【1970年代】

1979年生まれ

駄菓子屋のベーゴマ

おむすびさん香川県 1979年生まれ 男性小学校の頃でした。近所におばちゃんが営んでいた駄菓子屋さんにベーゴマがありました。その頃はガンダムのプラモとかエアガンが人気で、ベーゴマはすでに昔のおもちゃ枠になっていたので、見向きをすることもなく素通りをしていました。私は小学校のクラブ活動で工作クラブに入っていました。私が工作クラブに入ったのは、好きなプラモデルを月に一回学校に持って来て作る名目で、親にプラモを買ってもらうためでした。工作クラブでは上級生の子たちがベーゴマ対決をしていました。上級生の子たちはある程度プラモ作りも終えて、違う遊びを色々やってみたかったんだと思います。大掃除に使うワックスが入っていた筒形のカンカンに布を張り、その上にお互いベーゴマを落として先に止まるか、はじかれて落ちた方が負けという「喧嘩ゴマ」のルールでした。私もお小遣いを握りしめ、駄菓子屋でベーゴマを買って練習をしたのを覚えています。上手く回すのに苦労しましたし、カンカンの上にコマを落とすのにも苦労しました。今となっては良い思い出です。100均にあったベーゴマを買って、子供に回し方を教えたりしています。
1976年生まれ

ベーゴマを教えてくれた友達

たいさん埼玉県 1976年生まれ 男性小学生5年生の時、私は転校しました。引っ込み思案の子供だったので新しい環境にもなじめず友達もなかなか出来ませんでした。学校の休み時間も一人で机にうつ伏していることが多かったのですが、ある時、H君が「君はベーゴマ持ってる?」と話しかけてきました。私はベーゴマはおろか、独楽さえも持っていません。持っていないと伝えると学校が終わったら公園に来るように言われました。学校から帰ってランドセルを置いて公園に行ってみると、H君とK君がいてベーゴマで遊んでいました。僕が近づいていくとH君が「はい」といってベーゴマとヒモを私に渡しました。私は「やったことがないから出来ないよ」と伝えると、H君はヒモの巻き方と投げ方を教えてくれました。結局、その日私は、ベーゴマをまわせませんでした。帰り際H君が言いました。「そのベーゴマをあげるから、練習しなよ。すぐ回せるようになるよ」私は家に帰ってからも、ベーゴマの練習をしました。ベーゴマを見た父は懐かしいがって私からベーゴマを取り上げるといとも簡単に回しました。その後、父からも教わることでベーゴマを回すことが出来るようになった私は、...つづき
1978年生まれ

10人で一斉ベーゴマ

あそびーさん大阪府 1978年生まれ 男性小学校の低学年の時、よくベーゴマで遊んでいました。隣の小学校では全然流行っていなかったけど自分の小学校ではとても流行っていました。大きめのフライパンを用意して、その中でお互いにベーゴマを回し、ぶつからせてはじき出したら勝利というゲーム。勝つとそのベーゴマを取られるということをしていたので、勝てばうれしいし、負ければ悔しいという感じでした。一度自分のベーゴマを全部取られてしまい、悔しい思いをしましたが、何個か返してくれたのでよかったです。コツは無理に回そうとするのではなくて、腕を使うのではなくて体を動かすようにして回すと、勢いよく最後まで回転を保つことができます。10人ぐらいで大きな机の上で一斉に回し、最後まで残れば勝ち。すべてのベーゴマをとれるというゲームをやっていました。1年程度でベーゴマで遊ぶことはなくなったけれど、今思えばみんなで遊ぶことができた良い経験をできたと思います。
1977年生まれ

兄と一緒に公園で遊んだメンコ遊びの思い出

ヤクルトさん北海道 1977年生まれ 女性私は末っ子で、兄が二人います。子供のころはキン肉マンが流行していて、どこから入手したのか、メンコがたくさんありました。兄にくっついて公園へ行くと、必ず何人も同じ年代の子供がいたので、みんな顔見知りでした。その頃はメンコ遊びが流行していたようで、公園に行くときは兄もその友達も、メンコ持参でした。大きいものから小さいものまでたくさん種類があって、大きいものは主役級のキャラクターが描かれていました。公園にある台が会場で、相手のメンコを台から飛ばして落としたり、裏返したりしたら相手のメンコももらえます。兄と友達がひとしきり遊んで満足したら、私にもやらせてくれます。思いっきり台に叩きつけても、なかなか裏返らないし、台から飛んでいかないし、びくともしなかった記憶があります。それでもメンコ遊びをやっていることが楽しくて、腕が痛くなるまで飽きずに遊んでいました。私はまだ幼くて、公園へ行っても体を使う遊びにはついていけなかったので、一緒に遊べる数少ないジャンルでした。
1975年生まれ

