兵庫

1951年生まれ

「学校の下校時」飴細工のおじさんの思い出

katsuさん兵庫県 1951年生まれ 男性学校の下校時に校門を出て塀ぞいに少し歩いて行くと、飴細工のおじさんがいました。自転車の荷台には飴で作った金魚、うさぎ、カメ、等が棒に刺して並べて有る箱を乗せていました。箱の引き出しには色々な品物が入ってました。リクエストによっては何でも作るよとおじさんが子供達に講釈して売ってました。生意気な子が多分おじさんには出来ないだろうと思い「龍」を注文しました。おじさんもちょと難しいそうな顔してましたが、早速一塊の飴を出しバーナーで炙りながら火鉢みたいので引っ張ったり曲げたりして形にして行きました。龍の顔は難しいそうで細かい作業をしていましたが最後に髭を作って完成しました。注文した子に棒を刺して渡しました。僕は小遣いを余り持って無かったので、薄い板状を舐めて動物の形を抜き出させる飴と水飴を買いました。水飴は硬い透明な飴状な物が二本の箸に巻いてあるだけの飴です。それを何回も何回も捏ね回していくと、少しずつ柔らかくて美味しい飴に生まれ代わります。それを舐めながら家に帰りました。
1983年生まれ

「小学生の争い」給食じゃんけんの思い出

まりもさん兵庫県 1983年生まれ 男性じゃんけんと言われて一番に思い出すのが、給食の時のじゃんけんです。遊びでもあり、真剣勝負の場でもあったので、じゃんけんを一番楽しんでいたのでは無いかと思います。得に月に一度のお楽しみ給食と言うのがあり、その日はケーキや、プリン等普段出ないような、献立がある日があったのです。その日に欠席の子が居ると、お昼前には、もうどの品を取りに行くのか、周りとの心理合戦が始まります。そこから本番のじゃんけんをするのですが…。最初は人数が多いと、どうしても運が大きく作用します。普通にやっていましたが、人数が絞られると、そこから心理合戦が始まります。俺はチョキを出すとか、じゃ俺はグーやなとかいって相手を牽制したり、わざとチョキばっかりを出して相手を油断させてからパーを出したり、パーを出すタイミングを周りの相手の出し方をみながら謀ったりと、子供らしかなぬ、じゃんけんをしていました。僕の周りは、ごくごく普通のかけ声やルールでやっていましたが、無敵の手(手で鉄砲を作って小指から中指を指の付け根で折ってあわせる形)を作って、勝ちを取ってたこともありました。勿論、周りには認め...つづき
1951年生まれ

カバン持ちと小石投げ

katsuさん兵庫県 1951年生まれ 男性カバン持ちは、学校帰りに皆んなでジヤイケンをして、負けた人が全員のランドセルを持ち、歩いている途中で犬か猫が来たら交代という遊びです。犬も猫もなかなか来ないので、ランドセルを持ってる友達は肩からずり落ちそうになって歩いてましたが、やっと犬が来て交代です。今度は電柱で交代に変えました。電柱はすぐ有るので何回も交代でした。だけどジヤイケンの弱い子は何回も持って歩いてました。家に近づいた子が一人抜け二人抜けして居なくなりましたが、僕は家の近くまでランドセルを持たずに帰る事が出来ました。その足でカバンを持ったまま友達と川まで行き、河原で平べったい小石を探し、川に向かって水平に投げるのです。すると小石は水面の上を一回、2回、3回と連続で跳ねて行きます。面白くて次は何回連続が出来るか友達と競うのですが、友達は上手く5回連続が出来たと歓声を挙げてました。こちらも負けじとやるのですが、焦れば焦るほどボチャンといって一回で水に落ちます。それではと深呼吸して、ゆっくりと力強く水面に投げると今度こそ5回連続が出来ました。
1956年生まれ

