1977年に生まれた人が子どもの頃にした遊びの思い出

1977年生まれ

下校時の小学生に「教育教材を売るおじさん」

とまとさん 大阪府 1977年生まれ 男性 小学校の帰り、正門前に人だかりが出来ていて、見るからに怪しいおじさんが教育教材を売っていました。 しかし、子ども向けに宣伝していた事もあったからか、教材についての説明は一切なく、その教材に申し込んだ時の特典付録についての説明ばかりでした。 練り消しのように、とても伸びるが良く消える消しゴム。何色もあるロケット鉛筆。折りたためる定規など、少し不思議な所が小学生の気を引く所であり。 それぞれの品をどのように使うか、実践して見せるので誰もが欲しくなり、興味津々に話を聞いていました。 すると、最後に簡単なテストと申し込み用紙を渡され、申し込みたい人は学校前の電柱にポストを付けておくので、そこにテストと申し込み用紙を入れて下さいと言われました。 私は、申し込む気満々で家に帰ってすぐにその渡されたテスト問題をし、母に「これをポストに入れる」と言うと、「それは騙しの教材なのでそんなのに乗っかったら駄目」と怒られてしまい、申し込まずに終わりました。 これこそが、社会勉強です。ちなみに、ポストは翌朝の登校時、しっかりと電柱に巻き付けてありました。 今思うと正門...つづき
1977年生まれ

「小さな宝物探し」学校の帰り道に不思議な石を探す 宝探し

とおこさん 東京都 1977年生まれ 女性 小学校三年か四年生の頃の思い出です。 当時住んでいたのは、民家の途中に畑があり、マンションなどほとんどないちょっと田舎風な土地でした。 家から学校までの通学路はのどかなもので、住宅街と畑を見ながら友達と変える毎日です。そんな通学路の途中に「面白い石が落ちている場所」がありました。 小さな三角だったり、青くて平らな丸い石だったりと、子供の目からするとなんとも不思議で珍しいものばかりです。 砂やがれきと共に落ちているそんな石を、友達と一緒に拾って帰るのが楽しい日々でした。 時々ちょっと大きな花の形とかカラフルな石があって、互いに見せ合ったり交換したりと、それぞれが「面白い石」を宝探しのように見つけていました。 そんな楽しい場所も引っ越しと共にお別れになりました。 大人になって思い出してみると、あの場所は解体工事の時に出た石壁やタイル壁の廃材置き場だったのではないかと考えています。 建物の裏側に捨て置かれた小さな欠片たちが、子供の頃にはなんとも不思議な宝探しの場所になっていたのでした。
1977年生まれ

「学校帰りの思い出」高鬼をしていたら怒られた話

るぅさん 宮崎県 1977年生まれ 男性 学校帰りにした遊びといえば、電柱ごとにジャンケンして負けたら友達のランドセルを持つ「カバン持ち」、影をふまれたら鬼交代の「影踏み」、一人で帰るときは石や缶をどこまで蹴って帰れるか等、いろいろ思いついては遊んでました。 その中でも、覚えているのは、「高鬼」です。 鬼よりも高い所にいると鬼はタッチできないのですが、その場にいることができるのは10秒だけで、10秒内に降りて走って逃げるか、別の段差に移動して鬼から逃げるという、どこにでもある鬼ごっこです。 小学校1年生の時に、その「高鬼」をやっていて、鬼から逃げ回ってる時に丁度いい高さのブロック塀があり、それに飛び乗って一息ついた瞬間「コラーーー!」と怒鳴り声。 振り返ると、こじんまりとしたボロボロの家から、下はスカートのようなものに上は肌着だけで、ガリガリのお婆さんが出てきて「人ん家の花壇で、何してるか!」と、怒鳴りながら近づいてきます。 その姿が、絵本などで見る「鬼婆」に見えて、怖くなって周りを見たら友達も逃げて誰もいません。 自分も走って逃げました。必死に走りますが、すぐ後ろにいるような気がして...つづき
1977年生まれ

