1956年に生まれた人が子どもの頃にした遊びの思い出

1956年生まれ

「小学生の図工的な遊び」型抜きの思い出

るーぶさん 東京都 1956年生まれ 男性 確か、痩せていて髪の毛がぼさぼさのおじさんだっ様な気がします。大小の型版と粘土と金や銀などピカピカした粉を売っていました。上手く、綺麗に、塗れたら少し大きめの型版が貰えます。 今思えば、此れといった正解がなく、おじさんの気持ち一つで決まっていたように思います。とても面白く集中出来ました。 粘土に色を塗りおじさんの処に持って行き、昇進するワクワク感やドキドキ感が在りました。当然、友達とも競いあいました。 最初は、10円程度で小さな型を買います。型は、鳥だったり、電車だったり、色々とあり自分で選びます。後、粘土を少々、白い紙に包まれた色を選んで買います。一式を揃えるのに50円~100円位だったと思います。 粘土を型にはめ、綺麗に取り出し、指に粉を付け塗って行きます。終わると、おじさんの処に持って行くき、上手く出来ていると、一つ上の型と粘土が貰えました。 駄目だと、アッと言う間に手で握りしめて終わりでです。 中~大の型が欲しくて、頑張っていました。
1956年生まれ

鮮烈!怒涛の路地遊び

ともぞうさん 兵庫県 1956年生まれ 男性 60代男性です。小学校時代を関西地方の工場街で過ごしました。 ゲーム機など存在しないのは無論のこと、そもそも裕福な家の子以外ろくに物を持っていない時代でしたので、放課後は身一つでできる遊びが中心でした。 中でも人気があったのが「路地遊び」です。 1960年代以降に生まれた人たちにはイメージしにくいかもしれませんが、そのころの住宅地には木造モルタルの小さな家が密集して建っている所が多く、家と家の間には人ひとりようやく通れる狭い路地が随所に見られたものでした。 地図の上では道がないように見えるのに、実際には路地を次々に抜けていくことによって反対側に移動することができたりしたのです。 「路地遊び」とはあらかじめスタートとゴール地点を決めておき、こうした路地を使って競争する一種のストリートレースのようなものです。 当然広い道を通った方が早いのですが、これをやって見つかると反則負けとなり、「ズル」をしたと言われ続けます。 体力勝負というより日頃のリサーチ能力が物を言うため、自分だけが知る隠れ路地を発見するため放課後を使って日々研究にいそしんでいました...つづき
1956年生まれ

「何でこんな物が!」体育館の天井から落ちて来た物

yuumi0108さん 福井県 1956年生まれ 男性 卒業シーズンになると、業者によって天井に引っかかってたボール類が取り除かれます。小学生の頃は卒業シーズンという認識はありませんでしたが、自分が学校の教員になって意味がわかりました。 天井を見上げると、ドッジボールが引っかかっています。最初は真面目な気持ちで、そのボールを落とそうと思って新たなボールを投げつけます。 ところがそう簡単に届くものではありません。投げて駄目なら蹴ろうとなります。何度も何度も続けていると、そのうちにボールの近くに当たります。すると歓声が上がり、さらに意欲が湧きます。 ところが偶然にも蹴ったボールが引っかかってしまったことがあります。結果は更に悪くなってしまいました。とは言っても先生には告白できません。 ゲンコが振り下ろされることは明白だからです。 そして卒業シーズンが到来しました。放課後、業者が引っかかっているボールを除去し出しました。ボールが落ちてくる度に何故か歓声が上がります。 そして、何と、何と僕たちが履いているズックが落ちてきました。 何でこんな物がと思って腹を抱えて笑いこけました。
1956年生まれ

俺は将来のプロ野球選手だ!

yuumi0108さん 福井県 1956年生まれ 男性 小学6年生の夏休み、小さい頃から毎日のように遊んでいた近所の仲間もそろそろ野球を楽しむ年齢に達しました。 近所に50m四方の手頃な空き地があったのですが決して空き地の状態は良くなく。草は生えていて、こぶし大の石はゴロゴロ。抱えるには大変な石まで存在していました。 その当時、午前中は宿題か家の手伝いをするように先生から言われていました。 みんな真面目に守っていたのでしょうか。午前中に空き地へ行っても誰もいません。お昼ご飯を食べて暫くして空き地へ行ってみると、申し合わせたように近所の仲間が集まってきました。 その時に毎日のように空き地で遊んだのが野球です。と言っても草野球にも類さないような野球です。 レフト方向は道路向こうの電線を超えたらホームラン、電線下は2塁打、ライト方向は空き地向こうの畑に入ったらホームラン、ワンバウンドで2塁打という風に自分たちでルールを決めて遊びました。 1個しかない貴重な軟式のボールを探しに小山の茂みに入ったり、崖を上ったり、田んぼに入ったりしました。 その頃はジャイアンツの長嶋、王、金田選手が全盛期の頃で...つづき
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「窓の外」授業中に校庭へ犬が入って来た思い出

yuumi0108さん 福井県 1956年生まれ 男性 小学生の頃は勉強が苦手だった。毎日のように先生に「ゲンコ」を貰っていました。 何の授業だっかも思い出せないほど退屈な時間でした。校庭の見える窓側の列の前から5番目,後ろから2番目が私の席です。 外を見ることが日課で,トンビが飛んでいるとか稀にセスナが飛んだりすることもあります。 ある日,いつものようにボーッと外を見ていると,突然近所の知っている犬が校庭で吠えています。数羽のハトを追いかけているようです。捕まるはずがありません。既の所でハトは嘲笑うように逃げます。 暫くするとハトがいなくなって,今度はスズメを追いかけ出しました。ハト以上にスズメは機敏な動きで逃げます。ハトと違って,スズメはちょっと離れたところにまた降り立ちます。また,犬が吠えながら追っかけます。 その時は全く先生の声は耳に入っていませんでした。先生が何処に位置しているのかも全くわかっていませんでした。内心「アホやな。捕まえられるわけないやろ!」と思って窓の外に集中していました。 その瞬間,いつもより強烈なゲンコがごつん!
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円を描きじゃんけんに負けた鬼がタッチをする「陣地とり遊び」

