男性が小学生の頃にした遊びの思い出

1996年生まれ

駐車場でのローラースケートと その後のスケート場の思い出

なおくん 岐阜県 1996年生まれ 男性 小学生の頃、私は両親から誕生日にローラースケート靴を与えられました。 私は何も欲しがらない子どもだったので、両親は悩んだ挙げ句、誕生日プレゼントとしてローラースケート靴を買うことにしたそうです。 今思うと、あの時の誕生日プレゼントをローラースケート靴にしてくれたことは、私にとって良い体験となったので、本当に感謝しています。 私の家は拡大家族で、大人はみんな車で仕事に行くので、駐車場は6台分の車が止まれる広さでした。 私が学校から帰ってくると、大人はまだ仕事から帰って来ていないので、駐車場には一台も車がなく、そこはスケートリンクの様でした。 私は毎日、夕方大人が帰ってくるまでの数時間一人で思う存分ローラースケートを楽しみました。 友達が私の家の前を通ると、当時ローラースケートを見たことがない子どもが多かったので、羨望の眼差しで見られて、何だか嬉しかったです。 住んでいたところが田舎の山奥で冬になると雪が積もり駐車場でローラースケートをすることが出来なくなります。しかし、丁度ローラースケートをもらった年に近所にスケート場が新しく出来。私は両親に連れ...つづき
1985年生まれ

ローラースケート大会の思い出

あろえさん 福井県 1985年生まれ 男性 小学生の時に学校近くの公園で行った「ローラースケート大会」の日のことです。会場は緑豊かな公園で、陽気な音楽が流れていました。 先生たちが主催してくれた大会は、走っているだけでも楽しいと思うような企画がたくさんありました。 例えば、謎解きコースやテクニカルなコースが用意されていたり、色んな色の巨大なクレヨンを使って、足元に色を付けながら走るという企画がありました。私は友達と一緒に、楽しいコースを存分に楽しみました 最後は、全校生徒で一緒に大回りをして、大会を締めくくりました。今でも、陽気な音楽が流れながら、仲間と一緒に走る思い出が鮮明に思い出されます。「ローラースケート」を通じて、私たちは楽しい思い出を作ることができました。 その日は、川沿いのレストランで仲の良い友人たちと一緒にご飯を食べ、再びローラースケートを楽しんでいました。そんな一日を過ごしたことは、今でも忘れられない思い出です。
1971年生まれ

おさがりのローラースケート

あっき~さん 千葉県 1971生まれ 男性 小学生の頃、友達の間でローラースケートが流行り、自分もローラースケートが欲しくなりました。親にローラースケート買ってよと言ってもなかなか買ってもらえませんでした。 家には兄が使ってたと思われるローラースケートがあったので、仕方なくそれを履いてあそんでいましたが、いかんせん古くて、タイヤもゴムではなく硬いプラスチックのような素材であまり滑りませんでした。 ある時、近所の友達数人で土手のサイクリングロードに滑りに行こうぜということになり、みんなでローラースケートで行きました。 サイクリングロードを走っているとみんなとの差がどんどん開いてくる。全然すべらないローラースケートを履いて懸命に滑っているけど、全然ついていけない。 遠ざかる友達たちをみながら、ああ悔しい。 なんで俺は新しいローラースケートじゃないんだよ。 あいつがもってたゴムのぶっといタイヤのローラースケートめっちゃすべりやすそうだったじゃん。 おれもほしーなー、ああいうやつが。 と思いながらノロノロすべっていると、はるか先に行ってた友達たちが、もう引き返して来たので、屈辱的な気分でまた合...つづき
1975年生まれ

「技と音」ローラースケートの思い出

さぼてんさん 和歌山県 1975年生まれ 女性 4人兄弟で一つのローラースケートを使っていました。サイズを大きさによって調整できたのが当時で考えると画期的だったと思います。子供でも簡単に微調整できたので時間を決めて兄弟で使用していました。 最初はよくこけて、足がどんどん広がっていってしまったのを覚えています。子供は体が柔らかいのですぐに滑ることができました。 自転車に引っ張ってもらって早く滑ったのが楽しかったです。 坂道で下り降りるのもスリリングでしたが、大概途中で斜めに曲がって溝に落ちていました。 近所の友達と競争したり追いかけっこもしていました。 家の前の道路で遊んでいたので、使い終わったローラースケートが道に転がっているのも懐かしい風景です。 家が立ち並ぶ道で遊んでいたので、ローラースケートの滑る音がすごくうるさかったと思います。母には騒音になるとよく怒られていましたが、近所の人から怒られたことはありませんでした。 そう思うと近所の方の温厚さや穏やかさがあったんだと思います。今では難しいことですが、ご近所で子供を育てていたんだと思います。
1967年生まれ

当時大流行したローラースケートでたくさん遊んだ体験談

ローラーたくやさん 兵庫県 1967年生まれ 男性 僕は小学校5年生の頃、父の仕事の関係で地方へ移住しました。生まれ育った都会とは違い、のどかな田園風景が広がる場所でした。 その地域で、流行っていたのがローラースケート。自動車があまり通らず、長く続く近所の道路は、絶好のローラースケート場です。 友だちが楽しそうにローラースケートをしているのを見て、親に同じものを買ってもらい、彼らの仲間入りをしました。 当時のローラースケートは、靴のサイズに合わせて金属製のローラースケートを履き、ベルトで固定するタイプでした。 アスファルトの道路は滑りが悪いので、あまり転ぶこともなく。ガチャガチャと音をたてながら滑っていました。放課後は、友だちとよく競争をしながら楽しく遊んでいたものです。 ある日、数キロ離れた手柄山公園という場所に無料の屋外ローラースケートリンクがあることを知りました。休日に友だちのご両親が車で、僕たちをそこへ連れて行ってくれました。 そこで初めて知ったのが、リンクの舗装がアスファルトとは違い、すごく滑らかだったことです。「すごくスピードがでそう。少し怖いかも。」と恐る恐る滑り始めると...つづき
1968年生まれ

すべってころんで楽しいローラースケート

昭和チルドレンさん 宮崎県 1968年生まれ 男性 小学生のころ、3つ上の兄がスケートボードを粋がって始めました。ホントに、流行り始めたばかりのころでした。残念ながら、バランス感覚や運動神経に乏しい私には、スケボーを乗りこなすことが難しかった。 そこで、まだ2本足だし、タイヤもたくさんついているローラースケートならやれるだろうと思い立ちました。ド昭和のローラースケートは、自分が普段履いている靴に、ヒモやバンドでしばりつけるようなタイプでした。 靴と一体型のような高級な物はとても買えません。靴にローラースケートをしばりつけ、まず立ち上がるところから大変でした。バランスを取るのに一苦労。 両足で立つことが出来るようになると、ゆっくり滑るのは、氷の上でやるスケートよりは簡単だなと思いました。 広い公園の固いコンクリートの上で滑る練習を一生懸命していました。慣れてくると、ちょっと大きめの石を並べて、8の字やスラロームで滑る練習をしました。 真っ暗になるまで夢中で滑っていた小学生時代が懐かしく思い出されます。
1985年生まれ

