男性が小学生の頃にした遊びの思い出

1974年生まれ

楽しかったコマ回しの思い出

まさおさん 京都府宇治市 1974年生まれ 男性 小学低学年の頃にコマの回し方を覚えてから、5年生の頃まで遊んでいました。 ある日、全校朝礼の時に校長先生が、「実は教頭先生がコマ回しの名人です。これから見せてもらいましょう」と言って、教頭先生がグラウンドでコマ回しを披露してくれました。コマを回して手のひらに乗せたり、綱渡りをしたりと多彩な技を見せてくれ。すごいなあと感動しました。 それからコマの紐のつけ方を教えてもらって練習しました。最初は失敗が続きましたがすぐに回せるようになり、そこから毎日練習していました。 コマの素材としてはプラスチックや木でできたものなど色々ありますが、一番安いプラスチック製が一番回しやすかったように思います。 手のひらに乗せたり綱渡りができたり技も習得して、ますますコマ回しが楽しくなりました。 友達と同時にコマを回してどちらが長く回っているかを競ったり、お互いに回したコマを紐で引き寄せてぶつけあったりいろいろな遊び方をした記憶があります。 何年か経って高校生くらいの時に、当時遊んでいたコマ回しをやってみようとしたら上手く回せなかったので、子供の頃の集中力ってす...つづき
1967年生まれ

近所の男の子と独楽遊び

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 この遊びはお正月に遊ぶものですが、時期が過ぎても独楽回しはしていました。近所の男の子や自分の兄弟と独楽で遊びました。 独楽の遊び方は上の兄が教えてくれました。私は5人兄弟の次男坊です。5人のうち4人が男です。自分の子供ができた今でもお正月に独楽回しをしています。 独楽の遊び方としては、右手で勢いよく回した独楽を空中に飛ばし、右手に乗せる遊びです。これは今でもできます。 右手に乗せたら、そのまま走ってどこまで走れるか競い合いました。走る途中で独楽を手から落としてもダメですし、手の上の独楽が止まるのもダメです。 今は独楽で遊ぶ方が少ないのでしょうか。保育園で独楽回しをしたら、それを練習するようになります。新しい遊びが主流ですが、昔懐かしい独楽回しなどをお正月にすると、懐かしい子供の頃を思い出します。
1984年生まれ

二重跳びの思い出

おかずさん 岡山県 1984年生まれ 男性 小学五年生の時、縄跳びがとても流行っていました。五年生の教室は屋上のスペースの向かいにあり、縄跳びには絶好の場所だったためです。 二重とび、後ろ二重とびはもちろん、後ろ駆け足二重あや(片足ずつ後ろ二重にし、両手をクロスさせてまた戻す)、後ろ交差二重あや(両手をクロスさせたまま、後ろ二重をする)など、様々なバリエーションがありました。 二重とびが得意で、120回連続で飛べました。本当はもっと多い回数跳べていたと思いますが、気を失って、目が覚めたら保健室でした。 体育の時間に、全員同時にスタートして、引っ掛かったら脱落していき、三人くらい残って、負けたくない一心でやっていたためです。 三重とびは10回くらい、後ろ三重跳びも5回くらいできたと思います。 最近になって、姪が縄跳びをしているのを見て、私も久しぶりに跳んでみたところ、姪は軽々と跳べる一方、私は全然跳べずショックでした。25年前の過去の栄光にすがるのは辞めます。
1996年生まれ

体育の授業の嫌だった縄跳びの思い出

白菜太郎さん 茨城県 1996年生まれ 男性 私が小学生だった頃の体育の授業での少し嫌な思い出です。当時、冬になると体育の授業では毎年のように縄跳びがありました。私は縄跳びが得意ではなく、特に二重跳びが1回もできなかったことを今でも覚えています。 そんなある日の授業で、先生が皆の前で言いました。「今日は最初に皆で二重跳びをやってもらいます。10回跳べた人からその場に座ってください。全員ができるまで終わりませんよ。」 二重跳びができない私にとっては地獄のような提案でした。 そして、先生の「始め」の合図で皆が一斉に縄跳びを始めました。縄跳びが得意な子から座り始め、あまり得意ではない子もやっとのことで跳び終わり座っていきます。 しかし、私は1度も跳ぶことができませんでした。次第に私以外の全員が跳び終わり、私が跳ぶのを見守り始めます。クラスの皆や先生が見ている中、1人で何度も何度も失敗し続ける姿はとても悔しく恥ずかしかったです。 結局は1度もできることなく、「今回はここまでにしましょう。」という先生の言葉で地獄のような時間は終わりました。今思い出しても本当に嫌な思い出です。 ちなみに、中学校で...つづき
1988年生まれ

