1980 年代に生まれた人が子どもの頃にした遊びの思い出

1980年生まれ

光GENJIと共に始まった ローラースケートの思い出

ローマさん 栃木県 1980年生まれ 女性 自分が小学低学年の頃、世間では「光GENJI」がとても人気でした。かっこいい男性アイドルがローラースケートで走り回りながら歌って踊る、テレビ歌番組でよく見ていました。 そして巷ではその影響でローラースケートが人気になり、町のおもちゃ屋さんはどこでも扱っていたように記憶しています。 学校のクラスメイトの中でも何人かが持っていて、例にもれず自分も欲しかったのですが運動神経があまり良くなかったので買ってもらえず。近所に住んでる子が持っていたローラースケートを借りて遊んでいました。 子供が集まると少し危険なことにも挑戦し始めるもので、近くの住宅地になだらかな坂があり「その上の方から滑り降りよう」となりました。 自分は運動音痴なこともあり、早々にリタイアしたのですが数人が挑戦。5人程が滑ったところで近くを通りがかった知らないおばちゃんに「何やってるの!あぶないでしょ!」と怒られました。 車も走る道だったので当然です。上級生の子たちが特に怒られていたことを覚えています。 ローラースケートの興味は光GENJIの興味とともに次第に薄れましたが、あの頃もっと挑...つづき
1985年生まれ

ローラースケート大会の思い出

あろえさん 福井県 1985年生まれ 男性 小学生の時に学校近くの公園で行った「ローラースケート大会」の日のことです。会場は緑豊かな公園で、陽気な音楽が流れていました。 先生たちが主催してくれた大会は、走っているだけでも楽しいと思うような企画がたくさんありました。 例えば、謎解きコースやテクニカルなコースが用意されていたり、色んな色の巨大なクレヨンを使って、足元に色を付けながら走るという企画がありました。私は友達と一緒に、楽しいコースを存分に楽しみました 最後は、全校生徒で一緒に大回りをして、大会を締めくくりました。今でも、陽気な音楽が流れながら、仲間と一緒に走る思い出が鮮明に思い出されます。「ローラースケート」を通じて、私たちは楽しい思い出を作ることができました。 その日は、川沿いのレストランで仲の良い友人たちと一緒にご飯を食べ、再びローラースケートを楽しんでいました。そんな一日を過ごしたことは、今でも忘れられない思い出です。
1982年生まれ

度胸試しなシーソーの思い出

ちーさまさん 大阪府 1982年生まれ 女性 一般的なシーソーの遊び方は、大体同じくらいの体重の子が両サイドに座り、お互いに足を使って地面を蹴り上げて、交互に上下するのを楽しむと思いますが、盛り上がってくると必ず度胸試しの様な遊び方になっていました。 今考えると、なかなか危なっかしいのですが、最初に乗れるだけ乗って、特に掛け声もなく、アクションもない状態から、突然一人抜け、二人抜け、三人…と抜けていき。残り両サイドに一人ずつになった瞬間、最後になった子は凄まじい勢いで下に下がってお尻を打つ…という遊びをしていました。 抜けるタイミングをみはかるのが難しく、途中で抜けれても抜け方が下手ならば転けたりして怪我をすることもあった気がします。 他にも、そもそも座って遊ばずに平均台の様に木の上をバランス良く右から左に歩いたたり、両サイドに一人ずつ立って、思いっきりその場で跳ねてボヨンボヨンと遊ぶ等、優雅にシーソーを遊んだ記憶がありません。 いつも、いつのまにか度胸試しになっていました。
1987年生まれ

しりとりシーソー

moamoaさん 静岡県 1987年生まれ 女性 小学生の低学年の頃、学校内にあったシーソーが友人たちの間でブームになりました。 最初は普通に遊んでいたのですが、だんだんと飽きてくるようになると、しりとりと組み合わせて遊ぶようになりました。 ルールは簡単です。シーソーが下がるごとにしりとりのワードを言います。 特に縛りがないうちはとっても簡単なので、自分たちよりも小さい子と遊ぶときもこのルールで遊んでいました。 ただし、シーソーはスピードを上げることができるので、テンポよく答えないとアウトになってしまいます。だんだん慣れてきたら、食べ物や学校にあるものなど、縛りを入れてしりとりをするようになりました。 このしりとりを取り入れてからは、なんとなくシーソー遊びがブームになっていき、昼休みになったらシーソーへと集まるようになりました。 シーソーは1台で4人まで乗れるタイプだったので、仲良しの4人で一緒に遊んだ記憶が残っています。あるときシーソーが撤去されて遊ぶことができなくなりましたが、とても楽しかった思い出です。
1982年生まれ

シーソーで遊んだ思い出「相手を浮かせたり 勢いよく落とす遊び」

ココちゃん 京都府 1982年生まれ 女性 子供の頃、公園といえば大概シーソーが置いてありました。座るところが赤色と青色になっていて、なるべく相手を空中に浮かしておけた方が勝ちというルールで遊んでいました。 なぜそうだったのか?覚えてないのですが、なるべく相手が浮いておけるように自分だ下がった時にどれほど足で勢いよく踏み込むかそうでないか?を考えながら遊んでました。 さらに、相手が1番高いところからドン!と勢いよく地面に落ちるように、相手が1番高いところまで浮いたらタイミングを見計らって椅子から飛び降りたりもしてました。 自分が1番高いところからドン!と落ちた時には、下にクッションでタイヤが埋め込まれていたんですが、それでもお尻に衝撃が走ったのを覚えてます。 後は体重が重い子に対して何人ほど反対側に乗ったら体重の重い事同じくらいの重さになるか?なんて調べながらも遊んだりしてました。 今だとあまりそんな事したらいじめだとか言われるかも知れないですが、お互いに特に悪気もなく、みんな楽しんで遊んでました。
1986年生まれ

実は怖かったシーソー遊び

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 子供というのはシーソーが大好きだと思いますが、私はどちらかというと苦手でした。苦手ではあるものの、どうしても友達との付き合いで幼稚園の頃や小学生の頃に遊ぶことがありました。 小学校にシーソーがあったかどうかは記憶にありませんが、幼稚園の頃にはありました。私はシーソーをしても基本的に長続きしません。 私は凄くガリガリに痩せている子供で、シーソーをすると必ず私の方が上の方に上がってしまいます。体重の重い子が相手だと、高くなってしまい非常に怖いという気持ちが強かったです。 私は身体に障害もある子供で普通の健常児たちと一緒に遊んでいたので、シーソーはちょっとした恐怖でした。テンポよくシーソーをしている子たちを見ると羨ましくなりました。 痩せすぎていて肉がない為にガッタンゴットンとなる度にお尻がめちゃくちゃ痛かった思い出があります。
1985年生まれ

