北海道

1975年生まれ

「映画のチケットを買わされた思い出」公開されることのないホラー映画

南さん北海道 1975年 女性小学校の時に、たまに校門の近くで物を売っているおじさんがいました。担任の先生からは、買ってはいけないときつく言われていたのでいつも無視していました。でも、その日はちょっと違いました。そのおじさんの周りに人だかりができていたんです。私は、いつもみたく無視しようと思っていたのですが友達がどうしても行こうと言うので仕方なく行きました。すると、おじさんは映画のチケットを売っていました。それも、聞いた事がないようなホラー映画。チケットには、お化け屋敷に出てきそうな落ち武者が描かれていました。「1枚50円だよ。どうだい?」私と友達は、かなり悩みました。他の子供達はほとんど買っています。もし、皆が観て私達だけ観ていなかったら仲間外れになってしまう。そう思ったら、我慢できませんでした。私と友達は、50円を出してチケットを購入。お小遣いのほとんどを使いました。でも、結局。その映画は公開されていなかったのです。騙されたショックは、今だに忘れられません。
1975年生まれ

逆にしたら面白くなった「逆じゃんけんの思い出」

紘子さん北海道 1975年生まれ 女性小学校5年生の時に、友達3人とジャンケンで遊んでいました。でも、だいたい、いつも同じ人が勝つんです。これではツマラナイと、1人の子が文句を言いだしました。トランプなどがないときに出来る遊びって「ジャンケン」か「しりとり」なんですよね。そうしていたら、その中の一人が「逆じゃんけんをしよう」と言いだしたんです。つまり、グーはパーに勝って、チョキはグーに勝つんです。たったこれだけのルール変更なのに、すごく複雑になって面白くなったんです。ジャンケンに強い子も、すごく弱くなって皆が同じレベルになりました。気がついたら、誰が勝ったのか負けたのすら分からないぐらいグチャグチャになりました。シンプルで遊びやすいジャンケンに、スピードを増したり、ルールを変更するだけで、途端にややこしいゲームになるんです。しばらくはこの逆ジャンケンにハマっていました。あんなにジャンケンで盛り上がった事は、きっとなかったと思います。
1975年生まれ

相撲大会で好きな男の子を応援できなかった思い出

サユリさん北海道 1975年生まれ 女性小学校の時に、好きな男の子がいました。ガキ大将で、いつも偉そうだったけど優しかったです。私は、本当は仲良くしたかったけど皆の手前そうはできませんでした。そんな時に、町内の相撲大会にその男の子が出る事が決まったのです。女の子のなかには、横断幕を用意する子がいたり、お菓子や飲み物を差し入れする子もいました。でも、私はその勇気さえなかったのです。友達の1人が、ガキ大将の事が好きだと言ったんです。だから、皆で応援して欲しいって。私は、自分も彼女と同じようにガキ大将が好きだとは言えずにいました。結局、彼女の恋を応援する事になりました。相撲当日。私は、心の中で一生懸命応援しました。ガキ大将が勝つ度に嬉しくて、でも切なかったです。だって、ガキ大将は1度も私の事を見てくれませんでした。結果。ガキ大将は優勝はできませんでしたが、仲間内のヒーローとなりました。そして、友達はガキ大将への告白を成功。私は、告白もできないまま失恋してしまいました。
1975年生まれ

「卒業式でわかった真相」体育館の天井のバスケットボール

ひかりさん北海道 1975年生まれ 女性私が小学校5年生になった時に、体育館の天井にバスケットボールが挟まってると、ちょっとした騒ぎになりました。先生から、心当たりがある人はいないかと聞かれましたが誰も手を上げませんでした。でも、噂だけは広がったんです。当時、プロバスケ選手を目指していた男の子がいたのでその子ではないかと囁かれました。でも、その子も違うと言っていました。そして、いつしか噂はオカルトめいていきました。夜中におばけが置きに行ったんだとか、透明人間がやったんだとか。今思えばなんとも笑ってしまう話しなのですが、当時は真剣に話していました。結局、誰がやったかもわからずに卒業式を迎えました。すると、クラスでも一番おとなしい男の子がある告白をしたんです。実は、その子こそがバスケットボールを天井に挟めた張本人だったのです。なんでも、バスケの練習をしていたら何故か天井まで届いてしまい挟まったそうです。その日は夏休みで先生はいなかったため、そのままにしておいただけだったのです。「皆が、あんまり騒ぐから言えなかったんだよっ」と言って、その子は泣いていました。きっと、彼なりに悩んでいたのだろう...つづき
1994年生まれ