鮮烈!怒涛の路地遊び

ともぞうさん兵庫県 1956年生まれ 男性60代男性です。小学校時代を関西地方の工場街で過ごしました。ゲーム機など存在しないのは無論のこと、そもそも裕福な家の子以外ろくに物を持っていない時代でしたので、放課後は身一つでできる遊びが中心でした。中でも人気があったのが「路地遊び」です。1960年代以降に生まれた人たちにはイメージしにくいかもしれませんが、そのころの住宅地には木造モルタルの小さな家が密集して建っている所が多く、家と家の間には人ひとりようやく通れる狭い路地が随所に見られたものでした。地図の上では道がないように見えるのに、実際には路地を次々に抜けていくことによって反対側に移動することができたりしたのです。「路地遊び」とはあらかじめスタートとゴール地点を決めておき、こうした路地を使って競争する一種のストリートレースのようなものです。当然広い道を通った方が早いのですが、これをやって見つかると反則負けとなり、「ズル」をしたと言われ続けます。体力勝負というより日頃のリサーチ能力が物を言うため、自分だけが知る隠れ路地を発見するため放課後を使って日々研究にいそしんでいました。今から思えば住人...つづき
1973年生まれ

田舎ならではの草野球

さむさん兵庫県 1973年生まれ 男性見渡すかぎり田んぼばかり、私の世代は野球をするにも公園がいっぱいだったので、切り株があって、なかなか思うように弾まない田んぼや神社の境内で野球を行うことが楽しみになっていました。今でも、覚えているのが、神社の境内で野球をするにあたり、今日はジンジャー球場に集合だ。田んぼで野球をする際は、タンボー球場に集合だ。と掛け声をかけてみんなで集まっていたものです。本格的に少年野球チームに入っているメンバーからすると、意味不明の遊び方だったかもしれません。しかしながら、これこそ草野球と言う感じで、みんなが野球に勤しみ楽しむ場として本当によく遊んだと思っています。ときには、柔らかいボールを使ったり、小学校高学年ばかりだといわゆる軟球を使ったりと、バリエーションもをつけていたことを覚えています。暗くなってもボールを追いかけていた頃が、今でも懐かしいです。
1951年生まれ

「校庭の犬」ワイワイ ガヤガヤと ざわつく児童たち

kastuさん兵庫県 1951年生まれ 男性授業中に窓際の子らが、ヒソヒソと喋り出す。何かなと僕も背伸びして校庭をみましたら、何処から来たのか分からない犬が走り回ってるのです。そのうち皆んなもワイワイ、ガヤガヤと騒ぎ出しました。先生もそれに気が付き「こら、何を騒いでる!」と怒りました。ハキハキした子が「先生!犬」と校庭を指さしました。先生も窓際に来て確認しました。二匹の大きな犬が戯れ合って走り回っていました。まず窓際に集まってる生徒を席に戻るように諭し、「今からしばらく自習して下さい」と言って職員室に戻って行きました。誰も大人しく自習などしません。皆が窓際に集まって「あの犬は何処から入ったのかな?」とか「あれは何という犬?」、「オス、メスどっちかな?」「噛むかな?」と訳の分からない事をワイワイ、ガヤガヤと言ってます。そしたら、何人かの男の先生が校庭に出て来て、犬を捕まえようとしましたが、犬も捕まったら大変と、すばしこっく逃げ回ってなかなか捕まりません。一人の先生が職員室から大きな網を持ってきて犬の頭に被せ捕まえました。首に縄を掛け校庭の隅に括り付けました。しばらくすると保健所の人が来て...つづき
1951年生まれ

陣とり合戦

katsuさん兵庫県 1951年生まれ 男性広場で遊び仲間が揃うと、よく陣取り合戦をしました。お互いに陣地を作り、体格の良い人が大将になり陣地を守ります。何人かの兵隊がケンケンをしながら相手陣地に攻めて行きます。相手も何人かがケンケンをしながらこちら側に攻めて来ます。途中で出くわすとケンケンしながら取っ組み合いをして相手を負かします。そしてどんどん相手の陣地に攻めて行きますが、途中で疲れたら休憩する島があります。そこではケンケンしなくても休めます。疲れが回復したら又ケンケンして相手を倒しながら攻めて行きます。そして倒された人は自分の陣地まで引き返さなければなりません。そうこうしていると相手の兵隊が少なくなり、ついに相手陣地の近くまで来たら、今度は相手陣地も強そうな大将が現れ、こっちに迫って来ます。やはり大将クラスになる人は強いです。負かされ、自分陣地に急いで戻ります。その時、仲間が大将の間をくぐり抜け陣地を占領しました。めでたし めでたし こっちの勝利です!
1951年生まれ