冬の縄跳びの痛い思い出

とび兎さん 兵庫県 1988年生まれ 男性 小学生の頃、私の通っていた小学校では、冬の体育の時間に縄跳びをする事が多い学校でした。 服装に関して上は長袖の着用は許されていたのだが、なぜか下は半ズボンじゃないといけないルール。寒い中の縄跳びは冷えた体に縄が当たる恐怖があるのに、さらに下が半ズボン。今思えばどういう拷問なのかと思います。 普通に飛ぶだけではなく、1つ1つの技をクリアしていき自分のチェックリストを埋めていくような形でした。 後ろ跳びやクロス跳びとかはゆっくり出来るので、当たってもそこまでの痛さは無かったんですが、二重跳びは勢いも必要で普通にするのも当時は難しく、さらに当たると痛いという怖さもあり、なかなか出にずに苦労しました。 勇気を出してやった時に思いっきり素足に当たり、激痛と共に鞭を撃たれたようなミミズ腫れになりました。その後の体育の縄跳びは全て休んでしまおうかと思ったくらい嫌になったのが思い出です。
1973年生まれ

痛かった 悔しかった縄跳びの思い出

ナポリタン星人さん 東京都 1973年生まれ 無回答 縄跳びは幼稚園から中学生の頃にやったと記憶しています。 幼稚園の時は走り縄跳びをやりました。普通の縄跳びではなくどこかに縄を結んでおいてそれをジャンプするだけのもので、何回か縄を高くしすぎて足を引っかけてしまい地面に頭を打ってすごく痛かった記憶があります。 小波跳びという縄の片方をどこかに結んで、もう片方を姉が持って自分の足元で左右に揺らしその縄をジャンプし続ける。あまり楽しくはないんですが姉と遊んだのはその時ぐらいだったなと思い出しました。 小学生になってからは、自分一人で前回し跳びや二重跳びなど普通の縄跳びをします。後ろ二重跳びがうまくできませんでした。 友達と二重跳びの回数を競ったりした時、自分はあまり運動神経はよくないので必ず負けてしまって悔しい思いをしました。 中学生の頃は大勢で並んで縄跳びをする大縄跳びで、自分が足に引っかけて止めてしまうことがよくありましてその時も悔しい思いをしました。
1993年生まれ

縄跳びから友情の思い出

TYさん 沖縄県 1993年生まれ 男性 私が小学校4年生の頃に転校した先の学校で、友達ができずに悩んでいました。普段その学校の男の子たちはサッカーをして遊んでいましたが、私はサッカーが苦手でした。恥ずかしいので参加するのを拒んでいました。 ある日の休み時間にみんなは、サッカーではなく縄跳びをしていました。縄跳びならできると思い。私も参加しようとしましたが、A君は私のことが気に入らない感じで仲間外れにされてしまいました。 数日後、縄跳びで遊んでいた男の子達がいたので、参加したかったのですが、A君がまた仲間外れにしようとしました。 私は、心の中で「またか…また仲間外れか」と思い。その場を立ち去ろうとしたら、B君が寄ってきて、私に「一緒に遊ぼう」と言ってくれました。その時はすご嬉しかった記憶があります。 そして私とほかの男の子たちと縄跳びをして遊んでいると、A君がいないことに気づきました。その場から立ち去っていたのです。その時は何とも思いませんでしたが、他の男の子たちがA君を仲間外れにしたのです。 その日の放課後、A君は運動場で一人で泣いていました。それを見た私は、A君がかわいそうになり、...つづき
1974年生まれ

長縄跳びの練習の思い出

タケシさん 大阪府 1974年生まれ 男性 小学生の頃、私は長縄跳びが苦手でした。実際に縄跳びをするとヘタヘタでした。いつも練習している子たちよりも遅く降りてしまうことが多かったです。 そんなときに思い出に残るエピソードがあります。 1つ目は、縄跳びの練習中に縄が切れてしまったことです。私は練習をしていたところ、突然縄が切れて、思わず足が抜けて転んでしまいました。周りの子たちは私を見て笑いましたが、私はとても恥ずかしかったです。 2つ目は、大縄跳びの大会で負けてしまったことです。学校で行われた大縄跳びの縄跳びの大会に出場しましたが、私のミスで、引っ掛かり残念ながら負けてしまいました。周りの子たちががっかりしているところを見て、とても悔しい、悲しい気持ちになりました。 このような経験から、私は「練習することが大切」ということを学びました。毎日、少しでずつですが、練習して、縄跳びが多少はできるようになったのを覚えています。大げさですが、努力は大切だと感じました。
1979年生まれ