「謎のボールの思い出」謎が謎のまま解けない話

瑠璃さん北海道 1994年生まれ 女性自分が小学校に入学したときにはもう既に、その小学校の体育館の天井には、謎のボールが存在しました。自分の記憶では、それはサッカーボールやバスケットボールではなかったので、おそらくソフトバレーボールだったと思います。自分は入学してからというもの、体育館に来るたびにそのボールを見上げて、「なんであんなところにボールがあるのだろう?」「一体誰があんなところにボールを引っかけたのだろう?」と考えるばかりでした。全校集会や行事の時も、あの謎のボールが気になって気になって仕方がなく、多くの人が無駄に長くて嫌いであっただろう校長先生のお話なんかは謎のボールに思考を支配されていた自分には全く頭に入って来ませんでした。それから年を重ねて高学年になっても、あのボールの謎は解けず、結局卒業式のときもそのボールは天井にあるまま。「なんであんなところにボールがあるのだろう?」「一体誰があんなところにボールを引っかけたのだろう?」という謎は解けずじまいに終わりました。
1975年生まれ

「転校先の子どもたちと仲良くなれた遊び」石蹴りの思い出

アカリさん北海道 1975年生まれ 女性両親の都合で、小学生の時に転校しました。知らない子ばかりで、私にとっては恐怖でしかありませんでした。仲良くしたかったけれど、声をかける勇気もなく、いつも教室の隅っこにいました。一人っ子で、自分から発言するのが苦手だった私はいつも一人でした。学校でも、家でも孤独な時間が増えました。そんな時にクラスの女の子から石けりに誘われました。でも、私には石けりが何なのかさえ分からなかったんです。「このチャンスを逃したら友達ができないかも」と思った私はその子に連れられるままグラウンドに行きました。そこでは、数人の子供達が地面に何やら書いて「ケンケンパ」をしてるんです。「こうやるんだよ」その子が、地面に書かれた1という数字の所に石を投げ入れて、後はケンケンパをしながら番号順に石を蹴っていくというものでした。私は、見よう見まねで初めて石けりをしました。気がつくと、他の子供達も集まってきて自然と仲良しになれました。石けりのおかげで、クラスに溶け込む事ができました。
1975年生まれ

「男の子グループに勝った日」草野球の思い出

荘子さん北海道 1975年生まれ 女性小学校の頃。男子と女子は別れて草野球をしていました。男子はいつも広い場所をとっていて、私達女子は隅っこだけ。これでは全然楽しくない。そこで、女子達が直談判したんです。すると、男子が「野球で勝負だ」と言ってきました。正直、自信はありませんでした。でも、男子にバカにされたままなんて悔しい。私達は、その勝負を受ける事にしました。ですが、やはり男子の方が上でした。次々に打たれてしまい、皆悔しくて仕方がなかった。その時、リーダー格の女の子が皆を一生懸命励ましていました。皆、その言葉に諦めずに頑張りました。そして、結果は同点。勝てませんでしたが、同点になりました。すると、男子の方も私達を見直したみたいです。翌日から、一緒に遊ぶようになりました。男の子には負ける事がやっぱり多かったですが、たまに勝つ時もあってその日は大喜びしました。暗くなるまで、よく遊んだ日々は今でも良い思い出になって残っています。
1975年生まれ

「皆のアイドル」校庭に迷い込んできた子犬の思い出

マナさん北海道 1975年生まれ 女性小学校1年生の時に、校庭で遊んでいたら子犬が迷い込んできました。首輪をしていたので、どこからか来た迷子だという事になったのです。私と友達は先生に言おうと言ったのですが、他の子達は言ったら駄目だと言うのです。「可愛いから、校庭で飼おう」なんて言い出す子まで出てきたのです。子犬はたちまちアイドルになって、皆と校庭を走り回ったり、砂で遊んだりしていました。私も、犬は大好きだったのですが触った事はなかったため、ちょっと怖かったんです。でも、子犬は本当に可愛くて私もいつしかその子が大好きになりました。校庭でキャッキャッと遊んでいる声に気がついた先生が見に来たんです。そして、子犬がいる事がわかるとすぐに離れるように言いました。「この子は、ちゃんと家に帰してあげないとダメだ」先生の言葉に、私達は落ち込みました。子犬の飼い主は、思ったよりも早く見つかりました。近所のおばあさんだったのです。ほんの1時間ぐらいでしたが、子犬と遊んだ事はいい思い出です。
1975年生まれ