ベーゴマとガキ大将の思い出

katsuさん兵庫県1951年生まれ 男性僕はベーゴマよりベッタン(僕らの地域ではメンコの事をそう呼んでました)が得意でした。それでも近所の子供が「ベーゴマやろよ」と誘いに来ました。石油の空き缶の上に布地を張り、詰め引き、垂れた部分を紐で縛って敷物をピーンと張ります。その中にベーゴマを凧糸で巻き、勢いよく水平に敷台に一勢に投げ入れます。すると勢いよく回ったベーゴマは中心に向かって段々寄って行き、ぶつかり合います。独楽は真ん中てぶつかり合い、よく回ってる独楽がカチンと相手の独楽を外に弾き出します。回転を止めた方が勝ちです。勝った方が相手の独楽を貰えるのです。僕は回すのが下手で負けてばかりでした。するとガキ大将が僕の代わりに勝負し、勝った分を僕にくれました。独楽は重くてバランスの良い物がいいので、角を研磨して強い独楽に仕上げていました。ガキ大将がそのうち何個か持っている独楽の中から一個くれました。「よし!明日勝つぞ!」と言う思いで、家に帰りました。僕はベーゴマよりベッタン(僕らの地域ではメンコの事をそう呼んでました)が得意でした。それでも近所の子供が「ベーゴマやろよ」と誘いに来ました。石油...つづき
1976年生まれ

「コースを作って車を走らせたりもした」年齢によって変わる砂場遊びいろいろ

すんすんさん兵庫県 1976年生まれ 男性 砂場での思い出と言えば、年齢によって異なります。幼稚園の頃はひたすら山を作ったり、女の子と一緒にままごとをした記憶があります。その段階が終わると、次はトンネル作りにはまりました。ただ山を作るだけではなく、山をしっかりと固めて、両サイドから慎重に掘っていったり、山の下の砂場の部分に穴を掘ったりしてトンネルを作りました。初めて貫通した時の喜びは今でも覚えています。その次の段階として、砂場に道を作って、コースのようにしてミニカーを走らせていました。小学校高学年の頃に、ミニ四駆が流行すると、みんなで砂場でコースを作って競争させました。ストレートのコースだけでは物足りなく、カーブを作ろうとしていましたが、ミニ四駆の力が強くて、カーブの壁を乗り越えてしまい、結局うまくカーブは作れませんでした。その後は、ラジコンを走らせるために、砂場でコースを作りました。今思えば、ずっと砂場で遊んでいた子ども時代でしたね。
1984年生まれ

ジャングルジムで遊ぶ時の順番

おはるさん兵庫県 1984年生まれ 男性私たちがジャングルジムで遊ぶとき、まずは格子状の中を足から滑るように移動することから始まります。一人が滑るとゲームのパーティが移動するかのように続いて、他の人も滑って移動します。続いて条件をつけて遊びます。足を使ってはいけない、あるいは手を使ってはいけない等の条件をつけてジャングルジムを登っていきます。その際、必ずだれかは落ちていました。今思うと危険な遊びでしたが、当初はそれで大笑いしておりました。全員が上の方に上るとお互い手を取り合って、なぜか揺れてました。傍から見れば危険でしかない動きでしたが、なぜか誰も止めずに笑ってました。近所の公園にはジャングルジムからウンテイも続いていたので、そのままウンテイに移動しました。行き切ると戻って来て、またジャングルジムで暴れました。みんな、何かしら怪我をしていましたが、幸いにも骨折等の重症を負うこともなく遊んでました。ジャングルジムでの遊びは本当に楽しかったです。私たちは仲間と一緒に遊び、身体も心もリフレッシュすることができました。今では子供をジャングルジムに連れて行くことはありますが、できれば危ないことは...つづき
1977年生まれ

