福島県に住んでいた人が小学生の頃にした遊びの思い出

1988年生まれ

「どこまで入るの」昼休みの時間に校舎に侵入した犬

おさまりんさん 福島県 1988年生まれ 女性 私がまだ小学生の頃は、今とは違い、校門も開けたまま、玄関も開けたままで防犯対策など全くされておらず。今となれば考えられないですが、誰でも入って来れる場所だったかと思います。 でもまさか、それが人間ではなく犬であることは誰も予想しなかったのではないかと思います。 今でも覚えてますが、休み時間にベランダに出て校庭を何気なく見ていました。私が6年生の頃で、高学年は三階の教室でしたので校庭が一望できました。 周りは住宅地、近くに駅があり、でも地方でしたので人口も少なく、とても穏やかな場所に学校はあります。 そんな校庭に、ある一匹の茶色の中型犬がツテテテテ〜と入ってきました。 『え!?』となり、友達と先生に報告し、ベランダにはその犬見たさに皆んな集まる。その犬は慣れているかのように玄関に向かい姿を見失いました。まさか、と思いましたが、その犬は校舎に入ってきてしまったのです。 当時私は犬が嫌いだったので、入ってきて襲われたらどうしよう、どこまでくるんだろう、学校でおしっこしないよね?など、子供ながらに想像しまくりました。 ドキドキしながら待ってました...つづき
1965年生まれ

「懐かしの昭和の外遊び」指で小石を弾く陣取り遊び

ぷにおんさん 福島県 1965年生まれ 女性 あの頃、子供達は外で遊ぶのが当たり前でした。なかでも一番の遊び場は神社の境内でした。社務所も無く宮司さんも不在の田舎にある小さな神社です。 鳥居をくぐり階段を登り切った先に狛犬と土俵と社が。その背後には森があります。木登りやターザンごっこ、かくれんぼ、陣取り遊びと色々な遊びが出来ます。 当時、小学校低学年の女の子の私には、体力差も関係なく勝負ができる陣取り遊びが好きでした。 ルールは簡単。小石を指で弾いて飛んだ先までを線で引き、3回目で元いた場所まで上手く戻れれば線で囲んだエリアは自分の陣地になります。 小石の弾き加減や狙い通りのところへ飛ぶ小石選びの見極めが難しいですが、 運が良ければ上級生にも勝つことが出来ます。 田舎のレトロなとても懐かしい思い出です。
1986年生まれ

雨上がりの砂場でお気に入りのスカートを汚してしまった思い出

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 小学1年生の頃だと思います。雨上がりに、砂場の砂が渇いていない状態で遊んだことがありました。 そういう時は水をわざわざ持ってこなくても泥団子を作るのにはぴったりなのです。 泥団子を作っても何もすることはないのですが、泥団子を作るのが楽しかったのです。今思えばおにぎりを作る練習にもなっていたような気がします。 苦い思い出になってしまうのですが、その時私はお気に入りのスカートを穿いていました。 お尻が付かないように、しゃがんで砂場遊びを楽しんでいたのですが、ついお尻をついてしまい、お気に入りのスカートを汚してしまいました。 パンツまで砂と泥で汚してしまいショックでした。本当に気に入っていたので、あの時のスカートをハッキリと覚えています。 それから雨上がりに砂遊びはしないようになりました。
1986年生まれ

「棒倒しを遊んだ」砂遊びの思い出

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 幼稚園の頃は砂場で遊ぶのは好きでしたが、小学生になるとあまり遊ばなくなりました。なぜなら小学生になると汚れが気になるようになったからです。 小学校の砂場で遊んでいたのは低学年くらいまでだったと記憶しています。 私は女の子としか遊ばなかったのですが、普通に砂山を作ったりしました。 棒倒しもしました。砂山を作り、順番に砂山の周りをなぞるようにして崩していきます。それで棒を倒してしまった人が負けというゲームです。 私の周りはお兄さんお姉さんのいる子が多かったので、その子たちが教わったものを継承したのかも知れないです。
1986年生まれ

ジャングルジムに登ろうとチャレンジ

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 私は身体障害があったので、ジャングルジムに登るという行為はとてもハードルが高くて、リスクもある行為でした。 幼稚園の頃はカラフルなジャングルジム。小学生になると普通の可愛くないシルバーのジャングルジムがありました。 そして幼稚園の物と違うのは明らかに高さがあるということです。 それでも子供なりに、他の子と同じように近づきたいという気持ちが強く。少しだけですがの登ったりしました。 もちろん怖くて上の方まで行くことはできないのですが、自分なりに少しでも登ったときは達成感があったような気がします。 私の体のことを知っている子たちは、無理しなくて大丈夫だよとか気遣ってくれたことが嬉しかったです。 もちろん無理をすることはありませんでした。登ったけれど降りられなくなってしまったら大変ですからね。 でも一度でいいから一番上まで登ってみたかったです。
1976年生まれ

荷物持ちの罰ゲームなのにみんな喜んでいた

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 罰ゲームの代表と言えば、じゃんけんで負けたら荷物持ちというものがあります。 遊びの中と言うよりは下校中でのできごとではあるのですが、そういうのをよくやっている子たちはいました。 かくいう私はと言うと、障害があったので「持たせたら可哀想だよ」という理由でハブられていたという感じでした。 私も混ぜて欲しいという気持ちがあったので、寧ろ私にとっては持たせてもらえないということが罰ゲームのように感じました。 しかし、罰ゲームとは言っても荷物持ちをされている子たちがあまり苦痛そうではありませんでした。 人の役に立って寧ろ喜んで引き受けているという印象を受けました。 荷物持たせというのは、いじめのようにやる人たちもいると思うのですが、私の周囲ではそのような感じではありませんでした。 寧ろ罰ゲームをしたいという子が多かったのではないかなと思います。 私は病院からもあまり重い物は持たないようにと言われていたので寧ろこれで良かったのかも知れないです。
1986年生まれ

