埼玉

1965年生まれ

「じゃんけん遊びの思い出」負けたら負けよあっかんべえ!

つううてさん埼玉県 1965年生まれ 男性小学校のときはよく、友達や兄弟とじゃんけん遊びをしました。よくゲームをする前にその順番を決めるためにじゃんけんをした記憶があります。かけ声は今とあまり変わらないと思います。「最初はグー、じゃんけんぽん!」です。そして、たまに「負けたら負けよあっかんべえ!」という言葉がかけられました。負けたら、変な顔を見せて友達らを笑わせるというルールがありました。今で言う変顔のことです。じゃんけんは何故か、同じ手を使い続けると勝率が上がった記憶があります。パーならずっとパーばかり、たまにチョキを入れたりしました。じゃんけんに負けたときの罰ゲームみたいなものもありました。当時はデコピンと言っていました。今も存在するのかわかりません。負けた場合、勝者は利き手をつかい、手のひらを敗者のおでこにあてて、中指をパチンっとあてる方法です。力の弱い人だとあまり痛くないですが、指の太い力持ちにされるときは怖かった思い出があります。
1977年生まれ

「一番のお気に入り」グローブジャングルの思い出

はぁむさん埼玉県 1977年生まれ 女性私が公園で遊ぶ時に、決まって一番に走り寄るのはグローブジャングルでした。ブランコも滑り台も大好き、鉄棒でもたくさん遊ぶけど、一度回せばその後しばらく回っていてくれて、しかも大人数で遊べるこの遊具は特別大好きな存在でした。どこにでもあるわけではなく、たまたま友達の家のそばで見つけたそのグローブジャングルは、赤、青、黄色の3色に塗られてとても大きく、子どもの目にはまるでキラキラ輝く地球儀のようでした。友達数人と遊ぶのにちょうど良く、外周りを走りながらジャングルを回す子と、中でキャーキャー騒ぐ子とが順番に入れ替わっては楽しみ、何回やっても飽きません。ようやく疲れてくると、持ち寄ったお菓子を持って全員中に入り込み、おやつタイムになります。その後はまたゆっくり回したり速く回したり、サーカス団のようなポーズを決めながら面白おかしく回って笑い合ったりが延々に続き、いよいよ落ち着いてくるとジャングルの上に登ってお話をしたりして、大切な秘密基地のような思い出の場所です。
1966年生まれ

グローブジャングルの怖かった思い出

キンモクセイさん埼玉県 1966年生まれ 女性私が通っていたの小学校の校庭の固定施設にグローブジャングルがありました。あの頃私たちはジャングルジムとの区別もあって、そのかたちから『地球儀』と呼んでいました。遊び方は真ん中の芯棒の部分につかまって乗っている子、外側につかまって上の方に乗る子、同じ外側でも回すために足を地につけている子などそれぞれ好きな位置に乗っていました。回す子は走って地球儀を回し、好きなタイミングで地面を蹴って遠心力で体を浮かせます。そしてまた体が降りてきたタイミングで走って回し、体を浮かせて遊ぶのです。地球儀を回す子はたいてい男の子たちで、特に運動神経が良く足の速い子たちがその役を買って出て、時にはものすごい速度で回すのです。学校の休み時間などは先生方も校庭に出ているので、先生方の目を気にしてか、静かに優しく回して遊びます。それでも時には思わぬ速度になってしまい、先生に怒られながら足を使って速度を落としたりしていることもありました。ある放課後の出来事です。私は友達に誘われて、地球儀で遊ぶことになりました。それでも友達の誘いを断る勇気もなく、あまり考えもせず友達と同様に...つづき
1972年生まれ