「小学5年生の思い出」ジャングルジムの上で友達と見た夕焼け

勇気なしこさん兵庫県 1977年生まれ 女性昼休みにみんなで集まると、鬼がボールを持ち、ジャングルジムの下からの上にいる人を狙う遊びをしていました。鬼はジャングルジムの上には上がれません。ボールが当たらないように避けるスリルがあって楽しかったです。私が小学5年生頃、仲良しのなみちゃんという子がいました。休み時間もなみちゃんと一緒です。彼女は運動神がよく、特に走るのが速かったです。私も足が速く一緒にリレーの代表に選ばれていました。私たちは放課後によく小学校の運動場に集合して好きなお菓子を食べたり、大きくなったら何になりたいか話していました。ベンチのない校庭で、椅子代わりに腰をかけていたのがジャングルジムです。1番上に座り何を話しても楽しかった記憶があります。それからしばらくして、なみちゃんが引っ越すことになりました。隣町でしたが小学生の私にはとても遠く感じました。ジャングルジムの上で「大人になっても遊ぼうね」と約束しました。中学校は一緒になりましたが、あの頃の私には話しかける勇気はなく、中学時代は一度も話せずじまいでした。今の私なら話せたのに、昔の私は忘れ去られているかも?の気持ちが強く...つづき
1976年生まれ

「ジャングルジムの痛い思い出」ジャングルジム鬼ごっこ

ちゅんちさん兵庫県 1976年生まれ 男性ジャングルジムでの思い出と言えば、みんなで鬼ごっこをしたことです。範囲をジャングルジム内に限定して鬼ごっこをするのですが、段々と興奮してくると、注意がおざなりになってしまい、痛い思いをすることがよくありました。一つ目は、鬼として追いかけている時に、前を逃げている子の足が顔に当たったり、自分の手が踏まれてしまうことです。相手は全く悪意はないのですが、これがけっこう痛いので、小さい頃はここで誰かが泣いてしまい、遊びが終わりになるということがよくありました。そして、もう一つ、痛いのが、これは自滅するパターンです。自分がジャングルジム内にいることを忘れて、思い切り立とうとして、ジャングルジムで頭を強打することです。今、思い出してもあの痛みはたまりません。本当に脳震盪を起こして記憶がなくなるんじゃないかというぐらいの痛さでした。そして、これは誰のせいでもない。自分のせいなので、誰かに八つ当たりすることもできず。ただ自分に腹が立つし、頭も痛いしで、本当に辛い思い出ですね。
1999年生まれ

僕には優しかった 不良のガキ大将

パエリアさん兵庫県 1999年生まれ 男性僕は中学時代、身長がクラスで1番低く、性格もかなり大人しめでした。それに加えて体も弱く、肺に穴が空きかけて学校を休みがちな時期もありました。そんな中学時代に、学年のガキ大将的存在がいました。その人は体も同級生の中ではかなり大きく。素行不良で先生に目を付けられており、同級生達は誰も逆らえないような人でした。そのガキ大将とは中1の時クラスが一緒だったのですが、案の定弱々しい僕に絡んで来ていました。出会った最初の頃は、とにかく何をされるか分からなくて怖い印象だったのですが、僕の体が弱いことを知ると、「新しい肺買ったろか?」と冗談を言ってくるようになりました。嫌な感じでは無く、僕を明るく受け入れてくれるような感じでした。ガキ大将はその後も、確かに素行は悪かったのですが、僕にだけは優しくしてくれました。「肺買ったろか?」が会うたび挨拶のようになっており、時には隣を歩いて、僕が他の不良に絡まれないように、一緒に学校から家まで下校してくれる時もありました。今となっては肺も良くなりましたが、当時の僕はその優しさが嬉しくてたまりませんでした。
1977年生まれ