「一番のお気に入り」グローブジャングルの思い出

はぁむさん 埼玉県 1977年生まれ 女性 私が公園で遊ぶ時に、決まって一番に走り寄るのはグローブジャングルでした。 ブランコも滑り台も大好き、鉄棒でもたくさん遊ぶけど、一度回せばその後しばらく回っていてくれて、しかも大人数で遊べるこの遊具は特別大好きな存在でした。 どこにでもあるわけではなく、たまたま友達の家のそばで見つけたそのグローブジャングルは、赤、青、黄色の3色に塗られてとても大きく、子どもの目にはまるでキラキラ輝く地球儀のようでした。 友達数人と遊ぶのにちょうど良く、外周りを走りながらジャングルを回す子と、中でキャーキャー騒ぐ子とが順番に入れ替わっては楽しみ、何回やっても飽きません。 ようやく疲れてくると、持ち寄ったお菓子を持って全員中に入り込み、おやつタイムになります。 その後はまたゆっくり回したり速く回したり、サーカス団のようなポーズを決めながら面白おかしく回って笑い合ったりが延々に続き、いよいよ落ち着いてくるとジャングルの上に登ってお話をしたりして、大切な秘密基地のような思い出の場所です。
1977年生まれ

「登下校の思い出」嫌な教科があるときは石蹴りしながら登校

やまぺさん 大阪府 1977年生まれ 男性 嫌いな教科の授業がある時など学校へ行くのが嫌な日があると、よく朝から石蹴りをしながら登校していました。 石蹴りをしていると、それに夢中になって嫌な事などは全て忘れます。 当時流行していたキャプテン翼をイメージして、何とかシュートとか言いながら学校までずっと石を蹴りながら登校していました。 しかし、石蹴りをしながらの登校は、とても時間がかかるのでいつも授業が始まる直前に学校に着き、現実に戻されます。 すぐ授業に入らないといけないので、余裕がなく、後悔をしてしまいますが、どうしても現実逃避をしたいので、嫌な日は石蹴りをする事を自分の中で決めていました。 ある日、登校時から友達と一緒に石蹴りをして学校まで行ったことがありますが、その時は流石に遅刻してしまい、先生に怒られました。 その日は一日中嫌な気分だったので、帰りも石蹴りをして帰宅しましたが、家に帰って一日を振り返ってみると自分が悪い事に気付き、それ以降は石蹴りをしての登校は止めました。
1977年生まれ

小学1年生とき クラスに入り込んだ犬の恐怖

卵焼きさん 大阪府 1977年生まれ 男性 私の通っていた小学校は1年生が校舎の1階で、廊下もドアを開放している事が多く、葉っぱや虫など色々なものが校舎に入って来ました。 その中でも犬が入って来た時は、クラス中が大騒ぎでした。 犬を飼っているクラスメイトも多かったので、ほとんどの人が大喜びでしたが、私は犬が大嫌いだったので、早く何処かへ行って欲しいと言う気持ちしかありませんでした。 「近くに来たらどうしよう」「嚙まれたらどうしよう」など、心配と恐怖ばかり。どうにか恐怖に打ち勝とうと必死に頑張っていると、もう泣いてしまっている女の子がいました。 その子を見ると、私も余計に不安になり、泣きそうになりましたが、一緒に泣くのは恥ずかしいと言う気持ちもあり。 怖さと恥ずかしさとで、もう何が何だかわからなくなっていました。 そこへ担任の先生がやって来て、その犬を校舎から追い払い、戻って来られないようにドアを閉めてくれたました。 私の緊張は一気に解けて結局泣いてしまいました。「先生、もう少し早く来て欲しかった」と言う気持ちは、今でも忘れられません。
1977年生まれ

