生まれ 女性 今思うと、小学生時代って変わった遊びを好んでしていたなぁと思います。2年生の時、校庭にビー玉を埋めて”宝探し”として遊んでいました。代わりわりばんこに「この辺に埋めたよー」と言って、友達に掘り出してもらいます。 この時、3回に1回くらいはどうしても宝(ビー玉)が出てこない事があり、2人で首を傾げることもしばしば。その時は「ワープしちゃったんだ!!」と騒ぎ、違うビー玉でやり直し。そんな遊びでした。 ある昼休憩、いつものように遊んでいると「今日は学校が終わったら校庭に集合ね」と友達が言いました。行ってみると、もう友達は先に来ていて、鉄棒で遊ぼうという事になりました。 するとここに宝があるから探してほしいと言うのです。友達の中で昼休憩の宝探しはまだ続いていたようです。 そして鉄棒の近くの地面の色が違うところを発見し、掘ってみると、宝と手紙が出てきました。「おとなになってもあそぼうね」と書いてありました。 その友達は中学卒業後引っ越してしまいましたが、とてもほっこりする思い出です。
1997年生まれ

ビー玉キラキラ

からさん 北海道 1997年生まれ 女性 夏になるとお祭りなどでビー玉すくいが開催されます。小学校低学年の時に必ず友達4人と一緒に、限られたお金の中でビー玉すくいをしました。 一回に6個くらい手に入ったはずです。それをお祭りが開催される時期に自転車で行ける範囲の場所であれば向かい。とにかくビー玉すくいをしました。 全てのお祭りに参加したら30個くらいそれぞれ手に入ったかと思います。 後日、その4人のうちの誰かの家にお邪魔し、友達のお部屋でビー玉を広げて交換会をします。 事前に持っているビー玉を何個で交換するか紙に書いて、それぞれ好きな色や可愛いデザインは交換個数が3個。シンプルなものなどは1個など決めて交換しました。 集めたビー玉は、水槽のようなものに水を入れてその中に入れて飾ったり、それぞれ思うままにデザインしてたと思います。それぞれのお家にお邪魔し、みんなの水槽のビー玉を眺めるのが日課でした!
1964年生まれ

平たく丸くしたものをビー玉と呼んでいました

よっちさん 鹿児島県 1964年生まれ 女性 ビー玉とは、一般的に球状のものを指すと思いますが、私、及び私の周りではビー玉を潰して平たく丸くしたものをビー玉と呼んでいました、確か。 では、球状の丸いものはなんと呼んでいたかは記憶にありません、なぜか。 小学校の3-4年生ぐらいまでそれで遊んだ記憶があります。相手は専ら、隣に住むひとつ上のいとこです。 遊び方ですが、30個ぐらいのビー玉を手に持ち、一気に畳の上にサイドスローして、ランダムに散らばったビー玉の、とあるひとつを手ではじいて他のビー玉にぶつけます。 ぶつけたビー玉とぶつけられたビー玉の間に他の(第三の)ビー玉をはじいて、うまく通すことができたら成功というごくごく単純なルールです。通したそのビー玉は自分のものです。 そうやってビー玉が残り2個になるまでやって、最後多くのビー玉を持っていた方が勝ち、というゲームです。 ごくごく単純な遊びですが、暇さえあれば隣のいとこと、この遊びをしていた記憶があります。
1983年生まれ

兄弟で競った ビー玉の箱迷路ブーム

fine weatherさん 広島県 1983年 女性 子どもの頃、箱迷路がマイブームになりました。 事の始まりは、兄弟がお歳暮の空箱を利用して迷路を作ったものに私が目を付け、ビー玉を入れて箱を上下左右に動かしスタートからゴールまで何秒でいけるかという遊びをし始めたのがきっかけです。 あっという間に兄弟間で取り合いになり、誰が一番早いタイムを出せるかという競争に発展。 末っ子の私はどうしても勝てず「私が思いついた遊びなのに~!」とプンプンと怒ったりしながらも、だんだんとコツを掴み。 「このカーブでこうしてぇ…こっちは手前でスピード落としてからぁ~ドン!よしよし、いいぞぅー」と大き目なひとり言を言いながら熱中しました。 ようやく一番になれると自信が付いた頃には、もうみんなは飽きてしまい、私しか熱中していませんでした。う。 子どもの飽きっぽさはすごく早い。誰とも対戦できないと分かると急に寂しく感じ、やる気が失せる私。いつの間にか箱迷路ブームは終わってしまったのでした。
1955年生まれ

なつかしいなぁ~ビー玉は小学校の遊びベスト5に入るな

Valonさん 北海道 1955年生まれ 男性 あれは小学校の3・4年だったな。田舎は、こんな遊びをする場所に苦労しない。5mx8m位の、小さい倉庫の前の敷地だったかな。もちろん舗装もされていないから、地面は「釘指し」なんかもできる土だ。 友達5~6人、多い時は、10人位いたかな。 端に線を引いて、その反対に端から2m位の場所に、丸を書いて、そこにそれぞれのビー玉を置く。 そこから1m位のところに線を引いて、そこから出てしまうと、ビー玉は没収されて、その丸の中に入れなきぁならない。 そして、端に書いた線から、順番に持ってるビー玉を投げて、丸の中のビー玉を丸の中から出せば、自分のものになる。 でも、そんなルールを覚えた記憶もないが、みんな知ってたな。持っているビー玉が増えたり減ったりする。当然負ければ悔しいし、勝てばうれしい。 しかし、それで友達との仲が悪くなる訳ではない。ビー玉が無くなってしまった友達には、みんな1個ずつあげたりもしていた。こんなことから、人間関係を覚えていったのかな。 暗くなる前まで遊んで、解散、また明日ということになる。あの場所の風景、友達の顔、ついでに近くの駄菓子...つづき
2004年生まれ

ビー玉を使ったおもちゃ「ビーダマン」の思い出

くうきさん 山形県 2004年生まれ 男性 私が幼稚園から小学生にかけて、タカラトミーからビー玉を用いて遊ぶホビーが発売されました。「ビーダマン」というのですが、それを用いて缶や特定のターゲットを命中させる遊びをよくやっていました。 ビーダマンは対戦することも可能です。電動で動く壁を用いて先に多くのマーカー(というんですかね?)を打ち抜いたほうが勝ち、というゲームがあったり。ボーリングもできたりと多種多様の遊びができるホビーでした。 私自身も、ビーダマンはいくつか持っていました。友達と命中精度を競ったり、ビー玉の射出速度を競ったりしたものです。 他にも、ビー玉をおはじきのように弾いたり、ビー玉とビー玉の狭い間を潜らせたりもしました。ビー玉は球体なので、上手に弾いたり、潜らせることが難しいのですが、それが逆に面白い! 私はまだ高校生ですが、記憶の中では難しさの中にある楽しさを見いだせたのかなと思います。