1968年生まれ

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下校時の石蹴り遊び

スムージーさん千葉県 1968年生まれ 女性私の小学生の頃は、道はアスファルトでしたが、今ではあまり見かることのない、石が結構道に転がっていました。近所の友達と学校から帰る時、そんな石を見つけては、石蹴りをしながら、家に帰った思い出があります。蹴った石は、どこに転がるか分かりません。その事が面白く、石を追いかけながら、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、はたまた道を戻ったりと石蹴りは、続きます。石蹴りをしていると、なかなか家には辿り着きません。何処に転がるか分からない、自分の蹴った石を追いかけるのが、何故あれ程面白かったのか、今は分かりませんが、思えば人生も石蹴り遊びのようだと、中年になってしみじみと思います。
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ガキ大将とカブトムシの幼虫の思い出

ポーちゃん宮城県 1968年生まれ 女性私の住んでいる地区には同級生は3人しかいませんでした。気が合わなくてもだいたい3人で遊んでいました。3人のうちの1人が、体も大きく態度も大きく常に主導権を握っている人でした。その子はいつも弟を従わせていました。私は何かあるとすぐに頭をパカパカたたかれていました。遊んだあとに泣いて家に帰って頭をたたかれたと母に訴えることが何度かありました。たまりかねて母は、相手の親に苦情を言いに行ったことがありました。その後、何事もなかったように誘われて私はその子の家に遊びに行きました。その日は普通に遊んでいましたが、その子は弟に「あれを見せてやったら?」と何かを持ってくるように命じました。庭から何かを持ってきた弟は私にそれを見せました。それは大きく成長したカブトムシの幼虫でした。虫が苦手な私はぎゃーっと泣きながら逃げました。弟は面白がって追いかけてきました。それをその子は大笑いしながら見ていました。それ以来私はその子の家には行かなくなりました。学校でもその子は親分でした。中学に入るとヤンキー仲間の中心にいました。その精神は小さい頃と変わらないなあと遠巻きに私は見...つづき
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「ある日突然」みんなで1人を無視をする遊び

ローラさん宮城県 1968年生まれ 女性小学校6年の頃、いつも5人くらいの仲良しグループで遊んでいました。そのグループは、クラス内で優等生で教師からいつも可愛がられている女子を目の敵にしていたグループでした。教師からは嫌われていました。でも、皆そこそこの成績をとっていたので教師もかなり扱いにくかったと思います。そのグループ内で、おそらく私が一番成績が良かったと思いますが、リーダーではなく、参謀的な存在でした。ある日の朝、登校すると教室内の空気がよそよそしくいつもと違う感覚がありました。友達に話しかけても視線を合わせてくれません。いつものグループで私に声をかける人はいませんでした。その日を境に小学校卒業までの私は無視をされつづけることになりました。とりあえず違うグループの人達に仲間にいれてもらったものの、どこか心に壁がありました。修学旅行などはどん底のメンタルだったのでほとんど覚えていません。いじめは無視だけでした。それでも私は毎日学校へ通うのがとても辛かったです。1年ほど耐えて考えて、その無視の理由をどうしても確認したくなりました。陰でこっそり、話しをしてくれそうなグループの一員に聞い...つづき
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すべってころんで楽しいローラースケート

昭和チルドレンさん宮崎県 1968年生まれ 男性小学生のころ、3つ上の兄がスケートボードを粋がって始めました。ホントに、流行り始めたばかりのころでした。残念ながら、バランス感覚や運動神経に乏しい私には、スケボーを乗りこなすことが難しかった。そこで、まだ2本足だし、タイヤもたくさんついているローラースケートならやれるだろうと思い立ちました。ド昭和のローラースケートは、自分が普段履いている靴に、ヒモやバンドでしばりつけるようなタイプでした。靴と一体型のような高級な物はとても買えません。靴にローラースケートをしばりつけ、まず立ち上がるところから大変でした。バランスを取るのに一苦労。両足で立つことが出来るようになると、ゆっくり滑るのは、氷の上でやるスケートよりは簡単だなと思いました。広い公園の固いコンクリートの上で滑る練習を一生懸命していました。慣れてくると、ちょっと大きめの石を並べて、8の字やスラロームで滑る練習をしました。真っ暗になるまで夢中で滑っていた小学生時代が懐かしく思い出されます。
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ミニスキーの思い出

