名前のない遊びの思い出

名前のない遊びの思い出

名前のない遊びの思い出

子どもの頃にした名前のない遊びの思い出とエピソードの一覧ページです。

1980年生まれ

「意図的に逃がした兎」夏休みの思い出

えつこさん 自宅の畑 1980年生まれ 女性 私は小学校3年生の夏休み、友達も少なく親も共働きで、あまりかまってもらえず、家でゴロゴロする毎日を送っていました。日中の唯一の話し相手はペットの兎1匹。 よく母から聞かされていた兎とカメのおとぎ話を思い出し、私と兎、どちらが速いのか勝負をしたくなりました。 住まいは田舎の為、自宅の敷地は広く裏庭は畑になっています。 ペットの兎を抱っこして畑に連れていき、さあ、勝負だ!とペットの兎を逃がしては必死に追いかけ捕まえ…を繰り返して遊んでいました。 もし捕まえられなかったら、そのままペットの兎はどこかへ逃げ二度と戻らないでしょう。 そして親の可愛がっている兎を逃がしてしまったらコテンパに怒られることでしょう。というスリルが堪らなく癖になり、親に内緒でその遊びを続けていました。 その為か、学年でも遅かった私の脚は速くなり、運動会のリレーでは1位、2位は当たり前にまで成長しました。
1970年生まれ

小学校からの帰り道に「何かを探しながら帰る」遊び

みふぁさん 神奈川県 1970年生まれ 女性 小学校までは子どもの足でも歩きで10分程の、今考えればさほど遠くない距離でしたが、帰り道では住まいが近所のお友達と、即席の遊びをしながら帰りました。 その中でも、すぐできて競争の要素があり、ワクワクしながら遊んでいたのが、「何かを探しながら帰る」ことです。 今では探せないものとしては、道に落ちている缶飲料のプルタブです。昔は缶ジュースなどを開けるとプルタブは、缶からはずれるものが主流でしたから、道端にポイ捨てされてることが多々ありました。 それを帰り道でたくさん見つけた方が勝ちという、いたってシンプルな遊びをやっていました。ゴミ拾いのつもりではやっていませんでしたが、今思えば公道の掃除にもなっていました。 あの頃は目をさらのようにして、落ちているプルタブを探し、お友達とほぼ同時に見つけると、ワー!と歓声を上げながら拾いに走ったりしていました。 探すものはプルタブでないこともあり、何という名称かわかりませんが、道路の端に埋められている、ボルトのようなもので、上部に安全のためにゴム製か何かの丸いカバーがかけられているものがありました。 このカバ...つづき
1990年生まれ

スリリングな登下校通学路 ランドセルへのイタズラ遊び

レノレノさん 広島県 1990年生まれ 女性 一緒に帰っている同級生の背後へこっそり忍び寄り、ランドセルの底面へそっと手を伸ばす。気付かれないようにかぶせの留め具を回し、ランドセルの中身が見える位置までかぶせを上へ跳ね上げさせることができれば、成功。 いかに相手に悟られずににランドセルを開けることができるか。そのスリルが癖になり、小学校の登下校時は仲間内で駆け引きを楽しんでいました。 この遊びを考案したのは私。当時見ていたアニメやゲームの影響で、スパイや裏組織のような存在に憧れを持っていました。 表立った活動はせず、気配を消して活躍するような存在。自分もそういう人間になりたいと思い、足音を消して歩く練習をしていたこともあります。 その延長で友人のランドセルの留め具を狙い始め、すっかりハマってしまったという訳です。 しばらく経つと、いつの間にか私達以外のグループにもこの遊びは広まっていきました。ランドセルを開けられないようにみんなが後ろ手に留め具を抑えながら歩く、何とも奇妙な通学路の光景。少なからず考案者として責任を感じたものです。 今ではランドセルも進化や多様化が進んで留め具の位置が違...つづき
1994年生まれ