小学生の時に見つけた 秘密の隠れ場所の思い出

ひでさん 福岡県 1977年生まれ 男性 当時私が住んでいたの団地では小学生の子供集会などがあり、そこで知り合った仲間とよくつるんでいました。 当時まだファミコンが一家庭にあるかないかの時代で、外で野球やサッカーをしたら、ファミコンを持っている友達の家にお邪魔して遊んでいました。 下の子供なども多くいたので、外の遊びでは良くかくれんぼをしていました。 私が住んでいた団地は建物の真ん中に公園があり、そこを中心にかくれんぼをしていました。 ただ、隠れる場所は公園よりも建物内で隠れることが多く。建物も13階ぐらいあったので、逃げ回りながら隠れました。 ある時いつもの建物内に隠れていただのですが、その建物の地下の狭い通路みたいな所を見つけ、その建物の地下に隠れた事があります。 薄暗く余り周りが見えない状況でした。 その時は最後の最後まで見つかる事もなく、気がつけば日が暮れて、私一人が取り残されていました。とても寂しく悲しい気持ちになりました。 流石にあそこに隠れているとは誰も思わないし、見つける事は無理だなと。それ以後はかくれんぼでは使用せず、みんなの秘密基地として活用しました。
1977年生まれ

祖父の園芸店の砂遊び

きんぞくさん 大阪府 1977年生まれ 男性 祖父の園芸店では、園芸で使う大量の砂が積み上げてありました。そこでトンネルや落とし穴を作って遊びました。 遊びの一つとして「どれだけ大きな山を作れるか」を競った事があります。 その時、砂を奥深くまで掘っていたら、砂が粘土質になってきたので、最初は土粘土(つちねんど)として遊べるかも知れないと思い。必死になって穴を掘りました。 すると、砂は粘土質から、少し湿って水を含んだ泥のような土に変わってきました。 本で読んだ知識で、砂を奥まで掘り続けると水が出てくる事を思い出し、やる気が出て、水が出るまで夢中で穴を掘る事にしました。 途中、その掘った砂を周りのあちこちに散らかしていたので、祖父からは【園芸で使う土なので綺麗に使いなさい」と怒られたりもしましたが、もう水が出るまで掘り続ける事に決めた私にとって、そんな事は聞く耳を持たず。 1時間以上掘り続けると、何と底から水が出て来ました。これは感動。自画自賛しました。 しかし、祖父からはもうあの遊びや止めてくれと言われ、結局1回しか出来ませんでした。とても良い思い出です。
1977年生まれ

「小学5年生の思い出」ジャングルジムの上で友達と見た夕焼け

勇気なしこさん 兵庫県 1977年生まれ 女性 昼休みにみんなで集まると、鬼がボールを持ち、ジャングルジムの下からの上にいる人を狙う遊びをしていました。鬼はジャングルジムの上には上がれません。 ボールが当たらないように避けるスリルがあって楽しかったです。 私が小学5年生頃、仲良しのなみちゃんという子がいました。休み時間もなみちゃんと一緒です。 彼女は運動神がよく、特に走るのが速かったです。私も足が速く一緒にリレーの代表に選ばれていました。 私たちは放課後によく小学校の運動場に集合して好きなお菓子を食べたり、大きくなったら何になりたいか話していました。 ベンチのない校庭で、椅子代わりに腰をかけていたのがジャングルジムです。1番上に座り何を話しても楽しかった記憶があります。 それからしばらくして、なみちゃんが引っ越すことになりました。 隣町でしたが小学生の私にはとても遠く感じました。ジャングルジムの上で「大人になっても遊ぼうね」と約束しました。 中学校は一緒になりましたが、あの頃の私には話しかける勇気はなく、中学時代は一度も話せずじまいでした。 今の私なら話せたのに、昔の私は忘れ去られてい...つづき
1977年生まれ