シーソージャンプでどれだけ高く華麗に飛べるかを競い合う

あろえさん 福井県 1985年生まれ 男性 小学生の頃、毎週金曜日は遊びの日でした。私たちの学校から徒歩で数分の公園によく行きました。「シーソー」は大人気の遊びでした。 私たちは、普通にシーソーを漕いで遊ぶだけでは飽きてしまい、かなり無茶な遊びをしていました。 普通シーソーは両側に1人か2人ずつ座って遊ぶイメージですが、私たちは一度に3人も4人も乗って遊んでいたのです。たくさんの仲間と一緒に乗って大はしゃぎして遊ぶのが楽しかったです。 それからたくさんのオリジナルゲームを考えました。一番過激たっだ遊びは「シーソージャンプ」でした。 一人がシーソーの端っこに立った状態で、逆側のシーソーに二人が飛び乗ります。端っこに立っていた人はシーソーが大きく漕がれて勢いよくジャンプします。そのジャンプの飛距離や芸術性を競うというゲームでした。 今思うと非常に危険です。自分の子供がこんな遊びをしていたらと思うと怖いですが、当時はこういったオリジナルなゲームを考えることで、「シーソー」の遊びは楽しさが倍増しました。 仲間と一緒に遊ぶと、笑い声が響き、楽しい時間。今でも思い出すと懐かしさが溢れてきます。
1985年生まれ

小学生ぶりの箱ブランコ

ゆさん 静岡県 1985年生まれ 男性 小学生の頃に地元の公園に箱ブランコがありました。普通のブランコは小学校や他の公園にもありましたが、箱ブランコはその公園にしかありませんでした。 箱ブランコは何人かで同時に遊べるところが楽しいです。協力して漕ぐと揺れが大きくなってワクワクしたことを覚えています。 他の遊び方としては、箱ブランコに2人で乗り、お互いに向き合い、座る部分のふちに立ちます。そして交互に体重をかけて揺らし合って遊んだ記憶があります。 結婚をして子どもが産まれ、いとこの家に遊びに行った時のことです。いとこの家の庭に箱ブランコがあったのです。近隣の公園でも見かけることがなくなった箱ブランコを見て興奮しました。 子どもたちに箱ブランコのことを説明して一緒に遊びました。小学生ぶりの箱ブランコ。子どもたちにとっては初めての箱ブランコです。私の好きだった遊具で遊べてとても充実した時間でした。
1986年生まれ

身体に障害があっても立ち漕ぎが出来て嬉しかった箱ブランコ

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 小学生の頃団地に住んでおり、坂を少し下ればすぐに公園がありました。広さはかなりあるものの、遊具そのものは少なく。普段はお年よりがゲートボールで遊んでいます。遊具はブランコくらいしかありませんでした。 頃放課後に遊びに行って、先客がいると箱ブランコには乗れません。運よく乗ることができたらラッキーみたいな感じでした。 小学生でも上級生が遊んでいたら、上級生に譲らなければならないという暗黙のルールもありました。 乗れた時はとても嬉しくて、特別なことはせずに普通に乗ることが多かったのですが、私は立って横に立ちこぎをすることが好きでした。 私は身体に障害があり、普通のブランコだと立ちこぎができません。 しかし、箱ブランコはしっかりしているので立ちこぎもしやすく嬉しかったです。調子に乗って早くこいだりもしていました。 ただ、残念なことに今現在その公園はまだありますが、あの思い出の箱ブランコは撤去されて、倉庫みたいな物が設置さています。なぜなくなってしまったのかは分からないですが寂しいです。
1982年生まれ

箱ブランコはみんなでおやつを食べる場所

たきあまーちさん 神奈川県 1982年生まれ 女性 私が小学生の時、放課後は近所の公園に集まるのが日常でした。約束などはなくその日に集まった友達と遊ぶのです。 まずは、それぞれ持ち寄ったおやつをぽっけの中から取り出し交換会です。場所は、箱ブランコに乗りながらです。 くだらない話をしながら、その日のテストや好きな人の話、先生へのちょっとした悪口など、箱ブランコの中でたくさんの時間をすごしてきました。 ある日、隣のクラスのエリちゃんが箱ブランコに乗って泣いてしまいました。いつものようにおやつを出し、話を聞きながら一緒に食べました。 もう少ししたら引越しをすることになった。行きたくないよ。と涙をポロポロと流しながら箱ブランコをこいでいました。私も反対側に座り、行ってほしくないよ。と一緒にこぎました。 二人でこいだので箱ブランコは右へ左へ行ったりきたり、風をきって楽しくなってきました。悲しい顔をしていたエリちゃんもいつの間にか笑顔になっていました。 また、遊ぼうね。と約束して、別れたエリちゃんとの再会はありませんでしたが、私のなかでは大切な思い出です。
1989年生まれ

「怖い箱」箱ブランコの思い出

りんさん 東京都 1989年生まれ 女性 物心がついたとき、通っていた幼稚園にも近所の公園にも箱ブランコがありました。私は早生まれで他の同級生よりも体が小さく、運動神経も悪かったのです。 幼稚園の先生は子供たちを箱ブランコに乗せてくれたのですが、私にとっては恐怖の箱そのものでした。 きちんと席に座ってゆっくり漕いでもらう分には構わないのですが、やんちゃな子供たちはそれだけでは物足りません。 男の子も女の子も背もたれのところに足をかけて立ち上がり、外から自分の体重をかけて箱を揺らすように漕ぐスタイルが多かったように思います。 そうすると当然揺れがどんどん大きくなって怖いし、もう簡単には降りられません。乗っている本人たちはもちろん危ないのですが、ふり幅が大きくなるので周りにいる子も気を付けないと巻き込まれてしまいます。 友達が何度か立ったまま飛ばされたり箱ブランコの下で頭をぶつける姿を見ていたので、そのたびに怖くてあまり近づきたくなかった思い出です。 今でこそ安全面から見かけなくなりましたが、思い出すとぞわぞわしてしまいます。
1987年生まれ

初めて箱ブランコと出会った日

haniwaさん 静岡県 1987生まれ 女性 箱ブランコは、住んでいた家の周りにはありませんでした。ただTVなどでその存在は知っていました。楽しそうだな、やってみたいなと思っていましたが、家の周りにはないので、ちょっとだけ憧れのような存在でした。 ある日、近くに住む従兄妹の家族に行ったとき。両親たちが話している間、従兄妹同士で遊ぶことになりました。従兄妹の家の近くにある公園へ行くことにした私たち。 すると、そこにはTVで観ていた箱ブランコがあるではありませんか!しかも、誰も乗っていません。自分から言いだしたのか、従兄妹たちが言いだしたのか忘れましたが、すぐに箱ブランコに乗って遊ぶことになり、私はワクワク! ところが、想像とは異なりそんなに楽しくはありません…。当時、私はブランコが大好きで、保育園でもブランコによく乗っていました。ゆらゆらと高く揺れることが好きだったのですが、箱ブランコはそれほど高く揺れません。 従兄妹たちは楽しそうにしていますが、想像以上に揺れないブランコに私だけががっかりした思いを抱いていました。 見た瞬間、わくわくドキドキした思いでいたのに、実際乗ってみたら、ひど...つづき
1985年生まれ