シーソージャンプでどれだけ高く華麗に飛べるかを競い合う

あろえさん 福井県 1985年生まれ 男性 小学生の頃、毎週金曜日は遊びの日でした。私たちの学校から徒歩で数分の公園によく行きました。「シーソー」は大人気の遊びでした。 私たちは、普通にシーソーを漕いで遊ぶだけでは飽きてしまい、かなり無茶な遊びをしていました。 普通シーソーは両側に1人か2人ずつ座って遊ぶイメージですが、私たちは一度に3人も4人も乗って遊んでいたのです。たくさんの仲間と一緒に乗って大はしゃぎして遊ぶのが楽しかったです。 それからたくさんのオリジナルゲームを考えました。一番過激たっだ遊びは「シーソージャンプ」でした。 一人がシーソーの端っこに立った状態で、逆側のシーソーに二人が飛び乗ります。端っこに立っていた人はシーソーが大きく漕がれて勢いよくジャンプします。そのジャンプの飛距離や芸術性を競うというゲームでした。 今思うと非常に危険です。自分の子供がこんな遊びをしていたらと思うと怖いですが、当時はこういったオリジナルなゲームを考えることで、「シーソー」の遊びは楽しさが倍増しました。 仲間と一緒に遊ぶと、笑い声が響き、楽しい時間。今でも思い出すと懐かしさが溢れてきます。
1978年生まれ

「一人シーソー」と「大人数シーソー」

banaさん 神奈川県 1978年生まれ 男性 シーソーは遊び方次第で危険な遊具にもなります。今の子供たちには決して真似してほしくないシーソーの遊び方です。 基本的なシーソーの遊び方は? ニ人もしくは、四人でバランスをとって交互に跳ねて遊びます。 一人で遊ぶシーソーの遊び方とは? 難易度は高いですが実はジャンプをすることで、一人シーソーは可能なのです。ただし、己のお尻にダメージを与えてしまいます。ジャンプする。浮いて落下する着地と同時にお尻を強打する。あまり楽しかったという記憶はありません。 多人数で遊ぶシーソーの遊び方とは? 単純にシーソーに乗れるだけ子供たちが乗りこむだけ。ただし、みんな遊びの顔はしていません。どれだけ体重がある子を乗せられるかという闘いなのであります。 皆で勢いよくジャンプする。相手チームも負けじと勢いよくジャンプする。勝負にならないときが多いですが、相手チームにお尻を強打させた方が勝ちとなります。
1978年生まれ

スリル感満載のシーソー遊び

遊び大好き少年さん 東京都 1978年生まれ 男性 小学校の校庭にあったシーソーで、放課後にクラスの友達と遊びました。 シーソーというと交互に上がったり下がったりという単純な遊びのイメージがありますが、その遊び方だけに捉われずに、友達と話し合いスリル感を味わえるシーソー遊びを考えました。 それは、シーソーに乗る人数を通常は左右に1人ずつですが、片方の人数を増やし(例えば3人)、1:3の割合でシーソーをするということです。 これによりシーソー自体のバランスが悪くなり、振り子のように一定のリズムで動かなくなります。これがシーソーから振り落とされるかもしれないというスリル感が生まれ、楽しめることができました。 また、片方3人のうち、1人が向かい相手のシーソーに上下に動いている最中に移動するという遊びも考案しました。これは、先生とかに見つかると確実に注意されることになるので、放課後で先生が手薄になった頃を見計らい遊びました。 「先生に見つからないか」というスリル要素も加わり、今思い出しても最高に楽しかったです。
1977年生まれ

シーソーの両端に石を置いてバランスをとる遊び

さんかくさん 山大阪府 1977年生まれ 男性 公園にあったシーソー。最初は、兄弟や友達と普通に乗り合って遊んでいるだけで楽しかったが、小学校も高学年になると、それだけではつまらなくなります。 そして、思いついたのが大きくて同じような石を友達と1個ずつ見つけてきて左右に乗せて重さを競い合う遊びでした。 この遊びは石を見つけるのが難しく。やっと同じような大きさの石を見つけてきた頃には、もうどっちが重いかなんてどうでも良くなってしまい。全然面白くありませんでした。 最終的にたどり着いたのが「同じ重さの石」を見つける事でした。遊び方としては、先程と何も変わっていませんが、どっちが重いかを考えるより、同じ重さの石を見つける方が、友達と何かを共有しているような気持ちになりました。 同じ重さの石を見つけられた時には、一緒に何かをやり遂げたような充実感が漂い。単純な遊びでしたが、繰り返して遊ぶ事が出来ました。
1985年生まれ

小学生ぶりの箱ブランコ

ゆさん 静岡県 1985年生まれ 男性 小学生の頃に地元の公園に箱ブランコがありました。普通のブランコは小学校や他の公園にもありましたが、箱ブランコはその公園にしかありませんでした。 箱ブランコは何人かで同時に遊べるところが楽しいです。協力して漕ぐと揺れが大きくなってワクワクしたことを覚えています。 他の遊び方としては、箱ブランコに2人で乗り、お互いに向き合い、座る部分のふちに立ちます。そして交互に体重をかけて揺らし合って遊んだ記憶があります。 結婚をして子どもが産まれ、いとこの家に遊びに行った時のことです。いとこの家の庭に箱ブランコがあったのです。近隣の公園でも見かけることがなくなった箱ブランコを見て興奮しました。 子どもたちに箱ブランコのことを説明して一緒に遊びました。小学生ぶりの箱ブランコ。子どもたちにとっては初めての箱ブランコです。私の好きだった遊具で遊べてとても充実した時間でした。
1951年生まれ

ガキ大将と箱ブランコの思い出

katsuさん 兵庫県 1951年生まれ 男性 僕が小学生の低学年だったころに箱ブランコで遊んでいた時です。高学年の子が来て強く押して高くまで上げました。怖くなって降りたいと言ってもなかなか止めてくれませんでした。 僕らが降りて他へ行くと今度は彼らが遊び始めました。きっと親切に押してくれたのは僕らをブランコからおろすための嫌がらせだったと思います。だから彼らが帰るまでしばらく普通のブランコで遊んでいました。 僕らが高学年になった時は、箱ブランコの中で立って足を右左にバッタンバッタンと漕いで遊んでいました。 仲間が集まると皆(3人位)が片方に全員座り、右から左に移動してブランコを徐々に動かして行く方法で出来るだけ速く動かす遊びもしてました。 するとまた高学年の子がやってきて、ブランコを揺する嫌がらせをするのです。「降りろ」「嫌や」と言った口喧嘩が始まりました。 そうこうしているとガキ大将がやって来て「お前ら使わへんやったら」俺が乗ると言ってブランコを一人占めしてしまいました。 擦った揉んだしたあげく、最後は仲直りをして皆んなで一緒に遊ぶ事になりました。
1970年生まれ