「友達と研究したブレイクダンス?」休み時間の思い出

みゆさん埼玉県 1972年生まれ 女性小学校6年生の頃、「風見しんご」さんのブレイクダンスが流行っていました。友達と2人で前の晩に見た歌番組を一生懸命に思い出し、あーでもないこーでもないと再現し、ブレイクダンスを研究していました。小学校の廊下はジャージと相性がよく、背中で滑って回ったりととても楽しかった思い出です。当時はまだテレビを録画することは出来なかったので、記憶に頼るしかなく、それが大変だったのですが、少しづつ近づいている気がして楽しかったです。先生に見つからないように踊るのがまたスリルがあり、ワクワクしました。マイケル・ジャクソンのムーンウォークも流行っていて、何とかしてやってみたくて真似しましたが、なかなか上手くいきませんでした。友達が、足の動きを解明して出来た時は感動しましたし、その友達のことを天才だと思いました。今でもムーンウォークは出来ます!実は昨日、旦那にムーンウォークを教えてあげました。当時仲良しだった、教えてくれた友達を思い出して。
1970年生まれ

家の近くの空き地での思い出

せいざいさん埼玉県 1970年生まれ 男性小学生のころ、家の近くの細い道は砂利道で、舗装道路が整備されていませんでした。区画整理から漏れた駐車場に、使えそうな空き地がありました。近所には同じ世代の子供たちがたくさんおり、みんなで暗くなるまでその空き地でプラスチックボールトプラスチックバットを使った野球をしていました。ドラえもんにでてくるような土管がある公園ではありませんでしたが、似たり寄ったりの空き地です。野球をするにはちょっと外野が狭くはありましたが、プラスチックボールでの野球ですので、漫画にでてくるような窓ガラスを割って怒ったおやじが出てくるようなシーンはありませんでした。その空き地の端には柿の木があり、秋にはおいしそうな柿が熟したのでみんなで木に登って柿を食べたら、渋柿で口の中の水分が一気になくなったのを覚えています。小学生の頃はコンピュータゲームもなかったので、限られたスペースとちょっとした自然で、暗くなるまで楽しく遊んだのを思い出します。
1971年生まれ

「竹やぶで見られちゃった」ちょっと恥ずかしいかくれんぼの思い出

マリンバさん埼玉県 1971年生まれ 女性周りは畑や竹やぶなどが多い埼玉県の田舎に住んでいました。ゴム段や縄跳び、缶けりなどでも良く遊びましたが、外でかくれんぼをすれば、なかなか見つけられず楽しかったのを覚えています。ある日、友人の家の大きな庭でかくれんぼをしました。私は探される番だったのですが、庭の竹やぶの中に隠れたところ。30分経っても1時間たっても、探しに来てもらえず…。鬼が探している声は聞こえるので、じっと息をひそめて隠れ続けていました。しかし、そのうちトイレに行きたくなり…。どうしよう、出て行こうかと迷ったのですが、どうせここなら誰にも気づかれないしと思い。竹やぶの中でおしっこをしてしまいました。最中に、なんだか、ガサゴソという音が聞こえてきて、驚いて振り返ると、なんと友人のお父様が、タケノコほりをする為に入ってきたところでした。もよおしている最中だったので、動くことも隠れることもできず。しゃがんだまま挨拶をして、とても気まずかったのを覚えています。その後、友人宅から、タケノコをおすそ分けしてもらう度に、微妙な気持ちになってのを覚えています。タケノコは、とても美味しかったです...つづき
1970年生まれ

「回転型ジャングルジムの思い出」グローブジャングル

せいざいさん埼玉県 1970年生まれ 男性私はジャングルジムの中でも回転型のジャングルジムをマスターするのに燃えていました。小学校の20分休み、昼休みはだいたい回転型ジャングルジムで様々なクラスの子供と競い合いました。競い合う内容は二つです。どのくらいの速さまで回転させることが出来るかと、どのくらい回転しているジャングルジムにしがみつくことが出来るかです。前者については小学生には、しっかりとした測定はできないので、「体感(ジャングルジムの中に入った感じ)」で回る速さについて意見を出しあって、一番早いやつを決めていました。また後者の方、こちらも体感になります。「みんながおじけづいて、しがみつくことができない速さまで、しがみつけたら価値」みたいな感じで争っていました。手にマメを作りながら日々努力することで、まわりの友達からも一目置かれるまで成長したことを思い出します。上級生の先輩方にも声をかけていただき、嬉しかったのを覚えています。今改めて考えると、結構危ないことを行っていたなと思います。一種の根性だめしですね。現在はお勧めできません。
1981年生まれ

低学年の子も応援してくれた マンションの子達との「缶けり」は燃えました!!

