近畿エリアに住んでいた人が小学生の頃にした遊びの思い出

1951年生まれ

雪合戦

katsuさん 兵庫県 1951年生まれ 男性 小学生の頃は雪が降って来ると急いて外に出ました。まず空を見上げ、口を開けて雪の味を確かめる事から始めます。冷たいだけでかき氷みたいに美味しくはありません。 そうこうしていると雪はどんどん降って来ます。体が雪で真っ白になります。寒くなってきたので家に入り、窓を開け見ていました。 翌朝は早く起きて外に出ました。あたり一面雪景色でした。学校に行って皆んなと雪合戦ができると思いました。 朝ご飯を食べ急いで学校に行きます。もう早い子が来てました。雪をかき集めて小山を作っていたので、僕も一緒に集めるのを手伝いました。 少し集まると今度は雪ダルマの作成です。そして雪ダルマの前を雪で囲いました。又違うグループも反対側に同じような雪ダルマの前に囲いが出来ていました。 さあ!これから両方に別れて雪合戦です。雪を丸めて弾を作り相手に投げつけました。 すると授業の始まる鐘の音がキンコンカンコンと鳴り、途中ですが教室に入らなからばなりません。残念! 次は休み時間にと思い教室に戻りました。しかし気になって窓から外ばかり見ていたら、先生に注意されてしたいました。終。
1967年生まれ

滅多に降らない雪で遊ぶのは最高の喜び

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 大阪に住んでいますから、降る雪を見ることはなかなかできません。雪が降ったとしても、積もることは滅多にないです。 ある日のこと、朝起きると母親がこう言いました。「庭を見てごらん、雪が積もってるよ」。 「えっ」と言い私は庭の方へ行き、戸を開けました。すると雪が積もっていて、「雪だるまが作れる」とその瞬間に思いました。外に出て、兄弟とともに雪だるまを作り始めました。 雪だるまは雪の量が多くないと、大きな雪だるまは作れません。道路にある雪は泥で汚く、きれいな白いままの雪だるまはとても難しい状況です。きれいな雪をかき集め、夢中で作り上げました。 目とか口はないものの雪だるまが完成しました。それが終わると兄弟で雪合戦です。道路の雪を丸めて兄や弟にぶつけるのです。この遊びは面白く、きゃきゃーと大きな声で雪をぶつけ合いました。 走り回りながら雪を手で丸めて投げる。投げては逃げ、また雪の球を作り投げ合いました。みんな息がハアハアを大きな呼吸をして、顔は喜びで満ち溢れ愉快な一日でした。
1978年生まれ

「貴重な雪」での雪遊びの思い出

もももさん 大阪府 1978年生まれ 女性 私の住んでいた大阪は、雪がほとんど積もりません。最近は全くと言ってよいほど積もることはありませんが、それでも幼少期は年に1、2度うっすら積もることもありました。 たまに積もった雪は、子どもたちのテンションを高くします。溶けにくい車のボンネットなどに薄くつもった雪を手寧にかき集めて、小さな雪だるまを作るのがお決まりです。 子どもの手のひらで握っても小さいと感じるくらいの小さい雪だるまが出来ます。同じようなことをして、玄関前に小さな小さな雪だるまを飾っている家を見ると自分の作品と比べてみたりしたものです。 雪合戦などの経験はほとんどありません。テレビで雪合戦やかまくら等の映像を見るとあこがれたものです。 男の子たちは、雪らチラつき始めると、口を開けて上を向いて走っていました。よくわからない遊びでしたが、雪の冷たさを口の中で感じながら、あれはあれで楽しそうでした。 運動場にうっすら積もった白い雪を一番に踏みたくて、休み時間になると我先に・・・と外へ走って出たことも懐かしい思い出です。
1973年生まれ

花の遊びの思い出

きょうこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 公園で咲いている花を使って遊んでいました。 白い花がたくさん咲いていて、1つずつ千切って繋げていきます。茎の部分を絡ませて繋げます。そうして長めに花を繋げたら輪っかにします。花の輪を頭に乗っけて出来上がり。とてもかわいく仕上がります。 白い小さなボンボリみたいな花が輪になり、花を繋げるのに時間がかかるので、出来上がったときは喜びが増します。 近所の子供とよく花輪を作って遊んでいました。器用でないと出来ませんが、1回できるとかわいいので再び作ろうと思います。 この遊びは結構したことがあると思う遊びです。今でも花を見ると花輪のことを時々思い出すくらいかわいい花輪でした。
1987年生まれ

王子様ごっこ

だいじろうさん 京都府 1987年生まれ 女性 小学校1年生のころ、「王子様ごっこ」が私のクラスの女子の中で一時期ブームになった。男子1名を王子様と勝手に設定し、その子のことを1日中「〇〇様」と呼ぶ。 もちろんその他の話し方だったり対応も、本物の王子様を扱うように行う。 何故か標的になった男子は逃げる(今思えば当たり前ですが)ので、休み時間は女子全員で王子役の子を追い掛け回す。 それが異様な光景だったのか、男子からクレームが多かったのか、親御さんから相談があったのかは分からないが、ある日終わりの会で先生が禁止令を出した。 〇〇様と呼ばない、追い掛け回さないという事を約束させられたが、子供なので急に終わることが出来ない。なので、一番人気だった1人の子だけに的を絞り、その子を完全なる王子様とした。 彼はシャイな子で、いつも恥ずかしそうにしていたが、マセた女子からしたらそれが可愛くて仕方がなかった。 しかし現実が見えてきたのか、2年生に上がる頃にはアイドルにハマる子が多く、誰も王子様ごっこをしている女の子はいなかった。 現実とは悲しいもんだなと、たまに思い出しては皆元気かなと思い出に浸ってい...つづき
1973年生まれ

