1992年に生まれた人が子どもの頃にした遊びの思い出

1992年生まれ

父による手作りの砂場で過ごした思い出

ねこちゃん 京都府 1992年生まれ 女性 小学校低学年の頃、外遊びが好きだった3人兄弟。いつでも遊べるようにと、父が砂場を手作りしてくれました。 休日になると父が一生懸命作ってくれて、完成した日、兄弟3人で飛び跳ねて喜んだことを今でも鮮明に覚えています。 砂場が出来たその日から、学校から帰って来てはすぐにバケツやスコップを持って砂場で遊びました。 時には砂遊びに夢中になり、日が暮れても遊んでいる私たちの姿を、近所のおばちゃんたちが、「仲良しやなあ」とほほ笑んで話しかけてくれました。 逆に母は「あんたらいつまで砂場にいるん~ご飯できたから片付けて入ってきな~」としびれをきらしていました。 そんなある日、砂場にウンチを発見。 大切にしていた砂場に誰が!!と兄弟3人で犯人探しが始まりました。 朝学校に行く前、学校から帰ってから、ご飯を食べる前、食べた後、お風呂に入る前、入った後、寝る前。 犯人捜しの日々に明け暮れました。 いつものように3人で遊んでいると、砂場に1匹の猫がやってきました。 以前、猫を飼っていたこともあり、猫はすぐに私たちになついてくれました。人懐っこいタイプのようです。猫も...つづき
1992年生まれ

「ニッペの思い出」ジャンケンに負けたら2本指しっぺ

ハコテンスキーさん 静岡県 1992年生まれ 男性 私の子供の頃の罰ゲームでの思い出は、二の腕にニッペ(指を2本出して叩くこと)をしていました。 最初はゲームで負けた時の罰ゲームとして友達同士で行っていたのですが、次第にニッペをすることだけにこだわりだして、じゃんけんをして負けたらニッペをする遊びに変わるほど、小学生の時にやっていました。 あるときニッペ遊びをしていたら相手の腕を空振り。私の伸びていた爪だけが相手の腕に当たり引っかかりました。相手の腕から血が出るほどの事故が起きてしまったことがあります。 その時私は血の気が引いたのを覚えていますが、その後のことはあまり覚えていません。確か保健室に行って血が出ている手を治療をして、お互いに仲直りしたのだと思います。 それ以降ニッペをすることが減ってしまい。やっても手加減するようになりました。
1992年生まれ

鬼にはなりたくないと思った「公園での缶蹴り遊び」

サカイさん 京都府 1992年生まれ 女性 小学校5年生の頃、放課後に帰宅しランドセルを置いたら、いつもの公園で友人たちと待ち合わせ、暗くなるまで遊ぶのが習慣でした。 他の公園に比べて大きい公園だったので、クラスの半分近い子どもがその公園に集まり、それぞれの仲良しグループで遊んでいたように思います。 それぞれ遊んでいた子どもたちも、どこからともなく他のグループが空き缶を見つけてきて、缶蹴りを始めると、それに混ざる形でいつの間にか大所帯で缶蹴りが始まっていました。 しかし、大勢になると鬼は大変。鬼以外が蹴った缶を、鬼が元の位置に戻している間にそれぞれ隠れる。 全員を見つける前に定位置に置いた缶を誰かに蹴られてしまったら、一度捕まえたメンバーも解放され、また缶を戻すところから始まります。 圧倒的に鬼が不利なルールの中で、いつまで経っても鬼から抜け出せない子が出てきます。泣いている子もいました。 人気の遊びではありましたが、絶対に鬼にだけはなりたくないと、いつも思っていた記憶があります。
1992年生まれ

時間を忘れて遊び続けた小学校時代の思い出

ホワイトさん 東京都 1992年生まれ 女性 小学校時代に流行っていた遊びと言えば、ドロケイは外せません。 今思えば、誰が始めたのか、どこから流行ってきたのか分かりませんが、同じクラスの友達以外の違う学年の子もみんな知っていた遊びでした。 よく覚えているのは、中休みの時間になると誰かが“校庭集合”と合図を出すと、それがドロケイをやろうという意味。とにかく男女関係なくドロケイが始まっていました。 私はドロボウ役が面白くて、よくやっていたのですが、中休み中では決着がつかず、放課後に同じメンバーで集まって、続きをやるのがとても楽しかったです。 5時間目が終わりそうになると、みんながソワソワしだして、私も早く遊びたくて本当にワクワクしていた小学校時代でした。 私は小学校時代6年間リレーの選手だったのですが、それは日々警察から逃げるドロボウ役で逃げ回っていたおかげで、足が速くなり脚力もついたと思います!!更には身体能力も上がったと思います。 ドロケイで楽しかったのは、走り回るだけではなく、クラスや学校で人気の男の子と同じドロボウチームになると、助け合いながら逃げるという心理学的に恋に落ちそうな場...つづき
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クラスみんなでドロケイ

mnytさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 この遊び、呼び方がいろいろあるようですが、私の周りではみんな「ドロケイ」と呼んでいました。そんなドロケイ、小学校4年生の頃にクラスで大ブームでした。 元々は、放課後によく一緒に遊んでいる仲良しグループの間で遊んでいたようですが、次第に他のクラスメイトにも広まっていったようで、最終的に昼休みとか学活の時間にクラスのみんなで遊ぶようになっていました。 校庭でやる時はいつも朝礼台が刑務所で、捕まっていない泥棒がこっそり台の下に隠れて、捕まった泥棒をどんどん解放します。 そうなると警察側は台の下をマークするようになって、その手が通じなくなるので子供なりにいろいろ戦略を考えて楽しんでました。 しかし、やはり最後に物を言うのは「走りの速さと持久力」です。運動音痴で走るのも得意ではなかった私は、泥棒をやればすぐに捕まり、警察をやれば誰も捕まえられな無い子でした。 それでも数十人の友達と一緒に遊ぶというのは今となっては出来ない、とても楽しい時間でした。
1992年生まれ

かまくらの思い出

ぽんさん 神奈川県 1992年生まれ 女性 私が小学校低学年の頃、関東で積雪するほどの雪がふり、翌日には一面雪景色となった年がありました。私は集合住宅に住んでおり、家の前や駐輪場、駐車場の前に雪が積もっていてワクワクしたのを覚えています。 雪用の手袋と上着を装備して、住宅の前に出てみると、同じ年ぐらいの姉弟が既に遊んでいました。いま、かまくらをつくっているの!とその子達の父親と一緒にレンガのようなブロックを積み上げてかまくらの土台を作っていました。 私と姉は一緒に作っていい?とすぐに混ざり、一緒にかまくらブロック作りを始めました。そのうちに違う姉弟もやってきて 6、7人でかまくらを作り始めました。段々と子どもたちが飽きてきた頃になると父親たちが一生懸命完成まで作ってくれたのを覚えています。 その日から雪が溶けるまで、住宅内に作ったかまくらに入ってみんなで遊びました。中々雪が積もらない関東での出来事なので思い出に残っている事のひとつです。
1992年生まれ

初めて滑ったローラー滑り台

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 小さい頃、私がよく行く近所の公園にあったのは金属の板で出来た、普通のまっすぐの滑り台でした。その頃の私にとって滑り台とはそういう物で、幼稚園の頃ならともかく小学生にもなるとそれほど面白い遊具ではなくなっていました。 それがある時、家族で出かけた少し遠くの大きな公園で初めてローラーがついた滑り台を見たのです。近所の公園の滑り台とは全くサイズが違い、丘の上から始まっていて長くてカーブもあり、とても豪華に思えました。 そして、滑る面がローラーである事に気づいた時の最初の印象は「肉が巻き込まれて挟まりそうで怖い」という感じだったのを覚えています。 しかし初めて見る遊具は遊んでみたいのが子供の性、意を決して滑ってみました。 すると、今まで滑ってきた滑り台では全く感じた事がなかったガタガタという振動、ローラーの回転によるスピード感、初めての経験に衝撃を受けました。 すっかりその滑り台にハマった私は、その日は足が痛くなるまで何度も丘を登ってその滑り台を滑っていました。
1992年生まれ

タイヤブランコでグルグル

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 ちょっと遠くの大きめの公園にタイヤを3本のロープで吊るしたようなブランコがありました。 普通のブランコと違って前後だけでなく全方向に揺らす事ができる。それだけでも楽しかったのですが、他に大きな特徴としてクルクルと回転するようになっていて、そこが私の一番のお気に入りポイントでした。 内側を向いて座ったり、外側を向いて座ったり、またがるように座ったり、立ったり、いろんな乗り方をしてはブランコをぐるぐる回して遊んでいました。 ただ回っているだけなのですが、周りの景色がヒュンヒュン動いて見えたり、目が回ってきてブランコから降りるとまっすぐ歩けずフラフラになったり、子供の頃はそれがとても面白かった。 しかし、子供の頃は楽しいと思ってしまうとどうしても歯止めが効かなくなってしまう事ってありますよね。 私もタイヤブランコの回転にハマりすぎて、ついつい気持ち悪くなって吐くまで回ってしまうことがありました。
1992年生まれ

お祭りで凧揚げ

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 私の地元で毎年ゴールデンウィーク中に巨大な凧を揚げるお祭りが河川敷で開かれていました。しかし、そのお祭りの目玉である巨大凧の凧揚げはただ遠くから見ているだけであり、失敗する年も多かったので正直あまり興味がありませんでした。 お祭りの中では個人で自由に凧を上げられる時間とスペースが設けられていて、それが個人的にはお祭りのメインの楽しみでした。お祭りに出ているお店で買ったり、図工の授業で作ったりした凧を揚げて遊んでいました。 風が強い時には簡単に凧が空に揚がって楽しめるのですが、普段は近所の公園では近くに電線があるので、凧揚げをする機会がほとんどありません。凧揚げに不慣れということもあり、あまり風がない時は凧を揚げるだけでも一苦労でした。 凧をぶら下げなら走り回り「今なら揚がりそう」と思って手を離しても、凧は虚しく地面に落ちてしまうばかり。そんな失敗を繰り返しやっと凧が揚がった時は嬉しかったのを覚えています。
1992年生まれ