給食の牛乳のふたパッチでめんこ遊び

月音山さん新潟県 1975年生まれ 男性自分たちの地域でも子供たちの遊びはめんこ遊びでした。当時、駄菓子屋にはテレビのキャラクター、仮面ライダーやウルトラマンなどの絵が描かれためんこは大人気でしたが、そういっためんこは大型のめんこで、上手な子には簡単に負けてしまうことが多かったです。子供が買えるめんこの多くは500円程度だったと記憶しています。そんなに頻繁にキャラクターの入っためんこは買えず、小さなあまり有名でないような絵のめんこで遊んでいました。そんな時、ある同級生が給食中にふとあることに気づきました。当時、小学校の給食には牛乳が必ず出てきて、その牛乳は今と違って瓶詰めの牛乳でした。その牛乳の瓶には紙の蓋がついていました。それに目を付けた同級生が、牛乳瓶のふたでめんこ遊びを始めました。ところが、使用済のその蓋は反っているためにすぐに負けてしまいます。そこで考えた子がいて、牛乳会社の本社に「新品の牛乳瓶のふたが欲しい」旨の手紙と返信用に封筒を同封して送りました。すると、その牛乳会社から返信があり、たくさんの新品の牛乳瓶のふたが送られてきました。それは硬く、真っ平らな新品のふたでした。そ...つづき
1978年生まれ

代表的なメンコのゲームルール3種類

あそびーさん大阪府 1978年生まれ 男性小学校の時、よくメンコ遊びが流行っていました。遊び方はいろいろとあります。その①机にあるメンコを上からメンコで叩き、裏返したらそのメンコを取ることができます。その②次に机の上にあるメンコ同士をはじきとばして、机から落せたらそのメンコをとることができます。その③机にあるメンコをパッパッと勢いよく息を吐くようとばし、裏返ったらそのメンコをとれることができます。代表的なメンコのゲームはこれぐらいで、人によりさまざまなゲームの仕方があります。みんないろいろなゲームを考えて遊んでいました。叩いて裏返すメンコのコツは、力任せに思い切り叩くのではなく、軽く打ち付け風を起こすような感じでメンコを叩きつけると簡単に裏返すことができます。メンコを取られることもあったけど、取り返すこともあり、楽しい思い出です。一番メンコを持っている子は1000枚くらい持っていたので、絵柄など欲しいものがあると交換したり、お菓子と替えたりして遊んでいました。
1974年生まれ

ガンダム ウルトラマン 仮面ライダーなどのメンコのコレクションと遊んだ思い出

まさおさん京都府宇治市 1974年生まれ 男性私の地域でメンコが流行していたのは小学4,5年生の頃だったと記憶しています。当時は駄菓子屋やおもちゃ屋でメンコをたくさん販売しており、お小遣いで購入していました。ガンダムやウルトラマン、仮面ライダーなどのメンコが主流だったように思います。メンコはクラスの同級生よりも近所の子と主に遊んでいました。地面が砂だとめくるのが難しく、アスファルトだと簡単にめくれました。めくれたメンコはめくった人の物になるので、みんなかなり気合を入れて遊んでいました。セロテープを巻いたり、軽く折ったりして少しでも強力にしようとみんな工夫していました。みんな自分のお気に入りの柄のメンコは取られたくないので、いらないメンコばかり出していたように思います。コツが分かってくると、力任せに振り下ろすのではなく角度をつけて投げたりと頭も使うようになりました。メンコはコレクションとしても大きな楽しみの1つ。日曜大工が趣味の父親が木で箱を作ってくれて、そこに入れて大切に保管してました。その箱をテーブルに置いてメンコを取り出して眺めるのが何よりの楽しみでした。
1974年生まれ

熱中した!「ノータイム」と呼ばれたゴム跳び遊び

あぼちゃん大阪府 1974年生まれ 女性小学校の頃はまだ、外で遊んでいた子どもたちがたくさんいました。テレビゲームもそこまで浸透していませんでした。私が住んでいた家のそばには、同年齢の子たちがいたこともあって、いろいろと外遊びを楽しんだ思い出があります。ドッジボール、鬼ごっこ、ケンケンパ、コマ回し…。普通のゴム跳びもやりましたが当時現地で「ノータイム」と呼ばれたゴム遊びがとても流行った時期がありました。ゴム跳びのゴムを大きな輪っかにして、両端に人が入ります(2人でやる時は一方を柱などに引っ掛けました)。2本のゴムの川を足で引っ掛けながらステップを踏んで楽しむ遊びでした。高さは膝丈・ヒップ・腰の3段階。ステップの種類は6種類(1番2番…などど呼んだ)。膝丈はステップを3回、ヒップは2回、腰は1回という決まり。1番の膝丈・ヒップ・腰…2番の膝丈・ヒップ・腰…という順だったか…?引っかかってしまったら交代だったか…?もう記憶が曖昧です。ステップは番号が上がるに連れて複雑になりました。最初はゲームを楽しむというより、そのステップを踏めるようになるのが課題。暗くなるまで練習しました。よく頑張った...つづき
1975年生まれ

