静岡

1993年生まれ

下校中のいたずらの思い出

たくとさん静岡県 1993年生まれ 男性登下校に40分ほどかかる場所に住んでいました。ほとんど田んぼ道で途中に遊具がある神社を通ります。自然が多くて生き物や植物に数々触れながら登下校していました。夏はザリガニがたくさんいるドブや田んぼを見つけては、神社の手水舎に入れて置いたり、持って帰って飼ったりしていました。大雨や台風の後には川からたくさん水が流れてくるせいか、大きなフナやカメがいてテンションが上がったことを覚えています。冬には凍った田んぼを走り回ったり、神社のイチョウの木に生っている銀杏の実に石を投げて落として持って帰ったりしていました。近所のおじいさんと一緒に拾って帰ったものの、処理の仕方がわからないと母に困られました。春や秋には道端に生えている花の蜜や野イチゴらしきものをなんとなくの知識で口にしていました。おいしかった実は毎日下校の時食べて、まずかった実は人の家の庭に生えているバラの棘に刺していました。家主の人に見つかったときは怒られずにあきれられている様子でした。子供ならではの怖いもの知らずの自然にあふれた思い出です。
1962年生まれ

友達との相撲遊びの思い出

マックイーンさん静岡県 1962年生まれ 男性小学校に入学当時、おじいさんっ子だった私は、よく祖父が相撲を見ていた影響もあり、相撲中継を好んでよく見ていました。四股名が難しい漢字でも、「大麒麟」とかを書けたりして、自然と相撲で出てくる漢字は覚えていて勉強になりました。その後は見ているだけでは物足りなくなり、自分でも相撲を取りたいと思っていたのですが、近所には同じように相撲が好きな子供はおらず、実現できませんでした。そんなとき、2年生でクラス替えがあり、同じように相撲好きな子がいて、話が合うのですぐ友達になり、お互いの家でよく相撲を取って遊ぶようになりました。それから時が経って4年生になった頃に体育の授業。砂場で相撲のトーナメントをすることになりました。その友達とも同じクラスで、お互いサクサクと勝ち上がり、決勝で戦うことになりました。正直遊んでいるときは私より友達のほうが優勢で、私は自信がありませんでした。しかしその時は、自分の体勢が有利な形になって勝つことができました。私は嬉しかったのですが、友達は悔しがっていました。力士になりたいと思っていた頃もあって、その頃の思い出は強く印象に残っ...つづき
1993年生まれ

危ないとわかっていても楽しかった回旋塔の思い出

たくとさん静岡県 1993年生まれ 男性グローブジャングルのことを、私の小学校では「回旋塔」と呼んでいて、私が卒業して少し経った頃に撤去されました。低学年の頃は高学年の子供たちに混ざると、体格の違いで回転の速さについていけなく。落ちたり、回っている子供の足にぶつかったりして怖いと思っていました。高学年になると逆に低学年の子供が気になって、加減して遊んでいたのを覚えています。しかし同学年の男子と遊ぶときは加減なしで思いっきり回して、派手に転んで怪我をしていました。今思えば危ないですが、当時は怪我なんて気にならなく、ズボンが破れようが多少血が出ようが楽しくて遊んでいました。回っている最中に足を外に投げ出して座って地面にかかとを擦り付けて円を描いて遊んでいました。汚れるし、服や靴はボロボロにするしで親にはかなり迷惑や心配をかける遊びだったと思います。無茶があったおかげで運動神経は良い方です。多少の怪我では弱音を吐かないようになったと思います。最近は見かけることが少ないですが私は好きな遊具でした。
1992年生まれ

「ニッペの思い出」ジャンケンに負けたら2本指しっぺ

ハコテンスキーさん静岡県 1992年生まれ 男性私の子供の頃の罰ゲームでの思い出は、二の腕にニッペ(指を2本出して叩くこと)をしていました。最初はゲームで負けた時の罰ゲームとして友達同士で行っていたのですが、次第にニッペをすることだけにこだわりだして、じゃんけんをして負けたらニッペをする遊びに変わるほど、小学生の時にやっていました。あるときニッペ遊びをしていたら相手の腕を空振り。私の伸びていた爪だけが相手の腕に当たり引っかかりました。相手の腕から血が出るほどの事故が起きてしまったことがあります。その時私は血の気が引いたのを覚えていますが、その後のことはあまり覚えていません。確か保健室に行って血が出ている手を治療をして、お互いに仲直りしたのだと思います。それ以降ニッペをすることが減ってしまい。やっても手加減するようになりました。
1975年生まれ