「一歩進化した遊び」箱ブランコからのジャンプ

せいざいさん 家の近くの公園 1970年生まれ 男性 小学校のころは通常のブランコ、箱ブランコ、滑り台などをフル活用して遊んでいました。特にスリルがあったのは箱ブランコからのジャンプです。 遊び方は、箱ブランコに二人で乗って一生懸命漕ぎます。その一方で背もたれの上の部分のパイプに一人がブランコの外側を向いてつかまります。 箱ブランコは一生懸命漕ぐと漕いでいる人の足場がなくなるのも恐怖ですが、その状況の中、背もたれの部分に外側に向いてつかまり、ブランコの勢いでジャンプするのはとてもスリルがあります。 自分が思った以上に飛び出すので、空中で安定した姿勢をとるのが難しいほどです。 当時ガンダムが流行していたので、みんな「アムロ行きまーす」といって、箱ブランコをカタパルト代わりにして飛び出したものです。 私の子供の記憶なので詳細ではありませんが、2階建てのベランダぐらいはジャンプできたと思います。 着地した時は土の地面でも足が痛かった記憶があります。今考えるとかなり危ない遊びをしていたなと思います。現在は許してもらえないでしょうね。
1985年生まれ

「危険な遊び」箱ブランコの立ち漕ぎ

つぼたさん 北海道 1985年生まれ 男性 小学生の頃、よく遊びに行く公園に箱ブランコがありました。普通のブランコや滑り台、ジャングルジムなどの遊具がありましたが、よく遊んでいたのが箱ブランコでした。 乗っている人が足を踏ん張るように漕いで遊んでいましたが、誰かが始めた骨組みのところに手をかけて外側から足で箱ブランコを押すという遊び方で遊んでいました。 足で押すと勢いよく揺れます。限界まで揺らすとブランコの骨組み同士が当たり「ガッタン」と音がして中に乗っている人は少し浮くぐらいの振動がきます。とてもスリルがあり、楽しく遊んでいた思い出があります。 当時の自分たちは箱ブランコのことを「ガッタン」と呼んでいました。 当時は楽しく遊んでいましたが危ないことも何度かあり、足で漕いでいる人が足を滑らせて落ちてしまったり、中に乗っている人が衝撃に耐えきれず外に飛び出してしまったりしました。今思い出すととても危険で、よくケガをしなかったなと思います。
1951年生まれ

雪合戦

katsuさん 兵庫県 1951年生まれ 男性 小学生の頃は雪が降って来ると急いて外に出ました。まず空を見上げ、口を開けて雪の味を確かめる事から始めます。冷たいだけでかき氷みたいに美味しくはありません。 そうこうしていると雪はどんどん降って来ます。体が雪で真っ白になります。寒くなってきたので家に入り、窓を開け見ていました。 翌朝は早く起きて外に出ました。あたり一面雪景色でした。学校に行って皆んなと雪合戦ができると思いました。 朝ご飯を食べ急いで学校に行きます。もう早い子が来てました。雪をかき集めて小山を作っていたので、僕も一緒に集めるのを手伝いました。 少し集まると今度は雪ダルマの作成です。そして雪ダルマの前を雪で囲いました。又違うグループも反対側に同じような雪ダルマの前に囲いが出来ていました。 さあ!これから両方に別れて雪合戦です。雪を丸めて弾を作り相手に投げつけました。 すると授業の始まる鐘の音がキンコンカンコンと鳴り、途中ですが教室に入らなからばなりません。残念! 次は休み時間にと思い教室に戻りました。しかし気になって窓から外ばかり見ていたら、先生に注意されてしたいました。終。
1956年生まれ

スリル満点の雪遊び

yuumi0108 福井県 1956年生まれ 男性 片田舎の雪深い地域に生まれ育った私は,6年生にもなれば屋根の雪下ろしをしなければなりません。ある雪深い日に一人で屋根の雪下ろしをしていました。 雨と違って家の中が汚れたり濡れたりすることがありません。部屋から屋根に出るときも、終わって部屋に戻るときもウォークインスルーです。 ところがその日は天気も良く、降ろした雪が高く積もっていたので屋根から跳び下りることにしました。ちょっとした悪ガキの思い立った雪遊びです。 「えい!」と見事跳び下りることができました。膝辺りまで沈みました。子どもの考えることです。一つ成功すると、次はより高い屋根からと思います。思い立ったか吉日。直ぐにもう一つ高い屋根に上って跳び下りようとしました。 ところが予想していたよりも屋根が高く足がすくみました。なかなか跳び下りることができません。しかし、意を決してとうとう跳び下りました。降りてしまうとあの怖さは何のその。直ぐに有頂天になりました。 ところが事件です。高くなった分、胸の辺りまで沈み、体が抜けなくなってしまったのです。もがきにもがいて長靴を残したまま何とか脱出す...つづき
1967年生まれ

滅多に降らない雪で遊ぶのは最高の喜び

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 大阪に住んでいますから、降る雪を見ることはなかなかできません。雪が降ったとしても、積もることは滅多にないです。 ある日のこと、朝起きると母親がこう言いました。「庭を見てごらん、雪が積もってるよ」。 「えっ」と言い私は庭の方へ行き、戸を開けました。すると雪が積もっていて、「雪だるまが作れる」とその瞬間に思いました。外に出て、兄弟とともに雪だるまを作り始めました。 雪だるまは雪の量が多くないと、大きな雪だるまは作れません。道路にある雪は泥で汚く、きれいな白いままの雪だるまはとても難しい状況です。きれいな雪をかき集め、夢中で作り上げました。 目とか口はないものの雪だるまが完成しました。それが終わると兄弟で雪合戦です。道路の雪を丸めて兄や弟にぶつけるのです。この遊びは面白く、きゃきゃーと大きな声で雪をぶつけ合いました。 走り回りながら雪を手で丸めて投げる。投げては逃げ、また雪の球を作り投げ合いました。みんな息がハアハアを大きな呼吸をして、顔は喜びで満ち溢れ愉快な一日でした。
1978年生まれ

雪の風雲たけし城遊びの思い出

らむらむさん 東京都 1978年生まれ 男性 子供の頃にテレビ放映されていた「風雲たけし城」が学校でも大人気。よく友達と公園で遊んでいました。 ある冬に何十年ぶりかの大雪が降り、普段の景色とは全く違う一面の雪景色になりました。私も含めて全員で喜び、学校の休み時間には雪合戦などをして楽しみました。 その時、友達の1人が「この雪を使って風雲たけし城しようぜ!」と発言し、放課後にいつもの公園で遊ぶことになりました。 普段は障害物などはボールや縄跳びを使って挑戦者がゴールに到着しないよう障害物を設けていましたが、この日は全て雪を使って整えることができました。 雪のボールをたくさん作ったり、雪山を全員で3つほど作り上げるなど、いつもと違う準備に気持ちはワクワクしました。 そして風雲たけし城遊びをスタートしました。挑戦者に向けて、私を含め城を守る側は雪ボールを投げつけたりします。雪山に登る挑戦者には、登り切らないよう雪山を崩したりして阻止します。 こんな感じで全員雪まみれになり、靴下なども濡れてしまいましたが、普段は体験できない遊びに全員が笑顔だったことを今でも記憶しております。
1980年生まれ

