愛知県に住んでいた人が小学生の頃にした遊びの思い出

1965年生まれ

学校の前で売られていた「スーパーヨーヨー」の思い出」物売りのおっちゃん

クリ坊さん 愛知県 1965年生まれ 男性 小学生の頃「スーパーヨーヨー」というヨーヨーのおもちゃが流行り、大人から子供まで大流行していました。 「犬の散歩」とか「空中ブランコ」とか言った大技を競い会い、テレビでも特集番組が組まれたりしていました。 そんなに高価なおもちゃでは無かったので、クラスのほとんどの子供が持っていて、人によっては何個も持って自慢していました。 当時は学校の正門の前でも普通に物売りのおっちゃんとか来ていて、「スーパーヨーヨー」も時々売られていました。 コーラとかファンタとかのデザインの物が安くて人気でしたが、カラフルな装飾が入った物や、回すと電飾が光る物などバリエーションも豊富でした。 しかし、いわゆる正規物の「スーパーヨーヨー」と比べるとコーラのロゴも怪しく、糸が切れてすぐ壊れたりしていました。 まあ、勝手に作られたコピー商品だと思われますが、当時は世間もそんなに煩く無く値段も安かったので、壊れたらそれまでという感じでした。 学校の前で露店なんて、今では考えられない光景ですが、凄くワクワクして楽しかった記憶があります。
1980年生まれ

じゃんけん列車の思い出

ゆいまるさん 愛知県 1980年生まれ 男性 小学生の頃、年に何度か開催されるお楽しみ会で、全員参加で行われていた“じゃんけん列車”がすごく思い出に残っています。 やり方は、線路はつづくよ〜の曲に合わせて歩いて回って、曲が止まったら、近くの人とじゃんけんをします。 負けた方が、勝った方の後ろについていくというシンプルなもの。どんどん列車が長くなっていって、最後の1人に勝ち残ることを目指すというゲームです。 最後の1人になると、先頭で後ろに全員を従えている格好になるので、すごく優越感があります。 そのため、みんなが(特に男子)勝ち残りたいという気持ちが強く、すごくすごく盛り上がるゲームでした。 時には、気持ちが強すぎて、ヒートアップしてしまい、喧嘩に発展することもありました。当時は熱くなっていました。 ただ、面白いのが、このじゃんけん列車は、お楽しみ会限定の企画といいますか、他の場面ではやった記憶が一度もないんです。不思議な魅力のあるゲームでした。
1966年生まれ

「田んぼの田の思い出」鬼ごっこのルールと遊び方

Syouwakkoさん 愛知県 1966年生まれ 女性 小学校4年生から6年生の頃までに、お昼休みの時間によくやった遊びです。 5人以上でよく遊びました。最初は5人ではじめたとしても、後から「いれてー」と入りたい子がきても、どんどん増えても楽しく遊べました。 まず、グラウンドに「田」と描きます。5メートル×5メートル位で大きく描きます。グラウンドなのでみんな足で描きました。 描いた線の部分を幅50センチの道幅に広げて描きます。 ジャンケンをして鬼を1人決めます。鬼だけは道を自由に動けます。 他の人達は道に入れません。それ以外の4つの四角の中にいられます。 遊び方は、4つの四角の一つの中心に印をつけて、そこがスタート地点になります。 鬼以外の人は、そこに集合し、何周回ったらゴールかを決めます。スタート後に時計回りに回ります。 回る途中で鬼にタッチされたら、田の外にでます。ゴールまでに鬼が全員タッチしたろころで終了し、鬼を交代します。 鬼がつかまえられず、だれかがゴールできたら、鬼は再度鬼になります。 人数が多い時は、鬼の人数を増やします。誰でも何人でも一緒に道具もなく遊べたのが楽しかった...つづき
1989年生まれ

「野良犬 人気者になる」第一発見者の生徒もヒーロー

まいまいさん 愛知県 1989年生まれ 女性 私の母校周りは田んぼに囲まれた、川や竹藪などがあるのどかな田舎町でした。 小学生の頃、登下校時に年に一度くらいは野良犬に遭遇していた頃で、学校に野良犬が迷い込んでくるのも年イチ行事くらいな間隔でありました。 やはり年イチ行事、且つ突然訪れる行事だけに、野良犬が迷い込んで来たその日は全校生徒がざわつきます。そして一目見ようとあちこちから生徒が集まって来るのです。 先生方は生徒の安全を守る為、必ず「教室から出るなー!」と叫んでいました。 そして、野良犬を追い払うのはいつも決まって教頭先生でした。教頭先生が代わってもです。もしかしたら教頭先生の業務一覧に「野良犬を追い払う」という項目があったのかもしれませんね。(笑) そして、野良犬を見つけた生徒もヒーローとなるのです。なので「先生、犬がいるー!」と言った者勝ち。自分が見つけたかの如く、生徒たちは口々に叫んでいました。 今ではセキュリティ面が強化され、大抵学校の門は閉まっていますし、住宅地が増える事で自然が減り、野良犬もなかなか見なくなりました。昔ならではの思い出話です。
1970年生まれ