バームクーヘンさん北海道 1968年生まれ 女性小学校2年生の夏に北海道の両親の故郷に引っ越しをすることになりました。横浜生まれの私にとっては、この北海道の小さな町で過ごした半年間は、かけがえのない思い出です。特に冬になると、今までに見たことのないような雪が毎日降り続けました。母が、ミニスキーというものを買ってくれました。それは、長靴に装着するプラスチック製の短い板です。スキーと違って、ストックなどは必要ありません。道の両側には、除雪車によって大きな雪の山が出来ていました。私は、ミニスキーを長靴に付けると、その山を登って何度も滑りました。雪の山を滑る楽しさに、私は虜になってしましました。学校から帰ると毎日、毎日ミニスキーで遊びました。私が住んでいた家は、日本海に面していたので、強風と恐ろしいほどの波を見ながらミニスキーで遊び続けました。ある時、子供の私は何を思ったのか、家の屋根からミニスキーを滑ってみたくなり、自分でも登れる場所を見つけて滑りました。するとその家を借りていた大家のおばさんが慌てて、外に飛び出してきて、こっぴどく怒られてしましました。普段は優しいおばさんが、あれ程怒ったの...つづき
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お手玉と祖母の思い出

harukiさん宮城県 1968年生まれ 女性お手玉と言って思い出すのは祖母です。私の祖母は厳しい人でした。いつも正座しなさいとか、雑巾の絞り方があまいとか、家でも敬語を使いなさいとか細かいことを日頃から注意されていました。小さい時には従っていたけれど、小学生の頃には時に反発していました。祖母は縫物がとても上手な人でした。お人形の着物を縫ってくれたりしました。お手玉も綺麗なちりめんの布で縫ってくれ。中身は小豆だった思います。私はお手玉ができませんでした。お手玉でうまく遊べなくてたちまち不機嫌になりました。そんな様子を見て祖母はお手玉のお手本を見せてくれました。見たからと言って、すぐにできるものでもありません。苦労してやっとコツをつかみ、2つは使えるようになりました。すると祖母は3つでうまく遊んでみせました。私は何度チャレンジしても3つでは遊べず。あらぬ方向へ飛ばす始末。それを祖母は笑って見ていました。祖母と遊んだ記憶はそれしかありません。好きでも嫌いでもなかった祖母。あまり思い出らしい事がなかった中でお手玉は数少ない良い思い出かも知れません。
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たこ〜 たこ〜 天まで上がれ〜

昭和原人さん宮崎県 1968年生まれ 男性凧あげについては、失敗例と成功例が1つずつあります。まず、うまくいかなかった思い出は、小学校の図画工作の授業でつくった立体凧です。長い割りばしのような木材にビニール生地を貼り付けて、細長い直方体の立体凧を作りました。クラス中のみんながそれなりの格好に出来上がったので、運動場で飛ばす段取りになりました。みんなが全力で走り回りながら、凧を飛ばそうとしましたが、風がないせいか、重心がとれてないせいか、誰一人高く飛ばせませんでした。先生も困った顔をしてました。それほどに、凧を高く飛ばすのはむずかしいのだなと感じました。そのリベンジではありませんが、駄菓子屋で当時ゲイラカイトのパチモンを見つけて、再チャレンジしてみようとしました。パチモンだから、飛ぶかな~と心配でもありました。その日は、風も強く、一旦飛び出したら、グングン高いところまで一気に登っていきました。糸を引っ張る風の力をリアルに感じ、すごい力なんだなと思いました。タコ糸が終わりかけになるぐらい高く飛んだので、もう一組のタコ糸に結び付けて、さらに高くとばして、ゲイラカイトのパチモンが点に見えるぐら...つづき
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「駄菓子屋で運命の出会い」ベーゴマ遊びの思い出

昭和チルドレンさん宮崎県 1968年生まれ 男性昭和の小学生の社交場、それは駄菓子屋。そこで友人と見つけたベーゴマ。当時の小学生は遊ぶ時間はイヤというほどあったので、友人とベーゴマにチャレンジしてみました。怪しげな説明書きを見ながら、ヒモの先の方に1cmぐらい開けて結び目を2か所つくりました。その2つの結び目をとっかかりにして、ベーゴマにヒモを巻きつけていきます。これがなかなか難しく。頼りなさそうな説明書きを真似しながら、巻きつけていきました。なんとか巻きつけて、固そうな地面に向けてスナップを効かせて回してみました。最初は、むなしく転がるだけでした。しかし、時間だけはたっぷりある小学生だったので、友人たちとあーでもない、こーでもないと言いながら、何度も何度もチャレンジしました。だれかのが、少しでも回り始めると、そいつのやり方を真似しながら、研究開発が進みました。これぞ昭和の遊びの醍醐味といった感じでした。みんながそこそこ回せるようになったら、大きめのバケツに布を張って、ベーゴマの台をつくりました。台の布をぴんと張るのもコツがあって大変でした。最初はその台の中に着地させること自体が難しく...つづき
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近所の仲間と缶蹴りの思い出