きままに老いるかさん 小学校のグランド 1956年生まれ 男性 私が子供のころ遊んだ「陣地とり」は、かかとを中心につま先に棒切れを当てぐるりと回って描いた2つの円が最初の陣地になります。 互いに手が届くところまで近づき、じゃんけんをします。負けた方が「おに」です。 勝った方は陣地内で「おに」の手が届かない所に逃げます。「おに」は「ストップ」と大声で叫び相手の動きを止めます。 相手にタッチするか、相手が動いた場合は「おに」の勝ちで円を1つ増やします。 「おに」が降参した場合は逃げた方が円を1つ増やします。 遊ぶ人数によって増える円の数は変わってきます。例えば3人で遊んでいて、「おに」が2人にタッチした場合は円を2つ増やすことができます。 この遊びでは特定の子を攻撃することもできます。誰かと手を組み、特定の子の陣地をぐるりと取り囲みその子が陣地を増やせないようにするわけです。まあ、いじめですかね。今のご時世だと許されないのかな。 また、かかとを中心に円を描けない子、あるいは持っている棒を斜めにして大きな円を描いてずをする子などはしばらく遊びに加えてもらえませんでしたね。 円を描けない子など...つづき
1956年生まれ

「近所の人ごめんなさい」罰ゲームでチャイムを鳴らす ピンポンゲーム

るーぶさん 東京都 1956年 男性 色々な遊びをして、負けた人が罰ゲームをする。 暗黙のルールが在りました。 遊びは、全て勝ち、負けが在り。 例えば、道路に「ろーせき」で丸を書き、8分割に区切ります。中に「電車を3本見る」とか「即席ラーメンを食べてくる」など、その日に思いついた事を皆で書いていきます。石を投げて当たったことをします。 一番遅く戻ってきた人は負け、当然、罰ゲームが在ります。 当時は、本当に即席ラーメンを作り食べたのです。皆がズルをする事が無いのも、暗黙のルールでした。 その他の、遊びでは缶蹴りや、ドッチボールの敗者。兎に角全てに罰ゲームが在りました。 負けた者の罰ゲームは、当時、はやったピンポンゲームです。 当時は、インターホーンが付いている家は少なく、ややお金持ちの家と言うイメージでした。 みんなで集まり、その日の家を探して回り、1~2軒探し敗者に、覚悟を確認し、勝者は隠れて見ています。 玄関のドアホーンのスイッチを押して逃げてくるのですが、この、スリルがとても面白かったのですが、たまに、全員掴まって怒られる事も在りました。
1956年生まれ

スリル満点の雪遊び

yuumi0108 福井県 1956年生まれ 男性 片田舎の雪深い地域に生まれ育った私は,6年生にもなれば屋根の雪下ろしをしなければなりません。ある雪深い日に一人で屋根の雪下ろしをしていました。 雨と違って家の中が汚れたり濡れたりすることがありません。部屋から屋根に出るときも、終わって部屋に戻るときもウォークインスルーです。 ところがその日は天気も良く、降ろした雪が高く積もっていたので屋根から跳び下りることにしました。ちょっとした悪ガキの思い立った雪遊びです。 「えい!」と見事跳び下りることができました。膝辺りまで沈みました。子どもの考えることです。一つ成功すると、次はより高い屋根からと思います。思い立ったか吉日。直ぐにもう一つ高い屋根に上って跳び下りようとしました。 ところが予想していたよりも屋根が高く足がすくみました。なかなか跳び下りることができません。しかし、意を決してとうとう跳び下りました。降りてしまうとあの怖さは何のその。直ぐに有頂天になりました。 ところが事件です。高くなった分、胸の辺りまで沈み、体が抜けなくなってしまったのです。もがきにもがいて長靴を残したまま何とか脱出す...つづき
1956年生まれ

怖いもの知らずのブランコ遊び

yuumin0108さん 福井県 1956年生まれ 男性 場所は校門近くの桜の木に囲まれたブランコ。小学校の5,6年の頃だと記憶しています。雨さえ降らなければ毎日のように5,6人の友達とブランコ遊びをしていまいた。 やんちゃな頃ですから,大きく振れば振るほど友達の称賛を得ます。最初は大きく振ったブランコから前方に飛び降りて飛距離を競いました。 着地した足が滑って頭を打ったことを覚えています。それでも涙も流さず何度もトライしました。今の時代であれば即禁止でしょうか! そのうちに前方ではなく後方への飛距離を競うようになりました。その時も着地の足が滑って,両手の掌を擦りむき顎を打った覚えがあります。しばらく耳の奥が痛く,笑うことも給食を食べることも苦労しました。 しかしながら子どもの遊び方は無限大です。友達の一人がブランコを大きく振って前方にある桜の木の小枝に足タッチし始めました。 更に,静止したブランコに座った状態から,全身で揺すって大きく漕ぎ出して桜の小枝にタッチする。更にはタッチ後に前方に飛び降りて飛距離を競う。 また,個人競技ではなくリレーの団体競技にもトライした覚えがあります。今思...つづき