実は怖かったシーソー遊び

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 子供というのはシーソーが大好きだと思いますが、私はどちらかというと苦手でした。苦手ではあるものの、どうしても友達との付き合いで幼稚園の頃や小学生の頃に遊ぶことがありました。 小学校にシーソーがあったかどうかは記憶にありませんが、幼稚園の頃にはありました。私はシーソーをしても基本的に長続きしません。 私は凄くガリガリに痩せている子供で、シーソーをすると必ず私の方が上の方に上がってしまいます。体重の重い子が相手だと、高くなってしまい非常に怖いという気持ちが強かったです。 私は身体に障害もある子供で普通の健常児たちと一緒に遊んでいたので、シーソーはちょっとした恐怖でした。テンポよくシーソーをしている子たちを見ると羨ましくなりました。 痩せすぎていて肉がない為にガッタンゴットンとなる度にお尻がめちゃくちゃ痛かった思い出があります。
1986年生まれ

身体に障害があっても立ち漕ぎが出来て嬉しかった箱ブランコ

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 小学生の頃団地に住んでおり、坂を少し下ればすぐに公園がありました。広さはかなりあるものの、遊具そのものは少なく。普段はお年よりがゲートボールで遊んでいます。遊具はブランコくらいしかありませんでした。 頃放課後に遊びに行って、先客がいると箱ブランコには乗れません。運よく乗ることができたらラッキーみたいな感じでした。 小学生でも上級生が遊んでいたら、上級生に譲らなければならないという暗黙のルールもありました。 乗れた時はとても嬉しくて、特別なことはせずに普通に乗ることが多かったのですが、私は立って横に立ちこぎをすることが好きでした。 私は身体に障害があり、普通のブランコだと立ちこぎができません。 しかし、箱ブランコはしっかりしているので立ちこぎもしやすく嬉しかったです。調子に乗って早くこいだりもしていました。 ただ、残念なことに今現在その公園はまだありますが、あの思い出の箱ブランコは撤去されて、倉庫みたいな物が設置さています。なぜなくなってしまったのかは分からないですが寂しいです。
1986年生まれ

一番乗りで積もった雪に足跡を付ける地味な遊び

うさぎちゃん 福島県 1986年生まれ 女性 あまり雪の降らない地域だったので、小学生の頃と言ったら少し雪が積もっただけでも大騒ぎな状態でした。 これは遊びのうちに分類されないかも知れませんが、真っ白な新雪に誰が最初に足跡を付けることができるのかという、謎の暗黙のルールのゲームみたいなものがありました。 まだ誰も足跡を付けていない場所に一番最初に足跡を付けるのは気持ちが良いものです。 登校中の道もそうですが、学校の敷地内でも同じです。休み時間などにまだ誰の足跡が付いていない所を狙っては、自分が足跡を付けるのは凄く快感です。 小学生の頃にやっていたことではありますが、実は大人になった今でもたまに雪が積もった時に、一番乗りで足跡を付けたいという気持ちが強くなります。一人で足跡を付けて喜んでしまっている自分がいます。 いい歳をしてちょっと恥ずかしいですが、子供の頃の地味だけど楽しい、雪が積もった時の遊びが忘れられないからだと思います。
1989年生まれ

縄跳びで二重跳びができた思い出

佐和子さん 福島県1989年生まれ 女性 私が小学2年生の頃、二重跳びや三重跳びをするのが流行りました。教室の外のベランダで練習したり校庭で練習します。私はなかなか二重跳びができず悩んでいました。 それで私は、二重跳びが上手い人を参考に練習していました。あまりの熱心さに自分の家でも練習して、下の階の方から苦情がきて怒られたこともあります。 それからは自主的に練習するときはエントランスでするようにしたのですが、隣の家のおじちゃんが励ましてくれたことを思い出します。 そうやっていくうちに二重跳びができるようになって、学校で何回跳べるか実施したこともあります。最終的には20回くらい跳べるようになって、家族からも褒められ嬉しかったです。 特に祖父母が1番喜んでくれて、よく跳べるようになったなあなどと言われて嬉しかったです。 1番跳べる子は1分間くらい跳んでましたが、私には真似できないなあと思いながら見てました。ときどき縄跳びの縄が頭にパチっと当たることがあって、それは痛かったです。
1983年生まれ

何やってんの!!ベーゴマで怒られた思い出

かずきさん 福島県1983生まれ 男性 多分お正月とかだったと思います。小さい頃に親戚一同が我が家に集まりました。親戚のおじさんが、竹トンボやベーゴマ、福笑いなどを持ってきてくれて、「たまにはみんなでこういうので遊ぼう!!」となりました。 子供達で一斉に玩具をとって遊びだしました。親戚のお兄ちゃんがベーゴマを手に取り、紐をコマに巻いていきました。 僕はお兄ちゃんの紐を巻いてる所をジッと見て、自分も見おう見まねでコマに紐を巻いていきました。お兄ちゃんは水切りのフォームで綺麗にコマを回しました。 それを見て僕は「野球投げじゃなくて、水切りの感じで投げれば良いんだな。よし!お兄ちゃんのコマなんか弾き飛ばしてやる!!」そう思った僕は1メートルくらい後ろに下がり、助走をつけ、お兄ちゃんのコマめがけて勢いつけて投げました。 水切りというか、ドッチボールの横投げのフォームで。物凄いスピードで飛んで行ったコマは、案の定ガラスにガチャーン!「何やってんの!!」母親から雷が落ちました。今となっては良い思い出です。