ななさん埼玉県 1981年生まれ 女性子供時代の缶けりって本気なんです。私が住んでいたマンションは子供がたくさん居て、放課後とかめちゃくちゃ子供が集まります。10人ぐらいは集まると、そのまま缶けりの開始!年齢も様々で1年生~6年生まで集まります。缶を守るのはだいたい高学年と決まっていました。マンションの周りに、丁度いい感じの広場があったので、そこで遊びます。木もいい感じで生えていたので、隠れる場所もバッチリ!缶を思い切り蹴って鬼が取りに行くところからスタート!みんな一斉に隠れるのですが、隠れてもちょっと体が出てきてすぐに見つかっちゃう低学年の子供が可愛かったですね。私もあんな感じだったなぁ~なんて、お姉さんな気分で鬼をやったものです。だいたい隠れられる場所は決まっているので、まずは近くの子達を見つけて、あとは思いあたるところに行って、見つけて、戻るの繰り返し!めちゃくちゃ燃えました。最後は本気の高学年の戦いみたいになって、低学年の子も応援にまわり楽しかったです。
1992年生まれ

クラスみんなでドロケイ

mnytさん埼玉県 1992年生まれ 男性この遊び、呼び方がいろいろあるようですが、私の周りではみんな「ドロケイ」と呼んでいました。そんなドロケイ、小学校4年生の頃にクラスで大ブームでした。元々は、放課後によく一緒に遊んでいる仲良しグループの間で遊んでいたようですが、次第に他のクラスメイトにも広まっていったようで、最終的に昼休みとか学活の時間にクラスのみんなで遊ぶようになっていました。校庭でやる時はいつも朝礼台が刑務所で、捕まっていない泥棒がこっそり台の下に隠れて、捕まった泥棒をどんどん解放します。そうなると警察側は台の下をマークするようになって、その手が通じなくなるので子供なりにいろいろ戦略を考えて楽しんでました。しかし、やはり最後に物を言うのは「走りの速さと持久力」です。運動音痴で走るのも得意ではなかった私は、泥棒をやればすぐに捕まり、警察をやれば誰も捕まえられな無い子でした。それでも数十人の友達と一緒に遊ぶというのは今となっては出来ない、とても楽しい時間でした。
1990年生まれ

オリジナルカセットテープづくりの思い出

エスジーさん埼玉県 1990年生まれ 男性私が小学生の時は音楽を録音するものはまだカセットテープが使われていた時代でした。MDはすでに存在していましたが、MDコンポが必要で、カセットの方が身近だったと思います。友達とカセットテープの録音にハマり、レンタルしたCDや買ってもらった音楽を入れて交換したりしていました。カセットはスイッチ1個で録音できるのも特徴で、まるでDJのように何度も歌のフレーズを繰り返して録音したり、曲と曲の間を強引につなげたりと遊んでいました。それとよく覚えてはいませんが、マイクを利用して自分の声を入れたりもしていました。カセットは録音中に振動を受けると、微妙に音飛びしてしまいましたが、子どもだった私たちはむしろその変化を楽しんで、わざと入れていた気がします。そうして1つのカセットテープでお互いに録音しあい、オリジナルのカセットテープを作りました。何度も重ねて録音したので状態も悪かったのですが、自分たちで作った満足感がすごかったです。編集したり、構成を考えたり、小学生のレベルではありながらも、大きな経験になった遊びだと思います。
1970年生まれ