駄菓子屋のベーゴマ

おむすびさん 香川県 1979年生まれ 男性 小学校の頃でした。近所におばちゃんが営んでいた駄菓子屋さんにベーゴマがありました。その頃はガンダムのプラモとかエアガンが人気で、ベーゴマはすでに昔のおもちゃ枠になっていたので、見向きをすることもなく素通りをしていました。 私は小学校のクラブ活動で工作クラブに入っていました。私が工作クラブに入ったのは、好きなプラモデルを月に一回学校に持って来て作る名目で、親にプラモを買ってもらうためでした。 工作クラブでは上級生の子たちがベーゴマ対決をしていました。上級生の子たちはある程度プラモ作りも終えて、違う遊びを色々やってみたかったんだと思います。 大掃除に使うワックスが入っていた筒形のカンカンに布を張り、その上にお互いベーゴマを落として先に止まるか、はじかれて落ちた方が負けという「喧嘩ゴマ」のルールでした。 私もお小遣いを握りしめ、駄菓子屋でベーゴマを買って練習をしたのを覚えています。上手く回すのに苦労しましたし、カンカンの上にコマを落とすのにも苦労しました。今となっては良い思い出です。 100均にあったベーゴマを買って、子供に回し方を教えたりしてい...つづき
1983年生まれ

何やってんの!!ベーゴマで怒られた思い出

かずきさん 福島県1983生まれ 男性 多分お正月とかだったと思います。小さい頃に親戚一同が我が家に集まりました。親戚のおじさんが、竹トンボやベーゴマ、福笑いなどを持ってきてくれて、「たまにはみんなでこういうので遊ぼう!!」となりました。 子供達で一斉に玩具をとって遊びだしました。親戚のお兄ちゃんがベーゴマを手に取り、紐をコマに巻いていきました。 僕はお兄ちゃんの紐を巻いてる所をジッと見て、自分も見おう見まねでコマに紐を巻いていきました。お兄ちゃんは水切りのフォームで綺麗にコマを回しました。 それを見て僕は「野球投げじゃなくて、水切りの感じで投げれば良いんだな。よし!お兄ちゃんのコマなんか弾き飛ばしてやる!!」そう思った僕は1メートルくらい後ろに下がり、助走をつけ、お兄ちゃんのコマめがけて勢いつけて投げました。 水切りというか、ドッチボールの横投げのフォームで。物凄いスピードで飛んで行ったコマは、案の定ガラスにガチャーン!「何やってんの!!」母親から雷が落ちました。今となっては良い思い出です。
1988年生まれ

児童館のベーゴマ遊び

るんるんさん 兵庫県 神戸市西区 1988年生まれ 男性 私は小学生の頃、学校終わりに児童館に毎日行っていました。みんなとよくベーゴマで競い合って遊んでいました。 その通っていた児童館には、技のやり方を書いた紙があり、初級は普通に回すことから始まり、紐を使って綱渡りをしたり、回っているベーゴマに紐を絡めて宙に飛ばして手の平に乗せて回すなど、色々なレベルの技に挑戦していきました。 自分が今どれぐらい出来るようになったのかチェックを付けます。児童館にいる先生に検定試験的なものをやってもらい合格することができれば、その児童館の中で表彰を飾ってもらえるというものでした。 それをもらうことが出来ると周りに自慢する事もでき、目立つことが出来るのでみんな必死に取り組んで遊んでいました。 ただ、ベーゴマの数もそれほど多くあったわけではなく、早く来た人から順にできるので、取り合いになって喧嘩したり、順番が回ってこなくて先生から怒られたり、いろんなトラブルがありました。
1976年生まれ

ベーゴマを教えてくれた友達

たいさん 埼玉県 1976年生まれ 男性 小学生5年生の時、私は転校しました。引っ込み思案の子供だったので新しい環境にもなじめず友達もなかなか出来ませんでした。 学校の休み時間も一人で机にうつ伏していることが多かったのですが、ある時、H君が「君はベーゴマ持ってる?」と話しかけてきました。 私はベーゴマはおろか、独楽さえも持っていません。持っていないと伝えると学校が終わったら公園に来るように言われました。 学校から帰ってランドセルを置いて公園に行ってみると、H君とK君がいてベーゴマで遊んでいました。僕が近づいていくとH君が「はい」といってベーゴマとヒモを私に渡しました。 私は「やったことがないから出来ないよ」と伝えると、H君はヒモの巻き方と投げ方を教えてくれました。結局、その日私は、ベーゴマをまわせませんでした。 帰り際H君が言いました。「そのベーゴマをあげるから、練習しなよ。すぐ回せるようになるよ」私は家に帰ってからも、ベーゴマの練習をしました。 ベーゴマを見た父は懐かしいがって私からベーゴマを取り上げるといとも簡単に回しました。その後、父からも教わることでベーゴマを回すことが出来るよ...つづき
1968年生まれ