「好きな子に勝って複雑だった遊び」陣取りゲームの思い出

なず菜さん北海道 1975年生まれ 女性小学校の頃に、よく友達と放課後のグラウンドで陣取りゲームをしました。その時に好きな男子もいて、かなりドキドキしていました。私は元々陣取りゲームに弱くて、いつも負けてばかりでした。ですが、なぜかこの日に限って勝ってしまったんです。すると、好きだった男の子にすごい目で睨まれてしまいました。なぜなら、その子は陣取りゲームで負けた事がなかったのです。世ほど悔しかったのか。一言もないまま、その子は帰っていきました。私は、嫌われたのだと思いかなり複雑な気持ちになったのです。その数日後。その男の子から、もう一度陣取りゲームをしようと言われました。私は、今度こそ負けなきゃ負けなきゃと思っていたのですが、なぜか勝ってしまったんです。結局、またもやその男の子からライバル視されてしまって、本当に哀しかったです。でも、そのおかげで、毎日のように遊びに誘ってもらえて嬉しかったです。陣取りゲームは、私の淡い初恋の一部となったのです。
1997年生まれ

校内かくれんぼ

らーんさん北海道 1997年生まれ 女性小学生の頃、クラス15人くらいで、放課後、校内を貸し切ってかくれんぼをしました。学校が3階建てで一階には体育館や保健室に理科室。2階には教室やpc部屋。3階に教室や化学室など様々な部屋がありました。鬼が4人と逃走者11人くらいでやりました。5分数えてから鬼が探し始めました。ドキドキワクワクでした。どこに隠れるかと色々考えて、3階の化学室のさらに扉を開けた先生の部屋に隠れました。足音が聞こえて、ドキドキしたけれど、そのままスルー。10分ほど乗り切りました。20分ぐらいすると次々に同じ階に隠れていた人たちの騒ぎ声が聞こえてきます。きっと捕まったのでしょう。そう考えるとドキドキとして鼓動が聞こえてくるくらいでした。そして30分ほどすると、『あとらーんちゃんと○○ちゃんくらいじゃない?』と鬼の声が聞こえました。鬼が化学室に再び入ってきました。『いらんでしょー!出てきなー!』との声も聞こえ、扉を開けられ、見つかってしまいました。滅多に出来ない経験、とても楽しかったです。
1989年生まれ

「安心出来る場所だった」砂場で遊んだ思い出

ガウチョさん北海道 1989年生まれ 男性子供のころは、今のように遊具が危険扱いされておらず、どんなに小さい公園でも滑り台にブランコ、ジャングルジムや雲梯などが置いてありました。活発な友達にとってはそういう遊具で危険な遊びをするのが流行っていました。ジャングルジムの上に立ったり、球形遊具でできるだけ早く回ったり…。友達と一緒の空間で遊びたい癖にそういう遊びには混ざっていけなかった自分にとって、砂場遊びは心の救いのようでありました。小さなバケツを持っていき、水飲み場で水を汲んでは砂を固め、積んで…高い塔や城のようなものを作れば一目おかれました。それをやっている間は当然他の遊びに混じる必要はありませんでした。エスカレートしていく遊びに入ってケガをするのが何より恐ろしかった私は、小さな砂場で何か熱心にやっている…という体で自分を守っていました。まあ高学年になるにつれそれも通用しなくなり、屋外遊びができないなら来るな、という雰囲気になってしまってからは行っていないのですが…小さい頃はよかったです。
1975年生まれ