「ドッチボールの思い出」負けたチームは全員 はりつけ死刑の罰ゲーム

ごまおさん兵庫県 1977年生まれ 男性小学生の頃、私の小学校では、ドッチボールが流行っていました。休み時間や給食を食べ終わった後には、必ず校庭でドッチボールをして遊んでいました。当初は、勝ち負けを競うだけの遊びだったのですが、あまりにも熱中していたこともあり、いつしか負けたら罰ゲームを実施するようになっていました。罰ゲームは「はりつけ死刑」という名前で呼ばれており、負けたチーム全員が、校舎の壁を背にし、手を後ろに組んで一列に並び、勝ったチームが一斉に壁に向かって思いっきりボールをぶつけるという壮絶なものでした。勝った方の全員が、同時にボール投げるようにするため、体育館からバスケットボールをわざわざ取り出していました。かなり至近距離からボールが放たれますので、時には顔面にバスケットボールが命中し、鼻血を出す子供がいるなど、かなりエスカレートしていきました。最初は楽しかったドッチボールも、負け時の罰ゲームが、あまりにも痛くて、恐怖へと変わってきたのを覚えています。負けると恐怖がまっているので、競技中に些細なことでも(当たった、当たってないなど)喧嘩に発展してしまうことが多くなり、遊びの感...つづき
1999年生まれ

ジャンケンで負けたら「図書委員の女子に声をかける罰ゲーム」

コアラさん兵庫県 1999年生まれ 男性これは僕が小学生の時の話です。通っていた小学校の図書室では、図書委員の生徒が本の貸し出しの受付を担当していました。ある日ほ休み時間に友達と4人で図書室に遊びに来ていました。友達の1人が「ジャンケンで負けたら図書委員の女子を2人きりの遊びに誘おう」という罰ゲームを提案してきました。僕は絶対に嫌だったのですが、友達が皆参加してるのと、友達が負けて罰ゲームをするところを見てみたい気持ちが勝ってしまい。ジャンケンに参加しました。僕はジャンケンに負けてしまいました。すぐさま罰ゲーム。図書委員の女子に話しかけに行きました。「あの、今度2人で遊びに行かへん?」としっかり言いました。少し離れたところから友達のクスクス笑う声が聞こえてきます。すると、女子の返事はまさかのオッケー。断られる気満々で話しかけに行ったので、予想外の返答にびっくりしてしまいました。罰ゲームで女子を遊びに誘ったのですが、まさかのオッケー獲得で、その後しっかり待ち合わせ場所や日程を決めて、女子と遊びに行くことが出来ました。これが人生初のデートです。そこからその女子と話す機会も増えて、罰ゲームで...つづき
1967年生まれ

当時大流行したローラースケートでたくさん遊んだ体験談

ローラーたくやさん兵庫県 1967年生まれ 男性僕は小学校5年生の頃、父の仕事の関係で地方へ移住しました。生まれ育った都会とは違い、のどかな田園風景が広がる場所でした。その地域で、流行っていたのがローラースケート。自動車があまり通らず、長く続く近所の道路は、絶好のローラースケート場です。友だちが楽しそうにローラースケートをしているのを見て、親に同じものを買ってもらい、彼らの仲間入りをしました。当時のローラースケートは、靴のサイズに合わせて金属製のローラースケートを履き、ベルトで固定するタイプでした。アスファルトの道路は滑りが悪いので、あまり転ぶこともなく。ガチャガチャと音をたてながら滑っていました。放課後は、友だちとよく競争をしながら楽しく遊んでいたものです。ある日、数キロ離れた手柄山公園という場所に無料の屋外ローラースケートリンクがあることを知りました。休日に友だちのご両親が車で、僕たちをそこへ連れて行ってくれました。そこで初めて知ったのが、リンクの舗装がアスファルトとは違い、すごく滑らかだったことです。「すごくスピードがでそう。少し怖いかも。」と恐る恐る滑り始めると、案の定後ろに転...つづき
1995年生まれ

ローラースケートを見たら思い出すこと

りんりんさん兵庫県 1995年生まれ 女性私は大人になった現在でもローラースケートを見ると苦い記憶が思い出されます。今から約20年前にローラースケートを滑る友達を見て、自分も滑ってみたいと思い親に買ってもらいました。その友達はローラースケートを滑る時にフィギュアスケートのようにクルクルとその場で回るような技をしており、自分もそれがしたいと思っていました。いざ買ってもらってローラースケートを履くと、まず一人で立てないことを知りました。実家の駐車場で滑る練習をしましたが、一向に滑れるようにならず。ある日段差につまづいて顎を強打してしました。そこからというもの、全く滑る気にはならず、私のローラースケート体験は終わりました。後からその友達がフィギュアスケートを習っていたことを知り、そりゃ自分は滑れないわと子供ながらに思った記憶があります。大人になり子供を育てる身になった今、ローラースケートのような継続して履けるかどうかわからない商品を買ってくれた親には感謝しています。
1951年生まれ