看護師さんごっこの思い出

みぃこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 子供の頃、近所の子供と「看護師さんごっこ」をして遊んでいました。風邪を引いた設定。私が看護師さん役で、近所の子供が患者役です。 注射器のおもちゃを持っていたので注射をしていきます。 風邪を引いているので、注射をしましょうと言って少しづつ押しながら注射をうっていきます。これを繰り返します。少し時間が経ったり、場所を変えて公園や近所で注射をうっていきます。 患者は絶えず風邪を引いています。なかなか直らず、ずっとおもちゃの注射器で注射をする遊びをしていました。 近所の子供はいつも鼻水が出ていたので、余計に注射が必要だと思っていました。子供ながらにはやく直してあげたいと思ってした遊びです。
1973年生まれ

ドラマごっこの思い出

ゆーこさん 大阪府 1973年生まれ 女性 小学生の頃に近所の子供と流行っていた遊びが「ドラマごっこ」です。その頃に流行っていたドラマで、飛行機の教官とスチュワーデスの物語で、その2人を真似して台詞を言って遊んでいました。 「お前はなんてノロマな亀なんだ」と教官が言い、スチュワーデスが「教官」と言って泣きつくシーンなどです。とてもおもしろく1日に何回も繰り返して遊んでいました。 そのドラマは毎週見ていて、子供でもわかる、わかりやすい物語でした。主人公の方も大げさに演技していたのが伝わりやすく印象が強かったので、真似をして遊んでいました。 少し独特な遊びですが、他のドラマで手袋を口で取るシーンも真似していました。主人公の手が動かない手だけマネキンのような感じで手袋をしていて、取る時に口で取るのが流行っていました。 毎週このシーンが流れるので印象に残ったので真似していました。ドラマの主人公になりきって遊んで、やりきると笑いあい、とても楽しい遊びでした。
1975年生まれ

♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら

きょうさん 大阪府 1975年生まれ 女性 小さいころ、お母さんがよくつぎはぎの布にあずきを入れてお手玉を何個か作ってくれました。親が簡単そうに歌を歌いながら、高く投げ上げたお手玉を、残りのお手玉で拾い上げる。 ♪おひとーつおふたーつおみっつおーいておーさーら 私は大人になっても、二つのお手玉を両手で投げることが精いっぱい。 母や兄はよく、片手でお出球を投げていました。 私がやるとどうも右に、左に飛んで行ってしまって、バランスよくお手玉を投げ上げることができません。 それで落ちたお手玉は、つまんで拾い上げてまたチャレンジ。 今は、完成したお手玉を和雑貨などのお店で見ることができます。何個か購入して、動画でも見ながら歌ってお手玉をほおり投げてみたいです。
1994年生まれ

ローラー滑り台の恐怖

うなぎさん 三重県 1994年生まれ 女性 小学生の頃、従兄弟と一緒に地元近くにある長いローラー滑り台がある公園に遊びに行きました。 いつもの公園の滑り台よりもとっても長くて、たくさんの子供が滑り台を順番待ちして並んでいました。自分の番が来るまで、とてもドキドキワクワクしていたのを覚えています。 そしていざ、自分の番!従兄弟が先に滑り、その後しばらくして自分も滑り始めました。序盤は景色を見ながら長い滑り台に大興奮!だったのですが、徐々にお尻が痛くなり始め、摩擦で熱さを感じるようになりました。 「だから周りの子たちは段ボールをお尻の下に敷いてたのか」と思っても後の祭り。滑り台は残り半分というところで、お尻が痛すぎて涙が出そうになったので、子供ながらに機転を効かして、足を立ててお尻を浮かし、しゃがんで触って滑ることに。 「よし、これでお尻は痛くないぞ!」と思ったのですが、しゃがんで座る姿勢はよりスピードが上がって、今度は違う意味で恐怖心を抱き、結局滑り終わる頃には「もう2度とやるもんか!」という気持ちになっていました。
1975年生まれ

長い長い滑り台

mugikoさん 兵庫県 1975年生まれ 女性 私が通っていた小学校の運動場は遊具が少なく。ブランコに古びた滑り台、ジャングルジムに鉄棒ぐらいだったと思います。 私が小学4年生の時に古い滑り台を取り壊して、長い長い滑り台を設置したのでした。生徒たちは大喜びで滑り台を遊んでいました。 長い長い滑り台だったので、滑っていると途中で止まります。生徒たちは、そこから立ち上がり下まで走り抜けている子供もいました。 出来たばかりの長い滑り台はなかなか順番が回って来ません。下校時間ギリギリになると、ようやくすべる事が出来るほどの人気の滑り台でした。 滑り台で遊びたい生徒は朝早く学校に行ったり、下校時間まで粘っている子供がいました。まぁ一ヶ月も経てば人気もなくなり、私もようやく長い滑り台を遊べるようになりました。 そこで友達と3人セットで滑ったり、後ろ向きになって滑ったり色々とふざけた遊びをしていたのですが、今まで遊んでいた短い距離の滑り台と違い。長い長い滑り台だったので途中でスピードが出なくなります。 そうすると、友達が後から押してくれました。私はいきなり後ろから押されたので体勢を崩して、滑り台か...つづき
1963年生まれ