いじめっ子から守ってくれたガキ大将の思い出

まみさん北海道 1975年生まれ 女性ガキ大将というのは、簡単に言うと近所の子達のリーダーでした。威張っていたけど決して傍若無人ではありませんでした。私は、子供の頃は小柄でいじめっ子からよくからかわれていました。その日は、初雪が降ったとても寒い日でお気に入りの毛糸の帽子を被っていたんです。そうしたら、公園でいじめっ子達に見つかってしまい。追いかけられて帽子を取られて、私は半べそをかきながら歩いていました。そのとき、ガキ大将の男の子が気がついて走ってきたんです。私が事情を話すと、その子は何も言わずに走っていきいじめっ子達から帽子を取り返してくれました。6歳の私にとって、10歳のガキ大将はとてもお兄さんに感じたのです。それから、ガキ大将がいる時は安心して遊べました。ガキ大将というと、いじめっ子のイメージを持っている人もいますが、そんな事はありません。弱い子にはとっても優しかったです。だから、どんな子でも一緒に遊べたのでないかと思います。
1996年生まれ

「復讐を誓った日」雪山の上から無理矢理ソリを押された思い出

まりもさん北海道 1996年生まれ 無回答私は小学生の頃、北海道のド田舎で暮らしていました。田舎だけあって人口も少なく、1クラス10人の小規模な学校に通っていました。当時クラスの中で特につるむ二人の友達がいました。二人の性格は、A子が正義感があり優秀な人気者タイプ。B子は、意志が強くわがままなタイプ。私はというと周りがわがままな子、個性強めな子が多かったため、みんなを繋ぐムードメーカー的な立場をしていました。毎日学校から帰ると二人の友達と遊びます。ある日B子の提案で雪山でソリ滑りをしようということになりました。3人でマイソリをもって雪山に集合し、いつものようにソリ滑りを楽しんでいたのですが、、、。B子がいきなり斜面に頭をむけソリで滑ろうよ。といいだしたのです。私は嫌な予感がしました。その予感は的中し、B子は私にやってみろと突然命令してきました。私は危ないので必死に拒否しましたが、二人に無理やりそりにのせられました。⁠A子は普段正義感はあるものの、面白いことには正義感は関係ないタイプです。そこがB子と意見があっていた様子でした。⁠その時雪山の下には大きな一本の木があり、二人は私の乗ってい...つづき
1985年生まれ

「危険な遊び」箱ブランコの立ち漕ぎ

つぼたさん北海道 1985年生まれ 男性小学生の頃、よく遊びに行く公園に箱ブランコがありました。普通のブランコや滑り台、ジャングルジムなどの遊具がありましたが、よく遊んでいたのが箱ブランコでした。乗っている人が足を踏ん張るように漕いで遊んでいましたが、誰かが始めた骨組みのところに手をかけて外側から足で箱ブランコを押すという遊び方で遊んでいました。足で押すと勢いよく揺れます。限界まで揺らすとブランコの骨組み同士が当たり「ガッタン」と音がして中に乗っている人は少し浮くぐらいの振動がきます。とてもスリルがあり、楽しく遊んでいた思い出があります。当時の自分たちは箱ブランコのことを「ガッタン」と呼んでいました。当時は楽しく遊んでいましたが危ないことも何度かあり、足で漕いでいる人が足を滑らせて落ちてしまったり、中に乗っている人が衝撃に耐えきれず外に飛び出してしまったりしました。今思い出すととても危険で、よくケガをしなかったなと思います。
1968年生まれ

ミニスキーの思い出

バームクーヘンさん北海道 1968年生まれ 女性小学校2年生の夏に北海道の両親の故郷に引っ越しをすることになりました。横浜生まれの私にとっては、この北海道の小さな町で過ごした半年間は、かけがえのない思い出です。特に冬になると、今までに見たことのないような雪が毎日降り続けました。母が、ミニスキーというものを買ってくれました。それは、長靴に装着するプラスチック製の短い板です。スキーと違って、ストックなどは必要ありません。道の両側には、除雪車によって大きな雪の山が出来ていました。私は、ミニスキーを長靴に付けると、その山を登って何度も滑りました。雪の山を滑る楽しさに、私は虜になってしましました。学校から帰ると毎日、毎日ミニスキーで遊びました。私が住んでいた家は、日本海に面していたので、強風と恐ろしいほどの波を見ながらミニスキーで遊び続けました。ある時、子供の私は何を思ったのか、家の屋根からミニスキーを滑ってみたくなり、自分でも登れる場所を見つけて滑りました。するとその家を借りていた大家のおばさんが慌てて、外に飛び出してきて、こっぴどく怒られてしましました。普段は優しいおばさんが、あれ程怒ったの...つづき
1994年生まれ