年上のお兄さんから学んだベーゴマの思い出

たけしさん 愛知県 1970年生まれ 男性 生まれは北海道札幌市ですが、親の転勤によって愛知県に3歳から8歳まで住んでいました。 当時この地域は近所に複数の駄菓子屋が営業をしていて、親にねだってお小遣いをもらい、30円もあれば菓子類であればいくつも買えた時代です。 幼稚園から小学校2年生まで親友と呼べる友達がいて、駄菓子屋に通うことが多々ありました。 ある日のこと、友人と駄菓子屋に行った時に、恐らく小学4年生くらいのお兄さんたちが、太鼓をカットしたような円形の土台を使って、駄菓子屋の前でベーゴマ遊びをしていました。 かなり興味を持った私は、直ぐに帰宅をしてお小遣いをもらい、人生初となるベーゴマを購入しました。 紐を巻き付ける方法も分からず苦戦していたところ、親切なお兄さんたちから紐を結ぶ部分と巻き方、投げ方を習うことが出来ました。この日を境にしてベーゴマに熱中していました。 我が家は1階部分が事務所になっており、床がコンクリートだったので絶好の特訓スペースになりました。 後日、駄菓子屋に行くとお兄さんたちから仲間に入るように勧められました。合図と共に自信たっぷりにベーゴマを回しました。...つづき
1963年生まれ

倉庫跡地の思い出

なみさん 愛知県 1963年生まれ 女性 子供のころ、自宅前の砂利道私道を数十メートル東に進むと、突き当りに毛織物会社の倉庫がポツンと1件だけ建っている広い草地がありました。 倉庫には会社名が描かれていたので、親しい子たちと集合するときの約束は、いつもその会社のネームを切り取り「ボンちゃん」でねというのが通常になりました。 樹木や野草も隅には多く生えており、温かい季節は土筆とりや、たんぽぽとり、シロツメクサとりに夢中になりました。 あるとき、ふと思い立って、ここに私たちだけの「基地」を作ろうと、皆で古い板切れや釘、かなづちを持ち寄り、小さな小屋を建て始めました。 学校が終わると、毎日のように集まり、無い知恵をしぼりながら、木切れをつなぎ合わせ立体にしていくのですが、どうしても上手くいきません。 そのうち、1人1人と脱落者が出始め、ついには皆諦めてしまいました。 完全に見捨てられて残骸になったその「基地」らしきものは上級生の男の子たちに蹴飛ばされていました。 ワクワクしながら作ったときの思い出が今でもよみがえります。
1975年生まれ

校内でも有名なガキ大将の思い出

なっつんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 小学生の頃、友達とよく近所の公園でドッジボールや縄跳びで遊んでいると、同じ学年で、校内では有名なガキ大将が現れ、私たちは頻繁にその場所から追いやられました。 そのガキ大将のまわりには2~4人くらい子分のような存在の子がついてきており、我が物顔で占領していた記憶です。 逆らうといじめられるため、遊んでいる子たちは必然的に隅っこでこじんまり遊んだり、移動したりしていました。 そんなガキ大将ですが、学年の遠足でも威厳を保っていて、お弁当タイムには、子分の子達のおかずとかお菓子を貰ったりしていました。ガキ大将のまわりには常に人がいる、色々な子が取り巻いていました。 おそらく、そのガキ大将と一緒に居ればいじめられる事もないという考えからだろうとは思っていました。 よく喧嘩もしていましたが、ひとりでも充分な様子で、大将になるだけあるとは感じていました。男の子同士の喧嘩でも本当に強かったです。 どの時代にもそういったリーダー的な人は存在し、大人になった今はどんな感じなんだろうと、ふと思い返す時はあります。
1975年生まれ