変則ルールの雪合戦

カメットさん 山形県 1980年生まれ 男性 雪遊びの定番といえば雪合戦。皆でワイワイと楽しんだ人もいるでしょう。私が小学生の頃、変な雪合戦が流行り、ちょっとした恐怖とスリルを味わいました。 その内容はシンプル。雪玉十個の内の一個に氷の欠片などを入れる、と言うもの(良い子は真似しないでね)。ただの雪玉よりよく飛び、何より当たった人は「痛え!氷入りだ!」などと騒ぐと皆それだけで笑い転げたものでした。 しかし、皆段々とエスカレートして「十個に一個」というルールが破られ、殆どが氷入りの雪玉になり、時には氷をそのまま投げる者まで現れました。流石に不味いと思った者もいて、学校の先生に相談したようです。 全校集会の最後に校長先生が「雪合戦の雪玉に氷を使わない様に」と付け加えました。このスピーチは仲間の間で長く語り継がれる事となりました。
2004年生まれ

昔の思い出 ブランコのボール当て

くうきさん 山形県 2004年生まれ 男性 私が小学生の頃ブランコに乗る人と、ボールを投げる人に分かれて、ボールを当てられたら投げ手と交代する遊びをやっていました。 これをやり始めたのは小学4年生のころ、友達がいきなり「なぁなぁ、新しい遊び思い浮かんだけどみんなでやろうぜ!」と言い始めたことから始まりました。 最初にやった時は足でサッカーボールを蹴ってやる遊びでした。 しかし、蹴ったボールをうまくコントロールができず変なところに行ったり、怪我をしかけたりする人が出たことから、近所の人に学校へ報告されてみんなで怒られました。 結果、先ほども言った通り「手で投げて体のどこかに当てれば交代」みたいなルールになり、危険な要素が少し薄れながら面白い遊びが生まれました。 手投げのボールを交わすためにブランコで回って回避する、派生型の遊びも生まれました。
1990年生まれ

オリジナルカセットテープづくりの思い出

エスジーさん 埼玉県 1990年生まれ 男性 私が小学生の時は音楽を録音するものはまだカセットテープが使われていた時代でした。MDはすでに存在していましたが、MDコンポが必要で、カセットの方が身近だったと思います。 友達とカセットテープの録音にハマり、レンタルしたCDや買ってもらった音楽を入れて交換したりしていました。 カセットはスイッチ1個で録音できるのも特徴で、まるでDJのように何度も歌のフレーズを繰り返して録音したり、曲と曲の間を強引につなげたりと遊んでいました。 それとよく覚えてはいませんが、マイクを利用して自分の声を入れたりもしていました。 カセットは録音中に振動を受けると、微妙に音飛びしてしまいましたが、子どもだった私たちはむしろその変化を楽しんで、わざと入れていた気がします。 そうして1つのカセットテープでお互いに録音しあい、オリジナルのカセットテープを作りました。何度も重ねて録音したので状態も悪かったのですが、自分たちで作った満足感がすごかったです。 編集したり、構成を考えたり、小学生のレベルではありながらも、大きな経験になった遊びだと思います。
1957年生まれ

牛乳ビンと一升瓶のフタのメンコ遊び

サンダーバード2号さん 東京都 1957年生まれ 男性 今では恐らく想像もつかない遊びだと思います。牛乳ビンと言っても、もう、あまりピンと来ないかもしれません。 当時、殆どの家で新聞などと同様に毎朝牛乳を家に配達してもらっていました。今のような紙パックではなくガラス製の牛乳ビンでの配達でした。その牛乳ビンのフタを使っての遊びに夢中になっていました。 正確なルールは忘れましたが、手のひらを使ってメンコのようにひっくり返すことで取ったり取られたりを競うもので、珍しい柄のフタだと争って奪いあうといったことで勝負遊びをしていました。 それは後に、日本酒の一升瓶のフタにとって代わって、やはり、取ったり取られたりの勝負遊びに変化していきました。 これもまた、珍しくあまり見た事のない種類のフタを集めることに躍起になっていました。 良く考えると、人間の本来持っているであろう本能のような収集癖と賭け事への執着が、子供の世界にもそれなりにあって、そこで、大袈裟な言い方をすれば、知らず知らずのうちに小さな人生経験を積んでいる、貴重な時期であったと思います。
1990年生まれ

お互いいじっぱりの思い出 探検ごっこ

ぼくのふゆやすみさん 山口県 1990年生まれ 男性 小学4年生の時、水曜日は学校が早く終わるので、友達の石田くんと森を探検して遊ぶのが定例でした。ただおしゃべりをしながら木の棒をもって森の中を歩いてたまに珍しい虫を見つけては捕まえたりしていました。 ある日教育テレビでよくやってた「あいうえお」という歌の「いしころいっこころころっ」という歌詞が頭に浮かんで離れなくなり、何度も口ずさんでしまっていました。 すると石田くんが怖い顔でこちらを見ていたので、何か発見したのかなと、近寄ってみると、軽くぶたれました。 石田くんは、「いしころいっこころころっ」という歌詞で自分が馬鹿にされていると思ったのでしょうね。 そこで殴り合いの喧嘩になり、その日は石田くんが走って帰ってしまいました。 次の日も学校で目も合わせてくれません。こちらも意地を張ってしまい謝りもせずそのまま日々が流れました。定例の森の探検も無くなりました。 そして小学校卒業の日になってしまい、卒業式の前にトイレでかち合いました。 自然と「あの時はごめん」といえました。すると石田くんも「ぼくもごめん。」といって仲直りすることが出来ました。...つづき
1970年生まれ

団地で友達とラグビーゲームをしていたらケンカ

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 小学校のとき、1つ年上のあきら君と一緒によく団地の中の公園で遊んでいたことを覚えています。当時わんぱくであって当たり前の時代で、ケンカして負けて帰ってきたら怒られるような風潮でした。 私はあきら君とラグビーに近い遊びをしていました。その遊びはボールを力ずくで奪い合って自分の陣地にボールを入れる遊びです。ボールを奪うには何をしてもかまわないルールだったと思います。 私よりも一回り大きいあきら君に勝つには、力ずくでは難しいと考えて、ボールを遠くに投げ、それをとって陣地に入れることで私は点数を稼いでいました。一方あきら君は力ずく(タックル)でボールを確実に自分の陣地に入れていきます。 あたりも暗くなり、だんだんボールが見えなくなってきたなか、あきら君が私の投げようとしたボールに向かって、もともとあったプラスチックバットを振りかぶってきました。 そのプラスチックバットが思いっきり私にあたりました。私はわざと私をバットで殴ったと判断して、取っ組み合いのケンカになりました。 あきら君も負けず嫌いなタイプだったのでケンカは大きく発展してしまい。私は殴られ...つづき
1984年生まれ

学童保育で覚えた お手玉の思い出

おかずさん 岡山県生まれ 1984 男性 私は小学生の時に学童保育に通っており、そこでよくお手玉をして遊んでいました。 お手玉自体も、布切れと小豆で、糸と針で縫って作りました。2つを両手で上に投げながら回していくのは簡単ですが、3つは少し難しかったです。ただ、何度も練習をしていくうちに出来るようになりました。 時計回り、反時計回り、両方で出来ます。一般的には、前でお手玉を入れ替えていきますが、後ろでの入れ替えも頑張って練習し、できるようになりました。 学童の先生はお手玉がとても上手であり、私ができるようになったのは、学童の先生のおかげです。 4つも頑張ってみましたが、結局一度も出来ませんでした。 お手玉はお手製であるため、何度も使っていると布が破け、小豆がバラバラになってしまうこともたまにありました。故意に破いてしまう友達もいました。 飽きてくると、友達と投げ合い、野球のキャッチボールや、ドッジボールのようになってしまいました。今になってやってみましたが、全く出来ませんでした。
2002年生まれ