世代を超えたフラフープ

きょうさん大阪府 1975年 女性小学校の時、体育の授業の時にフラフープを使って遊んでいました。腰で回したり、腕で回したり、縄跳びみたいにして飛んでみたりして、楽しかったです。大学生の時、タイムボカンの歌で有名な山本正之さんの歌で「フラフープ」という短い歌があり。曲の中で「フラフープをぱりんと割ってしまう」というような内容がありました。家族に話したら、親の時代はフラフープがとっても流行っていたと言っていました。私の頃のフラフープは、プラスチックだったり、分解して、片づけるものも出ていたので不思議だと思いました。「ぱりんとわれるもの」という認識は私の中にはなかったと思います。そして数年前、スポーツクラブでZUMBAを習っているときに「HULA HOOP」という曲があり、フラフープを回しているような振りが全世界で踊られています。かつて親の時代に流行し、私たちの小学校時代や、子供の頃の遊びの中にも定着したフラフープが、今や世界でもよく知られる遊び道具の一つになっていることに驚かされました。それでも私にとってのフラフープは、やっぱり小学校の時の無邪気に遊んでいた頃のフラフープがしっくり来ていま...つづき
1978年生まれ

高尾山で遊んだ鬼ごっこ

少年の心を持った中年親父さん東京都 1978年生まれ 男性 幼稚園と小学生時代に鬼ごっこにハマりました。特に小学校の昼休憩では、必ず友達と校庭に出て、毎日鬼ごっこを楽しんだ記憶があります。20人くらいで鬼ごっこする時は、鬼1人では大変なので、「鬼チーム」と「逃げるチーム」に、じゃんけんで分かれるルールを作り遊んでいました。小学校高学年になると学校の校庭などではエリアが狭く感じるようになり、遠足で高尾山登山が予定されていたことから、担任に登山後に1時間鬼ごっこを高尾山で行いたい旨を遊び友達全員で提案し、30分の時間制限での実施が了承されました。高尾山に行くのは初めてだったので、事前にと友達の家に集合し高尾山について調べました。そこで、鬼ごっこができそうなエリアも目星をつけ、遠足当日を迎えました。高尾山に着いて、まずは登山でしたので無我夢中で登り切り、スタート地点に下山しました。鬼ごっこ遊びをする友達全員の下山を待ち、揃ったところで事前に調べたエリアに移動し、高尾山鬼ごっこを行いました。学校の校庭と違い広いことこの上なしでした。また、山ならではの開放感も遊び心が刺激され、いつもの何十倍も鬼...つづき
1975年生まれ

鬼ごっこで見捨てられた私

こむぎさん兵庫県1975年生まれ 女性 私が住んでいた地域は田舎で山が多い場所です。山は子供の遊び場でした。私は子供の頃から方向音痴でした。山の中は似たような場所が多く、私はいつも迷子になってました。山の中は広く、迷子になってばかりの私を友達に探してもらって家に帰っていました。だから山の中では遊びたくなかったのですが、田舎なので山しかありません。他の友達は迷わなかったのに、なぜ私だけ迷うのか謎でした。私が小学生低学年の頃によく、友達と鬼ごっこをして遊んでいました。鬼ごっこは大体、校庭や公園で遊んでいました。校庭や公園などでは隠れる場所があまりないので、鬼ごっこをしてもすぐに見つかってしまう退屈な遊びでした。しかし、山の中はそうもいきません。山の中で鬼ごっこをすると私の場合は悲惨でした。隠れる場所は、たくさんあるので鬼になった場合は本当に大変です。誰も見つける事が出来ない時もありました。そういう場合、友達は退屈になって勝手に私を見捨てて自宅へ帰っていきました。私は友達に見捨てられた事にも気づかずに、ずーっと探していました。今、思い出すと子供って本当に残酷よねと思う悲しい想い出です。
1978年生まれ