逃げる範囲が広すぎる11階建てのマンションでの ドロジュン

なっつんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 私が小学生の頃は「ドロジュン」と呼ばれている遊びをしていました。11階建てのマンモスマンションに住んでいたので、ドロジュンをやるには範囲が広すぎます。 いつもの仲間とやるのですが、マンションを縦半分のエリアに区切り、その範囲内だけと決めてからやりました。 しかし、半分と言え、11階まであり。戸数もかなりあるマンションでしたので人数が少ない時ほど、難易度が高かったです。 玄関に門戸がないマンションでした。人の部屋の前に隠れるところがあれば隠れ。時々、そこの住人が出てきてビックリされる事もありました。 皆、顔なども知れた住人でしたので、話しかけられる事もあり、それが見つかる決め手にもなります。 エレベーターは2基ありましたが、それを使うと見つかりやすいのと、住人へ迷惑がかかるため、禁止しました。 2時間ほど遊んでいた事もあります。 子供であれど、階段を行き来し、フロアを渡り、凄い運動量だったと思います。 時々、ルールを破って違うエリアに潜む子もいましたが、そういう子は次からは警察役にまわされました。 低学年の子供だったからできた遊びであり、大人...つづき
1987年生まれ

初めての雪遊びの思い出

しゅりさん 愛知県 1987年生まれ 女性 幼稚園の頃に初めて雪遊びをしました。私が住んでいる地域は、冬でも殆ど雪が降らず。振っても少し舞う程度でしたが、その年は数センチ積もりました。 地面で雪が真っ白になったのを見たのは初めて。寒さも忘れてずっと外で足跡をつけて遊んだり、雪だるまを作ったりしました。 親に霜柱の存在も教えてもらい。踏むとサクサクと音がして、子供心にすごく不思議でワクワクしてずっと踏み続けていました。今は、アスファルトの場所がほとんどなので霜柱を見る機会もほとんどなくなってしまったので、とても貴重な思い出になっています。 近所の友達と集まって雪合戦もしました。雪合戦をしたのも初めてで、親が呼びに来るまで夢中になって遊んでいました。 もともと雪が少ない地域で、思いっきり遊ぶ場所も少なくなっているので、雪遊びをした思い出は私にとって本当に大切なものです。この先もずっと忘れずに心にしまっておきたいと思います。
1975年生まれ

ばぁちゃんお手製お手玉の思い出

まかろんさん 愛知県 1975年生まれ 女性 小学生の頃、同じマンションに住んでる同級生の家に集まっては、人形遊びや、あやとりをしていましたが、お手玉もやりました。 お手玉は各々手作り感溢れるものが多く、私はばぁちゃんが作ってくれたお手玉を持参して遊びました。和柄の生地で作られたお手玉は、着物の端切れで作ってくれたもので、手触りもよく、程よい小豆の量と重さが良かったです。 いつも集まっている子の中には強者もいて、片手で2個3個とポイポイ器用にやる子がいて、私もできるようになりたいと家でもよく練習していました。 しかし、なかなか片手では難しく、2個であればなんとか3回くらいは落とさずできても、3個はできませんでした。 できる子のやり方を見ていると、器用に一定間隔である程度の高さまで1個1個が宙を舞い、色々な柄が施されたお手玉がとても綺麗に見えました。 大きさや重さなども関係しているのかもしれないと思いましたが、はばぁちゃんは「手首に力を入れ過ぎたら駄目だよ」と教えてくれて、ばぁちゃんと一緒に練習した事もありました。
1965年生まれ

自作の凧の思い出

tacky1920さん 愛知県 1965年生まれ 男性 自分達の世代が小学生の頃、「ゲイラカイト」という凧が流行りました。従来の竹と和紙の組み合わせで出来ている日本式の凧と違い、プラスチックの骨組みにビニールを張り付けた三角形の形状で、確かアメリカが発祥だったと思います。 とにかく大ブームになって、ある程度裕福な家庭の子供は斬新なデザインの「ゲイラカイト」を親に買ってもらって、自慢げに学校にも持ってきていました。 自分も含め、大多数の子供は買ってもらう事は出来なかったのですが、とにかく手軽に作れるのが特徴で、決っして器用では無かった当時の自分も、家にあるビニール袋と拾ってきた廃材のプラスチックの棒で手製の凧を作り友達と競って遊んでいました。 近くに市営の広い陸上競技場があり、日曜日になると大空の一面に色とりどりの凧が溢れ壮大な光景でした。 風の強い日には糸が切れて凧が飛んで行って行方不明になったり、友達の凧と絡まって落下してしまったりと失敗も沢山ありましたが、自分の手から遠く離れた大空をなびく自作の凧に、子供ながらにロマンを感じていました。