お人形の家作り遊びの思い出

瑠璃さん北海道 1994年生まれ 女性その遊びを始めたのは小学生時代です。私は学校の成績は悪くない上にしっかりと宿題も提出する児童でした。今となっては恥ずべきことでもないのですがゲームが好きで、しょっちゅう親との約束の時間を破ってゲームをし続ける悪癖がありました。そして親によってゲーム禁止を言い渡され携帯ゲーム機は隠されました。当然親に怒りと憎悪を抱き、ゲームが出来ない悲しみと辛さを味わいました。そんなある日、私の目に小学校に入学する前から集めていたミニチュア家具や、友人の母が作ったカラフルに彩られた小さな箱が目に入りました。私は何の気無しにそれらを使って、組み立てて、小さな家のようなものを作りました。それから私はもっと大きな家を作ろうと、他にも使えそうな物はないかと探してみたり、友達が遊びに来た時に説明して、もっと大きな家を作る知恵を集めて大きな家を作ることに成功しました。ゲームが手元に戻り、禁止が解除されてからも、私はゲーム禁止中に出会った家作り遊びを気に入ってしまい。やがて母にすごいと褒められるようになりました。今でもその記憶は残っています。何処に何を置くかを考えることが楽しかっ...つづき
1989年生まれ

今も昔もブランコは人気遊具

たまねえさん北海道 1989年生まれ 女性実家の近所にある公園で、必ず遊んだのがブランコです。いつも人気で、上級生が遊んでいるといつまでも待たされてしまい、乗れないまま夕方になってしょんぼりしながら帰宅したこともありました。遊べたときは友達とどこまで高く漕げるかを競ったり、ブランコの二人乗りをしたり、ブランコに乗りながら靴を飛ばして遊んでいました。危なかしい遊び方もしたと思いますが、当時はブランコで遊べるだけでとてもテンションが上がり、楽しかったです。そこから5〜6年経って、高校生や専門学生になったころ、久しぶりによく遊んだ公園へ行くと、ブランコがとても小さく感じました。座ってみると、お尻がピチピチ状態でだいぶきつくなっており…ある意味での成長を実感させられました(笑)。現在は子どもも生まれ、よく公園に遊びに行くのですが、やはりブランコは人気者。子どもたちが列をなしています。いつの時代も人気遊具として鎮座し続けるブランコってすごいなあと思います。
1997年生まれ

ビー玉キラキラ

からさん北海道 1997年生まれ 女性夏になるとお祭りなどでビー玉すくいが開催されます。小学校低学年の時に必ず友達4人と一緒に、限られたお金の中でビー玉すくいをしました。一回に6個くらい手に入ったはずです。それをお祭りが開催される時期に自転車で行ける範囲の場所であれば向かい。とにかくビー玉すくいをしました。全てのお祭りに参加したら30個くらいそれぞれ手に入ったかと思います。後日、その4人のうちの誰かの家にお邪魔し、友達のお部屋でビー玉を広げて交換会をします。事前に持っているビー玉を何個で交換するか紙に書いて、それぞれ好きな色や可愛いデザインは交換個数が3個。シンプルなものなどは1個など決めて交換しました。集めたビー玉は、水槽のようなものに水を入れてその中に入れて飾ったり、それぞれ思うままにデザインしてたと思います。それぞれのお家にお邪魔し、みんなの水槽のビー玉を眺めるのが日課でした!
1955年生まれ

なつかしいなぁ~ビー玉は小学校の遊びベスト5に入るな

Valonさん北海道 1955年生まれ 男性あれは小学校の3・4年だったな。田舎は、こんな遊びをする場所に苦労しない。5mx8m位の、小さい倉庫の前の敷地だったかな。もちろん舗装もされていないから、地面は「釘指し」なんかもできる土だ。友達5~6人、多い時は、10人位いたかな。端に線を引いて、その反対に端から2m位の場所に、丸を書いて、そこにそれぞれのビー玉を置く。そこから1m位のところに線を引いて、そこから出てしまうと、ビー玉は没収されて、その丸の中に入れなきぁならない。そして、端に書いた線から、順番に持ってるビー玉を投げて、丸の中のビー玉を丸の中から出せば、自分のものになる。でも、そんなルールを覚えた記憶もないが、みんな知ってたな。持っているビー玉が増えたり減ったりする。当然負ければ悔しいし、勝てばうれしい。しかし、それで友達との仲が悪くなる訳ではない。ビー玉が無くなってしまった友達には、みんな1個ずつあげたりもしていた。こんなことから、人間関係を覚えていったのかな。暗くなる前まで遊んで、解散、また明日ということになる。あの場所の風景、友達の顔、ついでに近くの駄菓子屋さんまで、覚えて...つづき
1995年生まれ