団地で友達とラグビーゲームをしていたらケンカ

せいざいさん埼玉県 1970年生まれ 男性小学校のとき、1つ年上のあきら君と一緒によく団地の中の公園で遊んでいたことを覚えています。当時わんぱくであって当たり前の時代で、ケンカして負けて帰ってきたら怒られるような風潮でした。私はあきら君とラグビーに近い遊びをしていました。その遊びはボールを力ずくで奪い合って自分の陣地にボールを入れる遊びです。ボールを奪うには何をしてもかまわないルールだったと思います。私よりも一回り大きいあきら君に勝つには、力ずくでは難しいと考えて、ボールを遠くに投げ、それをとって陣地に入れることで私は点数を稼いでいました。一方あきら君は力ずく(タックル)でボールを確実に自分の陣地に入れていきます。あたりも暗くなり、だんだんボールが見えなくなってきたなか、あきら君が私の投げようとしたボールに向かって、もともとあったプラスチックバットを振りかぶってきました。そのプラスチックバットが思いっきり私にあたりました。私はわざと私をバットで殴ったと判断して、取っ組み合いのケンカになりました。あきら君も負けず嫌いなタイプだったのでケンカは大きく発展してしまい。私は殴られて泣いて自宅に...つづき
1970年生まれ

滑り台で遊びつくした子供時代の思い出

せいざいさん埼玉県 1970年生まれ 男性子供の頃は公園でいろいろ工夫して遊ぶのが楽しかったことを思い出します。特に滑り台は工夫して滑るのが楽しい遊具の一つでした。今では危ないといって辞めさせられてしまうようなことを平気で行っていました。・頭から滑り降りたり、・胸から滑り降りたり、・砂をかけながら摩擦を減らして滑り降り、・どこまで遠くへ着地できるか、・また滑り台を走って降りて同様にどこまで遠くまで着地できるか、など、暗くなるまで友達と競い合ったことを思い出します。滑り台としての使い方以外にも、缶蹴りの隠れ場所だったり、鬼ごっこの隠れ場所など使い方は豊富でさんざん遊びつくしました。当時は滑り台のない公園はなかったので、遊びつくしたら他の公園の滑り台を使ってまた新たな遊び方を考えました。子供時代の仲間たちは遊びの天才でした。いい仲間がいたおかげでケガも耐えませんでしたが、充実した子供時代を過ごせたと思っています。
1992年生まれ

初めて滑ったローラー滑り台

mntyさん埼玉県 1992年生まれ 男性小さい頃、私がよく行く近所の公園にあったのは金属の板で出来た、普通のまっすぐの滑り台でした。その頃の私にとって滑り台とはそういう物で、幼稚園の頃ならともかく小学生にもなるとそれほど面白い遊具ではなくなっていました。それがある時、家族で出かけた少し遠くの大きな公園で初めてローラーがついた滑り台を見たのです。近所の公園の滑り台とは全くサイズが違い、丘の上から始まっていて長くてカーブもあり、とても豪華に思えました。そして、滑る面がローラーである事に気づいた時の最初の印象は「肉が巻き込まれて挟まりそうで怖い」という感じだったのを覚えています。しかし初めて見る遊具は遊んでみたいのが子供の性、意を決して滑ってみました。すると、今まで滑ってきた滑り台では全く感じた事がなかったガタガタという振動、ローラーの回転によるスピード感、初めての経験に衝撃を受けました。すっかりその滑り台にハマった私は、その日は足が痛くなるまで何度も丘を登ってその滑り台を滑っていました。
1992年生まれ

タイヤブランコでグルグル

mntyさん埼玉県 1992年生まれ 男性ちょっと遠くの大きめの公園にタイヤを3本のロープで吊るしたようなブランコがありました。普通のブランコと違って前後だけでなく全方向に揺らす事ができる。それだけでも楽しかったのですが、他に大きな特徴としてクルクルと回転するようになっていて、そこが私の一番のお気に入りポイントでした。内側を向いて座ったり、外側を向いて座ったり、またがるように座ったり、立ったり、いろんな乗り方をしてはブランコをぐるぐる回して遊んでいました。ただ回っているだけなのですが、周りの景色がヒュンヒュン動いて見えたり、目が回ってきてブランコから降りるとまっすぐ歩けずフラフラになったり、子供の頃はそれがとても面白かった。しかし、子供の頃は楽しいと思ってしまうとどうしても歯止めが効かなくなってしまう事ってありますよね。私もタイヤブランコの回転にハマりすぎて、ついつい気持ち悪くなって吐くまで回ってしまうことがありました。
1980年生まれ