「駄菓子屋で運命の出会い」ベーゴマ遊びの思い出

昭和チルドレンさん 宮崎県 1968年生まれ 男性 昭和の小学生の社交場、それは駄菓子屋。そこで友人と見つけたベーゴマ。当時の小学生は遊ぶ時間はイヤというほどあったので、友人とベーゴマにチャレンジしてみました。 怪しげな説明書きを見ながら、ヒモの先の方に1cmぐらい開けて結び目を2か所つくりました。その2つの結び目をとっかかりにして、ベーゴマにヒモを巻きつけていきます。 これがなかなか難しく。頼りなさそうな説明書きを真似しながら、巻きつけていきました。なんとか巻きつけて、固そうな地面に向けてスナップを効かせて回してみました。 最初は、むなしく転がるだけでした。しかし、時間だけはたっぷりある小学生だったので、友人たちとあーでもない、こーでもないと言いながら、何度も何度もチャレンジしました。 だれかのが、少しでも回り始めると、そいつのやり方を真似しながら、研究開発が進みました。これぞ昭和の遊びの醍醐味といった感じでした。 みんながそこそこ回せるようになったら、大きめのバケツに布を張って、ベーゴマの台をつくりました。台の布をぴんと張るのもコツがあって大変でした。 最初はその台の中に着地させる...つづき
1989年生まれ

戦わずして遊ぶベーゴマ

harukazuさん 岐阜県 1989年生まれ 男性 小学校6年制の時、クラスの中でベーゴマが流行りました。私ははじめ、ベーゴマの存在も知らず遊び方もよく分かっていませんでした。 仲の良かった子がやっていたこともあり、コマを購入し戦っていくうちにベーゴマの魅力にとりつかれました。 相手のコマを飛ばして勝った時の快感は今でも忘れられないです。みんなで集まってワイワイ騒ぐこともとっても楽しかった。 ある時一人の子がどこから入手してきた情報なのか分かりませんが、「コマを削るときれいだし角がとがって強くなる」と言って自分のコマを削ってきました。 そのコマを見た時、キラキラと銀に光ったコマが本当にかっこよく、強そうに見えました。自分も真似してみたいと思い、やり方を聞きコマを削ってみました。 削られたところがきれいに光るのが嬉しく、オリジナルのものを作っている感覚がまた面白さを増し、みんなどんどんとこだわるようになっていきました。 いつしかコマを回して戦うよりも、いかにきれいなコマを作るかが主になっていきました。今はどこにいってしまったか分からないコマですが、思い出としてはずっと大切なものです。
1957年生まれ

ベーゴマ遊び そこでは沢山のことを教えてもらいました

akusubさん 東京都江東区 1957年 男性 その当時は、今と違って、年齢に関係なく、様々な学年の友達グループがあって、遊びの種類でもグループ別に遊ぶことが自然に出来ていました。 メンコのグループ、ビー玉のグループ、ベーゴマのグループ等々。もちろん、重複したメンバーもいるのですが、多くの遊びのための集まりがあちらこちらに存在しているのでした。 それぞれに得意な分野があって、そこで技量を競い合うというところが楽しみの一つでもあったのです。 年下の子に年上の子がツルツルしたベーゴマをどうやって回すのかを手取り足取りで教えるところから始まります。 回すひもで結び目を二つ作り、それを上手にまいて、たたきつける様にバケツに敷いた特殊なシートに投げ込むテクニック。 出来ずに泣きたくなるような時もありましたが、みんながめげずに一生懸命に教えてくれたので、上手く回せたときの喜びは何とも言えないものでした。 しかし、ひとたび勝負となればお互い容赦はしません。年上の子が、年下の子を負かせて、ベーゴマを取り上げることも当たり前で、その逆もあることで、勝負の厳しさを身に染みて身体で学ぶのです。 子供の世界...つづき
1978年生まれ

10人で一斉ベーゴマ

あそびーさん 大阪府 1978年生まれ 男性 小学校の低学年の時、よくベーゴマで遊んでいました。隣の小学校では全然流行っていなかったけど自分の小学校ではとても流行っていました。 大きめのフライパンを用意して、その中でお互いにベーゴマを回し、ぶつからせてはじき出したら勝利というゲーム。勝つとそのベーゴマを取られるということをしていたので、勝てばうれしいし、負ければ悔しいという感じでした。 一度自分のベーゴマを全部取られてしまい、悔しい思いをしましたが、何個か返してくれたのでよかったです。 コツは無理に回そうとするのではなくて、腕を使うのではなくて体を動かすようにして回すと、勢いよく最後まで回転を保つことができます。 10人ぐらいで大きな机の上で一斉に回し、最後まで残れば勝ち。すべてのベーゴマをとれるというゲームをやっていました。1年程度でベーゴマで遊ぶことはなくなったけれど、今思えばみんなで遊ぶことができた良い経験をできたと思います。
1957年生まれ