鬼ごっこと鼻血と滑り台

Narutoさん 沖縄県 2002年 男性 小さいころ、特に幼稚園にいたとき、園内の滑り台でよく遊んでいました。しかし今思うと、滑り台単体をみんな楽しんでいたわけではなかったように思えます。 私を含めて全員、鬼ごっこ等をするときに逃げ道の一つとして滑り台を使って、滑ることもあれば、滑り台を下から登って階段から下っていくという「逆滑り台」状態が多々起こっていたことを今でも覚えています。 今ではそんな危ないこともしなくなりましたが、あの頃はそういったことが心の底から楽しく思えました。 もう一つ滑り台で覚えているのが、友人がよそ見をしていたせいで滑り台に自分の顔をぶつけてしまい、それが原因で鼻血が出ていたことです。
1970年生まれ

滑り台で遊びつくした子供時代の思い出

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 子供の頃は公園でいろいろ工夫して遊ぶのが楽しかったことを思い出します。 特に滑り台は工夫して滑るのが楽しい遊具の一つでした。今では危ないといって辞めさせられてしまうようなことを平気で行っていました。 ・頭から滑り降りたり、 ・胸から滑り降りたり、 ・砂をかけながら摩擦を減らして滑り降り、 ・どこまで遠くへ着地できるか、 ・また滑り台を走って降りて同様にどこまで遠くまで着地できるか、 など、暗くなるまで友達と競い合ったことを思い出します。 滑り台としての使い方以外にも、缶蹴りの隠れ場所だったり、鬼ごっこの隠れ場所など使い方は豊富でさんざん遊びつくしました。 当時は滑り台のない公園はなかったので、遊びつくしたら他の公園の滑り台を使ってまた新たな遊び方を考えました。子供時代の仲間たちは遊びの天才でした。 いい仲間がいたおかげでケガも耐えませんでしたが、充実した子供時代を過ごせたと思っています。
1992年生まれ

初めて滑ったローラー滑り台

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 小さい頃、私がよく行く近所の公園にあったのは金属の板で出来た、普通のまっすぐの滑り台でした。その頃の私にとって滑り台とはそういう物で、幼稚園の頃ならともかく小学生にもなるとそれほど面白い遊具ではなくなっていました。 それがある時、家族で出かけた少し遠くの大きな公園で初めてローラーがついた滑り台を見たのです。近所の公園の滑り台とは全くサイズが違い、丘の上から始まっていて長くてカーブもあり、とても豪華に思えました。 そして、滑る面がローラーである事に気づいた時の最初の印象は「肉が巻き込まれて挟まりそうで怖い」という感じだったのを覚えています。 しかし初めて見る遊具は遊んでみたいのが子供の性、意を決して滑ってみました。 すると、今まで滑ってきた滑り台では全く感じた事がなかったガタガタという振動、ローラーの回転によるスピード感、初めての経験に衝撃を受けました。 すっかりその滑り台にハマった私は、その日は足が痛くなるまで何度も丘を登ってその滑り台を滑っていました。
1992年生まれ

タイヤブランコでグルグル

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 ちょっと遠くの大きめの公園にタイヤを3本のロープで吊るしたようなブランコがありました。 普通のブランコと違って前後だけでなく全方向に揺らす事ができる。それだけでも楽しかったのですが、他に大きな特徴としてクルクルと回転するようになっていて、そこが私の一番のお気に入りポイントでした。 内側を向いて座ったり、外側を向いて座ったり、またがるように座ったり、立ったり、いろんな乗り方をしてはブランコをぐるぐる回して遊んでいました。 ただ回っているだけなのですが、周りの景色がヒュンヒュン動いて見えたり、目が回ってきてブランコから降りるとまっすぐ歩けずフラフラになったり、子供の頃はそれがとても面白かった。 しかし、子供の頃は楽しいと思ってしまうとどうしても歯止めが効かなくなってしまう事ってありますよね。 私もタイヤブランコの回転にハマりすぎて、ついつい気持ち悪くなって吐くまで回ってしまうことがありました。
1980年生まれ

誰よりも遠くに飛ぶ ブランコ遊びの思い出

又兵衛さん 埼玉県 1980年生まれ 男性 私の通っていた保育園には鉄棒やブランコ、シーソー等の遊具がありましたが、遊具の人気ナンバー1はブランコでした。 現在の保育園敷地内は部外者進入禁止になっているようですが、私が小学生の頃は誰でも入ることができていて、近所の小学生は放課後集まって保育園の敷地で遊んでいました。 当時は遊園地など行ったことが無く、小学生時代の私にとってブランコが最も興奮させてくれるアトラクションで、ブランコの推進力によるスピード感に夢中になりました。 高い位置から振り下ろされるブランコによる風を切る音や、高い位置に上がりきったところから後ろ向きで降りる際の浮遊感は心地良いものでした。ブランコを使うことによって視線が高くなり、高い位置から保育園の全貌が見えることが気持ち良かったことを記憶しています。 ブランコは4台あり、同時に漕いで誰が一番遠くに飛べるかを競うことに熱中していました。ブランコを漕いで一番高い位置から飛んでも飛距離は伸ばせず、ブランコの推進力を活かして地面スレスレを狙って飛ぶことで、飛距離を伸ばしていました。 徐々にコツを掴んで飛距離を伸ばせていたのです...つづき
1956年生まれ

怖いもの知らずのブランコ遊び

yuumin0108さん 福井県 1956年生まれ 男性 場所は校門近くの桜の木に囲まれたブランコ。小学校の5,6年の頃だと記憶しています。雨さえ降らなければ毎日のように5,6人の友達とブランコ遊びをしていまいた。 やんちゃな頃ですから,大きく振れば振るほど友達の称賛を得ます。最初は大きく振ったブランコから前方に飛び降りて飛距離を競いました。 着地した足が滑って頭を打ったことを覚えています。それでも涙も流さず何度もトライしました。今の時代であれば即禁止でしょうか! そのうちに前方ではなく後方への飛距離を競うようになりました。その時も着地の足が滑って,両手の掌を擦りむき顎を打った覚えがあります。しばらく耳の奥が痛く,笑うことも給食を食べることも苦労しました。 しかしながら子どもの遊び方は無限大です。友達の一人がブランコを大きく振って前方にある桜の木の小枝に足タッチし始めました。 更に,静止したブランコに座った状態から,全身で揺すって大きく漕ぎ出して桜の小枝にタッチする。更にはタッチ後に前方に飛び降りて飛距離を競う。 また,個人競技ではなくリレーの団体競技にもトライした覚えがあります。今思...つづき
1994年生まれ