「危険な遊び」箱ブランコの立ち漕ぎ

つぼたさん 北海道 1985年生まれ 男性 小学生の頃、よく遊びに行く公園に箱ブランコがありました。普通のブランコや滑り台、ジャングルジムなどの遊具がありましたが、よく遊んでいたのが箱ブランコでした。 乗っている人が足を踏ん張るように漕いで遊んでいましたが、誰かが始めた骨組みのところに手をかけて外側から足で箱ブランコを押すという遊び方で遊んでいました。 足で押すと勢いよく揺れます。限界まで揺らすとブランコの骨組み同士が当たり「ガッタン」と音がして中に乗っている人は少し浮くぐらいの振動がきます。とてもスリルがあり、楽しく遊んでいた思い出があります。 当時の自分たちは箱ブランコのことを「ガッタン」と呼んでいました。 当時は楽しく遊んでいましたが危ないことも何度かあり、足で漕いでいる人が足を滑らせて落ちてしまったり、中に乗っている人が衝撃に耐えきれず外に飛び出してしまったりしました。今思い出すととても危険で、よくケガをしなかったなと思います。
1989年生まれ

かまくらの思い出

ひえんさん 山形県 1989年生まれ 女性 私の住んでいる地域は豪雪地帯で、家の回りには背丈を越えるほどの雪が積もっていました。 小学生の頃、父の提案でかまくらを作ることに。作り方は簡単で、固めた雪に穴をあけるだけです。私と弟はさっそく雪山に登り、足で雪を踏み固めていきました。穴を掘るのは父の仕事。 今では考えられませんが、当時は雪がしっかり固まってさえいれば上に登って遊んでいても怒られなかったのです。 雪は柔らかい部分と固い部分があって、弟は時々柔らかい部分にはまって動けなくなってしまうので、ドキドキしながらの作業でした。 穴を掘るのも結構な重労働です。朝から始めて、完成したのは夕方だったように思います。父は凝り性で、ただ雪山に穴をあけるだけでなく、雪でテーブルと椅子、ランタンを置くための小さな棚まで作っていました。 「雪で作ったのだから寒いはず」と思っていたのに、かまくらの中は暖かくて驚いたことを覚えています。 その日の夕食はかまくらの中で焼肉。当然、その熱で雪が溶けて頭にポタポタと降ってくるのですが、それすらも家族の楽しい思い出になりました。
1983年生まれ

雪合戦で流血の思い出

しもやけさん 広島県 1983年生まれ 女性 雪が積もった日、校庭で急遽雪合戦をすることになりました、クラス半々に分かれてみんな必死な形相で雪玉を投げます。 雪玉はけっこう固く、イヤーマフをしたりニット帽をかぶっていい学校ではなかったので、頭や耳に当たると痛くてたまりませんでした。 でも一生懸命に雪玉を作る係に徹したり代わって投げに投げまくったりすると、寒さはどこかへ行ってしまいます。吐く息は白いのに背中は汗でびちゃびちゃという感じです。 一通り楽しんだ後、教室へ戻るように先生から指示があり下駄箱へ向かっていました。男子数人はまだ後ろの方で投げ合っています。 そして「あっ!!」という声が聞こえて振り向くと遊んでいた男子が投げた雪玉が私の顔にクリーンヒットしました。私の感覚では鼻に当たったと思って思わず鼻を手で覆いましたが、流血しているのは口からでした。 友達がトイレに連れて行ってくれ、鏡を見ると上唇と歯茎から血が出ていて前歯が真っ赤に染まっています。今でも傷跡が残っていて、楽しい思い出は痛い思い出と共に刻まれました。
1986年生まれ

一番乗りで積もった雪に足跡を付ける地味な遊び

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 あまり雪の降らない地域だったので、小学生の頃と言ったら少し雪が積もっただけでも大騒ぎな状態でした。 これは遊びのうちに分類されないかも知れませんが、真っ白な新雪に誰が最初に足跡を付けることができるのかという、謎の暗黙のルールのゲームみたいなものがありました。 まだ誰も足跡を付けていない場所に一番最初に足跡を付けるのは気持ちが良いものです。 登校中の道もそうですが、学校の敷地内でも同じです。休み時間などにまだ誰の足跡が付いていない所を狙っては、自分が足跡を付けるのは凄く快感です。 小学生の頃にやっていたことではありますが、実は大人になった今でもたまに雪が積もった時に、一番乗りで足跡を付けたいという気持ちが強くなります。一人で足跡を付けて喜んでしまっている自分がいます。 いい歳をしてちょっと恥ずかしいですが、子供の頃の地味だけど楽しい、雪が積もった時の遊びが忘れられないからだと思います。
1986年生まれ

珍しく雪が積もった日に 祖父が作った小さいかまくら

桜と雪さん 福島県 1986年生まれ 女性 私の住んでいる地域は福島県ですが雪があまり降らない地域でした。私は寒いのが苦手だったのですが、雪が降るとちょっと嬉しいという気持ちもありました。 珍しく雪が積もったその日は休みでした。祖父の家に遊びに行き、祖父が小さめではありますがかまくらを作ってくれました。 私と妹がやっとギリギリ入ることのできるくらいの小さいサイズのかまくら。テレビでかまくらを見て、凄く憧れていたので、実際に入ることができたことが嬉しかったです。 かまくらが作れるくらい雪が積もったのはあの日くらい。一度切りではありましたがいい思い出になりました。探せばその時の写真がどこかにあるかも知れません。
1989年生まれ

裏庭でソリ遊び

りんさん 山梨県 1989年生まれ 女性 私は小学生のころ、都市部から山梨県へ引っ越しました。それまでは、せいぜい雪が降っても少ない雪をかき集めて小さい雪だるまを作るくらいでした。 しかし引越し先は雪も積もるし庭もある!ということで簡単なソリを買ってもらい、妹と積もった雪に傾斜をつけて滑って遊んでいました。 最初は長靴を履いているのですが、そのうち中に雪が入ってびしょびしょになると、最終的には裸足にサンダルです。当然寒いので、しっかりスキーウェアは着ています。 さすが子供というのか、足の冷たさよりも楽しさの方が上回っていたのだと思います。当時の写真をたまに家族で見るたびに、格好は重装備なのに裸足というギャップに笑われます。 積もった雪にみかんを埋めて、冷凍みかんも作りました。しかしいくつ埋めたのか忘れてしまい。雪が溶けた頃にブヨブヨになったみかんが出てきて思い出す。なんていうこともありました。 一度大雪が降ると通学は大変で苦労しましたが、今ではできない体験もしていたなと思います。
1989年生まれ

おばあちゃんの家での雪遊び

mqqsさん 山形県 1989年生まれ 女性 私は東北の出身で、祖母の家は山形にありました。長期休みは母の運転する車に乗り、よく遊びに行っていました。 冬になると膝までかかるくらいの雪が毎年積もり、私を含め兄弟は祖母の家で遊ぶことが何よりの楽しみでした。柔らかくしっかりした雪は雪だるまやかまくらを作るのに最適です。 雪国には大きなシャベルやスコップは常備されているので土台は簡単に作れます。家の周りや庭の雪をかき集め、兄弟と完成させました。 雪だるまには庭の赤い木の実を目にして、駐車場の石を口にしました。 かまくらは穴をあけるのが難しいので祖母にお願いし、子ども一人入れるくらいのものを作るのがやっとでした。 東北ではなかなか雪が溶けないので、作った雪だるまやかまくらは数日残ります。 誰が一番大きなつららを取れるか、大きな雪玉を作った人の勝ち、など遊びは尽きませんでした。 とにかく楽しくてあっという間に時間が過ぎましたそ、疲れも感じませんでした。東北ならではの雪の楽しみ方だと思います。
1983年生まれ