「大切な1枚を仕上げていく楽しさ」メンコの思い出

はなちゃん 東京都 1957年生まれ 男性 小遣いを握りしめ、近所の駄菓子屋で売っているメンコを選ぶところから勝負は始まります。 一つ一つ、表面の絵柄はもちろんですが、紙の厚さや表面のツルツル加減、手にしっくり馴染むかどうかまで、じっくりと時間をかけて選びます。それが、本当に楽しくて、なけなしの僅かな小遣いから勝負に勝つための大切な1枚を選び抜くところは、至福の時でした。 更に、選び抜かれたその1枚にはカッコいい表面の図柄をより引き立たせ、しかも、勝負に有利なようにする工夫が施されるのです。 容易にひっくり返されないために、全体の重量を増すために、表裏にロウを丁寧に塗るのです。そうすることでカッコいいツヤのある図柄となり、大事な勝負にうってつけの1枚になります。 第一、ロウが塗ってあるので、水をはじくことで、雨の日でも勝負に負けることはありません。 みんなそんな工夫をそれぞれが持ち寄って、最高のメンコに仕上げて勝負に挑むわけですから,いやがうえにも勝負の最中は盛り上がります。 欲しいと思った相手のメンコをひっくり返した時の喜びや、大切にしていた1枚を持って行かれた時の悔しさを、繰り返し...つづき
1967年生まれ

熱き漢(おとこ)のメンコバトル!

昭和の生きた化石さん 宮崎県1967年生まれ 男性 駄菓子屋で買った四角いメンコや大判の丸いメンコを使って、公園で遊んでいました。会場は砂地ながら、固い地面のところでやっていました。 相手のメンコをひっくり返すと、そのメンコをもらうことができました。上手な子は、金属製の箱にぎっしりと戦利品のメンコを詰めこんで自慢していました。 戦略としては、できるだけひっくり返されないように、メンコ自体をセロハンテープなどで補強したり、水分や油分など、いろいろなものをメンコの紙に吸わせて重くしたりする作戦がありました。 相手のメンコを狙うときに、自分の足をそえて狙いやすくするのと、風圧をコントロールするテクニックがありました。 叩き付けるときの風圧を上げるために、できるだけデカいメンコを使うようにしていましたが、逆にデカいとターゲットになった時に、ひっくり返りやすかったので戦略的にも奥深いものがありました。 学校にメンコを持ち込むと、先生に没収される恐れがあったので、学校では牛乳瓶のふたでメンコバトルをしていたのも、懐かしい良き昭和の思い出です。 牛乳瓶のふたでも、アホのように盛り上がってやってました...つづき
1975年生まれ

給食の牛乳のふたパッチでめんこ遊び

月音山さん 新潟県 1975年生まれ 男性 自分たちの地域でも子供たちの遊びはめんこ遊びでした。 当時、駄菓子屋にはテレビのキャラクター、仮面ライダーやウルトラマンなどの絵が描かれためんこは大人気でしたが、そういっためんこは大型のめんこで、上手な子には簡単に負けてしまうことが多かったです。 子供が買えるめんこの多くは500円程度だったと記憶しています。そんなに頻繁にキャラクターの入っためんこは買えず、小さなあまり有名でないような絵のめんこで遊んでいました。 そんな時、ある同級生が給食中にふとあることに気づきました。当時、小学校の給食には牛乳が必ず出てきて、その牛乳は今と違って瓶詰めの牛乳でした。その牛乳の瓶には紙の蓋がついていました。 それに目を付けた同級生が、牛乳瓶のふたでめんこ遊びを始めました。ところが、使用済のその蓋は反っているためにすぐに負けてしまいます。 そこで考えた子がいて、牛乳会社の本社に「新品の牛乳瓶のふたが欲しい」旨の手紙と返信用に封筒を同封して送りました。すると、その牛乳会社から返信があり、たくさんの新品の牛乳瓶のふたが送られてきました。 それは硬く、真っ平らな新品...つづき
1978年生まれ

代表的なメンコのゲームルール3種類

あそびーさん 大阪府 1978年生まれ 男性 小学校の時、よくメンコ遊びが流行っていました。遊び方はいろいろとあります。 その① 机にあるメンコを上からメンコで叩き、裏返したらそのメンコを取ることができます。 その② 次に机の上にあるメンコ同士をはじきとばして、机から落せたらそのメンコをとることができます。 その③ 机にあるメンコをパッパッと勢いよく息を吐くようとばし、裏返ったらそのメンコをとれることができます。 代表的なメンコのゲームはこれぐらいで、人によりさまざまなゲームの仕方があります。みんないろいろなゲームを考えて遊んでいました。 叩いて裏返すメンコのコツは、力任せに思い切り叩くのではなく、軽く打ち付け風を起こすような感じでメンコを叩きつけると簡単に裏返すことができます。 メンコを取られることもあったけど、取り返すこともあり、楽しい思い出です。 一番メンコを持っている子は1000枚くらい持っていたので、絵柄など欲しいものがあると交換したり、お菓子と替えたりして遊んでいました。
1961年生まれ