ブランコの「りんごいっこ!」

じゃすみんさん 大阪府 1963生まれ 女性 それは校庭や公園のブランコが二つや四つとあるところで、参加する人がブランコに乗って始まります。ギャラリーがいるときもいないときもありました。 「りんご一個」という掛け声と共にスタート。地面の土にりんごの絵を指で書き、それからそれぞれの人がブランコを漕ぎ始め、勢いをつけていかに早くいかに遠いところまで跳ぶことができるかが勝負。という遊びがありました。 「せーの」という掛け声でもいいのになぜ「りんご一個」なのかなぜ地面にりんごを描いたのか謎です。 もともと運動神経の弱い私でしたから、もちろん勝つことはまったくありませんでした。今から思うと「この人には勝てるから」という感じで誘われていたのかな。 でも誘ってもらえたことが嬉しくて、ついついその遊びのお誘いに応じてしまっていたのでした。 ただ、子供ながらに「ここで勝負にはならないんだ、違う遊びで勝負しなくちゃ」という気持ちが芽生えたのはよかったし、いい経験でした。
1967年生まれ

凧あげは奥が深い 釣り用のリールで糸を巻いてみる

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 小学生の時、凧あげに夢中になりました。どこまで高く上がるかそればかり考えていました。風が全くない時でも上空にとにかく上げれば上がるときがあります。 自宅の近くの田んぼで、いつも揚げていました。タコの糸が稲の根っこに絡んだり、根っこに躓いたり、楽しく遊びました。 あまり高く上げ過ぎると、糸を巻くのに時間がかかります。時間どころか、下手すると糸がからみ、もつれた糸を元通りにするのに泣きたくなることがあります。 その時、たまたま兄貴の彼女が来てたので、兄貴が彼女に「得意だからやってもらったら・・・」。付き合いだしたばかりの彼女は真剣に糸の絡みをほどいてくれました。私は「良いひとだなあ」と思いました。 糸を巻くのに時間がかかるので、釣のリールを持ち出してそれにタコ糸を巻き、楽な凧あげを考えました。 そんなことをしている人は私だけで得意げにリールを見せびらかしたりしました。 子供の時の凧あげは大人になっても、誰かが公園で凧あげをしいているのを見ると、「懐かしいなあ」と空を見上げます。
1997年生まれ

初めての凧揚げ体験

貴ちゃん 大阪府吹田市 1997年生まれ 男性 私が初めて体験した凧揚げ体験は寒くて操るのが大変でした。 学校のグランドや公園などに行き、始めは自分では飛ばせなかったので、親や先生などに飛ばしてもらい、安定したら自分で操っていました。風を読むのにタイミングが分からなく、人の掛け声に頼って飛ばしていました。 高く上がった凧は空を舞っていますが、複数の凧が上がると凧同士がぶつかって上手く操作が出来なかったり、喧嘩したりするハプニング。糸が他の糸と絡まって、ほどくのに時間がかかるので大変でした。 自分で創った凧の絵は遠くに飛ばすほど、描いてある絵が分からなくなり、目を細くしながら見ていました。 小さい時には、お正月に自分で創った凧を持って来て、遊んでいたのを覚えています。
1989年生まれ

おはじきを飲み込んでしまった 苦い思い出

みさん 兵庫県西脇市 1989年生まれ 女性 私が子供の頃、ガラスでできたおはじきのキラキラが好きで集めていたので、祖母がよくおはじきを買ってきてくれました。 祖母がよく遊んでくれていたので、姉と一緒に祖母に戦いを挑んでいたのですが、熟練の技がすごすぎて戦いを挑んでは負け、また挑んでは負けを繰り返していました。何回やっても勝てないくらい祖母は強かったです。 ある日、一人で遊んでいた時に、なぜかおはじきを口に入れていました。しばらく部屋でゴロゴロしていたら、何かの拍子におはじきを飲み込んでしまい、びっくりして母に泣きつきました。 母は心配もしてくれましたが「何してるの!?なんで口に入れたの?」とかなり怒られました。 その時は特に病院にも行かず水をいっぱい飲んでいたら、数日後トイレの時に無事に排出されました。母にかなり怒られたので、それ以来あまりおはじき遊びはしなくなりました。 今でも実家に帰るとたまにその話を掘り返されます。恥ずかしい苦い思い出です。
1975年生まれ

できそうな気がしたけれど…「空中手乗っけ」の思い出

ねこ助さん 京都府 1975年生まれ 男性 幼稚園生の頃の話です。当時ちょっとした独楽回しのブームがあったと記憶しています。駄菓子屋さんで、ウルトラマンの絵が入った独楽(金属製)が販売されていて、友達の間で流行っていました。 独楽に色を塗って、回転した時の模様の変化が楽しかったのを覚えています。 2歳年上の兄がおり、父に教わって二人とも自分でも回せるようになりました。私も普通の独楽を回すだけなら上達して(上達した気になっていて)、友達や兄と、どちらが長く回せるが競って遊んでいました。 父が「ちょっと面白いものを見せる」と言って、独楽回しの技を見せてくれました。子供ながらに驚いたのが、独楽を空中にほおり投げてそのまま手の上に乗せて回しました。 父は簡単そうに独楽を回して、にっこりしていました。 投げ方を教えてもらったのですが、私は、手の上に乗せることができません。できそうな気がしたのだけれど…うまくいきませんでした。ささやかな懐かしい思い出です。
1995年生まれ