「竹林は遊び道具を生み出す宝箱だった」竹とんぼの思い出

ブラックマークさん 京都府 1977年生まれ 男性 私の住んでいた地域は近くに竹林があり、竹が身近にありました。竹を使った遊具で遊ぶことが多く、竹とんぼや竹馬で友達と近所の広場に集まっていました。 最初、竹とんぼは、人に作ってもらったもので遊んでいたのですが、少し大きくなったときに自分たちで作ろうという事に。 肥後守を使って、竹を削り中心地点に二つ穴をあけ、そこに差し込める棒を作れば完成です。 言葉で並べると簡単なのですが、これが中々難しい。 羽根の部分の重さのバランスが取れていないと綺麗に飛んでくれないし、棒の太さが適切でないと手で回そうとした時に上手くいきません。 肥後守を使って竹を削っていると、一度、手を滑らせてしまいケガをしたことがありました。 その傷跡は今もうっすらと残っており、見る度に当時を思い出します。 完成した竹とんぼをもって、近くの広場に集まり、誰が一番高く飛ばせるか競争が始まります。 みんなそれぞれに工夫をした竹とんぼが飛び交う空は、とても綺麗だったなあと思い出します。
1977年生まれ

「ドッチボールの思い出」負けたチームは全員 はりつけ死刑の罰ゲーム

ごまおさん 兵庫県 1977年生まれ 男性 小学生の頃、私の小学校では、ドッチボールが流行っていました。休み時間や給食を食べ終わった後には、必ず校庭でドッチボールをして遊んでいました。 当初は、勝ち負けを競うだけの遊びだったのですが、あまりにも熱中していたこともあり、いつしか負けたら罰ゲームを実施するようになっていました。 罰ゲームは「はりつけ死刑」という名前で呼ばれており、負けたチーム全員が、校舎の壁を背にし、手を後ろに組んで一列に並び、勝ったチームが一斉に壁に向かって思いっきりボールをぶつけるという壮絶なものでした。 勝った方の全員が、同時にボール投げるようにするため、体育館からバスケットボールをわざわざ取り出していました。 かなり至近距離からボールが放たれますので、時には顔面にバスケットボールが命中し、鼻血を出す子供がいるなど、かなりエスカレートしていきました。 最初は楽しかったドッチボールも、負け時の罰ゲームが、あまりにも痛くて、恐怖へと変わってきたのを覚えています。 負けると恐怖がまっているので、競技中に些細なことでも(当たった、当たってないなど)喧嘩に発展してしまうことが多...つづき
1977年生まれ

シーソーの両端に石を置いてバランスをとる遊び

さんかくさん 山大阪府 1977年生まれ 男性 公園にあったシーソー。最初は、兄弟や友達と普通に乗り合って遊んでいるだけで楽しかったが、小学校も高学年になると、それだけではつまらなくなります。 そして、思いついたのが大きくて同じような石を友達と1個ずつ見つけてきて左右に乗せて重さを競い合う遊びでした。 この遊びは石を見つけるのが難しく。やっと同じような大きさの石を見つけてきた頃には、もうどっちが重いかなんてどうでも良くなってしまい。全然面白くありませんでした。 最終的にたどり着いたのが「同じ重さの石」を見つける事でした。遊び方としては、先程と何も変わっていませんが、どっちが重いかを考えるより、同じ重さの石を見つける方が、友達と何かを共有しているような気持ちになりました。 同じ重さの石を見つけられた時には、一緒に何かをやり遂げたような充実感が漂い。単純な遊びでしたが、繰り返して遊ぶ事が出来ました。
1977年生まれ

箱ブランコで劇遊び

あんまんさん 大阪府 1977年生まれ 女性 今はない公園ですが、商店街の裏に小さな公園がありました。隣がこんにゃく工場のため匂いがきつく、人が少ないので、人気の箱ブランコで遊ぶのにいつもその公園へ行っていました。 箱ブランコは女子にも男子にも人気があり、男子がいると箱ブランコを必要以上に揺らすため、ゆっくり遊べません。そこで人の少ない公園に行く必要があったんです。 女子に人気の遊びは、箱ブランコで劇遊びでした。箱ブランコは家にもなり、乗り物にもなります。いくらでも物語が続くので何時間でもそこにいることができました。 箱ブランコの下にはなぜか土が溜まっていて、そこに宝物を隠し冒険に行くという遊びが当時流行っていて、だれがお姫様の役をするかでもめていたのを覚えています。 みんな悪役はしたくないので、みんなお姫様ということもあり、何がなんだかわからない劇になっていましたが、楽しんでいました。 それを担任の先生に話したら、ビデオを撮ってあげると言われ。みんなできちんと台本を作ろうと頑張りましたが、意見がまとまらず。その話はいつの間にかなくなってしまいました。
1977年生まれ