今から50年ぐらい前の話 パッチンの遊び方

たくしゅんさん 広島県 1961年生まれ 男性 小学生の時の遊びなので、今から50年ぐらい前の話になります。「めんこ」という言い方が一般的に全国区のようですが、私の地域では「パッチン」と言っていましたので、「めんこ」と言うと何となくピンときません。 「パッチン」で遊ぶには、自身が持つパッチンがもちろん必要ですが、もう一つ必要なものがあります。それは「覚悟」です。パッチンでの勝負による結果によって、そのパッチンの所有権が移動するからです。 すなわち、勝負に負けるとそのパッチンは相手に取られるのです。よって、遊びの醍醐味は勝つことそのものではなく、相手から奪い取った戦勝品の数の多さを競うことになります。 私の地域では、スタンダードな遊び方である、地面に置いた相手のパッチンを自分のパッチンで叩いて裏返すという遊び方もしていました。 こちらで流行っていたのは、名前は忘れましたが、道路上適度に設置してあったゴミ入れ(石製)の上部にパッチンを置いて、草履やツッカケ、サンダルなどを使ってパッチンを横から叩き、前方に飛ばす遊びです。 ルールは簡単で、一番よく飛んだパッチンが勝ちとなります。勝負のカギは...つづき
1986年生まれ

お菓子のおまけのメンコと 牛乳のフタのメンコ

倉田さん 福岡県 1986年生まれ 男性 小学校時代にメンコ遊びが流行っていました。僕の世代ではアニメのお菓子におまけとして付いている丸型のメンコでした。みんな小学校の近所にあるお菓子屋でお菓子を買い、中に入っているメンコを使って遊んでいました。 最初はひっくり返したら相手のメンコが貰えるというルールで遊んでいました。自分のメンコが取られたくない人が増えて、おまけのメンコは収集目的のトレーディングカード的なものになりました。 牛乳瓶の蓋を平らにして乾かし、お互いメンコのやり取りなしというルールで遊んだりもしました。 牛乳のフタを何枚も重ねてテープで貼って分厚くして、分厚くしたフタをひっくり返せるか?と遊んだり、牛乳のフタを横につなげて広く平たいものを普通のメンコでひっくり返せるか?など色々なバリエーションの遊び方をしていました。
1974年生まれ

ガンダム ウルトラマン 仮面ライダーなどのメンコのコレクションと遊んだ思い出

まさおさん 京都府宇治市 1974年生まれ 男性 私の地域でメンコが流行していたのは小学4,5年生の頃だったと記憶しています。当時は駄菓子屋やおもちゃ屋でメンコをたくさん販売しており、お小遣いで購入していました。 ガンダムやウルトラマン、仮面ライダーなどのメンコが主流だったように思います。メンコはクラスの同級生よりも近所の子と主に遊んでいました。 地面が砂だとめくるのが難しく、アスファルトだと簡単にめくれました。 めくれたメンコはめくった人の物になるので、みんなかなり気合を入れて遊んでいました。セロテープを巻いたり、軽く折ったりして少しでも強力にしようとみんな工夫していました。 みんな自分のお気に入りの柄のメンコは取られたくないので、いらないメンコばかり出していたように思います。 コツが分かってくると、力任せに振り下ろすのではなく角度をつけて投げたりと頭も使うようになりました。 メンコはコレクションとしても大きな楽しみの1つ。日曜大工が趣味の父親が木で箱を作ってくれて、そこに入れて大切に保管してました。その箱をテーブルに置いてメンコを取り出して眺めるのが何よりの楽しみでした。
1984年生まれ

「ゴムとび」と「ゴムダン」のルール

おかずさん 岡山県 1984年生まれ 男性 【ゴムとび】 ゴムとびは、10人くらいでやっていました。100均で売っているような、パンツ用のゴムです。2人は両側で腰の高さくらいで持っていて、残り8人で順番に跳んでいきます。男とびと女とびがあります。 男とびは、ゴムに対して平行に跳び、右足をあげてゴムを越え、その後左足もゴムを越えます。ゴムにあたっても、飛び越えられたらクリアです。 女とびは、ゴムに対して垂直に跳び、右足、特に足首の部分を引っ掛けるようにして跳び、その後左足も同様にゴムを越えます。 だんだん高くしていき、越えられなかったら脱落、最後の1人になるまで競います。走り高跳びのように助走をつけて跳ぶのではなく、ゴムの目の前に立って跳びます。 【ゴムダン遊び】 ゴムダン遊びも10人くらいでやっていました。 2人は両側でかかとに引っ掛けて輪にしており、残り8人は輪の中にいます。 グーで輪の中に足を入れ、パーで輪の外に足を出します。 だんだんペースを速くして行き、間に合わなかったら脱落。最後の1人が優勝です。
1968年生まれ