誰よりも遠くに飛ぶ ブランコ遊びの思い出

又兵衛さん埼玉県 1980年生まれ 男性私の通っていた保育園には鉄棒やブランコ、シーソー等の遊具がありましたが、遊具の人気ナンバー1はブランコでした。現在の保育園敷地内は部外者進入禁止になっているようですが、私が小学生の頃は誰でも入ることができていて、近所の小学生は放課後集まって保育園の敷地で遊んでいました。当時は遊園地など行ったことが無く、小学生時代の私にとってブランコが最も興奮させてくれるアトラクションで、ブランコの推進力によるスピード感に夢中になりました。高い位置から振り下ろされるブランコによる風を切る音や、高い位置に上がりきったところから後ろ向きで降りる際の浮遊感は心地良いものでした。ブランコを使うことによって視線が高くなり、高い位置から保育園の全貌が見えることが気持ち良かったことを記憶しています。ブランコは4台あり、同時に漕いで誰が一番遠くに飛べるかを競うことに熱中していました。ブランコを漕いで一番高い位置から飛んでも飛距離は伸ばせず、ブランコの推進力を活かして地面スレスレを狙って飛ぶことで、飛距離を伸ばしていました。徐々にコツを掴んで飛距離を伸ばせていたのですが、保育士から...つづき
1965年生まれ

凧上げと父の思い出

てつうさん埼玉県 1965年生まれ 男性凧上げは、埼玉県にある父の社宅横の広いグラウンドで遊びました。正月以外にもよく兄や近所の友達らとも楽しみました。当時約50年前位は、普通の軽い木に紙をはっただけのシンプルなものがほとんどでした。勢いよく、空高くあがると非常に嬉しく興奮しました。たまに友達の凧と糸がからまって墜落することもありましたが、良い思い出です。当時は父も若く、先ほど写真で見ると今の私の顔に似ています。ホント、父母から生まれたんだな、と再実感します。父は2年前に突然、心臓突然死で他界しました。仕事で最後の言葉を聞くことが出来ず、残念でした。凧上げは、父からコツを教わり、よく遊びました。自転車に補助輪を無しで乗れたときの喜びを皆さんは、覚えていらっしゃいますか?それと同様に世界が突然と広くなった感じが、凧上げの上達でも感じました。当時は雪もよく降り、今と違いよく積もったので、雪遊びと凧上げを同時に楽しんだ記憶もあります。無邪気にシンプルに楽しんだあの頃は本当に楽しかったものです。
1992年生まれ

お祭りで凧揚げ

mntyさん埼玉県 1992年生まれ 男性私の地元で毎年ゴールデンウィーク中に巨大な凧を揚げるお祭りが河川敷で開かれていました。しかし、そのお祭りの目玉である巨大凧の凧揚げはただ遠くから見ているだけであり、失敗する年も多かったので正直あまり興味がありませんでした。お祭りの中では個人で自由に凧を上げられる時間とスペースが設けられていて、それが個人的にはお祭りのメインの楽しみでした。お祭りに出ているお店で買ったり、図工の授業で作ったりした凧を揚げて遊んでいました。風が強い時には簡単に凧が空に揚がって楽しめるのですが、普段は近所の公園では近くに電線があるので、凧揚げをする機会がほとんどありません。凧揚げに不慣れということもあり、あまり風がない時は凧を揚げるだけでも一苦労でした。凧をぶら下げなら走り回り「今なら揚がりそう」と思って手を離しても、凧は虚しく地面に落ちてしまうばかり。そんな失敗を繰り返しやっと凧が揚がった時は嬉しかったのを覚えています。
1997年生まれ