ベイブレードで知ったベーゴマ

鳩サブ子 大阪府 1995年生まれ 女性 私は3人兄弟の末っ子で兄とは7歳差、姉とは5歳差でした。2000年ごろに「ベイブレード」というアニメが流行っており、兄は当時12歳ごろだったのでちょうど大流行していた時期だと思います。 その頃私はまだ5歳でさほどベーゴマの記憶はほとんど残っていません。しかし、兄がハマっていて一緒に遊んだという話を母から聞きました。 私が10歳ぐらいになった頃、兄のお下がりの勉強机にはベイブレードのシールがたくさん貼ってあり、ベーゴマもいくつか残っていました。 小学校の授業で「日本の昔からの遊びで遊んでみよう」という内容のものがあったのですが、けん玉や羽つき、お手玉の中にベーゴマがあったことを記憶しています。ベイブレードでベーゴマの存在を知っていた私はすぐにベーゴマに関心が向きました。 そのとき見た昔のベーゴマは、ベイブレードのベーゴマと違って鉄でできており、肌触りのいい質感で重厚感。当時の私の小さい手にしっかりフィットしました。 紐で何重にもぐるぐる巻きにして投げてスッと紐を引き抜くタイミングが難しかったと思います。悔しくて何回もトライしてるうちにベーゴマがう...つづき
1974年生まれ

楽しかったコマ回しの思い出

まさおさん 京都府宇治市 1974年生まれ 男性 小学低学年の頃にコマの回し方を覚えてから、5年生の頃まで遊んでいました。 ある日、全校朝礼の時に校長先生が、「実は教頭先生がコマ回しの名人です。これから見せてもらいましょう」と言って、教頭先生がグラウンドでコマ回しを披露してくれました。コマを回して手のひらに乗せたり、綱渡りをしたりと多彩な技を見せてくれ。すごいなあと感動しました。 それからコマの紐のつけ方を教えてもらって練習しました。最初は失敗が続きましたがすぐに回せるようになり、そこから毎日練習していました。 コマの素材としてはプラスチックや木でできたものなど色々ありますが、一番安いプラスチック製が一番回しやすかったように思います。 手のひらに乗せたり綱渡りができたり技も習得して、ますますコマ回しが楽しくなりました。 友達と同時にコマを回してどちらが長く回っているかを競ったり、お互いに回したコマを紐で引き寄せてぶつけあったりいろいろな遊び方をした記憶があります。 何年か経って高校生くらいの時に、当時遊んでいたコマ回しをやってみようとしたら上手く回せなかったので、子供の頃の集中力ってす...つづき
1967年生まれ

近所の男の子と独楽遊び

K.N.さん 大阪府 1967年生まれ 男性 この遊びはお正月に遊ぶものですが、時期が過ぎても独楽回しはしていました。近所の男の子や自分の兄弟と独楽で遊びました。 独楽の遊び方は上の兄が教えてくれました。私は5人兄弟の次男坊です。5人のうち4人が男です。自分の子供ができた今でもお正月に独楽回しをしています。 独楽の遊び方としては、右手で勢いよく回した独楽を空中に飛ばし、右手に乗せる遊びです。これは今でもできます。 右手に乗せたら、そのまま走ってどこまで走れるか競い合いました。走る途中で独楽を手から落としてもダメですし、手の上の独楽が止まるのもダメです。 今は独楽で遊ぶ方が少ないのでしょうか。保育園で独楽回しをしたら、それを練習するようになります。新しい遊びが主流ですが、昔懐かしい独楽回しなどをお正月にすると、懐かしい子供の頃を思い出します。
1985年生まれ

努力ではどうにもならなかった単身縄跳び

運動オンチ 奈良県 1985年生まれ 女性 私が育った地域では体育の授業で縄跳びを持ってくるように言われました。様々な飛び方を体育の授業で習うことにより、習得していくのです。 普通とび、二重跳び、クロス跳び。多種多様な飛び方の内で、できる飛び方とできない飛び方があります。 あらゆる飛び方をマスターしている人もいますが、運動神経に恵まれていない私にとって、普通跳びが精一杯でした。それでもひたすら練習させることが義務教育のやり方です。 休み時間、帰宅後に自主練習をするように勧められるのです。ところが、自主練習でできること、できないことがあるということを当人が子供のために気がついていません。 教育者側もできないことは努力によってするべきだ…という考え方を曲げません。そんなこんなの考えと教育により、無駄な努力をするようにと賢明に練習しますが、できませんでした。 自宅練習で縄跳びばかりしていましたが、偶然に二重跳びができたとしても、なぜできたのか?分析できないのです。 今思えば、才能的にできない事に努力をしていたという…苦い思い出です。
1988年生まれ

冬の縄跳びの痛い思い出

とび兎さん 兵庫県 1988年生まれ 男性 小学生の頃、私の通っていた小学校では、冬の体育の時間に縄跳びをする事が多い学校でした。 服装に関して上は長袖の着用は許されていたのだが、なぜか下は半ズボンじゃないといけないルール。寒い中の縄跳びは冷えた体に縄が当たる恐怖があるのに、さらに下が半ズボン。今思えばどういう拷問なのかと思います。 普通に飛ぶだけではなく、1つ1つの技をクリアしていき自分のチェックリストを埋めていくような形でした。 後ろ跳びやクロス跳びとかはゆっくり出来るので、当たってもそこまでの痛さは無かったんですが、二重跳びは勢いも必要で普通にするのも当時は難しく、さらに当たると痛いという怖さもあり、なかなか出にずに苦労しました。 勇気を出してやった時に思いっきり素足に当たり、激痛と共に鞭を撃たれたようなミミズ腫れになりました。その後の体育の縄跳びは全て休んでしまおうかと思ったくらい嫌になったのが思い出です。
1994年生まれ