「鬼ごっこ」で味わえるもの

Tenさん 福井県の学校の校庭 1968年生まれ 男性 テレパシーで示し合わしたかのように、放課後の校庭で「鬼ごっこ」がはじまります。 鬼決めしたあと、逃げる子たち(以下、逃げ子)は広大な校庭の端々にある遊具をうまく逃げるツールとして使いながら鬼との距離を保とうと必死です。 鬼に追い詰められタッチされた子は鬼になり、おおよそ3人単位で手をつないだまま、次のターゲットを追い込んでいきます。 鬼グループは少しずつ多くなっていきます。 この時逃げている自分は、高所恐怖症のような下半身がゾクゾクするようななんとも言えない恐怖心にかられますが、最後まで逃げ切る雄姿を頭に描きながら奮闘します。 3人が手をつなぎ構成する単位は絶妙な大きさで、両端の2人が別の方向へ追いかけようとするとターゲットを逃してしまいます。 何せ校庭は広く1グループだけで攻めるには限界があり、複数のグループが同じターゲットを攻めないと追い込めません。 時には鬼がのばした手の指の風圧を袖に感じながらすり抜けた達成感は「逃げ子」でなければ感じることができません。 追い詰めている途中よりも、いよいよ最後の「逃げ子」が捕まった瞬間が、...つづき
1978年生まれ

高尾山で遊んだ鬼ごっこ

少年の心を持った中年親父さん 東京都 1978年生まれ 男性 幼稚園と小学生時代に鬼ごっこにハマりました。 特に小学校の昼休憩では、必ず友達と校庭に出て、毎日鬼ごっこを楽しんだ記憶があります。 20人くらいで鬼ごっこする時は、鬼1人では大変なので、「鬼チーム」と「逃げるチーム」に、じゃんけんで分かれるルールを作り遊んでいました。 小学校高学年になると学校の校庭などではエリアが狭く感じるようになり、遠足で高尾山登山が予定されていたことから、担任に登山後に1時間鬼ごっこを高尾山で行いたい旨を遊び友達全員で提案し、30分の時間制限での実施が了承されました。 高尾山に行くのは初めてだったので、事前にと友達の家に集合し高尾山について調べました。 そこで、鬼ごっこができそうなエリアも目星をつけ、遠足当日を迎えました。 高尾山に着いて、まずは登山でしたので無我夢中で登り切り、スタート地点に下山しました。 鬼ごっこ遊びをする友達全員の下山を待ち、揃ったところで事前に調べたエリアに移動し、高尾山鬼ごっこを行いました。 学校の校庭と違い広いことこの上なしでした。 また、山ならではの開放感も遊び心が刺激され...つづき
1978年生まれ

色鬼の思い出

おむすびさん 香川県 1978年生まれ 男性 5歳の頃、幼稚園の運動場で友達と鬼ごっこをしていました。 運動場にはグラウンドのほかに滑り台やブランコ、ターザンロープやテントウ虫型の穴の開いた遊具で、中に入れるものなどがありました。 初めはグラウンドの方で走り回ってただ追いかけるだけの鬼ごっこでしたが、お兄ちゃんお姉ちゃんがいる友達は色々な遊びを知っていて「色鬼をしよう」と言ってきました。 私は色鬼が何のことだかさっぱりわからず、掴まらないように走って逃げるだけの「鬼ごっこのルール」で参加していました。 遊んでいるうちに、色鬼のルールは ①鬼が指定した色の所に登って逃げる。 ②10秒間だけいられる。 ③10秒で離れないといけない。 というものだと分かりました。 鬼は大変でした。 色を指定して、そのたびに10秒数えないといけない。 考えながら動かないといけない。 賢い子は、色を指定してその色に逃げた子の一人をロックオンし、10秒待って降りたところを捕まえる技を編み出していました。 何もなかったけど、知恵と工夫の楽しさがありました。
1992年生まれ

田んぼの側溝でザリガニ釣り

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 今はもう埋め立てられて住宅になってしまいましたが、私が子供の頃は家の近くに田んぼがあり、その側溝でよくザリガニを釣っていました。 ネットでザリガニ釣りについて調べるとさきイカなどを餌にするとよく釣れるといった情報を見かけますが、当時の私は特に餌とか糸だとかザリガニ釣りのために道具を用意するような事はしていませんでした。 そこら辺で拾った細い枝や長くて丈夫な草なんかでつついたりするとハサミでそれを挟んでくる事があるので、そのタイミングで引っ張り上げて釣っていたと思います。 釣った後はなかなかハサミを離さないのを面白がって枝や草ごと振り回したり、近くの公園の水道を全開にして水を浴びせてみたり結構ひどい遊びをしていました。 ただザリガニを釣るのは好きでも触るのは苦手なタイプだったので、ハサミをちぎるとか解体して楽しむような残酷な遊びはやらないしできなかったですね。 飽きたら側溝に帰すわけでもなくそこら辺にほったらかしにしていたような気がするので結局死なせてはいたと思いますが。
1984年生まれ