雪ウサギの思い出

かつおぶしさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、珍しく雪が積もった日がありました。こういう日はなぜか早く目が覚めてしまいます。 家の前に積もった雪で早速雪だるまを作り、枝を手に見立ててミカンを目にしました。ニット帽をかぶせてできあがり。すると妙に愛情が湧いてくるので不思議です。こんな雪だるまを作り続けた結果、家の前の綺麗な雪がなくなってしまいました。 少ない雪で他に何か作れないかと思っていると母が「雪ウサギが作れるよ」と教えてくれました。雪ウサギは南天の赤い実を目にして葉を耳に見立てます。雪だるま以外のものを作ったのは初めてで、想像以上にかわいく作れたので嬉しくなってしまいました。 学校へ行き、友達にこの事を話すとやってみたいと言ってくれ、放課後作ることに。しかし南天の実がありません。小石や葉をちぎって目にしてみましたがあまり可愛くならず。私は一旦帰って庭の南天の実を取りまた学校へ走りました。 行き帰りで30分全速力。日頃、何かに熱中することはありませんがこういう情熱は持っているのです。無事に可愛い雪ウサギが作れて満足した私たちでした。
1987年生まれ

初めての雪遊びの思い出

しゅりさん 愛知県 1987年生まれ 女性 幼稚園の頃に初めて雪遊びをしました。私が住んでいる地域は、冬でも殆ど雪が降らず。振っても少し舞う程度でしたが、その年は数センチ積もりました。 地面で雪が真っ白になったのを見たのは初めて。寒さも忘れてずっと外で足跡をつけて遊んだり、雪だるまを作ったりしました。 親に霜柱の存在も教えてもらい。踏むとサクサクと音がして、子供心にすごく不思議でワクワクしてずっと踏み続けていました。今は、アスファルトの場所がほとんどなので霜柱を見る機会もほとんどなくなってしまったので、とても貴重な思い出になっています。 近所の友達と集まって雪合戦もしました。雪合戦をしたのも初めてで、親が呼びに来るまで夢中になって遊んでいました。 もともと雪が少ない地域で、思いっきり遊ぶ場所も少なくなっているので、雪遊びをした思い出は私にとって本当に大切なものです。この先もずっと忘れずに心にしまっておきたいと思います。
1981年生まれ

思う存分楽しんだ雪遊び 3種類

つららさん 長野県 1981年生まれ 女性 私の故郷は日本で有数の豪雪地帯でした。小さい頃はまだ融雪や除雪の設備が整っていなかったので、街中、自分の背丈よりはるかに高く雪が積もっていました。2階から家の中に入った記憶もあります。 幼少期にした雪遊びの思い出は何点かあります。 1つ目は学校帰りに自分の基地を作ったことです。空き地に積もった雪へ後ろ向きにバタンと倒れます。手で穴を掘ります。友達数人と自分のオリジナルの穴を作って基地にします。家に帰ってはまた戻り、そこでおやつを食べるのが楽しみでした。みかんを凍らして食べたのが美味しかったです。 2つ目は屋根からの雪を利用した滑り台。自然と落雪で雪が積もるので、そこを滑り台のようにしてソリで滑ります。工場などの屋根の下は多くの雪が積もるので長い滑り台ができます。 3つ目は、屋根に長いつららができていたので、氷柱に雪玉を当てると言うゲームです。みんなでやっていました。 寒かったはずですが寒さは覚えてないのが不思議です。
1980年生まれ

変則ルールの雪合戦

カメットさん 山形県 1980年生まれ 男性 雪遊びの定番といえば雪合戦。皆でワイワイと楽しんだ人もいるでしょう。私が小学生の頃、変な雪合戦が流行り、ちょっとした恐怖とスリルを味わいました。 その内容はシンプル。雪玉十個の内の一個に氷の欠片などを入れる、と言うもの(良い子は真似しないでね)。ただの雪玉よりよく飛び、何より当たった人は「痛え!氷入りだ!」などと騒ぐと皆それだけで笑い転げたものでした。 しかし、皆段々とエスカレートして「十個に一個」というルールが破られ、殆どが氷入りの雪玉になり、時には氷をそのまま投げる者まで現れました。流石に不味いと思った者もいて、学校の先生に相談したようです。 全校集会の最後に校長先生が「雪合戦の雪玉に氷を使わない様に」と付け加えました。このスピーチは仲間の間で長く語り継がれる事となりました。
1983年生まれ

石を積み上げるゲームで人生の厳しさを知った

モモンガさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、川沿いに行って意味もなく石を重ねる遊びをしていました。30秒で積めるだけ積んで高い方が勝ちというものです。 なるべく平たく面積がある石が好ましいので、探すのにけっこう時間がかかります。 考えなく積むと結局バラバラと崩れてしまうのでタイムオーバーになり負けます。時間をかけてでも積みやすくバランスがとれる石を探し求めウロウロするのです。 ある日この遊びをしていたところ、運よくちょうど良さそうな石がたくさん見つかりました。せっせと積み上げ、もうこのくらいで勝てるだろうという高さまで積み上げる事ができました。 対戦の友達はまだ石を探しています。その様子を見て勝ちを確信した私は30秒経つのを静かに待っていました。するとバランスが崩れたのか、一番上の石がコロンと落ちました。そこでタイムアップ。 そしてさっきまで石を探していた友達が、土壇場で石を上手く積み上げていて勝ちました。この時、何事も最後まで気を抜いてはいけないのだという事を学んだ私でした。
1983年生まれ

マイクはネギ坊主

しーさーさん 広島県 1983年生まれ 女性 名前のない遊びとして、ネギ坊主をマイク代わりにしてカラオケ大会をする遊びをしていました。ネギ坊主とはネギの先端がフサフサしているところです。 家の周りの畑でネギを育てているおばさんがひょいっとネギ坊主をくれたのがきっかけで、マイク代わりに歌うようになったのです。 近所の子と3人で家の花壇に立って歌うのがお決まりでした。 即興でその時の気持ちを謳うのが面白く、「きょうの~ばんごはん~ステーキだったのらぁいいのにぃ~」という個人的希望を歌にしたり「さんすうー、りかしゃかいー全部きらいー」という今後の成長が心配されるような歌などを大声で歌っていました。 友達が笑ってくれるので、だんだんと気持ちよくなって、みんなでハモリにも挑戦。テレビの音楽番組で見たハモリでしたが上手くできず、そのできないことをまた歌うのです。 日に日にネギ坊主はしおれていきますが、それでもカラオケ大会は続けられました。大人になった今でもネギ坊主を見るとあの頃を思い出します。
1983年生まれ

出演者多めのぬいぐるみごっこ

四つ葉さん 広島県 1983年生まれ 女性 同じクラスの友達とぬいぐるみごっこをして遊んでいました。家にある大量のぬいぐるみでそれぞれ家族を作り好きな役を演じます。 私は3人家族の中の長女役で、友達は5人家族の中の3女役。ちなみに長女と3女は同級生です。 ぬいぐるみにも配役をして声色を変えながら、それぞれアテレコをするので忙しい遊びです。 このぬいぐるみごっこは部屋の中でせずに、玄関先にピクニックシートを2枚敷いて家に見立てて遊ぶのがお決まりでした。 母親役のぬいぐるみに「あら、奥さんこんにちは。明日は参観日ね。着る服なくてやになっちゃう」 「いーのよ、適当で。私なんかいつもの服よぉ。そういえば明日雨らしいわよ。傘を差して行くの面倒くさいわねぇ」と けっこうリアルな切り口から始まり、ある時には兄妹、ある時は父親、必要に応じて祖父母も登場してシビアな展開にもなります。 でも面白いのはすべてその場で喋るのですが、最後には必ずハッピーエンドで終わること。今考えると子どもながらに笑って終わりたいという希望があったのかなと思います。
1987年生まれ