「曲がれない、止まれない!」ローラースケートの思い出

いちこさん静岡県 1975年生まれ 女性当時、テレビの歌番組でアイドルグループがローラースケートをはいて、歌って踊るのを見て、「自分もやってみたい」と、親にねだって買ってもらいました。同じように買ってもらった友達と二人。移動するときも、自転車よりもローラースケート。難しい技はできなくても普通の道をひたすらコロコロするのが楽しかったです。ある日、少し遠出した先で、左カーブの緩やかな下り坂にさしかかりました。これまで真っ直ぐでほぼ平らな道しか通ってこなかったのに、何を思ったのか「行ってみよう」と坂を降り始めました。途中スピードが乗ってきていつもと違う感覚にワクワクしました。このままいける、とさらにスピードが上がったところで、もう目の前のカーブを曲がるにはスピードが出過ぎていました。止まれないことに気付いた私は、とっさに、転べは止まると考えたんでしょうね。現場を見ていた友人が言うには、わたしは止まるのではなく前へ向かって飛んだそうです。そのまま着地とはいかず、顔は怪我しなかったものの、膝と腕は擦りむいて友人には大笑いされました。その場は笑っていたものの、夜お風呂ですごくしみたのも、今では良い...つづき
1987年生まれ

しりとりシーソー

moamoaさん静岡県 1987年生まれ 女性小学生の低学年の頃、学校内にあったシーソーが友人たちの間でブームになりました。最初は普通に遊んでいたのですが、だんだんと飽きてくるようになると、しりとりと組み合わせて遊ぶようになりました。ルールは簡単です。シーソーが下がるごとにしりとりのワードを言います。特に縛りがないうちはとっても簡単なので、自分たちよりも小さい子と遊ぶときもこのルールで遊んでいました。ただし、シーソーはスピードを上げることができるので、テンポよく答えないとアウトになってしまいます。だんだん慣れてきたら、食べ物や学校にあるものなど、縛りを入れてしりとりをするようになりました。このしりとりを取り入れてからは、なんとなくシーソー遊びがブームになっていき、昼休みになったらシーソーへと集まるようになりました。シーソーは1台で4人まで乗れるタイプだったので、仲良しの4人で一緒に遊んだ記憶が残っています。あるときシーソーが撤去されて遊ぶことができなくなりましたが、とても楽しかった思い出です。
1985年生まれ

小学生ぶりの箱ブランコ

ゆさん静岡県 1985年生まれ 男性小学生の頃に地元の公園に箱ブランコがありました。普通のブランコは小学校や他の公園にもありましたが、箱ブランコはその公園にしかありませんでした。箱ブランコは何人かで同時に遊べるところが楽しいです。協力して漕ぐと揺れが大きくなってワクワクしたことを覚えています。他の遊び方としては、箱ブランコに2人で乗り、お互いに向き合い、座る部分のふちに立ちます。そして交互に体重をかけて揺らし合って遊んだ記憶があります。結婚をして子どもが産まれ、いとこの家に遊びに行った時のことです。いとこの家の庭に箱ブランコがあったのです。近隣の公園でも見かけることがなくなった箱ブランコを見て興奮しました。子どもたちに箱ブランコのことを説明して一緒に遊びました。小学生ぶりの箱ブランコ。子どもたちにとっては初めての箱ブランコです。私の好きだった遊具で遊べてとても充実した時間でした。
1987年生まれ

初めて箱ブランコと出会った日

haniwaさん静岡県 1987生まれ 女性箱ブランコは、住んでいた家の周りにはありませんでした。ただTVなどでその存在は知っていました。楽しそうだな、やってみたいなと思っていましたが、家の周りにはないので、ちょっとだけ憧れのような存在でした。ある日、近くに住む従兄妹の家族に行ったとき。両親たちが話している間、従兄妹同士で遊ぶことになりました。従兄妹の家の近くにある公園へ行くことにした私たち。すると、そこにはTVで観ていた箱ブランコがあるではありませんか!しかも、誰も乗っていません。自分から言いだしたのか、従兄妹たちが言いだしたのか忘れましたが、すぐに箱ブランコに乗って遊ぶことになり、私はワクワク!ところが、想像とは異なりそんなに楽しくはありません…。当時、私はブランコが大好きで、保育園でもブランコによく乗っていました。ゆらゆらと高く揺れることが好きだったのですが、箱ブランコはそれほど高く揺れません。従兄妹たちは楽しそうにしていますが、想像以上に揺れないブランコに私だけががっかりした思いを抱いていました。見た瞬間、わくわくドキドキした思いでいたのに、実際乗ってみたら、ひどくがっかりした...つづき
1975年生まれ