女性縄跳び検定

ayoさん 大阪府 1994年生まれ 女性 私の小学校には縄跳び検定というものがありました。級毎にカセットテープが用意されており、冬の体育の時間にみんなで挑戦していくというもので、男女共に積極的に取り組んでいました。 音楽に合わせて飛んでいくのですが、10級は前飛びのみ、9級は後ろ飛びのみなど簡単なものです。 5級を越えてくると、複合技や2重飛び、更に聞いたこともないような技を要求され大変難しいものになっていました。 そこで、私の友達と一緒に1級を目指して取り組んでいくようになりました。体育の授業だけではなく、休憩時間に職員室の前でラジカセを借りて遊ぶこともできた為、一日中縄跳びに取り組んでいました。 それに取り組んでいた毎日でしたが、その友達の一人は急に転校することになってしまいました。学校の先生に縄跳び検定のカセットをダビングしてもらい、離れても1級成功を目指そうねと誓いお別れをしました。 私は1級まで成功することはできませんでしたが、友達はできたのかなと久しぶりに思い出しました。
1974年生まれ

長縄跳びの練習の思い出

タケシさん 大阪府 1974年生まれ 男性 小学生の頃、私は長縄跳びが苦手でした。実際に縄跳びをするとヘタヘタでした。いつも練習している子たちよりも遅く降りてしまうことが多かったです。 そんなときに思い出に残るエピソードがあります。 1つ目は、縄跳びの練習中に縄が切れてしまったことです。私は練習をしていたところ、突然縄が切れて、思わず足が抜けて転んでしまいました。周りの子たちは私を見て笑いましたが、私はとても恥ずかしかったです。 2つ目は、大縄跳びの大会で負けてしまったことです。学校で行われた大縄跳びの縄跳びの大会に出場しましたが、私のミスで、引っ掛かり残念ながら負けてしまいました。周りの子たちががっかりしているところを見て、とても悔しい、悲しい気持ちになりました。 このような経験から、私は「練習することが大切」ということを学びました。毎日、少しでずつですが、練習して、縄跳びが多少はできるようになったのを覚えています。大げさですが、努力は大切だと感じました。
1988年生まれ

児童館のベーゴマ遊び

るんるんさん 兵庫県 神戸市西区 1988年生まれ 男性 私は小学生の頃、学校終わりに児童館に毎日行っていました。みんなとよくベーゴマで競い合って遊んでいました。 その通っていた児童館には、技のやり方を書いた紙があり、初級は普通に回すことから始まり、紐を使って綱渡りをしたり、回っているベーゴマに紐を絡めて宙に飛ばして手の平に乗せて回すなど、色々なレベルの技に挑戦していきました。 自分が今どれぐらい出来るようになったのかチェックを付けます。児童館にいる先生に検定試験的なものをやってもらい合格することができれば、その児童館の中で表彰を飾ってもらえるというものでした。 それをもらうことが出来ると周りに自慢する事もでき、目立つことが出来るのでみんな必死に取り組んで遊んでいました。 ただ、ベーゴマの数もそれほど多くあったわけではなく、早く来た人から順にできるので、取り合いになって喧嘩したり、順番が回ってこなくて先生から怒られたり、いろんなトラブルがありました。
1978年生まれ

10人で一斉ベーゴマ

あそびーさん 大阪府 1978年生まれ 男性 小学校の低学年の時、よくベーゴマで遊んでいました。隣の小学校では全然流行っていなかったけど自分の小学校ではとても流行っていました。 大きめのフライパンを用意して、その中でお互いにベーゴマを回し、ぶつからせてはじき出したら勝利というゲーム。勝つとそのベーゴマを取られるということをしていたので、勝てばうれしいし、負ければ悔しいという感じでした。 一度自分のベーゴマを全部取られてしまい、悔しい思いをしましたが、何個か返してくれたのでよかったです。 コツは無理に回そうとするのではなくて、腕を使うのではなくて体を動かすようにして回すと、勢いよく最後まで回転を保つことができます。 10人ぐらいで大きな机の上で一斉に回し、最後まで残れば勝ち。すべてのベーゴマをとれるというゲームをやっていました。1年程度でベーゴマで遊ぶことはなくなったけれど、今思えばみんなで遊ぶことができた良い経験をできたと思います。
1989年生まれ

「牛乳瓶の蓋で!」メンコの思い出

みさん 兵庫県西脇市 1989年生まれ 女性 私が幼稚園に通っていた頃、よくメンコ遊びをしていました。当時はまだ瓶の牛乳とパックの牛乳、半々だったので瓶の時に蓋を取っておいて洗って乾かして使っていました。 マジックなどで自分の好きな色を塗ったり、絵を描いたりしてオリジナルのメンコを作るのが流行りでした。 メンコ遊びもみんなやっていましたが、女子は絵を描いたり、オリジナルメンコを集める方が多かった気がします。お道具箱に集めて喜んでいました。 メンコ遊びの方はいたって普通のルールで、裏返した方が勝ちです。男子は勝った方がもらえるルールを使っていた様に思いますが、女子は平和に勝ち負けだけのルールでした。 自由時間に女子は女子、男子は男子で楽しんでいましたが、先生がたまには男女混合でやろうと提案してくれて普段遊ばない子とコミュニケーションが取れる遊びになっていました。 駄菓子屋で買うこともありましたが、幼稚園に持っていけなかったので、牛乳瓶の蓋のメンコの方が思い出に残っています。
1978年生まれ