公園のブランコで立ち漕ぎ乗り

野球少年さん 千葉県八千代市まどか公園 1994年生まれ 男性 小学生の頃、放課後によく友達数名と地元のまどか公園という公園で遊んでいました。ブランコが4つある公園でそのブランコの前には大きな芝生が広がっていました。 小学生だった僕は、友達と一斉にブランコを立ち漕ぎをしてその勢いを利用して靴を芝生の方向に蹴り飛ばしその飛距離を争うという「靴飛ばしゲーム」に熱中していました。 当時野球のクラブチームに所属していたので周りより運動神経も良く。芝生を超えた先の木に直撃することもありました。距離で言うと30メートルくらいはあったかもしれません。 天気の良い日は良いのですが、雨あがりの次の日に靴飛ばしをした時は靴がグチュグチュになり、家に帰宅すると親に怒られた記憶があります。 ブランコでは二人乗りという遊びもしたことがあります。 一人が通常通りで座って、もう一人が立ち漕ぎを向き合う形で一つのブランコで漕ぎ合います。 座ってる方は立ってる方のが漕ぐたびに、股間が顔面に直撃します。しかし小学生だったのでそんなの気にせず無我夢中で楽しくブランコで遊んでいました。
1978年生まれ

凧上げに詰まった少年時代の思い出

コタツにみかんさん 東京都 1978年生まれ 男性 毎年お正月になると、父と弟の3人で近所の公園グラウンドに行き凧上げを楽しみました。当時は人気アニメが描かれた凧が流行っており、私の凧もドラゴンボールのキャラクターが描かれたものを父に買ってもらい。凧上げを楽しみました。 弟も専用の凧を持っており、2人でどちらが長く凧上げできるかを競走しました。ポイントはいかに上空で凧を浮揚させる時間を長く保つことができるかで、吹いている風の強さや質が勝負を分けます。 上空で凧が上手く浮揚状態に入れば、地上から凧糸を少し戻して微妙な力加減で保つように凧に集中します。途中で風が弱まることがあれば、自分自身を加速させて、新たな良い風が吹くまで走り続けます。 この動きを何度も繰り返す事で、凧を上げ続けられました。弟も負けじと頑張ったり、父がジュースを買ってきてくれて休憩で飲んだりと、今でも凧上げをする子供をお正月に見かけると、自分の少年時代のお正月の思い出が蘇り懐かしさを感じることができます。
1965年生まれ

自作の凧の思い出

tacky1920さん 愛知県 1965年生まれ 男性 自分達の世代が小学生の頃、「ゲイラカイト」という凧が流行りました。従来の竹と和紙の組み合わせで出来ている日本式の凧と違い、プラスチックの骨組みにビニールを張り付けた三角形の形状で、確かアメリカが発祥だったと思います。 とにかく大ブームになって、ある程度裕福な家庭の子供は斬新なデザインの「ゲイラカイト」を親に買ってもらって、自慢げに学校にも持ってきていました。 自分も含め、大多数の子供は買ってもらう事は出来なかったのですが、とにかく手軽に作れるのが特徴で、決っして器用では無かった当時の自分も、家にあるビニール袋と拾ってきた廃材のプラスチックの棒で手製の凧を作り友達と競って遊んでいました。 近くに市営の広い陸上競技場があり、日曜日になると大空の一面に色とりどりの凧が溢れ壮大な光景でした。 風の強い日には糸が切れて凧が飛んで行って行方不明になったり、友達の凧と絡まって落下してしまったりと失敗も沢山ありましたが、自分の手から遠く離れた大空をなびく自作の凧に、子供ながらにロマンを感じていました。
1968年生まれ

たこ〜 たこ〜 天まで上がれ〜

昭和原人さん 宮崎県 1968年生まれ 男性 凧あげについては、失敗例と成功例が1つずつあります。 まず、うまくいかなかった思い出は、小学校の図画工作の授業でつくった立体凧です。長い割りばしのような木材にビニール生地を貼り付けて、細長い直方体の立体凧を作りました。 クラス中のみんながそれなりの格好に出来上がったので、運動場で飛ばす段取りになりました。みんなが全力で走り回りながら、凧を飛ばそうとしましたが、風がないせいか、重心がとれてないせいか、誰一人高く飛ばせませんでした。 先生も困った顔をしてました。それほどに、凧を高く飛ばすのはむずかしいのだなと感じました。 そのリベンジではありませんが、駄菓子屋で当時ゲイラカイトのパチモンを見つけて、再チャレンジしてみようとしました。パチモンだから、飛ぶかな~と心配でもありました。 その日は、風も強く、一旦飛び出したら、グングン高いところまで一気に登っていきました。糸を引っ張る風の力をリアルに感じ、すごい力なんだなと思いました。 タコ糸が終わりかけになるぐらい高く飛んだので、もう一組のタコ糸に結び付けて、さらに高くとばして、ゲイラカイトのパチモン...つづき
1965年生まれ

凧上げと父の思い出

てつうさん 埼玉県 1965年生まれ 男性 凧上げは、埼玉県にある父の社宅横の広いグラウンドで遊びました。正月以外にもよく兄や近所の友達らとも楽しみました。 当時約50年前位は、普通の軽い木に紙をはっただけのシンプルなものがほとんどでした。勢いよく、空高くあがると非常に嬉しく興奮しました。たまに友達の凧と糸がからまって墜落することもありましたが、良い思い出です。 当時は父も若く、先ほど写真で見ると今の私の顔に似ています。ホント、父母から生まれたんだな、と再実感します。父は2年前に突然、心臓突然死で他界しました。仕事で最後の言葉を聞くことが出来ず、残念でした。 凧上げは、父からコツを教わり、よく遊びました。自転車に補助輪を無しで乗れたときの喜びを皆さんは、覚えていらっしゃいますか?それと同様に世界が突然と広くなった感じが、凧上げの上達でも感じました。 当時は雪もよく降り、今と違いよく積もったので、雪遊びと凧上げを同時に楽しんだ記憶もあります。 無邪気にシンプルに楽しんだあの頃は本当に楽しかったものです。
1967年生まれ

凧あげは奥が深い 釣り用のリールで糸を巻いてみる

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 小学生の時、凧あげに夢中になりました。どこまで高く上がるかそればかり考えていました。風が全くない時でも上空にとにかく上げれば上がるときがあります。 自宅の近くの田んぼで、いつも揚げていました。タコの糸が稲の根っこに絡んだり、根っこに躓いたり、楽しく遊びました。 あまり高く上げ過ぎると、糸を巻くのに時間がかかります。時間どころか、下手すると糸がからみ、もつれた糸を元通りにするのに泣きたくなることがあります。 その時、たまたま兄貴の彼女が来てたので、兄貴が彼女に「得意だからやってもらったら・・・」。付き合いだしたばかりの彼女は真剣に糸の絡みをほどいてくれました。私は「良いひとだなあ」と思いました。 糸を巻くのに時間がかかるので、釣のリールを持ち出してそれにタコ糸を巻き、楽な凧あげを考えました。 そんなことをしている人は私だけで得意げにリールを見せびらかしたりしました。 子供の時の凧あげは大人になっても、誰かが公園で凧あげをしいているのを見ると、「懐かしいなあ」と空を見上げます。
1997年生まれ