長縄跳びの苦い思い出

えぬこさん埼玉県 1997年生まれ 女性自分が小学生の時のことです。あまり当時のことは覚えていないのですが、その中でも鮮明に頭に残っている稀有なエピソードです。みんなで体育の授業中に縄跳びをしていた時のことです。いわゆる大縄跳びというもので、迫っていた運動会の競争のために練習していました。みんなで2列ほどになって一斉に跳び、その跳んだ回数を数えていました。跳んでいる最中、誰かが縄にひっかかったらまた最初からカウントをはじめる…といった風にして練習しました。私は縄を回す側ではなく、跳ぶ側として参加していました。みんなでほとんど休むことなく練習し、もうそろそろ授業が終わろうか、という時になって、私が縄に足をひっかけてしまいました。その時ちょうど、校舎の方から授業の終了を告げるチャイムが鳴りました。完全に偶然で、クスッと笑ってしまうようなタイミングなので面白く感じましたが、同時に、みんなで一生懸命に跳んでいたのに、自分がその足を引っ張ってしまって申し訳ないな、と感じたことを覚えています。
1976年生まれ

ベーゴマを教えてくれた友達

たいさん埼玉県 1976年生まれ 男性小学生5年生の時、私は転校しました。引っ込み思案の子供だったので新しい環境にもなじめず友達もなかなか出来ませんでした。学校の休み時間も一人で机にうつ伏していることが多かったのですが、ある時、H君が「君はベーゴマ持ってる?」と話しかけてきました。私はベーゴマはおろか、独楽さえも持っていません。持っていないと伝えると学校が終わったら公園に来るように言われました。学校から帰ってランドセルを置いて公園に行ってみると、H君とK君がいてベーゴマで遊んでいました。僕が近づいていくとH君が「はい」といってベーゴマとヒモを私に渡しました。私は「やったことがないから出来ないよ」と伝えると、H君はヒモの巻き方と投げ方を教えてくれました。結局、その日私は、ベーゴマをまわせませんでした。帰り際H君が言いました。「そのベーゴマをあげるから、練習しなよ。すぐ回せるようになるよ」私は家に帰ってからも、ベーゴマの練習をしました。ベーゴマを見た父は懐かしいがって私からベーゴマを取り上げるといとも簡単に回しました。その後、父からも教わることでベーゴマを回すことが出来るようになった私は、...つづき
1985年生まれ

マンション内の公園で毎日遊んだゴムダン「コーヒー牛乳」の歌

らんらんさん埼玉県 1985年生まれ 女性私が子供の頃に住んでいたマンションには、少し広い公園がありました。マンションには同世代の女の子が何人か住んでいて、学校帰りや休みの日はいつも公園に集まってゴムダンをしていました。ゴムダンは最低3人いないと出来ないのですが、人数が集まらない時には公園内の大きなゴミ箱にゴムをひっかけてもう片方に人が立ち2人でやっていました。よくやった歌は「せんろは続くよどこまでも」「アルプス一万尺」で、これらは初心者向けでした。難易度の高い「コーヒー牛乳」をクリアすべく私は日々練習を繰り返したものです。そのうちに「コーヒー牛乳」も上手く跳べるようになると、スピードを上げて「先に引っ掛かった方が負け」の競争を友達としたりもしました。コーヒー牛乳の難しい所は、手前のゴムに片足をかけてクロスする通常の技だけでなく、リズムに合わせて反対側へ移動して両足をクロスさせる点です。大体移動する時にひっかかってしまいます。これが上手くできると喝采を浴びてヒーローになれました。
1985年生まれ

色んな鬼ごっこをして遊んだ思い出

らんりんさん埼玉県 1985年生まれ 女性小学校低学年の頃は、とにかく外遊びといえば鬼ごっこでした。昼休みは20分あって、ほとんどのクラスメイトが一緒に鬼ごっこをしました。人数が多いので鬼を2人にしたり。そのうちに捕まった人も鬼になる「増え鬼」。鬼に言われた色をタッチする「色鬼」。高いところに登れば捕まらない「高鬼」。氷のバリア中は捕まらない「氷鬼」。など、鬼ごっこの種類はどんどん増えていきました。鬼ごっこで思い出すのは淡い恋の思い出です。小学2年生だった私はクラスに好きな男の子がいて、一緒に鬼ごっこをするのが楽しみでした。ある時たまたま同じ場所へ逃げた私とその子は、鬼に見つからないように2人でしげみに隠れました。狭い場所だったので肩がぶつかり、シーンと静まり返った2人だけの空間に私はドキドキしました。他愛もない話をしているうちに鬼に見つかってしまいあっけなく捕まりましたが、好きな男の子と一緒に隠れることができるのも鬼ごっこのいいところです。
1992年生まれ