ももさん東京都 1968年生まれ 女性子供の頃、東京の下町で暮らしていました。私には一才年上の兄がいて、いつも兄のお尻を追いかけてばかりいました。近所には同年代の子供達がたくさんいたのですが、それがどういうわけか全員男の子ばかり。必然的に私は男の子ばかりの中に一人混ざって遊ぶようになりました。その頃、近所の子供達は皆半ば兄弟みたいな関係でした。当時流行っていたのは缶蹴りです。必要なのは空き缶一つだけ。ゲームの始めは、じゃんけんで負けた子供が鬼です。他の子供達は隠れるのですが、隠れる前にできるだけ遠くに思い切り缶を蹴飛ばします。鬼はその缶を拾いに走り地面に立てたら足で踏むように押さえます。そして目を閉じ、決められた数を数えてから、隠れた仲間達を探します。この段階に微妙な駆け引きがあって、鬼は缶を見守りつつ必死に隠れた仲間を探します。隠れた子供は鬼に見つからないように缶に近づき、蹴飛ばして倒そうと狙います。缶を倒されたら鬼の負けにです。けれど隠れた子供を見つけ「×××見つけ!」と叫んだ後、缶を飛ばされないように足で押さえれば鬼の勝ちです。鬼の近くに隠れれば缶を倒しやすいのですが、その代わり...つづき
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「鬼ごっこ」で味わえるもの

Tenさん福井県の学校の校庭 1968年生まれ 男性テレパシーで示し合わしたかのように、放課後の校庭で「鬼ごっこ」がはじまります。鬼決めしたあと、逃げる子たち(以下、逃げ子)は広大な校庭の端々にある遊具をうまく逃げるツールとして使いながら鬼との距離を保とうと必死です。鬼に追い詰められタッチされた子は鬼になり、おおよそ3人単位で手をつないだまま、次のターゲットを追い込んでいきます。鬼グループは少しずつ多くなっていきます。この時逃げている自分は、高所恐怖症のような下半身がゾクゾクするようななんとも言えない恐怖心にかられますが、最後まで逃げ切る雄姿を頭に描きながら奮闘します。3人が手をつなぎ構成する単位は絶妙な大きさで、両端の2人が別の方向へ追いかけようとするとターゲットを逃してしまいます。何せ校庭は広く1グループだけで攻めるには限界があり、複数のグループが同じターゲットを攻めないと追い込めません。時には鬼がのばした手の指の風圧を袖に感じながらすり抜けた達成感は「逃げ子」でなければ感じることができません。追い詰めている途中よりも、いよいよ最後の「逃げ子」が捕まった瞬間が、この「鬼ごっこ」の全...つづき
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アメリカザリガニの思い出

昭和原人さん宮崎県 1968年生まれ 男性小学校時代、田んぼの用水路の流れがよどんでいるところでアメリカザリガニをよく釣っていました。長い棒の先にタコ糸をむすびつけ、その糸の先にさきイカの切れ端を結び付けて準備オッケーです。ザリガニが潜んでいそうな水草あたりにゆっくり下ろしていってじっくり待ちます。ザリガニがさきイカに気づくと、しっかりとハサミでつまんだ状態で引き上げることができます。ザリガニがいそうなポイントを下調べして知り尽くしていることが大切です。友達と二人で競争したときは、二人でバケツからあふれるぐらい釣った思い出があります。夢中になっていて時間があっというまに過ぎていました。一人で、釣っている時に用水路にすべり落ちて全身水まみれ泥だらけになったことがありました。今考えると命に関わっていたかもしれません。安全にザリガニ釣りをするのは難しい気がします。さすがにザリガニを食べようとしたことはありませんが、大人になった今、食べてみたらどんな味がするのか、興味はあります。ロブスターっぽい味がするのでしょうか?