ガキ大将と箱ブランコの思い出

katsuさん兵庫県 1951年生まれ 男性 僕が小学生の低学年だったころに箱ブランコで遊んでいた時です。高学年の子が来て強く押して高くまで上げました。怖くなって降りたいと言ってもなかなか止めてくれませんでした。僕らが降りて他へ行くと今度は彼らが遊び始めました。きっと親切に押してくれたのは僕らをブランコからおろすための嫌がらせだったと思います。だから彼らが帰るまでしばらく普通のブランコで遊んでいました。僕らが高学年になった時は、箱ブランコの中で立って足を右左にバッタンバッタンと漕いで遊んでいました。仲間が集まると皆(3人位)が片方に全員座り、右から左に移動してブランコを徐々に動かして行く方法で出来るだけ速く動かす遊びもしてました。するとまた高学年の子がやってきて、ブランコを揺する嫌がらせをするのです。「降りろ」「嫌や」と言った口喧嘩が始まりました。そうこうしているとガキ大将がやって来て「お前ら使わへんやったら」俺が乗ると言ってブランコを一人占めしてしまいました。擦った揉んだしたあげく、最後は仲直りをして皆んなで一緒に遊ぶ事になりました。
1951年生まれ

雪合戦

katsuさん兵庫県 1951年生まれ 男性小学生の頃は雪が降って来ると急いて外に出ました。まず空を見上げ、口を開けて雪の味を確かめる事から始めます。冷たいだけでかき氷みたいに美味しくはありません。そうこうしていると雪はどんどん降って来ます。体が雪で真っ白になります。寒くなってきたので家に入り、窓を開け見ていました。翌朝は早く起きて外に出ました。あたり一面雪景色でした。学校に行って皆んなと雪合戦ができると思いました。朝ご飯を食べ急いで学校に行きます。もう早い子が来てました。雪をかき集めて小山を作っていたので、僕も一緒に集めるのを手伝いました。少し集まると今度は雪ダルマの作成です。そして雪ダルマの前を雪で囲いました。又違うグループも反対側に同じような雪ダルマの前に囲いが出来ていました。さあ!これから両方に別れて雪合戦です。雪を丸めて弾を作り相手に投げつけました。すると授業の始まる鐘の音がキンコンカンコンと鳴り、途中ですが教室に入らなからばなりません。残念!次は休み時間にと思い教室に戻りました。しかし気になって窓から外ばかり見ていたら、先生に注意されてしたいました。終。
1975年生まれ

長い長い滑り台

mugikoさん兵庫県 1975年生まれ 女性私が通っていた小学校の運動場は遊具が少なく。ブランコに古びた滑り台、ジャングルジムに鉄棒ぐらいだったと思います。私が小学4年生の時に古い滑り台を取り壊して、長い長い滑り台を設置したのでした。生徒たちは大喜びで滑り台を遊んでいました。長い長い滑り台だったので、滑っていると途中で止まります。生徒たちは、そこから立ち上がり下まで走り抜けている子供もいました。出来たばかりの長い滑り台はなかなか順番が回って来ません。下校時間ギリギリになると、ようやくすべる事が出来るほどの人気の滑り台でした。滑り台で遊びたい生徒は朝早く学校に行ったり、下校時間まで粘っている子供がいました。まぁ一ヶ月も経てば人気もなくなり、私もようやく長い滑り台を遊べるようになりました。そこで友達と3人セットで滑ったり、後ろ向きになって滑ったり色々とふざけた遊びをしていたのですが、今まで遊んでいた短い距離の滑り台と違い。長い長い滑り台だったので途中でスピードが出なくなります。そうすると、友達が後から押してくれました。私はいきなり後ろから押されたので体勢を崩して、滑り台から落ちてしまった...つづき
1989年生まれ