初めての凧揚げ体験

貴ちゃん 大阪府吹田市 1997年生まれ 男性 私が初めて体験した凧揚げ体験は寒くて操るのが大変でした。 学校のグランドや公園などに行き、始めは自分では飛ばせなかったので、親や先生などに飛ばしてもらい、安定したら自分で操っていました。風を読むのにタイミングが分からなく、人の掛け声に頼って飛ばしていました。 高く上がった凧は空を舞っていますが、複数の凧が上がると凧同士がぶつかって上手く操作が出来なかったり、喧嘩したりするハプニング。糸が他の糸と絡まって、ほどくのに時間がかかるので大変でした。 自分で創った凧の絵は遠くに飛ばすほど、描いてある絵が分からなくなり、目を細くしながら見ていました。 小さい時には、お正月に自分で創った凧を持って来て、遊んでいたのを覚えています。
1992年生まれ

お祭りで凧揚げ

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 私の地元で毎年ゴールデンウィーク中に巨大な凧を揚げるお祭りが河川敷で開かれていました。しかし、そのお祭りの目玉である巨大凧の凧揚げはただ遠くから見ているだけであり、失敗する年も多かったので正直あまり興味がありませんでした。 お祭りの中では個人で自由に凧を上げられる時間とスペースが設けられていて、それが個人的にはお祭りのメインの楽しみでした。お祭りに出ているお店で買ったり、図工の授業で作ったりした凧を揚げて遊んでいました。 風が強い時には簡単に凧が空に揚がって楽しめるのですが、普段は近所の公園では近くに電線があるので、凧揚げをする機会がほとんどありません。凧揚げに不慣れということもあり、あまり風がない時は凧を揚げるだけでも一苦労でした。 凧をぶら下げなら走り回り「今なら揚がりそう」と思って手を離しても、凧は虚しく地面に落ちてしまうばかり。そんな失敗を繰り返しやっと凧が揚がった時は嬉しかったのを覚えています。
1957年生まれ

その美しさに魅了されました おはじきの思い出

AKANEさん 東京都 1957年 男性 姉の影響もあって、男の子でしたが、女の子に混ざって「おはじき」で遊んでいました。 お決まりの指で弾き飛ばして別のおはじきに当てて、動かされたおはじきを取っていくのですが、なぜか、はじいたおはじきとはじかれたおはじきの間に、人差し指を通してその指におはじきが触れないことを確認しながら、つぎにはじくという、謎のルールがそこではいつものことでした。 また、別の遊び方では、歌を歌いながら、お手玉を放り投げてその間に、畳に散らばっているおはじきを一つ一つのお手玉をほおっている手で素早く拾い上げ、つまずくまでに何個おはじきを拾えるかを競うという、アクロバティックな遊び方もありました。 いずれにしても、「おはじき」はそもそも女の子の遊び道具と言う感覚は、当時の自分には全くなく、みんな一緒になって楽しく遊んでいました。 独特のギザギザした表面に中には色とりどりの模様が入っていて、大きさも様々あって、大きなものは本当に子供心に宝石みたいだなと感心したものでした。
1984年生まれ

「おはじき当て」と「おはじき止め」の遊び方

おかずさん 岡山県 1984男性 私は小学生の時、学童保育に行っていました。そこで友達とおはじきをしてよく遊んでいました。 【おはじき当てのルール】 おはじきを散らばせて、自分と相手のおはじきを一つずつ選びます。そして、散らばっているおはじきのうちの一つを宣言して、これに選んだおはじき(ビリヤードの白い球のように)をぶつけて当てます。 当たったらそのおはじきがもらえ、当てられなかったら1回休みです。これを2人交互に行なって、得られたおはじきが多い方が勝ちです。 綺麗なおはじき、大きいおはじきは人気であり、それを狙う友達も多く、私も狙っていました。 【おはじき止めのルール】 机の一方の端におはじきを置いて、他方の端目掛けて、2人同時に、手で押して飛ばします。端により近くおはじきを止めた方が勝ちですが、机の端から落ちてしまったら負けです。勝てば自分と相手のおはじきがもらえます。 一般的には消しゴムでやるのだと思いますが、その学童保育では、おはじきでやっていました。
1955年生まれ

なつかしいなぁ~ビー玉は小学校の遊びベスト5に入るな

Valonさん 北海道 1955年生まれ 男性 あれは小学校の3・4年だったな。田舎は、こんな遊びをする場所に苦労しない。5mx8m位の、小さい倉庫の前の敷地だったかな。もちろん舗装もされていないから、地面は「釘指し」なんかもできる土だ。 友達5~6人、多い時は、10人位いたかな。 端に線を引いて、その反対に端から2m位の場所に、丸を書いて、そこにそれぞれのビー玉を置く。 そこから1m位のところに線を引いて、そこから出てしまうと、ビー玉は没収されて、その丸の中に入れなきぁならない。 そして、端に書いた線から、順番に持ってるビー玉を投げて、丸の中のビー玉を丸の中から出せば、自分のものになる。 でも、そんなルールを覚えた記憶もないが、みんな知ってたな。持っているビー玉が増えたり減ったりする。当然負ければ悔しいし、勝てばうれしい。 しかし、それで友達との仲が悪くなる訳ではない。ビー玉が無くなってしまった友達には、みんな1個ずつあげたりもしていた。こんなことから、人間関係を覚えていったのかな。 暗くなる前まで遊んで、解散、また明日ということになる。あの場所の風景、友達の顔、ついでに近くの駄菓子...つづき
2004年生まれ

ビー玉を使ったおもちゃ「ビーダマン」の思い出

くうきさん 山形県 2004年生まれ 男性 私が幼稚園から小学生にかけて、タカラトミーからビー玉を用いて遊ぶホビーが発売されました。「ビーダマン」というのですが、それを用いて缶や特定のターゲットを命中させる遊びをよくやっていました。 ビーダマンは対戦することも可能です。電動で動く壁を用いて先に多くのマーカー(というんですかね?)を打ち抜いたほうが勝ち、というゲームがあったり。ボーリングもできたりと多種多様の遊びができるホビーでした。 私自身も、ビーダマンはいくつか持っていました。友達と命中精度を競ったり、ビー玉の射出速度を競ったりしたものです。 他にも、ビー玉をおはじきのように弾いたり、ビー玉とビー玉の狭い間を潜らせたりもしました。ビー玉は球体なので、上手に弾いたり、潜らせることが難しいのですが、それが逆に面白い! 私はまだ高校生ですが、記憶の中では難しさの中にある楽しさを見いだせたのかなと思います。
1957年生まれ

デカビーの思い出

ジュウゴさん 東京都 1957年生まれ 男性 とにかくビー玉をはじくためのハンドテクニックが勝負の分かれ目です。まずは、トレーニングから始めます。 様々な想定の元、地面の表面の状態やビー玉の大きさ、転がり具合等、全てをあらゆる角度から検討し、どのようにはじくかを頭の中でシミュレーションします。実際にはじいてみて、その結果を確かめる。そんなことを繰り返しながら、遊んでいました。 そんなとき、思いもかけず、通常のビー玉より2倍ほどあるビー玉(デカビーと呼んでいました)を手に入れることができ。遊び仲間からは、羨ましがられ、得意になっていました。 勝負には絶対使わずに、お守り代わりに持っていたのですが、ある日、年上の上級生がそれを欲しがり、勝負に出せと言われました。 低学年だった自分は今思えば、その上級生に上手いように勝負させられ、結局、体よく、持って行かれてしまい、泣きながら家に帰ったことがありました。 小さいながらも、そのときに、様々なことを学び、大きくなっていくための修練の一つだったような気がします。
1984年生まれ