色鬼の思い出

おむすびさん香川県 1978年生まれ 男性5歳の頃、幼稚園の運動場で友達と鬼ごっこをしていました。運動場にはグラウンドのほかに滑り台やブランコ、ターザンロープやテントウ虫型の穴の開いた遊具で、中に入れるものなどがありました。初めはグラウンドの方で走り回ってただ追いかけるだけの鬼ごっこでしたが、お兄ちゃんお姉ちゃんがいる友達は色々な遊びを知っていて「色鬼をしよう」と言ってきました。私は色鬼が何のことだかさっぱりわからず、掴まらないように走って逃げるだけの「鬼ごっこのルール」で参加していました。遊んでいるうちに、色鬼のルールは①鬼が指定した色の所に登って逃げる。②10秒間だけいられる。③10秒で離れないといけない。というものだと分かりました。鬼は大変でした。色を指定して、そのたびに10秒数えないといけない。考えながら動かないといけない。賢い子は、色を指定してその色に逃げた子の一人をロックオンし、10秒待って降りたところを捕まえる技を編み出していました。何もなかったけど、知恵と工夫の楽しさがありました。
1972年生まれ

小学生の頃のザリガニ釣りの思い出

ごまさん和歌山県 1972年生まれ 女性私が小学生の頃すんでいた家の周辺は海もあり、山も近くとてものどかなところでした。まだ宅地開発の途中で学校までの道のりには田畑やため池が多数ありました。登下校の途中で友達と一緒に田んぼやため池のカブトエビ、カエル、ザリガニなど見たり採ったり、道端の草を採ったりするのがとても楽しかったのを覚えています。学校から帰ると冷蔵庫にあったちくわをこっそり持ち出してよく兄弟でザリガニ釣りに行きました。弟に教えてもらった釣り方は小さく切ったちくわにタコ糸を結んで池に垂らし、ザリガニがハサミで挟むのを待つという釣りをしていました。ザリガニが釣れることもあれば亀が釣れることもよくありましたね。網も持って行っていたので網で池の端の草が茂っているところをすくってみたりもしました。網ではザリガニを取ることは難しく沼エビや小さい魚がよく採れました。採れた獲物は持ち帰り、すべてプラスチックの水槽に一緒にいれてました。エビとザリガニと亀を一緒にするとエビが食べられてしまっていなくなってることはよくありましたね。今思うと可哀そうなことしたなと思います。
1976年生まれ

ぶらさがりの思い出

ぷくり子さん沖縄県 1976年生まれ 女性縁あって、私が通っていた小学校に娘も通うことになりました。娘を見送りながら、久しぶりに校舎や校庭をながめると、小学生の頃に友達といろんな遊びをした事を思い出し、懐かしさでホッコリ。変わらない物もあれば、変わった物もありました。そんな中、校庭の片隅に苦手だった鉄棒が変わらず並んでいました。体育の授業で鉄棒がうまく回れず、ぶら下がりも握力が弱かったのでダメダメでした。 そんなある時、鉄棒の上手な女の子と放課後遊ぶことになりました。その子は、鉄棒が本当に好きなようで、体操選手かというくらいクルクル回っていました。私もマネしてみようと鉄棒をつかみましたが、できないイメージが大きくて、ぶら下がって揺れているだけでした。その姿を見てたのか、その友達が背中と背中を合わせて、後ろから押してくれ、まわる練習をに付き合ってくれました。根気よく練習に付き合ってくれたこともあり、少しずつまわることが出来ました。 だんだんと上手くなってきたのをいいことに、調子にのちゃって鉄棒から落ちてしまって尻もち。痛い思い出も浮かびますが、それ以上に一つのことを成し遂げた事が嬉しくて...つづき
1973年生まれ

爆竹を使った遊び①「う○こ爆弾」の思い出

しんごパパ埼玉県 1973年生まれしんごが子どもの頃に友達としていた爆竹を使った遊びの思い出です。しんごが子どもだった頃は、近所に駄菓子屋さんやタバコ屋さんがあって、子どもが「爆竹」を簡単に買うことが出来ました。爆竹は火薬の詰まった花火の一種で導火線に火を付けると「パン!」という大きな音で破裂します。しんごもしんごの友達も爆竹を使った遊びが好きで「小さな爆弾」を手に入れた気分でわくわくしました。いろいろなものを爆竹で吹き飛ばして遊びました。あるとき友達と一緒に「うんこ爆弾」という遊びを開発しました。うんこ爆弾の遊び方は、1、束になっている爆竹をばらして、一本の爆竹にします。2、導火線を長めにした一本の爆竹を、犬のうんこに挿します。3、みんなで、そのうんこの回りに集まってひとりが導火線に火を付けます。4、各自爆竹が爆発する寸前に素早く逃げる。というスリル満点の遊びです。度胸試し的な遊びです。爆発ギリギリで逃げた子は、みんなから「凄い!」と言われ。最初に逃げた子は「弱虫」とからかわれます。あるときこの遊びをしていたら、友達は火を付けてから後退りで逃げたため、足をダブに踏み外して落ちてしまい...つづき