ザリガニ釣りの思い出

アゴパンダさん 秋田県 1984年生まれ 男性 ザリガニ釣りという遊びがあることは知っていましたが、自分が子供の頃ザリガニ釣りをして遊ぶという習慣はありませんでした。 一気に年をまたいだ話になりますが、自分に子供が出来て一緒にザリガニ釣りをする機会がありました。 場所はとある娯楽施設でその建物の一角でザリガニ釣りコーナーがあり、そこでのザリガニ釣りが、自分と自分の子供たちの初めてのザリガニ釣りになりました。 子供たちの楽しそうな顔を見ていて、初めは傍観していた自分もザリガニ釣りをしたくなり、子供たちと一緒に楽しみました。 それからしばらくして、とある公園でザリガニ釣りができるところがあると知り、子供たちと共に向かいました。 そこではたくさんの親子連れがザリガニ釣りを楽しんでいました。 子供は以前の経験を活かして他のどのグループよりもかなりの量のザリガニをつっていました。 その近くでなかなか釣れずに、寂しそうな顔押して、あまり楽しめていない子供がいた事に気づいた我が子が、その子の近くに自分が釣ったザリガニをリリースしているのを見て、とても心が和みました。
1968年生まれ

アメリカザリガニの思い出

昭和原人さん 宮崎県 1968年生まれ 男性 小学校時代、田んぼの用水路の流れがよどんでいるところでアメリカザリガニをよく釣っていました。 長い棒の先にタコ糸をむすびつけ、その糸の先にさきイカの切れ端を結び付けて準備オッケーです。 ザリガニが潜んでいそうな水草あたりにゆっくり下ろしていってじっくり待ちます。 ザリガニがさきイカに気づくと、しっかりとハサミでつまんだ状態で引き上げることができます。 ザリガニがいそうなポイントを下調べして知り尽くしていることが大切です。 友達と二人で競争したときは、二人でバケツからあふれるぐらい釣った思い出があります。 夢中になっていて時間があっというまに過ぎていました。 一人で、釣っている時に用水路にすべり落ちて全身水まみれ泥だらけになったことがありました。 今考えると命に関わっていたかもしれません。 安全にザリガニ釣りをするのは難しい気がします。 さすがにザリガニを食べようとしたことはありませんが、大人になった今、食べてみたらどんな味がするのか、興味はあります。 ロブスターっぽい味がするのでしょうか?
2002年生まれ

「DS鬼ゴッコ」のルールと遊び方

しんごパパ 埼玉県 1973年生まれ 男性 私は2002年生まれではないのですがこの遊びを紹介します。 2002年頃に生まれた子どもが小学生になる2008年頃、子供達の間では「DS鬼ゴッコ」なる新しい遊びが、流行しました。 デジタルのおもちゃを使った次世代鬼ごっこです。 ニンテンドーDSには、「ピクチャット」とう通信機能があり、画面にペンで書いた文字や絵を情報交換をしながら鬼ゴッコするもの。 【DS鬼ゴッコのルールと遊び方】 1、基本的なルールは鬼ゴッコと同じで、子は鬼から逃げる。鬼が子にタッチしたら鬼を交代の繰り返し。 2、子は、隠れながら「鬼がここにいる」「鬼が○○くんに変わった」などの情報を交換する。 3、鬼は、仲間のふりをして偽情報を流して仲間に近づき、いきなりタッチをしたりもできる。 4、チャット通信ができる範囲は30メートル程です。 5、同じようにピクチャットを使ってケイドロや、かくれんぼも出来ますね。 時代が変わっても、遊ぶ場所が少なくなっても創意工夫して、新しい遊び方を発想するんですね。 外遊びをするきっけかに子供さんに教えてみたらどうでしょう。 子どもたちに携帯電話や...つづき
1973年生まれ

爆竹を使った遊び①「う○こ爆弾」の思い出

しんごパパ 埼玉県 1973年生まれ しんごが子どもの頃に友達としていた爆竹を使った遊びの思い出です。 しんごが子どもだった頃は、近所に駄菓子屋さんやタバコ屋さんがあって、子どもが「爆竹」を簡単に買うことが出来ました。爆竹は火薬の詰まった花火の一種で導火線に火を付けると「パン!」という大きな音で破裂します。 しんごもしんごの友達も爆竹を使った遊びが好きで「小さな爆弾」を手に入れた気分でわくわくしました。いろいろなものを爆竹で吹き飛ばして遊びました。 あるとき友達と一緒に「うんこ爆弾」という遊びを開発しました。 うんこ爆弾の遊び方は、 1、束になっている爆竹をばらして、一本の爆竹にします。 2、導火線を長めにした一本の爆竹を、犬のうんこに挿します。 3、みんなで、そのうんこの回りに集まってひとりが導火線に火を付けます。 4、各自爆竹が爆発する寸前に素早く逃げる。というスリル満点の遊びです。 度胸試し的な遊びです。 爆発ギリギリで逃げた子は、みんなから「凄い!」と言われ。 最初に逃げた子は「弱虫」とからかわれます。 あるときこの遊びをしていたら、友達は火を付けてから後退りで逃げたため、足を...つづき