ビー玉を水晶だと思っていたあの頃

紫苑さん北海道 1995年生まれ 女性よくあるビー玉の中には、他のビー玉に比べて「大きなビー玉」が入っていたりしていませんでしたか?私はビー玉の中でも模様のない500円玉サイズのビー玉を、大事に専用の袋に入れて持ち歩いていました。砂場で遊ぶ時は、砂で小さな山を作った上にちょこんと載せて飾りのようにしてみたり、おはじきとビー玉で遊んだ時にはボーナスボールと呼んで遊んでいました。シルバニアファミリーで水晶玉の代わりに使って、占い師ごっこをして遊んだりもました。模様のない大きなビー玉を水晶と思いながら持ち歩いていたあの頃、家の中で失くしただけでも大騒ぎ。妹が勝手に触っただけでも大激怒するほど、そのビー玉を大事にしていました。今考えると模様のない、ただ他と比べて大きいビー玉にそこまで執着していたのかはわかりません。最終的には大事にしまっていた巾着を入れた箱ごと失くしてしまったのですが、当時の私はそのビー玉が大好きでした。
1985年生まれ

コマ名人になった思い出

チャーリーさん北海道1985年生まれ 男性昔の事なので記憶が曖昧なところもありますが、小学生の時によくコマで遊んでいた記憶があります。当時登校していた小学校には昔の遊び道具がたくさん置いてあり、休み時間になるとみんなでいろいろな遊びをしていました。その中でも自分が特にはまったのがコマでした。誰から遊び方を教えてもらったかはわかりませんが、紐を巻いてコマを回してそのコマを紐で飛ばして手の上に乗っけたり。回すときに地面ではなくそのまま自分の手に乗るように回してコマで遊んでいました。他の友達はめんこをやったり、卓球をやったり、竹馬で遊んだりしていましたが、自分はコマばかりで遊んでいたので周りの友達よりもうまくなっていて「コマ名人」と呼ばれていました。学校に置いてあるコマは決まった形しかありませんでしたが、誕生日に親に連れて行ってもらったおもちゃ屋さんで、軸の部分が金属になっているコマを見つけ、すぐにそれを買ってもらいました。うれしくて家や学校でとにかくコマばかりやっていた思い出があります。
1977年生まれ

兄と一緒に公園で遊んだメンコ遊びの思い出

ヤクルトさん北海道 1977年生まれ 女性私は末っ子で、兄が二人います。子供のころはキン肉マンが流行していて、どこから入手したのか、メンコがたくさんありました。兄にくっついて公園へ行くと、必ず何人も同じ年代の子供がいたので、みんな顔見知りでした。その頃はメンコ遊びが流行していたようで、公園に行くときは兄もその友達も、メンコ持参でした。大きいものから小さいものまでたくさん種類があって、大きいものは主役級のキャラクターが描かれていました。公園にある台が会場で、相手のメンコを台から飛ばして落としたり、裏返したりしたら相手のメンコももらえます。兄と友達がひとしきり遊んで満足したら、私にもやらせてくれます。思いっきり台に叩きつけても、なかなか裏返らないし、台から飛んでいかないし、びくともしなかった記憶があります。それでもメンコ遊びをやっていることが楽しくて、腕が痛くなるまで飽きずに遊んでいました。私はまだ幼くて、公園へ行っても体を使う遊びにはついていけなかったので、一緒に遊べる数少ないジャンルでした。
1997年生まれ

フラフープ何個回せるかな?