祖母に教えてもらった「ビー玉当て」の思い出

きたぎつねさん 愛媛県1984年生まれ 男性 私は、4歳から6歳まで祖父母宅で育てられました。ゲームやマンガなどの遊ぶものがなく。夜ご飯まで何をして過ごそうか悩んでいました。 そんな時、祖母がビー玉を買ってくれました。一人遊びにちょうど良いと考えたのか、遊び方を教えてくれました。後にそれが「ビー玉当て」だと分かったのは、私が4年生になった時でした。 祖母はビー玉を1m~2mぐらいに乱雑に置きました。一つを私に渡して置かれたビー玉を狙いなさいと言いました。言われた通りに投げてみるが当たらない…。すると祖母はニンマリ顔で「かしてみ」と言いました。 私は一個も当たらなかったのに祖母は次々と当てていく。 当たったビー玉を祖母が拾っていきます…。ルールがよく分からないままスタートしたゲームでしたが、祖母がニンマリして拾っていく様を見てルールを理解しました。 さらに祖母は「本当だったらこれは、ばーちゃんの物とだけど、初めてだから返してあげるから練習してみな」と言いました。 それからは悔しくて、一心不乱に練習したのを覚えています。それから一週間に一度ほど対決を行い。取った取られたで楽しく過ごせたのが...つづき
1957年生まれ

ジャイロ効果に仰天した「地球ゴマ」

あかねさん 東京都 1957年 男性 コマ自体が足一本でどうして立って回っていられるのか、不思議でしょうがないと何度も回してみては繰り返し、じっと眺めている子供でした。 下手すると1日でもじっと見つめていることも苦ではなく、むしろ夢中になってその秘密を探ろうと躍起になっていました。 そんなとき、当時の漫画雑誌の広告に「地球ゴマ」なる、何とも自分にとっては魅力的な宣伝が掲載されていました。一体どんなコマなのか手に取って見て見たいと思い、近所のおもちゃ屋に日参したものでした。 当時の事でしたので、そうそうすぐに店先に並んではおらず、やっとのことで店先で実物を見たときには本当に驚き、腰を抜かしたものです。 今まで見たことも想像したこともない形で、何と様々なアクロバティックな回し方が可能と言うことで、何としても欲しいと思い、当時のなけなしの小遣いをかき集めました。 しかし、その当時の自分としては相当に高価なおもちゃでした。足りない分は、親を説得して無理を言って購入することに成功。そこから先は、もう、夢中で遊びました。 遠心力による独特の力の加わりやジャイロ効果を実感でき、飽きることなく遊びきっ...つづき
1975年生まれ

できそうな気がしたけれど…「空中手乗っけ」の思い出

ねこ助さん 京都府 1975年生まれ 男性 幼稚園生の頃の話です。当時ちょっとした独楽回しのブームがあったと記憶しています。駄菓子屋さんで、ウルトラマンの絵が入った独楽(金属製)が販売されていて、友達の間で流行っていました。 独楽に色を塗って、回転した時の模様の変化が楽しかったのを覚えています。 2歳年上の兄がおり、父に教わって二人とも自分でも回せるようになりました。私も普通の独楽を回すだけなら上達して(上達した気になっていて)、友達や兄と、どちらが長く回せるが競って遊んでいました。 父が「ちょっと面白いものを見せる」と言って、独楽回しの技を見せてくれました。子供ながらに驚いたのが、独楽を空中にほおり投げてそのまま手の上に乗せて回しました。 父は簡単そうに独楽を回して、にっこりしていました。 投げ方を教えてもらったのですが、私は、手の上に乗せることができません。できそうな気がしたのだけれど…うまくいきませんでした。ささやかな懐かしい思い出です。
1972年生まれ

幼少期の思い出 コマの回した方とコマを上手く回すコツ

プリンさん 千葉県 1972年生まれ 男性 私が子供の頃、友達とコマで遊んだことがあります。男の子同士で遊んでいた記憶があります。 コマにしっかりと紐で巻いて、コマを投げるのですが、一斉に回してどれだけ長く回っているかを競い合ってました。コマ用の紐が売っているので、その紐を使うとよく回ります。 下の床の状態でコマの回り方が変わります。フローリングですと溝に入ることもありますので、なるべく平らな所、コンクリートや板の上などが最適です。カーペットの上でも回すことができますが、回る時間も少なくなってしまいます。 長く回すにはコマの重量も必要だということがわかり、コマに重しをつけたのを覚えてます。コマの軸がとがっているほど長く回ります。 コマの上の部分に模様を描くと、回っときにすごく綺麗になるコマもあります。 コマを投げたと同時に手の平に載せたりすることもできましたが、今は幼少期から何十年も経ってるので、できる自身はありません。
1985年生まれ

コマ名人になった思い出

チャーリーさん 北海道1985年生まれ 男性 昔の事なので記憶が曖昧なところもありますが、小学生の時によくコマで遊んでいた記憶があります。 当時登校していた小学校には昔の遊び道具がたくさん置いてあり、休み時間になるとみんなでいろいろな遊びをしていました。その中でも自分が特にはまったのがコマでした。 誰から遊び方を教えてもらったかはわかりませんが、紐を巻いてコマを回してそのコマを紐で飛ばして手の上に乗っけたり。回すときに地面ではなくそのまま自分の手に乗るように回してコマで遊んでいました。 他の友達はめんこをやったり、卓球をやったり、竹馬で遊んだりしていましたが、自分はコマばかりで遊んでいたので周りの友達よりもうまくなっていて「コマ名人」と呼ばれていました。 学校に置いてあるコマは決まった形しかありませんでしたが、誕生日に親に連れて行ってもらったおもちゃ屋さんで、軸の部分が金属になっているコマを見つけ、すぐにそれを買ってもらいました。 うれしくて家や学校でとにかくコマばかりやっていた思い出があります。
1992年生まれ

夢中になった独楽の思い出

まんまるさん 東京都1992年生まれ 女性 小学校の1年生と2年生の頃、学校の休み時間や総合時間に昔の遊びを楽しみました。 自分たちの両親や祖父母が「小さい頃に遊んでいたことをやってみて知る」ということを目的とし、実際にやる機会がたくさんありました。 特に独楽遊びは私も、クラスメイトもハマり、みんなで誰が長く回せるかの勝負を何度も何度も行いました。夢中になって放課後にも残って友達と楽しむこともありました。 時には帰宅後や休日も家の中でやることもあり、床が傷つくので止めるように親に注意されることもありました。大人になった今では、家の中で独楽を遊ぶなんてあり得ないと親の気持ちがよくわかります。 土や草の上ではうまく回せないので、コンクリートを探し、何度も回しました。 縄の巻き方次第で長く早く回せることを知ると、それを試してみたり、もっと良い方法があるのではないかと研究してみたり、今思うとなんでそこまでハマったのかと思うほどです。