代表的なメンコのゲームルール3種類

あそびーさん 大阪府 1978年生まれ 男性 小学校の時、よくメンコ遊びが流行っていました。遊び方はいろいろとあります。 その① 机にあるメンコを上からメンコで叩き、裏返したらそのメンコを取ることができます。 その② 次に机の上にあるメンコ同士をはじきとばして、机から落せたらそのメンコをとることができます。 その③ 机にあるメンコをパッパッと勢いよく息を吐くようとばし、裏返ったらそのメンコをとれることができます。 代表的なメンコのゲームはこれぐらいで、人によりさまざまなゲームの仕方があります。みんないろいろなゲームを考えて遊んでいました。 叩いて裏返すメンコのコツは、力任せに思い切り叩くのではなく、軽く打ち付け風を起こすような感じでメンコを叩きつけると簡単に裏返すことができます。 メンコを取られることもあったけど、取り返すこともあり、楽しい思い出です。 一番メンコを持っている子は1000枚くらい持っていたので、絵柄など欲しいものがあると交換したり、お菓子と替えたりして遊んでいました。
1974年生まれ

ガンダム ウルトラマン 仮面ライダーなどのメンコのコレクションと遊んだ思い出

まさおさん 京都府宇治市 1974年生まれ 男性 私の地域でメンコが流行していたのは小学4,5年生の頃だったと記憶しています。当時は駄菓子屋やおもちゃ屋でメンコをたくさん販売しており、お小遣いで購入していました。 ガンダムやウルトラマン、仮面ライダーなどのメンコが主流だったように思います。メンコはクラスの同級生よりも近所の子と主に遊んでいました。 地面が砂だとめくるのが難しく、アスファルトだと簡単にめくれました。 めくれたメンコはめくった人の物になるので、みんなかなり気合を入れて遊んでいました。セロテープを巻いたり、軽く折ったりして少しでも強力にしようとみんな工夫していました。 みんな自分のお気に入りの柄のメンコは取られたくないので、いらないメンコばかり出していたように思います。 コツが分かってくると、力任せに振り下ろすのではなく角度をつけて投げたりと頭も使うようになりました。 メンコはコレクションとしても大きな楽しみの1つ。日曜大工が趣味の父親が木で箱を作ってくれて、そこに入れて大切に保管してました。その箱をテーブルに置いてメンコを取り出して眺めるのが何よりの楽しみでした。
1974年生まれ

熱中した!「ノータイム」と呼ばれたゴム跳び遊び

あぼちゃん 大阪府 1974年生まれ 女性 小学校の頃はまだ、外で遊んでいた子どもたちがたくさんいました。テレビゲームもそこまで浸透していませんでした。私が住んでいた家のそばには、同年齢の子たちがいたこともあって、いろいろと外遊びを楽しんだ思い出があります。 ドッジボール、鬼ごっこ、ケンケンパ、コマ回し…。普通のゴム跳びもやりましたが当時現地で「ノータイム」と呼ばれたゴム遊びがとても流行った時期がありました。 ゴム跳びのゴムを大きな輪っかにして、両端に人が入ります(2人でやる時は一方を柱などに引っ掛けました)。 2本のゴムの川を足で引っ掛けながらステップを踏んで楽しむ遊びでした。高さは膝丈・ヒップ・腰の3段階。 ステップの種類は6種類(1番2番…などど呼んだ)。膝丈はステップを3回、ヒップは2回、腰は1回という決まり。 1番の膝丈・ヒップ・腰…2番の膝丈・ヒップ・腰…という順だったか…?引っかかってしまったら交代だったか…?もう記憶が曖昧です。 ステップは番号が上がるに連れて複雑になりました。最初はゲームを楽しむというより、そのステップを踏めるようになるのが課題。 暗くなるまで練習しま...つづき
1980年生まれ

フラフープのほろ苦い思い出

なみさん 京都府 1980年生まれ 女性 私が小学生の頃、フラフープ遊びが流行していました。 友達同士で投げたフラフープをお互いでキャッチしたり、手首のスナップをきかせて投げたフラフープが自分の手元に返ってくる遊び、どちらが長い間フラフープを回していられるかを競ったり、身体の色々な所でフラフープを回す遊びをしていました。 ある日、いつものように遊んでいると弟が頭で器用にフラフープをクルクルと回せるようになりました。 私も「負けたくない!」と思って、頭で回そうとしましたが失敗…。意地になって次は思いっきりフラフープを頭にめがけて勢いを付けて投げました。 すると、私の首にフラフープがグルグルと巻き付きました。「ゲッホ、ゲッホ。」と咳がでて首を思いっきり押されたような痛みを感じました。 けれど、弟に見られていたのが恥ずかしかったのか、私は何事も無かったかのように足元に落ちたフラフープを拾い遊びの続きをしました。 その時の首の痛みは残り2、3日の間は続いていたように思います。その後、他の人が首回しに挑戦しても私は挑戦しませんでした。 楽しい思い出の中のほろ苦い思い出です。
1989年生まれ

練習の賜物 フラフープを誰が一番回せるか競争

みさん 兵庫県 1989年生まれ 女性 フラフープの思い出で一番印象に残っているのは近所の友達です。 我が家にはフラフープがなかったので、友達の家で遊ぶ時によく貸してもらってやっていました。友達には2つ上のお姉さんがいたので家に2つフラフープを持っていて、遊ぶときはみんな交代で使っていました。 私は友達の家に行った時しかフラフープができなかったのであまり長く回せませんでしたが、友達はお姉さんに負けるのが悔しかったみたいでかなりの時間練習したそうです。 お腹だけでなく胸や首で回したり、回しながら歩いたり、練習の甲斐あってずっと回し続けることができました。 ある日学校でフラフープをやる機会があって、みんなで誰が一番回せるか競い合いました。他の子がどんどんフラフープを落としていく中、友達はいつまでも回し続けていたので、先生からのストップがかかるほどでした 私たちの世代では敵なしのフラフープの達人として、先生に褒められて嬉しそう。何事も継続することが大切だと子供ながらに感じました。
1985年生まれ