母とのおはじき遊びの思い出

ヤクルトさん 自宅 1977年生まれ 女性 小学校低学年のころ、母はよく遊び相手になってくれていました。おはじきのルールのある遊び方は母に教えてもらいました。 おはじきをばらまいて、2つのおはじきの間をぶつからずに通り抜けたらゲットできる。それを交互にやって、手持ちのおはじきが多いほうが勝ち。という単純なルールです。 簡単そうに見えますが、小学生の不器用な私には少し難しく。間を抜けずにぶつかってしまったり、通過せずに手前で止まってしまったりしました。 その点、母は上手で、母の順番が来るたびにどんどん自分のおはじきを増やしていきます。私は負けず嫌いでわがままなので、とにかく負けることが悔しくて面白くない。 すぐにそれが顔に出てしまい、母に怒られてまたふてくされる。それでも何度か相手をしてくれました。結局一度も勝つことが出来なかった気がします。 母の幼少期には、よく遊んだらしく、とても上手で、どこか母も得意げでした。私も母になり、何度か子供たちと同じルールで遊んだことがありますが、大人になってからのほうが力加減をうまくコントロールできるみたいです。 子供たちは負けてふてくされ、結局数えるほ...つづき
1977年生まれ

縄跳びとともに育った小学生時代 遊びと成長の物語

一服係長さん 栃木県 1979年生まれ 男性 私が小学生の頃「縄跳び」は立派な遊びのツールでした。今ほどにゲーム機や遊びのコンテンツはない時代、縄跳びで友達と遊びまた競い合った思い出が蘇ります。 放課後に学校のグラウンドや近所の神社で友達と一緒に「縄跳び」をしました。 最初は跳べなかったり、友達に追いつけなかったりすることもありました。それがまた次の挑戦へのモチベーションになりました。 「縄跳び」をするたびに自分の跳躍力が上がっていくのを実感でき、仲間とのコミュニケーションも強くなりました。 特に「リレー縄跳び」は一緒に跳ぶ仲間たちとのチームワークが大切だということを学べました。ときには「リレー縄跳び」で転倒してしまい。痛いし恥ずかしい思いをしました。 「二重飛び」「三重飛び」は友達より多く早く飛ぼうと夢中になり、一人日が暮れた家の庭で練習を繰り返したりと今思えば夢中になっていました。 小学生の時に「縄跳び」をすることができたことを思い出すと、今でも懐かしい気持ちになります。
1977年生まれ

兄と一緒に公園で遊んだメンコ遊びの思い出

ヤクルトさん 北海道 1977年生まれ 女性 私は末っ子で、兄が二人います。子供のころはキン肉マンが流行していて、どこから入手したのか、メンコがたくさんありました。 兄にくっついて公園へ行くと、必ず何人も同じ年代の子供がいたので、みんな顔見知りでした。 その頃はメンコ遊びが流行していたようで、公園に行くときは兄もその友達も、メンコ持参でした。大きいものから小さいものまでたくさん種類があって、大きいものは主役級のキャラクターが描かれていました。 公園にある台が会場で、相手のメンコを台から飛ばして落としたり、裏返したりしたら相手のメンコももらえます。 兄と友達がひとしきり遊んで満足したら、私にもやらせてくれます。思いっきり台に叩きつけても、なかなか裏返らないし、台から飛んでいかないし、びくともしなかった記憶があります。 それでもメンコ遊びをやっていることが楽しくて、腕が痛くなるまで飽きずに遊んでいました。私はまだ幼くて、公園へ行っても体を使う遊びにはついていけなかったので、一緒に遊べる数少ないジャンルでした。