田んぼの側溝でザリガニ釣り

mntyさん埼玉県 1992年生まれ 男性今はもう埋め立てられて住宅になってしまいましたが、私が子供の頃は家の近くに田んぼがあり、その側溝でよくザリガニを釣っていました。ネットでザリガニ釣りについて調べるとさきイカなどを餌にするとよく釣れるといった情報を見かけますが、当時の私は特に餌とか糸だとかザリガニ釣りのために道具を用意するような事はしていませんでした。そこら辺で拾った細い枝や長くて丈夫な草なんかでつついたりするとハサミでそれを挟んでくる事があるので、そのタイミングで引っ張り上げて釣っていたと思います。釣った後はなかなかハサミを離さないのを面白がって枝や草ごと振り回したり、近くの公園の水道を全開にして水を浴びせてみたり結構ひどい遊びをしていました。ただザリガニを釣るのは好きでも触るのは苦手なタイプだったので、ハサミをちぎるとか解体して楽しむような残酷な遊びはやらないしできなかったですね。飽きたら側溝に帰すわけでもなくそこら辺にほったらかしにしていたような気がするので結局死なせてはいたと思いますが。
2002年生まれ

「DS鬼ゴッコ」のルールと遊び方

しんごパパ埼玉県 1973年生まれ 男性私は2002年生まれではないのですがこの遊びを紹介します。2002年頃に生まれた子どもが小学生になる2008年頃、子供達の間では「DS鬼ゴッコ」なる新しい遊びが、流行しました。デジタルのおもちゃを使った次世代鬼ごっこです。ニンテンドーDSには、「ピクチャット」とう通信機能があり、画面にペンで書いた文字や絵を情報交換をしながら鬼ゴッコするもの。【DS鬼ゴッコのルールと遊び方】1、基本的なルールは鬼ゴッコと同じで、子は鬼から逃げる。鬼が子にタッチしたら鬼を交代の繰り返し。2、子は、隠れながら「鬼がここにいる」「鬼が○○くんに変わった」などの情報を交換する。3、鬼は、仲間のふりをして偽情報を流して仲間に近づき、いきなりタッチをしたりもできる。4、チャット通信ができる範囲は30メートル程です。5、同じようにピクチャットを使ってケイドロや、かくれんぼも出来ますね。時代が変わっても、遊ぶ場所が少なくなっても創意工夫して、新しい遊び方を発想するんですね。外遊びをするきっけかに子供さんに教えてみたらどうでしょう。子どもたちに携帯電話やスマートフォンが普及すると、...つづき
1973年生まれ

爆竹を使った遊び①「う○こ爆弾」の思い出

しんごパパ埼玉県 1973年生まれしんごが子どもの頃に友達としていた爆竹を使った遊びの思い出です。しんごが子どもだった頃は、近所に駄菓子屋さんやタバコ屋さんがあって、子どもが「爆竹」を簡単に買うことが出来ました。爆竹は火薬の詰まった花火の一種で導火線に火を付けると「パン!」という大きな音で破裂します。しんごもしんごの友達も爆竹を使った遊びが好きで「小さな爆弾」を手に入れた気分でわくわくしました。いろいろなものを爆竹で吹き飛ばして遊びました。あるとき友達と一緒に「うんこ爆弾」という遊びを開発しました。うんこ爆弾の遊び方は、1、束になっている爆竹をばらして、一本の爆竹にします。2、導火線を長めにした一本の爆竹を、犬のうんこに挿します。3、みんなで、そのうんこの回りに集まってひとりが導火線に火を付けます。4、各自爆竹が爆発する寸前に素早く逃げる。というスリル満点の遊びです。度胸試し的な遊びです。爆発ギリギリで逃げた子は、みんなから「凄い!」と言われ。最初に逃げた子は「弱虫」とからかわれます。あるときこの遊びをしていたら、友達は火を付けてから後退りで逃げたため、足をダブに踏み外して落ちてしまい...つづき