ちょっと違うフラフープの使い道

わんこさん 奈良県 1985年生まれ 女性 フラフープは、体の動きでフラフープを動かしていく運動ですが、それができない子達にとっての遊び方がありました。 フラフープのサイズにも大中小とあります。身体の比較的小さな子供は小サイズのフラフープを使ってケンケンバーや電車ごっこをしていました。 とても子供じみた遊びですが、フラフープのアイテムに魅せられた子供にとっては、フラフープの道具を使うというだけでもウキウキする遊びでした。 その理由はフラフープの輪っかというデザイン性にあると思います。丸くて綺麗なフラフープは見ているだけでも癒しでした。 こうした遊び方にはまる子は運動が苦手だったり、大人しい子だったりします。当時は、活発な子供が多くみんな同じことができて当たり前という価値観での教育方針。子供なりにできない運動を諦めて自ら遊びを考案していました。 本来であれば先生が手引きする事も当時は放任状態。子供だけで新しい遊びを楽しんでいたのです。
1975年生まれ

世代を超えたフラフープ

きょうさん 大阪府 1975年 女性 小学校の時、体育の授業の時にフラフープを使って遊んでいました。腰で回したり、腕で回したり、縄跳びみたいにして飛んでみたりして、楽しかったです。 大学生の時、タイムボカンの歌で有名な山本正之さんの歌で「フラフープ」という短い歌があり。曲の中で「フラフープをぱりんと割ってしまう」というような内容がありました。家族に話したら、親の時代はフラフープがとっても流行っていたと言っていました。 私の頃のフラフープは、プラスチックだったり、分解して、片づけるものも出ていたので不思議だと思いました。「ぱりんとわれるもの」という認識は私の中にはなかったと思います。 そして数年前、スポーツクラブでZUMBAを習っているときに「HULA HOOP」という曲があり、フラフープを回しているような振りが全世界で踊られています。 かつて親の時代に流行し、私たちの小学校時代や、子供の頃の遊びの中にも定着したフラフープが、今や世界でもよく知られる遊び道具の一つになっていることに驚かされました。 それでも私にとってのフラフープは、やっぱり小学校の時の無邪気に遊んでいた頃のフラフープがし...つづき
1985年生まれ

フラフープを練習した思い出

にゃんこさん 奈良県 1985年生まれ 女性 私が子供時代にフラフープを使った運動が流行りました。 当時フラフープは運動で使われる道具であり、遊具ではなかったようです。子供にはそんなことは区別がつかず、テレビで目にすると、面白そうだ、あんなことがしてみたい!と思うようになりました。 そんなある日、学校の体育の授業でフラフープに触れるチャンスがやってきたのです。 テレビでは上手に踊っている方が多くて、私もそうなりたい!と思いました。輪っかの中に入って腰を振りながら使いこなす。そんなふうになるはずでした。 フラフープは子供の体には大きくて扱いも大変でした。サイズがあるようで、大きなフラフープは子供の体では一回で足元に落ちてしまいます。 それでも一生懸命にフラフープを持ちながら、お気に入りとして練習していました。一旦体に入れてしまうと、とっても楽しいものだと感じるようになります。
1985年生まれ

いろんな鬼ごっこの思い出

りかこさん 大阪府家のマンションの廊下 1985年生まれ 女性 小学校低学年の頃は放課後や休日によく同じマンションの近所のお友達5〜10人くらいで鬼ごっこをしていました。 定番の鬼ごっこでは人数が多く集まった時は鬼を2人にして遊びました。 私はいつも逃げている思い出しかないので、あまり鬼にならなかったのだと思います。 初めは普通の鬼ごっこをしていたのですが、学年が上がるにつれて色んな種類の鬼ごっこを楽しみました。 「色鬼」は難しかったです。 なんせマンションの踊り場でしていたので色がなく、みんなの遊び道具や自転車を持ってきて遊んでいました。 「高鬼」は遊びながら、この遊びは卑怯だなと思っていました。 高いところに登ればタッチをされないので、ずっと高い場所にいれば安全だからです。 なので、高いところに居れる時間を20秒にしたりしましたが、鬼に待ち伏せされたら終わりでした。 一番流行った鬼ごっこは「氷鬼」でした。 タッチされた時の格好で固まるのも面白かったですし、タッチされても仲間に助けてもらえるところも良かったのだと思います。
1975年生まれ

鬼ごっこで見捨てられた私

こむぎさん 兵庫県1975年生まれ 女性 私が住んでいた地域は田舎で山が多い場所です。 山は子供の遊び場でした。 私は子供の頃から方向音痴でした。 山の中は似たような場所が多く、私はいつも迷子になってました。 山の中は広く、迷子になってばかりの私を友達に探してもらって家に帰っていました。 だから山の中では遊びたくなかったのですが、田舎なので山しかありません。 他の友達は迷わなかったのに、なぜ私だけ迷うのか謎でした。 私が小学生低学年の頃によく、友達と鬼ごっこをして遊んでいました。 鬼ごっこは大体、校庭や公園で遊んでいました。 校庭や公園などでは隠れる場所があまりないので、鬼ごっこをしてもすぐに見つかってしまう退屈な遊びでした。 しかし、山の中はそうもいきません。 山の中で鬼ごっこをすると私の場合は悲惨でした。 隠れる場所は、たくさんあるので鬼になった場合は本当に大変です。 誰も見つける事が出来ない時もありました。 そういう場合、友達は退屈になって勝手に私を見捨てて自宅へ帰っていきました。 私は友達に見捨てられた事にも気づかずに、ずーっと探していました。 今、思い出すと子供って本当に残酷...つづき
1989年生まれ