夢中になった独楽の思い出

まんまるさん 東京都1992年生まれ 女性 小学校の1年生と2年生の頃、学校の休み時間や総合時間に昔の遊びを楽しみました。 自分たちの両親や祖父母が「小さい頃に遊んでいたことをやってみて知る」ということを目的とし、実際にやる機会がたくさんありました。 特に独楽遊びは私も、クラスメイトもハマり、みんなで誰が長く回せるかの勝負を何度も何度も行いました。夢中になって放課後にも残って友達と楽しむこともありました。 時には帰宅後や休日も家の中でやることもあり、床が傷つくので止めるように親に注意されることもありました。大人になった今では、家の中で独楽を遊ぶなんてあり得ないと親の気持ちがよくわかります。 土や草の上ではうまく回せないので、コンクリートを探し、何度も回しました。 縄の巻き方次第で長く早く回せることを知ると、それを試してみたり、もっと良い方法があるのではないかと研究してみたり、今思うとなんでそこまでハマったのかと思うほどです。
1992年生まれ

田んぼの側溝でザリガニ釣り

mntyさん 埼玉県 1992年生まれ 男性 今はもう埋め立てられて住宅になってしまいましたが、私が子供の頃は家の近くに田んぼがあり、その側溝でよくザリガニを釣っていました。 ネットでザリガニ釣りについて調べるとさきイカなどを餌にするとよく釣れるといった情報を見かけますが、当時の私は特に餌とか糸だとかザリガニ釣りのために道具を用意するような事はしていませんでした。 そこら辺で拾った細い枝や長くて丈夫な草なんかでつついたりするとハサミでそれを挟んでくる事があるので、そのタイミングで引っ張り上げて釣っていたと思います。 釣った後はなかなかハサミを離さないのを面白がって枝や草ごと振り回したり、近くの公園の水道を全開にして水を浴びせてみたり結構ひどい遊びをしていました。 ただザリガニを釣るのは好きでも触るのは苦手なタイプだったので、ハサミをちぎるとか解体して楽しむような残酷な遊びはやらないしできなかったですね。 飽きたら側溝に帰すわけでもなくそこら辺にほったらかしにしていたような気がするので結局死なせてはいたと思いますが。
1992年生まれ

ザリガニ釣りのおもいで

こめさん 宮城県 1992年生まれ 女性 今から25年ほど前、母方の祖父母の家の近くには水が流れる大きな側溝がありました。末孫だった私は年の離れた従兄弟の遊びに一生懸命着いて行ったのを覚えています。 その頃流行っていた遊びが、その側溝でのザリガニ釣りでした。 今となってはザリガニは怖くて触ることなど出来ないのですが、幼い頃の私は怖いもの知らずで、尚且つ従兄弟たちに追いつこうと必死でその遊びに参加していました。 祖父は釣りが趣味だったこともあり、ザリガニ釣りの釣竿はたくさん祖父母の家にあったのです。 誰が1番早く釣れるか、誰が1番多く釣れるか、時間を忘れてみんなで競い合って遊んでいました。 みんなで大量に捕まえたザリガニを家に持ち帰った時、母親たちの悲鳴が響いたのが忘れられません。 捕まえたザリガニをまた同じ場所に戻しに行って、またみんなで勝負しようね!と約束するのがお決まりの流れでした。 今は危険な場所なので封鎖されてしまったのですが、そこの前を通ると幼い頃の無邪気な思い出がふと思い出されます。
1992年生まれ

耐久鬼ごっこ

サカイさん 京都府 1992年生まれ 女性 当時私は小学校低学年で、休み時間に「高鬼」が流行っていました。 ルールはほぼ鬼ごっこと同じで、鬼にタッチをされたらその人がオニオ交代するというものなのですが、「高鬼」は、鬼より高い場所にいる人は捕まえられないというものでした。 ただし10秒以上同じ高い場所に留まることはできないので、走って逃げることと高い場所で休息を挟むことをうまく組み合わせて逃げる必要があるゲームです。 私たちがよく遊んでいた公園には、よくある高さの鉄棒と、ぶら下がることのできる大きな鉄棒がありました。 鬼以外のメンバーはしばしば鉄棒に座ったりぶら下がったりして鬼から逃れていたのですが、ある日の高鬼でヒートアップした鬼役の私とお友達のAちゃんは大きな鉄棒のところで睨み合いをすることになりました。 10秒数えているのにAちゃんが鉄棒にぶら下がって降りてこないのです。捕まりたくないAちゃんと、ズルだと大騒ぎする私。最後には体力の限界がきたAちゃんが尻もちをついて軽い怪我をしてしまい、私は母に叱られてしまった思い出があります。