王子様ごっこ

だいじろうさん 京都府 1987年生まれ 女性 小学校1年生のころ、「王子様ごっこ」が私のクラスの女子の中で一時期ブームになった。男子1名を王子様と勝手に設定し、その子のことを1日中「〇〇様」と呼ぶ。 もちろんその他の話し方だったり対応も、本物の王子様を扱うように行う。 何故か標的になった男子は逃げる(今思えば当たり前ですが)ので、休み時間は女子全員で王子役の子を追い掛け回す。 それが異様な光景だったのか、男子からクレームが多かったのか、親御さんから相談があったのかは分からないが、ある日終わりの会で先生が禁止令を出した。 〇〇様と呼ばない、追い掛け回さないという事を約束させられたが、子供なので急に終わることが出来ない。なので、一番人気だった1人の子だけに的を絞り、その子を完全なる王子様とした。 彼はシャイな子で、いつも恥ずかしそうにしていたが、マセた女子からしたらそれが可愛くて仕方がなかった。 しかし現実が見えてきたのか、2年生に上がる頃にはアイドルにハマる子が多く、誰も王子様ごっこをしている女の子はいなかった。 現実とは悲しいもんだなと、たまに思い出しては皆元気かなと思い出に浸ってい...つづき
1984年生まれ

家族ごっこで毎回立候補していた犬役の思い出

キラキラさん 東京都 1984年生まれ 女性 女の子という事もあり、小学生の頃はおままごと遊びのような「家族ごっこ」を頻繁にしていました。友達3、4人でひとつの家族を作り、お父さん役・お母さん役・子供役を決めて、一緒にご飯を食べるなどのごっこ遊びをしていました。 家族の配役を決めるにあたり、私が毎回立候補していたのが「ペットの犬役」でした。 ペット役と聞くと、喋ることも出来ないし、あまり面白味を感じない気もするのですが、当時の私は、「ワンワン」という簡単なセリフだけで他の家族役の友達から可愛がってもらえる、ペットの犬役が大好きでした。 時に、お腹が空いた・散歩に行きたいと、激しくワンワンと吠える事もありましたが、ペットという事で家族のみんなに嫌な顔もされずかまってもらる事が嬉しくて、本当にペットになったような気分を味わっていました。 お世話がしたい子はお母さん役、どしっと偉そうにしていたい子がお父さん役、駄々をこねたり兄弟げんかをしたい子が子供役などと、子供ながらに自分に合った配役についていた事が、今では可愛らしく感じます。懐かしい思い出です。
1983年生まれ

アドリブ多めのお母さんごっこ

ぽてぃとさん 広島県 1983年生まれ 女性 ごっこ遊びと言えばある程度台本が決まっている”お母さんごっこ”です。主役はお母さんで次に子ども、その次にペットの役が人気でした。 不思議なのは、なぜかお父さん役は人気がないこと。男子が混ざってやる時も同様にお父さん役になりたがる人はいませんでした。 この理由として、”お父さん”というと仕事で家にいない事が多い為、お母さんごっこでは出番が極端に少ないということ。それはごっこ遊びではなく現実世界でも同じです。 近年、ようやく父親が育休を取れる環境が整いつつありますが、普及率はまだまだです。そんな感じなので私が小学生低学年の時代は、父親と触れ合った思い出がある子どもは少なかったはず。 こうしてお父さん役は人気がなく、ジャンケンで負けた人がお父さん役となります。 それでも子どもの想像力は凄くて、アドリブ力が強いお父さんや、喋りまくるお父さんを演じる子もいて、台本通りに進まないのが面白くて、よくその男の子に「お父さん役やらない?」声を掛けていたことを覚えています。
1987年生まれ

色鬼ごっこをしていた時に…

ハリーさん 静岡県 1987年生まれ 女性 確か小学校低学年以下だったと思います。当時、色鬼が流行っていて、その日も色鬼をして遊んでいました。 私はあまり鬼をしたくなかったので、一生懸命色を探して逃げ回っていました。ただ、その日、鬼になった友達の狙いは私に絞られており、執拗に狙われていました。 がんばって逃げていたのですが、あと一歩というところでタッチされてしまい、私は鬼になってしまったのです。 その時、私としてはすでに指定された色のものに触れていたつもりでした。それなのに、鬼にタッチされてしまい。次の鬼だよと言われ。悔しさでいっぱいになってしまいました。 タッチされて声を掛けられた時にそれまでずっと狙われていたことや悔しさなどから、つい私は泣いてしまったのです。 突然泣き出した私に鬼だった友達は戸惑います。 私が泣きながら怒るので、友達も怒り、喧嘩に発展。その内に他の友人たちも集まり、更には先生まで駆け寄ってきました。 興奮状態の私はもうこの時には支離滅裂な言葉を話していたように思います。 先生に宥められ、少しずつ落ち着きを取り戻して行きました。鬼だった友達も落ち着いて、最後には私に...つづき
1984年生まれ

学童保育で覚えた お手玉の思い出

おかずさん 岡山県生まれ 1984 男性 私は小学生の時に学童保育に通っており、そこでよくお手玉をして遊んでいました。 お手玉自体も、布切れと小豆で、糸と針で縫って作りました。2つを両手で上に投げながら回していくのは簡単ですが、3つは少し難しかったです。ただ、何度も練習をしていくうちに出来るようになりました。 時計回り、反時計回り、両方で出来ます。一般的には、前でお手玉を入れ替えていきますが、後ろでの入れ替えも頑張って練習し、できるようになりました。 学童の先生はお手玉がとても上手であり、私ができるようになったのは、学童の先生のおかげです。 4つも頑張ってみましたが、結局一度も出来ませんでした。 お手玉はお手製であるため、何度も使っていると布が破け、小豆がバラバラになってしまうこともたまにありました。故意に破いてしまう友達もいました。 飽きてくると、友達と投げ合い、野球のキャッチボールや、ドッジボールのようになってしまいました。今になってやってみましたが、全く出来ませんでした。
1983年生まれ

オリジナルのお手玉遊び

ソロリソロリさん 広島県 1983年生まれ 女性 私は不器用でなかなかお手玉が上達しませんでした。対して友達はすぐに2つ、さらに3つもマスター。どんどんスピードがあがります。リズムよく歌いながらお手玉を回す姿は羨ましく、目で追うだけでもクラクラするほど。 仕方なく私は早々に諦め、オリジナルお手玉遊びの開発に着手しました。ボールのように跳ねないという、お手玉のポテンシャルを活かした遊びです。 小さく切った紙に10点、中くらいの紙に5点、大きい紙に1点と描いて床に置きます。離れたところから投げて紙の上からはみ出さず乗せられたら加点。紙の他にドアノブに乗せられたら12点、トイレットペーパーの芯の上に乗ったら20点等々。あらゆるところに点数をつけ合計を競うという遊びです。 これが結構熱くなってしまい、みんな必死で点数が高いところに投げます。そしてどんどんコツを掴み、上達していきました。お手玉本来の遊びではないこの遊びはヒットし、しばらく私達のブームになったのでした。
1984年生まれ