おはじきを飲み込んでしまった 苦い思い出

みさん兵庫県西脇市 1989年生まれ 女性私が子供の頃、ガラスでできたおはじきのキラキラが好きで集めていたので、祖母がよくおはじきを買ってきてくれました。祖母がよく遊んでくれていたので、姉と一緒に祖母に戦いを挑んでいたのですが、熟練の技がすごすぎて戦いを挑んでは負け、また挑んでは負けを繰り返していました。何回やっても勝てないくらい祖母は強かったです。ある日、一人で遊んでいた時に、なぜかおはじきを口に入れていました。しばらく部屋でゴロゴロしていたら、何かの拍子におはじきを飲み込んでしまい、びっくりして母に泣きつきました。母は心配もしてくれましたが「何してるの!?なんで口に入れたの?」とかなり怒られました。その時は特に病院にも行かず水をいっぱい飲んでいたら、数日後トイレの時に無事に排出されました。母にかなり怒られたので、それ以来あまりおはじき遊びはしなくなりました。今でも実家に帰るとたまにその話を掘り返されます。恥ずかしい苦い思い出です。
1988年生まれ

冬の縄跳びの痛い思い出

とび兎さん兵庫県 1988年生まれ 男性小学生の頃、私の通っていた小学校では、冬の体育の時間に縄跳びをする事が多い学校でした。服装に関して上は長袖の着用は許されていたのだが、なぜか下は半ズボンじゃないといけないルール。寒い中の縄跳びは冷えた体に縄が当たる恐怖があるのに、さらに下が半ズボン。今思えばどういう拷問なのかと思います。普通に飛ぶだけではなく、1つ1つの技をクリアしていき自分のチェックリストを埋めていくような形でした。後ろ跳びやクロス跳びとかはゆっくり出来るので、当たってもそこまでの痛さは無かったんですが、二重跳びは勢いも必要で普通にするのも当時は難しく、さらに当たると痛いという怖さもあり、なかなか出にずに苦労しました。勇気を出してやった時に思いっきり素足に当たり、激痛と共に鞭を撃たれたようなミミズ腫れになりました。その後の体育の縄跳びは全て休んでしまおうかと思ったくらい嫌になったのが思い出です。
1988年生まれ

児童館のベーゴマ遊び

るんるんさん兵庫県 神戸市西区 1988年生まれ 男性私は小学生の頃、学校終わりに児童館に毎日行っていました。みんなとよくベーゴマで競い合って遊んでいました。その通っていた児童館には、技のやり方を書いた紙があり、初級は普通に回すことから始まり、紐を使って綱渡りをしたり、回っているベーゴマに紐を絡めて宙に飛ばして手の平に乗せて回すなど、色々なレベルの技に挑戦していきました。自分が今どれぐらい出来るようになったのかチェックを付けます。児童館にいる先生に検定試験的なものをやってもらい合格することができれば、その児童館の中で表彰を飾ってもらえるというものでした。それをもらうことが出来ると周りに自慢する事もでき、目立つことが出来るのでみんな必死に取り組んで遊んでいました。ただ、ベーゴマの数もそれほど多くあったわけではなく、早く来た人から順にできるので、取り合いになって喧嘩したり、順番が回ってこなくて先生から怒られたり、いろんなトラブルがありました。
1989年生まれ

「牛乳瓶の蓋で!」メンコの思い出

みさん兵庫県西脇市 1989年生まれ 女性私が幼稚園に通っていた頃、よくメンコ遊びをしていました。当時はまだ瓶の牛乳とパックの牛乳、半々だったので瓶の時に蓋を取っておいて洗って乾かして使っていました。マジックなどで自分の好きな色を塗ったり、絵を描いたりしてオリジナルのメンコを作るのが流行りでした。メンコ遊びもみんなやっていましたが、女子は絵を描いたり、オリジナルメンコを集める方が多かった気がします。お道具箱に集めて喜んでいました。メンコ遊びの方はいたって普通のルールで、裏返した方が勝ちです。男子は勝った方がもらえるルールを使っていた様に思いますが、女子は平和に勝ち負けだけのルールでした。自由時間に女子は女子、男子は男子で楽しんでいましたが、先生がたまには男女混合でやろうと提案してくれて普段遊ばない子とコミュニケーションが取れる遊びになっていました。駄菓子屋で買うこともありましたが、幼稚園に持っていけなかったので、牛乳瓶の蓋のメンコの方が思い出に残っています。
1989年生まれ