先生ごっこの思い出

さらぴさん静岡県 1975年生まれ 女性子どもの頃から「ごっこ遊び」が好きで、子どもなりにこだわりを持って遊んでいました。なので、真剣にロールプレイをしてくれないお友達とは、ときどき本気のケンカに発展することもありました。あるとき先生ごっこ遊びをしていて、1人のお友達が「私が先生やりたい!」と立候補したのです。その子が普段からあまり頭のいいキャラではなかったこともあって私は反対しました。「○○ちゃんに先生役できるの?」と今思うとあまりにも失礼なことを言ったのですが、その子は意に介せず「いいのいいの、私が先生やりたいから」と勝手に確定してしまいました。勝手に決められたことに対して私が憤慨し、他の子たちもポカンとしてその日の遊びはお流れになってしまいました。私は遊びも真剣にやりたい子どもだったので、いわゆる「ニワカ」な子が入ってきて台無しにされたことが許せなかったのです。相手の子は私がなぜ怒っているかもわからなかったようで、その後普通に話しかけてきて、その日のいざこざは無かったことになりました。
1987年生まれ

色鬼ごっこをしていた時に…

ハリーさん静岡県 1987年生まれ 女性確か小学校低学年以下だったと思います。当時、色鬼が流行っていて、その日も色鬼をして遊んでいました。私はあまり鬼をしたくなかったので、一生懸命色を探して逃げ回っていました。ただ、その日、鬼になった友達の狙いは私に絞られており、執拗に狙われていました。がんばって逃げていたのですが、あと一歩というところでタッチされてしまい、私は鬼になってしまったのです。その時、私としてはすでに指定された色のものに触れていたつもりでした。それなのに、鬼にタッチされてしまい。次の鬼だよと言われ。悔しさでいっぱいになってしまいました。タッチされて声を掛けられた時にそれまでずっと狙われていたことや悔しさなどから、つい私は泣いてしまったのです。突然泣き出した私に鬼だった友達は戸惑います。私が泣きながら怒るので、友達も怒り、喧嘩に発展。その内に他の友人たちも集まり、更には先生まで駆け寄ってきました。興奮状態の私はもうこの時には支離滅裂な言葉を話していたように思います。先生に宥められ、少しずつ落ち着きを取り戻して行きました。鬼だった友達も落ち着いて、最後には私に謝ってくれましたが、...つづき
1987年生まれ

ゴム飛びを遊んでいたあの頃の年齢になった息子

かかのんさん静岡県 家の近所の駐車場 1987年生まれ 女性私がゴム飛びと聞いて思い出すのは、近所の友達と遊んだ記憶です。「3年生までは子供だけで自転車に乗ってはいけない」という学校の決まりがあったので、近所の友達と遊ぶことが多かったのです。さらに学区の端に家があったため、帰宅後にまた学校で待ち合わせをして遊ぶのは、子供ながらに大変だとの思いもありました。男の子の友達と遊ぶときは鬼ごっこや野球など、体を思いっきり動かす遊びが多かったけれど、女の子と遊ぶ時は「縄跳びの縄をゴム代わり」にしてよく遊びました。近所の女の子といつも2人で遊んでいました。2人でも頭を使えばゴム跳びはできます。縄跳びの縄を柱に結んで固定し、一人が縄を動かし、一人が跳ぶ。それに飽きると、縄に当たらないようにくぐり抜けるリンボーダンスのような遊びをするのが私たちの鉄板でした。縄跳びの縄が2本あれば、暗くなるまで2人で遊んでいられたあの頃。縄に当たりにくくするためなら真冬でも上着を脱いで、寒さもなんのそので遊んでいられたあの頃。今は、小学校から帰ってくると、「遊びに行ってくる!」と、元気よく出かける息子の後姿を見送る立場...つづき
1991年生まれ

鉄棒が嫌だった

こむももみじさん 静岡県 1991生まれ 女性小学生の時鉄棒の授業鉄棒で思い出すことは体育の鉄棒のテスト。出席番号順にテストしていくので「あ行の苗字」だった私は、いつも一番で(鉄棒にかぎらず・・・)した。ホントに嫌だったな。自分は運動が得意ではないので、尚更一番にやることが嫌でした。鉄棒にまたがるとき女子でもそこそこ痛いです(どこがとは言えませんが)。コウモリという両足のみででぶら下がり逆さまになるやつを低い鉄棒でやって頭を擦ったりもしました。鉄棒で遊ぼうとする日に限ってスカートだったりします。でも気にせずやってたら男子に見られたりしました。自分たちの世代から逆上がりの補助をしてくれる「沿っている台」みたいなものが設置されました。当時はもう高学年になっていたため、早くこういうものが欲しかったなという思い出があります。小学校3年の娘も鉄棒が苦手で、逆上がり練習中に背中から落ちてトラウマになってました。自分も当時は逆上がりの練習は大嫌いでしたが、たくさん練習したり、タオルを腰に巻くといいとか、いろんな方法で逆上がりの練習をしたことで自分なりにコツがつかみました。出来たときの達成感は本当にう...つづき