お手玉と母親の思い出

キラキラさん 東京都 1984年生まれ 女性 小学生の頃に、自宅には母が手作りしたお手玉がいくつもありました。そのため、うちには丸いボールみたいなおもちゃが沢山あるな、とよく思っていました。 ある日、母がお手玉で遊ぼうと私を誘ってきました。私は、この丸いボールで何をして遊ぶんだろうと不思議に思いました。すると、目の前で母が2つのお手玉をくるくると手で投げて回し始めました。 私はくるくる回るお手玉の姿と、シャカシャカとした音に魅了されました。さらに母は、もう一つのお手玉を回っている2つの中に投げ入れて回し始めたのです。まるで手品を見ているかのような、とても面白いものでした。 何よりも、こんな不思議な事ができるお母さんてすごい!と、いつもと違う手品師のような母にびっくりした事を今でも覚えています。巧みな技を披露する母がとてもかっこよく見えました。 それから、何度も何度も母にお手玉のやり方を教わったのですが、私は2個を回す事が限界でした。やっぱりうちのお母さんてすごい!と、母を誇りに思った思い出です。
1983年生まれ

伝承されるお手玉遊び

砂子さん 長崎県 1983年生まれ 女性 お手玉は母や祖母など年齢が上の人ほどびっくりするぐらい上手で、一種の大道芸のような、芸の域になります。 幼少の頃私は、 2つのお手玉を回すのが限界でした。しかし、母や祖母は2個どころか、3個、4個、5個、さらなる個数まで、かなり高さをだしながらどんどん個数を増やして、なおかつとても早いスピード回していくことができました。 その様はとても、華麗で、慣れた手つきがとても格好良く思えたものです。 いつも教えてもらい、1つから練習し、2つに増やし、多く回すための手つきや投げ方を毎日練習していました。いつか祖母のようになれるといいな、と思いながらやっておりましたが、私の限界は3個までで、それが最高記録でした。母や祖母を心から尊敬したものです。 お手玉は手作りのものを使っておりました。母が作ってくれたものを使用しておりましたが、そのうち作り方も習い、自作するようになり、それがまた楽しかったです。 気に入った可愛い柄の布を購入してもらい、中に大豆やあずきを入れて、糸をつかって止めていました。それを使用して、またさらに使用しやすいお手玉の大きさや重さに変えてい...つづき
1983年生まれ

滑り台で思い出す女の子

まめ太郎さん 広島県 1983年生まれ 女性 滑り台で遊ぶときはなぜか逆走という迷惑行為をする子が必ずいるものです。滑りたいのに滑れないということになり大渋滞を引き起こします。 「どいて」と言うとジャンケンで勝ったらねと意味不明なことを言われ、私はプンスカ怒って無理やり股をくぐって滑るという強硬手段に出ました(どちらも危ないので絶対にやってはいけません)。 そしてまたその子は次に滑ろうとする子に同じことをするのです。逆走の子は男の子。滑ろうとする子達はみんな女の子でした。 そんな時、ずっと逆走をやめない男の子を一人の女の子が突然引きずり下ろしたのです。そして小さい声で「やめろって言ってるよね?」と。 一部始終を見ていた私は、その知らない女の子を「かっこいいー!」と思いました。 敢えて小さい声で注意するという私には発想のなかった方法。男の子は一瞬怯んだ様子で、怖くなったのかそのまま自転車に乗って去っていきました。 平和が戻った滑り台で安心して遊ぶことができました。
1983年生まれ

ロング滑り台

ロックンロールさん 広島県 1983年生まれ 女性 友達家族と私の家族とで広くて大きな公園へ遊びに行ったときのことです。そこには長い長い滑り台があり、滑る部分はローラーになっていました。 子どもからすると面白そうな夢のような遊具。すぐさま私と友達は飛びつきます。階段を登り切り、いざ滑ろうとすると思いのほか高い…。ちょっと怖くなりました。 それでも滑ってみたい要望が抑えきれずとりあえず座ってみます。はるか下に見える親たち。振り返ると友達も心なしか顔が引きつっているように見えます。話し合いの結果、一緒に滑ることに。 前後に座りいざ出陣!ズンズンスピードが出てローラーは勢いよく音を立てて回り私達はあっという間にゴールする…はずでした。出陣しても一向にスピードは出ず、ローラーからは軋む音しかしません。滑り台らしからぬ遅さです。 手足を使ってスピードをあげるしかありません。頑張っても公園の滑り台の半分以下のスピードでぬるっと着地。しかしこれはこれで子供の心を掴み、私達は大爆笑。このあと10回以上滑りました。
1980年生まれ

誰よりも遠くに飛ぶ ブランコ遊びの思い出

又兵衛さん 埼玉県 1980年生まれ 男性 私の通っていた保育園には鉄棒やブランコ、シーソー等の遊具がありましたが、遊具の人気ナンバー1はブランコでした。 現在の保育園敷地内は部外者進入禁止になっているようですが、私が小学生の頃は誰でも入ることができていて、近所の小学生は放課後集まって保育園の敷地で遊んでいました。 当時は遊園地など行ったことが無く、小学生時代の私にとってブランコが最も興奮させてくれるアトラクションで、ブランコの推進力によるスピード感に夢中になりました。 高い位置から振り下ろされるブランコによる風を切る音や、高い位置に上がりきったところから後ろ向きで降りる際の浮遊感は心地良いものでした。ブランコを使うことによって視線が高くなり、高い位置から保育園の全貌が見えることが気持ち良かったことを記憶しています。 ブランコは4台あり、同時に漕いで誰が一番遠くに飛べるかを競うことに熱中していました。ブランコを漕いで一番高い位置から飛んでも飛距離は伸ばせず、ブランコの推進力を活かして地面スレスレを狙って飛ぶことで、飛距離を伸ばしていました。 徐々にコツを掴んで飛距離を伸ばせていたのです...つづき
1989年生まれ

今も昔もブランコは人気遊具

たまねえさん 北海道 1989年生まれ 女性 実家の近所にある公園で、必ず遊んだのがブランコです。いつも人気で、上級生が遊んでいるといつまでも待たされてしまい、乗れないまま夕方になってしょんぼりしながら帰宅したこともありました。 遊べたときは友達とどこまで高く漕げるかを競ったり、ブランコの二人乗りをしたり、ブランコに乗りながら靴を飛ばして遊んでいました。 危なかしい遊び方もしたと思いますが、当時はブランコで遊べるだけでとてもテンションが上がり、楽しかったです。 そこから5〜6年経って、高校生や専門学生になったころ、久しぶりによく遊んだ公園へ行くと、ブランコがとても小さく感じました。座ってみると、お尻がピチピチ状態でだいぶきつくなっており…ある意味での成長を実感させられました(笑)。 現在は子どもも生まれ、よく公園に遊びに行くのですが、やはりブランコは人気者。子どもたちが列をなしています。 いつの時代も人気遊具として鎮座し続けるブランコってすごいなあと思います。
1984年生まれ