練習の賜物 フラフープを誰が一番回せるか競争

みさん兵庫県 1989年生まれ 女性フラフープの思い出で一番印象に残っているのは近所の友達です。我が家にはフラフープがなかったので、友達の家で遊ぶ時によく貸してもらってやっていました。友達には2つ上のお姉さんがいたので家に2つフラフープを持っていて、遊ぶときはみんな交代で使っていました。私は友達の家に行った時しかフラフープができなかったのであまり長く回せませんでしたが、友達はお姉さんに負けるのが悔しかったみたいでかなりの時間練習したそうです。お腹だけでなく胸や首で回したり、回しながら歩いたり、練習の甲斐あってずっと回し続けることができました。ある日学校でフラフープをやる機会があって、みんなで誰が一番回せるか競い合いました。他の子がどんどんフラフープを落としていく中、友達はいつまでも回し続けていたので、先生からのストップがかかるほどでした私たちの世代では敵なしのフラフープの達人として、先生に褒められて嬉しそう。何事も継続することが大切だと子供ながらに感じました。
1975年生まれ

鬼ごっこで見捨てられた私

こむぎさん兵庫県1975年生まれ 女性 私が住んでいた地域は田舎で山が多い場所です。山は子供の遊び場でした。私は子供の頃から方向音痴でした。山の中は似たような場所が多く、私はいつも迷子になってました。山の中は広く、迷子になってばかりの私を友達に探してもらって家に帰っていました。だから山の中では遊びたくなかったのですが、田舎なので山しかありません。他の友達は迷わなかったのに、なぜ私だけ迷うのか謎でした。私が小学生低学年の頃によく、友達と鬼ごっこをして遊んでいました。鬼ごっこは大体、校庭や公園で遊んでいました。校庭や公園などでは隠れる場所があまりないので、鬼ごっこをしてもすぐに見つかってしまう退屈な遊びでした。しかし、山の中はそうもいきません。山の中で鬼ごっこをすると私の場合は悲惨でした。隠れる場所は、たくさんあるので鬼になった場合は本当に大変です。誰も見つける事が出来ない時もありました。そういう場合、友達は退屈になって勝手に私を見捨てて自宅へ帰っていきました。私は友達に見捨てられた事にも気づかずに、ずーっと探していました。今、思い出すと子供って本当に残酷よねと思う悲しい想い出です。
1982年生まれ

鉄棒で逆上がりを練習した思い出

ニカさん兵庫県 1982年 女性小学校2、3年生位の頃でしょうか。体育の授業で逆上がりのテストがあるというので、出来なかった私はよく練習していたのを思い出します。小学校の鉄棒の前には、逆上がりが上手く出来るよう、練習用の踏み板が置いてあって、それがとてもカラフルに塗られていたのでよく覚えています。休み時間や放課後は学校で練習し、休日は親に電車で運動公園まで連れて行ってもらって練習をしました。私には妹がいるのですが、どういう訳か妹は鉄棒が得意。 前回り逆上がりと、練習する私の隣でぐるぐるぐるぐる回っていました。今思えば、初めての「妹に出来て私に出来ない事」だったような気がします。なので悔しくて、妹がどうやって逆上がりをしているのか盗み見ていました。研究の結果、どうやら腕の力で身体を鉄棒に引き寄せているようでした。小学校に置いてあった逆上がり練習用の踏み板は、ジェットコースターの出だしのレーンのような形をしていて、足で可能な限り高く駆け上がって逆上がりを助けるような構造になっていましたが、腕の力によるのであれば、あれは無駄かもしれないと学習しました。その後運動公園で初めて逆上がりが成功し、...つづき