懐かしいザリガニ釣り

みぃさん 大阪府 1989年生まれ 女性私は大阪府の中でもほんの少し田舎の小学校に通っていました。 山がとても近い場所だったため、小さな池や用水路が結構ありそこにザリガニが住みついていました。 初めてザリガニ釣りを見たのは、小学校4年生の頃です。 忘れもしません、男の子の友達が「ザリガニおるんやで!」と用水路を指さし教えてくれました。 当時、図鑑でしか見たことがなく、田舎と言えどこんな大阪にザリガニなんているの?と半信半疑でした。 そんな気持ちで用水路を覗き込むと思った以上にいたザリガニにビックリ。 ザリガニもびっくりしたのか大きなハサミで威嚇してくるんです。 「見ときや」と男の子はタコ糸に割り箸を付けたものをポケットから取りだしザリガニを釣り始めました。 また、私はびっくりしました。餌がついてなかったからです。 こんなもので釣れるの?と疑いとワクワクでその様子を見てたのを今でも覚えてます。 初めはザリガニが怖くて見ていただけでしたが、数日後、スルメイカを持ってきた友達に教えてもらい初ザリガニ釣りをしました。 今となってはとても楽しい思い出です。
1972年生まれ

小学生の頃のザリガニ釣りの思い出

ごまさん 和歌山県 1972年生まれ 女性 私が小学生の頃すんでいた家の周辺は海もあり、山も近くとてものどかなところでした。 まだ宅地開発の途中で学校までの道のりには田畑やため池が多数ありました。 登下校の途中で友達と一緒に田んぼやため池のカブトエビ、カエル、ザリガニなど見たり採ったり、道端の草を採ったりするのがとても楽しかったのを覚えています。 学校から帰ると冷蔵庫にあったちくわをこっそり持ち出してよく兄弟でザリガニ釣りに行きました。 弟に教えてもらった釣り方は小さく切ったちくわにタコ糸を結んで池に垂らし、ザリガニがハサミで挟むのを待つという釣りをしていました。 ザリガニが釣れることもあれば亀が釣れることもよくありましたね。 網も持って行っていたので網で池の端の草が茂っているところをすくってみたりもしました。 網ではザリガニを取ることは難しく沼エビや小さい魚がよく採れました。 採れた獲物は持ち帰り、すべてプラスチックの水槽に一緒にいれてました。 エビとザリガニと亀を一緒にするとエビが食べられてしまっていなくなってることはよくありましたね。 今思うと可哀そうなことしたなと思います。
1982年生まれ

鉄棒で逆上がりを練習した思い出

ニカさん 兵庫県 1982年 女性 小学校2、3年生位の頃でしょうか。体育の授業で逆上がりのテストがあるというので、出来なかった私はよく練習していたのを思い出します。 小学校の鉄棒の前には、逆上がりが上手く出来るよう、練習用の踏み板が置いてあって、それがとてもカラフルに塗られていたのでよく覚えています。 休み時間や放課後は学校で練習し、休日は親に電車で運動公園まで連れて行ってもらって練習をしました。 私には妹がいるのですが、どういう訳か妹は鉄棒が得意。 前回り逆上がりと、練習する私の隣でぐるぐるぐるぐる回っていました。 今思えば、初めての「妹に出来て私に出来ない事」だったような気がします。なので悔しくて、妹がどうやって逆上がりをしているのか盗み見ていました。 研究の結果、どうやら腕の力で身体を鉄棒に引き寄せているようでした。 小学校に置いてあった逆上がり練習用の踏み板は、ジェットコースターの出だしのレーンのような形をしていて、足で可能な限り高く駆け上がって逆上がりを助けるような構造になっていましたが、腕の力によるのであれば、あれは無駄かもしれないと学習しました。 その後運動公園で初めて...つづき
1992年生まれ

耐久鬼ごっこ

サカイさん 京都府 1992年生まれ 女性 当時私は小学校低学年で、休み時間に「高鬼」が流行っていました。 ルールはほぼ鬼ごっこと同じで、鬼にタッチをされたらその人がオニオ交代するというものなのですが、「高鬼」は、鬼より高い場所にいる人は捕まえられないというものでした。 ただし10秒以上同じ高い場所に留まることはできないので、走って逃げることと高い場所で休息を挟むことをうまく組み合わせて逃げる必要があるゲームです。 私たちがよく遊んでいた公園には、よくある高さの鉄棒と、ぶら下がることのできる大きな鉄棒がありました。 鬼以外のメンバーはしばしば鉄棒に座ったりぶら下がったりして鬼から逃れていたのですが、ある日の高鬼でヒートアップした鬼役の私とお友達のAちゃんは大きな鉄棒のところで睨み合いをすることになりました。 10秒数えているのにAちゃんが鉄棒にぶら下がって降りてこないのです。捕まりたくないAちゃんと、ズルだと大騒ぎする私。最後には体力の限界がきたAちゃんが尻もちをついて軽い怪我をしてしまい、私は母に叱られてしまった思い出があります。