神社の公園にあった ぶらんこの思い出

ゆうさん 山形県 1984年生まれ 女性 小さい頃、祖母の家のすぐそばに、公園のある神社があって、よくそこで遊んでいました。 そこに行くまでに長い階段があり、妹や従妹と「グリコ」をしながら登り、公園につくと一目散に公園にある2個のぶらんこの取り合いをするのがお決まりでした。 最初は普通に漕ぎながらたわいもない話をしていたのですが、段々時間が経つと立ち漕ぎをしたり、勢いをつけてどこまで漕げるかを競い合ったりしました。 「〇〇ちゃんより私の方が漕げるもん」なんて言いあいをしたりもしました。 それにも飽きてくると、今度は靴飛ばしで競い合うのが恒例でした。どこまで飛んだか土の上に石で線を引いて、「〇〇ちゃんはここ!」「私はここ!」なんて言い合いながら、日が暮れるまで競い合うことが度々ありました。 そして、母に「そろそろ帰ってきなさい」と言われると、また長い階段を「グリコ」をしながら帰るのでした。 とても懐かしいですが、今思うと怖くて出来ない漕ぎ方をしていたなぁと思います。 本当に空に飛んでいきそうなくらい漕いでいた。その時に見た空は凄く綺麗だったことを、今でも覚えています。
1983年生まれ

たんこぶができた弟 ブランコの思い出

たら子さん 広島県 1983年 女性 ブランコというと私は友達の弟を思い出します。ある日、同じクラスの友達と小学校へ遊びに行きました。走って行くと一つ年上のお姉さんと歳の離れた弟がブランコで遊んでいるのが見えました。 私はそのお姉さんと知り合いだったので挨拶をし、3歳の弟を合わせて4人で各々ブランコを楽しんでいました。 しばらくするとすると弟は飽きてしまったのか、足を精一杯伸ばしてブランコから下りてトコトコと歩き出します。私たちはまだ思いっきり立ち漕ぎをしていて勢いがついている状態。 何だか怖いなと思った瞬間、弟がお姉さんの方へ走って向かって行ったので思わず「あぶないよ!」と言いました。 でも弟は、お姉さんの方へまっしぐら。思いっきりブランコとぶつかりズサーァッ!!!っと倒れました。それはもう大泣きです。おでこがみるみるうちに青黒くなり私達はゾッとしました。 幸いお姉さんの家は小学校の隣なのですぐに弟を連れて帰り、心配すぎて私達も一緒についていきました。家に着くと弟は泣き止み、たんこぶができていたのにも関わらず「もういっかい!」とブランコをせがむのです。 お母さんも「うん、行っておいで...つづき
1987年生まれ

親との凧上げの思い出

パンさん 岡山県 1987年生まれ 女性 小学生の頃、お正月になると近くの公園で凧上げをしていました。公園は、遊具よりも広場の面積の方が広かったので、凧上げをするにはちょうどいい広さがありました。 空を飛ぶことに強い憧れがあった小学生時代、自分が飛ばすより、飛んでいる凧を見る方が好きだった記憶があります。親が上手く飛ばしてくれるのを追いかけながら見ているのがとても楽しかったです。 風が強い日は上手く飛ばせなかったり、上手くコントロールができなくて地面に激突させて壊したことがあります。その時は親に怒られるとビクビクしたことも、今では良い思い出です。怒られることはなかったですが、壊れてしまったので冬休み期間中に凧上げができなくなった寂しさもよく覚えています。 友達同士で上げる時には、近づきすぎて紐の部分が引っかかり解いていたら遊ぶ時間が終わってしまうこともありました。 それでも、順番に上げることだったり、離れて飛ばしたりと、今思えば子どもなりに失敗から学んで、ちゃんと考えて飛ばしていたんだなと感じたことでした。
1983年生まれ

凧上げヒーロー

たまこさん 広島県 1983年生まれ 女性 日本のお正月らしく、冬休みに凧上げの宿題が出たことがあります。手が器用な父とビニールを使って作ったあと、川土手まで行って上げてみます。 しかし、風に上手く乗らず失敗。もう一度走り出しましたが、凧がクルンクルンと回ってあっという間に糸が絡んてしまいました。こうなるとなかなか解けません。 悪戦苦闘する私達に川土手にいたおじさんも加わり、なんとか解いてくれました。また走り凧を上げます。でも上手く風に乗りません。 疲れてしまった時、タコ紐を解くのを手伝ってくれたおじさんが再び登場。コツを教えてくれました。ビニール凧なのでフニャフニャしていて上げづらいですが、凧を持って私の走るスピードに合わせてくれました。 2.3回挑戦してみると遂に凧が空高く上がりました。おじさんありがとうと思い、見ると既に遠くに歩いて行っていました。 なんてかっこいいヒーローなんだと思いながら、その後も父と何度も何度も走り、ようやく上手く上げることができました。
1986年生まれ

日本文化との出会い アメリカでのおはじき遊びの思い出

じょうさん アメリカNJ州 1986年生まれ 女性 父の仕事の関係で小さい頃アメリカに住んでいました。日本から親戚が遊びに来た時に、おはじき、お手玉、折り紙等の、日本の昔ながらのおもちゃをいくつかお土産に持ってきてくれました。 私を含め、兄弟は皆アメリカ文化にすっかり馴染んでいたので、初めて見た日本のおもちゃに大はしゃぎ。 特にカラフルな、透き通った飴のようなおはじきに夢中になり、最初は色ごとに兄弟で分け、次第に他の色も欲しくなって交換をはじめ、いつしかおはじきの奪い合いにまで発展しました。 それ以降、日本の親戚が遊びに来る時には、新しいおはじきを買ってきてくれるようになりました。 日本ではどのように遊ばれているのか知りませんでしたが、私たち兄弟は、最初は眺めたり集めたり並べたりして遊んでおり、しばらくしてからはお店屋さんごっこをする時のお金として使うことが定番となりました。 緑色は1ドル、黄色は5ドル、赤色は10ドルという具合です。 アメリカ人の友達が家に遊びに来る時も、同じようにして遊んでいたので、もしかしたら友人は日本のお金は綺麗だなと勘違いしていたかもしれません。今では良い思い...つづき
1983年生まれ

必死のおはじき遊び

きな粉さん 広島県 1983年生まれ 女性 小学校時代におはじきで遊んだ思い出と言えば友達のおばあちゃんを思い出します。昔の遊びを教えてくれた優しいおばあちゃんでした。 今はあまり見かけなくなったコタツにみかんスタイルの和室で、友達3人と一緒におばあちゃんにおはじきを教えてもらったのです。 最初におはじきを見た時は遊ぶものと言うよりかは「綺麗だなー」とか「メダカや金魚の水槽に入っている石だなー」という事。 おばあちゃんは菓子箱の蓋を使って、「相手のおはじきをはじいて、ここから出たら負けよ」と言って早速友達のおはじきをはじいて見事に蓋の外へ。相手が小学生でも容赦しません。 そんなおばあちゃんだからこそ、私たちも負けじとおばあちゃんのおはじきめがけて順番にはじいていきます。しかしコントロールが難しく、狙った方向へ跳んで行かないのです。 みんなほっぺが赤くなり、いつの間にかコタツから全員出ていました。おばあちゃんも必死です。あっちへ跳びこっちへ跳び、おはじきも忙しそう。夕方5時の曲が流れ、決着がつかない日もありました。 おばあちゃんのおかげで、私たちはとても楽しい時間を過ごさせてもらいました...つづき
1986年生まれ