からーさん北海道 1997年生まれ 女性小学生の頃「私の特技はフラフープです!」と言えるくらいにフラフープが大好きでした。フラフープを好きになったきっかけは体育の授業です。「自由に遊んでいい」ということになり、私はフラフープを回してみました。フラフープを簡単に回せた私は「何個かでも回せるのかな?」と思い。試しに3個を…それも回せました。じゃあ5個…できる。そしたら10個やってみよう!10個も出来ました。まるでバルーンスカートのように綺麗なフラフープでした。周りの子達もすごいと歓声を上げて、みんなは最大何個で回せるかとか、どれだけ綺麗に回せるかを競って遊んでました。多分、あの頃は15〜20個一気に回せた記憶があります。そのあと腰で回すだけでなく、首で回してみたり、手で回してみたりと、まるでサーカスの状態になっていました。あまりにも回すことが楽しい私は家でもやりたくなり、スポーツショップでフラフープを購入して遊んでいました。今もまだできるか試してみたいです。
1997年生まれ

楽しかったバナナ鬼の思い出

なー!さん北海道 1997年生まれ 女性鬼ごっこは広い場所と人がいれば成り立つので、小学生の頃によくやっていました。昼休みになれば、グランドでサッカーをする人たちをのぞいて、みんなで走り回ったり、体育館からスタートして鬼ごっこができるところまで逃げあったりしました。通常の鬼ごっこをすることが多かったと思いますが、氷鬼をやったこともありますし、バナナ鬼というものも遊びました。ケイドロ、ドロケイが流行ったのも覚えています。 私はバナナ鬼が好きです。バナナ鬼のルールは、鬼が15秒くらい数えたらスタートをして、みんなを探します。逃げている人が鬼にタッチされた場合、その人はバナナの真似をしてその場に止まり、助けを求めます。逃げている人が捕まった人を助ける時に、バナナになっている人の皮をむいてあげるような形です。捕まった人は皮をむいてもらったら自由に逃げられます。ただ、タッチだけではなく一工夫されていて楽しかった記憶があります。
1997年生まれ

お兄ちゃんとザリガニ

むーさん北海道 1997年生まれ 女性私たちは毎年夏、家族でキャンプに行ってました。キャンプは山の時と海の時もありました。小学3年生くらいの時に海のキャンプに行き、テントを立て、水着に着替えて海辺へ。お兄ちゃんとどっちが先にザリガニを釣れるか勝負しようとしました。海辺で15分葛藤して、ほとんど同じ時間でザリガニをゲットできました。しっかりザリガニを家で育てられるように水槽を用意しました。次の日の昼間、家に帰宅し、早速家の大きな水槽へ。2匹ゲットしたのでどっちがどっちか分かりませんが、私はマーチ、お兄ちゃんはヨーチとザリガニに名前をつけました。ちょうど、オスとメスだったみたいで、子供が産まれました。ものすごく小さなザリガニの赤ちゃんがたっぷり水の中にいて、すごく不思議な気持ちだったのを覚えてます。そこから赤ちゃんも数匹育ち、友達にも飼ってもらうようにしました。それから、育てていくと、海で取った子たちも天国へ。家の裏庭に埋めたのを覚えてます。ありがとうザリガニさん。しんごパパ追記 ザリガニは淡水にしかいないと思うので、もしかしたらショウグンエビのことなのかも知れない。
1997年生まれ

鉄棒でブランコ遊び

らんさん北海道 1997年生まれ 女性この遊びは幼稚園に通っていた頃の話です。遊んでいい時間になるとみんな遊具のあるところへ急ぎます。1番人気なのはブランコでした。ブランコはたった二つしかありません。幼稚園児なので譲るという概念はあまりみんなないので、早い者勝ちでした。たまにブランコは使えるものの、なかなか使えるタイミングがありません。そこで、私たちは鉄棒を使ってブランコを思いつきました。どのように?と思うかもしれませんが、ブランコする人は鉄棒にただぶら下がる、そして、ブランコとして遊ぶためにもう1人がその人の背中を押すといった形です。子供なので低めの鉄棒でもブランコとして利用可能なのと鉄棒の幅もあるので一つの鉄棒で2人は入れました。そこから鉄棒ブランコのブームも来ていたと思います!ですが、ある日私が鉄棒ブランコをする側で押してもらってたとき、あまりに勢いが凄かったので「もう押さなくていいよ!」と友達に伝えたものの止まらず、手が限界で落ちて、手を骨折しました笑。そこからその遊びはかなり減ったと思います。