お人形の家作り遊びの思い出

瑠璃さん 北海道 1994年生まれ 女性 その遊びを始めたのは小学生時代です。私は学校の成績は悪くない上にしっかりと宿題も提出する児童でした。 今となっては恥ずべきことでもないのですがゲームが好きで、しょっちゅう親との約束の時間を破ってゲームをし続ける悪癖がありました。 そして親によってゲーム禁止を言い渡され携帯ゲーム機は隠されました。当然親に怒りと憎悪を抱き、ゲームが出来ない悲しみと辛さを味わいました。 そんなある日、私の目に小学校に入学する前から集めていたミニチュア家具や、友人の母が作ったカラフルに彩られた小さな箱が目に入りました。私は何の気無しにそれらを使って、組み立てて、小さな家のようなものを作りました。 それから私はもっと大きな家を作ろうと、他にも使えそうな物はないかと探してみたり、友達が遊びに来た時に説明して、もっと大きな家を作る知恵を集めて大きな家を作ることに成功しました。 ゲームが手元に戻り、禁止が解除されてからも、私はゲーム禁止中に出会った家作り遊びを気に入ってしまい。やがて母にすごいと褒められるようになりました。 今でもその記憶は残っています。何処に何を置くかを考え...つづき
1990年生まれ

オリジナルカセットテープづくりの思い出

エスジーさん 埼玉県 1990年生まれ 男性 私が小学生の時は音楽を録音するものはまだカセットテープが使われていた時代でした。MDはすでに存在していましたが、MDコンポが必要で、カセットの方が身近だったと思います。 友達とカセットテープの録音にハマり、レンタルしたCDや買ってもらった音楽を入れて交換したりしていました。 カセットはスイッチ1個で録音できるのも特徴で、まるでDJのように何度も歌のフレーズを繰り返して録音したり、曲と曲の間を強引につなげたりと遊んでいました。 それとよく覚えてはいませんが、マイクを利用して自分の声を入れたりもしていました。 カセットは録音中に振動を受けると、微妙に音飛びしてしまいましたが、子どもだった私たちはむしろその変化を楽しんで、わざと入れていた気がします。 そうして1つのカセットテープでお互いに録音しあい、オリジナルのカセットテープを作りました。何度も重ねて録音したので状態も悪かったのですが、自分たちで作った満足感がすごかったです。 編集したり、構成を考えたり、小学生のレベルではありながらも、大きな経験になった遊びだと思います。
1983年生まれ

石を積み上げるゲームで人生の厳しさを知った

モモンガさん 広島県 1983年生まれ 女性 小学生の頃、川沿いに行って意味もなく石を重ねる遊びをしていました。30秒で積めるだけ積んで高い方が勝ちというものです。 なるべく平たく面積がある石が好ましいので、探すのにけっこう時間がかかります。 考えなく積むと結局バラバラと崩れてしまうのでタイムオーバーになり負けます。時間をかけてでも積みやすくバランスがとれる石を探し求めウロウロするのです。 ある日この遊びをしていたところ、運よくちょうど良さそうな石がたくさん見つかりました。せっせと積み上げ、もうこのくらいで勝てるだろうという高さまで積み上げる事ができました。 対戦の友達はまだ石を探しています。その様子を見て勝ちを確信した私は30秒経つのを静かに待っていました。するとバランスが崩れたのか、一番上の石がコロンと落ちました。そこでタイムアップ。 そしてさっきまで石を探していた友達が、土壇場で石を上手く積み上げていて勝ちました。この時、何事も最後まで気を抜いてはいけないのだという事を学んだ私でした。
1983年生まれ

マイクはネギ坊主

しーさーさん 広島県 1983年生まれ 女性 名前のない遊びとして、ネギ坊主をマイク代わりにしてカラオケ大会をする遊びをしていました。ネギ坊主とはネギの先端がフサフサしているところです。 家の周りの畑でネギを育てているおばさんがひょいっとネギ坊主をくれたのがきっかけで、マイク代わりに歌うようになったのです。 近所の子と3人で家の花壇に立って歌うのがお決まりでした。 即興でその時の気持ちを謳うのが面白く、「きょうの~ばんごはん~ステーキだったのらぁいいのにぃ~」という個人的希望を歌にしたり「さんすうー、りかしゃかいー全部きらいー」という今後の成長が心配されるような歌などを大声で歌っていました。 友達が笑ってくれるので、だんだんと気持ちよくなって、みんなでハモリにも挑戦。テレビの音楽番組で見たハモリでしたが上手くできず、そのできないことをまた歌うのです。 日に日にネギ坊主はしおれていきますが、それでもカラオケ大会は続けられました。大人になった今でもネギ坊主を見るとあの頃を思い出します。
1973年生まれ