小学校の昔遊びの会で おばあちゃんの活躍

sizukuさん 茨城県 1986年生まれ 女性 ある日わたしの小学校で「おばあちゃん達に昔の遊びを教わろう」というイベントが開かれました。地域のおばあちゃんが招かれたのですが、その中にわたしのおばあちゃんも参加していました。 昔のめんこ遊びやおてだま、おはじきなどの遊び方を教えてくれて、来てくれたおばあちゃん達と一緒に遊んでいました。その時わたしのおばあちゃんが教えてくれたのが、おはじきでした。 おはじきは家にもあったのですが、きれいなビー玉のようなものだったのでわたしは眺めて楽しむものだと思っていたのです。遊び方があるというのをそこで初めて知ってびっくりしました。 おばあちゃんがみんなの前で、遊び方を教えながらやって見せます。みんなも知らなかったようで、興味を持って聞いていました。中にはおはじきを初めて見たという子もいました。 わたしのおばあちゃんはそういった場で話したり教えたりするのが上手な人なので、とても説明が分かりやすく穏やかに話していて、なんだかわたしはどこか誇らしげな気分になったのでした。
1989年生まれ

おはじきを飲み込んでしまった 苦い思い出

みさん 兵庫県西脇市 1989年生まれ 女性 私が子供の頃、ガラスでできたおはじきのキラキラが好きで集めていたので、祖母がよくおはじきを買ってきてくれました。 祖母がよく遊んでくれていたので、姉と一緒に祖母に戦いを挑んでいたのですが、熟練の技がすごすぎて戦いを挑んでは負け、また挑んでは負けを繰り返していました。何回やっても勝てないくらい祖母は強かったです。 ある日、一人で遊んでいた時に、なぜかおはじきを口に入れていました。しばらく部屋でゴロゴロしていたら、何かの拍子におはじきを飲み込んでしまい、びっくりして母に泣きつきました。 母は心配もしてくれましたが「何してるの!?なんで口に入れたの?」とかなり怒られました。 その時は特に病院にも行かず水をいっぱい飲んでいたら、数日後トイレの時に無事に排出されました。母にかなり怒られたので、それ以来あまりおはじき遊びはしなくなりました。 今でも実家に帰るとたまにその話を掘り返されます。恥ずかしい苦い思い出です。
1984年生まれ

「おはじき当て」と「おはじき止め」の遊び方

おかずさん 岡山県 1984男性 私は小学生の時、学童保育に行っていました。そこで友達とおはじきをしてよく遊んでいました。 【おはじき当てのルール】 おはじきを散らばせて、自分と相手のおはじきを一つずつ選びます。そして、散らばっているおはじきのうちの一つを宣言して、これに選んだおはじき(ビリヤードの白い球のように)をぶつけて当てます。 当たったらそのおはじきがもらえ、当てられなかったら1回休みです。これを2人交互に行なって、得られたおはじきが多い方が勝ちです。 綺麗なおはじき、大きいおはじきは人気であり、それを狙う友達も多く、私も狙っていました。 【おはじき止めのルール】 机の一方の端におはじきを置いて、他方の端目掛けて、2人同時に、手で押して飛ばします。端により近くおはじきを止めた方が勝ちですが、机の端から落ちてしまったら負けです。勝てば自分と相手のおはじきがもらえます。 一般的には消しゴムでやるのだと思いますが、その学童保育では、おはじきでやっていました。
1983年生まれ

校庭で宝探しの思い出

あるぷすさん 広島県 1983年生まれ 女性 今思うと、小学生時代って変わった遊びを好んでしていたなぁと思います。2年生の時、校庭にビー玉を埋めて”宝探し”として遊んでいました。代わりわりばんこに「この辺に埋めたよー」と言って、友達に掘り出してもらいます。 この時、3回に1回くらいはどうしても宝(ビー玉)が出てこない事があり、2人で首を傾げることもしばしば。その時は「ワープしちゃったんだ!!」と騒ぎ、違うビー玉でやり直し。そんな遊びでした。 ある昼休憩、いつものように遊んでいると「今日は学校が終わったら校庭に集合ね」と友達が言いました。行ってみると、もう友達は先に来ていて、鉄棒で遊ぼうという事になりました。 するとここに宝があるから探してほしいと言うのです。友達の中で昼休憩の宝探しはまだ続いていたようです。 そして鉄棒の近くの地面の色が違うところを発見し、掘ってみると、宝と手紙が出てきました。「おとなになってもあそぼうね」と書いてありました。 その友達は中学卒業後引っ越してしまいましたが、とてもほっこりする思い出です。
1983年生まれ

兄弟で競った ビー玉の箱迷路ブーム

fine weatherさん 広島県 1983年 女性 子どもの頃、箱迷路がマイブームになりました。 事の始まりは、兄弟がお歳暮の空箱を利用して迷路を作ったものに私が目を付け、ビー玉を入れて箱を上下左右に動かしスタートからゴールまで何秒でいけるかという遊びをし始めたのがきっかけです。 あっという間に兄弟間で取り合いになり、誰が一番早いタイムを出せるかという競争に発展。 末っ子の私はどうしても勝てず「私が思いついた遊びなのに~!」とプンプンと怒ったりしながらも、だんだんとコツを掴み。 「このカーブでこうしてぇ…こっちは手前でスピード落としてからぁ~ドン!よしよし、いいぞぅー」と大き目なひとり言を言いながら熱中しました。 ようやく一番になれると自信が付いた頃には、もうみんなは飽きてしまい、私しか熱中していませんでした。う。 子どもの飽きっぽさはすごく早い。誰とも対戦できないと分かると急に寂しく感じ、やる気が失せる私。いつの間にか箱迷路ブームは終わってしまったのでした。
1984年生まれ

祖母に教えてもらった「ビー玉当て」の思い出

きたぎつねさん 愛媛県1984年生まれ 男性 私は、4歳から6歳まで祖父母宅で育てられました。ゲームやマンガなどの遊ぶものがなく。夜ご飯まで何をして過ごそうか悩んでいました。 そんな時、祖母がビー玉を買ってくれました。一人遊びにちょうど良いと考えたのか、遊び方を教えてくれました。後にそれが「ビー玉当て」だと分かったのは、私が4年生になった時でした。 祖母はビー玉を1m~2mぐらいに乱雑に置きました。一つを私に渡して置かれたビー玉を狙いなさいと言いました。言われた通りに投げてみるが当たらない…。すると祖母はニンマリ顔で「かしてみ」と言いました。 私は一個も当たらなかったのに祖母は次々と当てていく。 当たったビー玉を祖母が拾っていきます…。ルールがよく分からないままスタートしたゲームでしたが、祖母がニンマリして拾っていく様を見てルールを理解しました。 さらに祖母は「本当だったらこれは、ばーちゃんの物とだけど、初めてだから返してあげるから練習してみな」と言いました。 それからは悔しくて、一心不乱に練習したのを覚えています。それから一週間に一度ほど対決を行い。取った取られたで楽しく過ごせたのが...つづき