花の遊びの思い出

きょうこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 公園で咲いている花を使って遊んでいました。 白い花がたくさん咲いていて、1つずつ千切って繋げていきます。茎の部分を絡ませて繋げます。そうして長めに花を繋げたら輪っかにします。花の輪を頭に乗っけて出来上がり。とてもかわいく仕上がります。 白い小さなボンボリみたいな花が輪になり、花を繋げるのに時間がかかるので、出来上がったときは喜びが増します。 近所の子供とよく花輪を作って遊んでいました。器用でないと出来ませんが、1回できるとかわいいので再び作ろうと思います。 この遊びは結構したことがあると思う遊びです。今でも花を見ると花輪のことを時々思い出すくらいかわいい花輪でした。
1990年生まれ

お互いいじっぱりの思い出 探検ごっこ

ぼくのふゆやすみさん 山口県 1990年生まれ 男性 小学4年生の時、水曜日は学校が早く終わるので、友達の石田くんと森を探検して遊ぶのが定例でした。ただおしゃべりをしながら木の棒をもって森の中を歩いてたまに珍しい虫を見つけては捕まえたりしていました。 ある日教育テレビでよくやってた「あいうえお」という歌の「いしころいっこころころっ」という歌詞が頭に浮かんで離れなくなり、何度も口ずさんでしまっていました。 すると石田くんが怖い顔でこちらを見ていたので、何か発見したのかなと、近寄ってみると、軽くぶたれました。 石田くんは、「いしころいっこころころっ」という歌詞で自分が馬鹿にされていると思ったのでしょうね。 そこで殴り合いの喧嘩になり、その日は石田くんが走って帰ってしまいました。 次の日も学校で目も合わせてくれません。こちらも意地を張ってしまい謝りもせずそのまま日々が流れました。定例の森の探検も無くなりました。 そして小学校卒業の日になってしまい、卒業式の前にトイレでかち合いました。 自然と「あの時はごめん」といえました。すると石田くんも「ぼくもごめん。」といって仲直りすることが出来ました。...つづき
1970年生まれ

団地で友達とラグビーゲームをしていたらケンカ

せいざいさん 埼玉県 1970年生まれ 男性 小学校のとき、1つ年上のあきら君と一緒によく団地の中の公園で遊んでいたことを覚えています。当時わんぱくであって当たり前の時代で、ケンカして負けて帰ってきたら怒られるような風潮でした。 私はあきら君とラグビーに近い遊びをしていました。その遊びはボールを力ずくで奪い合って自分の陣地にボールを入れる遊びです。ボールを奪うには何をしてもかまわないルールだったと思います。 私よりも一回り大きいあきら君に勝つには、力ずくでは難しいと考えて、ボールを遠くに投げ、それをとって陣地に入れることで私は点数を稼いでいました。一方あきら君は力ずく(タックル)でボールを確実に自分の陣地に入れていきます。 あたりも暗くなり、だんだんボールが見えなくなってきたなか、あきら君が私の投げようとしたボールに向かって、もともとあったプラスチックバットを振りかぶってきました。 そのプラスチックバットが思いっきり私にあたりました。私はわざと私をバットで殴ったと判断して、取っ組み合いのケンカになりました。 あきら君も負けず嫌いなタイプだったのでケンカは大きく発展してしまい。私は殴られ...つづき
1973年生まれ

爆竹を使った遊び①「う○こ爆弾」の思い出

しんごパパ 埼玉県 1973年生まれ しんごが子どもの頃に友達としていた爆竹を使った遊びの思い出です。 しんごが子どもだった頃は、近所に駄菓子屋さんやタバコ屋さんがあって、子どもが「爆竹」を簡単に買うことが出来ました。爆竹は火薬の詰まった花火の一種で導火線に火を付けると「パン!」という大きな音で破裂します。 しんごもしんごの友達も爆竹を使った遊びが好きで「小さな爆弾」を手に入れた気分でわくわくしました。いろいろなものを爆竹で吹き飛ばして遊びました。 あるとき友達と一緒に「うんこ爆弾」という遊びを開発しました。 うんこ爆弾の遊び方は、 1、束になっている爆竹をばらして、一本の爆竹にします。 2、導火線を長めにした一本の爆竹を、犬のうんこに挿します。 3、みんなで、そのうんこの回りに集まってひとりが導火線に火を付けます。 4、各自爆竹が爆発する寸前に素早く逃げる。というスリル満点の遊びです。 度胸試し的な遊びです。 爆発ギリギリで逃げた子は、みんなから「凄い!」と言われ。 最初に逃げた子は「弱虫」とからかわれます。 あるときこの遊びをしていたら、友達は火を付けてから後退りで逃げたため、足を...つづき